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冷戦期ヨーロッパの「周辺国」③ ―スペイン:「統領(カウディーリョ)」フランコ将軍による独裁体制―

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フランシスコ・フランコ(左)とベニート・ムッソリーニ(右):フランコはスペインの軍人・政治家。カウディーリョ(1936-75)。スペイン内戦で勝利し、独裁体制を成立させた独裁者。第二次世界大戦は枢軸国寄りの中立で乗り切った。ムッソリーニはスペイン内戦でフランコ側を支援し、イタリア正規軍を派遣してフランコ側の勝利に大きく貢献した。

1936年、植民地モロッコでの軍部の叛乱をきっかけにスペイン内戦が勃発した。フランコ率いる叛乱軍はイタリア、ドイツ、ポルトガルに支援され、マヌエル・アサーニャ率いる政府軍はソ連とメキシコに支援された。1939年、内戦は終結する

勝利したフランコは以後1975年にまで続く独裁政権を成立させたが、1967年までこの国には憲法すら無かった

 

フランコ政権後期の新経済政策

フランコは反動的独裁者だったが、サラザールとは異なり経済については現実主義者だった。1959年、スペインは過去20年間維持してきたアウタルキー政策を放棄し、カトリック団体「オプス・デイ」に所属するナバロ・ルビオ財務相らによって「国家安定化計画」を採用
目的であるインフレ防止と貿易・投資の開放は果たしたが、労働力の海外流出を招いた。しかし、保護貿易主義から解放された民間部門は自由に拡大できるようになった。関税引き下げにより、スペインはIMFGATTOECDへの加盟を果たす(しかしEECへの加盟は失敗)。
1961年からGNPは着実に増大し始め(以後16年間に渡って、前年比7%のGDP成長率)南部・西部の農業労働者が北部に移動し、工場や観光産業で働くようになった(1950年は労働者2人に1人が農家だが、1971年には5人に1人)世界第九位の工業生産国の座に上り詰めた。1960年代半ばまでに、スペインは国連基準の「発展途上国」から抜け出していたのである。
これは、ポルトガルと異なり、植民地解体のコストにそこまで悩まされていたわけではないことに由来する。しかし、後述するが、スペインが植民地での紛争に遭遇しなかったわけではないことは注意が必要である。
1960年代にスペインに流入した外国の資金の大半は輸出によるものではなく、出稼ぎ労働者からの送金や、外国人観光客が休暇で落とした金だった。すなわち、スペイン経済の近代化は「他国の繁栄の副産物」だった。「安定化計画」による経済的格差は広範囲で労働者階級の不満を生み出し、フランコの死までストやデモなどの賃金問題を巡る労働争議が頻発した。

 

フランコ政権と末期スペイン帝国

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末期スペイン帝国の範囲:最も北に見える緑色の場所がスペイン本土。青色がスペイン領モロッコで、北にあるのが北部保護領(1956年返還)、南にあるのが南部保護領(1958年返還)。その間にあるのがモロッコ王国領(旧フランス領)で、その中間にある桃色の場所がイフニ(1969年返還)。モロッコの南にある緑色の範囲がスペイン領サハラ(1975年放棄)。最も南にあるギニア湾に面する植民地がスペイン領ギニア(1968年独立)。

フランコ政権による経済政策の成功は、ポルトガルのような大規模な植民地戦争が起こらなかったからであるが、スペイン軍が「不必要」だったわけではないトニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』にはスペイン軍が植民地戦争に投入されなかったとあるが、ポルトガルほどの苛酷な戦争ではなかったにしろ、植民地戦争へ投入されているという事実は忘れてはならないフランコ政権期、伝統的な保守主義だった軍部は優遇され、君主制への復帰についても熱心な意見を表面していた。
当時のスペインはいくつかの植民地を保有していた。ロッコ植民地(北部保護領・南部保護領・イフニ)、サハラ植民地(現西サハラ)、ギニア植民地(現赤道ギニア)である。この内、植民地戦争・独立武装闘争が発生したのはモロッコとサハラで、赤道ギニアは国連の圧力によって比較的平和的に独立を果たした

 

(1)スペイン領モロッコ

返還を求めるモロッコ王国との戦い

1956年にフランスからモロッコ王国が独立すると、モロッコはスペインが支配する領土の返還を求めるようになるスペインは同年、セウタ及びメリリャを除く北部モロッコの割譲に応じた
しかし、1957年にスペインはイフニを西サハラ植民地と行政を切り離し、総督を置いて植民地を死守する姿勢を見せたため、ロッコ側は武力併合を求めて攻撃を開始、「イフニ戦争」が勃発する。イフニ植民地はモロッコ領内にあるスペイン領の飛び地で、人口の60%がスペイン人入植者であり、産業が開発されていた。モロッコ側の方が数的優勢であり、一時はスペイン領サハラの一部も占領したが、スペイン側の反攻作戦によって戦争はスペイン軍側の勝利に終わった(モロッコ軍側の犠牲者が約8千に対し、スペイン側は約三百人)。余談だが、この時スペイン軍を率いたイフニ総督M.ゴメス=ザマジョア将軍は、WW2時に「青師団」の将校だった。
戦後、スペインはイフニを維持したが、妥協の結果1958年にモロッコ南部保護領を割譲した。しかし、ロッコはその後再び強硬手段に出て、イフニへの陸上封鎖を実行、港湾設備が整っていなかったイフニは大打撃を受けた国連からの勧告もあり、スペインはしぶしぶ63年から交渉を開始、スペインが現在も北アフリカに領有するセウタ及びメリリャの武力併合をしないことを条件に69年にはイフニはモロッコに併合されたのであった。

とはいえ現在においてもモロッコはセウタ及びメリリャ、更に岩礁の飛び地であるペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ、ペニョン・デ・アルウセイマス及びチャファリナス諸島の返還をスペインに要求しており、不法移民の進入路ともなっており、両国間の関係を複雑化させている要因の一つでもある。なお、セウタとメリリャの市民たちは経済的な豊かで、「EU市民」でもあるため、モロッコの返還要求には殆どが反対している。

 

(2)スペイン領ギニア
国連の圧力によって「平和的」に独立を達成

1958年、ギニア湾に領有していたスペイン領ギニア(現在の赤道ギニア)の独立運動の高まりを受けて同植民地を「海外州」とした。それに加え、国連の圧力に屈したスペインは1963年には現地民のレファレンダムを実施し、その結果、自治政府が設置された。ギニアではスペインの柔軟な判断が功を奏したのか、ポルトガル植民地のような大規模闘争は発生しなかった
1968年には、国連の管理下で独立の是非を問うレファレンダムが実施され、64.32%の賛成票でスペイン領ギニアは「赤道ギニア共和国」として独立を果たした2017年のデータでは赤道ギニア共和国は一人当たりのGDPがアフリカ第二位を誇っている。一時は一人当たりのGDPが日本やイタリアと同じ水準にまで達したこともあるが、これは国内の石油資源と、少ない人口による恩恵である。故に、国民の生活水準は高く、貧富の格差は世界的に見ても非常に少ない。

 

(3)スペイン領サハラ
ゲリラ闘争に苦しむがフランコ政権崩壊後まで維持

スペイン最後の植民地となったスペイン領サハラ(現西サハラ)では、中心都市ラユーンにて独立を求めるデモ隊に対してスペイン軍側が虐殺したことをきっかけとして、1970年にブラヒム・ガリ率いる武装組織「ポリサリオ戦線」の展開する武装独立闘争が開始(ゼムラ蜂起)。これによるゲリラ戦にスペイン軍は悩まされていた。

1975年にフランコが死亡した後、スペイン新体制はモロッコ及びモーリタニアによる西サハラ進軍(緑の行進)によって最後の植民地を放棄した。ポリサリオ戦線は独立国家「サハラ・アラブ民主共和国」を成立させたものの、依然として大部分はモロッコによる実効支配が行われている(モーリタニアは領有権を放棄)。


こうしてフランコ政権崩壊後、全ての植民地を失ったスペインだが、以前セウタ及びメリリャは「飛び地」としてスペインの支配下にあり、領有権を主張するモロッコとの対立関係にある。また、モロッコ沿岸のカナリア諸島も依然領有を続けている。

 

フランコの死

1975年11月10日、フランコ将軍は死亡し、長きに渡るフランコ独裁体制は崩壊した。後継者として指名されていたフアン・カルロスが王位に就き、スペインは王政復古を果たしたのである。スペインの民主化は驚くべき速さであったが、これはフランコ政権期の閣僚、すなわち政権内部の人間によって進められていたからであった。逆に、民主主義者や社会主義者らは民主化初期においてはあくまで補助的な役割しか果たさなかった。
フランコ政権時代最後の首相カルロス・アリアス・ナバーロは閣僚と共に留任したが、アリアスは左派各党を取り締まった事で国王の不興を買い2か月足らずで罷免され、新たにアドルフォ・スアレスが首相に任命された。スアレスは新政党「民主中道連合(UCD)」を結成し、レファレンダムで国民に是非を問った後、労働組合の合法化、スト権の付与、社会党共産党などの合法化、死刑廃止立憲君主制への移行、カタルーニャバスクなどの諸地域への自治権付与などを実行した。
しかし、国防・司法・外交はスペイン政府が保持する事となったため、各地分離主義者(特にバスクバスクETAフランコ政権期からにテロ活動で有名)にとっては不満だった。その結果、1981年には分離主義者の活発化に加え、経済的な不満も合わさり、スアレスは辞任に追い込まれた
2月23日にはテヘーロ中佐らによって軍事政権の復活を要求するクーデタ未遂事件が起こったが、国王はこれを支持せず、クーデタは未遂に終わった。新たに首相となったレオポルド・カルボ=ソテーロは急進的な変革を求める社会党共産党と、それを嫌うUCDの板挟みになった。
1982年の総選挙で勝利した社会党のフェリペ・ゴンサレスは新たな首相に任命された。彼は以後14年間その職を保つこととなる。カリーリョ率いる共産党は敗北し、僅か4議席しか得られなかった。ゴンサレスは選挙戦では失業の改善と購買力促進を公約としたが、政権の座に就くと、経済緊縮政策を維持した。1986年、スペインはポルトガルと共に欧州共同体に加盟している

 

主要参考文献
色摩力夫著『フランコ ―スペイン現代史の迷路―』中高叢書・2000
バーネット・ボロテン著/渡利三郎訳『スペイン内戦 ―革命と反革命―(上下)』晶文社・2008
トニー・ジャット著/森本醇訳『ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005』みすず書房・2008