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英国本土航空戦で活躍した「鷹」のエース、ジュゼッペ・ルッツィン ―複葉戦闘機乗りとしての「こだわり」―

第二次世界大戦時、英国本土上空では英国空軍(Royal Air Force)とドイツ空軍(Luftwaffe)が熾烈な航空戦を繰り広げたことは広く知られている。実はこの英国本土航空戦、すなわち「バトル・オブ・ブリテン」には短期間ではあるが、ドイツの同盟軍としてイタリア空軍(Regia Aeronautica)も参加していた。このイタリア空軍部隊は「イタリア航空軍団(C.A.I.)」と呼ばれたが、バトル・オブ・ブリテン終盤からの参加である上に、装備の性能が不十分であったため、そこまで大きな戦果は挙げていない。

しかし、そんな中でも英国本土上空で「世界最後の複葉戦闘機」こと、フィアットCR.42"ファルコ"は圧倒的に性能が勝る英空軍のスピットファイア戦闘機やハリケーン戦闘機を多数撃墜するという戦果を挙げた。そこで、今回はこの「バトル・オブ・ブリテン」で活躍した複葉機パイロットの一人、ジュゼッペ・ルッツィンについて調べてみたいと思う。

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ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)

 

◆スペイン内戦での活躍

ジュゼッペ・ルッツィンは1916年4月25日に、オーストリア=ハンガリーとの国境に近いヴェネト地方のスプレジアーノに生まれた。しかし、時は第一次世界大戦の真っ最中であり、生まれたばかりのルッツィンは家族と共にジェノヴァに避難することになったのである。

時が経って1935年春、まだ19歳になったばかりのルッツィンは学生でありながら、イタリア空軍の補助飛行士に志願した。この頃、イタリアはエチオピア帝国との間で国境紛争が発生し、国際的にも英国やフランスと緊張が高まっていた。同年9月25日、飛行士の免許を手に入れたルッツィンは適性と判断され、空軍パイロットになった。

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スペイン内戦で義勇兵パイロットとして参加したイタリア人パイロット。後列の一番右がルッツィン。

彼が実戦に参加したのはスペイン内戦が初である。1936年9月、「ジャコモ・グラッシ(Giacomo Grassi)」という偽名義勇兵パイロットとしてスペインに入国した。スペイン内戦では多くのイタリア人義勇兵パイロットが参加し、その中にはエットレ・ムーティフランコ・ルッキーニジュゼッペ・チェンニといった後の大戦で活躍する名パイロットも多かった。しかし、ルッツィンはこの段階でまだわずか112時間しか飛行時間がなく、更に20歳という若さだった。10月30日、ルッツィンはフィアット CR.32複葉戦闘機の試験飛行中にスペイン共和国空軍のツポレフ SB爆撃機2機と遭遇、これを損傷させて撃退している。これが彼の空軍パイロットとしての初の戦果となった

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ルッツィンのフィアット CR.32戦闘機

12月7日にはトレド上空でスペイン共和国空軍の爆撃機と遭遇し、1機を撃墜し、1機を損傷させた。僚機のバッカラ(同じイタリア人パイロット)も1機を撃墜している。これがルッツィンの初の撃墜戦果となった。ルッツィンはスペイン内戦で14カ月の間で計313時間飛行し、4機を単独で撃墜、4機を損傷させ、共同撃墜戦果は2機だった。スペイン内戦での戦果で彼はエースとなったのである。

帰国したルッツィンは第56戦闘航空団第18戦闘航空群第85飛行隊に配属となった。彼はここで後のエースとなるルイージ・ゴッリーニ軍曹と出会っている。

 

第二次世界大戦開戦、フランス空軍との戦い

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フィアットCR.42"ファルコ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。CR.42は複葉戦闘機であったが、圧倒的に性能が勝る英軍機を相手に多数撃墜している。航続距離が長かったこともあり、大した戦果を挙げられなかった単葉機のG.50と異なり、英国本土上空で戦果を挙げた。

1940年6月10日、第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、ルッツィンはフランス空軍との戦いに参加した。ルッツィンの乗機はCR.32から新型機のフィアット CR.42"ファルコ"に乗り換えていた。CR.42は複葉機だったが、高い運動性能を持ち、格闘戦を好むイタリア空軍の戦闘機パイロットには人気だった。

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フランス空軍のモラーヌ・ソラニエ MS406戦闘機

6月15日、フランス・ボーシャンの上空でフランス空軍のモラーヌ・ソラニエ MS406戦闘機7機と遭遇した。この空戦でルッツィンは3機を共同撃墜し、4機を損傷させて撃退する事に成功、CR.42戦闘機の高い空戦性能を示している。

 

◆「バトル・オブ・ブリテン」への参戦

フランス戦が終了すると、ルッツィンの所属する第56戦闘航空団はバトル・オブ・ブリテンに参加することとなり、「CAI遠征空軍」の一員としてベルギーに派遣された。

11月11日、ルッツィンの第85飛行隊はハリッジ爆撃に向かう爆撃機隊の護衛任務についていた。この作戦は、イタリア空軍の第172偵察飛行隊のCANT Z.1007bis"アルチョーネ"爆撃機編隊がグレート・ヤーマスへの爆撃を敢行すると見せかけて英空軍を引き付けている間、フィアット BR.20"チコーニャ"爆撃機10機がCR.42及びフィアット G.50"フレッチャ"戦闘機42機に護衛され、ドイツ空軍のJu-87"シュトゥーカ"急降下爆撃機部隊と共にハリッジを空襲するという作戦だった。

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CAI遠征空軍のフィアット CR.42"ファルコ"戦闘機

この爆撃機部隊を英空軍のハリケーン戦闘機及びスピットファイア戦闘機、計25機が迎撃し、ハリッジ上空でイタリア空軍護衛部隊との空戦が開始したルッツィンはこの戦いで1機のハリケーン戦闘機を撃墜することに成功し、また他3機を同じCR.42戦闘機が撃墜している。「時代遅れ」とされた複葉戦闘機CR.42であったが、逆に複葉戦闘機ならではの軽快な運動性能で戦果を挙げたのであった。更に、単葉戦闘機のG.50は航続距離が短かったため、航続距離が長いCR.42が重宝された理由はそこにもあった。故に、バトル・オブ・ブリテンでは単葉戦闘機のG.50が目立った戦果を挙げていないのに対して、CR.42は性能的に圧倒的に勝るスピットファイア戦闘機やハリケーン戦闘機に対して多くの撃墜戦果を挙げているのであった。この功績によってルッツィンは二級鉄十字章をドイツ空軍より叙勲されている。

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マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館所蔵)。高い性能を誇る傑作機だが、複葉戦闘機にこだわりを持っていたルッツィンには好まれなかった。

この戦いによって、ルッツィンの総撃墜スコアは5機(共同撃墜を含めると10機)となった。1941年1月にCAI遠征空軍は英国本土での作戦を終了させて、本国に戻ることとなる。その後、ルッツィンは地中海での航空戦に参加したが、複葉戦闘機は旧式化故に新型機の単葉戦闘機であるマッキ MC.202"フォルゴレ"MC.205V"ヴェルトロ"に取り換えられることとなった。これらのマッキ社の新型機は非常に優秀な機体であったが、複葉機に慣れ親しんだルッツィンにとっては「つまらない」ものであり、これらの期待による任務は「非常に退屈」だったと述べている。実際、ルッツィンはこれ以降目立った戦果を挙げる事もなかった。

彼の最後の戦果は1943年のシチリア上空でのもので、6月29日にはスピットファイア戦闘機2機を損傷させ、7月5日にはA-20双発攻撃機を損傷させている。

 

1943年9月8日にイタリア王国は休戦するが、ルッツィンはその後北部のRSI空軍にも、南部の共同交戦空軍にも合流する事は無かった。彼の総撃墜スコアは単独で5機、共同で5機だが、その全ては複葉戦闘機(CR.32とCR.42)によってなされたものであった。彼は2個の銀勲章、1個の銅勲章、1個の十字勲章、1個の二級鉄十字章を叙勲されている。彼の興味深い点はバトル・オブ・ブリテンでCR.42の高い空戦性能を示したことは勿論、「休戦まで戦い続けたにもかかわらず、複葉戦闘機を降りて以降は目立った戦果を挙げていない」というところである。彼自身も単葉戦闘機での任務を「つまらない」と称していたが、ここまで複葉戦闘機へのこだわりを持ったエースも珍しいだろう。