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冷戦期ヨーロッパの「周辺国」① ―ギリシャ:反近代的な軍事独裁政権―

70年代初頭まで、ギリシャポルトガル、スペインの三国はヨーロッパの「周辺国」であり、いずれも冷戦における「西側」諸国ではあったものの、他の点では「西側」とは程遠い存在であった。三国の経済は出稼ぎ労働者による送金と観光業に大きく依存していたが、これはユーゴスラヴィアやトルコといった他の「周辺国」の経済によく似ており、生活水準も東欧や発展途上地域と似たり寄ったりであった。それに加え、三国ともラテンアメリカ的な独裁政権だった。(スペイン:フランコ政権、ポルトガルエスタド・ノヴォ、ギリシャ:軍事政権)

1967年、ギリシャではゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス大佐、スティリアノス・パタコス准将ら軍部による「1967年4月21日革命」が発生パナギオティス・カネロポロス政権を打倒した。彼らは、共産主義者によるギリシャ乗っ取りを阻止するため」だとして、軍事独裁政権の成立を正当化した。
今回はギリシャ軍事独裁政権について紹介する。

 

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ゲオルギオス・パパドプロスギリシャの軍人・政治家。ギリシャ首相(1967-1973)。1967年に軍事クーデタを実行し、1974年まで続く軍事独裁政権を成立させた「革命指導者」。第二次世界大戦時はツォラコグロウ将軍の枢軸傀儡政権の元で働いていた人物で、反共主義者だった。イオアニディス将軍のクーデタで失脚。共和政移行後、終身刑

 

◆軍事政権成立における当時のギリシャ社会の背景

共産主義への嫌悪感

ギリシャでは内戦時にマルコス・ヴァフィアディス率いる暫定民主政府(共産党)が行ったテロルが記憶に残っており、それが急進的左翼を弾圧と残虐のイメージで結び付けた共産党による闘争が終結すると、逆に左派側が激しく弾圧され、多くの亡命者を出している。
ギリシャにおける反共主義NATO及び米軍への忠誠心は、アメリカをギリシャにおける保守派政権の守護者とした。ギリシャ軍はマーシャル・プランの恩恵とNATO加盟による米軍の援助によってギリシャ軍部は力を増していったのである。1947年のパリ講和条約では、第二次世界大戦の敗戦国イタリアから伊土戦争以来イタリアが植民地化していたエーゲ海のドデカネス諸島(旧イタリア領エーゲ海諸島)を獲得している。これにより、エーゲ海地域はトルコ沿岸に至るまでギリシャの制圧下となり、現在に至るまで緊張が高まる結果となった。

②近隣の共産主義国家によるギリシャへの影響への恐怖心

ギリシャと北部で国境を接するブルガリアユーゴスラヴィアマケドニアアルバニアはいずれも共産主義国であり、特にアルバニアとは激しい対立関係にあった。

それに加え、共産主義国家ではないが、エーゲ海を挟んでトルコとも伝統的な緊張関係があった。

ギリシャ政治における軍の積極性

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アレクサンドロス・パパゴス:ギリシャの元帥・政治家。第二次世界大戦時のギリシャ軍総司令官で、効果的に伊軍の侵攻を防衛した。降伏後も抵抗組織を指揮し、1943年に独当局に逮捕。1945年に解放され、内戦では政府軍総司令官を務めた。1952年には選挙で勝利し、首相に就任。内戦で疲弊したギリシャ経済を復活させたが、1955年に病死。

ギリシャにおいて軍事政権が成立することは何ら不思議ではなく、伝統的にギリシャ政治において軍は積極的であった。戦間期において権威主義体制(八月四日体制)を維持した通称「ギリシャムッソリーニ」ことイオアニス・メタクサス将軍(1936-41)、戦後だと「黒騎士」ニコラオス・プラスティラス将軍(1945,1950,1951-52)や、第二次世界大戦時のギリシャ軍総司令官であり、内戦時の政府軍総司令官だったアレクサンドロス・パパゴス元帥(1952-55)が政権を握った。
パパゴス元帥率いる「ギリシャ人既成同盟」は軍部が名前を変えた政党であり、1955年にパパゴス元帥が死去すると、選挙で勝利したコンスタンディノス・カラマンリスを支持した。

 

ギリシャ軍事政権前史:

カラマンリスとパパンドレウ

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ゲオルギオス・パパンドレウ:ギリシャの政治家。ギリシャ首相(1944~45, 1963, 1964~65)。彼の子アンドレアス、孫ゲオルギオス・アンドレアスは共に首相を務め、親子三代に渡って首相経験者である。名宰相と名高いヴェニゼロスに近しい人物で、彼自身も「民主主義の親方」と呼ばれ、国民に広く慕われた。1965年に国王の画策によって失脚。1967年にパパドプロス大佐が軍事クーデタ(1967年4月21日革命)を起こした後、クーデタ軍により逮捕。1968年、自宅軟禁中に死亡した。

カラマンリスはパパゴス政権で閣僚を務めた人物であった。思想的に反共ではなく、軍に近しいわけではなかったが、エーゲ・マケドニア出身の彼は根っからの反スラヴ主義者であり、民族主義的な保守政治家であった。利害が一致したことから軍の文民統制を強く主張しなかったため、影響力を持つ軍部からも支持された。当時のギリシャ政治は安定したが、腐敗が酷かった
しかし、1963年に左派政治家であるグリゴリス・ランプラキス教授が右翼に襲撃された後、死亡するとカラマンリス体制は動揺し、遂には「中道連合」を率いたゲオルギオス・パパンドレウに選挙で敗れたパパンドレウは第二次世界大戦ギリシャ解放時の首相であり、民主主義政治家であった。新たに誕生したパパンドレウ政権はカラマンリス体制時代の不正選挙の調査を要求したが、保守派と癒着していた国王コンスタンディノス2世はこれを拒否、パパンドレウと対立関係となった。
軍部を始めとする保守派はパパンドレウの解任を求めて国王に圧力をかけ、1965年に遂に国王は画策によってパパンドレウを辞任に追い込んだ。もはや、軍部の台頭によってギリシャにおける議会政治は名ばかりの機能しか果たせず、国王も保守派と結託してパパンドレウの「中道連合」は極左の票に依存していると非難した。議会政治の崩壊は国王への不満を高まらせる結果となった。

 

◆「1967年4月21日革命」の発生、
パパドプロス軍事独裁政権の成立

1967年、ゲオルギオス・パパドプロス大佐らによって軍事クーデタが発生した。暫定政府は崩壊し、カネロポロス首相は逮捕、自宅軟禁となった。彼らは「民主主義は守られる」と主張し、自らを国家の救世主と呼んだクーデタ部隊はパパンドレウを始めとする中道・左派政治家を逮捕し、パパンドレウも自宅軟禁中に死亡している。カラマンリス政権下で蔓延した腐敗の打倒を掲げた軍部に対し、カラマンリス体制を批判した文民は支援することとなった。ただ、「革命指導者」たるパパドプロス大佐は反共主義者であったため、第二次世界大戦時はイタリア・ドイツの傀儡政権として樹立されたツォラコグロウ将軍の「ギリシャ国」の元でキャリアを積んだ人物であった。
当初、軍部は新たな首相に検察官のコンスタンディノス・コリアスを擁立し、国王コンスタンディノス2世も軍事政権への歩み寄りを見せていた。コリアスはギリシャ最高裁判所の検察長で、王室とのパイプも太く、更に熱心な反共主義者であった。その熱心な反共主義故にランブラキス教授の殺害事件に関して、被告側に有利な裁判をした人物でもあった。しかし、軍事政権の強硬路線に反対して国王コンスタンディノス2世は軍事政権の打倒を企てたが失敗し、国王はローマに亡命した。その後、パパドプロスは自ら首相に就任し、次第に権力を集中していった。
パパドプロス体制下は「反近代的」であり、圧政の元で弾圧を繰り返した新聞検閲、ストライキ非合法化、モダン音楽とミニスカートの禁止、古代ギリシャの演劇の禁止、社会学・ロシア語・ブルガリア語教育の禁止などを行い、更にはエヴゾナスを始めとする儀礼部隊の制服は伝統的なギリシャ衣装に取り換えられたロシア語教育の禁止は当然反ソ連ブルガリア語教育禁止はギリシャ共産党ブルガリアとの関係が強かったことと、国内のマイノリティーであるブルガリア系住民への抑圧を強めるためであった。すなわち、国内マイノリティーの「ギリシャ化」であった。
しかし、軍事政権になっても観光業は影響を受けなかった規制は強かったが、非常に安価なリゾートに惹かれる観光客が絶え間なくギリシャにやってきたのである。労働争議が全て抑圧されたことで、ギリシャは低賃金だったが、これは外資系企業にとって非常に好意的な環境だった。また、保守的な軍事政権はアウタルキーを重視し、輸入を抑制した。それにより、ギリシャの製造業者を外国企業との競争から保護する事には成功したが、低品質で非能率的であった。国内では「法と秩序」によって安定していたが、ギリシャは欧州では孤立した。1969年、欧州評議会ギリシャの除名が全会一致で評決した。孤立化は更にギリシャを軍事化に走らせた
1960年に大統領であるマカリオス大主教の元で英国支配から独立を果たしたキプロス共和国は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立で混乱し、しばしば武力衝突も起こっていた。ギリシャ政府とトルコ政府は介入をちらつかせたが、国際的な圧力によってそこまでは出来なかったマカリオス大統領はこれを受けて、キプロスギリシャの統合路線(エノシス)を放棄エノシスを訴えるゲオルギオス・グリヴァスら「キプロス解放民族組織(EOKA)」はマカリオス政権と激しく対立した。

 

◆イオアニディス将軍の台頭とキジキス政権の成立、キプロス紛争の勃発

1973年、アテネの大学生による軍事政権に対するデモ行進に対し、パパドプロス政権は武力弾圧を行った。これを受けて政権が揺らいだパパドプロスは、腹心だった秘密警察長官ディミトリス・イオアニディス准将のクーデタを受けて崩壊したのである。
新たな権力を握ったイオアニディス将軍は、新たな大統領としてフェドン・キジキス将軍を擁立したが、キジキス将軍は名目的な大統領に過ぎず、実際の権力はイオアニディス将軍が「影の支配者」として握っていたイオアニディス将軍はグリヴァスらギリシャキプロス民族主義者と手を組み、キプロスのマカリオス政権の打倒と、キプロスギリシャの統合(エノシス)を目論んだ
1974年7月15日、キプロス国家警備隊がクーデタを実行、マカリオス大統領は海外に亡命し、EOKA幹部のニコス・サンプソンが新大統領に就任し、ギリシャ派による傀儡政権が成立した。これを受けて、トルコのファフリ・コルテュルク大統領とビュレント・エジェヴィト首相はトルコ系キプロス人保護のために軍のキプロス派兵を決定し、7月20日にはトルコ軍は「アッティラ作戦」を発動、キプロスへの上陸作戦を実行する。ギリシャのキジキス政権は軍の総動員を命じたが、トルコ軍が遥かに優勢であった上に、海軍と空軍は軍事政権に対して命令を拒否した。ギリシャ軍が有効な手段を取れない間に、実に一週間足らずでトルコ軍はキプロスの2/5の制圧に成功し、サンプソン新体制は為すすべもなく崩壊したのである。
この軍事政権の体たらくはギリシャ国民の怒りに直面する事になり、イオアニディスとキジキスはパリに亡命していたカラマンリスを呼び戻し、文民統治への復帰の取り組みを始めた。これによって、1967年から続いていた軍事独裁政権は崩壊したのである。

 

◆カラマンリス政権の復活、
ギリシャ政治の民政移管

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コンスタンティノス・カラマンリス:ギリシャの政治家。ギリシャ首相(1955~63,74~80)、ギリシャ大統領(1980~85,90~95)。戦後ギリシャ政治における重要人物。国王パウロスとの対立によって1963年に亡命したが、軍事政権崩壊後、民政移管を達成した。

1974年のギリシャ政治の民政移管は驚くほど容易に達成された11年ぶりにギリシャに帰還したカラマンリスは国民からの圧倒的な支持を得たが、これには以下の理由があった。

①新政党の創設
カラマンリスは信頼を失った自らの中道連合を復活させるのではなく、新政党「新民主主義党(ND)」を結成した。NDは11月の選挙で完勝し、3年後にも同様に完勝した。

 

君主制の廃止
信頼を失墜していた国王コンスタンディノス2世の君主制に対するレファレンダムを実施、69.2%でその廃位が決定されると、ギリシャは正式に共和国への道を歩むこととなったのである。

 

③軍部の懐柔
更に、カラマンリスは軍部を粛清せず、その代わり、忠誠心を示した者のみを昇進させて軍部の懐柔を図った。とはいえ、軍事政権の首脳部は裁判で有罪とした。


キプロス問題に関しては交渉の末に両軍は戦闘を停止したが、1975年にトルコ系キプロス人は「キプロス連邦トルコ人共和国(後に北キプロス・トルコ共和国)」の成立を宣言し、キプロスは現在に至るまで分断国家となっている。冷却化したギリシャ・トルコ関係の修復は出来なかった

 

主要参考文献
リチャード・クロッグ著/高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社・2004
村田奈々子著『物語 近現代ギリシャの歴史―独立戦争からユーロ危機まで―』中公新書・2012
トニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』みすず書房・2008

敵艦を撃沈せよ!王立イタリア空軍/イタリア社会共和国空軍(RSI空軍)の地中海における艦船攻撃の戦歴

イタリア空軍は地中海における艦船・輸送船団攻撃でも活躍した。潜水艦の運用が難しかった地中海において、空軍部隊による敵船団攻撃は非常に重要だった(第二次世界大戦時、イタリア潜水艦部隊は多くの戦果を挙げたが、その戦果の多くは大西洋や特殊作戦にいるものであり、地中海における戦果はあまり芳しくなかった)。特にSM.79やSM.84で構成された雷撃機部隊による活躍は華々しい戦果を挙げ、また急降下爆撃機部隊も少数精鋭ながら巧みな戦術を駆使して多くの戦果を挙げた

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雷撃を実行するカプロニ Ca.314-RA雷撃機

伊空軍部隊は地中海における艦船攻撃で、1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船撃沈・大破する活躍を見せた。更に、休戦後イタリア社会共和国(RSI政権)空軍に参加した雷撃機パイロットたちは戦い続け、旧式の雷撃機(SM.79)かつ数的に圧倒的不利という絶望的な戦況下でありながらも計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという特筆すべき戦果を残している。

今回はそんな地中海における艦船攻撃で活躍した伊空軍部隊の中でも、雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊に注目して調べてみることとしよう。以前の記事の記述を修正する形で再投稿します。

 

雷撃機部隊の活躍

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サヴォイアマルケッティ SM.79S"スパルヴィエロ"雷撃機仕様。大戦を通じてイタリア空軍の主力雷撃機であり続け、その高い運動能力で連合軍船団を相手に猛威を振るった。

地中海における船団攻撃で最も多くの戦果を挙げたのは雷撃機部隊である。一方、爆撃機による艦船攻撃も行われていたが、思うように戦果はあがらなかった。その地中海における船団攻撃で活躍したのが、サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"である。このレース機から発展した機体は高い機動性を持ち、爆撃機型/雷撃機型双方で地中海戦線において運用され、多くの戦果を挙げた。後述する「雷撃機エース」の多くは、このSM.79機によって戦果を挙げた。その高い信頼性ゆえに、休戦後のRSI空軍でも使われ、既に旧式化していたが多くの戦果を挙げている。被弾に強い頑丈な機体だったため、対空砲火や迎撃機に撃墜されることは少なかったという。まさしく、イタリアが誇る傑作雷撃機と言えるだろう。後述する後継機のSM.84がパイロットに好かれず、結局SM.79が大戦末期まで改良を重ねながら使い続けられた。とはいえ、大戦末期となると流石に旧式化し、特にアンツィオ攻防戦では大きな損害を出してしまった。

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ハルバード作戦」迎撃でSM.84雷撃機を駆り、戦艦「ネルソン」を大破させる大金星を挙げたアルドゥイーノ・ブーリ大尉(Arduino Buri)。戦時中に大佐まで昇進し、休戦後はRSI空軍に合流。雷撃機隊総監に就任し、RSI空軍雷撃機部隊再建の立役者となった。

後継機としてサヴォイアマルケッティSM.84が開発されたが、こちらはSM.79に比べて信頼性が低く、逆にSM.79の優秀さを証明することとなった。とはいえ、SM.84も活躍しなかったわけではなく、この機体を愛用する雷撃機エースもいたし、1941年9月27日には英戦艦「ネルソン」に対して雷撃を実行、大破させる戦果を残している。

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FIAT G.55S"チェンタウロ"戦闘雷撃機。FIAT G.55戦闘機の戦闘雷撃機型で、試験運用段階で終了してしまったが、正式採用されればRSI空軍の雷撃機部隊の主装備となっていただろう。素体となっているG.55自体が「イタリア最高の戦闘機」と称される傑作機であるため、通常の空中戦でも戦果が期待出来た。

その他、CANT Z.506B"アイローネ"水上雷撃機カプロニ Ca.314-RA雷撃機FIAT G.55S戦闘雷撃機といった雷撃機が存在した。特に興味深いのはFIAT G.55S戦闘雷撃機で、これは第二次世界大戦時のイタリア最高の戦闘機」とも称されるFIAT G.55"チェンタウロ"戦闘機の雷撃機で、試験段階で終了したが、世にも珍しい戦闘雷撃機だった。RSI空軍において試験運用され、正式採用されれば主力雷撃機として機能するはずであったが、結局間に合わずに試験段階で終了することとなった。

だが、開戦時のイタリア空軍は雷撃機部隊を保有しておらず、英国に比べて雷撃機に関して遅れをとっていた(世界でも早い段階に雷撃機の試作型を作成していたにもかかわらず)。とはいえ、開戦後に新設された空軍雷撃機部隊は雷撃機型に改造されたSM.79を主装備として地中海戦線で猛威を振るい、連合軍艦船にとっては非常に大きな脅威として恐れられたのであった。しかし、その分消耗率も高く、攻撃の際に敵艦に接近するために常に撃墜される危険性を孕んでいた。

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イタリア空軍で最も知られている雷撃機エースであるカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)。1942年11月、アルジェリア上空で英空軍のスピットファイアに撃墜された彼は、重傷を負ったものの奇跡的に助かり、捕虜となったが本国では撃墜された段階で戦死認定となっていた。休戦後、共同交戦空軍側で戦うことを条件に解放されるが、米国製新機材の試験飛行時の事故で戦死した。

第二次世界大戦時のイタリア空軍で最も有名な爆撃機エースカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)である。彼は約10万トン敵艦船を撃沈し、多くの敵艦船を大破・損傷させる戦果を挙げた(特に英空母「イラストリアス」(23,000トン)を翌年まで航行不能に追い込んだ戦果は大きい)。特に彼の特筆すべき戦果は「6月中旬の戦い」における戦果で、アルベルト・ダ・ザーラ(Alberto Da Zara)提督率いる海軍艦隊(旗艦:軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」)との共闘のもとで駆逐艦ベドウィン」(2,519トン)を始めとする多くの敵艦船を撃沈し、数多くの戦果を挙げた。これを受け、ブスカーリアは伊軍最高の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)をムッソリーニ統帥直々によって叙勲されるという名誉を受けたのである。

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「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エース、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni, 左)とジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani, 右)。計20万トンもの敵艦船を撃沈する事に成功したが、休戦後は各陣営に分かれて戦った。ファッジョーニはアンツィオ戦で撃墜されて戦死し、グラツィアーニは戦後も空軍に属して空軍中将にまで昇進した。

また、カルロ・ファッジョーニ(Carlo Faggioni)ジュリオ・チェーザレ・グラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani)「魚雷の双子(Gemelli del siluro)」と呼ばれた二人の雷撃機エースの戦歴も華々しい。ブスカーリア率いる第281雷撃飛行隊に所属した二人は、地中海で数多くの戦果を挙げ計20万トンもの敵艦船を撃沈することに成功している。また、1943年5月にはジブラルタル港の敵艦船に対して直接雷撃するという大胆な攻撃作戦も行った。1943年9月のイタリア休戦後、イタリアは南北に分かれて内戦化したが、ファッジョーニは枢軸側についたイタリア社会共和国空軍、グラツィアーニは連合国側の共同交戦空軍に付き、"双子"は分かれることとなった。ファッジョーニはRSI空軍の雷撃機部隊を率いてアンツィオ戦で戦死、グラツィアーニはバルカン方面で共同交戦空軍の一員として爆撃任務に従事(グラツィアーニは雷撃機部隊合流前は東アフリカ戦線で爆撃機パイロットとして活躍した)したのであった。

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ファッジョーニ戦死後にRSI空軍の第一雷撃集団を指揮したマリーノ・マリーニ(Marino Marini)。ジブラルタルへの大胆な攻撃作戦を始め、積極的に地中海における艦船攻撃を実行して戦果を挙げた。休戦前は何かと不評であったSM.84を駆り戦果を挙げている。

アンツィオ戦で戦死したファッジョーニの跡を継いで、RSI空軍雷撃機部隊(第一雷撃集団「ブスカーリア」)を指揮したのがマリーノ・マリーニ(Marino Marini)である。休戦前もSM.84雷撃機を駆って第282雷撃飛行隊を率いていた雷撃機エースで、1941年9月27日では英海軍の作戦「ハルバード」妨害のために出撃して活躍した人物だ。RSI空軍合流後は彼のもとで第一雷撃集団は数多くの戦果を挙げ、前任者のファッジョーニがアンツィオ戦で挙げた戦果を含め計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げたのである。マリーニが指揮した作戦で興味深いものは、1944年6月5日に実行されたジブラルタル攻撃作戦だろう。10機のSM.79雷撃機によって実行されたこの作戦は、ジブラルタル港に停泊する6隻の輸送船を攻撃し、4隻の輸送船(計3万トン)を撃沈し、2隻を損傷させるという大戦果を挙げたのであった。

雷撃機部隊(SM.79及びSM.84)によって撃沈・大破させられた主な英海軍の軍艦のリストは以下の通り。輸送船への攻撃が多いが、軍艦の戦果も多かった。

駆逐艦ベドウィン」(1942.6.15撃沈)
駆逐艦「フォアサイト」(1942.8.13撃沈)
駆逐艦「フィアレス」(1941.7.23撃沈)
スループアイビス」(1942.11.10撃沈)
コルベットマリーゴールド」(1942.12.9撃沈)
・対空艦「ポザリカ」(1943.1.29撃沈)
・空母「イラストリアス」(1941.1.10損傷大)
・空母「インドミタブル」(1943.7.16損傷大)
・戦艦「ネルソン」(1941.9.27損傷大)
重巡「ケント」(1940.9.18損傷大)
軽巡グラスゴー」(1940.12.3損傷大)
軽巡マンチェスター」(1941.7.23損傷大)
軽巡「フィービ」(1941.8.27損傷大)
軽巡「アリシューザ」(1942.11.18損傷大)

 

◆急降下爆撃機部隊の活躍

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イタリア空軍急降下爆撃機部隊で使用されたユンカース社のJu-87急降下爆撃機。ドイツを代表する傑作機で、イタリアでは「ピッキアテッロ(変人,変わり者)」という愛称が付けられていた。急降下爆撃機開発で遅れを取るイタリア空軍にとっては非常にありがたい存在であり、輸入機であるため数は少なかったが、少数精鋭の急降下爆撃機部隊は多くの戦果を挙げている。大戦終盤になってくると、ドイツからの戦力の補充が難しくなったことから、消耗した分は国産機で賄われることとなった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊は少数精鋭ながら数多くの戦果を挙げ、雷撃機部隊に引けを取らない名声を手に入れている。しかし、その成立過程は前途多難であった。戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ(Amedeo Mecozzi)大佐らの意見やスペイン内戦時に得た教訓によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。しかし、急降下爆撃機は地上攻撃機の延長と考えられ、本格的には進んでいなかったその結果、開戦時のイタリア空軍は空軍先進国として世界的に見られていたにもかかわらず、ロクな急降下爆撃機保有していない、という事態に直面していた

「イタリア初の急降下爆撃機」であったサヴォイアマルケッティ SM.85によってパンテッレリーア島の第96急降下爆撃航空群が編制されていたが、この急降下爆撃機はその見た目から「翼の生えたバナナ」と呼ばれ、劣悪な性能に加えて、木金混合の機体はパンテッレリーア島の照り付ける強い日光と吹き付ける海風によって事故が多発、たちまち全機が使用不可能になるという悲惨な事態になってしまったのである。

改良型として開発されたSM.86急降下爆撃機も実地試験の結果、Ju-87に勝るところがないと判断され、採用されることはなかった。時の空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ(Francesco Pricolo)将軍はイタリア空軍の急降下爆撃機不足の改善のために、国内企業による生産を諦め、ユンカース社からJu-87"シュトゥーカ"の輸入に踏み切った。これによってレダ社のBa.201カプロニ社のCa.355などの国産急降下爆撃機は開発が中止された。イタリアの急降下爆撃機開発は完全に失敗に終わったが、一方でこの決断の結果、イタリア空軍に新たな精鋭部隊が生まれることになる

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レッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機。新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、急降下爆撃機部隊に配備された。休戦後に残っていた機体は、南部に残っていた機体は共同交戦空軍によって使われたが、北部・中部に残っていた機体はRSI空軍によっては運用されずに、全てがドイツ空軍に接収されて独空軍で運用されている。

大戦も終盤になってくると、急降下爆撃機部隊は新型Ju-87Dの再配備計画がキャンセルされたことによって、国産の機体が導入されることになった。そこで活躍したのがレッジャーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機である。Re.2002は単座戦闘機としても敵戦闘機と互角に戦える優秀な機体で、更に頑丈な機体として評価も高かった短い期間ながらRe.2002はイタリア防衛戦において敵上陸艦隊に対して多くの戦果を挙げており、戦艦「ネルソン」に大きな損傷を与えたことでも知られている。また、Re.2002の陰に完全に隠れた存在であったが、IMAM Ro.57bis戦闘爆撃機も急降下爆撃機として運用され、イタリア防衛戦で敵上陸艦隊に攻撃を行った。

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イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる名パイロット、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)。スペイン内戦では戦闘機パイロットとして8機の個人撃墜スコアを達成し、更に第二次世界大戦では急降下爆撃機パイロットに転身して艦船攻撃を実行、多くの敵艦を撃沈するなど、イタリア空軍のパイロットの中でも特に「天才」と言える人物である。また、彼は空軍理論家でもあり、所謂「スキップ爆撃」の実用化に成功した人物でもあった。

Ju-87(イタリアでは「ピッキアテッロ(変人, 変わり者)」と呼ばれた)を導入したイタリア急降下爆撃機部隊は艦船攻撃で大きな活躍を見せた。そのパイロットの中で最も広く名が知られている人物は、やはりジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)だろう。チェンニはイタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる人物で、元々は戦闘機エースとしても知られており、スペイン内戦では約3カ月の間で個人撃墜スコアは8機、共同撃墜は13機を撃墜するという戦果を挙げていた。急降下爆撃機エースとして知られる20代の若き天才は、優れた空軍理論家としても知られ、所謂「スキップ爆撃(反跳爆撃)」の実用化に成功した人物でもあった。

イタリア空軍の急降下爆撃機部隊はまず機体の絶対数が不足していたため、より効率的に戦果を挙げるためにもチェンニが実用化した「スキップ爆撃」が最も効果的であると考えられたのだ。パイロットの飛行技術に左右される非常に難しい方式であったが、1941年4月~12月にかけてチェンニは計10隻(計16,415トン、軍艦7隻・輸送船3隻)もの艦船を撃沈することに成功している。マルタ包囲戦では軽巡「カイロ」(4,190トン)を損傷(その後、伊潜水艦「アクスム」の雷撃で撃沈)させ、計6隻(軍艦2隻・輸送船4隻)敵艦船を撃沈したが、英空軍戦闘機の追撃を受けるなどして消耗率も激しく、数多くの戦死者を出す結果となった。

消耗の激しさの結果、一度本土に引き上げられたチェンニであったが、その後、Re.2002の導入によって再度戦場に向かい、イタリア防衛戦で戦果を挙げたシチリア防衛戦では輸送船「タランバ」(8,010トン)を撃沈し、モニター「エレバス」(8,450トン)に直撃弾を与えて大破させる戦果を挙げている。休戦直前となったベイタウン作戦(連合軍によるレッジョ・カラブリア上陸作戦)では、上陸艇4隻(計1,400トン)を撃沈するのみならず、上陸した敵部隊に対する機銃掃射も行ったが、連合軍機にチェンニは撃墜され、その波乱に満ちた生涯を終えたのであった。

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フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)。大戦前半は急降下爆撃機エース、大戦後半は戦闘機エースとして活躍した人物。休戦後はRSI空軍に合流し、第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」を指揮したが、再訓練中に欧州戦線は終結した。

後に戦闘機パイロットに転向し、エースパイロットとして知られるようになるフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)急降下爆撃機パイロットとして艦船攻撃で活躍している。彼の戦果で最も重要なものは軽巡洋艦サウサンプトン」(11,350トン)の撃沈であろう。1941年1月10日、マルヴェッツィ率いる第236飛行隊はマルタ東部沖の中部地中海にて、英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」への攻撃を実行、マルヴェッツィとその僚機であるピエトロ・マッツェイ曹長(Pietro Mazzei)ジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)のJu-87"ピッキアテッロ"が250kg爆弾を次々と命中させ、サウサンプトン」の撃沈に成功したのである。マルヴェッツィはその後のトブルク港攻撃作戦での被撃墜(不時着し生還)を機に戦闘機パイロットに転向するが、部下のマッツェイとクレスピはそのまま急降下爆撃機パイロットを続け、特にクレスピはIMAM Ro.57bis戦闘爆撃機を駆り、シチリア防衛戦で連合軍上陸艦隊への急降下爆撃任務を敢行、敵艦船に損害を与えることに成功した。

急降下爆撃機部隊によって撃沈・大破した主な各国の軍艦は以下の通り。

・英軽巡サウサンプトン」(1941.1.10撃沈)
・豪駆逐艦「ウォーターヘン」(1941.6.29撃沈)
・英スループグリムスビー」(1941.5.25撃沈)
・英スループオークランド」(1941.6.24撃沈)
・米輸送艦「タランバ」(1943.7.10撃沈)
・英LCF型上陸艇(1943.9.4撃沈)
ギリシャ砲艦「ポッサ」(1941.4.4損傷大)
・英戦艦「ネルソン」(1943.7.16損傷大)
・英モニター「エレバス」(1943.7.10損傷大)
・ユーゴ水上機母艦「ズマイ」(1941.6.13損傷大)

 

イタリア空軍は1940年から43年の間計72隻連合軍の軍艦と、計196隻輸送船を撃沈・大破させ、休戦後もRSI空軍雷撃機部隊は計27隻(約115,000トン)もの敵艦船を撃沈するという戦果を挙げた。今回紹介したのは雷撃機部隊と急降下爆撃機部隊であったが、少なからず爆撃機部隊も艦船攻撃で戦果を挙げている(とはいえ、やはり爆撃機部隊が真価を発揮したのは地上基地・拠点や地上部隊に対する攻撃においてであった)。英海軍の軍艦だと、駆逐艦「ジュノー」(1941.5.21にZ.1007bisの爆撃で撃沈)や、駆逐艦ネスター」(1942.6.16にSM.79爆撃機型の爆撃で撃沈)の撃沈が有名な戦果だろう。また、イタリア空軍は地中海のみならず、紅海においても艦船攻撃を行った。この際に出撃したのはアトス・マエストリ(Athos Maestri)カプロニ Ca.133偵察爆撃機部隊であった。旧式ながらCa.133は信頼性が高い万能機として戦場に貢献したのである。