Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

エリトリアを巡る:アスマラーマッサワ間の途中下車の旅

今回もエリトリアの観光案内を紹介します。

今回は、アスマラーマッサワ間の途中下車観光スポットを紹介!


⬛︎ドガリ Dogali
ー「虐殺」の舞台となった古戦場ー

f:id:italianoluciano212:20220406232849j:plain

ドガリのイタリア軍戦没者慰霊碑

 

他列強に遅れて国家統一を果たしたイタリアは、「後発帝国主義国家」として紅海沿岸に進出する。エジプトの撤退と共にマッサワからエリトリアの内陸部に進出したイタリアは、同じく紅海の港を求めたエチオピアと衝突する。この"エリトリア戦争"と呼ばれる一連の戦争で最も知られている戦いが、「ドガリの戦い」だ。ラス・アルラ率いるエチオピア軍が圧倒的戦力差でイタリア軍に一方的に勝利したために、イタリア側は「虐殺」として非難し、エチオピアに対して「野蛮」の烙印を押している。この時のドガリの戦いのイタリア軍戦没者慰霊碑が高台に残っており、見に行くことが出来る。「ドガリの戦い」で大敗したイタリアであったが、その後エリトリアの領有に成功したことから分かる通り、戦争自体には勝利した。
また、イタリアが建設した旧兵舎やドガリ橋、鉄道のドガリ駅も残っている。なお、ドガリ橋を始め、アスマラ-マッサワ間にはいくつかのイタリア時代の橋が掛かっているが、これらは2006年に日本政府の協力で修復された(橋の近くに記念碑がある)。

⬛︎マイ・アタル Mai Atal
エリトリア鉄道最初の開通区間

f:id:italianoluciano212:20220406232926j:plain

マイ・アタル駅

 

1901年、マッサワ-アスマラ線の最初の区間が開通した際、マッサワからマイ・アタルまでの路線が開通した。現在も当時のマイ・アタル駅が良い保存状態で残っている。

⬛︎ガフテレイ Gahtelay
ー街道沿いの休憩地点ー

f:id:italianoluciano212:20220406233049j:plain

イタリア植民地時代に作られた市場は、現在はショッピングセンターとなっている

 

街道沿いに発展した町で、遠くにモスクが見える。アスマラからここまで来ると道も平坦になり、同時に湿度と温度が高くなってくることを感じるだろう。バス停もあり、マッサワを目指すドライバー達の休憩地点になっている。街道沿いのパーキングエリアは、元々イタリア植民地時代に市場として作られた建造物。街道沿いにあるRed Sea Restaurantはランチを取るには丁度良い。フリッタータと焼きたてのパンで腹ごしらえをした後は、マッサワに向けて最後の道中に向かおう。

⬛︎ドンゴロ Dongolo
ー植民地時代から続く採水地ー

f:id:italianoluciano212:20220406233142j:plain

奥には植民地時代の採水施設が見える

 

峠道を抜けて高低差はあるが緩やかになり始める地点にある町。植民地時代から続く採水地があり、現在もミネラルウォーターの採水地となっている。牛飼いの数も多い。イタリア植民地時代の採水施設(フォンテ・アックア・テルモ・ミネラーレ)も残っている。

⬛︎ギンダ Ghinda
エリトリア鉄道の中間地点ー

f:id:italianoluciano212:20220406233224j:plain

ギンダの街

 

マッサワ-アスマラ線の中間駅(ギンダ駅)がある町。海抜888m地点に位置する。町全体は渓谷に広がっているため、非常に広い。

⬛︎ネファジット Nefasit
ー山岳の僧院と観光列車の町ー

f:id:italianoluciano212:20220406233308j:plain

ネファジットの街

 

近郊に14世期に造られたデブレ・ビゼンの僧院があることで知られる町。
海抜1,671.65m地点に位置する。
アスマラを発車した観光列車の目的地(ネファジット駅)でもあり、植民地時代はアスマラ間で自動車レースも開催されていた。

⬛︎ドゥルフォ Durfo
ー鉄道バイパスとトンネルー

f:id:italianoluciano212:20220406233444j:plain

ドゥルフォの第28番トンネル

アスマラから程近い位置にある場所。信号場と第28番トンネル、石造りの鉄道橋などを間近に見ることが出来る。エリトリア鉄道の撮影スポット。鉄道が走らない時はトンネル内や線路に立ち入って記念撮影も。線路沿いにはコーヒーショップがある。