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冷戦期ヨーロッパの「周辺国」③ ―スペイン:「統領(カウディーリョ)」フランコ将軍による独裁体制―

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フランシスコ・フランコ(左)とベニート・ムッソリーニ(右):フランコはスペインの軍人・政治家。カウディーリョ(1936-75)。スペイン内戦で勝利し、独裁体制を成立させた独裁者。第二次世界大戦は枢軸国寄りの中立で乗り切った。ムッソリーニはスペイン内戦でフランコ側を支援し、イタリア正規軍を派遣してフランコ側の勝利に大きく貢献した。

1936年、植民地モロッコでの軍部の叛乱をきっかけにスペイン内戦が勃発した。フランコ率いる叛乱軍はイタリア、ドイツ、ポルトガルに支援され、マヌエル・アサーニャ率いる政府軍はソ連とメキシコに支援された。1939年、内戦は終結する

勝利したフランコは以後1975年にまで続く独裁政権を成立させたが、1967年までこの国には憲法すら無かった

 

フランコ政権後期の新経済政策

フランコは反動的独裁者だったが、サラザールとは異なり経済については現実主義者だった。1959年、スペインは過去20年間維持してきたアウタルキー政策を放棄し、カトリック団体「オプス・デイ」に所属するナバロ・ルビオ財務相らによって「国家安定化計画」を採用
目的であるインフレ防止と貿易・投資の開放は果たしたが、労働力の海外流出を招いた。しかし、保護貿易主義から解放された民間部門は自由に拡大できるようになった。関税引き下げにより、スペインはIMFGATTOECDへの加盟を果たす(しかしEECへの加盟は失敗)。
1961年からGNPは着実に増大し始め(以後16年間に渡って、前年比7%のGDP成長率)南部・西部の農業労働者が北部に移動し、工場や観光産業で働くようになった(1950年は労働者2人に1人が農家だが、1971年には5人に1人)世界第九位の工業生産国の座に上り詰めた。1960年代半ばまでに、スペインは国連基準の「発展途上国」から抜け出していたのである。
これは、ポルトガルと異なり、植民地解体のコストにそこまで悩まされていたわけではないことに由来する。しかし、後述するが、スペインが植民地での紛争に遭遇しなかったわけではないことは注意が必要である。
1960年代にスペインに流入した外国の資金の大半は輸出によるものではなく、出稼ぎ労働者からの送金や、外国人観光客が休暇で落とした金だった。すなわち、スペイン経済の近代化は「他国の繁栄の副産物」だった。「安定化計画」による経済的格差は広範囲で労働者階級の不満を生み出し、フランコの死までストやデモなどの賃金問題を巡る労働争議が頻発した。

 

フランコ政権と末期スペイン帝国

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末期スペイン帝国の範囲:最も北に見える緑色の場所がスペイン本土。青色がスペイン領モロッコで、北にあるのが北部保護領(1956年返還)、南にあるのが南部保護領(1958年返還)。その間にあるのがモロッコ王国領(旧フランス領)で、その中間にある桃色の場所がイフニ(1969年返還)。モロッコの南にある緑色の範囲がスペイン領サハラ(1975年放棄)。最も南にあるギニア湾に面する植民地がスペイン領ギニア(1968年独立)。

フランコ政権による経済政策の成功は、ポルトガルのような大規模な植民地戦争が起こらなかったからであるが、スペイン軍が「不必要」だったわけではないトニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』にはスペイン軍が植民地戦争に投入されなかったとあるが、ポルトガルほどの苛酷な戦争ではなかったにしろ、植民地戦争へ投入されているという事実は忘れてはならないフランコ政権期、伝統的な保守主義だった軍部は優遇され、君主制への復帰についても熱心な意見を表面していた。
当時のスペインはいくつかの植民地を保有していた。ロッコ植民地(北部保護領・南部保護領・イフニ)、サハラ植民地(現西サハラ)、ギニア植民地(現赤道ギニア)である。この内、植民地戦争・独立武装闘争が発生したのはモロッコとサハラで、赤道ギニアは国連の圧力によって比較的平和的に独立を果たした

 

(1)スペイン領モロッコ

返還を求めるモロッコ王国との戦い

1956年にフランスからモロッコ王国が独立すると、モロッコはスペインが支配する領土の返還を求めるようになるスペインは同年、セウタ及びメリリャを除く北部モロッコの割譲に応じた
しかし、1957年にスペインはイフニを西サハラ植民地と行政を切り離し、総督を置いて植民地を死守する姿勢を見せたため、ロッコ側は武力併合を求めて攻撃を開始、「イフニ戦争」が勃発する。イフニ植民地はモロッコ領内にあるスペイン領の飛び地で、人口の60%がスペイン人入植者であり、産業が開発されていた。モロッコ側の方が数的優勢であり、一時はスペイン領サハラの一部も占領したが、スペイン側の反攻作戦によって戦争はスペイン軍側の勝利に終わった(モロッコ軍側の犠牲者が約8千に対し、スペイン側は約三百人)。余談だが、この時スペイン軍を率いたイフニ総督M.ゴメス=ザマジョア将軍は、WW2時に「青師団」の将校だった。
戦後、スペインはイフニを維持したが、妥協の結果1958年にモロッコ南部保護領を割譲した。しかし、ロッコはその後再び強硬手段に出て、イフニへの陸上封鎖を実行、港湾設備が整っていなかったイフニは大打撃を受けた国連からの勧告もあり、スペインはしぶしぶ63年から交渉を開始、スペインが現在も北アフリカに領有するセウタ及びメリリャの武力併合をしないことを条件に69年にはイフニはモロッコに併合されたのであった。

とはいえ現在においてもモロッコはセウタ及びメリリャ、更に岩礁の飛び地であるペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ、ペニョン・デ・アルウセイマス及びチャファリナス諸島の返還をスペインに要求しており、不法移民の進入路ともなっており、両国間の関係を複雑化させている要因の一つでもある。なお、セウタとメリリャの市民たちは経済的な豊かで、「EU市民」でもあるため、モロッコの返還要求には殆どが反対している。

 

(2)スペイン領ギニア
国連の圧力によって「平和的」に独立を達成

1958年、ギニア湾に領有していたスペイン領ギニア(現在の赤道ギニア)の独立運動の高まりを受けて同植民地を「海外州」とした。それに加え、国連の圧力に屈したスペインは1963年には現地民のレファレンダムを実施し、その結果、自治政府が設置された。ギニアではスペインの柔軟な判断が功を奏したのか、ポルトガル植民地のような大規模闘争は発生しなかった
1968年には、国連の管理下で独立の是非を問うレファレンダムが実施され、64.32%の賛成票でスペイン領ギニアは「赤道ギニア共和国」として独立を果たした2017年のデータでは赤道ギニア共和国は一人当たりのGDPがアフリカ第二位を誇っている。一時は一人当たりのGDPが日本やイタリアと同じ水準にまで達したこともあるが、これは国内の石油資源と、少ない人口による恩恵である。故に、国民の生活水準は高く、貧富の格差は世界的に見ても非常に少ない。

 

(3)スペイン領サハラ
ゲリラ闘争に苦しむがフランコ政権崩壊後まで維持

スペイン最後の植民地となったスペイン領サハラ(現西サハラ)では、中心都市ラユーンにて独立を求めるデモ隊に対してスペイン軍側が虐殺したことをきっかけとして、1970年にブラヒム・ガリ率いる武装組織「ポリサリオ戦線」の展開する武装独立闘争が開始(ゼムラ蜂起)。これによるゲリラ戦にスペイン軍は悩まされていた。

1975年にフランコが死亡した後、スペイン新体制はモロッコ及びモーリタニアによる西サハラ進軍(緑の行進)によって最後の植民地を放棄した。ポリサリオ戦線は独立国家「サハラ・アラブ民主共和国」を成立させたものの、依然として大部分はモロッコによる実効支配が行われている(モーリタニアは領有権を放棄)。


こうしてフランコ政権崩壊後、全ての植民地を失ったスペインだが、以前セウタ及びメリリャは「飛び地」としてスペインの支配下にあり、領有権を主張するモロッコとの対立関係にある。また、モロッコ沿岸のカナリア諸島も依然領有を続けている。

 

フランコの死

1975年11月10日、フランコ将軍は死亡し、長きに渡るフランコ独裁体制は崩壊した。後継者として指名されていたフアン・カルロスが王位に就き、スペインは王政復古を果たしたのである。スペインの民主化は驚くべき速さであったが、これはフランコ政権期の閣僚、すなわち政権内部の人間によって進められていたからであった。逆に、民主主義者や社会主義者らは民主化初期においてはあくまで補助的な役割しか果たさなかった。
フランコ政権時代最後の首相カルロス・アリアス・ナバーロは閣僚と共に留任したが、アリアスは左派各党を取り締まった事で国王の不興を買い2か月足らずで罷免され、新たにアドルフォ・スアレスが首相に任命された。スアレスは新政党「民主中道連合(UCD)」を結成し、レファレンダムで国民に是非を問った後、労働組合の合法化、スト権の付与、社会党共産党などの合法化、死刑廃止立憲君主制への移行、カタルーニャバスクなどの諸地域への自治権付与などを実行した。
しかし、国防・司法・外交はスペイン政府が保持する事となったため、各地分離主義者(特にバスクバスクETAフランコ政権期からにテロ活動で有名)にとっては不満だった。その結果、1981年には分離主義者の活発化に加え、経済的な不満も合わさり、スアレスは辞任に追い込まれた
2月23日にはテヘーロ中佐らによって軍事政権の復活を要求するクーデタ未遂事件が起こったが、国王はこれを支持せず、クーデタは未遂に終わった。新たに首相となったレオポルド・カルボ=ソテーロは急進的な変革を求める社会党共産党と、それを嫌うUCDの板挟みになった。
1982年の総選挙で勝利した社会党のフェリペ・ゴンサレスは新たな首相に任命された。彼は以後14年間その職を保つこととなる。カリーリョ率いる共産党は敗北し、僅か4議席しか得られなかった。ゴンサレスは選挙戦では失業の改善と購買力促進を公約としたが、政権の座に就くと、経済緊縮政策を維持した。1986年、スペインはポルトガルと共に欧州共同体に加盟している

 

主要参考文献
色摩力夫著『フランコ ―スペイン現代史の迷路―』中高叢書・2000
バーネット・ボロテン著/渡利三郎訳『スペイン内戦 ―革命と反革命―(上下)』晶文社・2008
トニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』みすず書房・2008

 

 

冷戦期ヨーロッパの「周辺国」② ―ポルトガル:サラザール教授による「新体制(エスタド・ノヴォ)」―

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アントニオ・サラザールポルトガルの政治家・経済学者。「エスタド・ノヴォ」体制の独裁者として、ポルトガル首相(1932-68)を務めた。元々はコインブラ大学の教授で、彼の政治経済学の講義は学生に人気だった。彼の体制の元でポルトガルは圧政が行われたが、現在のポルトガルでも人気が高いのも事実である。

1932年に経済学者のアントニオ・サラザール教授が首相に就任した後、1933年の「エスタド・ノヴォ」憲法が公布されポルトガルではサラザール教授による「エスタド・ノヴォ」体制が続いていた大統領であったアントニオ・オスカル・カルモナ将軍は事実上権力を持たず、サラザールへの権力集中が行われた
エスタド・ノヴォ」体制は厳しい検閲をともなうカトリック教権主義政権だった。これは、ドルフス政権期の「オーストロ・ファシズム」体制にも酷似しており、ヴィシー政権下のフランスとも似ていた。「アクシオン・フランセーズ」の指導者シャルル・モーラスともサラザールは親交があり、1952年にモーラスが死ぬまで文通を続けていた。

 

エスタド・ノヴォ前史

第二次世界大戦後まで―

①ブラガンサ王朝の崩壊、ポルトガル共和国の誕生

1910年、ポルトガルのブラガンサ王朝は共和革命によって倒され、ポルトガル共和国が成立した。しかし、その政治は安定しなかった第一次世界大戦が勃発すると、ポルトガルは英国との同盟関係、共和政体制の国際的な承認、そして植民地防衛の必要性(参戦前からドイツ軍とポルトガル軍は植民地で軍事衝突を起こしていた)から、連合国側で参戦した。
しかし、植民地と欧州への軍の派遣により、近代化されていなかった脆弱なポルトガル軍はドイツ軍との戦いで多くの将兵が失われ、またそれに伴う膨大な戦費はポルトガル国民に多大な犠牲を強いる結果となった。その不満に耐えかねた民衆は1917年の夏から秋にかけて大都市のみならず、農村でも政府に対する暴動を起こした。戦時下のポルトガルでは、凶作に加えて、戦争により商船組織が解体され、小麦の輸入に支障を来たしていたのである。これが民衆の不満を増幅させていた

 

②シドニオ・パイス「新体制」と第一次世界大戦

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シドニオ・パイス:ポルトガルの政治家・軍人・数学者。同国首相(1917-18),同国大統領(1918)。第一次世界大戦時のアフォンソ・コスタ政権の混乱に乗じてクーデタを実行、「シドニオ新体制」を成立。大衆の熱狂的な人気を引き付けるカリスマ性を備えた新しい型の政治家であり、ムッソリーニヒトラー等の先例と言われる。様々な改革を実行したが、失敗。1918年に暗殺。

これに乗じて、陸軍大佐で数学者だったシドニオ・パイス教授が軍部に担がれクーデタを実行、コスタ首相の民主党政権を打倒した。パイスは「新体制」を樹立したが、結局戦時下の苦境をさらに深刻化させたのみであった。それに加え、1918年4月の「リスの戦い」ではポルトガル遠征軍がドイツ軍の激しい攻撃で多大な損害を受け大敗したことや、大西洋上でポルトガル海軍の軍艦が立て続けに撃沈されていたことも政権への不満を増大させていった。1918年11月にドイツは降伏し、第一次世界大戦終結するが、同年12月にパイスは共和主義者によって暗殺され、「国王大統領」として成立時は民衆に絶大な支持を得た彼の体制は崩壊したのであった。
パイス政権の崩壊後、ポルトガルは民政移管が行われたが、その後もポルトガル政治は安定せず、国内は更に混乱に陥った。国内では旧王党派も台頭する始末であった。ポルトガル戦勝国であったため、ポルトガルは植民地の維持に成功し、共和国政府も国際的認知を得た為、ポルトガルの参戦目的は一応達成された。しかし、多くの損害を出した割にはその分け前は非常に少なく、僅かな旧ドイツ植民地(ドイツ領東アフリカの一部)を手に入れたのみであった。戦勝国ながらその恩恵に殆どありつけなかったイタリアと比べてみても、その分け前は微々たるものであった。大戦の影響で通貨エスクードの価値は1/20に暴落し、国内は凄まじいインフレーションを起こし、それに喘ぐ労働者はアナーキスト中心の労働総同盟に拡大再編され、労働攻勢を強化していた。更に、国内では「スペイン風邪」が流行し、不安定な政治状況に加えて国内は混沌状態となっていた。

 

軍事独裁体制の成立と、サラザールの台頭
こうした国内の混乱を収束するため、1926年、第一次世界大戦ポルトガル遠征軍司令官を務めた英雄、マヌエル・デ・ゴメス・ダ・コスタ将軍らがクーデタを実行し、軍事独裁体制(ディタドゥーラ・ミリタール)を成立させた。その後、1928年にオスカル・カルモナ将軍が権力を握り、「ディタドゥーラ・ナシオナル(国家独裁体制)」が成立すると、財務相としてサラザールは入閣する。
サラザールはその手腕で壊滅状態だったポルトガルの国家財政の再建に成功した。1929年の世界恐慌も、ポルトガルアメリカへの経済依存が少なかったこともあり、その影響を最小限で食い止めたこれらの功績によって、サラザールは「ポルトガルの救世主」となって国民の絶大の支持を得、それに加え、オスカル・カルモナ大統領の強力な支持を得た
そして、遂に1932年にサラザールは首相に就任した。8人の閣僚の内、4人が大学教授の「教授内閣」が成立した。これによって1926年以来続いていた軍部の支配は終わり、インテリ層による文民支配が確立する。しかし、それは同時に新たなる独裁体制の始まりであった。

 

④「エスタド・ノヴォ」体制の成立、

スペイン内戦と第二次世界大戦

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ホセ・アドリアーノ・ペクィト・レベロ:ポルトガルの軍人・政治家。右翼運動「ルジタニア統合主義」の創設者。大農園所有者。スペイン内戦で「ヴィリアト軍」に戦闘機パイロットとして参加した。植民地戦争時もアンゴラ爆撃を実行した。

1933年、「エスタド・ノヴォ(新国家)」体制憲法国民投票によって可決し、公布された。これによって1970年代まで続く「エスタド・ノヴォ」体制がスタートする。これは秩序を重んじる権威主義体制であり、伝統に基づく反動的保守主義体制だった。
隣国スペインが内戦状態になると、サラザールはスペイン共和国政府との国交を断絶し、フランコ将軍の反乱軍側に義勇軍(ヴィリアト軍)を派遣、これを支援した。1938年にはフランコ政権を国家承認し、内戦終結後、フランコ政権と相互不可侵条約(イベリア協定)を締結した。1940年にはヴァチカンのローマ教皇庁とコンコルダートを締結し、第一共和政時代に悪化した教会との関係を修復した。
第二次世界大戦が勃発すると、それまでイタリアやドイツとの関係を重視していたものの、中立を宣言。しかし、英国との同盟関係を重視して連合国寄りの態度を取り、ポルトガルは連合軍側にアゾレス諸島の基地を貸与した。とはいえ、1941年12月にオランダ軍とオーストラリア軍が日本軍の侵攻に備えて、ポルトガルティモールを無断で占領下に置くと、サラザールは激怒して連合国側を激しく非難した。結局、1942年には日本軍の侵攻でポルトガルティモールも占領されている。マカオに対しては日本軍とポルトガルとの間で協定が結ばれ、中立港として機能した。
ポルトガルは中立国故に難民の受け入れ先や、両陣営のスパイの活動拠点となった。1943年のイタリア王国休戦後も、ファシストイタリア社会共和国政府(RSI政権)とも非公式の外交関係を維持した。東部戦線においてはスペイン青師団の一員として、一部のポルトガル義勇兵が参加、ソ連軍と戦った(彼らの多くはスペイン内戦で義勇兵として戦った「ヴィリアト軍」であった)。

 

エスタド・ノヴォ体制下のポルトガル

サラザールポルトガルの後進性に無頓着であるどころか、それが国家の安定への鍵であると見ていたのである(アンゴラでの油田発見時もそれを好まなかった)。当時の一般的な生活水準は欧州というよりアフリカに近く、1960年の一人当たりの年間所得は僅か160ドルに過ぎなかった(トルコは219ドル、アメリカは1453ドル)。乳児死亡率は欧州で最大で、全人口の32%は文盲だった。
ルーマニアの独裁者二コラエ・チャウシェスクと同様に、サラザールは負債の回避に熱心であった。重商主義者として異常に高い水準にまで正貨準備を積み上げ、それを投資にも輸入にも使わなかった。その結果、ポルトガルでは貧困が固定化し、殆どの人々は小規模な家族農場や、大農園で小作人として働いた。国内の産業に資金を供給する地元資本もなく、アルメニアのグルベンキャン財団が幅を利かせた。ポルトガルは一時産品の輸出や再輸出に概ね経済を依存していたが、「輸出品」には労働力(すなわち出稼ぎ労働者)も含まれていた
サラザールにとっての反対勢力は、国内野党は存在しなかったが、軍部が存在したポルトガル軍の給料は低く、サラザールは賃上げよりも、軍の将校にブルジョアと結婚する事を推奨した。故に、1947年と1958年に軍事クーデタ未遂が発生したが、失敗に終わっているサラザール率いるエスタド・ノヴォ体制下のポルトガルは、成立以後大規模な対外戦争には巻き込まれなかったしかし、時代に逆行して植民地帝国の維持を目論むポルトガルは、植民地戦争で苦しんだ「帝国」の維持は国民からは絶大な支持を得られていたが、前線で戦う兵士たちは終わりの見えない植民地戦争に嫌悪感を募らせていったのであった。

 

ポルトガルと植民地戦争

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ポルトガル帝国」の最大領域。 19世紀に独立したブラジルを除く植民地(名前が載っている赤色のところ)が当時の植民地。

1950年時点では、アジアにはポルトガル領インド(ゴア、ダマン、ディウ、ダードラー及びナガル・ハヴェーリー)とマカオ東ティモール保有し、アフリカ方面ではアンゴラモザンビークギニアビサウ島嶼部のカーボヴェルデとサントメ・プリンシペ、更にダホメー内の小さな飛び地であるサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ要塞を持っていた。これらは現在、全てポルトガルは領有権を放棄している。これ以外に、大西洋上にマデイラ諸島アゾレス諸島を領有しているが、これは現在もポルトガル領のままである。
1947年にはインドが英国から独立し、飛び地をインド領内に残すポルトガルと対立した。それに加え、1952年にはマカオを巡って中国人民解放軍(既に中国大陸は共産党支配下となっている)と銃撃戦まで発生している。反共主義者であったサラザールマカオ共産主義者に渡すつもりはなかった

19世紀になってから初めてポルトガルが植民地を失ったのは、1954年、飛び地であるダードラー及びナガル・ハヴェーリーがインド民族主義者組織に制圧された時であった。これはポルトガル領インドの崩壊の始まりとなった。更にインド民族主義者らはディウの一部を占領した。1955年にはポルトガル領インドの中心地ゴアに非暴力のインド人デモ隊が行進したが、これに対して断固植民地維持の姿勢を見せるポルトガルの警察隊は発砲を行い、多くの死傷者を出すこととなった。インド・ポルトガル両国間で緊張が高まったが、ポルトガル側にとってもゴアは豊富な資源を擁しており、あくまで植民地の維持を主張した。
1961年はポルトガルにとって波乱の年となった。これ以降、ポルトガル植民地は完全に崩壊の道を辿ることとなったのである。
3月:植民地アンゴラにて武装蜂起が発生し、アンゴラ独立戦争が開始。
4月:モニス国防相が反サラザールクーデタを起こすが、未遂で終わり失敗。
8月:ダホメー(現ベナン)軍がポルトガル領の飛び地サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダに侵攻。ポルトガル守備隊は小規模な抵抗の後、降伏。ダホメーは同飛び地を併合。
12月:インド正規軍がポルトガル領インド(ゴア、ダマン、ディウ)に侵攻。ポルトガル軍は軍を派遣するが、通報艦「アフォンソ・デ・アルブケルケ」を撃沈されるなど被害甚大。数に勝るインド軍の侵攻によってポルトガル守備隊は降伏、インドはポルトガル領インドを完全併合した。


これに対し、NATO加盟国であるポルトガルアメリカに助けを求めたが、アメリカ側は「NATOによる共同防衛範囲はあくまで欧州に限定」としてポルトガルの要請を拒否したのであった。
ポルトガル領インドの失墜は重大だったが、それよりもポルトガルにとって最も重要なアフリカ植民地であるアンゴラで独立闘争が開始された事は更に深刻であった。アンゴラポルトガル人入植者が多く、油田を始めとする豊富な資源に恵まれており、経済的にも重要だった。アンゴラが現在アフリカ第五位のGDPを誇ることからも、その重要性は明らかである。その翌年にはギニアビサウとカーボヴェルデ、1964年にはモザンビークでも独立闘争が開始された。ポルトガルの植民地帝国はボロボロと崩れ始め、サントメ・プリンシペ東ティモールでも独立運動が加速化した。1966年にはマカオで大規模暴動も発生しており、マカオ在住の中国人側の不満も爆発した。
ポルトガルは植民地の維持に固執したが、それは非常に巨額の費用が掛かり、双方に数多くの死傷者が出ていったアンゴラでは、1974年までに100万人以上の現地農民を管理が可能な大規模村落に強制移住させたが、これによってアンゴラ社会と農村経済に壊滅的な影響を与えた。軍の内部でも不満が高まり、次々と離反者を出した
アンゴラでは少なくともしばらくの間、ポルトガル軍は叛乱軍を抑え込むことに成功したが、他の植民地では絶望的だった。ギニアビサウやカーボヴェルデではカリスマ的な叛乱軍指導者アミルカル・カブラルによってゲリラ戦が展開され、モザンビークでは6万人のポルトガル軍が10万人の入植者を保護するのは難しかった。1970年代初頭までに、ヨーロッパ最貧国であったポルトガルの年間防衛予算の半分が植民地戦争に費やされ、徴兵制によって若き男子の4人に1人が植民地戦争に派遣されていった

カーネーション革命

ポルトガル第三共和政

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マリオ・ソアレスポルトガルの政治家。ポルトガル首相(1976-78,83-85)、ポルトガル大統領(1986-96)。 サラザールへの反対運動を行った事で、サントメ島に流刑となった。後に社会党を創設、その指導者として活躍、ポルトガル民主化を達成した。

1968年9月23日、サラザールは事故がもとで意識不明の重体となり、執務不能となった(その2年後に死亡)後継者に指名されたリスボン大学法学部のマルセロ・カエターノ教授が新首相に就任した。彼は穏健派であり、国民の期待に応えるために様々な改革を打ち出したが、植民地戦争は継続された。しかし、軍の不満は既に頂点で、例えば、ギニアビサウ総督スピノラ将軍は、叛乱軍を支援していたセネガルのサンゴール大統領と秘密会談する始末であった。
サラザールの親友であり、大統領だったアメリコ・トマス提督は本来の大統領権限を行使して、カエターノの改革に対して反対し始めると、カエターノの改革も上手く機能しなくなった。これは、新政府の改革に期待を寄せたリベラル政治家や国民たちの期待を裏切る事となった。カエターノは金融引き締めを緩和し、短期間であるがポルトガルは消費景気に沸いた。しかし、すぐに石油危機の影響で激しいインフレに襲われてしまった。国内ではストライキが蔓延した。
1974年4月25日、「国軍運動(MFA)」の将兵たちによってほぼ無血でクーデタ(カーネーション革命)が発生し、カエターノ首相とトマス大統領らは失脚、遂に1933年以来続いていた「エスタド・ノヴォ」体制は崩壊したのである。新たに誕生したスピノラ新体制は、中道派や社会主義者の面々も臨時内閣に迎え入れ、更には全ての植民地は独立を果たした。しかし、東ティモールインドネシアスハルト軍事政権によって侵攻を受けて併合され(正式に独立出来たのは2002年)、マカオは中国との取り決めによって1999年に返還されることが決定された。
しかし、MFAとスピノラ大統領は政策の急進化を巡って対立を起こし、9月にスピノラは大統領を辞任した。その後、MFAとアルバロ・クニャル率いる共産党によって、銀行と主要産業の国有化や、大規模な農業改革が実施された。これらの改革は都市部や南部の農家には人気だった。しかし、能率の高い北部の農家たちはこの改革に反対し、共産党の支持は低迷した。それとは対照的に、マリオ・ソアレス率いる社会党は選挙で大勝し、38%の得票率を獲得した。
ソアレス社会党とクニャルの共産党の対立は深刻化し、共産党は暴力革命も辞さない姿勢を示した。しかし、軍の大半が武装蜂起に反対していることが明らかになるとクニャルは手を引いた。1976年には軍部は文民当局に正式に権力を移転した。憲法が公布され、新首相となったソアレスポルトガルで約半世紀ぶりに民主的選挙による政府を編成した。1986年にはポルトガルは欧州共同体への加盟を果たし、ソアレスは大統領の地位に上った。以後20年間に、社会党とそれに対立するカヴァコ・シルヴァ率いる中道派「社会民主党」とが交代で政権を担うこととなった。

 

サラザール負の遺産のせいで、西欧基準から言えばポルトガルは際立って貧しいままだったが、左派・右派双方のテロから回避する事に成功した。現在のポルトガルでは「最も偉大なポルトガル人」調査で1位にサラザールが来ているが、これは「帝国」へのノスタルジーから来るもので、植民地戦争での苦い経験を知るポルトガル人たちは民族主義者や極右を支持しなかった。それに、共産党も性懲りもなく強硬路線を続けており、衰退していた。結果的に、民主的なポルトガルが達成したわけであるが、これは実に1926年以来のことであった。

 

主要参考文献
トニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』みすず書房・2008
市之瀬敦著『ポルトガル 革命のコントラスト―カーネーションサラザール上智大学出版・2009
金七紀男著『ポルトガル史』彩流社・1996
芝瑞和著『アンゴラ解放戦争』岩波新書・1976
吉田一郎著『世界飛び地大全』角川ソフィア文庫・2014