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第二次世界大戦時のイタリア艦名の由来になった人物を調べてみた!第一弾:大型・中型艦(戦艦・水上機母艦・巡洋艦)編

第二次世界大戦時のイタリア海軍では人名を用いた艦名が多く採用されているというか、第二次世界大戦時のイタリア海軍のみならず、欧州諸国やアメリカ諸国では人名を用いた艦名を採用する例は結構多い。寧ろ、人名を艦名に全く採用しない日本海軍が異質とも言えるが、そこは文化の違いであろう(戦艦「織田信長」とかあっても良さそうだとは思うけど)。

以前、とある萌えミリ本で「イタリア海軍はロクな海軍軍人がいないから艦名に芸術家の名前を使う」ということが書かれていたのを見たが、当然ながらこれは間違いである。というか、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国など、海洋共和国として栄えた国家がイタリアには多く存在し、当然その海軍は強力なものであった。アンドレア・ドーリアを始め、イタリア海軍の艦名に採用された海軍軍人も多い。逆に、芸術家の名前はレオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか採用されていないため、完全に事実の誤認である(ジョークと受け取れなくもないが)。

そこで、今回は第二次世界大戦時のイタリア海軍の艦名に採用された人物が、どのような人物であったか調べてみる事としよう。数が多いので、ブログでは三回に分けて調べようと思う。今回は大型・中型艦の戦艦・水上機母艦巡洋艦について調べ、次回の第二回に小型艦艇(駆逐艦水雷艇)を、最後の第三回に潜水艦について調べてみることとする。

 

□戦艦(Corazzata)

◆コンテ・ディ・カヴール級

(Classe Conte di Cavour)

◇コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)

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戦艦「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」

コンテ・ディ・カヴール級戦艦の1番艦。1915年4月1日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月1日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで、姉妹艦の「ジュリオ・チェーザレ」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

しかし、11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。他の被害があった艦は修復を済ませて復帰したが、「カヴール」は損傷が激しく、結局休戦までに修復が終わらなかった(イタリア海軍は駆逐艦などを優先したため、修復も非常に遅れたため)。休戦後、ドイツ軍に接収され、名目上イタリア社会共和国(RSI政権)海軍籍の扱いになったが、修復は完了せず撤退時に爆破された。現在のイタリア海軍の航空母艦の1隻にも、「カヴール」の名前が付けられている。

艦名の由来:

カミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)

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カミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)

艦名の由来になったのはカミッロ・カヴール(Camillo Benso di Cavour)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、ガリバルディとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」イタリア王国初代首相で、サルデーニャ王国最後の宰相。卓越した外交手腕で大国の支持を取り付け、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)を達成した人物だ。なお、Conte di Cavour(コンテ・ディ・カヴール)は「カヴール伯」の意味で、彼の爵位名である。

 

ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)

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戦艦「ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)」

コンテ・ディ・カヴール級戦艦の2番艦。1914年5月14日竣工。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1937年6月3日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つで、ドゥイリオ級の再就役やリットーリオ級の就役まで主力艦隊司令官イニーゴ・カンピオーニ提督の旗艦となり、姉妹艦の「コンテ・ディ・カヴール」と共に主力艦隊の一翼を担った。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

その後も、テウラダ岬沖海戦(スパルティヴェント岬沖海戦)や第一次シルテ湾海戦といった大規模海戦に参加。戦争を生き抜いたが、戦後はソ連に賠償艦として引き渡され、黒海艦隊の主力戦艦「ノヴォロシースク」として就役した。しかし、1955年10月29日に原因不明の爆沈で失われた(イタリア海軍の工作員による破壊工作が原因とも言われている)。

艦名の由来:

ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)

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ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)

艦名の由来になったのは、ご存じローマの独裁官ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)のイタリア語読み、ジュリオ・チェーザレ(Giulio Cesare)である。日本での知名度も非常に高く、古代ローマといったらこの人、という認識でもあるだろう。

 

◆カイオ・ドゥイリオ級

(Classe Caio Duilio)

◇カイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)

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戦艦「カイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)」

カイオ・ドゥイリオ級の1番艦。竣工は1915年5月10日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年7月15日に再就役した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。しかし、1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受け、大破着底。その後、修復工事を受けて1941年5月に艦隊に復帰し、7月から任務を再開した。その後も主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。

艦名の由来:

ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)

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ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)

艦名の由来になったのは、ガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)共和政ローマの艦隊司令官で、紀元前260年の「ミラエ沖の海戦」でカルタゴ海軍を破り、ローマ海軍初の勝利を手に入れた提督だ。彼のイタリア語読みがカイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)である。すなわち、ローマの海戦史において最初の勝利を手に入れた人物である。

 

アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

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戦艦「アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)」

カイオ・ドゥイリオ級の2番艦。竣工は1916年3月13日。第一次世界大戦を戦った後、大規模改修を受けて1940年10月26日に艦隊に復帰した。

第二次世界大戦時はイタリア海軍の主力戦艦の一つとして、船団護衛任務に従事した。1940年11月のターラント空襲で英軍雷撃機の攻撃を受けたが、被害を受けなかった。そのため、リットーリオ級戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」やコンテ・ディ・カヴール級戦艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に、ターラント空襲で大打撃を受けたイタリア海軍にとって主力戦艦の1隻として重宝され、マルタ船団の妨害や英艦隊の迎撃に従事。

姉妹艦の「カイオ・ドゥイリオ」の復帰後は主にリビア船団の船団護衛に従事し、第一次シルテ湾海戦でも主力戦艦の1隻として英艦隊と交戦している。大戦を生き抜いた後、戦後も旧式艦故に「カイオ・ドゥイリオ」と共に新生イタリア共和国海軍でも保有が認められ、1956年まで現役だった。

艦名の由来

アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

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アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)

 艦名の由来になったのはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)ジェノヴァ共和国の代表的な海軍提督で、ジェノヴァの名門ドーリア家の出身。その勇ましさから「地中海のサメ」と呼ばれた優秀な海軍提督だったが、元は陸軍の軍人で海軍の指揮官となったのは40歳を超えてからだった。「海の傭兵」としてフランスや神聖ローマ帝国に仕え、80歳越えても現役で戦い、当時地中海の覇者であったオスマン帝国海軍と激しい戦いを繰り広げた。

 

航空母艦(Portaerei)

航空母艦に人名由来の艦名はない。

 

水上機母艦(nave appoggio idrovolanti)

同型艦なし

◇ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

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水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)」

第二次世界大戦時のイタリア海軍が保有した唯一の水上機母艦同型艦はない。竣工は1927年11月1日。

元々はイタリア国鉄によって列車輸送船「チッタ・ディ・メッシーナ(Città di Messina)」として発注されたものの、途中でイタリア海軍が購入し、水上機母艦として完成した。1925年に船体がほぼ完成したが、暴風雨で転覆したために新たにプリエーゼ式水雷防御を搭載して1927年に竣工した。

水上機母艦であったが、水上機の運用のみならず多用途艦として使われ、戦車を始めとする兵器や人員の輸送にも使われている。艦載機に関しては水上機のみならず、艦上戦闘機(レッジアーネ Re.2000戦闘機)のカタパルト発進も可能であった。戦後、新生イタリア海軍は航空母艦保有を禁じられていたが、「ジュゼッペ・ミラーリア」の保有は認められ、復員輸送艦として使われた。1950年除籍。

艦名の由来:

ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

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ジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)

艦名の由来になったのはジュゼッペ・ミラーリア(Giuseppe Miraglia)という海軍航空隊のパイロットである。「英雄詩人」ガブリエーレ・ダンヌンツィオの友人で、第一次世界大戦では水上機パイロットとしてアドリア海沿岸のオーストリア軍基地攻撃で活躍したが、1915年の試験飛行時に事故死してしまった。

 

装甲巡洋艦(Incrociatore corazzato)

◆サン・ジョルジョ級

(Classe San Giorgio)

◇サン・ジョルジョ(San Giorgio)

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装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ(San Giorgio)」

サン・ジョルジョ級装甲巡洋艦の1番艦。竣工は1910年7月1日で、第一次世界大戦を戦った後に練習艦として近代化改修を受け、1938年に再就役した。スペイン内戦にも派遣されている。

旧式艦であったが、第二次世界大戦時にトブルク軍港の防衛のために配備され、対空巡洋艦として防衛の要となった。イタロ・バルボ空軍元帥の誤撃墜事件にも関与しており、「サン・ジョルジョ」と陸上基地からの対空射撃がバルボ元帥の乗る航空機を敵機と誤認して撃墜してしまった。トブルク防衛戦でステーファノ・プリエーゼ艦長の元で「サン・ジョルジョ」は最後まで奮戦し、敵機からの激しい攻撃を受けて行動不能になった後、1941年1月22日、鹵獲を防ぐために自沈した。

艦名の由来:聖ゲオルギオス(San Giorgio)

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聖ゲオルギオス(San Giorgio)

艦名の由来となったのは、キリスト教の聖人である聖ゲオルギオス。このイタリア語読みがサン・ジョルジョ(San Giorgio)である。世界各国で聖人として崇められており、モスクワの守護聖人としても知られている。イングランド国旗であるセント・ジョージ・クロスは聖ゲオルギオスのシンボル。イタリアでも様々な町の守護聖人になっている。

 

重巡洋艦(Incrociatore pesante)

重巡洋艦には人名由来の艦名はない。

 

軽巡洋艦(Incrociatore leggero)

◆ディ・ジュッサーノ級

(Classe Di Giussano)

◇アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

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軽巡洋艦「アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)」

ディ・ジュッサーノ級軽巡洋艦ネームシップ。就役は1931年1月1日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」と共に参加した。その高速能力を生かして「ダ・バルビアーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈されてしまった。

艦名の由来:

アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

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アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)

艦名の由来になったのは、ロンバルディア同盟軍を率いて、「赤髭王(バルバロッサ)」フリードリヒ1世率いる神聖ローマ帝国軍に勝利したという、伝説的な英雄アルベルト・ディ・ジュッサーノ(Alberto di Giussano)である。ロンバルディアの英雄とされ、2019年4月現在、イタリアの与党になっている政党「同盟(Lega)」は地域政党時代の「北部同盟(Lega Nord)」の頃からシンボルとして採用している。

 

◇アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

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軽巡洋艦「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1931年6月9日。

第二次世界大戦参戦時、イニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下の第四巡洋艦隊(アルベルト・マレンコ提督指揮)の旗艦だった(母港はターラント)。第二次世界大戦初の地中海での大規模海戦である「プンタ・スティーロ沖海戦」にも姉妹艦の「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」と共に参加した。その後、アントニーノ・トスカーノ提督率いる第四巡洋艦隊旗艦として、その高速能力を生かして「ディ・ジュッサーノ」と共に北アフリカ戦線への燃料輸送任務についたが、1941年12月13日、ボン岬沖夜戦で撃沈された。

艦名の由来:アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

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アルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)

艦名の由来となったのは、14~15世紀のロマーニャ地方のコンドッティエーロ(傭兵隊長)であるアルベリーコ・ダ・バルビアーノ(Alberico da Barbiano)イタリア初の傭兵隊長として知られているサン・ジョルジョ傭兵団を率いた人物で、教皇ウルバヌス6世に雇われてアヴィニョン教皇庁の対立教皇であるクレメンス7世の軍勢と戦ったり、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの元で戦ったりした。

 

◇バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

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軽巡洋艦「バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)に所属(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦での交戦の結果撃沈、戦没した。

艦名の由来:バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

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バルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)

艦名の由来となったのは、15世紀のコンドッティエーロであるバルトロメオ・コッレオーニ(Bartolomeo Colleoni)ヴェネツィア共和国に雇われた傭兵隊長として知られ、ベルガモにある優美なコッレオーニ礼拝堂は彼に捧げられたものである。15世紀の代表的な戦術家とも言われる名将で、ヴェネツィア共和国の発展に貢献した。

 

ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

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軽巡洋艦ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)」

ディ・ジュッサーノ級の1隻。就役は1932年2月10日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第二巡洋艦隊(フェルディナンド・カサルディ提督指揮)の旗艦だった(母港はラ・スペツィア)。主に北アフリカ船団の船団護衛任務に従事していたが、1940年7月19日、スパダ岬沖海戦では交戦の結果姉妹艦である「バルトロメオ・コッレオーニ」が撃沈され、敵艦の攻撃で損傷するが、追撃を振り切ることに成功した。

その後、高速能力を生かして姉妹艦の「ディ・ジュッサーノ」や「ダ・バルビアーノ」などと共に北アフリカへの燃料輸送任務に従事する。姉妹艦が撃沈される中、唯一生き残り任務を成功させた。以降は船団護衛任務や機雷敷設任務などに従事。1942年3月22日の第二次シルテ湾海戦では英軽巡クレオパトラ」を砲撃で損傷させ、イタリア艦隊の勝利に貢献している。しかし、1942年4月2日、ストロンボリ島沖にて英潜水艦「アージ」の雷撃を受けて撃沈された。

艦名の由来:ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

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ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)

艦名の由来になったのは、16世紀のコンドッティエーロであるジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni delle Bande Nere)。本名はルドヴィーコ・ディ・ジョヴァンニ・デ・メディチ(Ludovico di Giovanni de' Medici)で、その名の通りフィレンツェの名門メディチ家の出身である。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。イタリア語で「黒帯」を意味するバンデ・ネーレは通り名だった。

 

 ◆カドルナ級(Classe Cadorna)

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

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軽巡洋艦ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)」

カドルナ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1933年8月11日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務と機雷敷設任務に従事している。その高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事した

1942年からは訓練艦としてポーラ軍港を母港とした。1943年5月~6月には改装工事を受けた後、艦隊に復帰。兵員輸送任務にも従事した他、カピターニ・ロマーニ級軽巡と共に本土決戦に備えて南イタリア沿岸に機雷を敷設している。戦後まで生き残り、新生イタリア海軍でも保有が許されたが、旧式艦故に短期間訓練艦として使われたのみで、1951年に除籍となった。

艦名の由来:

ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

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ルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤までイタリア軍参謀総長としてイタリア軍の総指揮を取ったルイージ・カドルナ(Luigi Cadorna)将軍である。ファシスト政権期に第一次世界大戦時の戦果によって元帥に昇進した。父ラッファエーレは教皇領ローマ侵攻で活躍した軍人であり、軍人一家のカドルナ家出身。息子のラッファエーレJr.も第二次世界大戦時はローマ防衛司令官であり、休戦後にレジスタンス軍「CVL」を組織してその指揮を取っている。とはいえ、ルイージ・カドルナ自身は第一次世界大戦時の指揮で失敗し、カポレットの大敗でディアズ将軍と交代になったことから、評価は低い(言ってしまえば無能)。

 

アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

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軽巡洋艦アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)」

カドルナ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1933年4月29日。

第二次世界大戦参戦時はカンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第四巡洋艦隊に所属(母港はターラント)。第二次世界大戦時は主に船団護衛任務に従事しているその高速能力を生かして北アフリカへの弾薬・燃料の輸送任務にも従事したが、1941年2月25日にケルケナ諸島沖にて英潜水艦「アップライト」によって撃沈された。

艦名の由来:

アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

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アルマンド・ディアズ(Armando Diaz)

艦名の由来になったのは、第一次世界大戦中盤以降のイタリア軍参謀総長としてイタリア軍を指揮したアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍である。カドルナ将軍の指揮の結果起こったカポレットの大敗からイタリア軍を立て直し、最終的にヴィットーリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍を完全撃破、第一次世界大戦におけるイタリアの勝利の最大の貢献者とも言える名将である。その戦果によって国王から「戦勝公(Duca della Vittoria)」という称号が与えられた他、ファシスト政権期にはムッソリーニ内閣初期の陸軍大臣を務め、更に元帥に昇進した。

 

◆モンテクッコリ級(Classe Montecuccoli)

◇ライモンド・モンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli)

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軽巡洋艦「ライモンド・モンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli)」

モンテクッコリ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年6月30日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。

1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、ドゥーカ・ダオスタ級軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に活躍し、英国の「ハープーン」船団を迎撃。英駆逐艦ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する事に成功する活躍を見せた。8月中旬の「ペデスタル」船団攻撃にも従事している。

同年12月4日にはナポリ港停泊中に米軍機の爆撃を受け大破し、1943年の休戦直前に修復が完了している。その後、パレルモ沖の米船団を「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」と共に攻撃した後、休戦を迎えた。戦後まで生き残り、その高速能力を生かして復員輸送船として活躍している。新生イタリア海軍でも保有が認められ、1964年まで練習艦として機能した。解体後、船体の一部(マストと砲)はウンブリア州ペルージャにあるテーマパーク「チッタ・デッラ・ドメニカ」に保存されている。

 艦名の由来:

ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)

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ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)

艦名の由来になったのは、17世紀に活躍した神聖ローマ帝国軍元帥ライモンド・モンテクッコリ伯(Raimondo Montecuccoli)神聖ローマ帝国軍を率いた将軍で、三十年戦争カストロ戦争、第四次墺土戦争、北方戦争ネーデルラント継承戦争など多くの戦いに参加した名将として知られている。なお、子孫のグラーフ・ルドルフ・モンテクッコリは第一次世界大戦直前までオーストリア=ハンガリー海軍の総司令官だった。

 

◇ムツィオ・アッテンドーロ(Muzio Attendolo)

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軽巡洋艦「ムツィオ・アッテンドーロ(Muzio Attendolo)」

モンテクッコリ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1935年8月7日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦にも参加。

中部地中海及びアドリア海方面での船団護衛任務に従事した後、1942年8月中旬に英「ペデスタル」船団攻撃に従事したが、英潜水艦「アンブロークン」の攻撃を受けて大きく損傷。メッシーナで応急修復を受けた後、ナポリ港にて本格的な修復のためにドック入りとなった。しかし、1942年12月4日、修復中に米軍機の攻撃を受けて港内で撃沈されてしまった。

艦名の由来:ムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)

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ムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)

艦名の由来になったのは、スフォルツァ家の始祖であるムツィオ・アッテンドーロ・スフォルツァ(Muzio Attendolo Sforza)である。本名はジャコモ・アッテンドーロ(Giacomo Attendolo)。ロマーニャ地方出身で、兄弟らと共にアルベリーコ・ダ・バルビアーノの傭兵団に加わったが、後にフィレンツェ側に仕え、カザレッキオの戦いでボローニャフィレンツェ連合軍を率いた。しかし、元隊長のダ・バルビアーノに敗北した後、ナポリに仕える。ナポリで優れた才能を開花させたアッテンドーロは、イタリア最高の傭兵隊長と呼ばれるまでとなった。アッテンドーロはイタリア語で「威服者」を意味する"スフォルツァ"の称号を得、それが彼の家名となり、後にミラノを支配するスフォルツァ家の始祖となったのである。

 

◆ドゥーカ・ダオスタ級

(Classe Duca d’Aosta)

◇エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ(Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)

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軽巡洋艦「エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ(Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)」

ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の1番艦。就役は1935年7月13日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)所属(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の船団護衛と、機雷原の敷設任務であった。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。第一次シルテ湾海戦や、ギリシャ領のコルフ島砲撃にも参加。

その後、英国のマルタ補給船団攻撃任務に積極的に従事する。1942年6月中旬にはダ・ザーラ提督の指揮下のもと、パンテッレリーア沖海戦に参加し、英「ハープーン」船団を迎撃する。8月中旬の英「ペデスタル」船団攻撃にも参加。更には東地中海の英軍基地砲撃の一環として、石油精製所がある英軍のハイファ港を砲撃した。休戦直前の1943年8月には、ジュゼッペ・フィオラヴァンツォ提督の指揮のもと、連合軍占領下に置かれていたパレルモへの砲撃を実行。

「ドゥーカ・ダオスタ」は第二次世界大戦時に多くの作戦に参加したが、敵軍機による航空攻撃や潜水艦による雷撃を受けなかったため、「幸運艦」と言われる。休戦後、共同交戦海軍の一員として中部大西洋における哨戒任務に従事した。戦後まで生き残ったが、平和条約の結果ソ連への賠償艦として引き渡されることとなり、1949年に「ケルチ」としてソ連海軍で就役した。1959年除籍。

艦名の由来:エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタ(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)

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エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタ(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)

艦名の由来になったのは、アオスタ公(ドゥーカ・ダオスタ)エマヌエーレ・フィリベルトイタリア王家であるサヴォイア家の分家筋であるサヴォイア・アオスタ家の当主で、第一次世界大戦時にイタリア陸軍の第三軍を指揮した将軍である。第二次世界大戦時に東アフリカ戦線で全軍の指揮を取った空軍大将アメデーオや、「トミスラヴ2世」としてクロアチア国王となった海軍提督アイモーネの父でもあった。イタリア王族の中ではいち早くムッソリーニの支援者となった人物でもあり、ファシスト政権の成立の後押しをした。

 

◇エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

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軽巡洋艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)」

ドゥーカ・ダオスタ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1936年1月16日。

第二次世界大戦参戦時はリッカルド・パラディーニ提督率いる第二艦隊隷下第七巡洋艦隊(ルイージ・サンソネッティ提督指揮)の旗艦(母港はラ・スペツィア)。主な任務は輸送船団の護衛や機雷原の敷設などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。「ライモンド・モンテクッコリ」や、姉妹艦の「ドゥーカ・ダオスタ」と共にコルフ島砲撃も実行している。

何かと「ライモンド・モンテクッコリ」と共に戦果を挙げている。1942年6月中旬に発生したパンテッレリーア沖海戦では、アルベルト・ダ・ザーラ提督の旗艦として英「ハープーン」船団の迎撃に参加。「モンテクッコリ」と共に英駆逐艦ベドウィン」及び大型タンカー「ケンタッキー」を撃沈する働きを見せた。8月中旬に行われた英「ペデスタル」船団の迎撃にも参加している。

1942年12月4日にはナポリ港停泊時に米軍機の攻撃を受けたが、幸い損害は軽微であった。翌年1月には対空射撃で連合軍爆撃機2機を撃墜している。休戦後は共同交戦海軍の一員となり、訓練艦として使われた。1944年2月にはモナステラーチェ沖にて(おそらくかつて伊海軍が仕掛けた)機雷に当たり損傷したが、沈没は免れた。戦後、平和条約の結果、ギリシャ海軍に賠償艦として引き渡された。1951年、ギリシャ海軍の「エリ」として就役。「エリ」は第二次世界大戦時にイタリア潜水艦「デルフィーノ」によって撃沈されたギリシャ海軍の軽巡洋艦の名前でもあった。パパドプロス大佐の軍事政権では反体制派の牢獄として使われている。1973年除籍。

艦名の由来:エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

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エウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)

艦名の由来は、日本ではドイツ語名のオイゲン公(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)で知られるエウジェニオ・ディ・サヴォイア(Eugenio di Savoia)オーストリアに仕えた名将で、イタリア海軍のみならず、ドイツ海軍(アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦プリンツ・オイゲン」)、オーストリア海軍(テゲトフ級戦艦「プリンツ・オイゲン」)及び英国海軍(ロード・クライヴ級モニター「プリンス・ユージーン」)で艦名として採用されている。世界各国の海軍でここまで使われている人物は珍しい。なお、生まれはパリであるがフランス海軍の艦名には使われていない。

 

◆ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級(Classe Duca degli Abruzzi)

ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)

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軽巡洋艦ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)」

ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の1番艦。1937年12月1日就役。

やたら長い艦名で有名であるが、「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と呼ばれることが多い。第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)の旗艦(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ジュゼッペ・ガリバルディ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

1941年3月のマタパン岬沖海戦にも参加。同年9月には英「ハルバード」船団を迎撃し、戦艦「ネルソン」「ロドニー」を中心とするH部隊をジブラルタルに追い返す働きを見せているが、ボイラーの故障によって高速能力が出せず、行動が制限された。11月21日、北アフリカへの船団護衛中に英軍機の雷撃を受け、修復を受けた。ギリシャ制圧後、エーゲ海・東地中海方面での船団護衛ハイファ砲撃などに参加した。

休戦後、共同交戦海軍の一員として南部大西洋での対潜哨戒任務に従事。戦後も新生イタリア海軍で保有する事が認められ、王制廃止後に旧王族の移送を行った。練習艦ではなく、現役の巡洋艦として長く現役で、1961年に除籍となった。

艦名の由来:ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタ(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)

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ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタ(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)

艦名の由来になったのは、アブルッツィ公(ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ)ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア・アオスタである。イタリア王族の一人で、サヴォイア家の分家に当たるサヴォイア・アオスタ家の人物スペイン王アマデオ1世として知られている初代サヴォイア・アオスタ公アメデーオ・フェルディナンド・マリーア・ディ・サヴォイア・アオスタの三男。先ほど紹介したエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・アオスタの弟でもある。探検家・登山家として広く世の中に知られている他、第一次世界大戦後は東アフリカのソマリア植民地での開拓事業に尽力し、多くの功績を残している第一次世界大戦時は海軍提督として、新型戦艦「コンテ・ディ・カヴール」を旗艦として、イタリア艦隊を指揮した

 

ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

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軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)」

ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の2番艦。就役は1938年6月13日。

第二次世界大戦参戦時はイニーゴ・カンピオーニ提督率いる第一艦隊隷下第八巡洋艦隊(アントニオ・レニャーニ提督指揮)所属(母港はターラント)。主な任務は英船団への攻撃や、北アフリカへの補給支援などで、積極的に作戦行動に従事した。1940年7月9日には姉妹艦の「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に、モナステラーチェ沖で発生した、地中海初の大規模海戦「プンタ・スティーロ沖海戦」にも参加している。

その後、積極的に英船団への攻撃を実行。1940年12月のターラント空襲時には、ターラント港に停泊していたが、被害には合っていない。ターラント空襲の陽動として発生したオトラント海峡海戦に対して、素早く英艦隊の迎撃に向かったが会敵はしなかった。1941年3月のマタパン岬沖海戦には「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」と共に参加している。7月28日、マレッティモ島沖にて英潜水艦「アップホルダー」の雷撃を受けて損傷、大きく浸水したが船員の優れたダメージコントロールの結果、被害を最小限に抑える事が出来た。約4カ月の修復の後、艦隊に復帰。

その後、北アフリカへの船団護衛に積極的に従事。休戦後は共同交戦海軍の一員として、地中海や中部大西洋での哨戒任務に従事している。戦後も新生イタリア海軍での保有が認められ、更には1961年にはイタリア海軍初のミサイル巡洋艦として改修を受け、再就役しているポラリスミサイル発射筒が搭載されたが、核弾頭を搭載したポラリスミサイルの配備を巡ってイタリア国内は荒れ、結局は配備されなかった。1978年除籍。

艦名の由来:

ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

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ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

艦名の由来になったのはジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)。日本の教科書にも載っている、リソルジメント期の最重要人物の一人で、カヴールとマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」イタリアの国民的な英雄であり、イタリア最大の名将と称される。イタリアだけでなく、南米でも軍事的な功績を挙げ、「二つの世界の英雄」と呼ばれた。最も有名な実績は、リソルジメントにおいて、赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸し、そこからイタリア南部に攻め入り、両シチリア王国を征服したことである。その後、征服地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア統一に大きく貢献した。

 

◆カピターニ・ロマーニ級

(Classe Capitani Romani)

◇アッティーリオ・レゴロ(Attilio Regolo)

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軽巡洋艦「アッティーリオ・レゴロ(Attilio Regolo)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1942年5月14日。

就役時期的にはイタリア海軍と英海軍がマルタを巡って熾烈に争っていた頃で、「アッティーリオ・レゴロ」の就役から1カ月後には、英海軍の「ハープーン」船団及び「ヴィガラス」船団阻止のために、イタリア海軍は主力艦隊を派遣し、イアキーノ提督とダ・ザーラ提督の活躍で勝利を手にすることが出来た。就役後、「アッティーリオ・レゴロ」は機雷敷設の任務に従事することとなり、水雷艇数隻と共に11月7日にシチリア南部の海域に機雷の敷設に向かった。この頃、イタリア海軍の燃料は既に枯渇状態に近く、主力艦隊の運用はほぼ不可能であった。更に、今まで善戦していた北アフリカ戦線の状況も逆転しており、戦況は悪い方向に向かっていた。イタリア艦隊の出動は資源の少なさ故に困難、しかし戦況は悪化している、となるとシチリア防衛のためにも機雷原の敷設が急務となったのである。

「アッティーリオ・レゴロ」は機雷の敷設に成功し、母港に帰還する最中だった。そこで悪夢は起こった。シチリア島西部沖にて、英国海軍のU級潜水艦「アンラッフルド」の襲撃を受けたのである。「アンラッフルド」の魚雷攻撃によって、「アッティーリオ・レゴロ」の艦首は吹き飛ばされたが、不幸中の幸いにも撃沈には至らなかった。「アッティーリオ・レゴロ」は同行していた艦に曳航され、何とかメッシーナ港に辿り着いた。その後、修復のためにラ・スペツィア軍港に移動されたが、艦種の修復には建造中の同型艦「カイオ・マリオ」の艦首が使われたのであった。1943年5月に「アッティーリオ・レゴロ」は修復から回復したが、特に作戦に投入されることはなく、休戦まで目立った行動はしなかった。
1943年9月8日、イタリア王国政府は突如休戦を宣言した。しかし、海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督や、艦隊司令官カルロ・ベルガミーニ提督といった海軍首脳部はこれを当日まで知らされておらず、海軍内部は非常に混乱した。海軍首脳部でさえ情報を把握していなかった以上、当然現場の軍人たちは全くの無知であった。休戦当時、「アッティーリオ・レゴロ」はラ・スペツィア軍港にいた。「アッティーリオ・レゴロ」は戦艦「ローマ」を旗艦とするベルガミーニ提督の艦隊と共に連合軍への登降命令を守るために出発した。ドイツ空軍の襲撃を受けた「アッティーリオ・レゴロ」はバレアレス諸島のマオン湾に到着した。「アッティーリオ・レゴロ」は拿捕されることとなったが、北イタリアにイタリア社会共和国(RSI政権)が成立すると、「アッティーリオ・レゴロ」の船員の中でも南部の王国政府を支持する一派と、北部の社会共和国を支持する一派に分裂することになり、両陣営は対立した。バレアレス諸島を支配するスペインは中立国であったため、「アッティーリオ・レゴロ」の船員たちはそれぞれ自らが支持する陣営の方に合流することとなった。その後も「アッティーリオ・レゴロ」はスペイン当局によって拿捕されていたが、1945年に入ると王国政府の外交交渉の末に、ようやく「アッティーリオ・レゴロ」は解放され、ターラント軍港に帰還した。

こうして戦後まで生き残った「アッティーリオ・レゴロ」であったが、パリ講和条約によって「アッティーリオ・レゴロ」は同型艦「シピオーネ・アフリカーノ」と共にフランス海軍に賠償艦として引き渡された。その後、「シャトールノー」と改称され、1969年までフランス海軍に所属した後、解体された。

艦名の由来:マルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)

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マルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)

艦名の由来になったのは、第一次ポエニ戦争でローマ軍を指揮したマルクス・アティリウス・レグルス(Marcus Atilius Regulus)のイタリア語読み「マルコ・アッティーリオ・レゴロ」から。カピターニ・ロマーニ級は古代ローマの人物名を由来としている。

 

◇シピオーネ・アフリカーノ(Scipione Africano)

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軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ(Scipione Africano)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年4月23日。

「シピオーネ・アフリカーノ」が就役した頃、既に北アフリカ戦線は最終局面を迎えていた。もはやチュニジアで奮戦する枢軸軍に希望は無い状態であった。5月13日に北アフリカ全軍の司令官であったジョヴァンニ・メッセ将軍が降伏すると、北アフリカは完全に失墜した。北アフリカが連合国の手に落ちた以上、最早イタリア本土戦は秒読みとなっていた。連合国軍の猛攻によって、パンテッレリーア島やランペドゥーザ島といった地中海の島々が制圧され、遂に7月になるとシチリアにまで連合軍は上陸した。

この状態でも主力艦隊が石油の枯渇で出動出来ないイタリア海軍は、連合軍に制海権を奪われており、完全に手詰まりとなっていた。その状況で、封鎖されたメッシーナ海峡を突破する作戦がイタリア海軍で立案され、それを実行する艦として、軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」が選ばれたのである。7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発、メッシーナ海峡に向かった。7月17日の早朝に海峡の突破作戦「シッラ」が発動され、「シピオーネ・アフリカーノ」は早朝2時に英海軍が封鎖するメッシーナ海峡に侵入した。イタリア海軍は元々レーダー技術の不足から、夜間戦闘が大の苦手であった。そのため、マタパン岬の海戦では惨敗を喫し、巡洋艦3隻を一度に失う損害を被ったのである。

それ以降、イタリア艦隊は夜戦を避けていたのであるが、新鋭のレーダー「グーフォ」を備えた「シピオーネ・アフリカーノ」にはその必要は無かった。「シピオーネ・アフリカーノ」はメッシーナ海峡突破時、海峡を哨戒する4隻の英国海軍の魚雷艇に発見され、攻撃を受けたが、「シピオーネ・アフリカーノ」はその高速能力を生かして、レーダーの力で夜戦の主導権を握った。こうして「シピオーネ・アフリカーノ」は海峡の突破に成功し、ターラント軍港に到着したのであった。

「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。なお、この時「シピオーネ・アフリカーノ」の機関長を務めたのはウンベルト・バルデッリ少佐で、後にRSI軍「デチマ・マス」の海兵大隊「バルバリーゴ」の司令官を務めた人物である。

休戦後は南部の王国政府に合流し、共同交戦海軍の一員として主に輸送任務に従事した。戦後、パリ講和条約フランス海軍の賠償艦として引き渡されることが決定となり、その後フランス海軍で「ギシャン」として就任、1976年まで使われた。

艦名の由来:スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)

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スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)

艦名の由来になったのは、第二次ポエニ戦争カルタゴハンニバルを打ち破った人物として知られているスキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)。このイタリア語読みが「シピオーネ・アフリカーノ」である。漫画『ドリフターズ』にも登場。

 

◇ポンペオ・マーニョ(Pompeo Magno)

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軽巡洋艦「ポンペオ・マーニョ(Pompeo Magno)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻。就役は1943年6月24日。

「ポンペオ・マーニョ」は6月4日の竣工後、間もなく就役となった。ターラント軍港での配備となり、他の同型艦と同様に機雷敷設任務に従事。就任時期故に、同艦が任務に従事したのは休戦までの僅か3カ月となったが、ターラントを母港として10回の機雷敷設任務に従事した。7月12日深夜から13日早朝に掛けて、「ポンペオ・マーニョ」はメッシーナ海峡にて5隻の英国海軍の魚雷艇と遭遇したが、その性能を生かして、2隻を撃沈、1隻を大破させる活躍を見せた

9月8日の休戦時、「ポンペオ・マーニョ」はターラント軍港にいた。当時のターラント軍港には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」及び「アンドレア・ドーリア」、そして「ポンペオ・マーニョ」と同型艦の「シピオーネ・アフリカーノ」、更に軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」が停泊していた。その他、駆逐艦水雷艇、潜水艦、コルベットが16隻ほどあったが、多くは任務中で連合軍への引き渡しを遂行できる準備は出来ていなかった。

連合軍への引き渡し後、「ポンペオ・マーニョ」は共同交戦海軍に所属し、「シピオーネ・アフリカーノ」と共に主に輸送任務に従事した。戦後、「ポンペオ・マーニョ」はイタリア海軍で引き続き就役する事が許可された数少ない艦艇の一つであった。改修後、駆逐艦「サン・ジョルジョ」として1955年に再就役することとなり、1987年に解体された。

艦名の由来:グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)

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グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)

艦名の由来となったのは、カエサルクラッススと共に三頭政治をやったグナエウス・ポンペイウス・マグヌスから。彼のイタリア語読みがニェオ・ポンペオ・マーニョである。マーニョ(マグヌス)は「偉大な」とか「大いなる」とかそういう意味で、例えば、カルロマーニョ(シャルルマーニュ)やマーニャ・グレーチャ(マグナ・グラエキア)といった感じで使われる。なお、戦間期ムッソリーニが日本に贈った白虎隊の慰霊碑は彼の廟の柱を使ったものらしい。

 

◇ジュリオ・ジェルマニコ(Giulio Germanico)

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軽巡洋艦「ジュリオ・ジェルマニコ(Giulio Germanico)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1隻
休戦時(1943年9月8日)にはまだ未完成の状態であったが、94%完成しており、既に艦長ドメニコ・バッフィーゴ少佐ら乗組員は乗艦していた。休戦時、「ジュリオ・ジェルマニコ」はナポリ近郊のカステッランマーレ・ディ・スタービアにいた。そろそろ艦の完成間近という段階で、イタリアの休戦が突如発表されたのであった。

イタリア休戦後、ドイツ軍はイタリア艦隊の拿捕のためにカステッランマーレ・ディ・スタービア港への攻撃を開始した。3日間の激しい戦闘の末、バッフィーゴ艦長らは降伏交渉の場に招かれた。しかし、ドイツ軍はバッフィーゴ艦長ら「ジュリオ・ジェルマニコ」の船員らを虐殺し、「ジュリオ・ジェルマニコ」を拿捕したのであった。

しかし、「ジュリオ・ジェルマニコ」がドイツ海軍の旗の下で使われる事は無かった。連合軍がイタリア本土に進撃を始めると、ドイツ軍はカステッランマーレ・ディ・スタービアから撤退を開始し、「ジュリオ・ジェルマニコ」はドイツ人の手によって自沈されることとなったからである。殺害されたバッフィーゴ艦長らは戦後、金勲章を受勲された。戦後、イタリア海軍によって浮揚・修復された「ジュリオ・ジェルマニコ」は、共和国海軍の一員として就任する事が講和条約によって許可されることとなり、駆逐艦「サン・マルコ」として1956年に再就役した。1971年に解体。

艦名の由来:ゲルマニクスユリウス・カエサル(Germanicus Julius Caesar)

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ゲルマニクスユリウス・カエサル(Germanicus Julius Caesar)

艦名の由来は、アルミニウス率いるゲルマン軍と戦いを繰り広げたローマ帝国の指揮官ゲルマニクスから。有能な指揮官であり、非常に人気が高かった。彼のイタリア語読みがジェルマニコ・ジュリオ・チェーザレ

 

◇ウルピオ・トライアーノ(Ulpio Traiano)

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軽巡洋艦「ウルピオ・トライアーノ(Ulpio Traiano)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。

進水は1942年11月30日。1943年1月3日、パレルモ港にて英海軍の人間魚雷「チャリオット」の攻撃によって撃沈された。戦後に浮揚、解体。

艦名の由来:トラヤヌス帝(Trajanus)

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トラヤヌス帝(Trajanus)

艦名の由来になったのは、ローマ皇帝トラヤヌスのイタリア語読み「トライアーノ(Traiano)」から。ローマ皇帝の中でも特に名君と言われ、ローマ帝国最大の版図を実現した人物。現在もトラヤヌス時代に作られた建築は多く残っている。なお、属州ヒスパニアの出身であり、初の属州出身のローマ皇帝である

 

◇オッタヴィアーノ・アウグスト(Ottaviano Augusto)

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軽巡洋艦「オッタヴィアーノ・アウグスト(Ottaviano Augusto)」

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の一隻。未完成。

進水は1942年5月31日。休戦時はアンコーナ港にいたが、連合軍に引き渡すには準備が出来ておらず、侵攻してきたドイツ軍によって拿捕された。1943年11月1日に連合軍のアンコーナ爆撃によって撃沈され、戦後に浮揚・解体された。

艦名の由来:アウグストゥス帝(Augustus)

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アウグストゥス帝(Augustus)

艦名の由来は、言わずと知れた初代ローマ皇帝アウグストゥスのイタリア語読み「アウグスト(Augusto)」。また、元々の名前であるオクタヴィアヌスのイタリア語読み「オッタヴィアーノ(Ottaviano)」から。

 

以降のカピターニ・ロマーニ級軽巡は、

「カイオ・マリオ(Caio Mario)」

「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」

「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)

「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」

「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」

「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」

が存在するが、いずれも未完成。以下、モデルとなった人名のみを記載。

「カイオ・マリオ(Caio Mario)」

共和政ローマ時代の軍人ガイウス・マリウスのイタリア語読み。

「コルネリオ・シッラ(Cornelio Silla)」

共和政ローマ時代の軍人コルネリウス・スッラのイタリア語読み。

「クラウディオ・ドルソ(Claudio Druso)」

大ドルススのイタリア語読み。

「クラウディオ・ティベリオ(Claudio Tiberio)」

ティベリウスのイタリア語読み。

「パオロ・エミーリオ(Paolo Emilio)」

共和政ローマ時代の軍人ルキウス・アエミリウス・パウッルスのイタリア語読み。

「ヴェプサニオ・アグリッパ(Vipsanio Agrippa)」

アグリッパのイタリア語読み。

 

ざっと全体を見てみると、第二次世界大戦時のイタリア海軍の大型・中型艦(戦艦・水上機母艦巡洋艦)で人名由来の艦名だと、多いのは陸軍の司令官である。海軍軍人となると、カイオ・ドゥイリオ級戦艦の「カイオ・ドゥイリオ(ガイウス・ドゥイリウス)」と「アンドレア・ドーリア」、ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦の「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」、あと海軍航空隊のパイロットであるが、水上機母艦の「ジュゼッペ・ミラーリア」くらいだ。

潜水艦や駆逐艦といった小型艦では、海軍提督や航海士の人名由来の艦名が多くみられるが、大型・中型艦では比較的少ないことがわかった。次回の更新でも引き続き人名由来の艦名について調べてみることとしよう。

続き

https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/04/25/232400?_ga=2.28443068.1043879650.1556022395-676478106.1555152540