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「電気髭(barba elettrica)」アンニーバレ・ベルゴンツォーリ将軍 ―スエズを目指したスペイン戦役の名将―

エジプトへの一連の侵攻作戦は、イタリア軍にとって大敗に終わった。しかし、エジプト侵攻を指揮した将軍たちが無能だったわけではない。彼らは、スペイン内戦での指揮で活躍した手練れの将軍たちであった。結局、彼らの敗北は「戦争準備が整っていないのに無理な参戦をした」ファシスト政権の判断によるものである。とはいえ、エジプト侵攻自体はドイツの要請によるものであるが....

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

そのエジプト侵攻に参加した将軍の中に、その特徴的な顎鬚から「電気髭(barba elettrica, バルバ・エレットリカ)」と呼ばれた将軍がいた。彼の名前はアンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)。スペイン内戦では初期から終盤までスペインでCTV部隊(イタリア義勇兵部隊)の第四師団「リットーリオ」を指揮した将軍で、フランコ将軍率いる国粋派の勝利に多大な貢献をした、スペイン内戦時のイタリアの将軍を代表する人物である(その活躍から、イタリア最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている)。逆に、共和国側からは評価されつつも憎まれ、彼の首に50万ペセタもの懸賞金がかけられた。彼はその後、スペインから帰国した直後に北アフリカに向かうことになり、そのまま第二次世界大戦に突入することとなった。

グラツィアーニ元帥の指揮の元でエジプトへの侵攻が開始されると、第23軍団の司令官として参加。ひとまずシディ・バッラーニまでの進撃を完了させたが、その後の英軍の反攻作戦によって追い詰められ、ベルゴンツォーリはバルディア守備隊を指揮して劣勢の中で決死の抵抗をしたのち、ベダ・フォムにて捕虜として捕らえられてしまった。捕虜となった後、インドの捕虜収容所に送られ、アメリカ参戦後は最終的にテキサスの捕虜収容所に収監された。イタリア休戦後は、連合軍側による協力要請を拒否したために、精神病棟に押し込められてしまった。更に、バドリオ政権は彼をファシストであると思っていたために非常に嫌っており、米軍による不当な扱いも容認したのであった。

今回は、そんな運命に翻弄されたベルゴンツォーリ将軍について調べてみよう。

 

◆「電気髭」と呼ばれた将軍

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アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)

アンニーバレ・ベルゴンツォーリ(Annibale Bergonzoli)は、1884年11月1日北イタリア・ピエモンテ州マッジョーレ湖畔の町、カンノービオ(Cannobio)に、父ポンペオ・ベルゴンツォーリ(Pompeo Bergonzoli)と母フランチェスカブランカ(Francesca Branca)の間に生まれた。名前のアンニーバレ(Annibale)は、古代ローマに仇をなしたカルタゴの英雄、ハンニバルのイタリア語読みである。後に、彼が仕えることになるファシスト政権が、「古代ローマの復活」を謳ったことを考えると、非常に興味深い名前だ。出身地であるカンノービオは隣国スイスのイタリア語圏にほど近い国境の町で、19世紀以降は民需工場が多く建てられ、工業都市としても機能した町であった。

ベルゴンツォーリ少年は幼い頃から逞しい子どもで、7歳の頃にはマッジョーレ湖を泳いで渡るという並外れた偉業を成し遂げている。王党派が多く、高級軍人を数多く輩出していたピエモンテ州の人間らしく、高校卒業後はモデナの陸軍士官学校に入学し、高級軍人への道を目指した。1906年、ベルゴンツォーリは少尉に昇進し、第53歩兵連隊に配属となった。彼の初陣はオスマン帝国軍とのリビアを巡る戦争(伊土戦争)であり、第7歩兵連隊を率いたが、敵の激しい放火の中で大胆な偵察を成功させ、その武勲を表彰されている

第一次世界大戦では前線指揮官として優れた武勲を見せた。まず、最前線でオーストリア軍と戦い、その武勲から銀勲章を叙勲され、英軍からも武功十字章を叙勲された。更にマケドニア戦線に転戦してブルガリア軍と交戦、銅勲章を叙勲。アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍の命により帰国した彼は、ピアーヴェ川の戦いで工兵部隊を率いて活躍したが、敵の攻撃で重傷を負った。このため、二度目の銀勲章と戦功十字章を叙勲されている。最終的に、終戦までに中佐にまで昇進した。

第一次世界大戦後、怪我が治った後、リビアの反伊ゲリラ駆逐のため、トリポリタニアに派遣される。しかし、一時的にアラブ人勢力との停戦が成立したため、1919年には帰国して第25師団の参謀長に任命された。

 

エチオピア戦争と「電気髭」

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エチオピア戦争の地図。デ・ボーノ(後にバドリオ)が指揮する北部戦線はエリトリアから、グラツィアーニが指揮する南部戦線はソマリアからエチオピアに侵攻した。ベルゴンツォーリは南部戦線で指揮している。

ベルゴンツォーリはファシスト政権成立後、軍拡を続けるイタリア陸軍の中で地位を確立していった。第一次世界大戦で優れた前線指揮官として武勲を挙げたベルゴンツォーリは上官だけでなく、部下からも高く評価されている自ら最前線に立ち、兵士たちを鼓舞する姿を慕う部下たちは多かった。それに、彼の特徴的な「顎髭」は、彼のチャームポイントとなり、部下から「電気髭(barba elettrica)」と呼ばれ親しまれ、それが彼の愛称になったのである。

1935年、ムッソリーニエチオピア帝国との戦争を宣言し、エチオピアへの侵攻を開始した。この時、ベルゴンツォーリは陸軍准将であり、第二快速旅団「エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ」の旅団長としてソマリアに派遣された。彼と、彼の旅団はロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥率いる南部方面軍に配属となり、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるエチオピア帝国軍と対峙することになった。

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南部戦線のエチオピア帝国軍指揮官。ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù, ደስታ ዳምጠው)将軍(左)と、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍(右)。優れた指揮で防衛線を構築し、イタリア軍部隊を苦しめた。

エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事でイタリア軍の攻撃を効率的に防いでいた。これに対して、イタリア軍側は空軍が支援の航空爆撃を実行してエチオピア地上部隊を攻撃、混乱した敵軍に対して攻勢を実行した(ガナーレ・ドーリアの戦い)。

ベルゴンツォーリは自ら最前線に立って部隊を指揮し、帝国軍の拠点となっていたネゲッリ市を陥落させることに成功している。だが、将官でありながら最前線で戦い続けたために、敵弾に当たって重傷を負ってしまったため、治療のためイタリアに帰国することになった。エチオピア戦線での活躍から、ベルゴンツォーリはサヴォイア軍事勲章及びイタリア王冠勲章を叙勲されている。

 

◆スペインでの武功

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部下と共に移るベルゴンツォーリ。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した名将は、その勇敢さから部下からの信頼も厚く、人望があった。

ベルゴンツォーリがイタリアで入院中に、1936年7月にエミーリオ・モラ(Emilio Mola)将軍を筆頭とする軍部の一派がスペイン植民地のモロッコで叛乱を起こし、これに呼応したフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍が叛乱軍の主導権を握り、それが引き金となってスペインで内乱が勃発した。これを受けて、イタリアはナショナリスト叛乱軍側に支援を開始し、義勇軍としてCTV部隊を編制、マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍を総司令官としてスペインに派遣した。

ベルゴンツォーリはこのCTV部隊の一員として編成された「リットーリオ」師団の師団長に任命された。同師団は3個歩兵連隊と1個砲兵連隊によって構成されており、大部分がMVSN(黒シャツ隊、ファシスト党民兵組織)で構成されていたCTV部隊であったが、「リットーリオ」師団は全て陸軍の義勇兵によって構成されていた。正規軍の将兵によって構成された同師団はMVSNの部隊よりも士気・練度共に高く、頼もしい戦力となったのである。

1937年2月より同師団はスペインでの行動を開始する。3月のグアダラハラの戦いに参加するが、ベルゴンツォーリ率いる「リットーリオ」師団の奮戦にもかかわらず、CTV部隊は大敗してしまった。「グアダラハラの大敗」は先例のない悪天候や、共和国軍の予想以上の健闘など、いくつもの悪運が重なったと言っていいだろう。更に、フランコによる「意図的な背信行為」も、大敗の大きな原因にあげられる。

そもそも、このグアダラハラの戦いは、苦境に陥ったフランコ側がイタリア軍に陽動を懇願してなされたものであった。だが、フランコは「グアダラハラ作戦」の同時実施についてロアッタ将軍と合意していたにもかかわらず、結局フランコはその合意を反故として、同時攻撃も援護もせず、イタリア軍側の救援要請も無視し、挙句イタリア軍が総崩れになったところでようやく戦線に兵を送った。更にファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

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エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍。ロアッタ将軍の後任としてCTV部隊の司令官に就任し、優れた手腕で立て直しに尽力した。彼の手腕によってイタリア軍は打撃から立て直し、以後ナショナリスト叛乱軍側の主力として機能し、内戦の終結に向けて大きな貢献をした。

この大敗とフランコ側の行動を受けて、ムッソリーニは激怒し、フランコに利用されていることに気が付いたが、今更国粋派への支援を撤回するわけにもいかず、その大敗の責任を取る形でロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任された。新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、エットレ・バスティコ中将(Ettore Bastico)だった。バスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図った。ここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである。

新司令官バスティコ将軍のもとでベルゴンツォーリはサンタンデールの戦いに参加、「リットーリオ」師団を率いてその勝利に大きな貢献をした。「リットーリオ」師団は粘り強い攻撃で共和国軍の防衛戦を突破し、敵拠点であったサンタンデール市を陥落させることに成功したのである。このサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなった。この時の武勲により、ベルゴンツォーリはイタリア軍最高位勲章である金勲章を叙勲されている

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。

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スペイン内戦終盤。中央がベルゴンツォーリ将軍、右でたばこを咥えた人物がガンバラ将軍である。

続いて司令官となったベルティ将軍のもとでベルゴンツォーリはアラゴンでの大攻勢に参加する。ベルティ将軍の後任として新たな司令官となったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍のもとでカタルーニャ攻勢にベルゴンツォーリは参加し、共和派の首都であったバルセロナ(バルチェロナ)の陥落に大きな貢献をして、イタリア軍義勇兵を快く思っていなかったフランコもベルゴンツォーリを高く評価し、スペイン最高峰の軍事勲章であるサン・フェルディナンド軍事勲章をベルゴンツォーリに叙勲したベルゴンツォーリは実に21カ月の間スペインの前線で指揮をし続け、スペイン内戦の終結に大きな貢献をしたのであった。なお、スペイン内戦中、ベルゴンツォーリの「敵としての名声」は共和国政府側も認識しており、彼の首には50万ペセタもの懸賞金が掛けられていたという。まさしく、敵にも認められた名将と言えるだろう

 

スエズを目指して

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リビア総督イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥。第二次世界大戦開戦時の北アフリカ戦線総司令官であったが、6月末にトブルク上空にて誤射を受けて戦死した。

1939年4月にスペインの戦地から帰還したベルゴンツォーリであったが、休む暇もなく第二次世界大戦に欧州は突入した。情勢の急速な変化を受けて、10月にはリビアに派遣され、新編成された第23軍団の司令官に任命された。第23軍団はトリポリ近郊の町で古代ローマの遺跡「レプティス・マグナ」があることで知られるオムス(フムス)に駐屯し、MVSNの第一黒シャツ師団「3月23日」(戦闘者ファッシの設立日(1919年3月23日)に由来)と第二黒シャツ師団「10月28日」(ローマ進軍(1922年10月28日)に由来)を含む45,000人の将兵によって構成されていた。

1940年6月10日にイタリアは英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦する。6月24日にはヴィッラ・インチーサ休戦協定が調印され、イタリアとフランスが休戦する。こうしてフランスが戦争から脱落すると、イタリアは北アフリカの全軍を英軍支配下となっているエジプト国境に張り付けることが可能となり、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もエジプト方面に移動したムッソリーニはエジプトへの侵攻を命令したが、6月28日にはリビア総督であったイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が味方からの誤射によって撃墜され、戦死してしまう事態となってしまった。

戦死したバルボの後任として、陸軍参謀長のロドルフォ・グラツィアーニ元帥がリビア総督を兼任した。グラツィアーニは準備不足からエジプト侵攻の延期を要請したが、ムッソリーニはあくまで侵攻を強行した。ムッソリーニとしては、ドイツ軍による英本土攻撃が始まらんとしているため、準備不足だろうがイタリア軍としては戦果を挙げて戦後の交渉を有利に進めようと思っていたのであるが、現実は厳しかった。

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レダ Ba.65攻撃機。ブレダ社が開発・生産した対地攻撃機である「マルチロール機(多用途機)」。武装は7.7mm機銃×2及び12.7mm機銃×2で、偵察機タイプの複座型はこれに加えて更に12.7mm機銃1挺が追加で装備されていた。爆弾の搭載量は最大で1000kg。スペイン内戦で戦局に大きく貢献した機体で、操縦性の劣悪さと機体の貧弱さという欠点を持っていたが、十分すぎる攻撃力を持ち、北アフリカ戦線においても英軍機甲部隊相手に善戦した。

仕方なく9月7日にグラツィアーニはエジプトへの侵攻命令を出した。この作戦にはベルゴンツォーリ率いる第23軍団を含め、第21軍団、第28軍団及び自動車化集団が加わり、空軍部隊が陸軍部隊を援護するとともに、敵空軍基地及び兵站施設、敵司令部爆撃任務を帯びた。空軍の戦闘爆撃機であるBa.88"リンチェ"は役に立たなかったが、対地攻撃機のBa.65"ニッビオ"は英軍地上部隊への攻撃で大きな戦果を挙げ、特にアドリアーノヴィスコンティ(Adriano Visconti)少尉は英国機甲部隊のマチルダII歩兵戦車を多数撃破する戦果を挙げている。Ba.65は操縦性の劣悪さと致命的な防御力の低さが目立ったが、武装は強力過ぎるほどであり、戦車部隊への攻撃で大きな戦果を挙げたのである。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はスペイン内戦でも上官だったベルティ将軍率いる第10軍の隷下に置かれ、進軍を開始した。形式上は独立国であったが、英軍の支配下に置かれていたエジプト王国の首相ハサン・サブリー・パシャ(Hassan Sabry Pasha)イタリア軍のエジプトへの侵攻を受けてイタリアと断交(ただし、宣戦布告はせず、宣戦布告をしたのは大戦末期)している。アーチボルド・ウェーベル(Archibald Wavell)将軍率いる北アフリカの英軍部隊は準備は整っておらず、特に空軍は戦力が不足しており、エジプト侵攻における制空権は完全にイタリア側が掌握していた

 

エジプト侵攻時のベルゴンツォーリ率いる第23軍団の構成は以下の通り。

◆第62歩兵師団「マルマリカ」→戦車大隊を保有

:師団長ルッジェーロ・トラッキャ将軍(Ruggero Tracchia)

◆第63歩兵師団「チレーネ」→戦車大隊を保有

:師団長カルロ・スパトッコ将軍(Carlo Spatocco)アレッサンドロ・デ・グイーディ将軍(Alessandro de Guidi, 1940年9月23日~)

◆第一黒シャツ師団「3月23日」(MVSN)

:師団長フランチェスコ・アントネッリ将軍(Francesco Antonelli)

◆サハラ機械化集団

:司令官ピエトロ・マレッティ将軍(Pietro Maletti)

リビア師団集団(第一リビア師団及び第二リビア師団で構成)

:司令官バスティアーノ・ガッリーナ将軍(Sebastiano Gallina)

◇第一リビア師団

:師団長ルイージ・シビッレ将軍(Luigi Sibille)

◇第二リビア師団→戦車大隊を保有

:師団長アルマンドペスカトーレ将軍(Armando Pescatore)

 

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イタリア陸軍の「主力戦車」であったCV33豆戦車。武装が8mm機銃2丁という貧弱さから、戦車としての戦力は期待できなかった。一部、対戦車型として20mm対戦車ライフルを装備した車輛も存在した。

所属していた第二黒シャツ師団「10月28日」はトブルク司令部の防衛に回されて第23軍団から第21軍団に移っている。なお、第23軍団に所属する歩兵師団はCV35及びCV33豆戦車を主武装とする戦車大隊を保有していた他、11/39中戦車を主武装とする機甲部隊をマレッティ将軍率いる機械化集団が指揮していた

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団はエジプト侵攻で前衛部隊として進撃を開始リチャード・オコンナー(Richard O'Connor)将軍率いる英国西方砂漠軍への攻撃を行った。9月13日、第23軍団に属する第一黒シャツ師団「3月23日」が英軍に奪われていた国境要塞のカプッツォ要塞を奪還し、エジプト国境を越えて前進を行う。英空軍の基地が置かれていたサルームへの攻撃を行い、15日には第一リビア師団が同拠点を制圧英軍側は戦車・装甲車合わせて50輌の損害を受けた。英軍は撤退時に軍需基地に火を放って焦土作戦を行ったが、撤退する英軍に対して伊空軍部隊は対地攻撃を行っている。

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シディ・バッラーニに進軍するFiat-SPA AS37で自動車化された部隊。

ベルゴンツォーリはサルーム制圧後も進撃を続けたが、マレッティ将軍率いる機械化集団の進撃は英軍砲兵部隊の攻撃によって阻まれてしまった。激闘の末、第一黒シャツ師団「3月23日」は9月16日夜間に国境から約100kmの距離の拠点シディ・バッラーニを占領することに成功し、イタリア軍はシディ・バッラーニを拠点として一旦進軍を停止し、兵站強化に勤しむこととなった。

エジプト侵攻におけるこれらの勝利は機甲部隊による戦果ではなく、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団に属するリビア師団と黒シャツ師団の奮闘によるものであった。第23軍団は一日に20km前進することに成功し、英軍がイタリア軍側の予想に反していち早く退却したことによって、イタリア軍側は順調に進軍し、沿岸部を一気に短期間で制圧することが出来た。「砂漠という本来奇襲攻撃を想定しえない戦場において、わが軍はその実行に成功した」とグラツィアーニ元帥は評価している。

 

◆シディ・バッラーニ防衛戦

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北アフリカ戦線を指揮したロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)元帥。「砂漠のナポレオン」と呼ばれた将軍で、リビア平定やエチオピア帝国征服で活躍し、当時のイタリアでは既に英雄として有名だった。第二次世界大戦時のイタリア陸軍参謀長であったが、バルボ戦死後にリビア総督に就任し、北アフリカ戦線を指揮することとなった。

イタリア軍によるエジプト侵攻は成功したが、英軍は撤退時に焦土作戦を徹底的に行って、兵舎や水利施設、軍需倉庫などを破壊していたため、イタリア軍としては兵站を整えることが急務になった。そのため、グラツィアーニ元帥は進軍を停止した。シディ・バッラーニを前線基地として、まずは輸送強化のためにリビアのヴィア・バルビアから続く、ヴィア・デッラ・ヴィットーリア(勝利通り)の建設を勤しみ、また軍需物資の供給約束が果たされていないことに対して司令部に抗議した。また、砂漠という過酷な環境で将兵は疲弊しており、再編の必要があるとした。

バドリオ参謀総長はグラツィアーニの意見をインフラ、水、輸送手段、燃料の不足の観点からやむを得ないと判断したが、ムッソリーニとしてはエジプト制圧の遅延からグラツィアーニとバドリオに対して激しく憤りを感じていた。ムッソリーニはグラツィアーニをローマに召還してマルサ・マトルーフへの攻撃再開を協議したが、バドリオもその案には賛成せず、結局イタリア軍の進軍はシディ・バッラーニでストップした。しかし、イタリア軍兵站を整えている間に、英軍はその陰で反撃の準備を進めていた

10月28日にはムッソリーニギリシャに宣戦布告し、ギリシャ戦線が開幕した。だが、当初の計画では順調に制圧出来るはずであったが、ギリシャ戦線を指揮したプラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍ギリシャ軍を侮った結果、予想以上の反撃を被り、戦線は膠着状態となってしまった。一方で、海軍方面においても、英海軍雷撃機によるターラント港への奇襲攻撃が行われ、イタリア海軍の主力戦艦3隻(「コンテ・ディ・カヴール」「カイオ・ドゥイリオ」「リットーリオ」)が大きな被害を被り、行動不能に追い込まれた。この結果、イタリア軍ギリシャ方面への支援のために、北アフリカ戦線用の物資を送る羽目になった挙句、その貴重な北アフリカ戦線への物資も、伊艦隊が大きな被害を被ったことで地中海の制海権が英国側に移り、輸送船団への攻撃が活発化する事態となってしまった。

バドリオ参謀総長ギリシャ戦線の泥沼化の責任を取らされて辞任に追い込まれ、新たな参謀総長にはウーゴ・カヴァッレーロ将軍(Ugo Cavallero)が就任した。プラスカの更迭後にギリシャ戦線を指揮することになったウバルド・ソッドゥ(Ubaldo Soddu)将軍は泥沼化した戦線の立て直しを余儀なくされ、プラスカの尻拭いを任された。海軍においても海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)が更迭され、新たな海軍参謀長にアルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)が就任した。

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エチオピア戦争でも活躍した第一黒シャツ師団「3月23日」。ファシスト党民兵組織であるMVSN(黒シャツ隊)の兵員から構成された師団で、エジプト侵攻において前衛として活躍、シディ・バッラーニ戦で最初に市内に突入したのはこの師団である。

ギリシャ戦の泥沼化と伊艦隊の消極化は北アフリカ戦線の状況を英国側に有利にすることとなったムッソリーニはグラツィアーニに対してシディ・バッラーニでの停止がイタリアではなく英国側に得をさせたと難癖をつけたが、グラツィアーニとしてはただでさえ必要な物資がギリシャ戦線に吸い取られて装備が不足している中で、当然準備など整うはずもなく、進軍は不可能であると反論した。この間、ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は前衛ではなくシディ・バッラーニ西方の後方に配備され、再編成された。これによって、第23軍団は1940年12月の段階で第一黒シャツ師団「3月23日」、第二黒シャツ師団「10月28日」、第62歩兵師団「マルマリカ」で編成されていた。

ムッソリーニとグラツィアーニの協議の結果、再侵攻開始は12月に決定され、それまでの間が準備期間とされた。しかし、グラツィアーニが必要とした物資はギリシャ戦線に流れて思うように北アフリカ戦線のイタリア軍の準備は進まなかった一方で、ギリシャ戦線の泥沼化を見てウェーベル将軍率いる英軍は、北アフリカイタリア軍がウィークポイントであると見抜き、反撃の準備を進めていたイタリア軍はサルームとシディ・バッラーニとの間に防衛陣地を配置したが、その陣地の間に無防備地帯があることに英空軍の偵察機が発見し、ウェーベル将軍は12月8日の夜間から9日にかけてこの無防備地帯の攻撃を決定した

イタリア軍部隊は攻撃の前夜に英軍機甲部隊の移動を察知し、直ちに警戒態勢に入ったが、英軍は陸海空全軍を動員した大反攻作戦「コンパス」を発動し、一気に反撃を開始した。英軍の奇襲は完全に成功し、これを受けてシディ・バッラーニのイタリア軍部隊は壊滅、前衛であったマレッティ将軍率いる機械化部隊は全滅(マレッティ将軍も戦死)し、同じく前衛を務めていた第二リビア師団も壊滅する事態となった。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の攻撃に対して抵抗したが、装備が不足する第23軍団は大きな損害を被り、撤退を余儀なくされたのである。

撤退したベルゴンツォーリ率いる第23軍団はハルファヤの防衛に当たっていた。グラツィアーニはムッソリーニに対して今まで軍需資材の増強を要求してきたのに対して、これが聞き入られなかったことに対する激しい抗議の電報を送った。グラツィアーニとしては以前から物資の増強を要請していたにもかかわらず、勝手に戦線を広げられた挙句、そちらを優先されたために北アフリカ戦線が手薄となり、英軍の攻撃を許してしまったのであるから怒るのは当然だと言えよう。

 

◆バルディア包囲戦

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クイーン・エリザベス級戦艦「ヴァリアント」。英海軍地中海艦隊の主力戦艦の1隻として活動し、姉妹艦と共にバルディア守備隊への艦砲射撃を実行した。後に1941年12月、伊潜水艦「シィレー」から発進した人間魚雷部隊によってアレクサンドリア港内にて攻撃を受け、撃沈された。

ベルゴンツォーリ率いる第23軍団は英軍の猛攻を受けてエジプトからの撤退を余儀なくされた。こうして、第23軍団は越えた国境を戻り、リビアの国境都市バルディアまで撤退した。ベルゴンツォーリはバルディアでの抵抗を組織し、地雷原や有刺鉄線、対戦車塹壕を設置して英軍の侵略に備えていた。バルディアの防壁は特に頑丈なものではなく、英軍側の攻撃によって容易に崩壊したためである。そのため、ベルゴンツォーリはこれらを駆使して少しでもバルディア防衛のために尽力した。

バルディア防衛に当たる第23軍団は以下の構成であった。

■北部方面防衛

◆第二黒シャツ師団「10月28日」

■中央方面防衛

◆第一黒シャツ師団「3月23日」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」

■南部方面防衛

◆第63歩兵師団「チレーネ」

◆第62歩兵師団「マルマリカ」の一部

これらに加えて、ベルサリエーリ連隊、第64歩兵師団「カタンツァーロ」及び第60歩兵師団「サブラタ」の残存兵、騎兵連隊「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」、国境警備隊(G.A.F.)が第23軍団の一員としてバルディア防衛に当たった。第23軍団は13輌のM13/40中戦車と115輌のCV35豆戦車(対戦車砲搭載型を含む)を保有していたが、防衛陣地の環境は劣悪で、食料と水が不足し、塹壕ではシラミと赤痢が蔓延していた包囲状態となったバルディアは飢えと渇き、昼は地獄のように暑く、夜は氷点下まで下がる苛酷な環境、そして不潔な衛生状態に襲われ、防衛するイタリア将兵の士気に大きな打撃を与える結果となってしまった。それに加え、英軍側は昼夜問わず常に激しい砲撃を行うのだからたまったものではない

12月末、英軍はバルディアへの激しい航空爆撃を実行した。この時点で、陸軍の後退と共に空軍部隊も機体を残して撤退を余儀なくされたため、戦力が不足して北アフリカ戦線の制空権は英国側に渡ってしまっていた戦力の不足は顕著であり、英軍側が約800機を擁していたのに対して、イタリア側は僅か130機程度であった。12月31日から翌年1月2日までにかけて計100回にもわたる航空爆撃がバルディアを襲っているヴィスコンティが駆るBa.65を始め、イタリア空軍部隊も奮戦して敵軍陣地や戦車部隊を激しく攻撃したが、防御性能に劣るBa.65は消耗率が激しかった

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バルディアに突入する英軍

更に、年が明けて1月3日、リビア沖に英国主力艦隊(戦艦「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)が展開し、艦砲射撃を実行更にモニターによる砲撃も行われ、戦闘が始まる時点までにバルディアの防衛陣地は甚大な被害を受けていたムッソリーニはベルゴンツォーリに対して「いかなる犠牲を払っても最後まで戦い抜くべし」と電報を送ったが、陣地がこの時点で壊滅状態となっていたバルディア守備隊の未来は既に見えていたと言える。

バルディア守備隊は果敢に抵抗したが、1月3日に英陸軍部隊(オーストラリア軍が中心)が遂にバルディアへの突入を開始する。こうして数日間に渡る激しい激戦が繰り広げられた後に、22日間にわたる激しい包囲戦の末にバルディアは陥落するに至ったのであった。こうして、英軍はバルディアを制圧するとともにリビアへの逆侵攻の地盤を固めたのである。このバルディア包囲戦の結果、約5,300人のイタリア兵が死傷し、約36,000人が捕虜となった。熱病に倒れたベルティ将軍に代わり第10軍司令官となったジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellera)将軍はバルディア戦線の崩壊を受けて、ベルゴンツォーリに撤退を許可し、ベルゴンツォーリを含む約1,000人は敵の包囲網を突破して徒歩による陸路もしくは脱出艇によって海路で脱出し、トブルクに撤退した。ベルゴンツォーリは約120kmの砂漠を徒歩で突破してトブルクに到達することに成功したが、既に長きに渡る包囲戦を経て彼は疲れ切っていた。

 

◆ベダ・フォムの崩壊

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「バビーニ」装甲旅団所属のM13/40中戦車。イタリア軍の貴重な装甲戦力として活躍したが、ベダ・フォムの戦いで英軍の十字砲火を受けて壊滅した。

しかし、英軍はイタリア軍の撤退すら許さず、続けて追撃を行った。バルディアの包囲戦で多大な損害を被ったイタリア軍は、もはやバルディアのような頑強な抵抗は不可能な状態に追い込まれてしまっていたのである。バルディア陥落後、1月9日には英軍は速やかにトブルク要塞を包囲下に置いた巡洋艦「サン・ジョルジョ」を含むイタリア軍部隊は最後まで抵抗したが、遂に1月22日にトブルクは完全に征服された。

トブルク陥落を受けてイタリア軍の命運は完全に決まった。グラツィアーニはアジェダビアへ後退する命令を出したが、機動力に勝る英軍によってその撤退戦は完全に封じられた。更に、英軍側は沿岸部のデルナではなく、内陸部の砂漠地帯を突破してキレナイカを横断し、トリポリタニア北東のシルテ方面への進軍を開始し、イタリア軍側はすぐにそれを察知したが、機動力に劣る伊軍はそれに上手く対応できなかった。内陸部のエル・メキリ要塞では英軍の侵攻をベルゴンツォーリ率いるイタリア軍部隊が首尾よく防衛し、ヴァレンティーノ・バビーニ(Valentino Babini)准将が殿を務め、イタリア軍の数少ない装甲戦力であった装甲旅団「バビーニ」が活躍して一時的に英軍の進撃は停止したが、グラツィアーニは敵兵力が実際より多いと誤った予測をしてベルゴンツォーリに撤退を命じ、イタリア軍残存兵力は撤退した。

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ジュゼッペ・テッレラ(Giuseppe Tellra)将軍。日本語では「テレーラ」と呼ばれることがあるが正しくはない。ベルティ将軍の後任として第10軍の司令官を務め、絶望的な状況ながら奮戦、最後は自ら戦車に乗って敵に突撃し、戦死を遂げた。その姿勢は英軍にも高く評価されている。

この結果、テッレラ将軍率いる第10軍は退路を断たれてベンガジ南方のベダ・フォムで完全な包囲下に置かれることとなる。ベルゴンツォーリ率いる第23軍団もこのベダ・フォムで包囲下に置かれたのであった。海上には英艦隊が展開し、ベダ・フォムのイタリア軍部隊は海上からの撤退も不可能な状態に追い込まれ、絶体絶命の状況に陥っていたベルゴンツォーリは撤退を強行するため、最後の望みをかけてヴィア・バルビアを通ってトリポリタニアへの突破を決めた。しかし、既にヴィア・バルビアに沿って英軍機甲部隊が展開しており、撤退する兵士たちは英軍部隊の餌食となった。その状態を知らなかったイタリア軍部隊は装甲旅団「バビーニ」を先頭にヴィア・バルビアを突破するために前進を開始する。案の定、英軍側の激しい十字砲火を浴びることとなり、包囲網を突破することは失敗した。自ら兵士を鼓舞するために戦車に乗って進軍していた第10軍司令官のテッレラ将軍もこの突撃時に被弾し、戦死してしまったのである。

南方への突破も不可能となり、装甲部隊も壊滅した第10軍残存兵力は最早打つ手は無かった。こうしてベルゴンツォーリは降伏を決断し、キレナイカでの戦いはイタリア軍の完全な敗北に終わったのである。英軍はキレナイカ制圧をもってコンパス作戦を終了し、一連の敗北を受けてイタリア軍はシルテまで撤退、キレナイカを完全に喪失した。この敗北後、グラツィアーニはリビア総督を辞任し、後任として2月11日にイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍が就任、引き続き北アフリカの指揮をとった。結局、これらの敗北はイタリア軍将兵が劣っていたからではなく、英軍の装備が全てにおいて勝っていたことが理由であり、特にイタリア軍側は機甲部隊の不足が致命的となった。機動力に勝る英軍機甲部隊は撤退するイタリア軍を完全に壊滅させ、更に海軍・空軍との共同作戦で退路を封じて包囲し、これを撃破したのだった。イタリア軍部隊は機甲部隊を始めとして奮戦したが、要請した支援物資が届かないどころかギリシャ戦線に必要物資が吸われたことで希望は消え去ったのである

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ベダ・フォムの戦いで英軍の捕虜となったベルゴンツォーリ将軍。連合国側の協力要請を拒否し続け、降伏しても連合国側に屈することはなかった。

ベダ・フォムの戦いで捕虜として捕らえられたベルゴンツォーリはエジプト首都カイロに移送され、その後脱走を危惧されて英領インドの捕虜収容所に送られ、劣悪な環境の中で苦しんだ。1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、アメリカが連合国側で参戦すると、アーカンソー州のモンティチェロ捕虜収容所に移送となった。1943年9月にイタリア王国が休戦したことで、イタリアは北部・中部を支配するイタリア社会共和国(ムッソリーニ政権)と南部を支配する王国政府(バドリオ政権)に二分され、内戦状態となった。これを受けて、バドリオは共同交戦軍を組織し、連合国側との共闘を宣言する。アメリカ当局はベルゴンツォーリに連合国側への協力を持ち掛け、それを条件に解放することを提案したが、ベルゴンツォーリはそれを完全に拒否した。だが、この反応に怒ったアメリカ当局はベルゴンツォーリをロングアイランドの精神病棟の隔離した部屋に閉じ込めてしまったのである。

第二次世界大戦終結すると、ベルゴンツォーリは解放されイタリアへ帰国出来ることとなった。しかし、新たにイタリアの政権を担っていたメンバーはランドルフォ・パッチャルディ(Randolfo Pacciardi)を始め、スペイン内戦で共和国側の国際旅団に参加した反ファシストが多数いた。このため、スペイン内戦でCTV部隊の主力を率いたベルゴンツォーリは非常に疎ましい存在として映っており、帰国後のベルゴンツォーリを攻撃した。だが、ベルゴンツォーリは戦後のイタリア軍でも戦前の勇敢さや功績から人気のある将軍であり、帰国後は陸軍に迎えられて短い間であるが復帰し、1947年にはほぼ名誉階級として中将に昇進、その後予備役に移された。故郷のカンノービオで隠居したベルゴンツォーリは元部下たちに慕われ、部下たちと共にスペインに旅行すること持った。当地ではフランコの歓迎を受け、またスペイン内戦に参加したCTV部隊の元将兵らの協会組織を結成し、それを指揮した。部下に慕われ続けた将軍は1973年7月31日に死亡し、彼の葬儀には数多くのイタリア軍の高官たちが参加したのであった

映像作品(映画・ドラマ)で見るイタリア軍の将軍たち

第二次世界大戦時のイタリア軍を描いた映画は数多くあるが、やはり一兵卒が主人公の場合が多く、将軍たちがメインで出てくる作品はそんなに多くはない。今回は、そんな中で、調べうる限り史実の将軍たちが出てくる映画・ドラマを探し、それらをまとめてみた。以下はその表である。

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『映像作品で見るイタリア軍の将軍たち』

今回は10の作品に登場する、10人の史実の将軍たちを作中の描かれ方と史実ではどのような功績を残した人物だったのかを紹介しよう。

 

◆ロドルフォ・グラツィアーニ

(Rodolfo Graziani)

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ロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)

グラツィアーニ元帥はバドリオ元帥と並ぶファシスト政権期におけるイタリア軍部の重要人物だ。植民地戦争や植民地統治ではその苛酷な手段で現地人に恐れられ、「現地人の破砕者」という異名も付けられている。ド鬼畜。リビア再征服での悪名高い手法としては、「抵抗を続ける首長の手首を縛って飛行機からその居住地域に突き落とす」というえげつないことをしている。しかし、彼の迅速で強引な作戦によって、オマル・ムフタール率いるリビア叛乱軍は壊滅し、リビア植民地は平定に向かった

エチオピア戦争では南部戦線を指揮し、1日30km以上も「捕虜を一切とらない」攻勢を行ったことで知られる。航空機や戦車といった近代兵器を戦争に積極的導入をすることを推進した、軍事戦略の先駆者であったが、その「実験台」とされたのがリビアエチオピアの人々であった。戦争終結後はエチオピア副王となり、恐怖政治でエチオピアを支配し、若いインテリの組織的な抹殺やムスリム兵による正教会聖職者虐殺を実行した。その苛酷な統治が祟って1937年2月には暗殺未遂事件が発生したが、さらに苛酷な統治を行う結果となり、報復としてアディスアベバで「エチオピア人に対する三日間の自由な略奪」をMVSNに許可した。このような苛酷な植民地支配によってイタリアは終始反乱に悩まされ、15万人から25万人に駐留軍を増援することとなった。要するに、軍人としては優秀だが、植民地統治者としては無能としか言わざるを得ない。

第二次世界大戦のイタリア参戦時には陸軍参謀長の立場にあり、撃墜死したバルボ空軍元帥の後任としてリビア総督に就任、エジプト侵攻を指揮した。グラツィアーニは軍需物資の供給がないことや、インフラが脆弱であることから侵攻には反対していたが、ドイツのゼーレーヴェ作戦発動に焦る統帥の命令から侵攻を開始した。結局、イタリア軍部隊は英軍の反攻作戦によって敗北し、その無謀な作戦計画の責任を取らされる形でグラツィアーニは辞任した。グラツィアーニとしては、自らの増援要請を拒否された結果この仕打ちであるため、不憫である。自らの計画を拒否されたにもかかわらず、ギリシャ戦線での失敗の責任を取らされたバドリオとは似通うものがある。しかし、バドリオとは異なり、ファシスト政権への忠誠は失わなかった

グラツィアーニは休戦後、RSI政権(イタリア社会共和国)に合流し、国防相に任命された。グラツィアーニは国王とバドリオの「裏切り」を厳しく非難し、共和国軍の創設に尽力している。こうして編成された新生ファシスト共和国軍は勇敢に戦い、多くの戦果を挙げた。ナチの傀儡政権に過ぎなかったRSI政権であるが、絶望的な状況にあるにもかかわらず一定の戦果を挙げたRSI軍は高く評価されるべきだろう。グラツィアーニも「必ずや再びローマ進撃を成し遂げるだろう」と激励したが、共和国軍に戦局を変えるほどの力はなかった。1945年4月27日正午、コモ湖南部のチェルノッビオ司令部がパルチザンによって包囲され、遂にグラツィアーニは降伏した。

グラツィアーニは29日夕方、ミラノ東方のゲーティにて米軍の第四機甲軍団司令官クリッテンバーガー将軍の前で降伏文書に署名した。それから数日後、フィレンツェのラジオを通じてグラツィアーニはRSI軍に最後の令達を放送したのであった。戦後は戦犯として逮捕され、1950年の軍事裁判で19年の禁固刑に処されたが、トリアッティ法相の恩赦で同年8月には釈放となった。その後はネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」に参加している。

◇映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のグラツィアーニ

演:ロドルフォ・ダル・プラ(Rodolfo Dal Pra)

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映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のグラツィアーニ

映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』では、イタリア社会共和国(RSI政権)国防相時代のグラツィアーニ元帥が登場する。つまりは、第二次世界大戦末期のグラツィアーニだ。先述した通り、第二次世界大戦開戦時に陸軍参謀長であったグラツィアーニはエジプト作戦の失敗の責任を取らされて解任されたが、大戦末期にRSI政権が成立すると国防相に任命され、RSI全軍の指揮を執り、軍の再建に尽力した。

この映画では、RSI政権崩壊からムッソリーニパルチザンに殺害されるまでが描かれているが、そのRSI幹部としてグラツィアーニが登場する。ロドルフォ・ダル・プラ氏が演じるグラツィアーニは、まるで本人が蘇ったかのように本人そっくりである。映画を見るとグラツィアーニを知っている人であれば驚くことだろう(しかも名前のロドルフォまでも同じである)。グラツィアーニの他、フランチェスコ・マリーア・バラック官房副長官など、他のRSI高官も中々の再現度である。RSI好きは見て損はない。

映画『ブラック・シャツ』は原題は"Mussolini Ultimo atto"で、1974年公開の映画だ。日本ではVHSで発売されているが、現在は入手が困難であろう。DVDはイタリア語版であれば手に入りやすいが、字幕はない。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のグラツィアーニ

演:オリヴァー・リード(Oliver Reed)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のグラツィアーニ

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』では、戦間期リビア再征服時のグラツィアーニが登場する。グラツィアーニにとって、戦間期において初の名声を手に入れる、つまりは彼が「ファシスト・イタリアの英雄」になっていく土台となった戦いを描いた。とはいえ、この作品は主にリビア叛乱軍側であるオマル・ムフタールら側の目線で描かれているため、グラツィアーニは「冷酷な悪役」として描かれている

というのも当然であり、グラツィアーニがリビア再征服で行った史実の行為はかなりえげつなく、映画でもそれが再現されている。国境線を封鎖して補給線を断ったり、残酷な報復、航空機や戦車など近代兵器を用いた制圧作戦、現地民を収容所にぶち込んで餓死者続出などなど、計り知れない。作中では描かれなかったが、反抗を続ける首長の手足を縛って飛行機からその首長の領地に突き落とす、ということもしている。

このグラツィアーニを演じるのは英国人の俳優オリヴァー・リード。ただ、やってることは史実そのままだが、立ち振る舞いなどを考えるとそんなにグラツィアーニっぽくない、というか「悪役さ」を強調し過ぎて偉そうな感じになっている。まぁ史実でこんな行いをするのだから、そういった扱いになるのは当然だが。

なお、この『砂漠のライオン』はイタリアでは「イタリア軍の名誉を傷つけている」とされて放送が禁止されており、しかも逆にリビアでは時の独裁者カッザーフィー大佐が資金援助しており、撮影もリビア領内で主に撮影されている。リビアによる反イタリア映画とも取れるが、そもそも史実で同様の行いをしているイタリア側に反論の余地はない。とはいえ、作品としての出来は良く、中々アクション性も高い

 

エミーリオ・デ・ボーノ

(Emilio De Bono)

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エミーリオ・デ・ボーノ (Emilio De Bono)

第一次世界大戦で武勲を挙げた将軍で、ファシスト党終身最高幹部である「クァドルンヴィリ(所謂ファシスト四天王)」の一人。現役のまま戦闘ファショの武装部隊に参加したため、軍規違反で現役を解除された。ファシスト政権成立後、警察長官、MVSN総司令官を務め、軍人として陸軍とファシストの仲介者となった。1925年にはマッテオッティ事件に関与したとして警察長官を解任されている。

その後、1925年7月にはトリポリタニア総督、1929年9月には植民地相となり、リビアの抵抗運動鎮圧も経験した。エチオピア戦争が勃発すると、遠征軍総司令官として任命されるが、エチオピア戦争勃発時は69歳の高齢であった。軍人としては古い固定観念を持ち、「戦闘には騎兵は不可欠で、歩兵は歩いて行進すべきだ」と主張し、近代戦の障害とさえ言われている。更に、「危険に喜びを感じないような計算づくの人間は危険である」というファシスト理念を持っていたため、彼の育てた狙撃兵団(ベルサリエーリ)は見境なく危険に飛び込むので悪評だった。

また、彼の植民地戦争の遂行方法は、道路や兵站基地を建設しながら現地勢力を懐柔し、不可避な場合のみ戦闘を行うという伝統的なもので、即決勝利が求められる全面戦争には不向きであった。軍の侵攻はアドゥアでの勝利の後、インフラ整備のために完全に停止している。なお、ティグレ占領時、デ・ボーノは「文明の使節」として奴隷解放宣言を行ってエチオピアの奴隷を解放しているが、彼ら解放奴隷に何らかの具体的支援はなされなかった。国際連盟からの経済制裁によって事実上の時間制限が課されたエチオピア戦では彼の慎重さはデメリットでしかなく、ムッソリーニからは進軍を促す電報が多い時で一日に百通も送られた。戦争の早期解決を望むムッソリーニによって解任され、後任には参謀総長であったバドリオが就任した。興味深いことに、司令官解任後のデ・ボーノはエチオピア側に対して同情的な意見を述べている。

第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、1940年には南部方面軍司令官に任命され、シチリア防衛を担当したが、当時74歳の高齢であり、他のどの将軍たちよりも高齢であった。1943年のグランディ決議にはムッソリーニが国王に軍事指揮権を返還し、統帥を続けるという認識で解任に賛成票を投じた。このため、RSI政権が成立すると彼は逮捕され、1944年のヴェローナ裁判においてチャーノらと共に死刑が決定された。元帥でもある老人を銃殺することは異論も出されたが、結局処刑され、死亡した。

◇ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のデ・ボーノ

演:マーク・フィオリーニ(Mark Fiorini)

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ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のデ・ボーノ

ドラマ『エッダ(原題:Edda)』では、1943年のファシズム大評議会、すなわち、ムッソリーニ解任動議の時以降のデ・ボーノが登場する。このドラマはガレアッツォ・チャーノとエッダ・ムッソリーニ(ガレアッツォの妻でムッソリーニの長女)を主人公として描いているが、そのチャーノと共に処刑された人物の一人がデ・ボーノ元帥である。

ファシスト党終身最高幹部(クァドルンヴィリ)の一人であり、ローマ進軍時からの古参であったデ・ボーノは、この大評議会でグランディによるムッソリーニの解任動議に賛成し、後々RSI政権に逮捕されて処刑された。マーク・フィオリーニ演じるデ・ボーノは処刑までに兵士に手を引かれたり、その老衰具合がよく再現されている。

『エッダ』に登場する歴史人物は総じて再現度が高く、特にチャーノ、デ・ボーノ、グランディ、マリネッリあたりはそっくりである。2005年にイタリアで放送された歴史ドラマだが、ファシスト政権期の、しかも体制側の人物が主人公であるにもかかわらず、視聴率35%以上という数値を記録している人気ドラマだった。チャーノとエッダの人間的なメロドラマと悲劇的展開が視聴者の心を掴んだのだろうか?

 

◆ピエトロ・バドリオ

(Pietro Badoglio)

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ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)

グラツィアーニ元帥と並ぶ、ファシスト政権期のイタリア軍の最重要人物ファシスト政権期、1925年から1940年まで統合参謀総長を務めた人物であるが、第二次世界大戦時に生じたムッソリーニとの確執から、王党派のクーデターに加わり、ムッソリーニ失脚後は自ら軍事政権を組織し、連合国側と休戦した。そのため、日本での評価は「バドリオ=裏切者」というイメージが強いが、それはあくまで一面的である。

バドリオは狡猾な世渡り上手だった。1919年8月、副参謀総長就任後、ダンヌンツィオのフィウーメ占領事件が発生。この際、バドリオは国民的英雄詩人であるダンヌンツィオを直接刺激せず、封鎖状態を長期化させることで巧妙に内部崩壊へと誘導した。ファシスト政権成立後、反ファシスト的な人物だとしてムッソリーニによって1925年までブラジル大使として左遷されるが、軍とファシスト政府の隙間を埋めるため1925年5月には参謀総長に就任し、事実上の政治的亡命期間が終了。これによって、完全にバドリオは体制派となった

さらに第一次世界大戦時の武勲から元帥となった彼は、1929年1月にはトリポリタニアキレナイカ総督となり、リビア人抵抗運動の徹底的弾圧を実施した。この時、副総督としてリビア再征服を共に指揮したのが、かのグラツィアーニ将軍である。ベドウィン強制収容所送りにし、約10万人を餓死・病死させて抵抗運動を終結させた。こうしてリビア平定を終わらせることによりイタリアは新たな膨張に向かうことが可能になったのである(何故か映画『砂漠のライオン』ではバドリオは登場しない)。

バドリオは欧州での戦争勃発を恐れ、対英戦の回避を繰り返し進言するのと並行し、フランスとの対独軍事計画の秘密協定を締結させた。またブラジル左遷時に仲を深めたフランスのガムラン将軍と協議を行い、伊仏協力を再確認したうえでエチオピア戦争に臨んだ。デ・ボーノの解任によって、エチオピア遠征軍総司令官に就任。当初はデ・ボーノの戦争計画をそのまま踏襲したが、グラッツィアーニの進軍開始によってライバル心が刺激され、迅速な進撃を開始し、毒ガスの集中使用や無差別爆撃といった手段を選ばない方法でエチオピア軍を殲滅し、首都アジスアベバを陥落させている。戦後、バドリオは東アフリカ総督・エチオピア副王に就任するが、ほどなく反乱の勃発によりその職をグラッツィアーニに譲った。このため、グラツィアーニと並び、バドリオはリビアエチオピアの人々からは恐れられた人物であった。

第二次世界大戦では開戦時から陸軍参謀総長であったが、ギリシャ戦の泥沼化の責任を取らされ、カヴァッレーロにその座を譲って解任された。なお、1941年には空軍パイロットであった息子パオロが北アフリカ戦線で撃墜され戦死、程なく1942年には最愛の妻ソフィアも失くし、悲しみにくれていた。1943年7月にはグランディ決議で解任されたムッソリーニに替わって、国王の指名を受けて後任の首相となった。しかし、水面下で行っていた連合軍側との休戦交渉が上手くいかず、結局休戦後にイタリア半島の大半がドイツ軍の占領下に置かれ、そしてイタリアはバドリオ政府と北部・中部の「イタリア社会共和国」に分裂、内戦化する事態となってしまった

◇映画『元年(原題:Anno uno)』のバドリオ

演:ニコラ・モレッリ(Nicola Morelli)

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映画『元年(原題:Anno uno)』のバドリオ

映画『元年(原題:Anno uno)』イタリア共和国初代首相であるアルチーデ・デ・ガスペリの生涯を描いた作品である。監督はイタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督。時代としては1944年から1954年までの10年間に焦点を当てている。ニコラ・モレッリ演じるバドリオ元帥が登場するが、ファシスト政権期を代表する人物であるにもかかわらず、バドリオが出てくる映画というのは極端に少ない。なお、このモレッリ氏は俳優でありながら、作家や古銭収集家としての側面を持つ人物でもあった。

 

◆エットレ・バスティコ

(Ettore Bastico)

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エットレ・バスティコ (Ettore Bastico)

バスティコ将軍は第二次世界大戦時の北アフリカ戦線の指揮官として知られている人物である。北アフリカ軍団のロンメルと比較されることで、対照的に低く評価されがちな彼であるが、その評価は正しくない。また、彼は第一次世界大戦後から軍事関係の執筆家として活動している。軍の再編について積極的に議論を交わし、1924年には全三部冊で『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』という本を出版した。この本の第三部にはこれから発展するであろう新兵器の戦車の運用も指摘されており、彼が先進的な戦術家であったことがわかるだろう。

エチオピア戦争では当初はデ・ボーノ将軍のもとで第一黒シャツ師団「3月23日」の師団長として、その後、新司令官バドリオ将軍のもとでエチオピア遠征軍の第三軍の指揮を任せられ、戦場で多くの戦果を挙げていった。有名なものは、アンバ・アラダムの戦い(エンデルタの戦い)と、第二次テンビエン会戦において、勝利に決定的な貢献をした戦果である。特に第二次テンビエン会戦では、ラス・カッサ将軍率いるエチオピア帝国軍を包囲し、帝国軍部隊を壊滅させる大戦果を挙げた

スペイン内戦ではロアッタ将軍がグアダラハラの大敗でCTV部隊司令官を解任された後、後任の新司令官として赴任し、CTV部隊の再編制を行い、立て直しを図ったここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである。特に、1937年8月~9月に起こったサンタンデールの戦いだ。バスティコ率いるCTV部隊はこのサンタンデールでの戦勝に決定的な役割を果たした。このサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなったのである。スペイン側から高く評価され、フランコもこの武功からバスティコに戦功十字章を叙勲した。

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のベルティ将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。バスティコとしては武勲を挙げたにもかかわらず、不当な理由で解任されることとなったのである。

第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ギリシャ作戦の失敗を受けてエーゲ海総督デ・ヴェッキが辞任し、その後任としてバスティコが新総督に就任した。エーゲ海総督としてのバスティコの主な仕事は、エーゲ海に浮かぶ大小12の島々を英軍やギリシャ軍から防衛する事だった。1941年2月、英海軍上陸部隊が密かにこの1つである最東端のカステルロッソ島(現ギリシャ領カステルリゾ島)に上陸し、占領下に置いた(アブステンション作戦)。しかし、バスティコは速やかにこれに対応し、イタリア軍守備隊の激しい反撃と陸海空軍による迅速な対応によって英軍を撃退し、防衛に成功している。その後もエーゲ海諸島での沿岸防衛を強化し、休戦まで敵軍の上陸を許さなかった。また、同時にギリシャ領のキクラデス諸島を始めとするエーゲ海の島々を上陸・制圧し、これらも伊領エーゲ海諸島に組み込んでいる。更に、エーゲ海諸島は空軍と海軍の重要な基地として使われ、中東油田爆撃やエーゲ海・東地中海における通商破壊作戦の中心基地として機能した。

1941年7月には、ガリボルディ将軍の後任としてリビア総督に任命され、北アフリカ戦線に派遣されたこの地でバスティコはロンメルと共に時に互いにいがみ合いながらも共闘し、ロンメルの独断専行な戦い方を、時にバスティコが軌道修正しながら戦果を挙げていった。バスティコ自身もロンメルと仲が悪かったが、それよりも幕僚のガンバラ将軍が極めてロンメル犬猿の仲であり、二人の喧嘩をバスティコが止めることもあったという。戦局は枢軸側に傾き、遂にエジプト再侵攻を行ったが、バスティコ自身もロンメルの無鉄砲な作戦に付き合わされ、参謀本部側との板挟みになっていたために、ロンメルとの仲が更に険悪になっていった。

しかし、バスティコが主張していたマルタ島制圧よりエジプト制圧が優先されたことで、彼が総司令官を務める北アフリカ総司令部はリビア総司令部に指揮系統が変更され、リビアの軍事のみを管轄することとなったのである。つまりは、バスティコは事実上、北アフリカの枢軸軍総司令官から退き、完全にリビア総督としての役割のみを果たすようになったのである。同時にバスティコは元帥に昇進となったが、事実上、形式上の北アフリカ戦線の司令官に落ちぶれてしまったのである。

結局、陥落寸前であったマルタ島攻略が棚上げされたことで英軍は再び息を吹き返し、エル・アラメインでの敗北によって北アフリカ戦線の命運は明らかとなった。結局、バスティコにとっては、自らの主張も退けられ、信頼していた統帥にも裏切られ、そして自らの与り知らぬところで行われたエル・アラメインで枢軸軍は敗北し、北アフリカ戦線は壊滅する事態となったのである。今までロンメルの独断専行な戦術についても、バスティコが補正をする形で作戦は成功していったが、エル・アラメインではその補正をする役割の人間がいなかったために失敗したとも受け取れるのだ。

既に命運が決まった北アフリカ戦線に未来はなかった。1943年が始まる頃には、北アフリカ戦線は四方八方から迫りくる連合軍によって、完全に崩壊していた。こうして、1943年1月23日には、リビアの首都トリポリが遂に陥落してしまった。これをもってして、イタリア領リビアは事実上壊滅したのである。バスティコ元帥はこれを受けて、1943年2月をもってリビア総督の職を解かれ、実権の無い「名誉リビア総督」という地位が与えられ、軍の指揮からも解かれてイタリアに帰国した。

1943年2月にイタリアに帰国したバスティコは、もはや軍務につくことはなかった。1943年9月の休戦以降、北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にも、南部の王国政府にも協力せず、ドイツのローマ侵攻後はローマの町に潜伏し、1944年6月のローマ解放の日まで隠れて過ごしていた(形式上は王国軍元帥のまま)。1945年、正式に予備役となり、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

戦後のバスティコは、かつてのように軍事史家として活動し、更に文芸活動にも積極的に参加した。1956年には国際軍装史学協会の責任者となり、この地位を1972年まで務めた(辞任の理由は老齢であったため)。博物館の創設や国際展示会の開催、そして研究活動で多くの功績を挙げた。1957年には時のイタリア大統領、ジョヴァンニ・グロンキからイタリア共和国功労勲章を与えられた。なお、グロンキはムッソリーニ政権初期に産業省次官を務めている。これは、彼が最後に叙勲された勲章だった。こうして96歳まで生きたバスティコは、1972年にこの世を去った。王族であるウンベルト2世を除けば、最も長生きしたイタリア軍の元帥だった。

◇映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』のバスティコ

演:マンリオ・ブゾーニ(Manlio Busoni)

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映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』のバスティコ

映画『砂漠の戦場エル・アラメン(原題:La battaglia di El Alamein)』では、北アフリカ戦線時のバスティコ将軍が登場する。作中冒頭ではバスティコとロンメルの作戦会議シーンがあり、この時、バスティコはドイツが石油を供給するという約束を守っていないので、イタリア主力艦隊が燃料不足で出撃出来ずに輸送船が英軍の攻撃でボコボコにやられていると言っているが、実際もそうであった。それに対して、ロンメルは「中東の油田さえとれば何とかなる」と反論しているが、結局この判断の誤りが後の大敗を生むことになる。このように、両者の対立もよく描かれている

『砂漠の戦場エル・アラメン』は所謂「マカロニ・コンバット」と呼ばれるイタリア戦争映画で、舞台設定は北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦い、そして主人公はこの戦いで武勲を挙げた空挺師団「フォルゴレ」の兵士たちである。この映画には、史実の将軍たちも多く出てくるイタリア軍だとバスティコ元帥、ドイツ軍ではロンメル元帥を始めとして、シュトゥンメ将軍、バイエルライン将軍、フォン・トーマ将軍、更にロンメルが一時帰国した際のシーンではカナリス提督も出てくる。英軍ではオーキンレック将軍とモントゴメリー将軍が出てくる。モントゴメリー将軍役の俳優はやたら似ている。将軍たちの人間ドラマも面白い。これも見どころの一つ。あと、実際に第二次世界大戦時に将軍だったジュゼッペ・カステッラーノ将軍が脇役で出演しているらしい。

 

◆ジュゼッペ・ダオディーチェ

(Giuseppe Daodice)

ダオディーチェ将軍はアフリカ植民地での戦いで武勲を挙げた将軍であるが、ファシストで熱心な王党派として知られていた。貴族出身であった彼は両親によって神学校に入らされたが、後にこれに嫌気がさして軍人への道を目指し、士官学校に入学した。騎兵中尉となったダオディーチェは伊土戦争に出征し、トリポリタニアキレナイカの戦いで武勲を挙げ、第一次世界大戦では重傷を負いながらも多くの戦果を得た。

ファシスト政権成立後、彼はファシズムに懐疑的であったが軍人としての道を続けた。しかし、政権に敵対的とみられ、ポルトガルブダペスト駐在武官として派遣されたが、これは事実上の左遷であった。その後、エチオピア戦争ではバドリオの副官として数々の戦いを指揮し、戦後はグラツィアーニ総督のもとで植民地を運営した。グラツィアーニの残虐な統治法とは対照的に、エリトリア知事としてインフラ建設など生活環境の向上に力を注ぎ、同植民地を発展させた。彼のもとで、首都アスマラは「ピッコラ・ローマ」と呼ばれる繁栄を見せている。

第二次世界大戦時は東アフリカ戦線でアディスアベバ知事を務め、帝都防衛の指揮をとったが、最終的に連合軍の攻撃によって戦線が不利になってくると、義理の兄であったフランジパーニ侯爵に後任を任せ、航空機で本国に召還された。帰国後、准将から少将に昇進したが、軍を退役して隠居している。また、上院議員にも選ばれた。ムッソリーニ失脚後、反ファシズムの意思を露わにしたダオディーチェであったが、休戦でドイツ軍がイタリア半島に流れ込んでくると、南部への避難を余儀なくされた。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のダオディーチェ大佐

演:ラフ・ヴァローネ(Raf Vallone)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のダオディーチェ大佐

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』にはディオデーチェ大佐(Diodiece)という人物が登場するが、名前的にも彼はダオディーチェ将軍の大佐時代がモデルと考えていいだろう。なお、Diodieceはイタリア語風に読むならば「ディオディエーチェ」になるが。リビア再征服において、リビア叛乱軍側のオマル・ムフタールらに対して同情的な人物として描かれており、「悪役」として描かれているイタリア軍の"良心"となっている。映画だとよくある人物だろう。

ただ、史実のダオディーチェ大佐は伊土戦争ではオスマン帝国軍相手にリビアで戦っているが、リビア再征服には参加していない。また、グラツィアーニの副官として植民地運営にかかわったが、それはエチオピアでのことである。おそらくは、ダオディーチェが反ファシストであり、植民地運営においても悪名高いグラツィアーニとは対照に、生活環境の改善に尽力したことから、その要素を入れた「イタリア軍の"良心"」としてディオデーチェ大佐が作られたと考えられる。

彼を演じるのはイタリアの名俳優として知られるラフ・ヴァローネ。なお、彼は俳優であるが戦前はプロサッカー選手として知られており、特に古豪トリノFCでエース選手として活躍した経験を持っていた。また、南部のトロペーア出身でありながら、戦時中は共産党系のパルチザンとしてナチ・ファシストと戦った人物でもある。

 

◆ラッファエーレ・カドルナ

(Raffaele Cadorna)

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ラッファエーレ・カドルナ (Raffaele Cadorna)

ラッファエーレ・カドルナ将軍は、高名な軍人一家カドルナ家に生まれた若き将軍である。祖父は1870年の教皇領ローマへの侵攻作戦を指揮したラッファエーレ・カドルナ将軍(名前が同じ)で、父は第一次世界大戦中盤までイタリア軍参謀総長を務めたルイージ・カドルナ将軍であった。そんな彼は第二次世界大戦時にはローマ防衛司令官を務め、ムッソリーニにも深く信頼される優秀な軍人であったが、休戦と同時に反ファシストであったことから地下に潜伏し、連合軍に公式に承認されたレジスタンス組織「CVL」の総司令官として、ナチ・ファシストとの闘いの総指揮をとった

軍人一家の出らしく、若くして騎兵となったラッファエーレ・カドルナの初陣は伊土戦争であった。リビアの前線で戦い抜いた彼は、第一次世界大戦時では参謀総長であった父ルイージの補佐官となる。ファシスト政権が成立すると、彼は明確に反ファシストであることを主張したために、ドイツやチェコ駐在武官として左遷させられる。エチオピア戦争に関しては反戦運動を展開し、ファシストと対決姿勢を示した

しかし、第二次世界大戦が開戦すると、優秀な戦略家であったことを買われ、反ファシストでありながらもフランス戦での指揮を任せられ出征し、その後ピネローロの騎兵学校の校長に任命されている。その後、首都ローマの防衛軍司令官も務め、再編された機甲師団「アリエテII」の師団長として同師団の指揮を執った。1943年の休戦でドイツ軍がイタリア半島に侵攻を開始すると、ラッファエーレ・カドルナは「アリエテII」師団を率いて抵抗するが、敗北。地下に潜伏し、レジスタンス運動を開始する。同師団副司令官であったフェヌッリ将軍も共に解放運動に参加したが、後に部下の裏切りでドイツ当局に逮捕され、アルデアティーネで殺害された。

ラッファエーレ・カドルナが組織化したレジスタンス「CVL」はボノーミ政府及び連合軍側の承認を受けて正式な解放軍となった。こうして、RSI政権支配下となっていた北イタリアに空挺降下したラッファエーレ・カドルナは、RSI政権の事実上の首都であったミラノに潜伏し、CVL本部を設置し、抵抗運動を本格化させた。CVLはナチ・ファシストへの攻撃作戦だけでなく、情報収集や諜報活動、他パルチザンへの支援、反ファシストプロパガンダ放送などを行っている。こうしてレジスタンス運動を組織化し、イタリアの解放に尽力したラッファエーレ・カドルナは戦後、イタリア共和国キリスト教民主主義上院議員となった。

◇映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のラッファエーレ・カドルナ

演:ジュゼッペ・アッドッバーティ(Giuseppe Addobbati)

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映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』のラッファエーレ・カドルナ

映画『ブラック・シャツ(原題:Mussolini ultimo atto)』では、CVL総司令官としてのラッファエーレ・カドルナが登場する。演じるのはジュゼッペ・アッドッバーティ口ひげを蓄えているが、実際のラッファエーレ・カドルナは口ひげはなく、そんなにハゲてもいないので雰囲気はだいぶ違うような気もする。作中では、ラッファエーレ・カドルナ率いるCVLと、ムッソリーニらRSI幹部の停戦交渉会談が行われる。

 

◆アントニオ・ガンディン

(Antonio Gandin)

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アントニオ・ガンディン (Antonio Gandin)

アントニオ・ガンディン将軍は、第二次世界大戦時のイタリア軍の将軍である。彼はドイツ語に堪能であったため伊独両軍間の連絡役として重要な人物であったが、特に彼の名が知られているのは休戦後の「チェファロニア島の虐殺」の被害者として知られている。「チェファロニア島の虐殺」とは、イタリア休戦後、旧同盟国であったナチス・ドイツはガンディン将軍と、彼が指揮する「アックイ」師団を虐殺し、計5千人を超える数の将兵が殺害された事件である。

ガンディン将軍は第二次世界大戦時、参謀本部付きの将官だった。ドイツ語に堪能であった彼は、カイテル元帥やヨードル将軍といったドイツ軍高官らとも親密な関係を築き、対立しがちだった独伊の将軍らの仲を取り持つ重要な存在として重宝され、東部戦線を始めとし、独伊の共同作戦の際は様々な戦場に派遣された

1943年6月、ガンディン将軍はギリシャのチェファロニア島に駐屯するイタリア軍の歩兵師団「アックイ」の師団長に任命された。チェファロニア島はギリシャ領であったが、イタリア軍の侵攻によって空挺部隊に制圧された島である。イタリアの休戦が発表されると、ドイツ語に堪能であったガンディン将軍は、チェファロニア島のイタリア軍武装解除を望むドイツ軍側と交渉を開始した。彼自身はドイツとの対立を避け、無益な血を流さずに問題を解決することを望んでいたが、部下らは武装解除を拒否し、交渉は失敗した。これを受けてドイツ軍は「アックイ」師団に猛烈な攻撃を加え、約5000人が殺害される事態となった。

不本意ながら旧同盟軍と戦うことになったガンディンであったが、ドイツ軍の猛攻を受けて一週間以上の抵抗も遂には力尽き、降伏した。伊軍側は連合軍側の支援に期待したが、連合軍が支援することは全くなく、絶望的な状況下で彼らは一方的に虐殺された降伏したガンディン将軍ら捕虜たちも処刑され、そのほかの捕虜も移送中に輸送船が連合軍機に撃沈され、約3000人が溺死してしまう悲劇となり、総計で約9000人近くが犠牲になる大惨事となってしまった。ガンディン将軍は処刑時、目隠しを付けることを拒否し、処刑の直前に「イタリア万歳!国王陛下万歳!(Viva l'Italia, viva il Re!)」と叫んだとされる。

◇映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』のガンディン将軍

演:ロベルト・チトラン(Roberto Citran)

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映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』のガンディン将軍

映画『コレリ大尉のマンドリン(原題:Captain Corelli's Mandolin)』は、まさに「チェファロニア島の虐殺」を描いた映画である。主人公であるアントニオ・コレリ大尉を演じるのがかのニコラス・ケイジ。その上司であるガンディン将軍を演じるのが、ロベルト・チトランである。先に言っておくと、チェファロニア島の虐殺を描いた作品はそこそこあるのだが、総じてガンディン将軍が似ていない。理由は知らないのだが、何故か髭が生えていたりして、似せる気が感じられないレヴェルである。

まぁそれはともかく、物語の大筋としては、イタリア軍ギリシャ侵攻によってチェファロニア島が制圧され、時間が経つにつれて、イタリア軍側と現地のギリシャ人住民らは親密になっていき、イタリアが休戦したことでチェファロニア島のイタリア兵たちは帰国の準備を進めるも、ドイツ軍の進撃を受けて旧同盟国との戦いをすることになり、虐殺される、という感じだ。

◇映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』のガンディン将軍

演:リッキー・トニャッツィ(Ricky Tognazzi)

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映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』のガンディン将軍

映画『愛と憎悪の日々(原題:I giorni dell'amore e dell'odio)』は『コレリ大尉のマンドリン』と同様に「チェファロニア島の虐殺」を扱った映画である。興味深いことに、公開年は『コレリ大尉のマンドリン』と同じ2001年。ガンディン将軍を演じるのはリッキー・トニャッツィで、実はこの人物、『コレリ大尉のマンドリン』でガンディン将軍役を演じたロベルト・チトランと共に仕事をすることが多い人物である。

まぁ、『コレリ大尉のマンドリン』と同様に全く似ていない。こちらも無精ひげを生やしているが、何故史実の人物にヒゲがないのにやたら生やしたがるのだろうか?『コレリ大尉のマンドリン』はイタリア映画ではないので、再現しなくても仕方ないのかもしれないが、こちらはイタリア映画だがこの再現度の低さである。

作品の大筋としては、主人公らはアルト・アディジェ出身のドイツ系イタリア人の兄弟である。アルト・アディジェは所謂「南チロル」で、第一次世界大戦でイタリアがオーストリアに勝利した後、イタリアに割譲された土地だ。そのため、ドイツ系住民が多く、彼らはイタリア人であるがドイツ語を話し、ドイツ民族としての民族認識を持っていた。兄弟は一人はドイツ軍に、一人はイタリア軍に入隊しており、チェファロニア島での混乱に巻き込まれることとなる。

 

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

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ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

ルイージ・カドルナ将軍は先述したラッファエーレ・カドルナ将軍の父であり、第一次世界大戦時中盤までイタリア軍参謀総長を務めた人物である。しかし、山岳地帯に籠るオーストリア軍を相手に単調な正面攻撃を繰り返し、数えきれない犠牲者を出しておきながらも勝利を手に入れることが出来ず、結局カポレットの大敗を受けて参謀総長を更迭された。彼の後任として、イタリア軍を勝利に導いたとして高く評価されるアルマンド・ディアズ将軍とは対照的に、彼は中盤までイタリア戦線の停滞をもたらし、数え切れない犠牲者を出した人物として無能扱いされるのが現在の評価である。

第一次世界大戦後、ファシスト政権によって、大戦の英雄アルマンド・ディアズ将軍と共に元帥に昇進するが、これは彼の面目を保つための政権の配慮である。その後も新造艦である軽巡洋艦の名前にはディアズ将軍と共に艦名が付けられ、更に死後も出身地のパッランツァにファシスト建築の豪奢な廟が作られている。

◇ドラマ『国境(原題:Il confine)』のルイージ・カドルナ

演:マッシモ・ポポリツィオ(Massimo Popolizio)

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ドラマ『国境(原題:Il confine)』のルイージ・カドルナ

ドラマ『国境(原題:Il confine)』は去年放送された歴史ドラマで、第一次世界大戦時のイタリア戦線を描いている。丁度2018年が第一次世界大戦終戦100周年だから、それにちなんだ作品なのだろうか。視聴率は16.3%。ルイージ・カドルナ将軍はマッシモ・ポポリツィオが演じている。マッシモ・ポポリツィオ氏というと、聞き覚えがある人もいるんではないだろうか?そう、日本で今年公開となった話題作、『帰ってきたムッソリーニ(原題:Sono Tornato)』でムッソリーニを演じている俳優だ。ポポリツィオが演じるカドルナ将軍はヒゲがあるからか、『帰ってきたムッソリーニ』のムッソリーニとは大きくイメージが変わる。

 

 ◆イタロ・バルボ(Italo Balbo)

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イタロ・バルボ(Italo Balbo)

バルボは、イタリア史上唯一の「空軍元帥(Maresciallo dell'aria)」であり、数々の空軍イヴェントを開催してイタリア空軍の威信を高めた「空軍の父」。そして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の筆頭格であり、ムッソリーニの後継者として見られながらも、両者が対立関係になると政治的なライヴァルの一人であるとも言われた人物である。

バルボはローマ進軍で重要な役割を果たし、ファシスト政権の成立に貢献したファシストであるが、空軍では現在も英雄として扱われ、ブラッチャーノの空軍博物館では彼の功績を讃えて大々的に展示されている。また、彼の大西洋横断飛行の出発地として知られ、数々の空軍イヴェントが開催されたオルベテッロには、彼の墓所や彼の指揮した空軍イヴェントを記念した公園もあり、現在も好意的に捉えられていることが多い。なお、空軍の近代化と、世界的にイタリア空軍の威信を広めたことでは高く評価されているものの、海軍の対立から逆に海軍の航空力の停滞をもたらす原因にもなったため、空軍関係者からの評価は高い一方で、海軍関係者からの評判は悪い。

僅か33歳の若さで空軍大臣となったバルボは、二度の地中海横断飛行と、二度の大西洋横断飛行を成功させ、欧州各国や新大陸でも評判の高い人物であった。そのため、アメリカではムッソリーニよりバルボの方が人気が高かったと言われ、彼が遠征空軍を率いて辿り着いたシカゴには、現在でも石碑が残っている(しかし、バルボを知る当時の世代が多く亡くなってしまった現在、「ファシスト」でために石碑を解体しようとする連中が増加しているとのこと)。これで知名度を上げたバルボの名は、第二次世界大戦が開戦するまで、各国の航空機編隊の「単位」として使われている(しかし、第二次世界大戦でイタリアが枢軸国側で参加したことにより、使われなくなった)。

この功績によって史上初の空軍元帥に昇進したバルボであったが、その絶大な人気はムッソリーニによって自らの権威を脅かすものとして見られ、事実上の左遷させんされることになる。リビア再征服によって平定され、新たにトリポリタニアキレナイカフェザーンの三地域を統合する形で誕生したリビア植民地」の初代総督として派遣された。こんな形でリビアに派遣されたバルボであったが、現地の開発に尽力し、リビアを「イタリアのアルジェリア」にすることを目指した

首都トリポリを始めとする数々の都市では大々的なファシズム建築が作られ、チュニジア国境からエジプト国境に至るまでの大動脈「ヴィア・バルビア」を始めとする自動車道路が整備され(ただ、対照的に鉄道の敷設は放置された)、入植者による新都市も沿岸部に多く作られ、そして植民地では自動車レースや国際見本市など様々なイヴェントが開催された。また、古代遺跡の整備と発掘、そしてそれを利用したオペラやショーも開催し、観光業も強化した。つまりは、リビアに追いやられたバルボであったが、今度は植民地で統治者としての名声を得たのである。

リビア総督となったバルボは明確にドイツとの枢軸路線を批判し、ムッソリーニを含む政府高官らを「ドイツ人の靴磨き」と非難している。彼はあくまで英仏との協調路線を主張し、これにはチャーノ外相やデ・ボーノ将軍、グランディ駐英大使といった賛同者もいたが、政府内では少数派であった。エチオピア戦争で傷ついたイタリア軍を再編させるためにも、スペイン内戦への介入に関しても反対的な意見を述べている。ユダヤ法案である「人種法」にも反対意見を示し、ナチズムへの接近に警笛を鳴らした

しかし、結局イタリアは第二次世界大戦においてドイツ側で参戦することとなった。バルボはリビア総督として北アフリカ戦線を指揮する立場にあり、英仏軍と戦わざるを得なくなった。バルボは英軍が高度に機械化されており、エジプトへの侵攻作戦は困難であるとローマの司令部に伝えたが、司令部はそれでもバルボにエジプト侵攻を命令した。だが、1940年6月28日、トブルク空港上空を飛行中であったバルボが乗るSM.79機が突如味方艦である巡洋艦「サン・ジョルジョ」から対空砲火を受け、続いて地上基地からも対空砲火を受けて撃墜され、バルボら乗組員は全員死亡してしまったのである。これは敵機だと誤認したとされているが、バルボの妻であるエマヌエーラは夫の死を政府の陰謀であると主張し続けた。

◇ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のバルボ

演:ロレンツォ・マイノーニ(Lorenzo Majnoni)

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ドラマ『エッダ(原題:Edda)』のバルボ

ドラマ『エッダ』では空軍大臣時代のバルボが登場。大西洋横断飛行で絶大な人気を得た彼に対して、逆にムッソリーニが冷遇している描写が描かれている。しかし、ロレンツォ・マイノーニ演じるバルボは...そんなに似ていない。何か違う感がある。おそらく、この時期のバルボにしてはやや痩せているからであろう。寧ろエミーリオ・デ・マルキ(Emilio De Marchi)演じるグランディの方が、史実のバルボに似ている。

◇ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』のバルボ

演:ジュリオ・ブロージ(Giulio Brogi)

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ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』のバルボ

ドラマ『体制の殺人 ―ドン・ミンツォーニ事件―(原題:Delitto di regime - Il caso Don Minzoni)』は、ドン・ミンツォーニという反ファシストの神父がファシストによって殺害された、ファシスト政権初期の事件をメインに描いている。このドラマでは、この事件にかかわったとされている若きバルボが描かれている貴重な若バルボ。この頃は結構痩せて髪型もボンバーな感じなので、結構似ている。

◇オペラ『空の騎士、イタロ・バルボ(原題:Italo Balbo, Cavaliere del Cielo)』のバルボ

演:エドアルド・シロス・ラビーニ(Edoardo Sylos Labini)

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オペラ『空の騎士、イタロ・バルボ(原題:Italo Balbo, Cavaliere del Cielo)』のバルボ

空軍が主催した周年イヴェントで開催された、世にも珍しいバルボを主人公とするオペラ。驚いたことに、バルボが出てくる作品の中でも最も再現度が高い彼の生涯を劇的に描いたオペラで、流石は空軍が主催しているというだけあって、バルボを肯定的に描いている。このオペラの作詞家であり、バルボを演じるラビーニ氏はイデオロギー的な偏見を廃して彼の「空の騎士」としての生涯を語っている。中々興味深い作品だ。

 

◆アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア

Duca d'Aosta, Amedeo di Savoia

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アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア

イタリア王家であるサヴォイア家の分家、サヴォイア=アオスタ家の当主「アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)」の称号を持つ人物戦間期には優秀な飛行家として知られ、また、第二次世界大戦時には東アフリカ戦線の総指揮を執ったことで知られるアオスタ公アメデーオ。東アフリカ戦線の敗北によって、捕虜となった彼はケニアの捕虜収容所の中で悲劇の病死を遂げた。「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」と呼ばれ、王族とは思えない自由奔放な性格で知られた人物でもある。

王家の一員でありながら、彼は士官学校時代の友人らに自分を「君(tu)」と呼ばせることを勧め、形式だった関係を崩して柔軟な関係を築いている。その親しみやすい間柄によって多くの人間関係を築いた第一次世界大戦が開戦すると、アメデーオは僅か16歳で騎兵連隊「ヴォロイレ」の一員として戦うことになった。アメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルト(第三軍司令官)は指揮官であるディ・ロレート将軍に対し、アメデーオを「特別扱いせず、他の人間と同じように」扱うことを求めた。第一次世界大戦を切り抜けたアメデーオは、武勲を挙げて最終的に中尉にまで昇進した。

第一次世界大戦が終わった後、アメデーオは叔父であるアブルッツィ侯ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタのアフリカ行きに付き従ったり、国王との些細な喧嘩からコンゴに「家出」して石鹸工場の労働者として働いたりと、王族とは思えない自由奔放な冒険を繰り返したコンゴの石鹸工場は当然環境が劣悪で、工場の労働者は海外からの出稼ぎ労働者や現地のコンゴ人たちであったが、見るからに育ちがよく、外国語を不自由なく話す長身の男(アメデーオ)が何故こんな場所に来たのか同僚のコンゴ人らは不思議に思ったという。

ファシスト政権成立後にイタリアに帰国したアメデーオは、かのアルトゥーロ・フェッラーリン(史上初の欧州-極東間飛行であるローマ-東京飛行を成功させた人物)の指導を受けて飛行士免許を所得した。飛行士としてのキャリアを開始したアメデーオは1929年に再びアフリカに戻った。今度は北アフリカリビアである。階級は大佐にまで昇進していた。アフリカに魅了された彼は再びアフリカの地に戻ったことに歓喜したという。当時、リビアではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団による大規模反乱が発生しており、グラツィアーニ将軍とバドリオ元帥が率いるイタリア軍はこれの徹底的な鎮圧を実行していた(リビア再征服)。リビアに渡ったアメデーオはグラツィアーニ将軍の指揮下に置かれ、キレナイカ戦線における航空偵察、そしてサヌーシー教団の軍勢への大胆な空爆を行って戦局に大きな影響を与えている。この輝かしい働きによって、アメデーオは銀勲章を叙勲された。

1931年に父エマヌエーレ・フィリベルトが死去すると、アオスタ侯の地位を受け継いで第三代アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)となった。その後、トリエステに駐屯する第23砲兵連隊の指揮をしたが、翌年1932年には遂に空軍に移籍した。今まで陸軍を離れられなかったのは、父エマヌエーレ・フィリベルトや王族の抵抗(王族は伝統的な陸軍に所属する事が好ましいと考えられたため)があったからだった。しかし、父の死を機にアメデーオは国王に空軍への移籍許可を迫り、国王はしぶしぶこれを了承したのであった。バルボ空軍元帥率いるイタリア空軍は、リビアで武勲を挙げた「空の貴公子」を歓迎した。アメデーオは堅苦しい陸軍の雰囲気から解放され、若く穏やかな空軍の環境に大変喜んだという。空軍に移籍した彼は空軍大佐の階級を得て、ゴリツィア基地の第21偵察航空団の司令官に任命された。1933年5月から翌年3月までは第四戦闘航空団の司令官を務め、空軍准将に昇進。

1937年12月末には、グラツィアーニの後任として、東アフリカ帝国副王に任命された。当時、東アフリカでは前任のグラツィアーニによる恐怖政治と武力による徹底的な弾圧が行われていたため、アメデーオはエチオピア統治に苦労することとなる。エチオピア人の抵抗に悩まされることとなるが、アメデーオは現地の大規模な開発を実行する。しかし、短い統治期間故に完了したものは少なかった。彼は第二次世界大戦時の東アフリカ戦線の崩壊まで東アフリカ帝国副王を務めた。
1940年にアメデーオは空軍大将に昇進する。これは事実上の空軍最高位であった(空軍元帥はイタロ・バルボ空軍大臣の名誉称号的なものだったため)。その後、同年6月にはイタリアが英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。この結果、アメデーオは東アフリカ戦線の総指揮を執ることとなる。東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機こそ多いものの、ヴィシンティーニ大尉を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットも多く、英空軍相手に善戦した。マエストリ大尉ら爆撃機部隊も英仏軍の要塞や、紅海の輸送船団攻撃で大きな戦果を挙げ、東アフリカ戦線の制空権はイタリア側にあった。

アメデーオ率いるイタリア軍は英領ソマリランドを完全制圧し、スーダン南東部及びケニア北部を制圧するなど緒戦は善戦していたが、次第に物資の欠乏に悩まされ(東アフリカ戦線は本国から遠く支援物資の補給が来なかった)年明けの1941年から英軍の反抗作戦によって東アフリカのイタリア軍は崩壊していった。更に連合国側の支援によって、東アフリカ領内でエチオピアレジスタンスによる激しい攻撃が起こり、外部からも内部からもイタリア軍は脅威に晒される事態となった。征服地は手放すことになり、更に東アフリカの主要都市も次々と陥落していった。遂には、帝都アディスアベバの東方アワシュ渓谷地帯で防戦していた師団も力尽き、英軍によってアディスアベバへの道のりが開かれたのである。
1941年4月3日、英軍に追い詰められたアディスアベバでは、アメデーオ侯と幕僚であるトレッツァーニ将軍らが作戦会議を開いていた。そこではアディスアベバを放棄して、アンバ・アラジの山岳地帯のトセッリ要塞での籠城戦をすることを決定し、同日の午後にはアメデーオ侯らイタリア軍主力はアディスアベバを出発し、アンバ・アラジに向かった。一方、アワシュ渓谷でのイタリア軍守備隊を破った英軍はアディスアベバに入場し、その後エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは帝都に帰還を果たした。トセッリ要塞に辿り着いたアメデーオ侯らは防衛陣地の構築を始めるが、その間も英軍は猛攻を続け、4月17日にはアディスアベバ北東のデシエが陥落している。英軍は次第にアンバ・アラジに迫りつつあった。アンバ・アラジの戦いは同日4月17日に始まった。英軍はアンバ・アラジを包囲し、アメデーオに無条件降伏を迫ったがアメデーオはこれを拒否し、徹底抗戦を決定した。戦闘は約1カ月間続き、イタリア軍は勇敢に英軍の猛攻に抗い続けたが、遂に水や弾薬も枯渇し、更に山岳の寒さが将兵を襲った
5月15日、遂にムッソリーニから降伏を許可する電報が届いたため、16日にアメデーオは英軍の勧告に応えて交渉を開始した。しかし、派遣されたボルピーニ将軍らイタリア軍代表は道中でエチオピアパルチザンに襲撃され、全員が殺害されるという思わぬ悲劇が発生した。このため、逆に英軍代表がアンバ・アラジに出向き、交渉を開始することとなった。その後、アメデーオらAOIイタリア軍主力部隊は降伏した。英軍の捕虜となったアメデーオはケニアに移送されたが、その地で熱病、チフスマラリアなどに侵され、闘病の末に1942年3月3日にナイロビの病院で結核のため死亡、同地の軍人墓地に葬られたのであった。こうして、「アンバ・アラジの英雄」と称された「鋼鉄侯」アメデーオはこの世を去ったのであった。

◇映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のアオスタ公アメデーオ

演:スカイ・ダモント(Sky du Mont)

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映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』のアオスタ公アメデーオ

映画『砂漠のライオン(原題:Lion of the Desert)』には、リビア再征服時のアメデーオが登場する。演じているのはスカイ・ダモント特徴的な細長い顔と高身長、見事なまでにアメデーオそっくりである圧倒的再現率リビア再征服時のアメデーオは航空隊の指揮及び自らパイロットとして、オマル・ムフタール率いるサヌーシー教団に対して空爆を実行している。作中でもクフラ爆撃を実行している。

主に、作中ではグラツィアーニの副官のように描かれている。ディオデーチェ大佐ほどではないにしろ、「イタリア軍の良心」として表現されており、グラツィアーニの行為を咎める場面も存在する。とはいえ、彼もムフタールらに対する空爆を実行しているため、何とも言えない人物だ。

 

ざっとこんな感じである。本当は史実の海軍の提督(将官)が登場している作品があればそちらも紹介したかったのだが、史実の海軍軍人が出てくる映画は、『狂った血の女(原題:Sanguepazzo)』のデチマ・マス司令(元潜水艦「シィレー」艦長)のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(演:Lorenzo Acquaviva)『大いなる希望(原題:La grande speranza)』の潜水艦「カッペリーニ」艦長のサルヴァトーレ・トダーロ少佐(演:Renato Baldini)、同じくトダーロ少佐(演:Paolo Conticini)が登場する『ラコニア号 知られざる戦火の奇跡(原題:The Sinking of the Laconia)』『アルファ、タウ!(原題:Alfa Tau!)』の潜水艦「トーティ」艦長のバンディーノ・バンディーニ少佐(演:Bruno Zelik)などであり、いずれにせよ、潜水艦の指揮官ばかりで佐官までであり、史実の将官まで登場する作品は今のところ未確認である。

映画『白い船(原題:La nave bianca)』はプンタ・スティーロ沖海戦を描いているため、作中にカンピオーニ提督役やブリヴォネージ提督役が出てきているのかもしれないが、人物及び役者の同定が出来ていないため、記していない。誰か史実のイタリア海軍の提督が出てくる映像作品を知っている方がいたら、是非教えてほしい。