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「シャヴェッリのスルタン」オロル・ディンレ ―ソマリ人有力者とエチオピア戦争―

エリトリアのハミド・イドリース・アワテのような現地有力者がイタリア当局に協力した例は、ソマリアにもあった。

それは、オロル・ディンレというソマリ人貴族であったが、彼の場合はハミド・イドリース・アワテのように「独立の父」にはなれなかった。

「シャヴェッリのスルタン」と呼ばれたオロル・ディンレは、かつてソマリア南部一帯を支配したアジュラン一族のスルタンであった。

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ソマリ人有力者、オロル・ディンレ

オロル・ディンレの一族であるアジュラン一族がかつて支配していた領域は、中世のソマリア南部の大部分を支配していた。高い軍事力を誇り、西の陸からのオロモ族の侵攻と、東の海からのポルトガルの侵攻を首尾よく撃退した。

沿岸部の交易ルートも確保しており、優れた通貨制度も持っていた。アジュラン帝国の貿易ネットワークは世界的にも先進的なもので、明代の中国にキリンをもたらしたのもソマリアであった。極東、中東、ヨーロッパ、アフリカの世界各地との貿易を行い、経済的に大きく繁栄した。この時代はソマリアの文化も黄金時代であり、軍事建築も多く造られていた。

しかし、17世紀頃になるとアジュラン一族による独裁体制に対する不満が高まっていき、ハウィエ氏族やゴブロン氏族といった諸氏族の台頭によって帝国は分裂、アジュラン一族によるソマリア統治は崩壊した。アジュラン一族はオガデン地方の地方氏族となり、オロル・ディンレの時代に繋がっていった。

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かつての「アジュラン帝国」の領域

エチオピア帝国の拡大で領地であったオガデン地方のケラフォが奪われた事で、オロル・ディンレはイタリアとの同盟を組んだ。第二次エチオピア戦争時はソマリアのアスカリ兵を率いてオガデン地方に侵攻した。ルイージ・フルーシィ大佐のイタリア軍と共にオガデン地方に侵攻したオロル・ディンレの軍勢は、エチオピア帝国側についた村々を徹底的に破壊、ゴバ市まで進軍した。しかし、エチオピア帝国が独立を取り戻すと、彼は帝国政府によって捕縛、1960年代にアディスアベバで処刑された。

一説にはオロル・ディンレは1978年にアディスアベバで処刑されたとされている。丁度この年はオガデン戦争が終結した年。この時点までオロル・ディンレが生きていたとするとかなり老齢である。しかし、オガデン戦争でのソマリア軍への協力行為を問われ、メンギスツ政権に処刑された可能性は高いだろう。

余談だが、ソマリアで約20年間独裁者として君臨したモハメド・シアド・バーレは、イタリア植民地時代に現地カラビニエリ部隊の「ザプティエー(Zaptié)」少尉にまで昇進している。イタリア軍エチオピア侵攻時にはグラツィアーニ元帥率いる南部方面軍の一員として戦った。「ザプティエー」とは、イタリア植民地の現地人の志願兵によって構成されたカラビニエリの部隊。つまりは、カラビニエリのアスカリ兵部隊だった。クルクダールの戦いで戦死したウナトゥ・エンディシャウ伍長を始め、武勲を挙げたザプティエーの兵士も多かった。

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ソマリ人ザプティエー兵の写真

「エリトリア独立の父」ハミド・イドリース・アワテとイタリアによる植民地支配

イタリア植民地の中で最も重要な役割を果たした東アフリカ。

ムッソリーニ率いるファシスト政権は東アフリカで何を行い、それは現在の東アフリカにどのような影響を齎したのか。これにはイタリア人施政者やその政策だけでなく、イタリアに協力した現地人有力者の存在も重要な役割を果たしている。

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エリトリア独立の父」ハミド・イドリース・アワテ

彼らの代表的な例として、「エリトリア独立の父」ハミド・イドリース・アワテがいる。彼は現在のエリトリア国エチオピアからの独立闘争を開始した人物として知られる人物だ。アワテは1960年に亡命先のカイロで他のエリトリア人同志と共に「エリトリア解放戦線」を結成し、翌年からエチオピア帝国への独立闘争を開始した。

彼が開始した独立闘争は海岸線を維持しようと意固地になったエチオピア側によって約30年間もの間続いた。この30年間の間にエチオピアでは帝政が崩壊し、デルグ体制に移行、そしてメンギスツ・ハイレ・マリアムのエチオピア人民民主共和国になった。メンギスツ体制が崩壊すると、エチオピア新体制によってエリトリアの独立が承認され、長きに渡る独立闘争は幕を閉じた。独立闘争を開始したアワテ自身は1962年に戦場での傷が理由で死亡しているが、彼は現在でも「エリトリア独立の父」として国民から広く敬愛されている人物である。独立達成後、1994年にイサイアス政権はアワテが埋葬されたハイコタの町に記念碑を建設している。

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ハイコタの町にあるアワテの記念碑

このハミド・イドリース・アワテは、イタリア植民地時代のエリトリアではエリトリア人アスカリ兵部隊の優秀な指揮官であり、エチオピア戦争(日本語では第二次エチオピア戦争と呼ばれる、ファシスト政権期のエチオピア侵攻。イタリアでは第一次エチオピア戦争はアビシニア戦争と呼ばれ区別される)で武勲を挙げた人物だった。アスカリ兵とは植民地の現地民で構成された兵科のことであり、現在では広く植民地現地兵として扱われるが、元々はイタリアのエリトリア人植民地兵を意味した。

アワテは語学に堪能であり、アラビア語やティグリニャ語、そしてエリトリア各地の現地語に堪能であった。短期間でイタリア語を完璧に習得し、エチオピア戦争後はローマのSIM(陸軍諜報部)に所属している。イタリアから帰国後は、第二次世界大戦開戦までエリトリア西部(スーダン国境)の指揮官だった。

第二次世界大戦ではルイージ・フルーシィ将軍と共にスーダン侵攻を指揮し、カッサラーを陥落させた後、カッサラーの市長となった。カッサラー市長時代は短かったが(1941年には英軍の反攻作戦で陥落するため)、アワテはスーダン南部のエリトリアとの政治的結合を宣伝し、ファシズムの象徴とも言える合理主義建築を造っている。カッサラーの町に小児科医院を建設し、医療環境の向上にも努めた。これはアワテの政治思想にイタリア・ファシズムの影響が十二分にあったことの現れとも言える。そしてアワテの思想は今日のエリトリアナショナリズムにも受け継がれている。

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アワテ時代に作られたカッサラーの小児科医院

また、エリトリアは1936年のイタリアによるエチオピア征服後、一時的に「大エリトリア」を実現している。これは具体的にはエリトリア領域にティグレ地方とアファール地方北部が組み込まれたのであり、アドゥアやメックエル、アクスムを含んでいた。ここでは1943年にエチオピア帝国に対する「ウォヤネの叛乱」が勃発するが、これはエリトリア領域に組み込まれた事が彼らのパトリオティズムハイレ・セラシエ帝への不満を高めたのかもしれない。また、現在も対立するエリトリアエチオピア両国の領土対立も発端はここにあると思われる。

2017年にアスマラファシスト政権期イタリアのモダニズム建築群はUNESCO世界遺産に登録された。エリトリアとイタリアは現在でも主要な貿易国でもある。ファシスト・イタリアはエリトリアに色んな意味で多くのものをもたらしたと言えるだろう。