第二次世界大戦時のイタリア艦名の由来になった人物を調べてみた!第二弾:小型艦艇(駆逐艦・水雷艇)編
前回の更新に引き続き、今回のも第二次世界大戦時のイタリア海軍の艦名で人名由来のものについて調べる事とする。前回は大型・中型艦を扱ったため、二回目の今回は残りの小型艦艇(駆逐艦・水雷艇)について扱う。次回の三回目に潜水艦を扱う予定だ。今回は前回に比べて数が非常に多いため、出来るだけ記述を簡略化して要点のみを述べる。そのため、戦歴に関してはかなり省略しているので注意。
前回のはこちら →
https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/04/25/135135
■駆逐艦(Cacciatorpediniere)
◆ナヴィガトーリ級(Classe Navigatori)
この級の艦名の由来は全て大航海時代の航海士で統一されている。
◇アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1931年3月15日。
試験航海では42.7ノットの高速を記録した高速駆逐艦で、この数値はナヴィガトーリ級で最速である。第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援、船団護衛及び沿岸都市への艦砲射撃であった。1941年12月1日、船団護衛中にトリポリ沖にて英巡洋艦隊の攻撃を受けて撃沈。
艦名の由来:
アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Mosto)
艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国出身の航海士、アルヴィーゼ・ダ・モスト(Alvise da Monsto)。大航海時代初期において活躍した人物で、ポルトガルのエンリケ航海王子のもと、西アフリカのガンビアへの探検航海を行った。ガンビア川を探検し、アフリカ側との交易をしている。カーボベルデの発見者とも言われるが、これはアントニオ・ダ・ノーリが発見したという説もある。
◇アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1929年12月29日。
第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。休戦発表によってマルタに向かうが、道中でドイツ軍機の攻撃を受け回避行動をとった際に機雷に接触し、撃沈された。
艦名の由来:アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、アントニオ・ダ・ノーリ(Antonio da Noli)。ジェノヴァ周辺のノーリ市の貴族出身の航海士で、ポルトガルに仕えてエンリケ航海王子のもと、大西洋とアフリカへの探検航海を行った。一般的にカーボベルデの発見者として知られている。
◇ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)
第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。休戦後は共同交戦海軍の一員として船団護衛任務に従事。戦後も新生イタリア海軍での保有が認められ、1954年まで現役。博物館船として保存されることが計画されたが、放棄され解体された。
艦名の由来:
ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ニコローゾ・ダ・レッコ(Nicoloso da Recco)。ポルトガル王アフォンソ4世に仕え、フィレンツェ出身の航海士アンジョリーノ・デ・コルビッツィと共にカナリア諸島を探検した。
◇ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1930年7月25日。
第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛任務や機雷設置任務である。1942年10月19日、英潜水艦「アンベンディング」の雷撃で撃沈された。
艦名の由来:ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)
艦名の由来になったのは、シエナ共和国領キャンティ地方出身の航海士ジョヴァンニ・ダ・ヴェッラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)。日本では慣例的にヴェラッツァーノと呼ばれる。フランスに仕え、北アメリカ東海岸を初めて探検したヨーロッパ人として知られている人物(実際は既にそれ以前にヴァイキングが東海岸に達していたため、初めてニューヨーク湾を探検した人物であるらしい)。その最期は不明であるが、バハマの食人部族に食い殺されたという説がある。
◇ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。就役は1930年1月18日。
第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、船団護衛、機雷敷設、対空射撃及び海難救助。1943年3月24日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:
ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ランツェロット・マロチェッロ(Lanzerotto Malocello)。ジェノヴァ周辺のヴァラッツェ市出身で、カナリア諸島の発見者として知られている。
◇レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。1943年4月30日、船団護衛中に爆撃を受けて撃沈。
艦名の由来:レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、レオーネ・パンカルド(Leone Pancaldo)。ジェノヴァ周辺のサヴォーナ市出身で、ポルトガルの航海士フェルナン・ド・マガリャンイス(英名:フェルディナンド・マゼラン)率いる船団の一員として参加し、世界一周を達成した。
◇エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。1942年5月29日、英潜水艦の雷撃を受けて撃沈。
艦名の由来:
エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士・海軍提督、エマヌエーレ・ペッサーニョ(Emanuele Pessagno)。ポルトガル王ディニス1世に仕え、王立ポルトガル海軍の総司令官の地位を与えられた。また、ポルトガル造船工廠の責任者でもあった。アフォンソ4世時代にカスティーリャとの戦いを指揮するが、カスティーリャ艦隊に敗北して捕虜となった。両国の和解によって解放。
◇アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は対潜哨戒、機雷設置、味方への支援及び船団護衛であった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、ドイツ海軍籍で水雷艇「TA44」として就役。アドリア海での哨戒任務・機雷敷設に従事したが、1945年2月17日に連合軍機による爆撃で撃沈された。
艦名の由来:
アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)
艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国領ヴィチェンツァ出身の航海士、アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)。フェルナン・ド・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)の世界一周航海に同行した航海士で、彼の書いた詳細な記録が現在史料として役に立っている。翻訳者としても知られ、航海時にはフィリピン現地のセブアノ語翻訳も行っている。
◇ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は機雷敷設及び船団護衛であった。1941年4月16日夜間、船団護衛中に英艦隊に遭遇・交戦(タリゴ船団の戦い)、デ・クリストファロ中佐率いる駆逐艦隊の旗艦として戦ったが、不意打ちを受けて撃沈された。しかし、満身創痍の状態でありながら最期に雷撃で英駆逐艦「モホーク」を撃沈し、一矢報いた。
艦名の由来:ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ルカ・タリゴ(Luca Tarigo)。黒海方面への探検航海を行った航海士で、クリミアのジェノヴァ植民市カッファ(現フェオドシヤ)を根拠地として、アゾフ海、ドン川、ヴォルガ川などを探検し、カスピ海にまで至った。その際、交易も行う一方で海賊行為も度々行っている。
◇アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は機雷敷設及び船団護衛であった。1942年6月8日、味方潜水艦「アラジ」によって誤って撃沈された。
艦名の由来:
アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、アントニオット・ウゾディマーレ(Antoniotto Usodimare)。エンリケ航海王子のもとでアフリカ西海岸の探検航海を行った人物で、しばしばアントニオ・ダ・ノーリと同一人物であるという説が言われるが、歴史的な証拠はない。カーボベルデの島々、そしてガンビア川、現ギニアビサウを流れるジェバ川を探検している。
◇ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。休戦発表によってマルタに向かうが、道中でドイツ軍機や沿岸砲台の攻撃を受け回避行動をとった際に機雷に接触し、撃沈された。
艦名の由来:
ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)
艦名の由来になったのは、ジェノヴァ共和国出身の航海士、ウゴリーノ・ヴィヴァルディ(Ugolino Vivaldi)。弟のヴァディーノ・ヴィヴァルディ(Vadino Vivaldi)と共に交易路確保のための探検航海を行った。大航海時代黎明期、インドまでの交易路を築くためにガレー船でジブラルタル海峡を通過し、アフリカ沿岸に沿って降下したが、そこで行方不明となった。一説によると、アフリカを一周して東アフリカ沿岸にまで辿り着き、エチオピア皇帝に謁見しているとも言われている。
◇ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)
ナヴィガトーリ級駆逐艦の1隻。
第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛、対潜哨戒、機雷設置及び海難救助だった。1943年9月9日、修復中であったが、拿捕を防ぐために自沈した。
艦名の由来:ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)
艦名の由来になったのは、ヴェネツィア共和国出身の航海士、ニコロ・ゼーノ(Nicolò Zeno)。弟のアントニオ・ゼーノ(Antonio Zeno)と共にノルウェー王家に仕え、北極海や北大西洋の探検航海を行った。シェトランド諸島、オークニー諸島、スヴァールバル諸島、アイスランド、グリーンランドのほか、カナダまで探検航海をしている。彼の弟であるカルロ・ゼーノ(カルロ・ゼン)はヴェネツィア海軍で提督を務め、ジェノヴァとのキオッジャ戦争で活躍した。
◆オリアーニ級(Classe Oriani)
この級の艦名の由来は全て作家・詩人で統一されている。そのため、Classe Poeti(詩人級,ポエティ級)とも称される。
◇アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)
オリアーニ級駆逐艦のネームシップ。オリアーニ級では唯一戦後まで生き残ったが、賠償艦としてフランス海軍に引き渡され、「デスタン」となった。
艦名の由来:
アルフレード・オリアーニ(Alfredo Oriani)
艦名の由来になったのは、ファエンツァ出身の詩人アルフレード・オリアーニ。1909年に死去し、その後も長らく評価されていなかったが、ファシスト政権期に再評価され、この時代に彼の生家も博物館として整備されている。
◇ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)
オリアーニ級駆逐艦の1隻。1941年3月28日、マタパン岬沖海戦で戦没。
艦名の由来:
ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)
艦名の由来になったのは、アスティ出身の詩人・劇作家ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri)。伯爵でありながらフランス革命を支持し、逆にフランス革命政府がロベスピエール独裁やナポレオン帝政に変質していくと、それに対して激しい嫌悪感を示して反対した。
◇ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)
オリアーニ級駆逐艦の1隻。1941年3月28日、マタパン岬沖海戦で戦没。
艦名の由来:
ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)
艦名の由来になったのは、ノーベル文学賞を最初に受賞したイタリア人として知られている作家、ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Carducci)。近代イタリアを代表する国民的な詩人であると同時に教育者としても多くの功績を残しており、教会の管理下ではない寄宿学校の設置などを行っている(なお、ムッソリーニはここで学んだ)。
◇ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vincenzo Gioberti)
オリアーニ級の1隻。駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」はオリアーニ級駆逐艦の1隻(2番艦)で、1936年9月19日に進水、1937年10月27日に就役した。
イタリア参戦時(1940年6月10日)は第9駆逐戦隊(旗艦:駆逐艦「アルフィエーリ」)に所属し、マッテウッチ提督率いる第一巡洋戦隊(旗艦:重巡「ザラ」)と行動を共にした。開戦時の艦長はアウレリオ・ラッジョ中佐である。開戦から2日後に第9駆逐戦隊の一員として、第一巡洋戦隊及び第八巡洋戦隊(旗艦:軽巡「アブルッツィ」)、第16駆逐戦隊(旗艦:駆逐艦「レッコ」)と共にイオニア海の哨戒任務に出撃したのが大戦時の初出撃である。
7月に入ると北アフリカ船団の護衛に従事した後、7月9日には地中海戦線初の大規模海戦となった「プンタ・スティーロ海戦(カラブリア沖海戦)」に参加。カンピオーニ提督率いる第一艦隊(旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ」)と共に英艦隊と交戦、敵艦隊に対して雷撃を発射したが、距離が遠すぎて効果は無かった。同海戦はイタリア艦隊が英艦隊の撃退に成功し、伊海軍の勝利に終わった。
7月末から翌月始めにかけて、再度北アフリカ船団の護衛に従事。ターラント空襲の結果を受けて、母港をナポリに移動した後、11月27日に発生した「テウラダ岬沖海戦(スパルティヴェント岬沖海戦)」に参加。イアキーノ提督率いる第二艦隊(旗艦:重巡「ポーラ」)と共に英艦隊と交戦。ホラント提督率いる英巡洋艦隊に対して戦局を有利に展開している。
12月にはギリシャ戦線の支援のために姉妹艦「アルフィエーリ」及び「カルドゥッチ」と共に出撃し、イオニア海沿岸からギリシャ軍部隊に対して艦砲射撃を実行、陸軍の作戦行動を空軍と共に支援した。
1941年に入ると、ギリシャ戦線方面の海軍作戦が本格化したため、再度陸軍部隊の支援に出撃し、ギリシャ軍基地への直接の艦砲射撃を実行して陸軍を支援した。伊エーゲ海艦隊の連戦連勝によりギリシャ作戦における戦局が好転していたため、ドイツ海軍の要請でイアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」)が東地中海方面に派遣されると、「ジョベルティ」を含む第9駆逐戦隊は、カッターネオ提督率いる第一巡洋戦隊(旗艦:重巡「ザラ」)と共に出撃し、3月28日の「マタパン岬沖海戦」に参加したのである。しかし、空母「フォーミダブル」の艦載雷撃機の攻撃を受け、重巡「ポーラ」が行動不能になり、その救援に第一巡洋戦隊及び第9駆逐戦隊が向かった。しかし、「ジョベルティ」はそこでイタリア海軍最大の悪夢を経験することになった。
夜間戦闘の中で、レーダーを持たないイタリア艦隊は敵艦隊の位置を補足できず、戦艦3隻(「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)を含む英主力艦隊から十字砲火を受けることとなった。この結果、重巡「ザラ」「フィウーメ」が為すすべもなく撃沈された。
「ジョベルティ」もこの十字砲火を受けたが、姉妹艦「カルドゥッチ」が脱出のために煙幕を張って英艦隊に立ち向かったことにより、最後尾の「オリアーニ」と共に運良く無傷で脱出することに成功した。
その後、姉妹艦である「カルドゥッチ」及び「アルフィエーリ」、そして重巡「ポーラ」も撃沈され、マタパン岬沖海戦は悲惨極まる大敗北となったのであった。
4月末から5月初めには北アフリカ戦線向けのドイツ・イタリア船団(ドイツアフリカ軍団の支援物資を輸送していた)を護衛した際に、英軍雷撃機と潜水艦による連続の襲撃を受けたが、これに首尾よく対応して撃退に成功、船団を無傷で北アフリカに届けることに成功した。
6月初めにはトリポリ北東沖の機雷原の敷設に従事し、6月末にはナポリからトリポリへの輸送船団の護衛に従事、英空軍の爆撃を受けたが対空砲火によって撃退し、船団を無傷で輸送することに成功している。
7月中旬にはターラントからトリポリへの輸送船団の護衛に従事、英潜水艦「アンビーテン」からの雷撃を受けたがこれを回避、素早く爆雷を投下して撃退に成功、船団は無傷でトリポリに到着することが出来た。
8月初めにナポリから北アフリカ船団の護衛に出発したが、ランペドゥーザ島南方にて英軍機の襲撃を受けた。この際、1席の輸送船が撃沈されてしまったが、残りの船団は無事トリポリ港に到着した。
8月中旬には再度ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事。今度は2隻の英潜水艦の襲撃に遭遇し、1隻目(「アンビーテン」)の攻撃は回避したが、2隻目(「ユニーク」)の撃退には失敗し、兵員輸送船1隻が撃沈された。しかし、迅速な救助によって犠牲者を最小限(死者31名)に留め、1139人を救助することに成功している。
8月末から9月初旬にかけてターラント-トリポリ間の船団護衛に従事し、英潜水艦「アップホルダー」の襲撃を受けたがこれを撃退、無傷で船団護衛を成功させた。なお、この時船団を襲撃した潜水艦「アップホルダー」は英海軍潜水艦で撃沈トン数No.1を誇る潜水艦(総撃沈トン数:93,031トン)である。
9月中旬にはターラントからトリポリへの船団護衛に従事した。この時、船団は英潜水艦4隻(「アップホルダー」「アンビーテン」「アップライト」「アーシュラ」)による集中攻撃を受け、2隻の輸送船が撃沈された。しかし、迅速な救助活動により乗員計5818人のうち、5434人の救助に成功している。
9月24日には英海軍の輸送船団「ハルバード」迎撃のため、イアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「リットリオ」)と共にナポリを出撃。英戦艦「ネルソン」が雷撃で小破し、輸送船を撃沈するなどイタリア側は英船団に打撃を与えたが、戦力的に不利であったため撤退した。
「ハルバード」船団迎撃の後、艦長が変更され、新たにヴィットーリオ・プラート中佐が新艦長に就任した。10月初旬、ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事。ミズラータ沖にて英軍雷撃機の襲撃を受け、輸送船1隻が撃沈。
10月中旬に再度ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事。英潜水艦「アーシュラ」の襲撃を受け、輸送船「ベッペ」が損傷したが撃沈は免れた。しかし、その後目的地まであと少しのところで英軍機の爆撃を受け、1隻の輸送船が撃沈されている。
11月中旬にはトリポリ-ナポリ間の船団護衛に従事したが、英軍機及び水上艦隊の存在を確認したため、目的地をターラントに変更。無事にターラントに到着した。
12月初旬には北アフリカ戦線の支援のため、駆逐艦「マエストラーレ」と共にギリシャのパトラ港から、リビアのデルナ港への燃料の高速輸送を実行し、これを無傷で成功させている。
12月13日はベルガミーニ提督率いる第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「カイオ・ドゥイリオ」)と共に北アフリカ戦線向けの「M41」船団を護衛し、ターラントを出発してベンガジを目指したが、合流予定であった戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」がアウグスタ沖にて英潜水艦の雷撃を受けたため、作戦は一時的に中断され撤退した。
12月16日にはイアキーノ提督率いる主力艦隊(旗艦:戦艦「リットリオ」)と共に再度出撃し、「M42」船団の護衛任務に従事した。このため、船団護衛中に発生した「第一次シルテ湾海戦」にも参加したが、「ジョベルティ」は特にこれといった戦果は挙げていない。個の海戦において、英艦隊は軽巡「ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が撃沈、軽巡「オーロラ」「ペネロペ」及び駆逐艦「キプリング」「ニザム」が損傷する被害に合った一方、イタリア艦隊は無傷で海戦を終了し、本来の目的である船団護衛に成功した。
1942年に入ると、年始から「ジョベルティ」は任務に従事した。ベルガミーニ提督率いる第五戦艦戦隊(旗艦:戦艦「ドゥイリオ」)と共に大規模船団「M43」を護衛し、トリポリまで無傷で船団を送り届けた。
「ジョベルティ」はしばらく北アフリカ沿岸に留まった後、2月初旬にナポリ港に戻ったが、その後近代化改修を受けて武装が強化された。特に対潜装備と対空兵装が重点的に強化され、対潜ソナーの装備や対空機関銃・爆雷投下機の刷新は船団護衛戦の効率化が期待された。
5月に改修を完了して再就役し、6月から再度任務に従事した。6月13日にはダ・ザーラ提督が指揮する第七巡洋戦隊に追従する第十駆逐戦隊の一員として、英「ハープーン」船団の迎撃に当たるはずであったが、カリャリを出港したものの、「ジョベルティ」と「ゼーノ」は機関の不調で速力が維持出来ず(輸送船の速度にすら及ばなかった)、パレルモ港に留まることとなった。なお、戦力を減らしたダ・ザーラ艦隊であったが、その後発生した「パンテッレリーア沖海戦」で戦艦1隻及び空母2隻を含む英主力艦隊を相手に圧倒的勝利を手に入れたのであった。しかし、「ジョベルティ」はパレルモ港に留まったため、この勝利の海戦に参加すら出来なかったのである。
機関の不調を修理した「ジョベルティ」には新たにジャンロベルト・ブルゴス中佐が艦長に就任した。
さっそく8月中旬、ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事したが、17機の英軍雷撃機編隊の襲撃に加えて、英潜水艦「P44」の襲撃を受けた。この襲撃により「ジョベルティ」艦長のジャンロベルト・ブルゴス中佐も重傷を負い、67名が負傷、18名が死亡している。副艦長のジュリオ・ルスキ中尉が何とか艦を指揮し、トラーパニ港まで撤退することに成功した。ブルゴス艦長は負傷のため艦の指揮を離れ、新たにピエトロ・フランチェスコ・トーナ中佐が艦長に就任している。彼のもとで10月に任務を再開、10月中旬にナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事した。しかし、英潜水艦3隻(「アンベンディング」「P32」「P37」)の襲撃を受け、輸送船1隻に加えて、同行していた駆逐艦「ヴェッラッツァーノ」も撃沈される被害に遭った。「ジョベルティ」は爆雷を投下したが、損傷を与えたものの撃沈することには失敗している。
11月初旬には再度ナポリ-トリポリ間の船団護衛に従事。英軍機編隊による連続の襲撃を受けたが、対空砲火によってこれを撃退し、船団を無傷で目的地に到着させた。この直後、トーチ作戦によってヴィシー・フランス領北アフリカが連合軍によって制圧されたため、地中海の制海権は連合軍有利になり、イタリア海軍は苦しい戦いを強いられることになってしまった。
1943年1月初旬には、輸送船がカプリ島沖で機雷に接触して沈没したことを受けて、生存者の救出に出撃、これを迅速に救出することに成功している。1943年5月13日、北アフリカ方面軍司令官であるメッセ元帥が降伏したことを受け、北アフリカ戦線は完全に崩壊した。これに伴い「ジョベルティ」も主力艦隊と共にラ・スペツィア軍港に移動している。その後は連合軍機の度々の空襲に悩まされ、何度か損害を受けている。制海権は連合国側に渡り、燃料も遂に枯渇しかけている状態のため、今まで幾度も出撃していた「ジョベルティ」の活動も消極的になった。7月初旬にはラ・スペツィアからラ・マッダレーナへ移動した際に英潜水艦の雷撃を受けたが回避に成功、爆雷を投下して潜水艦を撃退した。最早イタリア本土周辺ですら連合軍艦隊は我が物顔で航行する有様であった。
7月末に王党派クーデターによってムッソリーニが失脚、新たにバドリオ元帥による軍事政権が成立した。バドリオ政権は水面下では連合軍との和平交渉を進めたが、表面上は交戦継続を表明したために連合軍との闘いは終わらなかった(そもそも一部の高官を除き和平交渉は知らされていない)。8月初旬、新艦長としてカルロ・ザンパーニ中佐が就任した。8月9日、ザンパーニ新艦長の元で初任務に出撃したが、それは「ジョベルティ」の最後の航海となったのである。
フィオラヴァンツォ提督率いる第八巡洋戦隊(旗艦:軽巡「ガリバルディ」)がラ・スペツィアからジェノヴァに移動するため、「ジョベルティ」は「カラビニエーレ」及び「ミトライエーレ」と共に巡洋戦隊を護衛することになった。1943年8月9日午後18時24分、プンタ・メスコ沖にてイタリア艦隊を補足した英潜水艦「シムーン」は旗艦である軽巡「ガリバルディ」に対して4本の魚雷を発射した。「ガリバルディ」はこれを回避したが、不運なことにその先にいた「ジョベルティ」に通り過ぎた魚雷2本が命中、撃沈されたのであった。
艦名の由来:
ヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vinzenzo Gioberti)
艦名の由来になったのは、トリノ出身の哲学者であるヴィンチェンツォ・ジョベルティ(Vinzenzo Gioberti)。リソルジメント期の重要人物の一人で、カルロ・アルベルト王のもとでサルデーニャ王国の宰相を務めている。
◆ミラベッロ級(Classe Mirabello)
◇カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)
ミラベッロ級駆逐艦のネームシップ。1941年5月21日、機雷と接触し沈没。
艦名の由来:カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)
艦名の由来になったのは、イタリア海軍の提督カルロ・ミラベッロ(Carlo Mirabello)。若い頃にサルデーニャ王国海軍の水兵としてリソルジメントに参加。1904年から1906年まで海軍大臣を務め、イタリア海軍の近代化に尽力した。また、無線通信の大御所である科学者グリエルモ・マルコーニと交友関係を持ち、彼を支援して無線通信の発展に貢献している。
◇アウグスト・リボティ(Augusto Riboty)
ミラベッロ級駆逐艦の1隻。第二次世界大戦時は島嶼部への上陸作戦を行う特殊部隊「海軍特殊集団(Forza Navale Speciale,FNS)」に所属。戦後まで生き残り、講和条約の結果ソ連への賠償艦となることが決まったが、旧式艦故に拒否された。1951年解体。
艦名の由来:アウグスト・アントニオ・リボティ(Augusto Antonio Riboty)
艦名の由来になったのは、サルデーニャ王国海軍/イタリア海軍の提督、アウグスト・アントニオ・リボティ(Augusto Antonio Riboty)である。サルデーニャ王国海軍の指揮官としてクリミア戦争で戦い、更にイタリア統一後は第三次イタリア独立戦争に参加。装甲艦「レ・ディ・ポルトガッロ」の艦長として、オーストリア海軍の戦列艦「カイザー」に対して多くの打撃を与えた。1868年~1869年、1872年~1873年には海軍大臣を務め、海軍の技術開発を進めて艦隊の増強に尽力している。
◆サウロ級(Classe Sauro)
◇ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)
サウロ級のネームシップ。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。
艦名の由来:ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時の海軍軍人、ナザリオ・サウロ(Nazario Sauro)。戦後の潜水艦の艦名にも使われている。当時オーストリア帝国領であったカポディストリア(現スロヴェニア領コペル)のイタリア人家庭に生まれたが、第一次世界大戦時にはイタリア海軍に志願して、潜水艦「ジャチント・プッリーノ」に乗艦した。クヴァルネル湾での作戦時にオーストリア海軍の捕虜となったが、オーストリア領出身であることが判明したため「反逆罪」で処刑された。
◇フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)
サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1940年10月21日にハーミル島沖海戦で戦没した。
艦名の由来:
フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)
艦名の由来となったのは、ガリバルディの友人である義勇兵の将軍フランチェスコ・ヌッロ(Francesco Nullo)。リソルジメント期はガリバルディ率いる「赤シャツ隊」の一員として戦った。ポーランド及びリトアニアで発生した反ロシア帝国蜂起である「1月蜂起」では、ポーランド蜂起軍を支援するイタリア人義勇軍の司令官として参戦し、戦死。ポーランドのために戦い、死んだ人物として、ポーランド独立後に称賛された。
◇ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)
サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。
艦名の由来:ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)
艦名の由来になったのは、1848年革命でオーストリアから再独立したヴェネツィア共和国(サン・マルコ共和国)の大統領、ダニエーレ・マニン(Daniele Manin)。ヴェネツィア共和国の復活を望み、独立運動を展開していたためにオーストリア当局に危険視されて投獄された。その後、民衆蜂起でヴェネツィアが一時的に解放された際に、ヴェネツィア共和国臨時政府の大統領に選出され、包囲するオーストリア軍に抵抗した。ヴェネツィア陥落後、パリに亡命し、その地で客死した。
◇チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)
サウロ級の1隻。紅海艦隊に所属し、1941年4月3日に英軍機の爆撃で戦没。
艦名の由来:
チェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)
艦名の由来になったのはチェーザレ・バッティスティ(Cesare Battisti)。当時オーストリア帝国領であったトレントのイタリア人家庭で生まれ、オーストリア社会民主労働党に所属した社会主義政治家。トレンティーノ地方の自治を求めて運動していたが、第一次世界大戦の発生でイタリアに亡命し、イタリア陸軍に志願してアルピーニ兵となった。しかし、アジアーゴの戦いでオーストリア軍の捕虜となり、オーストリア出身であったことから「反逆罪」として処刑された。
◆セッラ級(Classe Sella)
◇クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)
セッラ級のネームシップ。第二次世界大戦時は主に船団護衛に従事した他、特殊作戦に従事した。スダ湾攻撃では姉妹艦の「クリスピ」と共にMTM艇(バルキーノ)の母艦として機能し、英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」の撃沈に成功した。また、英軍の占領下に置かれたカステルリゾ島の奪還作戦にも参加。休戦後、避難民を乗せてヴェネツィアを出港したが、1943年9月11日、ドイツの水雷艇「S54」に撃沈された。
艦名の由来:クインティーノ・セッラ(Quintino Sella)
艦名の由来になったのは、経済学者のクインティーノ・セッラ(Quintino Sella)。ラッタッツィ内閣、ラ・マルモラ内閣、ランツァ内閣でそれぞれ財務相を務め、イタリアの財政再建に尽力した。科学者としても名高く、特に鉱業分野での功績が多いが、その他数学や歴史学にも精通しており、様々な分野で功績を残した。
◇フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)
セッラ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛に従事した他、特殊作戦に従事した。スダ湾攻撃では姉妹艦の「クリスピ」と共にMTM艇(バルキーノ)の母艦として機能し、英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」の撃沈に成功した。また、英軍の占領下に置かれたカステルリゾ島の奪還作戦にも参加。休戦後、ドイツ海軍に拿捕されて水雷艇「TA15」として就役。1944年10月12日、連合軍機の攻撃で撃沈。
艦名の由来:
フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)
艦名の由来になったのは、第11代イタリア王国首相フランチェスコ・クリスピ(Francesco Crispi)。強権的な指導者として知られ、イタリアではムッソリーニと対比されることもある権威主義者。リソルジメント期の重要人物でもあり、1848年のシチリア革命で重要な役割を果たしている。統一後は首相だけでなく、外相、内相、財務相といった様々なポストを経験したが、アビシニア戦争での敗北で失脚した。
◆コマンダンティ・メダリエ・ドロ級(Classe Comandanti Medaglie d'Oro)
コマンダンティ・メダリエ・ドロ級はソルダーティ級駆逐艦の後継艦として開発された駆逐艦で、全24隻が建造予定であったが、1943年の休戦によって全て未完成に終わった。24隻のうち、20隻が命名されていた。艦名の由来になった人物は全て第二次世界大戦中に戦死し、イタリア軍最高位の金勲章(Medaglia d'Oro)を叙勲された海軍指揮官たちである。以下、簡潔に記述する。
◇コマンダンテ・トスカーノ(Comandante Toscano)
→サルヴァトーレ・トスカーノ(Salvatore Toscano)
◇コマンダンテ・バローニ(Comandante Baroni)
→エンリコ・バローニ(Enrico Baroni)
◇コマンダンテ・カザーナ(Comandante Casana)
→コスタンツォ・カザーナ(Costanzo Casana)
◇コマンダンテ・デ・クリストファロ(Comandante De Cristofaro)
→ピエトロ・デ・クリストファロ(Pietro De Cristofaro)
◇コマンダンテ・デッランノ(Comandante Dell'Anno)
→フランチェスコ・デッランノ(Francesco Dell'Anno)
◇コマンダンテ・マルゴッティーニ(Comandante Margottini)
→カルロ・マルゴッティーニ(Carlo Margottini)
◇コマンダンテ・ボルシーニ(Comandante Borsini)
→コスタンティーノ・ボルシーニ(Costantino Borsini)
◇コマンダンテ・ボッティ(Comandante Botti)
→ウーゴ・ボッティ(Ugo Botti)
◇コマンダンテ・リータ(Comandante Ruta)
→マリオ・リータ(Mario Ruta)
◇コマンダンテ・フォンターナ(Comandante Fontana)
→ジュゼッペ・フォンターナ(Giuseppe Fontana)
◇コマンダンテ・ジョルジス(Comandante Giorgis)
→ジョルジョ・ジョルジス(Giorgio Giorgis)
◇コマンダンテ・ジョッベ(Comandante Giobbe)
→ジョルジョ・ジョッベ(Giorgio Giobbe)
◇コマンダンテ・モッカガッタ(Comandante Moccagatta)
→ヴィットーリオ・モッカガッタ(Vittorio Moccagatta)
◇コマンダンテ・ロドカナッキ(Comandante Rodocanacchi)
→ジョルジョ・ロドカナッキ(Giorgio Rodocanacchi)
◇コマンダンテ・コルシ(Comandante Corsi)
→ルイージ・コルシ(Luigi Corsi)
◇コマンダンテ・エスポジート(Comandante Esposite)
→スタニスラオ・エスポジート(Stanislao Esposito)
◇コマンダンテ・フィオレッリ(Comandante Fiorelli)
→ウーゴ・フィオレッリ(Ugo Fiorelli)
◇コマンダンテ・ジャンナッタージオ(Comandante Giannattasio)
→ヴィットーリオ・ジャンナッタージオ(Vittorio Giannattasio)
◇コマンダンテ・ミラーノ(Comandante Milano)
→マリオ・ミラーノ(Mario Milano)
◇コマンダンテ・ノヴァーロ(Comandante Novaro)
→ウンベルト・ノヴァーロ(Umberto Novaro)
■水雷艇(Torpediniere)
◆ジェネラーリ級(Classe Generali)
◇ジェネラーレ・アントニオ・カントーレ(Generale Antonio Cantore)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1942年8月22日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:アントニオ・カントーレ(Antonio Cantore)
艦名の由来になったのは、アントニオ・カントーレ(Antonio Cantore)将軍。アルピーニの将軍で、第一次世界大戦時に前線視察中に敵弾に当たり戦死した。第一次世界大戦時で最も早く戦死したイタリア軍の将軍でもある。
◇ジェネラーレ・アントニーノ・カシーノ(Generale Antonino Cascino)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。休戦後、ラ・スペツィア軍港で自沈した。
艦名の由来:アントニーノ・カシーノ(Antonino Cascino)
艦名の由来になったのは、アントニーノ・カシーノ(Antonino Cascino)将軍。ピアッツァ・アルメリーナ出身の砲兵大将で、スロヴェニアのスカブリエル山攻略戦でオーストリア軍の手榴弾の爆発を受け戦死した。
◇ジェネラーレ・アントニオ・キノット(Generale Antonio Chinotto)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1941年3月28日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:アントニオ・キノット(Antonio Chinotto)
艦名の由来になったのは、アントニオ・キノット(Antonio Chinotto)。第一次世界大戦時のイタリア陸軍将軍だが、戦場で罹患して死亡。
◇ジェネラーレ・カルロ・モンタナーリ(Generale Carlo Montanari)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。休戦後、ラ・スペツィア軍港で自沈した。
艦名の由来:カルロ・モンタナーリ(Carlo Montanari)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時のイタリア軍将軍、カルロ・モンタナーリ(Carlo Montanari)。前線でオーストリアの狙撃兵に撃たれて戦死。
◇ジェネラーレ・マルチェッロ・プレスティナーリ(Generale Marcello Prestinari)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。1943年1月31日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:
マルチェッロ・プレスティナーリ(Marcello Prestinari)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時のベルサリエリ将軍、マルチェッロ・プレスティナーリ(Marcello Prestinari)。エリトリア人アスカリ兵の指揮官としてアビシニア戦争で実戦を積んだ。アジアーゴの戦いにて、敵弾を受けて戦死。
◇ジェネラーレ・アキッレ・パーパ(Generale Achille Papa)
ジェネラーリ級の1隻。第二次世界大戦時は主に船団護衛、対潜哨戒及び掃海任務に従事。対潜戦で活躍し、特に英潜水艦「カシャロット」を体当たりで撃沈したことで有名。休戦後、ドイツ海軍に拿捕されて「SG20」として就役。1945年4月25日自沈。
艦名の由来:アキッレ・パーパ(Achille Papa)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦時の歩兵少将アキッレ・パーパ(Achille Papa)。前線でオーストリアの狙撃兵に撃たれて戦死した。
◆ピーロ級(Classe Pilo)
◇ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)
ピーロ級のネームシップ。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛。1952年除籍。
艦名の由来:ロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)
艦名の由来になったのは、1848年シチリア革命に参加したロゾリーノ・ピーロ(Rosolino Pilo)。シチリア革命政権の陸軍大臣となったが、両シチリア王国軍との戦闘で戦死した。
◇ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だったが、マルタ上陸作戦の準備など特殊作戦にも従事している。休戦後は共同交戦海軍の一員として参加し、戦後も旧式艦故に新生イタリア海軍でも保有が認められた。1958年除籍。
艦名の由来:ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ(Giuseppe Cesare Abba)
艦名の由来になったのは、ガリバルディと共に戦ったリソルジメント期の作家、ジュゼッペ・チェーザレ・アッバ。
◇ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛と対潜哨戒だった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、「TA35」として就役。1944年8月17日、アドリア海にて機雷に接触し沈没。
艦名の由来:ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)
艦名の由来となったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ジュゼッペ・デッツァ(Giuseppe Dezza)。ミラノの蜂起に参加して、ロンバルディア臨時政府軍の一員としてオーストリア軍と戦った。その後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加して戦った後、王立イタリア陸軍の将軍となった。
◇ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。休戦後、ドイツ海軍に拿捕され、「TA22」として就役。1945年5月3日自沈。
艦名の由来:ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)
艦名の由来となったのは、リソルジメント期に活躍した軍人、ジュゼッペ・ミッソーリ(Giuseppe Missori)。モスクワのボローニャ人の家庭に生まれた共和主義者で、ミラノの蜂起に参加してロンバルディア臨時政府軍に加わった。その後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流している。
◇アントニオ・モスト(Antonio Mosto)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。休戦後、共同交戦海軍の一員として参加した後、戦後も新生イタリア海軍で保有が認められた。
艦名の由来:アントニオ・モスト(Antonio Mosto)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍したジェノヴァ出身の軍人・政治家アントニオ・モスト(Antonio Mosto)。サルデーニャ王国軍のカラビニエリ・ジェノヴェージの一員として戦った後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流した。
◇フラテッリ・カイローリ(Fratelli Cairoli)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛だった。1940年12月23日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:カイローリ兄弟(Fratelli Cairoli)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍したカイローリ兄弟。長男のベネデット・カイローリは後にイタリア首相になっている。
◇シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Schiaffino)
ピーロ級の1隻。第二次世界大戦時の主な任務は船団護衛や沿岸哨戒だった。哨戒中にギリシャ船団を発見し、輸送船を撃沈している。1941年4月24日、機雷に接触し沈没。
艦名の由来:
シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Sciaffino)
艦名の由来になったのは、ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加した兵士、シモーネ・スキアッフィーノ(Simone Sciaffino)。カラタフィーミの戦いで戦死。
◆シルトリ級(Classe Sirtoli)
◇ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)
シルトリ級のネームシップ。第二次世界大戦時は主にアドリア海での船団護衛に従事した。1943年9月14日、ドイツ軍機の空爆を受けた後、自沈。
艦名の由来:ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ジュゼッペ・シルトリ(Giuseppe Sirtori)。「赤シャツ隊」の参謀長を務め、ガリバルディを支えた。
◇ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)
シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は紅海艦隊に所属した。1941年4月4日、英軍機の爆撃によって撃沈。
艦名の由来:
ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した軍人、ジョヴァンニ・アチェルビ(Giovanni Acerbi)。ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加。
◇ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vincenzo Giordano Orsini)
シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は紅海艦隊に所属した。1941年4月8日、マッサワ軍港陥落直前に鹵獲を防ぐために自沈した。
艦名の由来:ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vinzenzo Giordano Orsini)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、ヴィンチェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ(Vinzenzo Giordano Orsini)。元々は両シチリア王国の士官だったが、シチリア革命に参加したため亡命を余儀なくされた。サルデーニャ王国軍に移った後、ガリバルディの「赤シャツ隊」に合流。
◇フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)
シルトリ級の1隻。第二次世界大戦時は主にアドリア海での船団護衛に従事した。1943年9月24日、ドイツ軍機の空爆を受け撃沈。
艦名の由来:
フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)
艦名の由来になったのは、リソルジメント期に活躍した将軍、フランチェスコ・ストッコ(Francesco Stocco)。ガリバルディの「赤シャツ隊」に参加。
総じて調べていて思ったこと。数が多い!!!
そりゃそうなんだけども、多い。元々の予定では、小型艦艇として潜水艦も一緒に紹介しようと思っていたのだが、あまりにも多すぎるので分割する。
次回は潜水艦やります。
第二次世界大戦時のイタリア艦名の由来になった人物を調べてみた!第一弾:大型・中型艦(戦艦・水上機母艦・巡洋艦)編
第二次世界大戦時のイタリア海軍では人名を用いた艦名が多く採用されている。というか、第二次世界大戦時のイタリア海軍のみならず、欧州諸国やアメリカ諸国では人名を用いた艦名を採用する例は結構多い。寧ろ、人名を艦名に全く採用しない日本海軍が異質とも言えるが、そこは文化の違いであろう(戦艦「織田信長」とかあっても良さそうだとは思うけど)。
以前、とある萌えミリ本で「イタリア海軍はロクな海軍軍人がいないから艦名に芸術家の名前を使う」ということが書かれていたのを見たが、当然ながらこれは間違いである。というか、ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国など、海洋共和国として栄えた国家がイタリアには多く存在し、当然その海軍は強力なものであった。アンドレア・ドーリアを始め、イタリア海軍の艦名に採用された海軍軍人も多い。逆に、芸術家の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか採用されていないため、完全に事実の誤認である(ジョークと受け取れなくもないが)。
そこで、今回は第二次世界大戦時のイタリア海軍の艦名に採用された人物が、どのような人物であったか調べてみる事としよう。数が多いので、ブログでは三回に分けて調べようと思う。今回は大型・中型艦の戦艦・水上機母艦・巡洋艦について調べ、次回の第二回に小型艦艇(駆逐艦・水雷艇)を、最後の第三回に潜水艦について調べてみることとする。
□戦艦(Corazzata)
◆コンテ・ディ・カヴール級
(Classe Conte di Cavour)
◇コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)
コンテ・ディ・カヴール級戦艦の1番艦。1915年4月1日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月1日に再就役した。
第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで、姉妹艦の「ジュリオ・チェーザレ」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。
しかし、11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。他の被害があった艦は修復を済ませて復帰したが、「カヴール」は損傷が激しく、結局休戦までに修復が終わらなかった(イタリア海軍は駆逐艦などを優先したため、修復も非常に遅れたため)。休戦後、ドイツ軍に接収され、名目上イタリア社会共和国(RSI政権)海軍籍の扱いになったが、修復は完了せず撤退時に爆破された。現在のイタリア海軍の航空母艦の1隻にも、「カヴール」の名前が付けられている。
艦名の由来:
カミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)
艦名の由来になったのはカミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、ガリバルディとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」。イタリア王国初代首相で、サルデーニャ王国最後の宰相。卓越した外交手腕で大国の支持を取り付け、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)を達成した人物だ。なお、Conte di Cavour(コンテ・ディ・カヴール)は「カヴール伯」の意味で、彼の爵位名である。
◇ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)
コンテ・ディ・カヴール級戦艦の2番艦。1914年5月14日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月3日に再就役した。
第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで主力艦隊司令官イニーゴ・カンピオーニ提督の旗艦となり、姉妹艦の「コンテ・ディ・カヴール」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。
その後も、テウラダ岬沖海戦(スパルティヴェント岬沖海戦)や第一次シルテ湾海戦といった大規模海戦に参加。戦争を生き抜いたが、戦後はソ連に賠償艦として引き渡され、黒海艦隊の主力戦艦「ノヴォロシースク」として就役した。しかし、1955年10月29日に原因不明の爆沈で失われた(イタリア海軍の工作員による破壊工作が原因とも言われている)。
艦名の由来:
ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)
艦名の由来になったのは、ご存じローマの独裁官ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)のイタリア語読み、ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)である。日本での知名度も非常に高く、古代ローマといったらこの人、という認識でもあるだろう。
◆カイオ・ドゥイリオ級
(Classe Caio Duilio)
◇カイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)
カイオ・ドゥイリオ級の1番艦。竣工は1915年5月10日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年7月15日に再就役した。
第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。しかし、1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。その後、修復工事を受けて1941年5月に艦隊に復帰し、7月から任務を再開した。その後も主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。
艦名の由来:
ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)
艦名の由来になったのは、ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)。共和政ローマの艦隊司令官で、紀元前260年の「ミラエ沖の海戦」でカルタゴ海軍を破り、ローマ海軍初の勝利を手に入れた提督だ。彼のイタリア語読みがカイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)である。すなわち、ローマの海戦史において最初の勝利を手に入れた人物である。
カイオ・ドゥイリオ級の2番艦。竣工は1916年3月13日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年10月26日に艦隊に復帰した。
第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受けたが、被害を受けなかった。そのため、リットーリオ級戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」やコンテ・ディ・カヴール級戦艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に、ターラント空襲で大打撃を受けたイタリア海軍にとって主力戦艦の1隻として重宝され、マルタ船団の妨害や英艦隊の迎撃に従事。
姉妹艦の「カイオ・ドゥイリオ」の復帰後は主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に「カイオ・ドゥイリオ」と共に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。
艦名の由来:
艦名の由来になったのはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)。ジェノヴァ共和国の代表的な海軍提督で、ジェノヴァの名門ドーリア家の出身。その勇ましさから「地中海のサメ」と呼ばれた優秀な海軍提督だったが、元は陸軍の軍人で海軍の指揮官となったのは40歳を超えてからだった。「海の傭兵」としてフランスや神聖ローマ帝国に仕え、80歳越えても現役で戦い、当時地中海の覇者であったオスマン帝国海軍と激しい戦いを繰り広げた。
□航空母艦(Portaerei)
航空母艦に人名由来の艦名はない。
□水上機母艦(nave appoggio idrovolanti)
◆同型艦なし
◇ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)
第二次世界大戦時のイタリア海軍が保有した唯一の水上機母艦。同型艦はない。竣工は1927年11月1日。
元々はイタリア国鉄によって列車輸送船「チッタ・ディ・メッシーナ(Città di Messina)」として発注されたものの、途中でイタリア海軍が購入し、水上機母艦として完成した。1925年に船体がほぼ完成したが、暴風雨で転覆したために新たにプリエーゼ式水雷防御を搭載して1927年に竣工した。
水上機母艦であったが、水上機の運用のみならず多用途艦として使われ、戦車を始めとする兵器や人員の輸送にも使われている。艦載機に関しては水上機のみならず、艦上戦闘機(レッジアーネ Re.2000戦闘機)のカタパルト発進も可能であった。戦後、新生イタリア海軍は航空母艦の保有を禁じられていたが、「ジュゼッペ・ミラーリア」の保有は認められ、復員輸送艦として使われた。1950年除籍。
艦名の由来:
ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)
艦名の由来になったのはジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)という海軍航空隊のパイロットである。「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオの友人で、第一次世界大戦では水上機パイロットとしてアドリア海沿岸のオーストリア軍基地攻撃で活躍したが、1915年の試験飛行時に事故死してしまった。
□装甲巡洋艦(Incrociatore corazzato)
◆サン・ジョルジョ級
(Classe San Giorgio)
◇サン・ジョルジョ(San Giorgio)
サン・ジョルジョ級装甲巡洋艦の1番艦。竣工は1910年7月1日で、第一次世界大戦を戦った後に練習艦として近代化改修を受け、1938年に再就役した。スペイン内戦にも派遣されている。
旧式艦であったが、第二次世界大戦時にトブルク軍港の防衛のために配備され、対空巡洋艦として防衛の要となった。イタロ・バルボ空軍元帥の誤撃墜事件にも関与しており、「サン・ジョルジョ」と陸上基地からの対空射撃がバルボ元帥の乗る航空機を敵機と誤認して撃墜してしまった。トブルク防衛戦でステーファノ・プリエーゼ艦長の元で「サン・ジョルジョ」は最後まで奮戦し、敵機からの激しい攻撃を受けて行動不能になった後、1941年1月22日、鹵獲を防ぐために自沈した。
艦名の由来:聖ゲオルギオス(San Giorgio)
艦名の由来となったのは、キリスト教の聖人である聖ゲオルギオス。このイタリア語読みがサン・ジョルジョ(San Giorgio)である。世界各国で聖人として崇められており、モスクワの守護聖人としても知られている。イングランド国旗であるセント・ジョージ・クロスは聖ゲオルギオスのシンボル。イタリアでも様々な町の守護聖人になっている。
□重巡洋艦(Incrociatore pesante)
重巡洋艦には人名由来の艦名はない。
□軽巡洋艦(Incrociatore leggero)
◆ディ・ジュッサーノ級
(Classe Di Giussano)
◇アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)
ディ・ジュッサーノ級軽巡洋艦のネームシップ。就役は1931年1月1日。
第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」と共に参加した。その高速能力を生かして「ダ・バルビアーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈されてしまった。
艦名の由来:
アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)
艦名の由来になったのは、ロンバルディア同盟軍を率いて、「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世率いる神聖ローマ帝国軍に勝利したという、伝説的な英雄アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)である。ロンバルディアの英雄とされ、2019年4月現在、イタリアの与党になっている政党「同盟(Lega)」は地域政党時代の「北部同盟(Lega Nord)」の頃からシンボルとして採用している。
◇アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)
ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1931年6月9日。
第二次世界大戦参戦時、イニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下の第四巡洋艦隊(アルベルト・マレンコ提督指揮)の旗艦だった(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」と共に参加した。その後、アントニーノ・トスカーノ提督率いる第四巡洋艦隊旗艦として、その高速能力を生かして「ディ・ジュッサーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈された。
艦名の由来:アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)
艦名の由来となったのは、14~15世紀のロマーニャ地方のコンドッティエーロ(傭兵隊長)であるアルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)。イタリア初の傭兵隊長として知られている。サン・ジョルジョ傭兵団を率いた人物で、教皇ウルバヌス6世に雇われてアヴィニョン教皇庁の対立教皇であるクレメンス7世の軍勢と戦ったり、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの元で戦ったりした。
◇バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)
ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)に所属(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦での交戦の結果撃沈、戦没した。
艦名の由来:バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)
艦名の由来となったのは、15世紀のコンドッティエーロであるバルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)。ヴェネツィア共和国に雇われた傭兵隊長として知られ、ベルガモにある優美なコッレオーニ礼拝堂は彼に捧げられたものである。15世紀の代表的な戦術家とも言われる名将で、ヴェネツィア共和国の発展に貢献した。
◇ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)
ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)の旗艦だった(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦では交戦の結果姉妹艦である「バルトロメオ・コッレオーニ」が撃沈され、敵艦の攻撃で損傷するが、追撃を振り切ることに成功した。
その後、高速能力を生かして姉妹艦の「ディ・ジュッサーノ」や「ダ・バルビアーノ」などと共に北アフリカへの燃料輸送任務に従事する。姉妹艦が撃沈される中、唯一生き残り任務を成功させた。以降は船団護衛任務や機雷敷設任務などに従事。1942年3月22日の第二次シルテ湾海戦では英軽巡「クレオパトラ」を砲撃で損傷させ、イタリア艦隊の勝利に貢献している。しかし、1942年4月2日、ストロンボリ島沖にて英潜水艦「アージ」の雷撃を受けて撃沈された。
艦名の由来:ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)
艦名の由来になったのは、16世紀のコンドッティエーロであるジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)。本名はルドヴィーコ・ディ・ジョヴァンニ・デ・メディチ(Ludovico di Giovanni de' Medici)で、その名の通りフィレンツェの名門メディチ家の出身である。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。イタリア語で「黒帯」を意味するバンデ・ネーレは通り名だった。
◆カドルナ級(Classe Cadorna)
◇ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)
カドルナ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1933年8月11日。
第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務と機雷敷設任務に従事している。その高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事した。
1942年からは訓練艦としてポーラ軍港を母港とした。1943年5月~6月には改装工事を受けた後、艦隊に復帰。兵員輸送任務にも従事した他、カピターニ・ロマーニ級軽巡と共に本土決戦に備えて南イタリア沿岸に機雷を敷設している。戦後まで生き残り、新生イタリア海軍でも保有が許されたが、旧式艦故に短期間訓練艦として使われたのみで、1951年に除籍となった。
艦名の由来:
ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤までイタリア軍参謀総長としてイタリア軍の総指揮を取ったルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)将軍である。ファシスト政権期に第一次世界大戦時の戦果によって元帥に昇進した。父ラッファエーレは教皇領ローマ侵攻で活躍した軍人であり、軍人一家のカドルナ家出身。息子のラッファエーレJr.も第二次世界大戦時はローマ防衛司令官であり、休戦後にレジスタンス軍「CVL」を組織してその指揮を取っている。とはいえ、ルイージ・カドルナ自身は第一次世界大戦時の指揮で失敗し、カポレットの大敗でディアズ将軍と交代になったことから、評価は低い(言ってしまえば無能)。
◇アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)
カドルナ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1933年4月29日。
第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務に従事している。その高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事したが、1941年2月25日にケルケナ諸島沖にて英潜水艦「アップライト」によって撃沈された。
艦名の由来:
アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)
艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤以降のイタリア軍参謀総長としてイタリア軍を指揮したアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍である。カドルナ将軍の指揮の結果起こったカポレットの大敗からイタリア軍を立て直し、最終的にヴィットーリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍を完全撃破、第一次世界大戦におけるイタリアの勝利の最大の貢献者とも言える名将である。その戦果によって国王から「戦勝公(Duca della Vittoria)」という称号が与えられた他、ファシスト政権期にはムッソリーニ内閣初期の陸軍大臣を務め、更に元帥に昇進した。
◆モンテクッコリ級(Classe Montecuccoli)
◇ライモンド・モンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli)
モンテクッコリ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年6月30日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。
1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、ドゥーカ・ダオスタ級軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に活躍し、英国の「ハープーン」船団を迎撃。英駆逐艦「ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する事に成功する活躍を見せた。8月中旬の「ペデスタル」船団攻撃にも従事している。
同年12月4日にはナポリ港停泊中に米軍機の爆撃を受け大破し、1943年の休戦直前に修復が完了している。その後、パレルモ沖の米船団を「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に攻撃した後、休戦を迎えた。戦後まで生き残り、その高速能力を生かして復員輸送船として活躍している。新生イタリア海軍でも保有が認められ、1964年まで練習艦として機能した。解体後、船体の一部(マストと砲)はウンブリア州ペルージャにあるテーマパーク「チッタ・デッラ・ドメニカ」に保存されている。
艦名の由来:
ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)
艦名の由来になったのは、17世紀に活躍した神聖ローマ帝国軍元帥、ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)。神聖ローマ帝国軍を率いた将軍で、三十年戦争、カストロ戦争、第四次墺土戦争、北方戦争、ネーデルラント継承戦争など多くの戦いに参加した名将として知られている。なお、子孫のグラーフ・ルドルフ・モンテクッコリは第一次世界大戦直前までオーストリア=ハンガリー海軍の総司令官だった。
◇ムツィオ・アッテンドーロ(Muzio Attendolo)
モンテクッコリ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1935年8月7日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。
中部地中海及びアドリア海方面での船団護衛任務に従事した後、1942年8月中旬に英「ペデスタル」船団攻撃に従事したが、英潜水艦「アンブロークン」の攻撃を受けて大きく損傷。メッシーナで応急修復を受けた後、ナポリ港にて本格的な修復のためにドック入りとなった。しかし、1942年12月4日、修復中に米軍機の攻撃を受けて港内で撃沈されてしまった。
艦名の由来:ムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)
艦名の由来になったのは、スフォルツァ家の始祖であるムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)である。本名はジャコモ・アッテンドーロ(Giacomo Attendolo)。ロマーニャ地方出身で、兄弟らと共にアルベリーコ・ダ・バルビアーノの傭兵団に加わったが、後にフィレンツェ側に仕え、カザレッキオの戦いでボローニャ・フィレンツェ連合軍を率いた。しかし、元隊長のダ・バルビアーノに敗北した後、ナポリに仕える。ナポリで優れた才能を開花させたアッテンドーロは、イタリア最高の傭兵隊長と呼ばれるまでとなった。アッテンドーロはイタリア語で「威服者」を意味する"スフォルツァ"の称号を得、それが彼の家名となり、後にミラノを支配するスフォルツァ家の始祖となったのである。
◆ドゥーカ・ダオスタ級
(Classe Duca d’Aosta)
◇エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ(Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)
ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年7月13日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の船団護衛と、機雷原の敷設任務であった。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦や、ギリシャ領のコルフ島砲撃にも参加。
その後、英国のマルタ補給船団攻撃任務に積極的に従事する。1942年6月中旬にはダ・ザーラ提督の指揮下のもと、パンテッレリーア沖海戦に参加し、英「ハープーン」船団を迎撃する。8月中旬の英「ペデスタル」船団攻撃にも参加。更には東地中海の英軍基地砲撃の一環として、石油精製所がある英軍のハイファ港を砲撃した。休戦直前の1943年8月には、ジュゼッペ・フィオラヴァンツォ提督の指揮のもと、連合軍占領下に置かれていたパレルモへの砲撃を実行。
「ドゥーカ・ダオスタ」は第二次世界大戦時に多くの作戦に参加したが、敵軍機による航空攻撃や潜水艦による雷撃を受けなかったため、「幸運艦」と言われる。休戦後、共同交戦海軍の一員として中部大西洋における哨戒任務に従事した。戦後まで生き残ったが、平和条約の結果ソ連への賠償艦として引き渡されることとなり、1949年に「ケルチ」としてソ連海軍で就役した。1959年除籍。
艦名の由来:エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタ(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)
艦名の由来になったのは、アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)エマヌエーレ・フィリベルト。イタリア王家であるサヴォイア家の分家筋であるサヴォイア・アオスタ家の当主で、第一次世界大戦時にイタリア陸軍の第三軍を指揮した将軍である。第二次世界大戦時に東アフリカ戦線で全軍の指揮を取った空軍大将アメデーオや、「トミスラヴ2世」としてクロアチア国王となった海軍提督アイモーネの父でもあった。イタリア王族の中ではいち早くムッソリーニの支援者となった人物でもあり、ファシスト政権の成立の後押しをした。
◇エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)
ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1936年1月16日。
第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)の旗艦(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の護衛や機雷原の敷設などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。「ライモンド・モンテクッコリ」や、姉妹艦の「ドゥーカ・ダオスタ」と共にコルフ島砲撃も実行している。
何かと「ライモンド・モンテクッコリ」と共に戦果を挙げている。1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、アルベルト・ダ・ザーラ提督の旗艦として英「ハープーン」船団の迎撃に参加。「モンテクッコリ」と共に英駆逐艦「ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する働きを見せた。8月中旬に行われた英「ペデスタル」船団の迎撃にも参加している。
1942年12月4日にはナポリ港停泊時に米軍機の攻撃を受けたが、幸い損害は軽微であった。翌年1月には対空射撃で連合軍爆撃機2機を撃墜している。休戦後は共同交戦海軍の一員となり、訓練艦として使われた。1944年2月にはモナステラーチェ沖にて(おそらくかつて伊海軍が仕掛けた)機雷に当たり損傷したが、沈没は免れた。戦後、平和条約の結果、ギリシャ海軍に賠償艦として引き渡された。1951年、ギリシャ海軍の「エリ」として就役。「エリ」は第二次世界大戦時にイタリア潜水艦「デルフィーノ」によって撃沈されたギリシャ海軍の軽巡洋艦の名前でもあった。パパドプロス大佐の軍事政権では反体制派の牢獄として使われている。1973年除籍。
艦名の由来:エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)
艦名の由来は、日本ではドイツ語名のオイゲン公(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)で知られるエウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)。オーストリアに仕えた名将で、イタリア海軍のみならず、ドイツ海軍(アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」)、オーストリア海軍(テゲトフ級戦艦「プリンツ・オイゲン」)及び英国海軍(ロード・クライヴ級モニター「プリンス・ユージーン」)で艦名として採用されている。世界各国の海軍でここまで使われている人物は珍しい。なお、生まれはパリであるがフランス海軍の艦名には使われていない。
◆ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級(Classe Duca degli Abruzzi)
◇ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)
ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の1番艦。1937年12月1日就役。
やたら長い艦名で有名であるが、「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と呼ばれることが多い。第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)の旗艦(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ジュゼッペ・ガリバルディ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。
1941年3月のマタパン岬沖海戦にも参加。同年9月には英「ハルバード」船団を迎撃し、戦艦「ネルソン」「ロドニー」を中心とするH部隊をジブラルタルに追い返す働きを見せているが、ボイラーの故障によって高速能力が出せず、行動が制限された。11月21日、北アフリカへの船団護衛中に英軍機の雷撃を受け、修復を受けた。ギリシャ制圧後、エーゲ海・東地中海方面での船団護衛やハイファ砲撃などに参加した。
休戦後、共同交戦海軍の一員として南部大西洋での対潜哨戒任務に従事。戦後も新生イタリア海軍で保有する事が認められ、王制廃止後に旧王族の移送を行った。練習艦ではなく、現役の巡洋艦として長く現役で、1961年に除籍となった。
艦名の由来:ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタ(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)
艦名の由来になったのは、アブルッツィ公(ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ)ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタである。イタリア王族の一人で、サヴォイア家の分家に当たるサヴォイア・アオスタ家の人物。スペイン王アマデオ1世として知られている初代サヴォイア・アオスタ公アメデーオ・フェルディナンド・マリーア・ディ・サヴォイア・アオスタの三男。先ほど紹介したエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタの弟でもある。探検家・登山家として広く世の中に知られている他、第一次世界大戦後は東アフリカのソマリア植民地での開拓事業に尽力し、多くの功績を残している。第一次世界大戦時は海軍提督として、新型戦艦「コンテ・ディ・カヴール」を旗艦として、イタリア艦隊を指揮した。
◇ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)
ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1938年6月13日。
第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)所属(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。
その後、積極的に英船団への攻撃を実行。1940年12月のターラント空襲時には、ターラント港に停泊していたが、被害には合っていない。ターラント空襲の陽動として発生したオトラント海峡海戦に対して、素早く英艦隊の迎撃に向かったが会敵はしなかった。1941年3月のマタパン岬沖海戦には「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に参加している。7月28日、マレッティモ島沖にて英潜水艦「アップホルダー」の雷撃を受けて損傷、大きく浸水したが船員の優れたダメージコントロールの結果、被害を最小限に抑える事が出来た。約4カ月の修復の後、艦隊に復帰。
その後、北アフリカへの船団護衛に積極的に従事。休戦後は共同交戦海軍の一員として、地中海や中部大西洋での哨戒任務に従事している。戦後も新生イタリア海軍での保有が認められ、更には1961年にはイタリア海軍初のミサイル巡洋艦として改修を受け、再就役している。ポラリスミサイル発射筒が搭載されたが、核弾頭を搭載したポラリスミサイルの配備を巡ってイタリア国内は荒れ、結局は配備されなかった。1978年除籍。
艦名の由来:
ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)
艦名の由来になったのはジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、カヴールとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」。イタリアの国民的な英雄であり、イタリア最大の名将と称される。イタリアだけでなく、南米でも軍事的な功績を挙げ、「二つの世界の英雄」と呼ばれた。最も有名な実績は、リソルジメントにおいて、赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸し、そこからイタリア南部に攻め入り、両シチリア王国を征服したことである。その後、征服地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア統一に大きく貢献した。
◆カピターニ・ロマーニ級
(Classe Capitani Romani)
◇アッティーリオ・レゴロ(Attilio Regolo)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1942年5月14日。
就役時期的にはイタリア海軍と英海軍がマルタを巡って熾烈に争っていた頃で、「アッティーリオ・レゴロ」の就役から1カ月後には、英海軍の「ハープーン」船団及び「ヴィガラス」船団阻止のために、イタリア海軍は主力艦隊を派遣し、イアキーノ提督とダ・ザーラ提督の活躍で勝利を手にすることが出来た。就役後、「アッティーリオ・レゴロ」は機雷敷設の任務に従事することとなり、水雷艇数隻と共に11月7日にシチリア南部の海域に機雷の敷設に向かった。この頃、イタリア海軍の燃料は既に枯渇状態に近く、主力艦隊の運用はほぼ不可能であった。更に、今まで善戦していた北アフリカ戦線の状況も逆転しており、戦況は悪い方向に向かっていた。イタリア艦隊の出動は資源の少なさ故に困難、しかし戦況は悪化している、となるとシチリア防衛のためにも機雷原の敷設が急務となったのである。
「アッティーリオ・レゴロ」は機雷の敷設に成功し、母港に帰還する最中だった。そこで悪夢は起こった。シチリア島西部沖にて、英国海軍のU級潜水艦「アンラッフルド」の襲撃を受けたのである。「アンラッフルド」の魚雷攻撃によって、「アッティーリオ・レゴロ」の艦首は吹き飛ばされたが、不幸中の幸いにも撃沈には至らなかった。「アッティーリオ・レゴロ」は同行していた艦に曳航され、何とかメッシーナ港に辿り着いた。その後、修復のためにラ・スペツィア軍港に移動されたが、艦種の修復には建造中の同型艦「カイオ・マリオ」の艦首が使われたのであった。1943年5月に「アッティーリオ・レゴロ」は修復から回復したが、特に作戦に投入されることはなく、休戦まで目立った行動はしなかった。
1943年9月8日、イタリア王国政府は突如休戦を宣言した。しかし、海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督や、艦隊司令官カルロ・ベルガミーニ提督といった海軍首脳部はこれを当日まで知らされておらず、海軍内部は非常に混乱した。海軍首脳部でさえ情報を把握していなかった以上、当然現場の軍人たちは全くの無知であった。休戦当時、「アッティーリオ・レゴロ」はラ・スペツィア軍港にいた。「アッティーリオ・レゴロ」は戦艦「ローマ」を旗艦とするベルガミーニ提督の艦隊と共に連合軍への登降命令を守るために出発した。ドイツ空軍の襲撃を受けた「アッティーリオ・レゴロ」はバレアレス諸島のマオン湾に到着した。「アッティーリオ・レゴロ」は拿捕されることとなったが、北イタリアにイタリア社会共和国(RSI政権)が成立すると、「アッティーリオ・レゴロ」の船員の中でも南部の王国政府を支持する一派と、北部の社会共和国を支持する一派に分裂することになり、両陣営は対立した。バレアレス諸島を支配するスペインは中立国であったため、「アッティーリオ・レゴロ」の船員たちはそれぞれ自らが支持する陣営の方に合流することとなった。その後も「アッティーリオ・レゴロ」はスペイン当局によって拿捕されていたが、1945年に入ると王国政府の外交交渉の末に、ようやく「アッティーリオ・レゴロ」は解放され、ターラント軍港に帰還した。
こうして戦後まで生き残った「アッティーリオ・レゴロ」であったが、パリ講和条約によって「アッティーリオ・レゴロ」は同型艦「シピオーネ・アフリカーノ」と共にフランス海軍に賠償艦として引き渡された。その後、「シャトールノー」と改称され、1969年までフランス海軍に所属した後、解体された。
艦名の由来:マルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)
艦名の由来になったのは、第一次ポエニ戦争でローマ軍を指揮したマルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)のイタリア語読み「マルコ・アッティーリオ・レゴロ」から。カピターニ・ロマーニ級は古代ローマの人物名を由来としている。
◇シピオーネ・アフリカーノ(Scipione Africano)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年4月23日。
「シピオーネ・アフリカーノ」が就役した頃、既に北アフリカ戦線は最終局面を迎えていた。もはやチュニジアで奮戦する枢軸軍に希望は無い状態であった。5月13日に北アフリカ全軍の司令官であったジョヴァンニ・メッセ将軍が降伏すると、北アフリカは完全に失墜した。北アフリカが連合国の手に落ちた以上、最早イタリア本土戦は秒読みとなっていた。連合国軍の猛攻によって、パンテッレリーア島やランペドゥーザ島といった地中海の島々が制圧され、遂に7月になるとシチリアにまで連合軍は上陸した。
この状態でも主力艦隊が石油の枯渇で出動出来ないイタリア海軍は、連合軍に制海権を奪われており、完全に手詰まりとなっていた。その状況で、封鎖されたメッシーナ海峡を突破する作戦がイタリア海軍で立案され、それを実行する艦として、軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」が選ばれたのである。7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発、メッシーナ海峡に向かった。7月17日の早朝に海峡の突破作戦「シッラ」が発動され、「シピオーネ・アフリカーノ」は早朝2時に英海軍が封鎖するメッシーナ海峡に侵入した。イタリア海軍は元々レーダー技術の不足から、夜間戦闘が大の苦手であった。そのため、マタパン岬の海戦では惨敗を喫し、巡洋艦3隻を一度に失う損害を被ったのである。
それ以降、イタリア艦隊は夜戦を避けていたのであるが、新鋭のレーダー「グーフォ」を備えた「シピオーネ・アフリカーノ」にはその必要は無かった。「シピオーネ・アフリカーノ」はメッシーナ海峡突破時、海峡を哨戒する4隻の英国海軍の魚雷艇に発見され、攻撃を受けたが、「シピオーネ・アフリカーノ」はその高速能力を生かして、レーダーの力で夜戦の主導権を握った。こうして「シピオーネ・アフリカーノ」は海峡の突破に成功し、ターラント軍港に到着したのであった。
「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦「ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。なお、この時「シピオーネ・アフリカーノ」の機関長を務めたのはウンベルト・バルデッリ少佐で、後にRSI軍「デチマ・マス」の海兵大隊「バルバリーゴ」の司令官を務めた人物である。
休戦後は南部の王国政府に合流し、共同交戦海軍の一員として主に輸送任務に従事した。戦後、パリ講和条約でフランス海軍の賠償艦として引き渡されることが決定となり、その後フランス海軍で「ギシャン」として就任、1976年まで使われた。
艦名の由来:スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)
艦名の由来になったのは、第二次ポエニ戦争でカルタゴのハンニバルを打ち破った人物として知られているスキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)。このイタリア語読みが「シピオーネ・アフリカーノ」である。漫画『ドリフターズ』にも登場。
◇ポンペオ・マーニョ(Pompeo Magno)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年6月24日。
「ポンペオ・マーニョ」は6月4日の竣工後、間もなく就役となった。ターラント軍港での配備となり、他の同型艦と同様に機雷敷設任務に従事。就任時期故に、同艦が任務に従事したのは休戦までの僅か3カ月となったが、ターラントを母港として10回の機雷敷設任務に従事した。7月12日深夜から13日早朝に掛けて、「ポンペオ・マーニョ」はメッシーナ海峡にて5隻の英国海軍の魚雷艇と遭遇したが、その性能を生かして、2隻を撃沈、1隻を大破させる活躍を見せた。
9月8日の休戦時、「ポンペオ・マーニョ」はターラント軍港にいた。当時のターラント軍港には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」及び「アンドレア・ドーリア」、そして「ポンペオ・マーニョ」と同型艦の「シピオーネ・アフリカーノ」、更に軽巡洋艦「ルイージ・カドルナ」が停泊していた。その他、駆逐艦、水雷艇、潜水艦、コルベットが16隻ほどあったが、多くは任務中で連合軍への引き渡しを遂行できる準備は出来ていなかった。
連合軍への引き渡し後、「ポンペオ・マーニョ」は共同交戦海軍に所属し、「シピオーネ・アフリカーノ」と共に主に輸送任務に従事した。戦後、「ポンペオ・マーニョ」はイタリア海軍で引き続き就役する事が許可された数少ない艦艇の一つであった。改修後、駆逐艦「サン・ジョルジョ」として1955年に再就役することとなり、1987年に解体された。
艦名の由来:グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)
艦名の由来となったのは、カエサルとクラッススと共に三頭政治をやったグナエウス・ポンペイウス・マグヌスから。彼のイタリア語読みがニェオ・ポンペオ・マーニョである。マーニョ(マグヌス)は「偉大な」とか「大いなる」とかそういう意味で、例えば、カルロマーニョ(シャルルマーニュ)やマーニャ・グレーチャ(マグナ・グラエキア)といった感じで使われる。なお、戦間期にムッソリーニが日本に贈った白虎隊の慰霊碑は彼の廟の柱を使ったものらしい。
◇ジュリオ・ジェルマニコ(Giulio Germanico)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。
休戦時(1943年9月8日)にはまだ未完成の状態であったが、94%完成しており、既に艦長ドメニコ・バッフィーゴ少佐ら乗組員は乗艦していた。休戦時、「ジュリオ・ジェルマニコ」はナポリ近郊のカステッランマーレ・ディ・スタービアにいた。そろそろ艦の完成間近という段階で、イタリアの休戦が突如発表されたのであった。
イタリア休戦後、ドイツ軍はイタリア艦隊の拿捕のためにカステッランマーレ・ディ・スタービア港への攻撃を開始した。3日間の激しい戦闘の末、バッフィーゴ艦長らは降伏交渉の場に招かれた。しかし、ドイツ軍はバッフィーゴ艦長ら「ジュリオ・ジェルマニコ」の船員らを虐殺し、「ジュリオ・ジェルマニコ」を拿捕したのであった。
しかし、「ジュリオ・ジェルマニコ」がドイツ海軍の旗の下で使われる事は無かった。連合軍がイタリア本土に進撃を始めると、ドイツ軍はカステッランマーレ・ディ・スタービアから撤退を開始し、「ジュリオ・ジェルマニコ」はドイツ人の手によって自沈されることとなったからである。殺害されたバッフィーゴ艦長らは戦後、金勲章を受勲された。戦後、イタリア海軍によって浮揚・修復された「ジュリオ・ジェルマニコ」は、共和国海軍の一員として就任する事が講和条約によって許可されることとなり、駆逐艦「サン・マルコ」として1956年に再就役した。1971年に解体。
艦名の由来:ゲルマニクス・ユリウス・カエサル(Germanicus Julius Caesar)
艦名の由来は、アルミニウス率いるゲルマン軍と戦いを繰り広げたローマ帝国の指揮官、ゲルマニクスから。有能な指揮官であり、非常に人気が高かった。彼のイタリア語読みがジェルマニコ・ジュリオ・チェーザレ。
◇ウルピオ・トライアーノ(Ulpio Traiano)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。
進水は1942年11月30日。1943年1月3日、パレルモ港にて英海軍の人間魚雷「チャリオット」の攻撃によって撃沈された。戦後に浮揚、解体。
艦名の由来:トラヤヌス帝(Trajanus)
艦名の由来になったのは、ローマ皇帝のトラヤヌスのイタリア語読み「トライアーノ(Traiano)」から。ローマ皇帝の中でも特に名君と言われ、ローマ帝国最大の版図を実現した人物。現在もトラヤヌス時代に作られた建築は多く残っている。なお、属州ヒスパニアの出身であり、初の属州出身のローマ皇帝である。
◇オッタヴィアーノ・アウグスト(Ottaviano Augusto)
カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。
進水は1942年5月31日。休戦時はアンコーナ港にいたが、連合軍に引き渡すには準備が出来ておらず、侵攻してきたドイツ軍によって拿捕された。1943年11月1日に連合軍のアンコーナ爆撃によって撃沈され、戦後に浮揚・解体された。
艦名の由来:アウグストゥス帝(Augustus)
艦名の由来は、言わずと知れた初代ローマ皇帝アウグストゥスのイタリア語読み「アウグスト(Augusto)」。また、元々の名前であるオクタヴィアヌスのイタリア語読み「オッタヴィアーノ(Ottaviano)」から。
以降のカピターニ・ロマーニ級軽巡は、
「カイオ・マリオ(Caio Mario)」
「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」
「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)」
「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」
「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」
「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」
が存在するが、いずれも未完成。以下、モデルとなった人名のみを記載。
「カイオ・マリオ(Caio Mario)」
→共和政ローマ時代の軍人ガイウス・マリウスのイタリア語読み。
「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」
→共和政ローマ時代の軍人コルネリウス・スッラのイタリア語読み。
「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)」
→大ドルススのイタリア語読み。
「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」
→ティベリウス帝のイタリア語読み。
「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」
→共和政ローマ時代の軍人ルキウス・アエミリウス・パウッルスのイタリア語読み。
「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」
→アグリッパのイタリア語読み。
ざっと全体を見てみると、第二次世界大戦時のイタリア海軍の大型・中型艦(戦艦・水上機母艦・巡洋艦)で人名由来の艦名だと、多いのは陸軍の司令官である。海軍軍人となると、カイオ・ドゥイリオ級戦艦の「カイオ・ドゥイリオ(ガイウス・ドゥイリウス)」と「アンドレア・ドーリア」、ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」、あと海軍航空隊のパイロットであるが、水上機母艦の「ジュゼッペ・ミラーリア」くらいだ。
潜水艦や駆逐艦といった小型艦では、海軍提督や航海士の人名由来の艦名が多くみられるが、大型・中型艦では比較的少ないことがわかった。次回の更新でも引き続き人名由来の艦名について調べてみることとしよう。
続き