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冷戦期ヨーロッパの「周辺国」① ―ギリシャ:反近代的な軍事独裁政権―

70年代初頭まで、ギリシャポルトガル、スペインの三国はヨーロッパの「周辺国」であり、いずれも冷戦における「西側」諸国ではあったものの、他の点では「西側」とは程遠い存在であった。三国の経済は出稼ぎ労働者による送金と観光業に大きく依存していたが、これはユーゴスラヴィアやトルコといった他の「周辺国」の経済によく似ており、生活水準も東欧や発展途上地域と似たり寄ったりであった。それに加え、三国ともラテンアメリカ的な独裁政権だった。(スペイン:フランコ政権、ポルトガルエスタド・ノヴォ、ギリシャ:軍事政権)

1967年、ギリシャではゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス大佐、スティリアノス・パタコス准将ら軍部による「1967年4月21日革命」が発生パナギオティス・カネロポロス政権を打倒した。彼らは、共産主義者によるギリシャ乗っ取りを阻止するため」だとして、軍事独裁政権の成立を正当化した。
今回はギリシャ軍事独裁政権について紹介する。

 

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ゲオルギオス・パパドプロスギリシャの軍人・政治家。ギリシャ首相(1967-1973)。1967年に軍事クーデタを実行し、1974年まで続く軍事独裁政権を成立させた「革命指導者」。第二次世界大戦時はツォラコグロウ将軍の枢軸傀儡政権の元で働いていた人物で、反共主義者だった。イオアニディス将軍のクーデタで失脚。共和政移行後、終身刑

 

◆軍事政権成立における当時のギリシャ社会の背景

共産主義への嫌悪感

ギリシャでは内戦時にマルコス・ヴァフィアディス率いる暫定民主政府(共産党)が行ったテロルが記憶に残っており、それが急進的左翼を弾圧と残虐のイメージで結び付けた共産党による闘争が終結すると、逆に左派側が激しく弾圧され、多くの亡命者を出している。
ギリシャにおける反共主義NATO及び米軍への忠誠心は、アメリカをギリシャにおける保守派政権の守護者とした。ギリシャ軍はマーシャル・プランの恩恵とNATO加盟による米軍の援助によってギリシャ軍部は力を増していったのである。1947年のパリ講和条約では、第二次世界大戦の敗戦国イタリアから伊土戦争以来イタリアが植民地化していたエーゲ海のドデカネス諸島(旧イタリア領エーゲ海諸島)を獲得している。これにより、エーゲ海地域はトルコ沿岸に至るまでギリシャの制圧下となり、現在に至るまで緊張が高まる結果となった。

②近隣の共産主義国家によるギリシャへの影響への恐怖心

ギリシャと北部で国境を接するブルガリアユーゴスラヴィアマケドニアアルバニアはいずれも共産主義国であり、特にアルバニアとは激しい対立関係にあった。

それに加え、共産主義国家ではないが、エーゲ海を挟んでトルコとも伝統的な緊張関係があった。

ギリシャ政治における軍の積極性

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アレクサンドロス・パパゴス:ギリシャの元帥・政治家。第二次世界大戦時のギリシャ軍総司令官で、効果的に伊軍の侵攻を防衛した。降伏後も抵抗組織を指揮し、1943年に独当局に逮捕。1945年に解放され、内戦では政府軍総司令官を務めた。1952年には選挙で勝利し、首相に就任。内戦で疲弊したギリシャ経済を復活させたが、1955年に病死。

ギリシャにおいて軍事政権が成立することは何ら不思議ではなく、伝統的にギリシャ政治において軍は積極的であった。戦間期において権威主義体制(八月四日体制)を維持した通称「ギリシャムッソリーニ」ことイオアニス・メタクサス将軍(1936-41)、戦後だと「黒騎士」ニコラオス・プラスティラス将軍(1945,1950,1951-52)や、第二次世界大戦時のギリシャ軍総司令官であり、内戦時の政府軍総司令官だったアレクサンドロス・パパゴス元帥(1952-55)が政権を握った。
パパゴス元帥率いる「ギリシャ人既成同盟」は軍部が名前を変えた政党であり、1955年にパパゴス元帥が死去すると、選挙で勝利したコンスタンディノス・カラマンリスを支持した。

 

ギリシャ軍事政権前史:

カラマンリスとパパンドレウ

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ゲオルギオス・パパンドレウ:ギリシャの政治家。ギリシャ首相(1944~45, 1963, 1964~65)。彼の子アンドレアス、孫ゲオルギオス・アンドレアスは共に首相を務め、親子三代に渡って首相経験者である。名宰相と名高いヴェニゼロスに近しい人物で、彼自身も「民主主義の親方」と呼ばれ、国民に広く慕われた。1965年に国王の画策によって失脚。1967年にパパドプロス大佐が軍事クーデタ(1967年4月21日革命)を起こした後、クーデタ軍により逮捕。1968年、自宅軟禁中に死亡した。

カラマンリスはパパゴス政権で閣僚を務めた人物であった。思想的に反共ではなく、軍に近しいわけではなかったが、エーゲ・マケドニア出身の彼は根っからの反スラヴ主義者であり、民族主義的な保守政治家であった。利害が一致したことから軍の文民統制を強く主張しなかったため、影響力を持つ軍部からも支持された。当時のギリシャ政治は安定したが、腐敗が酷かった
しかし、1963年に左派政治家であるグリゴリス・ランプラキス教授が右翼に襲撃された後、死亡するとカラマンリス体制は動揺し、遂には「中道連合」を率いたゲオルギオス・パパンドレウに選挙で敗れたパパンドレウは第二次世界大戦ギリシャ解放時の首相であり、民主主義政治家であった。新たに誕生したパパンドレウ政権はカラマンリス体制時代の不正選挙の調査を要求したが、保守派と癒着していた国王コンスタンディノス2世はこれを拒否、パパンドレウと対立関係となった。
軍部を始めとする保守派はパパンドレウの解任を求めて国王に圧力をかけ、1965年に遂に国王は画策によってパパンドレウを辞任に追い込んだ。もはや、軍部の台頭によってギリシャにおける議会政治は名ばかりの機能しか果たせず、国王も保守派と結託してパパンドレウの「中道連合」は極左の票に依存していると非難した。議会政治の崩壊は国王への不満を高まらせる結果となった。

 

◆「1967年4月21日革命」の発生、
パパドプロス軍事独裁政権の成立

1967年、ゲオルギオス・パパドプロス大佐らによって軍事クーデタが発生した。暫定政府は崩壊し、カネロポロス首相は逮捕、自宅軟禁となった。彼らは「民主主義は守られる」と主張し、自らを国家の救世主と呼んだクーデタ部隊はパパンドレウを始めとする中道・左派政治家を逮捕し、パパンドレウも自宅軟禁中に死亡している。カラマンリス政権下で蔓延した腐敗の打倒を掲げた軍部に対し、カラマンリス体制を批判した文民は支援することとなった。ただ、「革命指導者」たるパパドプロス大佐は反共主義者であったため、第二次世界大戦時はイタリア・ドイツの傀儡政権として樹立されたツォラコグロウ将軍の「ギリシャ国」の元でキャリアを積んだ人物であった。
当初、軍部は新たな首相に検察官のコンスタンディノス・コリアスを擁立し、国王コンスタンディノス2世も軍事政権への歩み寄りを見せていた。コリアスはギリシャ最高裁判所の検察長で、王室とのパイプも太く、更に熱心な反共主義者であった。その熱心な反共主義故にランブラキス教授の殺害事件に関して、被告側に有利な裁判をした人物でもあった。しかし、軍事政権の強硬路線に反対して国王コンスタンディノス2世は軍事政権の打倒を企てたが失敗し、国王はローマに亡命した。その後、パパドプロスは自ら首相に就任し、次第に権力を集中していった。
パパドプロス体制下は「反近代的」であり、圧政の元で弾圧を繰り返した新聞検閲、ストライキ非合法化、モダン音楽とミニスカートの禁止、古代ギリシャの演劇の禁止、社会学・ロシア語・ブルガリア語教育の禁止などを行い、更にはエヴゾナスを始めとする儀礼部隊の制服は伝統的なギリシャ衣装に取り換えられたロシア語教育の禁止は当然反ソ連ブルガリア語教育禁止はギリシャ共産党ブルガリアとの関係が強かったことと、国内のマイノリティーであるブルガリア系住民への抑圧を強めるためであった。すなわち、国内マイノリティーの「ギリシャ化」であった。
しかし、軍事政権になっても観光業は影響を受けなかった規制は強かったが、非常に安価なリゾートに惹かれる観光客が絶え間なくギリシャにやってきたのである。労働争議が全て抑圧されたことで、ギリシャは低賃金だったが、これは外資系企業にとって非常に好意的な環境だった。また、保守的な軍事政権はアウタルキーを重視し、輸入を抑制した。それにより、ギリシャの製造業者を外国企業との競争から保護する事には成功したが、低品質で非能率的であった。国内では「法と秩序」によって安定していたが、ギリシャは欧州では孤立した。1969年、欧州評議会ギリシャの除名が全会一致で評決した。孤立化は更にギリシャを軍事化に走らせた
1960年に大統領であるマカリオス大主教の元で英国支配から独立を果たしたキプロス共和国は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立で混乱し、しばしば武力衝突も起こっていた。ギリシャ政府とトルコ政府は介入をちらつかせたが、国際的な圧力によってそこまでは出来なかったマカリオス大統領はこれを受けて、キプロスギリシャの統合路線(エノシス)を放棄エノシスを訴えるゲオルギオス・グリヴァスら「キプロス解放民族組織(EOKA)」はマカリオス政権と激しく対立した。

 

◆イオアニディス将軍の台頭とキジキス政権の成立、キプロス紛争の勃発

1973年、アテネの大学生による軍事政権に対するデモ行進に対し、パパドプロス政権は武力弾圧を行った。これを受けて政権が揺らいだパパドプロスは、腹心だった秘密警察長官ディミトリス・イオアニディス准将のクーデタを受けて崩壊したのである。
新たな権力を握ったイオアニディス将軍は、新たな大統領としてフェドン・キジキス将軍を擁立したが、キジキス将軍は名目的な大統領に過ぎず、実際の権力はイオアニディス将軍が「影の支配者」として握っていたイオアニディス将軍はグリヴァスらギリシャキプロス民族主義者と手を組み、キプロスのマカリオス政権の打倒と、キプロスギリシャの統合(エノシス)を目論んだ
1974年7月15日、キプロス国家警備隊がクーデタを実行、マカリオス大統領は海外に亡命し、EOKA幹部のニコス・サンプソンが新大統領に就任し、ギリシャ派による傀儡政権が成立した。これを受けて、トルコのファフリ・コルテュルク大統領とビュレント・エジェヴィト首相はトルコ系キプロス人保護のために軍のキプロス派兵を決定し、7月20日にはトルコ軍は「アッティラ作戦」を発動、キプロスへの上陸作戦を実行する。ギリシャのキジキス政権は軍の総動員を命じたが、トルコ軍が遥かに優勢であった上に、海軍と空軍は軍事政権に対して命令を拒否した。ギリシャ軍が有効な手段を取れない間に、実に一週間足らずでトルコ軍はキプロスの2/5の制圧に成功し、サンプソン新体制は為すすべもなく崩壊したのである。
この軍事政権の体たらくはギリシャ国民の怒りに直面する事になり、イオアニディスとキジキスはパリに亡命していたカラマンリスを呼び戻し、文民統治への復帰の取り組みを始めた。これによって、1967年から続いていた軍事独裁政権は崩壊したのである。

 

◆カラマンリス政権の復活、
ギリシャ政治の民政移管

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コンスタンティノス・カラマンリス:ギリシャの政治家。ギリシャ首相(1955~63,74~80)、ギリシャ大統領(1980~85,90~95)。戦後ギリシャ政治における重要人物。国王パウロスとの対立によって1963年に亡命したが、軍事政権崩壊後、民政移管を達成した。

1974年のギリシャ政治の民政移管は驚くほど容易に達成された11年ぶりにギリシャに帰還したカラマンリスは国民からの圧倒的な支持を得たが、これには以下の理由があった。

①新政党の創設
カラマンリスは信頼を失った自らの中道連合を復活させるのではなく、新政党「新民主主義党(ND)」を結成した。NDは11月の選挙で完勝し、3年後にも同様に完勝した。

 

君主制の廃止
信頼を失墜していた国王コンスタンディノス2世の君主制に対するレファレンダムを実施、69.2%でその廃位が決定されると、ギリシャは正式に共和国への道を歩むこととなったのである。

 

③軍部の懐柔
更に、カラマンリスは軍部を粛清せず、その代わり、忠誠心を示した者のみを昇進させて軍部の懐柔を図った。とはいえ、軍事政権の首脳部は裁判で有罪とした。


キプロス問題に関しては交渉の末に両軍は戦闘を停止したが、1975年にトルコ系キプロス人は「キプロス連邦トルコ人共和国(後に北キプロス・トルコ共和国)」の成立を宣言し、キプロスは現在に至るまで分断国家となっている。冷却化したギリシャ・トルコ関係の修復は出来なかった

 

主要参考文献
リチャード・クロッグ著/高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社・2004
村田奈々子著『物語 近現代ギリシャの歴史―独立戦争からユーロ危機まで―』中公新書・2012
トニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』みすず書房・2008