異色の経歴を持つ空軍将軍、リノ・コルソ・フージェ ―コルシカ出身のプロサッカー選手から空軍参謀長に―
1941年11月から1943年7月までイタリア空軍(Regia Aeronautica)の参謀長として、空軍の指揮をしたリノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍。彼は異色の経歴を持つ人物でもあった。フランス領であるコルシカ島(フランス語ではコルス島)出身であり、そして若い頃はプロサッカー選手として活躍をしていたという経歴をもっていたのである。私は以前から彼のこの異色の経歴に興味を持っていたが、調べられていなかったので、今回は最近空軍に興味を持ってきたのを機に、思い切って調べてみた。
なお、日本では何故か「リノ・コルソ・フォギエレ」という表記が見られるが、この表記は発音的にも間違いである。"Fougier"はイタリア語読みで読んでも「フォウジエル」なので、「フォギエレ」とは読まない。しかし、彼は所謂「フランス系」であるため、ここはフランス語読みの「フージェ」と読むのが適切であると思われる。
◆その出自とベルサリエリ士官としての活躍
リノ・コルソ・フージェは1894年11月14日、フランス領であったコルシカ島のバスティアに生まれた。バスティアはコルシカ島北部の中心都市で、経済的な中心地でもあった。コルシカ島はフランス皇帝ナポレオンの出身地として知られ、現在もフランス領であるが、かつては沿岸のリグーリア海岸を拠点としたジェノヴァ共和国の支配下にあった。しかし、コルシカ島で発生した大規模な独立闘争に対して、ジェノヴァはこれを抑えきれず、ジェノヴァに代わって軍を派兵したフランスによってコルシカ島は支配下に置かれることとなった。
そのため、文化的にも歴史的にもフランス本土とは大きく異なっており、言語的(コルシカ語)にはサルデーニャ方言に近く、文化的にもサルデーニャに近かった。また、イタリア統一直前まではイタリア語が広く使われていたという歴史もあり、文化的にリグーリアやトスカーナの影響も強かった。このような経緯から、統一イタリア王国が成立した後は「未回収のイタリア」の一部に含められている。第二次世界大戦時にはイタリア軍が一時的にコルシカを占領下に置いているが、戦後はフランスに返還されている。なお、コルシカ(Corsica)はイタリア語読みで、フランス語読みはコルス(Corse)である。
そのため、コルシカ島はイタリアとの結びつきが強かった。しかも、リグーリアやピエモンテはイタリアでもフランスの影響が強く、多くのフランス系イタリア人がいた。例えば、イタリア海軍唯一の元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督も元はトゥーロン発祥の貴族の家系であるし、日伊修好通商条約を結んだヴィットーリオ・アルミニョン提督も名前から分かる通りフランス系だった。もっと言ってしまえば、イタリア王家であるサヴォイア家も「フランス系」であるのは明らかだった。ここから考えると、フージェの家系もそういった「フランス系イタリア人」だったと考えられる。
フージェは1912年12月にイタリア本土の陸軍士官学校に入り、1914年2月にベルサリエリ中尉として自転車小隊の指揮を任された。当然、この時は独立した空軍は存在しないため、フージェは陸軍士官となったのである(そもそも、彼が空への憧れをいつ持ったかは不明であるが)。ベルサリエリはイタリア軍特有の兵科であり、この頃は自転車部隊として偵察・連絡任務に従事する部隊であった(後に機械化され、第二次世界大戦時ではバイク部隊として知られる)。なお、このベルサリエリが使用していた自転車はかの有名なビアンキ社の自転車であった。
1915年、イタリア王国が第一次世界大戦に参戦すると、フージェは第7ベルサリエリ連隊の指揮を取ることとなった。1915年6月23日、フージェはセルツ近郊の偵察任務に従事したが、地雷の爆発で負傷してしまう。しかし彼は負傷しながらも任務を続けて無事陣地に帰還したのであった。この功績によって銀勲章を叙勲されている。
余談ではあるが、後にイタリアの「統帥(ドゥーチェ)」となるベニート・ムッソリーニも、第一次世界大戦時はフージェと同じベルサリエリとして戦っている。
◆飛行士としてのデビュー、アルプスの大空へ!
1916年6月29日、負傷によって前線から帰還したフージェは陸軍航空隊のパイロットとして志願し、トリノのヴェナリア宮殿でパイロットとしての訓練を行った。同年10月26日に飛行士免許を所得し、遂にパイロットとしての道を進んだのであった。イタリア陸軍航空隊のパイロットとなったフージェは、1917年3月6日に陸軍航空隊第113飛行隊に任命され、SAML S.1偵察機に乗り、戦地であるアルプス戦線に向かったのであった。
1917年5月20日、バインジッツァ高地上空にて3機のオーストリア機と遭遇した。この中にはエースパイロットであるゴドウィン・フォン・ブルモヴスキの乗る機体も存在した。この空戦でフージェは負傷したが撃墜は免れ、基地に帰投した。これにより、二度目の銀勲章を叙勲された。これは、彼がパイロットとなってから初の勲章だった。その後、フージェは終戦までにいくつかの任務に参加し、3度目の銀勲章を叙勲している。終戦時は大尉だった。
◆カルチョ・パドヴァのプロサッカー選手
第一次世界大戦の終戦によって、ひとまず欧州には平和が訪れた(とはいえ、イタリアは賠償も満足に得られず、国内では不満が高まり治安が悪化していたが)。戦後の復興には娯楽が必要不可欠である。イタリアにおける一番の娯楽は何か?勿論サッカー(イタリア語ではカルチョ)である。
フージェはヴェネト州の大学都市パドヴァを本拠地とする「カルチョ・パドヴァ」所属のプロサッカー選手となった。カルチョ・パドヴァは1910年に設立されたチームで、数年後にはトップリーグに参戦、ヴェネト最強のチームとも称される強豪チームであった。当時のイタリアでは戦時中にサッカーチームは活動が禁止され、更に多くの優秀なサッカー選手が志願兵としてイタリア軍に従軍・戦死していた。
フージェが所属することとなったカルチョ・パドヴァも例外ではなく、1915年から1918年まで活動が禁止されており、主力アタッカーだったシルヴィオ・アッピアーニが戦死していた。フージェがそれまでサッカー経験がどの程度あったのかは不明だが(当然ゼロではなかっただろうが)、彼が強豪チームのスタメンとなったのは、この辺の事情も絡んでそうである。とはいえ、フージェはサッカー選手としても優秀だった。
フージェのプロサッカー選手としての初の試合デビューは1919年12月14日のパドヴァvsヴィチェンツァ(カルチョ・ヴィチェンツァ)の試合だった。ディフェンダーとしてフージェはヴィチェンツァの攻撃からパドヴァを守り抜き、この試合は1-0でパドヴァの勝利に終わったのであった。
カルチョ・パドヴァは今日のセリエAとなるプリマ・カテゴリーア(1919-1920シーズン)のヴェネト予選では、
1919年10月12日:カルチョ・パドヴァvsエラス・ヴェローナ(7-0)→勝利
1919年10月19日:カルチョ・パドヴァvsウディネーゼ・カルチョ(1-1)→引き分け
1919年10月26日:カルチョ・パドヴァvsペトラルカ・パドヴァ(2-0)→勝利
1919年11月2日:カルチョ・パドヴァvsカルチョ・ヴィチェンツァ(4-0)→勝利
1919年11月9日:カルチョ・パドヴァvsヴェネツィアFC(3-1)→勝利
1919年11月23日:カルチョ・パドヴァvsエラス・ヴェローナ(2-1)→勝利
1919年11月30日:カルチョ・パドヴァvsウディネーゼ・カルチョ(3-1)→勝利
1919年12月7日:カルチョ・パドヴァvsペトラルカ・パドヴァ(2-1)→勝利
1919年12月14日:カルチョ・パドヴァvsカルチョ・ヴィチェンツァ(1-0)→勝利
1919年12月21日:カルチョ・パドヴァvsヴェネツィアFC(1-0)→勝利
という結果を示し、カルチョ・パドヴァは予選1位で突破したのであった。ウーディネとの最初の試合を除いて完勝である。こうして、ヴェネト州最強チームの座を手に入れたカルチョ・パドヴァは全国準決勝のグループBに進出した。しかし、ここではカルチョ・パドヴァはユヴェントスを始めとするイタリア屈指の強豪チームの猛攻に敗れ、グループ最下位の6位だった。
◆軍への復帰、そして空軍の創設
1919-1920シーズンが終わると、フージェは早くもプロサッカー選手を引退してしまった。1921年4月には陸軍に復帰し、第三航空連隊の連隊長に任命された。1922年10月になると、国家ファシスト党がローマ進軍を行い、ベニート・ムッソリーニが国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって組閣を命じられ、ムッソリーニ政権が誕生する。ムッソリーニの側近であり、ユダヤ人ファシストだったアルド・フィンツィは第一次世界大戦で陸軍航空隊のパイロットだった。空軍次官に任命されたフィンツィは独立した空軍の設立に尽力し、これによって1923年3月に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併され、王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)が誕生したのであった。
この独立空軍の設立は、世界から見てもかなり早い時期に行われたもので、イタリアが当時航空先進国であったことがよくわかる。空軍設立後、総司令官にはカラビニエリのリッカルド・モイツォ大佐(大戦時に彼は航空隊の指揮官だった)が就任し、後に空軍参謀本部が設立されると、初代空軍参謀長には第一次世界大戦のエースパイロットであるピエル・ルッジェーロ・ピッチョ将軍が就任している。
空軍設立により、フージェも空軍の所属となった。これによって、彼は空軍大尉の階級となる。フージェは「イタリア空軍の父」として知られるようになるイタロ・バルボ空軍大臣と親密な関係となった。彼との関係は今後重要な役割を果たすこととなった。1925年9月、フージェは少佐に昇進し、更に1927年7月、フージェは中佐に昇進した。そして、1928年6月、バルボ空軍大臣によってフージェは第一戦闘航空団の司令官に任命され、1931年4月には大佐に昇進している。
◆「イタリア曲芸飛行隊の父」
また、1930年にはフージェはカンポフォルミド空港にイタリア初の曲芸飛行学校を設立した。同年6月8日には初めての曲芸練習がフィアットCR.20で実施され、この日は「翼の日(Giornata dell'Ala)」と名付けられた。こうしてイタリア初の曲芸飛行隊が設立されたわけであるが、これは後のイタリア空軍曲芸飛行隊「フレッチェ・トリコローリ」の源流となった。そう考えると、フージェは「フレッチェ・トリコローリの父」「イタリア曲芸飛行隊の父」と言えるのかもしれない。
1933年6月、フージェは第一戦闘航空団の司令官から、第三航空旅団の司令官となった。1934年3月まで同旅団の司令官を務めた後、同年4月にはリビア総督となったバルボ空軍元帥の要請により、1935年7月から1937年12月までトリポリに本部を置くリビア西航空司令部の司令官を務めた。フージェは1936年2月には空軍准将に昇進している。
1935年10月、イタリア軍がエチオピア帝国に対して侵攻を開始(エチオピア戦争)すると、フージェはリビア航空司令部の司令官として、東アフリカへの航空部隊の派遣を指揮した。イタリア空軍はエチオピア戦争で重要な役割を果たし、戦争の早期終結に一役買っている。エチオピア戦争終結後、その後間もなくしてスペインにて内戦が勃発した。これに対して、ファシスト政権はフランコ将軍率いる国粋派を支援することを決定したため、フージェはスペインへの空軍派遣を指揮した。スペイン内戦でも空軍は大きな戦果を挙げ、マリオ・ボンツァーノ大尉を始めとする多くのエースを生み出し、またここで経験を積んだパイロットは第二次世界大戦でも活躍している。
1937年12月にアフリカでの任務を終え、フージェはイタリアに帰国。帰国後、フージェは航空学校の校長になった。1938年8月から1939年9月までは中部イタリアを管轄する第三航空管区の司令官を務めている。1939年4月には空軍中将に昇進。イタリア参戦直前の1940年5月にはミラノに本部を置く第一航空管区の司令官となった。
◆大戦への参戦、バトル・オブ・ブリテンでの指揮
1940年6月、イタリア王国は英国及びフランスに宣戦布告、第二次世界大戦に参戦した。参戦時、フージェは第一航空管区の司令官だった。対フランス戦が開始すると、準備不足の陸軍はフランス軍の国境要塞に苦戦していたが、フージェ率いる第一航空管区の空軍部隊は積極的に活動し、特に爆撃機部隊はトゥーロンやマルセイユといった南フランスの諸都市の爆撃で戦果を挙げた。
しかし、6月28日に北アフリカで悲劇が起こった。リビア総督であったイタロ・バルボ空軍元帥が味方による対空砲火によって誤撃墜され、戦死したのであった。バルボ空軍元帥の死はバルボの影響が強かった空軍に大きなショックを与えた。これはバルボと関係が深かったフージェにとっても例外では無かったであろう。
フランスが休戦すると、ドイツ空軍は英国本土への航空爆撃を強化、これに対して英空軍は迎撃を開始し、英国本土上空では両空軍による熾烈な航空戦が繰り広げられた(バトル・オブ・ブリテン)。ムッソリーニ統帥はこれに対して、空軍部隊の派遣を命じた。フージェはこの遠征空軍の司令官に任命され、バトル・オブ・ブリテンでのイタリア空軍の総指揮を執ることとなった。1940年9月10月に「イタリア航空軍団(C.A.I.)」が創設され、この間、フージェは第一航空管区司令官としての任務を中断することとなり、ベルギーに派遣されたのであった。
イタリア航空軍団(以後CAI遠征空軍と呼称)は約180機の戦闘機(フィアットCR.42"ファルコ"及びフィアットG.50"フレッチャ")・爆撃機(フィアットBR.20"チコーニャ")・偵察機(CANT Z.1007bis"アルチョーネ")・輸送機(カプロニ Ca.133"カプロナ")で構成されていた。イタリア空軍は地中海やアフリカ戦線における制空権維持を重要視したため、英国本土航空戦への派遣は望まなかったが、これは英国本土を直接叩くと言うプロパガンダ的な意味合いも大きかったため、ムッソリーニ統帥はバトル・オブ・ブリテンへの参加を望んだのであった。
しかし、これらの伊空軍機は性能的に英空軍機に対して劣り、更にバトル・オブ・ブリテンも終盤の終盤であったため、その任務は限られることとなる。しかし、第56戦闘航空団第20航空群司令官のマリオ・ボンツァーノ少佐はスペイン内戦でのエースパイロットとして武勲を挙げた人物で、そして「未来のエース」であるフリオ・ニクロ・ドッリオ大尉やジュゼッペ・ルッツィン曹長といった優秀なパイロットが多いのもまた事実であった。
9月22日、ベルギーへの航空機の空輸が始まり、CAI遠征空軍はベルギーの基地に集結した。ただ、CAI遠征空軍の司令官となったフージェにとっても、イタリア機の稼働率の悪さや無線搭載の少なさは問題だった。こうした問題を抱えつつも、フージェはイタリア空軍による英国本土への爆撃作戦を開始したのであった。初任務は10月24日のハリッジ及びフェリックストーへの夜間爆撃だった。
BR.20"チコーニャ"爆撃機の護衛を行った単葉戦闘機G.50"フレッチャ"と複葉戦闘機CR.42"ファルコ"であったが、G.50は航続距離が450kmしかなかったため、殆ど戦果を挙げられていないが、「世界最後の複葉戦闘機」CR.42はその高い運動性能を発揮し、ジュゼッペ・ルッツィン曹長を始めとする優秀な複葉機パイロットが英空軍のハリケーン戦闘機やスピットファイア戦闘機を相手に二度の空戦で9機(一説には15機とも)を撃墜する戦果を挙げている。BR.20の爆撃機部隊は貧弱な武装のせいで多くの損害を被り、その戦果は少なかったが、それでもディールの英海軍基地などを爆撃し、それなりの戦果を挙げる事に成功した。
1941年1月3日、フージェはCAI遠征空軍の作戦を終了し、機材と兵員をイタリアに戻し、一部の戦闘機部隊は北アフリカ戦線に移動させた。また少数のG.50は春までドイツ空軍所属でフランス沿岸の哨戒飛行に従事している。その後、フージェは6月にイタリアに帰国した。フージェ率いるCAI遠征空軍は参戦時期の遅さと劣った性能故に大きな戦果を挙げられなかったが、CR.42の高い空戦性能の証明と、英国本土を直接爆撃するというプロパガンダ的な目的は果たされたと言えるだろう。
◆空軍参謀長への就任
この頃、イタリア空軍は北アフリカや地中海での苦戦によって、苦境に陥っていた。空軍参謀長であったフランチェスコ・プリーコロ将軍はピエトロ・バドリオ参謀総長の後任として就任したウーゴ・カヴァッレーロ参謀総長によって、イタリア空軍の航空作戦の失敗の責任を問いただされていた。更に、プリーコロ空軍参謀長は新型機であるマッキMC.202"フォルゴレ"の北アフリカ戦線の空軍部隊への導入に対して、まだパイロットによる新型機の訓練が十分でないことと、砂防フィルターの搭載が不十分であることを理由に遅らせることを要請していたが、これはムッソリーニ統帥によるプリーコロ将軍解任の動機となった。プリーコロ将軍は「新型機の輸送を遅らせた」と非難され、空軍参謀長としての地位を追われてしまった。
1940年11月15日、フージェはプリーコロ将軍の後任として白羽の矢が立ち、空軍参謀長に任命されたのであった。その後、フージェはイタリア空軍の総指揮を1943年7月のムッソリーニ失脚まで執ることとなる。フージェ率いるイタリア空軍はその後挽回を図り、ドイツがソ連への侵攻を開始すると、ムッソリーニ統帥による遠征軍派遣の命令に呼応し、フージェも8月に遠征空軍を派遣した。イタリア機は寒冷なロシアの気候に適応していなかったが、ソ連機相手にイタリア空軍は多くの戦果を挙げている。
1941年12月8日、日本海軍はハワイのパールハーバーを攻撃(真珠湾攻撃)し、第二次世界大戦に日本とアメリカが参戦した。その日、フージェはムッソリーニ統帥と共にジェット機カプロニ・カンピーニN.1のテスト飛行に立ち会っていた。丁度その時に日本から真珠湾攻撃の知らせが届いたが、ムッソリーニ統帥はそれを聞いて熱狂して喜んだという(ドイツによるソ連攻撃時の反応とは真逆で興味深い)。
フージェは空軍参謀長として、英軍の最新鋭機に対抗するべく、新型機の開発と導入を急がせた。しかし、イタリアの低い工業生産力ではそれもほぼ不可能であった。結局、一度は空軍で不採用となった航空機を採用し、使える航空機を搔き集めたが既に遅く、満足な数を揃える事は出来なかった。過去の記事で指摘したように、イタリアは低い工業生産力であるにもかかわらず、大小多くの航空企業が乱立したため、極めて非効率的であり、全体の生産量も低かった。とはいえ、フィアット社のG.55"チェンタウロ"戦闘機、アエルマッキ社のMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機、レッジアーネ社のRe.2005"サジッタリオ"戦闘機、ピアッジオ社のP.108四発爆撃機、CANT社のZ.1018"レオーネ"双発爆撃機といった連合軍機に匹敵する優秀な新型機を開発する事に成功した。しかし、これらの新型機は多くは導入時期が遅かった。
しかし、イタリア空軍も負けっぱなしだったわけではない。新型機の導入が遅れても、フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機やサヴォイア・マルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機/雷撃機といった戦前に開発された機体は現役であり続け、前線で戦い続けた。特にSM.79は雷撃機として休戦後もRSI(イタリア社会共和国)空軍で使われ続け、多くの戦果を挙げている。1942年6月、マルタ島を巡る地中海での大規模海空戦においても、イタリア空軍の雷撃機部隊や急降下爆撃機部隊は英海軍艦艇を多数撃沈しており、海軍艦隊と共に多くの戦果を挙げる事に成功したのである。その後の8月の大規模海空戦でも空軍は海軍と共に多くの戦果を挙げている。また、1941年夏季にはSM.82"カングーロ"爆撃機、1942年夏から秋にかけてはP.108四発爆撃機によって連続してジブラルタルへの爆撃を実行し、連合軍に対して多くの打撃を与えている。
◆戦局の悪化、ファシスト政権の崩壊、そして解任
1942年10月、フージェは空軍大将に昇進した。しかし、イタリアの戦況は空軍に限らず日に日に悪化していったのである。一番の悩みの種は燃料の不足であった。ドイツは燃料の補給を約束していたが、第二次世界大戦中、それは一切果たされなかった。この同盟国による約束の反故に対して、ムッソリーニも激怒し、「"ドイツ人の約束"とは、約祖を守らないことを意味する」とまで発言していた。イタリアは開戦前から燃料不足に悩まされていたが、遂に1942年も終盤になってくると、燃料が枯渇し、空軍は出撃回数を減らさざるを得なくなった。海軍に至っては主力艦隊の出動が不可能なところまで追い込まれ、仕方なく潜水艦や水雷艇といった小型艦のみの作戦しか行えなくなっていった。これは防衛においても致命的だった。
東部戦線と北アフリカ戦線での敗北が明確になると、ムッソリーニ統帥は軍上層部や政府閣僚の交代を行った。カヴァッレーロ元帥は参謀総長を解任され、後任の参謀総長にユーゴスラヴィア侵攻を指揮したヴィットーリオ・アンブロージオ将軍が就任した。最早枢軸国に勝利の可能性は薄かった。フージェは東部戦線からの空軍の撤退を決定し、更に北アフリカの失陥によってイタリア空軍は更に追い詰められた。
1943年6月12日、空軍の重要な基地が置かれ、そして「ムッソリーニのマルタ島」と呼ばれた要塞島、パンテッレリーア島が陥落した。その後、間もなく同じく要塞化されたランペドゥーザ島も陥落し、連合軍はイタリア半島に迫ってきた。ミンスミート作戦によって、ドイツ軍が欺瞞作戦に騙されてイタリア参謀本部と意見を対立させると、連合軍はシチリアに上陸を開始した。連合軍機はイタリアの主要都市に対しても連日爆撃を行ったため、フージェは連合軍の迎撃を指揮した。イタリア空軍機は連合軍機の迎撃に当たり、戦果を挙げていった。しかし、ルッキーニを始めとする優秀なパイロットも多く失っている。
1943年7月19日、イタリアの首都である「永遠の都」ローマは、歴史上はじめての空襲を受けた。ムッソリーニ自身、ローマは空襲を受けないと高を括っており、ヴァチカンの存在は「比類なき高射砲」であると信じていた。また、ルーズベルト米大統領もカトリック関係者にローマは爆撃しないと保証していたという。
しかし、ローマは爆撃された。3時間にも及ぶ空襲で1000人以上の死傷者が出たうえに、市内の数カ所の地区は完全に破壊されてしまった。これはフージェ率いる空軍首脳部にとっても哨戒の甘さを晒すこととなってしまったのである。
1943年7月24日夜に開かれたファシズム大評議会によって、下院議長ディーノ・グランディによるムッソリーニ解任動議が発生、賛成多数でムッソリーニの統帥解任が決まった。翌日、ムッソリーニは国王に謁見のため王宮に向かったが、王宮を出た際に待ち構えていたカラビニエリによって逮捕され、連行された。こうして、ムッソリーニは失脚し、長きに渡って続いたファシスト政権は「一時的に」崩壊したのであった。「一時的に」と表現したのは、この後形式上はファシスト政権の後継政権であるRSI政権が成立するためである。
ムッソリーニの失脚後、バドリオ内閣が誕生すると7月27日をもってフージェも空軍参謀長の地位から解任された。後任の空軍参謀長にはレナート・サンダッリ将軍が任命された。解任後、フージェは空軍を退役し、休戦後もRSI空軍や共同交戦空軍に参加する事は無かった。そうしてひっそりと暮らした彼は1963年にローマにてこの世を去った。
異色の経歴を持つ空軍将軍の一生はこうして終わった。元強豪チームのプロサッカー選手で参謀長にまで上り詰めたという異色の経歴は、一兵卒から参謀総長に上り詰めたジョヴァンニ・メッセ将軍と並んで興味深い経歴と言えるかもしれない。