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極北の空へ!東部戦線におけるイタリア空軍(1941-43) ―ロシアの空に派遣された南欧の飛行隊の活躍―

1941年6月22日未明、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を発動し、不可侵条約を破棄してソ連への侵攻を開始した。これを受けて、ドイツの盟邦であるイタリアも、6月22日午前5時にソ連に宣戦布告。伊ソ両国は交戦状態になった。イタリアの対ソ戦参加の理由は、第一に「ドイツとの連帯を100%実証する義務」、第二に「イタリアにおける反共主義」を掲げたのであった。ただ、本心のところ、ムッソリーニ統帥にとって対ソ戦開始は「寝耳に水(実際に就寝中にドイツからの知らせで叩き起こされた)」であり、チャーノ外相と共にドイツへの嫌悪感を募らせていたという。

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東部戦線のマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機

とはいえ、ムッソリーニ統帥は開幕した東部戦線にイタリア軍の派遣を決定した。これはファシズム陣営の目的とも言える、一種の「反共十字軍」の中心国になるというプロパガンダ的な目的もあった(当然、その中心にいたのは言う間でもなくドイツであり、イタリアではなかったが)。

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東部戦線でベルサリエリ部隊を閲兵するメッセ将軍。イタリア軍随一の名将と評価された人物であるが、実は貧しい南部の家庭出身で、一兵卒から伊軍最高位の元帥まで昇進したというリアルチートでもある。

陸軍はジョヴァンニ・メッセ将軍(当初はフランチェスコ・ジンガレス将軍が司令官を務めていたが、罹患して交代となった)率いるイタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)、海軍は黒海とラドガ湖にMAS艇やポケット潜水艦で構成された小艦隊が派遣された。空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ将軍は、陸軍の進軍を支援するために空軍の東部戦線への派遣を決定した。今回はそんな極北、ロシアの空に派遣された南欧イタリアの飛行隊の行動を見てみよう。

 

◆イタリア空軍、極北の空へ!

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第22戦闘航空群のシンボルマーク。カカシ。どことなくまどマギっぽいと思ったのは私だけだろうか?

プリーコロ将軍は第22戦闘航空群と第61偵察航空群の各編隊の参加を決定した。この二つの派遣航空群の指揮はカルロ・ドラーゴ大佐が執ることとなった。第22戦闘航空群は第359飛行隊、第362飛行隊、第369飛行隊、第371飛行隊で構成され、装備は51機のマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機だった。輸送機として2機のサヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"及び3機のカプロニ Ca.133"カプロナ"を使っていた。この戦闘航空群は8月12日にソ連国境のルーマニア・トゥドラ空港に到着している。

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マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。味方識別用に機首が黄色く塗られている。これはドイツ機の護衛にあたる際にソ連機に間違えられないためである。

この4日後、第61偵察航空群がトゥドラ空港に到着した。この偵察航空群は第34飛行隊、第119飛行隊、第128飛行隊で構成された。装備は32機のカプロニ Ca.311偵察爆撃機で、更に輸送機としてサヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"3機が使われた。更に、対空機銃部隊なども派遣された。これらを合わせて、当初東部戦線に派遣されたイタリア空軍部隊は約1900名の将兵で構成された。

 

◆ロシア派遣飛行隊、初の空戦と戦果

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ソ連空軍のI-16戦闘機とSB-2爆撃機

8月に展開したイタリア空軍部隊は、すぐに戦果を挙げた。8月27日、第22戦闘航空群のMC.200は初めてのソ連空軍との空戦を経験したが、ソ連空軍のI-16戦闘機2機とSB-2爆撃機6機を撃墜する戦果を挙げたのであった。この後もソ連空軍相手に戦果を挙げていき、第22戦闘航空群はジョヴァンニ・ボネ大尉、カルロ・ミアーニ大尉、ヴィットーリオ・ミングッツィ大尉といった数々のエースを生んでいった

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第22戦闘航空群に所属したエース、カルロ・ミアーニ大尉。休戦後はRSI空軍に合流し、第二戦闘航空群"ジジ・トレ・オセイ"の司令官を務めた。

そして、第22戦闘航空群と第61偵察航空群はイタリア陸軍の進軍と共にソ連の奥地へと進んでいった。両航空群は陸軍支援でも大きな貢献をしており、それにメッセ将軍の指揮能力もあり、イタリア軍ウクライナ東部の重要都市、スターリノ(現ドネツク)の占領に成功したのであった。MC.200はこの時点でI-15やI-16といったソ連戦闘機に対して、性能的に圧倒しており、多くの撃墜スコアを挙げた

 

◆ロシアの厳しい冬

しかし、11月に入るとソ連の大地には厳しい冬が訪れた。イタリア空軍部隊の装備は厳しいロシアの気候には適していなかったため、厳しい事態となった。それでも、12月末にはMC.200を1機撃墜されたが、ソ連機12機を撃墜する活躍を見せた。また、輸送機が孤立した陸軍部隊への補給作戦に従事している。しかし、冬の厳しさは空軍部隊に大きな制約を課し、翌年1月まで行動が困難になった。これは吹雪などの苛酷な気象条件、そして厳しい冬の寒さと同時に、滑走路への積雪と燃料不足が重なった結果であった。

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雪が積もるスターリノの空港。

再度イタリア空軍部隊が離陸可能になったのは年が明けて1942年2月4日であった。翌日の2月5日には第22戦闘航空群のMC.200がソ連機部隊と交戦し、無傷で少なくとも15機の爆撃機及び戦闘機を撃墜することに成功したのであった。ジェルマーノ・ラ・フェルラ大尉の第362飛行隊は、翌年春までに30機撃墜、13機の地上撃破を記録した。

 

◆戦線の拡大、イタリア第8軍の派遣

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新しく配備された新型機、マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。優秀な運動性能を誇る傑作機で、大戦中期のイタリア空軍の主力戦闘機である。

イタリア陸軍が進軍するにつれて、空軍が担当する箇所も拡大したが、たった1個の戦闘航空群ではこれを担当するには無理があった。そのため、陸軍の新部隊派遣と同時に、フージェ空軍参謀長(プリーコロ将軍の後任)は東部戦線のイタリア空軍部隊に対して新たな人員や機材、燃料などの輸送を決定した。

6月には、新設されたイタリア第8軍(イタロ・ガリボルディ将軍指揮)が増援として東部戦線に到着した。空軍も人員が交代され、今まで活躍した第22戦闘航空群は疲弊のため、本国に帰還となり、それを補う形で第21戦闘航空群が派遣された。この戦闘航空群は第356飛行隊、第382飛行隊、第361飛行隊、第386飛行隊の4飛行隊で構成され、装備は第22戦闘航空群同様にマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機だった。更に、新型機であるマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機12機も配備されている。

更に、第71偵察航空群も派遣された。これは第38飛行隊と第116飛行隊で構成された。第61偵察航空群と同様にカプロニ Ca.311偵察爆撃機を主装備としていたが、12機のフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機も配備された。新しく配備された部隊はドイツ軍のカフカス侵攻を支援することになったが、次第にソ連側も性能向上した新型機で反撃を開始し、苦戦するようになっていった。

 

◆戦局の悪化

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戦死したイタリア空軍パイロットの墓所

8月に入ると、スターリングラードを巡るドン川での戦いは加速化し、枢軸軍とソ連軍の間で激しい戦いが発生した。イタリア空軍は陸軍部隊を支援し、8月6日には第71偵察航空群のBR.20爆撃機部隊がドン川東岸のソ連軍陣地への最初の爆撃を実行した。

MC.200戦闘機やCa.311偵察爆撃機も爆弾を搭載し、連日ソ連軍陣地を爆撃し、陸軍部隊を支援した。これによって、ソ連軍の進軍を遅らせる事に成功したが、自軍側の損害も激しく、2カ月間の間に多くの機体が撃墜された。

9月に新たに12機のマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機が到着すると、第21戦闘航空群は少しだけ勢力を巻き返した10月中旬から11月中旬にかけて、MC.200、MC.202、BR.20の部隊はドン川東岸のソ連陣地及びソ連軍部隊に対する爆撃及び対地攻撃を実行し、陸軍部隊の近接航空支援に従事した

しかし、1942年にも再び厳しい冬がやってきた。こうなると寒冷な気候に弱いイタリア機は行動不能になった。そんな状況でも空軍部隊は積雪した草原から離陸をし、陸軍部隊の支援を続行したが、もはや無駄なことであった。マイナス50度以下の気温にイタリア空軍のパイロットたちは苦しみ、ソ連空軍はそれに対して数百機もの戦闘機を投入して殲滅していった。

 

◆ロシア派遣空軍部隊の終わり

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除雪された滑走路のマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機とドイツ機。

結局、1943年1月21日、イタリア空軍部隊は東部戦線から撤退することとなった。東部戦線に派遣されたイタリア空軍部隊は、1941年から1943年にかけて、総計して少なくとも88機のソ連機を撃墜することに成功したのであった(損失は19機)。イタリア機の運用に不向きと言える過酷な寒冷地での戦いであったが、伊空軍部隊は十分な戦果を挙げたのであった。

ソ連に派遣されたイタリア空軍部隊は、バトル・オブ・ブリテンに参加したCAI遠征空軍と異なり、成功したと言える。これはパイロットの技能は勿論、MC.200"サエッタ"の優れた性能によるところが大きい。東部戦線でのイタリア空軍の成功は、イタリア軍にとっての主戦場であった北アフリカ戦線と比較してもかなりのものであったと言えるだろう。

異色の経歴を持つ空軍将軍、リノ・コルソ・フージェ ―コルシカ出身のプロサッカー選手から空軍参謀長に―

1941年11月から1943年7月までイタリア空軍(Regia Aeronautica)の参謀長として、空軍の指揮をしたリノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍。彼は異色の経歴を持つ人物でもあった。フランス領であるコルシカ島(フランス語ではコルス島)出身であり、そして若い頃はプロサッカー選手として活躍をしていたという経歴をもっていたのである。私は以前から彼のこの異色の経歴に興味を持っていたが、調べられていなかったので、今回は最近空軍に興味を持ってきたのを機に、思い切って調べてみた。

なお、日本では何故か「リノ・コルソ・フォギエレ」という表記が見られるが、この表記は発音的にも間違いである。"Fougier"はイタリア語読みで読んでも「フォウジエル」なので、「フォギエレ」とは読まない。しかし、彼は所謂「フランス系」であるため、ここはフランス語読みの「フージェ」と読むのが適切であると思われる。

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リノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)

◆その出自とベルサリエリ士官としての活躍

リノ・コルソ・フージェは1894年11月14日、フランス領であったコルシカ島バスティアに生まれたバスティアコルシカ島北部の中心都市で、経済的な中心地でもあった。コルシカ島フランス皇帝ナポレオンの出身地として知られ、現在もフランス領であるが、かつては沿岸のリグーリア海岸を拠点としたジェノヴァ共和国支配下にあった。しかし、コルシカ島で発生した大規模な独立闘争に対して、ジェノヴァはこれを抑えきれず、ジェノヴァに代わって軍を派兵したフランスによってコルシカ島支配下に置かれることとなった。

そのため、文化的にも歴史的にもフランス本土とは大きく異なっており、言語的(コルシカ語)にはサルデーニャ方言に近く、文化的にもサルデーニャに近かった。また、イタリア統一直前まではイタリア語が広く使われていたという歴史もあり、文化的にリグーリアトスカーナの影響も強かった。このような経緯から、統一イタリア王国が成立した後は「未回収のイタリア」の一部に含められている。第二次世界大戦時にはイタリア軍が一時的にコルシカを占領下に置いているが、戦後はフランスに返還されている。なお、コルシカ(Corsica)はイタリア語読みで、フランス語読みはコルス(Corse)である。

そのため、コルシカ島はイタリアとの結びつきが強かった。しかも、リグーリアピエモンテはイタリアでもフランスの影響が強く、多くのフランス系イタリア人がいた。例えば、イタリア海軍唯一の元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督も元はトゥーロン発祥の貴族の家系であるし、日伊修好通商条約を結んだヴィットーリオ・アルミニョン提督も名前から分かる通りフランス系だった。もっと言ってしまえば、イタリア王家であるサヴォイア家も「フランス系」であるのは明らかだった。ここから考えると、フージェの家系もそういった「フランス系イタリア人」だったと考えられる。

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第一次世界大戦時のベルサリエリ兵。ヨーロッパオオライチョウの黒い羽根飾り(ピューメ)は同部隊のシンボルとして知られている。

フージェは1912年12月にイタリア本土の陸軍士官学校に入り、1914年2月にベルサリエリ中尉として自転車小隊の指揮を任された。当然、この時は独立した空軍は存在しないため、フージェは陸軍士官となったのである(そもそも、彼が空への憧れをいつ持ったかは不明であるが)。ベルサリエリイタリア軍特有の兵科であり、この頃は自転車部隊として偵察・連絡任務に従事する部隊であった(後に機械化され、第二次世界大戦時ではバイク部隊として知られる)。なお、このベルサリエリが使用していた自転車はかの有名なビアンキ社の自転車であった。

1915年、イタリア王国第一次世界大戦に参戦すると、フージェは第7ベルサリエリ連隊の指揮を取ることとなった。1915年6月23日、フージェはセルツ近郊の偵察任務に従事したが、地雷の爆発で負傷してしまう。しかし彼は負傷しながらも任務を続けて無事陣地に帰還したのであった。この功績によって銀勲章を叙勲されている。

余談ではあるが、後にイタリアの「統帥(ドゥーチェ)」となるベニート・ムッソリーニも、第一次世界大戦時はフージェと同じベルサリエリとして戦っている。

 

◆飛行士としてのデビュー、アルプスの大空へ!

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SAML S.1複葉偵察機。ドイツのアヴィアティックBI偵察機を参考にしてミラノのSAML社が開発した偵察機第一次世界大戦時にイタリア軍航空隊で使われたほか、後にパラグアイ空軍でも運用されている。

1916年6月29日、負傷によって前線から帰還したフージェは陸軍航空隊のパイロットとして志願し、トリノのヴェナリア宮殿でパイロットとしての訓練を行った。同年10月26日に飛行士免許を所得し、遂にパイロットとしての道を進んだのであった。イタリア陸軍航空隊のパイロットとなったフージェは、1917年3月6日に陸軍航空隊第113飛行隊に任命され、SAML S.1偵察機に乗り、戦地であるアルプス戦線に向かったのであった。

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1918年、北イタリアで英国の軍人と映る陸軍時代のフージェ大尉(右)。

1917年5月20日、バインジッツァ高地上空にて3機のオーストリア機と遭遇した。この中にはエースパイロットであるゴドウィン・フォン・ブルモヴスキの乗る機体も存在した。この空戦でフージェは負傷したが撃墜は免れ、基地に帰投した。これにより、二度目の銀勲章を叙勲された。これは、彼がパイロットとなってから初の勲章だった。その後、フージェは終戦までにいくつかの任務に参加し、3度目の銀勲章を叙勲している。終戦時は大尉だった。

 

カルチョ・パドヴァのプロサッカー選手

第一次世界大戦終戦によって、ひとまず欧州には平和が訪れた(とはいえ、イタリアは賠償も満足に得られず、国内では不満が高まり治安が悪化していたが)。戦後の復興には娯楽が必要不可欠である。イタリアにおける一番の娯楽は何か?勿論サッカー(イタリア語ではカルチョ)である。

フージェはヴェネト州の大学都市パドヴァを本拠地とする「カルチョ・パドヴァ」所属のプロサッカー選手となったカルチョ・パドヴァは1910年に設立されたチームで、数年後にはトップリーグに参戦、ヴェネト最強のチームとも称される強豪チームであった。当時のイタリアでは戦時中にサッカーチームは活動が禁止され、更に多くの優秀なサッカー選手が志願兵としてイタリア軍に従軍・戦死していた。

フージェが所属することとなったカルチョ・パドヴァも例外ではなく、1915年から1918年まで活動が禁止されており、主力アタッカーだったシルヴィオアッピアーが戦死していた。フージェがそれまでサッカー経験がどの程度あったのかは不明だが(当然ゼロではなかっただろうが)、彼が強豪チームのスタメンとなったのは、この辺の事情も絡んでそうである。とはいえ、フージェはサッカー選手としても優秀だった。

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1919-1920シーズンのカルチョ・パドヴァのメンバー。

フージェのプロサッカー選手としての初の試合デビューは1919年12月14日のパドヴァvsヴィチェンツァ(カルチョヴィチェンツァ)の試合だった。ディフェンダーとしてフージェはヴィチェンツァの攻撃からパドヴァを守り抜き、この試合は1-0でパドヴァの勝利に終わったのであった。

カルチョ・パドヴァは今日のセリエAとなるプリマ・カテゴリーア(1919-1920シーズン)のヴェネト予選では、

1919年10月12日:カルチョ・パドヴァvsエラス・ヴェローナ(7-0)→勝利

1919年10月19日:カルチョ・パドヴァvsウディネーゼ・カルチョ(1-1)→引き分け

1919年10月26日:カルチョ・パドヴァvsペトラルカ・パドヴァ(2-0)→勝利

1919年11月2日:カルチョ・パドヴァvsカルチョヴィチェンツァ(4-0)→勝利

1919年11月9日:カルチョ・パドヴァvsヴェネツィアFC(3-1)→勝利

1919年11月23日:カルチョ・パドヴァvsエラス・ヴェローナ(2-1)→勝利

1919年11月30日:カルチョ・パドヴァvsウディネーゼ・カルチョ(3-1)→勝利

1919年12月7日:カルチョ・パドヴァvsペトラルカ・パドヴァ(2-1)→勝利

1919年12月14日:カルチョ・パドヴァvsカルチョヴィチェンツァ(1-0)→勝利

1919年12月21日:カルチョ・パドヴァvsヴェネツィアFC(1-0)→勝利

という結果を示し、カルチョ・パドヴァは予選1位で突破したのであった。ウーディネとの最初の試合を除いて完勝である。こうして、ヴェネト州最強チームの座を手に入れたカルチョ・パドヴァは全国準決勝のグループBに進出した。しかし、ここではカルチョ・パドヴァユヴェントスを始めとするイタリア屈指の強豪チームの猛攻に敗れ、グループ最下位の6位だった。

 

◆軍への復帰、そして空軍の創設

1919-1920シーズンが終わると、フージェは早くもプロサッカー選手を引退してしまった。1921年4月には陸軍に復帰し、第三航空連隊の連隊長に任命された。1922年10月になると、国家ファシスト党がローマ進軍を行い、ベニート・ムッソリーニ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって組閣を命じられ、ムッソリーニ政権が誕生する。ムッソリーニの側近であり、ユダヤファシストだったアルド・フィンツィ第一次世界大戦で陸軍航空隊のパイロットだった。空軍次官に任命されたフィンツィは独立した空軍の設立に尽力し、これによって1923年3月に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併され、王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)が誕生したのであった。

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飛行士としてのアルド・フィンツィ。彼はユダヤ系の出自ゆえに後に「人種法」の施行によって失脚することになる。イタリア休戦後はその出自からレジスタンス運動に身を投じることとなるが、SSに逮捕されて「アルデアティーネの虐殺」で殺害された。

この独立空軍の設立は、世界から見てもかなり早い時期に行われたもので、イタリアが当時航空先進国であったことがよくわかる。空軍設立後、総司令官にはカラビニエリリッカルド・モイツォ大佐(大戦時に彼は航空隊の指揮官だった)が就任し、後に空軍参謀本部が設立されると、初代空軍参謀長には第一次世界大戦のエースパイロットであるピエル・ルッジェーロ・ピッチョ将軍が就任している。

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パイロット姿のフージェ大尉。

空軍設立により、フージェも空軍の所属となった。これによって、彼は空軍大尉の階級となる。フージェは「イタリア空軍の父」として知られるようになるイタロ・バルボ空軍大臣と親密な関係となった。彼との関係は今後重要な役割を果たすこととなった。1925年9月、フージェは少佐に昇進し、更に1927年7月、フージェは中佐に昇進した。そして、1928年6月、バルボ空軍大臣によってフージェは第一戦闘航空団の司令官に任命され、1931年4月には大佐に昇進している。

 

◆「イタリア曲芸飛行隊の父」

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現在のイタリア曲芸飛行隊「フレッチェトリコローリ」。

また、1930年にはフージェはカンポフォルミド空港にイタリア初の曲芸飛行学校を設立した同年6月8日には初めての曲芸練習がフィアットCR.20で実施され、この日は「翼の日(Giornata dell'Ala)」と名付けられた。こうしてイタリア初の曲芸飛行隊が設立されたわけであるが、これは後のイタリア空軍曲芸飛行隊「フレッチェトリコローリ」の源流となった。そう考えると、フージェは「フレッチェトリコローリの父」「イタリア曲芸飛行隊の父」と言えるのかもしれない

 

戦間期の戦歴、エチオピア戦争とスペイン内戦

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エチオピア上空のカプロニ Ca.101爆撃機。空軍の東アフリカへの派遣は、エチオピア戦争で大きな役割を果たした。しかし、チャーノによる赤十字への無差別爆撃など、問題も多かった。

1933年6月、フージェは第一戦闘航空団の司令官から、第三航空旅団の司令官となった。1934年3月まで同旅団の司令官を務めた後、同年4月にはリビア総督となったバルボ空軍元帥の要請により、1935年7月から1937年12月までトリポリに本部を置くリビア西航空司令部の司令官を務めた。フージェは1936年2月には空軍准将に昇進している。

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航空学校を訪問したフージェ将軍。

1935年10月、イタリア軍エチオピア帝国に対して侵攻を開始(エチオピア戦争)すると、フージェはリビア航空司令部の司令官として、東アフリカへの航空部隊の派遣を指揮した。イタリア空軍はエチオピア戦争で重要な役割を果たし、戦争の早期終結に一役買っているエチオピア戦争終結後、その後間もなくしてスペインにて内戦が勃発した。これに対して、ファシスト政権はフランコ将軍率いる国粋派を支援することを決定したため、フージェはスペインへの空軍派遣を指揮したスペイン内戦でも空軍は大きな戦果を挙げ、マリオ・ボンツァーノ大尉を始めとする多くのエースを生み出し、またここで経験を積んだパイロットは第二次世界大戦でも活躍している

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フォルリの航空学校でスピーチをするフージェ将軍。

 1937年12月にアフリカでの任務を終え、フージェはイタリアに帰国。帰国後、フージェは航空学校の校長になった。1938年8月から1939年9月までは中部イタリアを管轄する第三航空管区の司令官を務めている。1939年4月には空軍中将に昇進。イタリア参戦直前の1940年5月にはミラノに本部を置く第一航空管区の司令官となった。

 

 ◆大戦への参戦、バトル・オブ・ブリテンでの指揮

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バトル・オブ・ブリテンにおける独英伊空軍の主な指揮官。左からドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング、英空軍のヒュー・ダウディング、イタリア空軍のリノ・コルソ・フージェ。

1940年6月、イタリア王国は英国及びフランスに宣戦布告、第二次世界大戦に参戦した参戦時、フージェは第一航空管区の司令官だった。対フランス戦が開始すると、準備不足の陸軍はフランス軍の国境要塞に苦戦していたが、フージェ率いる第一航空管区の空軍部隊は積極的に活動し、特に爆撃機部隊はトゥーロンマルセイユといった南フランスの諸都市の爆撃で戦果を挙げた。

しかし、6月28日に北アフリカで悲劇が起こった。リビア総督であったイタロ・バルボ空軍元帥が味方による対空砲火によって誤撃墜され、戦死したのであった。バルボ空軍元帥の死はバルボの影響が強かった空軍に大きなショックを与えた。これはバルボと関係が深かったフージェにとっても例外では無かったであろう。

フランスが休戦すると、ドイツ空軍は英国本土への航空爆撃を強化、これに対して英空軍は迎撃を開始し、英国本土上空では両空軍による熾烈な航空戦が繰り広げられた(バトル・オブ・ブリテン)ムッソリーニ統帥はこれに対して、空軍部隊の派遣を命じた。フージェはこの遠征空軍の司令官に任命され、バトル・オブ・ブリテンでのイタリア空軍の総指揮を執ることとなった。1940年9月10月に「イタリア航空軍団(C.A.I.)」が創設され、この間、フージェは第一航空管区司令官としての任務を中断することとなり、ベルギーに派遣されたのであった。

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フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。CR.42は複葉戦闘機であったが、圧倒的に性能が勝る英軍機を相手に多数撃墜している。航続距離が長かったこともあり、大した戦果を挙げられなかった単葉機のG.50と異なり、英国本土上空で戦果を挙げた。

イタリア航空軍団(以後CAI遠征空軍と呼称)は約180機の戦闘機(フィアットCR.42"ファルコ"及びフィアットG.50"フレッチャ")・爆撃機(フィアットBR.20"チコーニャ")・偵察機(CANT Z.1007bis"アルチョーネ")・輸送機(カプロニ Ca.133"カプロナ")で構成されていた。イタリア空軍は地中海やアフリカ戦線における制空権維持を重要視したため、英国本土航空戦への派遣は望まなかったが、これは英国本土を直接叩くと言うプロパガンダ的な意味合いも大きかったため、ムッソリーニ統帥はバトル・オブ・ブリテンへの参加を望んだのであった。

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英国上空のフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機

しかし、これらの伊空軍機は性能的に英空軍機に対して劣り、更にバトル・オブ・ブリテンも終盤の終盤であったため、その任務は限られることとなる。しかし、第56戦闘航空団第20航空群司令官のマリオ・ボンツァーノ少佐はスペイン内戦でのエースパイロットとして武勲を挙げた人物で、そして「未来のエース」であるフリオ・ニクロ・ドッリオ大尉ジュゼッペ・ルッツィン曹長といった優秀なパイロットが多いのもまた事実であった

9月22日、ベルギーへの航空機の空輸が始まり、CAI遠征空軍はベルギーの基地に集結した。ただ、CAI遠征空軍の司令官となったフージェにとっても、イタリア機の稼働率の悪さや無線搭載の少なさは問題だった。こうした問題を抱えつつも、フージェはイタリア空軍による英国本土への爆撃作戦を開始したのであった。初任務は10月24日のハリッジ及びフェリックストーへの夜間爆撃だった。

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ロンドン・RAF博物館のフィアットCR.42"ファルコ"戦闘機。バトル・オブ・ブリテンで英空軍機に撃墜されたピエトロ・サルヴァドーリ軍曹機である。私がRAF博物館を訪れた時は整備中で翼が外されていた。残念。

BR.20"チコーニャ"爆撃機の護衛を行った単葉戦闘機G.50"フレッチャ"と複葉戦闘機CR.42"ファルコ"であったが、G.50は航続距離が450kmしかなかったため、殆ど戦果を挙げられていないが、「世界最後の複葉戦闘機」CR.42はその高い運動性能を発揮し、ジュゼッペ・ルッツィン曹長を始めとする優秀な複葉機パイロットが英空軍のハリケーン戦闘機やスピットファイア戦闘機を相手に二度の空戦で9機(一説には15機とも)を撃墜する戦果を挙げている。BR.20の爆撃機部隊は貧弱な武装のせいで多くの損害を被り、その戦果は少なかったが、それでもディールの英海軍基地などを爆撃し、それなりの戦果を挙げる事に成功した。

1941年1月3日、フージェはCAI遠征空軍の作戦を終了し、機材と兵員をイタリアに戻し、一部の戦闘機部隊は北アフリカ戦線に移動させた。また少数のG.50は春までドイツ空軍所属でフランス沿岸の哨戒飛行に従事している。その後、フージェは6月にイタリアに帰国した。フージェ率いるCAI遠征空軍は参戦時期の遅さと劣った性能故に大きな戦果を挙げられなかったが、CR.42の高い空戦性能の証明と、英国本土を直接爆撃するというプロパガンダ的な目的は果たされたと言えるだろう。

 

◆空軍参謀長への就任

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フランチェスコ・プリーコロ空軍参謀長。第二次世界大戦初期のイタリア空軍を指揮した。

この頃、イタリア空軍は北アフリカや地中海での苦戦によって、苦境に陥っていた。空軍参謀長であったフランチェスコ・プリーコロ将軍ピエトロ・バドリオ参謀総長の後任として就任したウーゴ・カヴァッレーロ参謀総長によって、イタリア空軍の航空作戦の失敗の責任を問いただされていた。更に、プリーコロ空軍参謀長は新型機であるマッキMC.202"フォルゴレ"の北アフリカ戦線の空軍部隊への導入に対して、まだパイロットによる新型機の訓練が十分でないことと、砂防フィルターの搭載が不十分であることを理由に遅らせることを要請していたが、これはムッソリーニ統帥によるプリーコロ将軍解任の動機となった。プリーコロ将軍は「新型機の輸送を遅らせた」と非難され、空軍参謀長としての地位を追われてしまった。

1940年11月15日、フージェはプリーコロ将軍の後任として白羽の矢が立ち、空軍参謀長に任命されたのであった。その後、フージェはイタリア空軍の総指揮を1943年7月のムッソリーニ失脚まで執ることとなる。フージェ率いるイタリア空軍はその後挽回を図り、ドイツがソ連への侵攻を開始すると、ムッソリーニ統帥による遠征軍派遣の命令に呼応し、フージェも8月に遠征空軍を派遣した。イタリア機は寒冷なロシアの気候に適応していなかったが、ソ連機相手にイタリア空軍は多くの戦果を挙げている。

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セコンド・カンピーニ技師が設計、カプロニ社が開発したジェット機「カプロニ・カンピーニN.1」。世界で初めて飛行したジェット機として宣伝されたが、実は1年前に秘密裏にドイツがジェット機の飛行を成功させていたため、チャンスを掴み損ねてしまった。ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館に現存。

1941年12月8日、日本海軍はハワイのパールハーバーを攻撃(真珠湾攻撃)し、第二次世界大戦に日本とアメリカが参戦した。その日、フージェはムッソリーニ統帥と共にジェット機カプロニ・カンピーニN.1のテスト飛行に立ち会っていた。丁度その時に日本から真珠湾攻撃の知らせが届いたが、ムッソリーニ統帥はそれを聞いて熱狂して喜んだという(ドイツによるソ連攻撃時の反応とは真逆で興味深い)。

フージェは空軍参謀長として、英軍の最新鋭機に対抗するべく、新型機の開発と導入を急がせた。しかし、イタリアの低い工業生産力ではそれもほぼ不可能であった。結局、一度は空軍で不採用となった航空機を採用し、使える航空機を搔き集めたが既に遅く、満足な数を揃える事は出来なかった。過去の記事で指摘したように、イタリアは低い工業生産力であるにもかかわらず、大小多くの航空企業が乱立したため、極めて非効率的であり、全体の生産量も低かった。とはいえ、フィアット社のG.55"チェンタウロ"戦闘機、アエルマッキ社のMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機、レッジアーネ社のRe.2005"サジッタリオ"戦闘機、ピアッジオ社のP.108四発爆撃機、CANT社のZ.1018"レオーネ"双発爆撃機といった連合軍機に匹敵する優秀な新型機を開発する事に成功した。しかし、これらの新型機は多くは導入時期が遅かった。

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フージェ空軍参謀長とムッソリーニ統帥。

しかし、イタリア空軍も負けっぱなしだったわけではない。新型機の導入が遅れても、フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機やサヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機/雷撃機といった戦前に開発された機体は現役であり続け、前線で戦い続けた。特にSM.79は雷撃機として休戦後もRSI(イタリア社会共和国)空軍で使われ続け、多くの戦果を挙げている。1942年6月、マルタ島を巡る地中海での大規模海空戦においても、イタリア空軍の雷撃機部隊や急降下爆撃機部隊は英海軍艦艇を多数撃沈しており、海軍艦隊と共に多くの戦果を挙げる事に成功したのである。その後の8月の大規模海空戦でも空軍は海軍と共に多くの戦果を挙げている。また、1941年夏季にはSM.82"カングーロ"爆撃機、1942年夏から秋にかけてはP.108四発爆撃機によって連続してジブラルタルへの爆撃を実行し、連合軍に対して多くの打撃を与えている

 

◆戦局の悪化、ファシスト政権の崩壊、そして解任

1942年10月、フージェは空軍大将に昇進した。しかし、イタリアの戦況は空軍に限らず日に日に悪化していったのである一番の悩みの種は燃料の不足であったドイツは燃料の補給を約束していたが、第二次世界大戦中、それは一切果たされなかった。この同盟国による約束の反故に対して、ムッソリーニも激怒し、「"ドイツ人の約束"とは、約祖を守らないことを意味する」とまで発言していた。イタリアは開戦前から燃料不足に悩まされていたが、遂に1942年も終盤になってくると、燃料が枯渇し、空軍は出撃回数を減らさざるを得なくなった。海軍に至っては主力艦隊の出動が不可能なところまで追い込まれ、仕方なく潜水艦や水雷艇といった小型艦のみの作戦しか行えなくなっていった。これは防衛においても致命的だった。

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左の人物がアンブロージオ将軍。1943年に統合参謀総長に就任したが、実は裏では副官のカステッラーノ将軍と共にムッソリーニ逮捕(クーデタ)計画と休戦工作を進めていた。

東部戦線と北アフリカ戦線での敗北が明確になると、ムッソリーニ統帥は軍上層部や政府閣僚の交代を行った。カヴァッレーロ元帥は参謀総長を解任され、後任の参謀総長ユーゴスラヴィア侵攻を指揮したヴィットーリオ・アンブロージオ将軍が就任した。最早枢軸国に勝利の可能性は薄かった。フージェは東部戦線からの空軍の撤退を決定し、更に北アフリカの失陥によってイタリア空軍は更に追い詰められた

1943年6月12日、空軍の重要な基地が置かれ、そして「ムッソリーニマルタ島」と呼ばれた要塞島、パンテッレリーア島が陥落した。その後、間もなく同じく要塞化されたランペドゥーザ島も陥落し、連合軍はイタリア半島に迫ってきた。ミンスミート作戦によって、ドイツ軍が欺瞞作戦に騙されてイタリア参謀本部と意見を対立させると、連合軍はシチリアに上陸を開始した。連合軍機はイタリアの主要都市に対しても連日爆撃を行ったため、フージェは連合軍の迎撃を指揮した。イタリア空軍機は連合軍機の迎撃に当たり、戦果を挙げていった。しかし、ルッキーニを始めとする優秀なパイロットも多く失っている。

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爆撃されたローマ。ヴァチカンのおひざ元であり、また多くの古代遺跡や教会建築が存在する「永遠の都」への攻撃は大きなショックをもたらした。第二次世界大戦中、ローマのみならず、ナポリヴェネツィアジェノヴァなどといった名だたる歴史的な都市も連合軍の空爆対象となり、被害を受けた。

1943年7月19日、イタリアの首都である「永遠の都」ローマは、歴史上はじめての空襲を受けたムッソリーニ自身、ローマは空襲を受けないと高を括っており、ヴァチカンの存在は「比類なき高射砲」であると信じていた。また、ルーズベルト米大統領カトリック関係者にローマは爆撃しないと保証していたという。

しかし、ローマは爆撃された。3時間にも及ぶ空襲で1000人以上の死傷者が出たうえに、市内の数カ所の地区は完全に破壊されてしまった。これはフージェ率いる空軍首脳部にとっても哨戒の甘さを晒すこととなってしまったのである。

1943年7月24日夜に開かれたファシズム大評議会によって、下院議長ディーノ・グランディによるムッソリーニ解任動議が発生、賛成多数でムッソリーニの統帥解任が決まった。翌日、ムッソリーニは国王に謁見のため王宮に向かったが、王宮を出た際に待ち構えていたカラビニエリによって逮捕され、連行された。こうして、ムッソリーニは失脚し、長きに渡って続いたファシスト政権は「一時的に」崩壊したのであった。「一時的に」と表現したのは、この後形式上はファシスト政権の後継政権であるRSI政権が成立するためである。

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ムッソリーニ失脚直前のローマにて。左がMVSN長官エンツォ・エミーリオ・ガルビアーティ、中央がフージェ空軍参謀長で、フージェの右後ろにいる人物がアンブロージオ参謀総長。一番右はアルド・ヴィドゥッシオーニ党書記長である。

ムッソリーニの失脚後、バドリオ内閣が誕生すると7月27日をもってフージェも空軍参謀長の地位から解任された。後任の空軍参謀長にはレナート・サンダッリ将軍が任命された。解任後、フージェは空軍を退役し、休戦後もRSI空軍や共同交戦空軍に参加する事は無かったそうしてひっそりと暮らした彼は1963年にローマにてこの世を去った

 

異色の経歴を持つ空軍将軍の一生はこうして終わった。元強豪チームのプロサッカー選手で参謀長にまで上り詰めたという異色の経歴は、一兵卒から参謀総長に上り詰めたジョヴァンニ・メッセ将軍と並んで興味深い経歴と言えるかもしれない。