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エチオピア帝国軍を率いた7人の将軍たち ―ኢትዮጵያ ታበፅዕ እደዊሃ ሃበ አግዚአብሐር―

エチオピア帝国軍の将軍たちについて色々調べてみたのでまとめてみた。エチオピア戦争時に帝国軍を率いてイタリア軍と戦った7人の将軍たちについてである。

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紹介する7人の帝国軍将軍

ここで紹介するのは、

◆北部戦線指揮官

ラス・ムルゲタ・イェガッズ将軍(陸軍大臣)

ラス・エムル・ハイレ・セラシエ将軍

ラス・カッサ・ダルゲ将軍

ラス・セユム・マンガッシャ将軍

デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ将軍

◆南部戦線指揮官

ラス・デスタ・ダムタウ将軍

デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル将軍

の7人をここで紹介する。

 

ラス・ムルゲタ・イェガッズ

(生年不明~1936年2月27日)

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ラス・ムルゲタ・イェガッズ将軍

アビシニア戦争時に将校として戦っている老将軍。

メネリク2世時代には財務相、女帝ザウディトゥ時代も財務相と外相を歴任。1926年以降陸軍大臣を務めており、反乱軍鎮圧でも活躍した。

エチオピア戦争時は陸軍大臣及びマハール・セファリ地域軍司令官。東京日日新聞の特別通信員としてアディスアベバに訪れた庄司勇之助と会見し、日本側に柔軟な姿勢を示しており、日本からのガスマスク購入を打診している(その後、エチオピアはドイツからガスマスクを大量輸入したため、実際に日本から輸入されたかは不明)。

しかし、外国人に依存するハイレ・セラシエ帝に苦言を呈する伝統主義者・守旧派であり、外国人義勇兵を嫌っていた。参謀長代理を務めたキューバ義勇兵アレハンドロ・デル・バジェが防衛線の維持を進言したが、彼はこれを無視。アンバ・アラダムの戦いにて、攻撃に固執して息子と共に戦死した。

 

ラス・エムル・ハイレ・セラシエ

(1892年11月23日~1980年8月15日)

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ラス・エムル・ハイレ・セラシエ将軍

皇帝ハイレ・セラシエの従弟で、幼馴染。皇室の一員。

ラス(地方豪族)の中でも特に重要な人物。

エチオピア侵攻時に優れた指揮でイタリア軍を苦しめた名将。アディスアベバ陥落直前に皇帝より副王に任命され、西部のゴレに成立した「エチオピア抵抗政府」の指導者としてレジスタンス組織の結集の象徴となった。抵抗組織「黒い獅子」を指揮して、ゲリラ戦で抵抗したが12月に伊軍の包囲を受け降伏、1943年に解放されるまでイタリアのポンツァ島収容所で過ごした。

解放後、帝冠評議会の一員となり、インド、アメリカ、ソ連の駐在エチオピア大使を務める。駐ソ大使の経験からか、思想が徐々に左傾化し、土地改革にリベラルな「赤いラス」として知られた。1960年のクーデターの際には首相として担がれ、80年に病死した際はデルグ政権によって国葬が催された。

 

ラス・カッサ・ダルゲ

(1881年8月7日~1956年11月16日)

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ラス・カッサ・ダルゲ将軍

ハイレ・セラシエ帝の又従兄で、皇帝に忠実な人物。

彼は軍人と言うよりも政治家であったが、北部戦線の指揮官として、ラス・エムルやラス・セユムと共に指揮。ロシア人義勇兵テオドロ・E・コノヴァロフを軍事顧問として重用し、テンビエンの戦いでも戦車を用いるイタリア軍相手に優れた指揮能力を発揮した。エチオピア敗北後、皇帝と共に亡命。4人の息子がいたが、その内3人はイタリア軍の占領に対するレジスタンス運動を指揮し、捕縛され処刑された。1941年、帝冠評議会の初代議長になった。

 

ラス・セユム・マンガッシャ

(1887年6月21日~1960年12月15日)

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ラス・セユム・マンガッシャ将軍

皇室の一員。北部のティグレ地方軍の指揮官を務め、クリスマス攻勢や二度に渡るテンビエン会戦で活躍。

エチオピア併合後、本国に残って抵抗したが伊軍に逮捕され家族と共に収容所に送られた。その後、アオスタ公アメデーオが彼らを手厚く扱ったため、友好関係を築いた。

その後、「自宅軟禁」としてアディスアベバで過ごす。エチオピア解放戦では「ギデオン軍団」の一員として軍勢を率いている。

 

デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ

(1907年~1985年)

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デジャズマチ・ハイレ・セラシエ・ググサ将軍

皇帝ヨハンネス4世の曽孫に当たり、ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(ゼネヴェウォルク皇女の婿)。皇室の一員。

ゼネヴェウォルクの埋葬地を決める際に皇帝と対立が生じ、それ以降両者は対立、皇帝は彼に「ラス」の称号を与えなかった。

エチオピア戦争時はメックエルの指揮官であったが、戦闘開始後数日でデ・ボーノ率いるイタリア軍に降伏。帝国軍を裏切って伊軍に協力し、イタリアによって「ラス」の称号を与えられ、「皇帝の息子の降伏」は伊軍側にプロパガンダとして使われた。エチオピア解放後、一時的に英軍によってティグレ知事に任命されたが、後にハイレ・セラシエ帝によってイタリアに協力した罪を問われ逮捕、禁固刑となった。

 

ラス・デスタ・ダムタウ

(1892年~1937年2月24日)

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ラス・デスタ・ダムタウ将軍

ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(テナグネウォルク皇女の婿)。皇室の一員。

エチオピア戦争時は南部戦線の指揮官。皇帝に忠実であり、エチオピア併合後も南部戦線で抵抗運動を指揮、イタリア軍を苦しめた。しかし、グラツィアーニ暗殺未遂事件直後にイタリア軍に逮捕され、絞首刑で処刑された。

 

デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル

(1893年~1936年10月16日)

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デジャズマチ・ナシブ・ザマヌエル将軍

フランス語やイタリア語に堪能で、元々は外交官として活躍した。

エチオピア戦争時は南部戦線を指揮。トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャを参謀長として重用し、軍の組織と防衛線「ヒンデンブルク防壁」構築に従事。この強固な要塞群と塹壕によって、南部戦線の伊軍指揮官グラツィアーニは苦戦した。

エチオピア併合後は皇帝と共に亡命するが、伊軍の使用した毒ガスの後遺症と結核で苦しみ、スイスで客死した。

 

以上である。人物の読み方は基本的に岡倉登志著『エチオピアの歴史』及び石田憲著『ファシストの戦争―世界史的文脈で読むエチオピア戦争―』を参照にしている。

HoIシリーズなのでエチオピアMODを作る時に役に立てばいいな~的な感じのまとめなので、「ここ違うよ!」って感じのがあったら指摘お願いします。

第二次世界大戦時のイタリア海軍の対潜水艦戦 ―潜水艦を狩れ!海の狩人、水雷艇戦隊!―

第二次世界大戦時のイタリア海軍は特段対潜装備に優れていたわけではない。しかし、イタリア海軍は主に地中海で多くの敵潜水艦を沈めているという事実がある。しかも、沈めた英潜水艦の数は枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)の中で最も多く、それに加え、王立イタリア海軍が事実上1940~43年の3年にも満たない期間しか活動をしてない、と考えるとかなりの戦果である(正直な話、休戦後に活動したRSI海軍は装備が貧弱で、当然ながら効果的な対潜戦などは出来なかったし、共同交戦側の王国海軍も支援任務ばかりであった)。

 

何故イタリア海軍が効果的に対潜戦で戦果を挙げたか、というと、地中海は外洋に比べて透明度が高く、潜水艦の運用が難しかったのが理由の一つなようだ。前の更新で「開戦時、イタリア海軍はソ連に次ぐ世界第二位の潜水艦保有量」と言ったが、イタリア海軍は潜水艦を強化し、それは多くの戦果を挙げた一方で、地中海という環境では運用が難しかったのである。イタリア海軍にとっては、対潜戦が優位な一方、潜水艦の運用は難しかった。これは、敵側の連合軍海軍でも同じ話であった。

英国海軍は元々潜水艦の保有量は少なかったが、開戦後、近距離哨戒用の潜水艦を大量生産し、地中海に送り込んだ。これらの潜水艦はイタリア船団の最大の脅威になった。そして、船団護衛と対潜戦が重視されるようになった。

 

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イタリア海軍参謀長アルトゥーロ・リッカルディ提督と、優れた対潜水艦戦の指揮官フェデリーコ・カルロ・マルティネンゴ提督とアルベルト・ダ・ザーラ提督。ダ・ザーラ提督は艦隊指揮官としてもパンテッレリーア沖海戦で多くの戦果を挙げた。

勿論、イタリア海軍が対潜戦で多くの戦果を挙げた理由はそれだけではないだろう。そもそも、イタリア海軍はレーダー研究が遅れていたことからもわかる通り、対潜ソナー研究も遅れを取っていた。つまりは、対潜装備が優れていたどころか、他の国に比べて劣っていたといえる。しかし、カヴァニャーリ提督の後任で海軍参謀長に就任したアルトゥーロ・リッカルディ提督は対潜水艦戦・船団護衛を重視し(とはいえ時期が遅かった)、フェデリーコ・カルロ・マルティネンゴ提督やアルベルト・ダ・ザーラ提督のような優れた対潜部隊の指揮官も多かった。

第一次世界大戦時にプレムダ海戦を始めとする数々の作戦で戦果を挙げたルイージ・リッツォ提督も、イタリア参戦後は現役に復帰し(戦間期において彼は予備役であった)、シチリア海峡で対潜戦の指揮を取っているのだ。

そう考えると、劣った装備を指揮と練度で補いながら、地中海と言う対潜戦に有利な地の利を生かして戦ったと言えるだろう。他にも要因はあるだろうが、如何せん疎いので、もしわかる方がいたら教えて欲しい。

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対潜戦の指揮を取ったルイージ・リッツォ海軍少将。第一次世界大戦時はMAS艇の艇長として、プレムダ海戦、ブッカーリ奇襲、トリエステ港攻撃など、多くの作戦を成功に導いた。

なお、プレムダ海戦とは第一次世界大戦時にプレムダ島沖にて発生した海戦で、リッツォ大尉率いるMAS艇がオーストリア=ハンガリーのテゲトフ級戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈した。この勝利は、リッサ海戦での雪辱を晴らすのに十分な戦果であり、偶然にも「スツェント・イストファン」は「テゲトフ」級であった(テゲトフはリッサ海戦を指揮したオーストリア側の提督の名前)。リッツォ大尉は他にも、ブッカーリ奇襲(MAS艇によるブッカーリ港の奇襲作戦)や、トリエステ港攻撃(MAS艇によるトリエステ港攻撃作戦で、海防戦艦「ウィーン」を撃沈、同型艦ブダペスト」を大破させた)といった数々の作戦を成功に導いた英雄であった。彼がプレムダ海戦で使用したMAS艇は、ローマのヴィットリアーノに保存されているので、ローマに行く機会があれば是非見に行って欲しい。写真資料も豊富だ。彼に関する展示は、ラ・スペツィアの海軍技術博物館にもある。

 

第二次世界大戦のイタリア海軍は水雷艇駆逐艦、MAS艇(駆潜艇)、機雷などで対潜戦を行った。特に、多くの戦果を挙げたのは主に水雷艇であった。中には、浮上航行中の敵潜水艦に対して、潜水艦が攻撃してこれを撃沈した例もいくつかあった。

ここでは主に水雷艇の戦果、それに加えて「潜水艦が潜水艦を撃沈した」という珍しい戦果を紹介しよう。

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イタリア海軍の水雷艇「チーニョ」

イタリア海軍は開戦時、73隻の水雷艇保有していた。スピカ級30隻、オルサ級4隻、ピーロ級7隻、シルトリ級4隻、ラ・マーサ級8隻、ジェネラーリ級6隻、パレストロ級4隻、それに旧式の「アウダーチェ」と「インシディオーゾ」であった。
それに加え、休戦までにチクローネ級水雷艇15隻(「アリセオ」「アニモーゾ」「アルデンテ」「アルディメントーゾ」「アルディート」「チクローネ」「フォルトゥナーレ」「ギブリ」「グロッポ」「インパヴィード」「インペトゥオーゾ」「インドミート」「モンソーネ」「ティフォーネ」「ウラガーノ」)及びアリエテ級水雷艇「アリエテ」、ガッビアーノ級コルベット29隻が竣工し、就役した。

水雷艇は船団護衛に欠かせない艦として、燃料不足で大型艦を思うように運用できないイタリア海軍はフル活用したが、多くの戦果を挙げる一方で、その分損失も多かった。これは駆逐艦も同様である。

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対潜水艦戦で最も戦果を挙げた水雷艇「チルチェ」

イタリア海軍の対潜水艦戦で最も戦果を挙げた艦艇は、スピカ級水雷艇の「チルチェ」であった。開戦から戦没までの間に、英潜水艦「テンペスト」「グランパス」「ユニオン」「P38」の計4隻の潜水艦を撃沈している。1942年に戦没し、パルマス艦長含む65人の船員は死亡した。生存者は駆逐艦「フォルゴーレ」によって救出されている。

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水雷艇「ペガソ」

オルサ級水雷艇「ペガソ」も対潜水艦戦で活躍し、船団護衛で活躍した。船団護衛中に遭遇した英潜水艦「ソーン」や「アップホルダー」などを撃沈している。

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チクローネ級の一隻、水雷艇「グロッポ」

戦時中に竣工したチクローネ級はオルサ級やスピカ級に比べて、船団護衛を重視した設計で、対潜装備も強化していた。チクローネ級は全てソナーを装備し、魚雷装備も同じであったが、その他の装備にはそれぞれバリエーションが豊かだった。
チクローネ級の就役は1942年夏~1943年春が殆どである。対潜装備を強化していたチクローネ級水雷艇は対潜戦で確かに戦果を挙げた。例えば、水雷艇「グロッポ」はシチリア沖で英潜水艦「アトモウスト」を撃沈し、水雷艇「フォルトゥナーレ」はカプリ島沖にて英潜水艦「P222」を爆雷で撃沈している。

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水雷艇「アンタレス

スピカ級水雷艇「アンタレス」は、当時ギリシャ海軍のトップ撃沈数を誇っていた潜水艦「プロテウス」を撃沈した武勲艦である。ギリシャ潜水艦「プロテウス」は、イタリア船団への襲撃を数多く行い、多くの輸送船を撃沈しており、イタリアは苦しめられていた。水雷艇「アンタレス」は主に船団護衛に従事し、海軍特殊部隊(FNS)のコルフ島上陸支援も行った艦であったが、船団護衛中にアルバニア・サセノ島沖にて「プロテウス」と遭遇、これを撃沈したのである。

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水雷艇「ジェネラーレ・アキッレ・パーパ」

興味深い戦果を挙げた艦としては、ジェネラーリ級水雷艇「ジェネラーレ・アキッレ・パーパ」が挙げられる。「ジェネラーレ・アキッレ・パーパ」は1922年に就役した旧式艦であったが、船団護衛で活躍した。ベンガジ沖で輸送船団攻撃任務のために輸送船を捜索していた潜水艦「カシャロット」と遭遇、これを体当たりで撃沈したのである。「ジェネラーレ・アキッレ・パーパ」は撃沈した「カシャロット」の生存者を救出し、無事に帰投した。休戦後は自沈したが、ドイツ海軍によって浮揚・修復され、「SG20」として再就役したものの、米軍機の攻撃で撃沈した。

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ガッビアーノ級コルベットの一隻、「ミネルヴァ」

ガッビアーノ級コルベット第二次世界大戦時のイタリア海軍唯一のコルベットで、船団護衛のための対潜戦を意識して作られた艦である。休戦までに29隻が建造され、1942~43年にかけて就役した。未完成のものはドイツ海軍に接収されている。ガッビアーノ級コルベットはソナーを始めとする対潜装備が優れていた。就役から休戦までの短い期間の間に対潜戦で活躍している。ネームシップの「ガッビアーノ」は同型艦の「エウテルペ」と共に英潜水艦「サーイブ」を撃沈し、「ミネルヴァ」は「エウテルペ」と共に英潜水艦「サラセン」を撃沈している。「チコーニャ」はメッシーナ海峡で潜水艦「サンダーボルト」の撃沈に成功した。なお、対潜戦果ではないが、「バイオネッタ」は休戦後にローマを脱出した国王一家とバドリオ政府首脳部をペスカーラからブリンディジまで無事に送り届けたことで知られている。

 

ここまでは、水雷艇コルベットの戦果を挙げてみたが、次は「潜水艦が潜水艦を撃沈した」珍しい例を紹介しよう。

 

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潜水艦「エンリコ・トーティ」

潜水艦同士の戦いで勝利を挙げたものとしては、イタリア海軍ではバリッラ級潜水艦「エンリコ・トーティ」が最も知られているだろう。映画『アルファ、タウ!』でも主役としてその戦いが描かれている。バンディーニ少佐の指揮のもと、英潜水艦「トライアド」と交戦、激しい砲撃戦の末に魚雷攻撃によってこれを撃沈したが、これは小型潜水艦を除けば、イタリア海軍で唯一の潜水艦による潜水艦撃沈の戦果である。

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ポケット潜水艦「CB-4」

潜水艦「エンリコ・トーティ」を除けば、イタリア海軍において「潜水艦が潜水艦を撃沈した戦果」はCB型ポケット潜水艦のみである。CB型ポケット潜水艦は、敵泊地攻撃用に設計された小型潜水艦である。対ソ戦開始後、イタリア海軍は『モカガッタ』戦隊の一員として、CB型ポケット潜水艦5隻を黒海に陸路で派遣した(ボスフォラス・ダーダネルス両海峡はトルコが中立であったため、大型艦は黒海に派遣出来なかった)。ポケット潜水艦「CB-2」はソ連潜水艦「S32」を、「CB-3」はソ連潜水艦「SHCH206」及び「SHCH208」の撃沈に成功し、また型式不明の敵潜水艦1隻も撃沈している。CB型ポケット潜水艦は敵泊地攻撃には使われなかったが、黒海ソ連海軍の潜水艦4隻を撃沈する戦果を挙げたのであった。

具体的にいくつかの例を挙げてみたが、いかがだったであろうか。イタリア海軍は、連合軍側の潜水艦に苦しみながらも、対潜水艦戦で多くの戦果を挙げたのである。繰り返すが、イタリア海軍はドイツや日本と比べて、実質的に活動期間が短い。しかし、これだけの戦果を挙げているのは快挙である。

逆に考えれば、イタリア海軍首脳部が戦間期に対潜ソナーなどの対潜装備の研究を進めていれば、更に戦果を挙げれた、ということになる(レーダー研究もそうだが、後の祭りである)。実に惜しい。

ここで紹介したのはあくまで一部である。他にもイタリア海軍による対潜水艦戦の戦果はまだまだあるので、気になった人は調べてみて欲しい。