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英国本土航空戦で活躍した「鷹」のエース、ジュゼッペ・ルッツィン ―複葉戦闘機乗りとしての「こだわり」―

第二次世界大戦時、英国本土上空では英国空軍(Royal Air Force)とドイツ空軍(Luftwaffe)が熾烈な航空戦を繰り広げたことは広く知られている。実はこの英国本土航空戦、すなわち「バトル・オブ・ブリテン」には短期間ではあるが、ドイツの同盟軍としてイタリア空軍(Regia Aeronautica)も参加していた。このイタリア空軍部隊は「イタリア航空軍団(C.A.I.)」と呼ばれたが、バトル・オブ・ブリテン終盤からの参加である上に、装備の性能が不十分であったため、そこまで大きな戦果は挙げていない。

しかし、そんな中でも英国本土上空で「世界最後の複葉戦闘機」こと、フィアットCR.42"ファルコ"は圧倒的に性能が勝る英空軍のスピットファイア戦闘機やハリケーン戦闘機を多数撃墜するという戦果を挙げた。そこで、今回はこの「バトル・オブ・ブリテン」で活躍した複葉機パイロットの一人、ジュゼッペ・ルッツィンについて調べてみたいと思う。

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ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)

 

◆スペイン内戦での活躍

ジュゼッペ・ルッツィンは1916年4月25日に、オーストリア=ハンガリーとの国境に近いヴェネト地方のスプレジアーノに生まれた。しかし、時は第一次世界大戦の真っ最中であり、生まれたばかりのルッツィンは家族と共にジェノヴァに避難することになったのである。

時が経って1935年春、まだ19歳になったばかりのルッツィンは学生でありながら、イタリア空軍の補助飛行士に志願した。この頃、イタリアはエチオピア帝国との間で国境紛争が発生し、国際的にも英国やフランスと緊張が高まっていた。同年9月25日、飛行士の免許を手に入れたルッツィンは適性と判断され、空軍パイロットになった。

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スペイン内戦で義勇兵パイロットとして参加したイタリア人パイロット。後列の一番右がルッツィン。

彼が実戦に参加したのはスペイン内戦が初である。1936年9月、「ジャコモ・グラッシ(Giacomo Grassi)」という偽名義勇兵パイロットとしてスペインに入国した。スペイン内戦では多くのイタリア人義勇兵パイロットが参加し、その中にはエットレ・ムーティフランコ・ルッキーニジュゼッペ・チェンニといった後の大戦で活躍する名パイロットも多かった。しかし、ルッツィンはこの段階でまだわずか112時間しか飛行時間がなく、更に20歳という若さだった。10月30日、ルッツィンはフィアット CR.32複葉戦闘機の試験飛行中にスペイン共和国空軍のツポレフ SB爆撃機2機と遭遇、これを損傷させて撃退している。これが彼の空軍パイロットとしての初の戦果となった

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ルッツィンのフィアット CR.32戦闘機

12月7日にはトレド上空でスペイン共和国空軍の爆撃機と遭遇し、1機を撃墜し、1機を損傷させた。僚機のバッカラ(同じイタリア人パイロット)も1機を撃墜している。これがルッツィンの初の撃墜戦果となった。ルッツィンはスペイン内戦で14カ月の間で計313時間飛行し、4機を単独で撃墜、4機を損傷させ、共同撃墜戦果は2機だった。スペイン内戦での戦果で彼はエースとなったのである。

帰国したルッツィンは第56戦闘航空団第18戦闘航空群第85飛行隊に配属となった。彼はここで後のエースとなるルイージ・ゴッリーニ軍曹と出会っている。

 

第二次世界大戦開戦、フランス空軍との戦い

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フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。CR.42は複葉戦闘機であったが、圧倒的に性能が勝る英軍機を相手に多数撃墜している。航続距離が長かったこともあり、大した戦果を挙げられなかった単葉機のG.50と異なり、英国本土上空で戦果を挙げた。

1940年6月10日、第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ルッツィンはフランス空軍との戦いに参加した。ルッツィンの乗機はCR.32から新型機のフィアット CR.42"ファルコ"に乗り換えていた。CR.42は複葉機だったが、高い運動性能を持ち、格闘戦を好むイタリア空軍の戦闘機パイロットには人気だった。

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フランス空軍のモラーヌ・ソラニエ MS406戦闘機

6月15日、フランス・ボーシャンの上空でフランス空軍のモラーヌ・ソラニエ MS406戦闘機7機と遭遇した。この空戦でルッツィンは3機を共同撃墜し、4機を損傷させて撃退する事に成功、CR.42戦闘機の高い空戦性能を示している。

 

◆「バトル・オブ・ブリテン」への参戦

フランス戦が終了すると、ルッツィンの所属する第56戦闘航空団はバトル・オブ・ブリテンに参加することとなり、「CAI遠征空軍」の一員としてベルギーに派遣された。

11月11日、ルッツィンの第85飛行隊はハリッジ爆撃に向かう爆撃機隊の護衛任務についていた。この作戦は、イタリア空軍の第172偵察飛行隊のCANT Z.1007bis"アルチョーネ"爆撃機編隊がグレート・ヤーマスへの爆撃を敢行すると見せかけて英空軍を引き付けている間、フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機10機がCR.42及びフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機42機に護衛され、ドイツ空軍のJu-87"シュトゥーカ"急降下爆撃機部隊と共にハリッジを空襲するという作戦だった。

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CAI遠征空軍のフィアット CR.42"ファルコ"戦闘機

この爆撃機部隊を英空軍のハリケーン戦闘機及びスピットファイア戦闘機、計25機が迎撃し、ハリッジ上空でイタリア空軍護衛部隊との空戦が開始したルッツィンはこの戦いで1機のハリケーン戦闘機を撃墜することに成功し、また他3機を同じCR.42戦闘機が撃墜している。「時代遅れ」とされた複葉戦闘機CR.42であったが、逆に複葉戦闘機ならではの軽快な運動性能で戦果を挙げたのであった。更に、単葉戦闘機のG.50は航続距離が短かったため、航続距離が長いCR.42が重宝された理由はそこにもあった。故に、バトル・オブ・ブリテンでは単葉戦闘機のG.50が目立った戦果を挙げていないのに対して、CR.42は性能的に圧倒的に勝るスピットファイア戦闘機やハリケーン戦闘機に対して多くの撃墜戦果を挙げているのであった。この功績によってルッツィンは二級鉄十字章をドイツ空軍より叙勲されている。

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マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。高い性能を誇る傑作機だが、複葉戦闘機にこだわりを持っていたルッツィンには好まれなかった。

この戦いによって、ルッツィンの総撃墜スコアは5機(共同撃墜を含めると10機)となった。1941年1月にCAI遠征空軍は英国本土での作戦を終了させて、本国に戻ることとなる。その後、ルッツィンは地中海での航空戦に参加したが、複葉戦闘機は旧式化故に新型機の単葉戦闘機であるマッキ MC.202"フォルゴレ"MC.205V"ヴェルトロ"に取り換えられることとなった。これらのマッキ社の新型機は非常に優秀な機体であったが、複葉機に慣れ親しんだルッツィンにとっては「つまらない」ものであり、これらの期待による任務は「非常に退屈」だったと述べている。実際、ルッツィンはこれ以降目立った戦果を挙げる事もなかった。

彼の最後の戦果は1943年のシチリア上空でのもので、6月29日にはスピットファイア戦闘機2機を損傷させ、7月5日にはA-20双発攻撃機を損傷させている。

 

1943年9月8日にイタリア王国は休戦するが、ルッツィンはその後北部のRSI空軍にも、南部の共同交戦空軍にも合流する事は無かった。彼の総撃墜スコアは単独で5機、共同で5機だが、その全ては複葉戦闘機(CR.32とCR.42)によってなされたものであった。彼は2個の銀勲章、1個の銅勲章、1個の十字勲章、1個の二級鉄十字章を叙勲されている。彼の興味深い点はバトル・オブ・ブリテンでCR.42の高い空戦性能を示したことは勿論、「休戦まで戦い続けたにもかかわらず、複葉戦闘機を降りて以降は目立った戦果を挙げていない」というところである。彼自身も単葉戦闘機での任務を「つまらない」と称していたが、ここまで複葉戦闘機へのこだわりを持ったエースも珍しいだろう。

 

フェルナンド・マルヴェッツィ大尉の戦歴 ―医学部出身の急降下爆撃機乗りから戦闘機エースに!―

今まで様々な第二次世界大戦時のイタリア空軍の人物について紹介してきたが、今回は急降下爆撃機乗りとして艦船攻撃で活躍し、そしてその後戦闘機乗りに転身し、多くの戦果を挙げてエースパイロットとなったフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Marvezzi)大尉について紹介しよう。

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フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Marvezzi)

◆美食の町の医学生

フェルナンド・マルヴェッツィは1912年10月22日、エミリアロマーニャのノチェートに生まれた。ノチェートは「美食の都」として知られるパルマの隣町で、伝統的な特産品としてクルミから作られたリキュール「ノチート(Nocito)」が有名。ノチートは香りが高く、ほろ苦いお酒で、主に食後酒として飲まれているようだ。パルマ近郊では日本でも有名なチーズ「パルミジャーノ・レッジャーノ」や、生ハム「プロシュット・ディ・パルマ(所謂パルマハム)」が生産されており、マルヴェッツィはまさにそのイタリアの美食の中心地に生まれたのである。彼はその美味しい食材を食べて育ったに違いないだろう。マルヴェッツィの家庭は割と裕福だったようである(少なくとも彼が大学の医学部に進学するくらいは裕福だった)。

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プロシュット・ディ・パルマの原木。輸入品も美味しいが、やはり本場パルマで切り立てをいただくのが一番ウマい(当社比)。

マルヴェッツィは勉学よりもスポーツを好み、活発な性格だった。それは大学に入っても変わらず、彼は大学の医学部に進学したものの勉学を好まず、空軍のパイロットになることを決めた。彼は意志が固い人物だったそうで、一度決めたら真っすぐだったそうだ。彼が進学した大学であるが、おそらくは実家に最も近く、更に大きな大学病院もあるパルマ大学(Università degli Studi di Parma)だと思われる。パルマ大学は世界で最も古いと言われる大学の一つで、10世紀に設立されている。

1935年12月、マルヴェッツィは飛行士の免許を所得した。そして、彼は空軍のパイロットとして志願し、遂には研究を放棄して大学を中退したのであった。この時、マルヴェッツィは23歳である。大学を中退した彼は晴れて空軍のパイロットとなった

 

◆空軍のパイロットとしての実戦経験

マルヴェッツィが飛行士の免許を取る2カ月前の1935年10月、ムッソリーニ統帥はエチオピア帝国への侵攻を宣言し、エチオピア戦争が開始された国際連盟はイタリアに対して経済制裁を課し、これはイタリアにおいて逆に「愛国心」を高める結果となった。かつて、19世紀のアビシニア戦争(日本語では第一次エチオピア戦争と呼ばれる)で、イタリア軍エチオピア帝国軍に「アドゥアの戦い」で大敗し、エチオピアの植民地化をあきらめていた。しかし、これはイタリア人の心の奥底にコンプレックスとして残り、いつか「アドゥアの復讐」を果たさん、と考えていた。そこで、ムッソリーニエチオピアへの侵攻を開始する。これには、様々な理由があり、経済政策の行き詰まりの不満を逸らして支持率を上げるという目的と、アメリカから強制送還されるイタリア系移民によってイタリア本国が過剰人口になっていたため、農地が豊富な入植地としてのエチオピアを求めるという目的が主なものであった。

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山岳地帯を飛行するIMAM Ro.1偵察機。オランダ・フォッカー社の偵察機「フォッカーC.V」のIMAM社ライセンス生産である。

マルヴェッツィはそんな状況で空軍のパイロットとなった。彼はまず第56戦闘航空団第18航空群第85飛行隊の所属となったが、その後すぐにエチオピア戦争に派遣されることとなり、第3航空旅団第116偵察飛行隊の所属となり、エリトリアのアッサブ空港に到着した。IMAM Ro.1偵察機に搭乗し、マルヴェッツィは偵察任務に従事している。これが彼のパイロットとしての初任務となった。1936年5月にエチオピア帝都アディスアベバが陥落すると、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは国外に亡命し、エチオピア戦争はひとまず終わりを迎えた(その後もしばらく抵抗運動が続いていたが)。

戦争が終わり、イタリアに帰国したマルヴェッツィは正規任官を目指すために、フィレンツェの空軍学校で追加の航空訓練を受けた。訓練課程を終えた後、ウンブリア地方のフォリーニョ航空学校の飛行教官に任官された。フォリーニョはウンブラ渓谷の工業都市で、イタリア半島の中心部に位置する事から「イタリアの心臓」とも呼ばれる町である。その後、再び第85飛行隊への配属となった。

 

◆急降下爆撃機乗りとしての活躍

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レダ社が試作した急降下爆撃機「ブレダ Ba.201」。シュトゥーカ同様に逆ガル翼が特徴的ではあるが、イタリア空軍には採用されなかった。

1939年、ナチス・ドイツポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発する。ドイツの同盟国であったイタリアは戦争準備が十分ではなかったため、ひとまずは中立を宣言したが、翌年の1940年6月10日にムッソリーニ統帥は英国及びフランスに宣戦布告し、イタリアは第二次世界大戦に参戦した。イタリアが第二次世界大戦に参戦するにあたり、イタリア空軍は急降下爆撃機の不足に悩んでいた。イタリアにも急降下爆撃機はあったが、国産急降下爆撃機サヴォイアマルケッティSM.85は性能が悪かった。レダ Ba.201カプロニ Ca.355"トゥッフォ"といった試作急降下爆撃機の試験が行われたが、どれも空軍首脳部を満足させる結果ではなく、空軍参謀長フランチェスコ・プリーコロ将軍は、友邦ドイツから優秀な急降下爆撃機、ユンカース Ju-87"シュトゥーカ"を導入する事を決定した。ドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング元帥の承認によって、シュトゥーカのイタリア空軍での運用が許可された。

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イタリア空軍のユンカース Ju-87"シュトゥーカ"。イタリア空軍では「ピッキアテッロ(変人)」という愛称で運用されている。航空先進国でありながら優れた急降下爆撃機を持たないイタリアにとって、Ju-87は頼りになる存在だった。

マルヴェッツィは6月終盤にこのドイツの急降下爆撃機パイロットとして選ばれた。7月にはオーストリアグラーツでシュトゥーカの飛行訓練を受けた。訓練は4週間という短さで集中して行われた。訓練を終えた後、マルヴェッツィは第96急降下爆撃航空群第236飛行隊の隊長となり、実戦に参加した。この部隊には、マッツェイ曹長(Sergente Maggiore Mazzei)ジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)も所属していた。シュトゥーカはイタリア空軍での「ピッキアテッロ(変人、風変わりな人)」という通称が付けられている。

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「ワルツを踊る少年」ジュゼッペ・チェンニ。イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースで、数々の敵艦を撃沈する事に成功した。また、「反跳爆撃」を実用化した人物としても知られている。

1940年9月2日、マルヴェッツィは第236飛行隊を率いて英国が支配する要塞島、マルタの空襲に参加した。これは急降下爆撃機パイロットとしての初任務だった。その後、第96急降下爆撃航空群はギリシャ戦線に移り、アントニオ・モスカテッリ中佐(後にローマ-東京連絡飛行を指揮する)の第97急降下爆撃航空群と共にギリシャ海軍や英海軍の艦船攻撃を実行した。この第97急降下爆撃航空群は反跳爆撃(スキップ爆撃)を実用化した急降下爆撃機エース、ジュゼッペ・チェンニも所属していた。彼の部隊は艦船攻撃で活躍し、多くのギリシャ艦船を撃沈する事に成功している。

しかし、ギリシャ戦線における英空軍との戦いではマルヴェッツィ隊にも犠牲者が出た。12月末には、少数生産されたイタリア国産急降下爆撃機であるサヴォイアマルケッティSM.86を操縦していたエリオ・スカルピーニ(Elio Scarpini)軍曹が撃墜され、更にアンドレア・ブレッツィ(Andrea Brezzi)中尉も対空砲火によって戦死した。

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マルヴェッツィ隊に撃沈された英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」。排水量は11350tで、マルヴェッツィらの攻撃で大破・航行不能となり、味方艦によって雷撃処分された。

第96急降下爆撃航空群は翌年1941年の1月までギリシャ戦線で戦った後、リビアの首都トリポリ近郊に位置するカステルベニート空軍基地に移動した。マルヴェッツィ率いる第236飛行隊はそこから積極的に地中海での艦船攻撃を実行している。彼らの戦果で最も有名なものは、軽巡洋艦サウサンプトン」の撃沈である。1941年1月10日、マルヴェッツィ率いる第236飛行隊はマルタ東部沖の中部地中海にて、英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」への攻撃を実行、マルヴェッツィとその僚機であるマッツェイ曹長とクレスピ軍曹のJu-87"ピッキアテッロ"が250kg爆弾を次々と命中させ、「サウサンプトン」は撃沈されたのであった。この成功は新聞に大きく報道された。

しかし、4月11日にマルヴェッツィの第236飛行隊は英軍によって制圧されたトブルクへの港湾攻撃作戦に参加したが、そこでマルヴェッツィのJu-87は英軍の対空砲火をエンジンに受けてしまい、不時着を余儀なくされる。幸いにも軽症で済み、基地に帰還している。4月13日には再びトブルク港への攻撃作戦に参加し、今回は英海軍の艦船1隻に爆撃を成功させたが、これは急降下爆撃機乗りとしては最後の任務となった

 

◆戦闘機乗りへの転身

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1942年11月、戦闘機エースとなったマルヴェッツィ(右の人物)。左は同じく戦闘機エースのエマヌエーレ・アンノーニ。

負傷したこともあり、マルヴェッツィは休暇を取ってイタリアに一時帰国した。そして、彼は急降下爆撃機乗りから戦闘機乗りに転身することを決めた。こうして、1941年7月28日、マルヴェッツィは第4戦闘航空団第9航空群第96飛行隊に転属となった。ゴリツィアで戦闘機パイロットとしての訓練を受けたが、丁度この頃戦闘機部隊は新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に転換していた。急降下爆撃機乗りだったマルヴェッツィは、MC.202の高速性能にすっかり惚れ込み、とても喜んだという。

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撃墜されたP-40戦闘機を戦後、修復したもの。ラティーナのピアーナ・デッレ・オルメ歴史博物館所蔵。P-40戦闘機はアメリカのカーチス社が開発した戦闘機で、多くの数が量産されたため英空軍や英連邦空軍でも使われている。

1941年9月の終わりに、マルヴェッツィはシチリア島のコーミゾ飛行場に配属となった。11月22日、マルヴェッツィは戦闘機乗りとして初めての戦果を挙げた。マルタ上空で2機のハリケーン戦闘機を撃墜したのである。翌日23日、第9航空群はリビアへの移動となった。26日にはビル・エル・ゴビ上空でアメリカ製のP-40戦闘機を撃墜し、更に再び12月1日にもP-40戦闘機を撃墜、マルヴェッツィは大尉に昇進した。こうしてマルヴェッツィは戦闘機のエースパイロットとなった

12月の終わりになると、第9航空群はイタリアに戻り、ゴリツィア飛行場に移動した。年が明けて1942年4月9日、第9航空群はマルタ航空戦のために再びシチリアのコーミゾ飛行場の配備となっている。更に5月9日にはイタリア陸軍とドイツ陸軍の支援のためにリビアに派遣され、マルヴェッツィは第97飛行隊の司令官に任官されている。6月9日には占領したエジプト中部のフーカ飛行場に配備となった。マルヴェッツィは6月から10月にかけて、P-40戦闘機を4機、スピットファイア戦闘機を1機、更にメリーランド双発爆撃機を1機撃墜し、撃墜スコアは計10機に達した。

しかし、10月20日戦闘中にマルヴェッツィのMC.202のエンジンに被弾し、エル・アラメイン近くの海岸に不時着した。運良く死亡しなかったが、顔に大きな傷を負ってしまい、イタリア本国の病院に入院となった。幸い傷の回復が早く、12月上旬には再び原隊に復帰しており、再び北アフリカに飛んだ。2度も撃墜されながら、2度とも軽傷で済んだというのは幸運の飛行士と言わざるを得ないだろう。「人生には3度の奇跡が起こる」というが、彼の場合はここで2度の奇跡を使ったことになるのかもしれない。

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マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館にて。

しかし、結局1943年1月には第9航空群は北アフリカを去り、イタリアに戻った。春の間にマルヴェッツィら戦闘機部隊はMC.202から新型機のマッキ MC.205V"ヴェルトロ"に転換している。MC.205Vはフィアット G.55"チェンタウロ"と並び「イタリア最高の戦闘機」と称される傑作機である。こうして6月にシチリアに移動した第9航空群は連合軍の上陸部隊との交戦に入った。この頃になると、燃料の枯渇によってイタリア空軍も出撃回数を減らす事態に陥っていた。

更に不幸なことに翌月の7月になると、マルヴェッツィはマラリアに発症し、故郷ノチェートに近い温泉街サルソマッジョーレ・テルメの病院での療養生活を余儀なくされてしまった。第97飛行隊の後任の司令官にはジョヴァンニ・バルカーロ大尉が就任している。彼の入院中、7月25日にはムッソリーニ統帥が失脚し、ピエトロ・バドリオ元帥による政権が誕生した。更には9月8日はバドリオ政権による連合国との休戦もラジオで発表され、マルヴェッツィは入院中にその知らせを聞いたのであった。

 

◆RSI空軍(ANR)への合流

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RSI空軍第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」司令官となった、マルヴェッツィ大尉の宣誓式。

しかし、1943年9月12日にはオットー・スコルツェニー率いるドイツ軍特殊部隊が、アブルッツォのグラン・サッソ山中のホテルから幽閉されたムッソリーニ統帥を救出し、9月23日にはファシスト政権の後継政権であるイタリア社会共和国(RSI政権)の成立が宣言された。RSI政権は連合国との交戦継続を謳い、「イタリアの名誉のために」多くの軍人がRSI軍に合流した。RSI空軍がエルネスト・ボット空軍参謀長の元で再建され、多くのパイロットがこれに参加している。マルヴェッツィもその一人であり、病院を退院してRSI空軍(Aeronautica Nazionale Repubblicana, 略称ANR)に合流した

10月22日、マルヴェッツィは利用可能なMC.202戦闘機を搔き集めてカスティリオーネ・デル・ラーゴで飛行隊を結成、12月にはボット大佐によってトリノ近郊の飛行場を拠点とする訓練飛行隊の隊長に任命された。1944年8月には正式に第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」が設立されることとなり、この司令官にマルヴェッツィは任命された。同航空群はヴィチェンツァを基地とした。

機材の不足のため、この戦闘航空群は第一戦闘航空群や第二戦闘航空群がMC.205V"ヴェルトロ"やG.55"チェンタウロ"といった新型機を使っているのに対して、既に旧式化したMC.202"フォルゴレ"を使用せねばならず、その戦力不足をドイツのメッサーシュミット Bf109を導入して補った。その後、同航空群はドイツにて再訓練を受けることとなったが、訓練を終了して帰国する事にはもはやイタリア戦線は終了していた。結局マルヴェッツィ率いる第三戦闘航空群は実戦に参加する事無く、終戦を迎えたのであった。1945年4月25日、マルヴェッツィはパルチザンに降伏交渉を行い、部下の安全を約束させてから同戦闘航空群は降伏した。

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リビア空軍仕様のSIAI-マルケッティ SF.260。同タイプの機体をマルヴェッツィは個人保有し、趣味で飛ばしていた。

こうして、マルヴェッツィは終戦を迎えた。彼の戦闘機パイロットとしての単独での撃墜戦果は全10機で、銀勲章3個、銅勲章1個、更にドイツから鉄十字を叙勲されている。戦後は故郷ノチェートで自動車運送会社を起業しているが、空への情熱は失っておらず、趣味として休みの日にはパルマの航空クラブに所属してSIAI-マルケッティ SF.260軽飛行機に乗って楽しんだ。2003年4月21日に亡くなった。

 

余談だが、『ストライクウィッチーズ』にはマルヴェッツィ大尉をモデルとするフェルナンディア・マルヴェッツィというキャラクターが登場する。モデルとなったマルヴェッツィ大尉の要素も多くあり、固有魔法が治癒魔法なのはマルヴェッツィ大尉が元は医学部生だったことに由来し、彼女の部下の2人(ルチアナ・マッツェイとマルチナ・クレスピ)もマルヴェッツィ大尉の部下だったマッツェイ曹長とクレスピ軍曹をモデルとしている。そのおかげか、日本では割と知名度があるようで、wikipediaでもイタリア語版wiki以外では唯一日本語版wikiに記事が存在しているのも興味深い。

なお、マルヴェッツィと共に「サウサンプトン」を撃沈したジャンピエロ・クレスピ軍曹は、マルヴェッツィが急降下爆撃機部隊を去った後も急降下爆撃機乗りだった。飛行教官を務めた後、IMAM Ro.57bisに乗り換えて休戦まで任務を続けている。1943年の休戦以降はどちらに加わることもなく終戦を迎えた。戦後はAVIA社のテストパイロットを短期間務めた後、レニャーノで繊維企業を起業して成功を収めたようである。しかし、1977年には連続強盗犯のレナート・ヴァッランゼスカらによって誘拐され、数日間監禁されている(身代金の支払いによって解放)。そして2013年に亡くなった。死亡のニュースは地元の新聞にも取り上げられたことから、名士として慕われていたのだろう。