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極北の空へ!東部戦線におけるイタリア空軍(1941-43) ―ロシアの空に派遣された南欧の飛行隊の活躍―

1941年6月22日未明、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を発動し、不可侵条約を破棄してソ連への侵攻を開始した。これを受けて、ドイツの盟邦であるイタリアも、6月22日午前5時にソ連に宣戦布告。伊ソ両国は交戦状態になった。イタリアの対ソ戦参加の理由は、第一に「ドイツとの連帯を100%実証する義務」、第二に「イタリアにおける反共主義」を掲げたのであった。ただ、本心のところ、ムッソリーニ統帥にとって対ソ戦開始は「寝耳に水(実際に就寝中にドイツからの知らせで叩き起こされた)」であり、チャーノ外相と共にドイツへの嫌悪感を募らせていたという。

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東部戦線のマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機

とはいえ、ムッソリーニ統帥は開幕した東部戦線にイタリア軍の派遣を決定した。これはファシズム陣営の目的とも言える、一種の「反共十字軍」の中心国になるというプロパガンダ的な目的もあった(当然、その中心にいたのは言う間でもなくドイツであり、イタリアではなかったが)。

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東部戦線でベルサリエリ部隊を閲兵するメッセ将軍。イタリア軍随一の名将と評価された人物であるが、実は貧しい南部の家庭出身で、一兵卒から伊軍最高位の元帥まで昇進したというリアルチートでもある。

陸軍はジョヴァンニ・メッセ将軍(当初はフランチェスコ・ジンガレス将軍が司令官を務めていたが、罹患して交代となった)率いるイタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)、海軍は黒海とラドガ湖にMAS艇やポケット潜水艦で構成された小艦隊が派遣された。空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ将軍は、陸軍の進軍を支援するために空軍の東部戦線への派遣を決定した。今回はそんな極北、ロシアの空に派遣された南欧イタリアの飛行隊の行動を見てみよう。

 

◆イタリア空軍、極北の空へ!

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第22戦闘航空群のシンボルマーク。カカシ。どことなくまどマギっぽいと思ったのは私だけだろうか?

プリーコロ将軍は第22戦闘航空群と第61偵察航空群の各編隊の参加を決定した。この二つの派遣航空群の指揮はカルロ・ドラーゴ大佐が執ることとなった。第22戦闘航空群は第359飛行隊、第362飛行隊、第369飛行隊、第371飛行隊で構成され、装備は51機のマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機だった。輸送機として2機のサヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"及び3機のカプロニ Ca.133"カプロナ"を使っていた。この戦闘航空群は8月12日にソ連国境のルーマニア・トゥドラ空港に到着している。

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マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。味方識別用に機首が黄色く塗られている。これはドイツ機の護衛にあたる際にソ連機に間違えられないためである。

この4日後、第61偵察航空群がトゥドラ空港に到着した。この偵察航空群は第34飛行隊、第119飛行隊、第128飛行隊で構成された。装備は32機のカプロニ Ca.311偵察爆撃機で、更に輸送機としてサヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"3機が使われた。更に、対空機銃部隊なども派遣された。これらを合わせて、当初東部戦線に派遣されたイタリア空軍部隊は約1900名の将兵で構成された。

 

◆ロシア派遣飛行隊、初の空戦と戦果

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ソ連空軍のI-16戦闘機とSB-2爆撃機

8月に展開したイタリア空軍部隊は、すぐに戦果を挙げた。8月27日、第22戦闘航空群のMC.200は初めてのソ連空軍との空戦を経験したが、ソ連空軍のI-16戦闘機2機とSB-2爆撃機6機を撃墜する戦果を挙げたのであった。この後もソ連空軍相手に戦果を挙げていき、第22戦闘航空群はジョヴァンニ・ボネ大尉、カルロ・ミアーニ大尉、ヴィットーリオ・ミングッツィ大尉といった数々のエースを生んでいった

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第22戦闘航空群に所属したエース、カルロ・ミアーニ大尉。休戦後はRSI空軍に合流し、第二戦闘航空群"ジジ・トレ・オセイ"の司令官を務めた。

そして、第22戦闘航空群と第61偵察航空群はイタリア陸軍の進軍と共にソ連の奥地へと進んでいった。両航空群は陸軍支援でも大きな貢献をしており、それにメッセ将軍の指揮能力もあり、イタリア軍ウクライナ東部の重要都市、スターリノ(現ドネツク)の占領に成功したのであった。MC.200はこの時点でI-15やI-16といったソ連戦闘機に対して、性能的に圧倒しており、多くの撃墜スコアを挙げた

 

◆ロシアの厳しい冬

しかし、11月に入るとソ連の大地には厳しい冬が訪れた。イタリア空軍部隊の装備は厳しいロシアの気候には適していなかったため、厳しい事態となった。それでも、12月末にはMC.200を1機撃墜されたが、ソ連機12機を撃墜する活躍を見せた。また、輸送機が孤立した陸軍部隊への補給作戦に従事している。しかし、冬の厳しさは空軍部隊に大きな制約を課し、翌年1月まで行動が困難になった。これは吹雪などの苛酷な気象条件、そして厳しい冬の寒さと同時に、滑走路への積雪と燃料不足が重なった結果であった。

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雪が積もるスターリノの空港。

再度イタリア空軍部隊が離陸可能になったのは年が明けて1942年2月4日であった。翌日の2月5日には第22戦闘航空群のMC.200がソ連機部隊と交戦し、無傷で少なくとも15機の爆撃機及び戦闘機を撃墜することに成功したのであった。ジェルマーノ・ラ・フェルラ大尉の第362飛行隊は、翌年春までに30機撃墜、13機の地上撃破を記録した。

 

◆戦線の拡大、イタリア第8軍の派遣

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新しく配備された新型機、マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。優秀な運動性能を誇る傑作機で、大戦中期のイタリア空軍の主力戦闘機である。

イタリア陸軍が進軍するにつれて、空軍が担当する箇所も拡大したが、たった1個の戦闘航空群ではこれを担当するには無理があった。そのため、陸軍の新部隊派遣と同時に、フージェ空軍参謀長(プリーコロ将軍の後任)は東部戦線のイタリア空軍部隊に対して新たな人員や機材、燃料などの輸送を決定した。

6月には、新設されたイタリア第8軍(イタロ・ガリボルディ将軍指揮)が増援として東部戦線に到着した。空軍も人員が交代され、今まで活躍した第22戦闘航空群は疲弊のため、本国に帰還となり、それを補う形で第21戦闘航空群が派遣された。この戦闘航空群は第356飛行隊、第382飛行隊、第361飛行隊、第386飛行隊の4飛行隊で構成され、装備は第22戦闘航空群同様にマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機だった。更に、新型機であるマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機12機も配備されている。

更に、第71偵察航空群も派遣された。これは第38飛行隊と第116飛行隊で構成された。第61偵察航空群と同様にカプロニ Ca.311偵察爆撃機を主装備としていたが、12機のフィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機も配備された。新しく配備された部隊はドイツ軍のカフカス侵攻を支援することになったが、次第にソ連側も性能向上した新型機で反撃を開始し、苦戦するようになっていった。

 

◆戦局の悪化

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戦死したイタリア空軍パイロットの墓所

8月に入ると、スターリングラードを巡るドン川での戦いは加速化し、枢軸軍とソ連軍の間で激しい戦いが発生した。イタリア空軍は陸軍部隊を支援し、8月6日には第71偵察航空群のBR.20爆撃機部隊がドン川東岸のソ連軍陣地への最初の爆撃を実行した。

MC.200戦闘機やCa.311偵察爆撃機も爆弾を搭載し、連日ソ連軍陣地を爆撃し、陸軍部隊を支援した。これによって、ソ連軍の進軍を遅らせる事に成功したが、自軍側の損害も激しく、2カ月間の間に多くの機体が撃墜された。

9月に新たに12機のマッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機が到着すると、第21戦闘航空群は少しだけ勢力を巻き返した10月中旬から11月中旬にかけて、MC.200、MC.202、BR.20の部隊はドン川東岸のソ連陣地及びソ連軍部隊に対する爆撃及び対地攻撃を実行し、陸軍部隊の近接航空支援に従事した

しかし、1942年にも再び厳しい冬がやってきた。こうなると寒冷な気候に弱いイタリア機は行動不能になった。そんな状況でも空軍部隊は積雪した草原から離陸をし、陸軍部隊の支援を続行したが、もはや無駄なことであった。マイナス50度以下の気温にイタリア空軍のパイロットたちは苦しみ、ソ連空軍はそれに対して数百機もの戦闘機を投入して殲滅していった。

 

◆ロシア派遣空軍部隊の終わり

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除雪された滑走路のマッキ MC.200"サエッタ"戦闘機とドイツ機。

結局、1943年1月21日、イタリア空軍部隊は東部戦線から撤退することとなった。東部戦線に派遣されたイタリア空軍部隊は、1941年から1943年にかけて、総計して少なくとも88機のソ連機を撃墜することに成功したのであった(損失は19機)。イタリア機の運用に不向きと言える過酷な寒冷地での戦いであったが、伊空軍部隊は十分な戦果を挙げたのであった。

ソ連に派遣されたイタリア空軍部隊は、バトル・オブ・ブリテンに参加したCAI遠征空軍と異なり、成功したと言える。これはパイロットの技能は勿論、MC.200"サエッタ"の優れた性能によるところが大きい。東部戦線でのイタリア空軍の成功は、イタリア軍にとっての主戦場であった北アフリカ戦線と比較してもかなりのものであったと言えるだろう。