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東アフリカ戦線の智将、グリエルモ・ナージ将軍 ―ソマリランドにおける大勝と、ゴンダールでの最後の抵抗―

前回のエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍について調べてみたが、今回もイタリア陸軍の将軍シリーズでやってみようと思う。今回はグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍について調べてみる事とする。ナージ将軍は第二次世界大戦、本国から遠く離れた東アフリカ戦線で戦闘を指揮した将軍で、東アフリカ戦線初期には東部地区軍を統括し、英領ソマリランド制圧戦を大勝に導き、戦線崩壊後も西部のゴンダールを拠点に抵抗し、最後まで戦い抜いた将軍であった

そんな東アフリカ戦線きっての智将であるナージ将軍について、詳しくは知られていないように感じる。そもそも、東アフリカ戦線全体がそうかもしれないが。以前、紅海艦隊やアオスタ公アメデーオ空軍大将といった、海空での東アフリカ戦線のアプローチはしたが、陸軍でのアプローチはしていなかった。ということで、今回はナージ将軍の人生を紐解き、東アフリカ戦線の理解を進めることを目的とする。

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白馬に乗るグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

 

◆その出自とアフリカでの戦いの始まり

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グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

1879年2月21日、グリエルモ・ナージは首都ローマ近郊の港町、チヴィタヴェッキアに生まれた。チヴィタヴェッキアは「ローマの外港」とも言われる重要な港町で、日本の慶長遣欧使節団が上陸したのもこの町である。彼は1896年にモデナの陸軍士官学校を卒業後、砲兵少尉に任官された。1905年には砲兵中尉に昇進した。

1911年に伊土戦争が勃発すると、ナージ中尉は第8砲兵連隊の連隊長としてリビアに出征、1912年7月1日のアッ=サフサーフの戦いでオスマン帝国軍部隊を巧みな戦術で打ち破る活躍を見せた。この結果、その働きが認められ、銀勲章を叙勲され、大尉に昇進している。第一次世界大戦においては、第14歩兵師団の参謀長として活躍し、計3回銀勲章を叙勲される働きを見せた。その結果、終戦時までには中佐に昇進した。

第一次世界大戦終戦すると、政情は混乱していたが、イタリアに平和が訪れた。とはいえ、未だに混乱が続いていたリビアに派遣され、第81歩兵師団の参謀長を務めている。その後、1919年から1925年までトリポリタニア植民地(当時はリビア植民地は統一されておらず、キレナイカトリポリタニアフェザーンの三植民地に分かれて統治されていた)駐屯軍の首席補佐官として務め、エミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥を補佐した。1925年、大佐に昇進。1926年、パリの駐仏イタリア大使館駐在武官として派遣された。1928年になると、ナージはパリでの任務を終え、一度故郷のチヴィタヴェッキアに戻った。

 

◆「リビア再征服」

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リビア再征服時のトリポリタニアキレナイカ知事のピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio,左)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani, 右)。エチオピア戦争時でも、バドリオは北部戦線を、グラツィアーニは南部戦線を指揮した。優れた手腕で植民地戦争を遂行していったが、リビア人やエチオピア人にとっては「悪魔のコンビ」であった。

士官学校で教鞭をとった後、第三歩兵連隊の連隊長に任命。1931年にはナージは伊土戦争での活躍からリビア戦での実力が買われ、植民地省に勤務することになり、リビアに派遣された。当時、リビア植民地では「砂漠のライオン」オマル・ムフタール(Omar al-Mukhtar)率いるサヌーシー教団が大規模な叛乱を起こし、事実上の「戦争状態」となっていた(リビア再征服, Riconquista della Libia)。リビアに送られたナージ大佐は首席補佐官として、抵抗鎮圧のために新たにトリポリタニアキレナイカ知事に就任したピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)と、副知事のロドルフォ・グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)将軍を補佐、キレナイカ方面での指揮で武勲を挙げた。1933年にはその働きにより准将に昇進し、将軍となった

リビア平定が終結した後、1934年にグラツィアーニ将軍の後任として、キレナイカ知事に就任しているが、その直後にリビアキレナイカトリポリタニアフェザーンの三地域が統合され、リビア総督に就任したイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥のもとで「リビア植民地」として再編されたため、これはリビア平定に貢献したナージに贈られた一種の名誉称号的なものとなった。リビア平定後はエチオピア戦争に備え、キレナイカで第一植民地歩兵師団「リビア」を編成。

 

◆「ヒンデンブルク防壁」とオガデン戦線

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南部戦線でエチオピア帝国軍を指揮した、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍。参謀長のトルコ人義勇兵ワヒブ・パシャと共に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築し、イタリア軍に強固に対抗した。しかし、グラツィアーニによる容赦ない毒ガス攻撃を受けた結果、以後後遺症に苦しみ、亡命先のスイスで死亡した。

1935年にエチオピア戦争が勃発すると、グラツィアーニ将軍と共に南部戦線で戦うこととなる。ナージ将軍が指揮したのは先ほどの第一植民地歩兵師団「リビア」で、兵員の殆どがリビア人で構成されていた。これに対して、エチオピア帝国軍側の将軍、デジャズマッチ・ナシブ・ザマヌエル(Nasibù Zamanuel, ነሲቡ ዘአማኑኤል)将軍は、トルコ人義勇兵ワヒブ・パシャ(Wahib Pascià)を参謀長として重用し、オガデン地方に防衛線「ヒンデンブルク防壁」を構築する事で対抗している。

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捕虜となったエチオピア帝国軍将軍、ラス・デスタ・ダムタウ(Destà Damtù)。ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(テナグネウォルク皇女の婿)。エチオピア皇室の一員。エチオピア戦争時はナシブ・ザマヌエル将軍と共に、南部戦線の指揮官。皇帝に忠実であり、アディスアベバ陥落後も南部でレジスタンス運動を指揮、イタリア軍を苦しめた。しかし、グラツィアーニ暗殺未遂事件直後にナージ率いるイタリア軍に逮捕され、絞首刑で処刑された。

これにより、ナージ率いる「リビア」師団も多くの損害を受けるが、グラツィアーニによる容赦ない攻撃命令によってこれを突破する事に成功し、最終的にハラールを陥落させ、エチオピア戦争の終結を迎えている。終戦と共に、ナージは新たに設立されたハラール行政区の知事となった。また、少将に昇進。ハラール知事としては、レジスタンス鎮圧にも尽力し、最終的にデスタ・ダムタウ(Destà Damtù)将軍率いるレジスタンス軍を鎮圧する事に成功した。1938年には中将に昇進している。

また、ナージはハラール知事として、現地語のハラリ語を理解し、積極的に他種多少な民族構成の現地人との交渉を行って協力関係を結んでいったナージは軍人としてでだけでなく、他民族との「外交官」としても優れた交渉術を持っていたのである。彼はエチオピアのソロモン王朝に反対していた現地民らを懐柔し、イタリア軍の協力者にしていった。このナージの手法は、後にゴンダールでの最後の抵抗時でも発揮されることとなる。1939年5月に一度ハラール知事を辞めて、首都アディスアベバ周辺を統治するショア知事に任命された後、1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦したことによって速やかにハラール知事に戻っている。

 

ジブチを巡るフランス軍との戦い

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イタリア軍が制圧した、ジブチ・ロワイヤダのフランス軍の国境要塞。フランス軍イタリア領東アフリカ帝国とフランス領ジブチとの国境にこのような要塞群を設置して防衛を強化していた。

イタリアが第二次世界大戦に参戦した後、ナージ中将はイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のハラール行政区の知事であった。そして、A.O.I.東部地区を統括する軍司令官として防衛線を敷いたのである。東アフリカ帝国副王の肩書を持つ東アフリカ方面軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo di Savoia-Aosta)空軍大将のもとで、東アフリカでの戦いは緩やかに始まった。

6月18日から、ナージ将軍はイタリア領エチオピア-フランス領ジブチ国境から軍を進撃させ、フランス軍の国境要塞群で小規模な戦闘が発生した。ナージ将軍率いる東部地区のイタリア陸軍は南部のアリ・サビエ要塞と北部のダッダート要塞を攻撃。更に、要塞群が開けている国境のアッベ湖周辺でも伊仏両軍による戦闘が開始された。フランス軍部隊が撤退したため、イタリア軍部隊は首尾よく国境の要塞群を制圧していった。とはいえ、フランス領ジブチ植民地への明確な攻撃命令はなされていなかったため、あくまでこれらは防衛の副産物であった。そのため、ナージ将軍はフランス領ジブチへの徹底的な攻撃は行うことはしなかった。

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第二次世界大戦開戦後、ジブチにて兵士を閲兵する駐ジブチ・フランス軍司令官のポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)陸軍准将。休戦に反対してジブチを脱出後、自由フランス軍に合流。その後、東アフリカ戦線ではイタリア軍と戦い、シリア戦線ではヴィシー・フランス軍と交戦した。

6月21日、伊空軍部隊はジブチ港を爆撃(この際激しい対空砲火によってカプロニ Ca.133偵察爆撃機2機が撃墜されている)。また、夜間にはサヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"三発爆撃機が再度ジブチの港湾設備を爆撃し、その報復としてフランス空軍のポテ25戦闘爆撃機エチオピア国境のドゥアンレーを爆撃している。6月24日にヴィッラ・インチーサ休戦協定がイタリア・フランス間で署名されたことにより、6月25日には伊仏両軍は休戦を実現した

この結果、イタリアはフランスが支配していたジブチ港の使用権を手に入れ、ジブチ-アディスアベバ鉄道を活用することで物資の円滑な輸送が可能となった。更にジブチの非武装化と全装備のイタリア軍への接収が行われた。しかし、駐ジブチ・フランス軍司令官であるポール・レジェンティオーム(Paul Legentilhomme)将軍ヴィシー政権に従うことを拒否し、アデンに脱出して自由フランス軍に合流している。

 

ソマリランドでの大勝

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英領スーダンのカッサラーに攻撃を開始するイタリア軍部隊。

フランス降伏後、イタリア軍は本格的に英国との戦いを開始した東アフリカ戦線もそれに呼応し、東アフリカ軍総司令官アオスタ公はスーダンのゲダレフ及びカッサラーへの攻勢を開始。7月4日、ルイージ・フルーシィ(Luigi Frusci)将軍率いる部隊がカッサラーを制圧し、7月5日にはピエトロ・ガッツェラ(Pietro Gazzera)将軍率いる部隊が同じくスーダンのガッラバト要塞及びクルムク要塞を陥落させた。更に、ガッツェラ将軍の部隊は英領ケニアに侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラを制圧。遂には国境から100km地点のブナまで進軍した。

イタリア軍は順調に戦線を有利に進めていたイタリア軍司令部はその後、英軍の紅海における補給路を脅かすために英領ソマリランドの制圧を決定した。英国の最重要植民地であるインドと、地中海を結ぶ紅海の補給路を遮断する事で、英軍に大打撃を与える、というものである。そのために、英軍の重要中継地となっているソマリランドを制圧するという作戦であった。そして、長期的に見て、北アフリカではスエズを落とし、地中海ではマルタとジブラルタルを落とし、植民地に頼り切る英国本土を干上がらせよう!という計画である。

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ソマリランド侵攻の地図。左がベルトルディ将軍率いる左翼部隊、右がデ・シモーネ将軍率いる中央部隊で、途中分岐して最も右に行っているのがベルテッロ将軍率いる右翼部隊である。これらが各拠点を制圧した後、それぞれが連携してベルベラへの進撃を開始した。

このソマリランド進撃は東部地区を統括するナージ中将に任せられた。ナージ率いる兵員4万人は三縦隊に分かれ、左翼部隊はシスト・ベルトルディ(Sisto Bertoldi)中将、中央部隊はカルロ・デ・シモーネ(Carlo De Simone)中将、右翼部隊はアルトゥーロ・ベルテッロ(Arturo Bertello)准将がそれぞれ指揮に当たった。基本的に東アフリカ戦線のイタリア軍は旧式装備が目立ったが、デ・シモーネ将軍の中央部隊は12輌のM11/39中戦車と12輌のCV35豆戦車、更にFIAT 611装甲車も配備していた。それに加え、即席の装甲車両なども含んでいた。更にこれらの部隊にオルランド・ロレンツィーニ(Orlando Lorenzini)大佐率いる二個植民地旅団が追加された。

英領ソマリランドアーサー・レジナルド・チェイター(Arthur Reginald Chater)司令官率いる守備隊1万3000人が防衛していた。ナージ将軍は8月3日にソマリランド侵攻作戦を発動し、軍を進撃させる。そうして、国境地帯の拠点を制圧しつつ進軍を開始。8月5日には、サヴォイア快速師団や2個黒シャツ大隊(MVSNの部隊)を含むベルトルディ将軍率いる左翼部隊がアウダル地方の中心都市であり、重要な貿易湾であるゼイラを制圧した。これによって、ジブチ-ソマリランドのルートを完全に断つことに成功している。

同日、機甲部隊を含むデ・シモーネ将軍率いる中央部隊は、空軍の対地支援攻撃のもと、後の英領ソマリランドの首都ハルゲイサへの攻撃を開始翌日の8月6日にはハルゲイサを迅速に陥落させることに成功している。デ・シモーネ将軍はハルゲイサで中央部隊の再編制を行い、2日間進軍を停止した。

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イタリア軍によって制圧された英領ソマリランドの首都、ベルベラ。東アフリカ戦線における一連の勝利は、イタリア軍の緒戦での戦いで最も成功した勝利と言える。

リビア人植民地兵のラクダ騎兵部隊を中心とするベルテッロ将軍率いる右翼部隊も、8月6日に首都ハルゲイサから東に120kmほど行った場所にある拠点、アドエイナを陥落させているこうして、三方面から進軍したイタリア軍部隊は揃い、首都ベルベラへの進撃を開始した。これに対して、東アフリカ軍総司令官のアオスタ公は進撃を急がせたが、ナージ将軍は雨の影響で路面に泥濘が多く、路面状態が悪化していたために進軍を遅らせ、デ・シモーネ将軍の中央部隊が再編成を終えた8月8日に再進軍を開始した。

ここまで順調に勝利を重ねていたナージ将軍であったが、英軍側がトゥガ・アルガン峠で最後の抵抗を試みた。英軍は防衛線を張り、イタリア軍を迎撃。このトゥガ・アルガン峠での激戦は8月11日から6日間も続き、イタリア軍側(現地のアスカリ兵を含む)は約2000人近い戦死者を出す結果となった。しかし、ナージ将軍率いるイタリア軍は英軍守備隊を激しく追撃し、英軍側は包囲を恐れて退却を余儀なくされたのである

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ソマリランド征服時点(1940年8月19日)の東アフリカ戦線におけるイタリア軍の支配領域。赤色は開戦前からのイタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)、ピンク色がこの時点で占領している英国植民地(ソマリランドケニア北部、南スーダン)、橙色は使用権を得たヴィシー・フランス領ジブチ

こうして、チェイター司令官ら英軍ソマリランド司令部はソマリランドの放棄を決定し、8月16日に英軍部隊の多くは包囲される前に速やかに海路でアデンまで撤退したのであった。この結果、ナージ将軍率いるイタリア軍部隊は英軍の残存部隊を追撃・撃破した後、8月19日にソマリランド首都ベルベラに入城し、英領ソマリランド全土の制圧を完了したのであった

このナージ将軍による「ソマリランドでの大勝」の知らせはムッソリーニは勿論、ヒトラーも絶賛する祝電を打っている。ナージ将軍は砂漠と荒野の広がる戦場で巧みに軍を三分割して指揮し、各拠点を封じて英軍の補給路と退路を断った後に、三部隊が再び連携して首都を叩く、という戦略で輝かしい勝利を手に入れたのであった。

 

ソマリランドの占領統治

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グリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍

ナージ将軍によって征服された英領ソマリランドであったが、形式上は東アフリカ帝国のソマリア行政区に組み込まれたが、「征服地」故にソマリア知事のグスタヴォ・ペセンティ将軍(Gustavo Pesenti)の指揮下ではなく、ナージ将軍が「ソマリランド軍事総督」として、旧英領ソマリランドの占領統治を管理した。

しかし、英軍は撤退時にソマリランドの港湾設備を徹底的に破壊していたために、利用するためのインフラ修復が急務となった。インフラ整備の傍ら、イタリア式の建築もソマリランドの占領地域で試みられているが、そのほかのスーダンケニアの占領地同様に短期間で支配が終わった事から、どうしても数は少なかった。

イタリア軍ソマリランドで大勝したものの、損害もそれなりに多かったため、軍需物資が不足してしまった。スエズが封鎖されているために海上輸送による大規模物資運搬が不可能であったため、アウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)空軍将軍率いる空軍特別補給コマンド(S.A.S.)がエチオピアへの物資運搬をしていたが、航空機では装甲車両を始めとする軍需物資運搬は数がどうしても制限されてしまった。

 

◆反撃の狼煙、戦線の崩壊

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装甲車両とイタリア兵。

結局、その後東アフリカ帝国軍総司令官であるアオスタ公は物資の不足からスーダンケニアへの再進撃を停止していた。しかし、この3カ月ほどの温存期間の結果、完全に敵に塩を送る結果となってしまったのである。伊軍が物資の補給の遅延故にゆっくりしたスピードで回復していたのに対して、英軍は急速に兵力を増強させて反撃の機会を狙っていた。更に、英軍はデブレ・マルコスを中心とするエチオピア北西部のゴジャム地方にて、エチオピア人によるイタリア当局への叛乱工作を行っていた。

英軍は反撃の狼煙をあげた。1940年12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利であったが、イタリア軍崩壊の前触れとなったのであった。この結果、敗北の責任を取らされてソマリア知事兼エル・ウァク基地司令官のグスタヴォ・ペセンティ将軍は解任、本国に送還された。

後任のソマリア知事には、ナージ将軍の後任としてソマリランドの占領統治をしていたデ・シモーネ将軍が就任した。この結果、名実ともにソマリア植民地が完全統一された。英領ソマリランドは再度英国に奪還されるまでの間、イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)のソマリア行政区に編入され、ソマリアは「史上最大のソマリア領域」を手に入れたのであった。アジュラーン帝国の末裔で、イタリア当局に協力していた主要ソマリ人貴族のオロル・ディンレ(Olol Dinle)もこれを称賛した。

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エリトリアにおける英軍による逆侵攻の地図。

年が明けると、1941年1月19日に英軍は占領地域の奪還を遂に本格的に開始し、イタリア軍が占領していたスーダンのカッサラーが陥落したエリトリアへの逆侵攻を開始した英軍は、1月31日にはアゴルダト、2月2日にはバレントゥを陥落させ、イタリア軍はケレンまで撤退することとなった。他方、南部方面ではイタリア軍は占領していたケニアから追い出され、2月初めには英軍はソマリアへの侵攻を開始。アフマドゥやキスマヨといった南部の主要都市が次々と制圧され、2月25日には遂にソマリア首都モガディシオが陥落する事態となった。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。

東アフリカ戦線はもはや壊滅状態であった。伊軍第25植民地師団は帝都アディスアベバ東方のアワシュ渓谷地帯で防衛戦を繰り広げていたが、英軍の侵攻によって4月5日に力尽きた。これによって帝都への道が開かれ、伊軍司令部は帝都放棄を決定。翌日にはアディスアベバは英軍によって陥落したのである

帝都を脱出した東アフリカの伊軍総司令官アメデーオ公は、アンバ・アラジ山岳地帯のトセッリ城塞での防衛戦をおこなった。4月17日にはデシエが陥落。イタリア軍は軍需物資の欠乏に悩まされながら戦ったが、5月15日に統帥からの降伏許可の電文が届き、17日にアメデーオ公は英軍に降伏、東アフリカのイタリア軍主力は降伏した。

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自由ベルギー軍のオーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)陸軍少将と、ベルギー領コンゴ公安軍の兵士たち。ジリアールト将軍率いる自由ベルギー軍アフリカ軍団は、東アフリカ戦線に参加してガッツェラ将軍率いるジンマのイタリア軍を降伏に追い込んだ。

こうした結果、主力降伏後もいくつかの部隊が各地で籠城戦を繰り広げた。アメデーオ公の降伏によって、東アフリカ軍総司令官の役職を受け継いだガッツェラ将軍は4万人の兵を率いてエチオピア南部のジンマを拠点とした一方で、ナージ将軍はエチオピア北西部に位置する旧首都のゴンダールを拠点とすることとした。しかし、3か月に渡る籠城戦の末、6月21日にジンマは陥落。ガッツェラ将軍率いる残存部隊は西部に撤退していたが、オーギュスト=エドゥアール・ジリアールト(Auguste-Édouard Gilliaert)将軍率いる自由ベルギー軍部隊の追撃を受け、7月3日にガッツェラ将軍は降伏した

こうして、東アフリカ戦線で最後まで組織だった抵抗をしているイタリア軍部隊は、ゴンダールを拠点とするナージ将軍の部隊のみとなってしまった

 

ゴンダールでの最後の抵抗

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ゴンダール戦における英軍の侵攻経路。

ガッツェラ将軍の降伏の後、ナージ将軍はその役職を引き継ぎ、最後の東アフリカ軍総司令官として就任した。更に、大将に昇進し、名誉職として上院議員の席も与えられている。こうして、ゴンダール周辺での最後の戦いは始まった

ナージ将軍配下の兵士は約4万人で、ゴンダールを最後の拠点として、エチオピア北西部のアムハラ地方にあるタナ湖北方の北西陣地に陣を構えた。ナージ将軍は、周囲を英軍に囲まれて支援物資も全く届かない状況において、物資が困窮する中で残された全てを利用するために努力した。食糧消費を管理して減らし、現地人との協力体制を築き、資材は全て余すところなく活用し、更にタナ湖の漁業区画を管理下において、効率的に食糧供給を行うことで、残されたもので最大限の活用を行った。特別航空補給コマンド(S.A.S.)による秘密空輸作戦によって、現地人から食料を買うための資金が届けられ、こうしてナージ将軍は現地人から食糧を奪い取るのではなく、合法的な手段で協力関係を結び、あくまで対等な交易関係として食糧を購入した

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東アフリカ戦線のイタリア軍の即席装甲車両。東アフリカ戦線のイタリア軍は英軍によってスエズが封鎖されているために、本国からの海上輸送が出来ず、装甲車両が不足した。そのため、現地で即席でこういった装甲車両を作って戦力を補充した。

兵器に関しては、装甲車両が圧倒的に不足していたために、農業用トラクターを改造して即席の装甲車両を作り、戦力の増強に務めている航空戦力で稼働状態にあるものは、FIAT CR.42"ファルコ"戦闘機が2機、カプロニ Ca.133偵察爆撃機が1機、ゴンダールのアゾゾ空軍基地にあるのみであった。 

ナージ将軍の部隊には騎兵集団「アムハラ」の団長であるアメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉もいた。男爵家出身の騎兵将校グイレットは、エリトリア人やイエメン人から構成された騎兵集団「アムハラ」の指揮官として、数々の戦場で武勲を挙げ「悪魔の司令官」と呼ばれていた。アゴルダト撤退戦では騎兵突撃で歩兵部隊だけでなく、英軍のマチルダII歩兵戦車さえも数輌撃破して、味方の撤退の血路を開くと言う奇跡的な戦果を挙げている。

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アメデオ・グイレット(Amedeo Guillet)大尉率いる騎兵集団「アムハラ」。左の人物がグイレット大尉。

ゴンダール北方に築かれたウォルケフィット要塞では、マリオ・ゴネッラ(Mario Gonella)中佐率いる二個黒シャツ大隊が最後まで抵抗した。一方はアンジェロ・サンテ・バスティアーニ(Angelo Sante Bastiani)曹長が、もう一方はエンリコ・カレンダ(Enrico Calenda)中尉が指揮した。今までイタリア軍側に協力していたエチオピア人貴族(ラス)の旧エチオピア帝国軍将軍アジャレウ・ブッル(Ajaleu Burrù)が連合軍側に寝返ったため、ウォルケフィット要塞は完全に英軍の包囲下に置かれた。5月10日、ゴネッラ中佐は英軍からの降伏勧告を拒否し、徹底抗戦する事を決定する

その後、ウォルケフィット要塞は英空軍の激しい空爆に襲われるが、6月22日のイタリア軍の反撃ではバスティアーニ曹長とカレンダ中尉の黒シャツ大隊が英軍拠点を陥落させ、制圧する事に成功している。英軍側に協力していたアジャレウ・ブッルは捕縛されたが、ナージ将軍は彼を殺さないように兵士らに命じた。バスティアーニはこれらの働きにより、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。

しかし、状況は再度厳しくなった。ウォルケフィット要塞は再度英軍の反撃を受け、2度目の降伏勧告を通告された。ゴネッラ中佐は再度拒否したが、チャールズ・クリストファー・フォークス(Charles Christopher Fowkes)少将率いる英軍部隊によってウォルケフィット要塞は完全に包囲される事態となり、8月25日の英空軍の激しい爆撃によって、カレンダ中尉も戦死してしまった。包囲下の中、駐屯軍は最後まで抵抗し、食糧が枯渇したゴネッラ中佐らウォルケフィット要塞守備隊は、9月28日に降伏した。英軍は彼らの勇気を称賛し、武装したままの降伏を許可している。

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エリトリア人アスカリ兵を描いた絵ハガキ。東アフリカ戦線では、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲したウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長を始めとし、多くのエリトリア人・ソマリ人・エチオピア人・イエメン人の現地人兵(アスカリ)が活躍し、激戦の中で戦死した。

8月に入ると、アウグスト・ウゴリーニ(Augusto Ugolini)大佐率いる守備隊が守るクルクァルベール要塞に対する攻撃も開始された。ウゴリーニ大佐率いるクルクァルベール守備隊は、アルフレード・セッランティ(Alfredo Serranti)少佐率いるカラビニエリ部隊(イタリア人兵200名、現地人ザプティエー160名)、アルベルト・カッソーリ(Alberto Cassoli)少佐(老兵,Seniore)率いるMVSN(黒シャツ隊)部隊675名から構成されていた。アスカリ兵たちはエチオピアレジスタンスの拠点を襲撃して武器や弾薬を手に入れ、英軍はこれに対抗してクルクァルベール要塞への激しい爆撃を実行した。

英軍はクルクァルベール要塞への包囲を実行した。イタリア軍部隊は飢えと渇きに襲われ、苦しんだ。特に水の不足は深刻となっていた。しかし、イタリア軍部隊は最後まで抵抗した。デブレ・タボールの戦いでは、エリトリア人アスカリ兵のウナトゥ・エンディシャウ(Unatù Endisciau)伍長は英軍の降伏勧告を拒否し、致命傷を受けながらも英軍の陣地を突破して味方側を救うために情報を伝え、戦死した。彼はこの武勲から、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲している。

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クルクァルベール包囲戦でイタリア軍側が使った即席装甲車両。

残存イタリア空軍部隊のイルデブランド・マラヴォルタ(Ildebrando Malavolta)空軍少尉率いるCR.42戦闘機2機編隊は、約100機もの英空軍爆撃機部隊と、それを護衛する戦闘機部隊に対して絶望的な戦いを繰り広げたマラヴォルタ少尉のCR.42はこの状況で英空軍のウェルズレイ爆撃機グラディエーター戦闘機を数機撃墜するなど素晴らしい武勲を挙げたが、絶望的な戦力差は埋められず、10月24日にゴンダール航空戦にて3機の敵戦闘機の追撃を受けて撃墜、戦死した。こうして、東アフリカ帝国のイタリア空軍部隊は完全に壊滅したのである。

最終的に、11月21日までクルクァルベール要塞の抵抗は続き、激戦の中カラビニエリ隊司令官のセッランティ少佐と、MVSN部隊司令官のカッソーリ少佐は戦死し、生き残ったウゴリーニ大佐らは抵抗する術も失い、降伏した

クルクァルベール要塞の陥落によって、ゴンダールへの道は完全に開かれた。こうして、ナージ将軍率いるゴンダール守備隊は、11月中旬から最後の抵抗をすることとなった11月11日、英軍の第25アフリカ旅団及び第26アフリカ旅団はゴンダール市への攻撃を開始する。また、ゴンダール包囲戦にはエチオピア帝国皇太子(ハイレ・セラシエ1世の息子)のアスファ・ウォッセン・タファリ(Asfauossen Tafarì)率いる自由エチオピア帝国軍部隊も参加していた。アスファ・ウォッセン・タファリは後にアムハ・セラシエ(Amhà Selassié)として、後に名目上のエチオピア帝国最後の皇帝となった。

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ナージ将軍が司令部としていたゴンダールのファシラデス城。17世紀にエチオピア皇帝ファシラデスが建造し、自らの宮殿に使っていた城。現在はユネスコ世界文化遺産に登録され、観光地として栄えている。

もう既にナージ将軍らイタリア軍部隊に抵抗する術はなく、武器・弾薬も使い果たしている状態であった11月27日、英軍の攻撃によって、抵抗を続けていたアゾゾ空軍基地が完全に陥落こうして、翌日11月28日、ナージ将軍が司令部を置いていたファシラデス城(エチオピア皇帝ファシラデスが建造し、王宮として使った城)を英軍は包囲その結果、最後まで抵抗したナージ将軍は現地民間人の被害を最小限に留めるために、英軍の降伏勧告を受け入れ、残っていた約2万2千人の将兵は降伏したのであった最終的に、二日後の11月30日に、最後まで抵抗していた残存部隊も降伏、完全に組織だったイタリア軍の抵抗は終わったのである

降伏したナージ将軍は東アフリカ帝国軍総司令官のアメデーオ公と共にケニアの捕虜収容所に送られた。1942年3月3日、アオスタ公が収容所内で病死すると、東アフリカのイタリア兵捕虜を束ねる存在となった。1943年の休戦後、バドリオ元帥率いる共同交戦軍に合流することを条件として解放され、帰国した。1947年のパリ講和条約の結果、ソマリアが新生イタリア共和国信託統治領として再度イタリアの管理下に置かれることとなった。これにより、英国との合意でナージ将軍はソマリアでの軍政長官に任命されたが、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエはこれに対して激しく非難し、その結果イタリア政府はこの決定を取り下げざるを得なかった。1971年9月21日、モデナにて92歳で死亡した

 

ナージ将軍については、イタリア人歴史家のアンジェロ・デル・ボカ(Angelo Del Boca)「王立イタリア陸軍最高の指揮官」と称している。デル・ボカは普段はイタリア軍の将軍たちの評価に結構辛辣であるが故に、ナージ将軍が優れた指揮能力を持っていたことがわかる。更には、占領地であったエチオピア側からもナージ将軍は高く評価された。ゴンダール生まれのエチオピア人歴史研究家ソロモン・アディス・ゲタフーン(Solomon Addis Getahun)は、デル・ボカのナージ将軍に対する評価を支持し、ゴンダール包囲戦におけるナージ将軍の民間人に対する行動と態度は素晴らしいものであったと評価した

東アフリカ戦線序盤では、フランス軍との小規模衝突から始まり、巧みな指揮でソマリランド制圧を達成、そして、東アフリカ戦線崩壊後も最後までゴンダール周辺での徹底抗戦を指揮し、現地人との協力体制などを駆使して限られた資材や装備のみで効率的に抵抗、英軍側を苦しめた。この手腕は、やはり高く評価出来る。間違いなく、第二次世界大戦イタリア軍の将軍らでは、トップクラスの名将と言えるだろう

 

◆主要参考文献

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

Gastone Breccia著, Nei secoli fedele, Le battaglie dei carabinieri (1814-2014), Mondadori, 2014

Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015

Angelo Del Boca著, Gli italiani in Africa orientale:2, Mondadori, 1999

Pietro Maravigna著, Come Abbiamo Perduto la Guerra in Africa, 1948

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『ファシストの戦争 ―世界史的文脈で読むエチオピア戦争—』千倉書房・2011

熱砂の将軍、エットレ・バスティコ元帥 ―灼熱の北アフリカ戦線で戦った戦術家の生涯―

本来は前回の続きで人名由来の潜水艦名を調べた方が良いと思うが、今回はちょっとお休みで久々に陸軍関係について書いてみようと思う。空軍軍人については結構紹介したが、陸軍軍人については全然紹介していなかったので。

今回紹介するイタリア軍人は、北アフリカ戦線の指揮を執ったことで知られる、エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥だ。個人的な話だが、イタリア軍の陸軍将軍の中では一番好きな人物である(イタリア軍の将軍関係で一番最初に買った本が彼の本だと言うのも大きい)。実は、私が初めてのイタリア旅行の時にボローニャに行ったのも、ボローニャが彼の出身地だったことが理由だ。

だが、バスティコ元帥は基本的に評価はあまり高いとは言えない。理由としては、北アフリカ戦線での指揮において、イタリア軍北アフリカ戦線の主力であるにもかかわらず、派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル元帥に事実上主導権を奪われ、ロンメルの名声が高まるにつれて、「派遣軍に頼り切り」に見える状況となってしまったためだ。また、ムッソリーニ統帥とバスティコ元帥は親しかったと言われ、それ故に「コネと幸運で元帥に昇進した」と考えられることが多いのも理由の一つと言えるだろう。

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エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥

しかし、バスティコ元帥自身がどのような人物で、どういった経歴を歩んでいったかは一般的にあまり知られていない。"北アフリカの三将軍"(ロンメル、モントゴメリー、バスティコ)であるにもかかわらず、だ。これはイタリア映画の北アフリカ戦線モノを見ても、ロンメルがメインでバスティコはあくまでサブ、という立ち位置であることからも、イタリア本国でもあまり評価が高いとは言いにくい。言ってしまえば「地味」なのだ。完全に「ロンメルの陰に隠れた存在」である。とはいえ、バスティコがいかなる人物であったか?そもそも北アフリカ戦以外ではどのような行動をしていたのか?そもそも本当に上記のような評価は妥当なのか?それらに関しては知られていない

評価が高くない人物は、あまり注目されない。だが、だからこそ調べがいがあるというものだ。更に近年、ロンメルの再評価も行われ「ロンメル=名将」というイメージも崩れつつある(日本ではいまだに従来のイメージが強いが)。では、バスティコの再評価もしてみるのも良いだろう。私程度では再評価などは烏滸がましいため、今回はこの愛すべき陸軍元帥について、彼が歩んだ人生を改めて調べる事で、彼がいかなる人物であったか、その本質について迫ってみようと思う

なお、バスティコ将軍の第二次世界大戦時の立場をここにわかりやすく書いておくと、ローマ陸軍省勤務(1940.6-12)→エーゲ海諸島総督(1940.12-1941.7)→リビア総督(1941.7→1943.2)である。

 

◆「赤き街」に生まれた未来の元帥

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1876年4月9日、エットレ・バスティコは「赤き街」ボローニャで、父アキッレ・バスティコ(Achille Bastico)と母マティルデ・ロイセッコ(Matilde Roisecco)の間に生まれた。彼が生まれた2年後の1878年、「統一の王」であった国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)崩御し、新たな国王であるウンベルト1世(Umberto I)が即位している。

彼の出身地ボローニャエミリア・ロマーニャ州の州都で、世界最古の大学の一つである、ボローニャ大学がある「大学都市」として広く知られている。また、エミリアロマーニャ一帯は「美食の地」として知られ、イタリアを代表する食糧生産地だった。代表的な町を挙げると、バルサミコ酢の生産で知られるモデナや、パルミジャーノ・レッジャーノやプロシュット・ディ・パルマ(所謂パルマハム)の生産地パルマがある。ボローニャは肉の集積地で、それ故に肉料理が有名である代表的なものは、やはりボロネーゼ(ボロニェーゼ)ソースだろう。日本でも親しまれている、ミートソースの母体となったソースだ。

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バスティコの出身地、ボローニャ。「斜塔」というとピサが有名だが、この町のシンボルも「斜塔」である。

それに加え、ボローニャは「赤い街」として知られていた。これは、屋根が赤で統一されているためであったが、また「赤」を象徴とする左派運動が盛んな町でもあったためであるダブルミーニングだ。ボローニャで生まれ育ったバスティコ少年は、18歳の頃にモデナの陸軍士官学校に入って軍隊としてのキャリアを開始する。1896年10月、20歳の彼はモデナ士官学校を卒業し、第30ベルサリエリ連隊の少尉として配属された。1899年には中尉に昇進、1902年から1905年まではトリノの陸軍学校で訓練を受け、1906年にはフィレンツェ駐屯の第7軍団司令部、年内にクーネオ師団司令部に移り、1908年から1910年までは陸軍省で務めた。陸軍省時代の1909年に大尉に昇進している。

1910年から1913年まで首都ローマ駐屯の第二ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、この間に発生した伊土戦争(イタリア軍が世界で初めて戦争に航空機を投入した戦争である)にも派遣された。目立った活躍はしていないが、これにより伊土戦争従軍章を叙勲された。1913年の春にはオスマン帝国から獲得したばかりのリビアに飛行船での視察に同行している。その後、陸軍省勤務に戻ったが、1915年1月に発生したアヴェッツァーノ地震の救援に派遣され、そこでの迅速な対応とその功績が評価されたことで銅勲章を叙勲された

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トレントを攻略したイタリア兵たち。

第一次世界大戦にイタリアが参戦すると、バスティコ少佐は参謀本部付きの士官として順調に昇進していく。1917年2月には中佐、8月には大佐に昇進。第50歩兵師団、第25歩兵師団、第28歩兵師団、第32歩兵師団の参謀長を歴任し、イタリア軍の勝利に貢献している。後に第二次世界大戦時の北アフリカ戦線で共闘するロンメルはイタリア戦線で山岳部隊を指揮しているが、この時両者は敵同士だった(これは後にロンメルも発言している)。ロンメルも優れた戦術家として知られているが、バスティコも負けじと奮戦した。勉強熱心なバスティコは過去の事例から独自に戦術や兵法を研究・分析し、自らの指揮に役立てた。この軍功によって、大戦を通じて銀勲章、銅勲章、戦功十字章を叙勲され、フランス軍からもクロワ・ド・ゲール勲章を叙勲された。後にイタリア統一記念勲章、戦勝勲章、伊墺戦争記念勲章も叙勲されている。間違いなく、バスティコは第一次世界大戦で英雄の一人だった

 

◆訪れた戦間期、戦術研究家としての活躍

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バスティコ将軍の処女作、『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』。何度か重版されたため、表紙が変わっている。左から第一巻「過去の戦争」、第二巻「20世紀の戦争」、第三巻「未来の戦争」。

1918年に第一次世界大戦終結し、ひとまずイタリアに平和が訪れた。1919年からリヴォルノの海軍士官学校で兵法と軍事史について教鞭をとっているバスティコは第二次世界大戦後に軍事史家として活動したことが知られているが、この頃から軍事関係の執筆家として活動している軍の再編について積極的に議論を交わし、1924年には全三部冊で『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』という本を出版している。これは、第一部では古代の時代から始まる「過去の戦争」について、第二部では自らが体験した伊土戦争と第一次世界大戦を含む「20世紀の戦争」、第三部ではこれからを予想した「未来の戦争」と分かれており、それぞれの時代の戦術や兵法について分析されている。「未来の戦争」ではこれから発展するであろう新兵器の戦車の運用も指摘されており、彼が先進的な戦術家であったことがわかるだろう

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ファシスト政権を成立させた統帥(ドゥーチェ)、ベニート・ムッソリーニ。バスティコは後にムッソリーニと個人的な交友関係を持ち親しくなる。

バスティコは第一次世界大戦で軍功を挙げたことからも、優れた戦術家として考えられていた。1940年までは、彼の論文の要約が陸軍士官学校の試験準備対策の推奨テキストとされており、軍事思想研究家としての多くの功績を残した。後に東部戦線での優れた指揮で戦果を挙げることとなるイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍も、バスティコの講義を直接受けた人物の一人だった。なお、彼がリヴォルノで教鞭をとっている間、1922年10月にベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党がローマ進軍を実行し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニに組閣を命令、ムッソリーニ率いるファシスト政権(当時はまだファシスト独裁体制ではなかったが)が誕生している。バスティコの上官であり、第一次世界大戦の最大の英雄だったアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍も、ムッソリーニ内閣の国防大臣として入閣している。バスティコ自身もイタリアの国力を高めようとするムッソリーニを支持した。

1923年にはスプマンテ(スパークリングワイン)の生産で有名なアスティの町に駐屯する第9ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、これを1927年まで務めた後、ローマに戻って陸軍広報誌の編集長と中央体育学校の校長を1929年まで務めた。この時、1928年に陸軍准将に昇進した。こうして将軍となったバスティコは、1929年にゴリツィアに駐屯する第14歩兵旅団の旅団長に任命されている。1932年には陸軍少将に昇進、ウーディネに駐屯する快速師団「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の師団長を務めた。翌年には、故郷ボローニャに駐屯する第16歩兵師団の師団長を務める。

 

エチオピア戦争での武功

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エチオピア戦争で指揮をするバスティコ将軍。

1935年にエチオピア帝国との戦争(エチオピア戦争)が勃発すると、新たに編成された第一黒シャツ師団「3月23日」の師団長に任命された。この師団はMVSN(黒シャツ隊を前進としたファシスト党の党兵で、陸軍・海軍・空軍・カラビニエリと共にイタリア軍を構成する「第五の軍」だった)の師団で、師団名の3月23日とは、ファシスト党の前進となったイタリア戦闘者ファッシの結成日である。

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中央の人物がエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人で、陸軍の老元帥。軍人としては古い固定観念を持つ守旧派で、イタリア軍の近代化の障害となった。左の人物は、イタリア軍側に降伏し、協力者となったエチオピア帝国軍の将軍ハイレ・セラシエ・ググサ。エチオピア皇室の一員で、皇帝ヨハンネス4世の曽孫に当たり、ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(ゼネヴェウォルク皇女の婿)。

8月にエリトリアに派遣されたバスティコと「3月23日」師団であったが、エチオピア遠征軍司令官であるエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥は旧来の植民地戦争の戦法で進めていたため、戦線に進展が無かった。当時、イタリアはエチオピアへの侵略行為が国際連盟で批判され、経済制裁を受けることとなった。このような状態でデ・ボーノの慎重な植民地戦略は不利なため、ムッソリーニはデ・ボーノを解任し、新たな司令官としてピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio)元帥を指名した。バドリオ元帥は植民地戦争で名を挙げた策士で、1925年以来から参謀総長を務める、軍部の重鎮中の重鎮であった。そして、新司令官バドリオは、新たに編成されたエチオピア遠征軍の第三軍の指揮をバスティコに任せたのである。

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第二次テンビエン会戦時のイタリア軍部隊。

司令官の交代によって、エチオピア戦争の戦局は動き始めた。バスティコ率いる第三軍は戦場で多くの戦果を挙げていった有名なものは、アンバ・アラダムの戦い(エンデルタの戦い)と、第二次テンビエン会戦において、勝利に決定的な貢献をした戦果である。特に第二次テンビエン会戦では、ラス・カッサ(Ras Cassa Darghiè)将軍率いるエチオピア帝国軍を包囲し、帝国軍部隊を壊滅させてエチオピア側に大きな打撃を与えて勝利に導いた。これらの戦功はバドリオによって高く評価され、帰国後中将に昇進し、サヴォイア軍事勲章、イタリア王冠勲章、イタリア植民地星勲章を叙勲されている。

エチオピア戦争末期はインフラ整備や物資の輸送を指揮した。このエチオピア戦争での経験から、1937年には『頑強な東アフリカの第三軍(Il Ferreo Iii Corpo In A.O.)』という著書を出版している。いくつかの失敗した仮説も含まれていたが、エチオピア戦争に投入された戦車の運用法を含む戦術など、バスティコの指摘は興味深い点が多い。

 

◆CTV部隊とサンタンデールの戦勝

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マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍。SIM(陸軍諜報部)長官として、各国への工作や諜報活動など情報戦を指揮したことで知られている。ロッセッリ兄弟暗殺やウスタシャへの支援などで暗躍した。しかし、野戦指揮官としての能力は低く、CTV部隊の指揮官としてスペインに派遣されたが、グアダラハラで大敗を喫する。第二次世界大戦ではグラツィアーニ元帥の後任として陸軍参謀長を務めた他、ユーゴスラヴィア戦線でウスタシャを支援する一方で、チェトニックとも独自の協力関係を結ぶなど暗躍した。

エチオピア戦争が終結し、イタリアに帰国したバスティコであったが、すぐに間もなくスペイン内戦が勃発する。これに対して、イタリア政府はフランシスコ・フランコ将軍率いる国粋派を支援することを決定し、義勇軍「CTV(Corpo Truppe Volontarie)」の派遣を決定する。このCTV部隊の司令官として、SIM(陸軍諜報部)長官のマリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍が任命された。

しかし、ロアッタ将軍は情報戦における指揮官としては優秀だったが、野戦指揮官としての経験は殆ど無かった。それゆえか、適時に防衛戦を立て直す努力を怠ったために、1937年3月のグアダラハラの戦いでCTV部隊は大敗してしまった。しかも、ファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

とはいえ、ロアッタ将軍だけに敗北の責任があるとも言えない。「グアダラハラの大敗」は先例のない悪天候や、共和国軍の予想以上の健闘など、いくつもの悪運が重なったと言っていいだろう。更に、フランコによる「意図的な背信行為」も、大敗の大きな原因にあげられる。そもそも、このグアダラハラの戦いは、苦境に陥ったフランコ側がイタリア軍に陽動を懇願してなされたものであった。だが、フランコは「グアダラハラ作戦」の同時実施についてロアッタ将軍と合意していたにもかかわらず、結局フランコはその合意を反故として、同時攻撃も援護もせず、イタリア軍側の救援要請も無視し、挙句イタリア軍が総崩れになったところでようやく戦線に兵を送った。

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フランコ将軍に勲章を与えられるCTV部隊のイタリア兵士。

この大敗とフランコ側の行動を受けて、ムッソリーニは激怒し、フランコに利用されていることに気が付いたが、今更国粋派への支援を撤回するわけにもいかず、その大敗の責任を取る形でロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任された。新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、バスティコ中将だったバスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図ったここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである

特に、バスティコのスペイン内戦における戦果で輝かしいものは、同年8月~9月に起こったサンタンデールの戦いだバスティコ率いるCTV部隊はこのサンタンデールでの戦勝に決定的な役割を果たしたこのサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなったのである。スペイン側から高く評価され、フランコもこの武功からバスティコに戦功十字章を叙勲した。

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。失意のうちに帰国したバスティコであったが、スペインでの武功から、聖マウリツィオ・ラッツァロ勲章、二度目の植民地星勲章、二度目のサヴォイア軍功勲章、サヴォイア軍功大勲章を叙勲されている。

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1937年11月には陸軍大将に昇進。これは事実上陸軍最高位の階級だった(元帥は特別な理由が無い限りは昇進が不可能なため)。バスティコは陸軍師団の機械化を任せられた。1938年5月から同年11月まで第二軍、1938年11月から1940年5月までは再編成された第六軍を指揮している。この第六軍はヴェローナに本部を置く軍で、元々は第一次世界大戦時に編成された軍だったが、戦争に備えてバスティコ大将によって再編成された。当時イタリア軍の中では最も近代化された装備で知られており、「ポー軍」の通称で呼ばれた。なお、1939年5月にはある種の名誉職であった上院議員にもなっている。この時点で既に、ムッソリーニ統帥の「お気に入り」の将軍だったことは間違いない

 

第二次世界大戦の開戦とエーゲ海総督

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チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人。ソマリア総督、国民教育相、エーゲ海総督などを歴任。バスティコの前任のエーゲ海総督で、エーゲ海諸島の急進的なイタリア化を行ったほか、対ギリシャ工作やイタリア・ファシズム様式の建築を指揮した。対ギリシャ宣戦を熱烈に支持したが、ギリシャ戦での一連の失敗によって自ら総督を辞職した。

1940年6月、イタリアは英仏に宣戦布告し、ドイツ側で第二次世界大戦に参戦した。戦争の勃発後、バスティコ大将は第六軍の指揮を離れ、ローマの陸軍省勤務となった。しかし、バスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍率いるイタリア軍部隊がギリシャ侵攻に失敗してしまったため、対ギリシャ工作を指揮し、ギリシャ侵攻の熱烈な賛成者であったエーゲ海総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)が、自らの行動を後悔し、エーゲ海総督の辞職をムッソリーニに申し出た。これを受け、1940年12月、バスティコは後任のエーゲ海総督に任命され、イタリア領エーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)の中心地ロードス島(イタリア語ではローディ)に向かった。

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カステルリゾ島での海軍による反撃を指揮したルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督。速やかな反撃によって英軍の上陸作戦を失敗させ、同島を奪還する事に成功した。

エーゲ海総督としてのバスティコの主な仕事は、エーゲ海に浮かぶ大小12の島々を英軍やギリシャ軍から防衛する事だった。1941年2月、英海軍上陸部隊が密かにこの1つであるカステルロッソ島(現ギリシャ領カステルリゾ島)に上陸し、占領下に置いた(アブステンション作戦)。しかし、バスティコは速やかにこれに対応し、イタリア軍守備隊の激しい反撃と陸海空軍による迅速な対応によって英軍を撃退し、防衛に成功している。その後もエーゲ海諸島での沿岸防衛を強化し、休戦まで敵軍の上陸を許さなかった。

また、エーゲ海諸島は重要な空軍基地としても使われた。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)中佐爆撃機部隊が中東の英軍石油基地爆撃の基地として使ったことは有名である(特に知られているのはバーレーンマナーマ油田及びサウジアラビア・ダーラン油田爆撃)。この爆撃機部隊はエーゲ海諸島の基地から頻繁に中東に向かい、テルアビブやハイファなどのパレスチナ諸都市を爆撃した。特に、ハイファは英軍の石油精製所が置かれたため重点的に爆撃が実行されている。それ以外には、カルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)大尉率いる雷撃機部隊がエーゲ海や東地中海で多くの敵艦を撃沈し、戦闘機部隊はイラク空軍支援も行っている。

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ギリシャ侵攻の結果、新たに占領下に置いたキクラデス諸島のシロス島(伊語ではシロ島)に訪れたエーゲ海総督時代のバスティコ大将。

エーゲ海諸島の統治は、前総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキが頑迷なファシストであったため(そもそもデ・ヴェッキはファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人である大幹部であった)、急進的なイタリア化統治が行われていた。1941年4月のギリシャ完全制圧までに、イタリア軍はキクラデス諸島を始めとするエーゲ海に浮かぶギリシャ領の島々を征服していたため、それらもこの「イタリア領エーゲ海諸島」に組み込まれた。バスティコも征服地となったギリシャの島々に総督として視察をしている。しかし、結局短期間の統治で終わり、イタリアは第二次世界大戦で負けたために、全てのエーゲ海諸島がギリシャに割譲されている。

 

北アフリカへの派遣、ロンメルとの邂逅

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左の人物がガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍。北アフリカ戦線でガリボルディ将軍、そしてその後任のバスティコ将軍のもとで幕僚を務めた。スペイン内戦終盤にCTV部隊の司令官を務め、共和派との最終決戦で活躍。休戦後はイタリア社会共和国(RSI政権)に合流した将軍の一人で、RSI軍の統合参謀総長に任命された。

バスティコのエーゲ海総督時代も、1941年7月に終わりを告げる。理由は、イタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍の後任のリビア総督として、北アフリカ戦線に派遣されることとなったからだ。ガリボルディ将軍は派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル側の独断専行的な姿勢から、初対面の時から双方の作戦に食い違いを感じ、対立していた。しかし、ガリボルディはロンメルがその強行策によって戦果を挙げていったことから、ロンメルの意向に沿って作戦を進めるべきだと考えるようになった。

このため、ガリボルディの幕僚であったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍は、ガリボルディ将軍の低めの姿勢を批判し、立場上ガリボルディ将軍が北アフリカの枢軸軍の総司令官なのであって、ロンメルは支援軍の指揮官に過ぎないのであるからとして、相応の実権を行使すべきであると主張した。ガンバラ将軍はロンメルと特に仲が悪いイタリア側の将軍だった。これをロアッタ陸軍参謀長は問題視し、北アフリカ戦線の立て直しで多くの貢献をしたガリボルディ将軍を評価しつつも、リビア総督の職を解き、新たにバスティコ将軍を任命したのであった。

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ロンメル将軍とバスティコ将軍。着色カラー写真。

バスティコ将軍は1941年7月19日にリビア総督に任命されると、すぐに北アフリカの現地を視察し、イタリア軍司令部やロンメルと会見した後、7月26日に一時帰国して、ローマで統合参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)大将に現地の状況を視察した。この際、バスティコは北アフリカ戦線の現状は防衛には問題ないが、イタリア軍はあらゆる面で困窮し、攻撃力が劣っていると指摘。そして、環境の劣悪さもあるが、支援軍であるドイツ軍に比べ食糧は当然のこと、全ての物資について貧弱な状態に置かれているため、このような状態に陥っていると分析した。こうして、リビアへの輸送強化を訴えた。これはゆくゆくのマルタ攻略を前提に考えていた。

北アフリカ戦線はこれ以降、「振り子戦争」の様相となっていった。英軍の反撃に対して、イタリア軍側はバスティコの派遣と共に北アフリカに派遣された「ファシスト青年(ジョーヴァニ・ファシスティ)」大隊集団が少ない装備でありながら、奮戦し連合軍の進軍を食い止めた。「ファシスト青年」大隊集団はMVSNから編制された部隊で、ファシスト党の青年組織であるリットーリオ青少年団から志願した若き兵たちによって構成されていた。この部隊はバスティコの幕僚であるガンバラ将軍の指揮する機動装甲戦闘団に編入され、前線部隊として戦うこととなった。

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イタリア軍屈指の精鋭であった戦車師団「アリエテ」を率いた名将、マリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍。1941年7月以降、エットレ・バルダッサッレ(Ettore Baldassarre)将軍から「アリエテ」師団の指揮を引き継ぎ、革新的な戦略で英軍側を苦しめた。1942年1月にはジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍に職を譲り、東部戦線に派遣された。

11月18日、オーキンレック将軍率いる英軍は「クルセーダー」作戦を発動し、反撃を開始した。イタリア軍側はこれに対してマリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍率いる戦車師団「アリエテ」がビル・エル・ゴビで迎撃し、40輌以上のクルセーダー巡航戦車を撃破、多くの捕虜を得た。そして、歩兵師団「パヴィア」とドイツ師団の防衛によって英軍側の進軍は食い止められたように思えた。

しかし、バスティコ将軍が指摘していたように、イタリア軍側は全ての物資が不足しており、弾薬と燃料が底をつく事態となった。英海空軍の活発化によって、地中海の海上輸送が困難になっており、多くの輸送船が撃沈されていた。そこで、イタリア海軍は巡洋艦による高速輸送を実行したが、英海軍側の襲撃を受け多くが撃沈されるなど、不利な状況に立たされていた。空軍の輸送部隊による迅速な補給も行われたが、輸送する重量などに制限もあり、最重要の物資しか補給が難しく、量も少なかった。

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ビル・エル・ゴビ防衛戦で活躍した「ファシスト青年」大隊集団。少ない装備ながら奮戦し、英軍側に大損害を与えた。

こうして、伊独軍はトブルク包囲を解き、撤退を命じた。この時に活躍したのが先ほどの「ファシスト青年」大隊集団であった。同大隊集団は1941年12月3日から7にかけてビル・エル・ゴビで守備に就き、高地に陣を張り、捨て身の防衛を行った。味方側の稼働戦車はM13/40中戦車が1輌あるのみで、装備としては対戦車砲が14門、対戦車ライフル12門、迫撃砲8門があるのみであった。

これを火炎瓶や地雷でカバーしながら「ファシスト青年」大隊集団は果敢に戦い、ヴァレンタイン歩兵戦車など12輌の戦車を含む車輛50輌を撃破するという活躍を見せている。追撃する英軍インド第11旅団は戦死者約200名、負傷者約300名、捕虜71名という大損害を出して撤退した。一方で「ファシスト青年」側の損害も大きく、戦死者52名、負傷者117名、行方不明者31名であった。かれらの奮戦はロンメルも高く評価しており、「彼らはよく戦ってくれた。戦勝の暁にはベルリンで会おう!」と述べている

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現地のリビア人たちと話すバスティコ将軍。

こうした部隊による奮戦もあったが、やはり全体としての劣勢はどうしようものかった。結果的に枢軸軍は再び撤退することとなったのである1942年に入るとロンメル将軍は反撃を決定し、バスティコ将軍もそれに合意した。こうして、イタリア第20自動車化軍団とドイツ軍部隊がマルサ・アル・ブレガを目標として突撃し、前進していた英軍をアジダビアへ退却させることに成功したのである。ロンメルはバスティコにこれ以上進撃しないことを打ち合わせていたが、ロンメルは勢いに乗って更に進撃し、1月22日のアジダビア攻略後、ベンガジ南方のアンテラトとサウンヌへの侵攻を迫った

 

◆熱砂の戦場での激闘

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左から、ドイツアフリカ軍団のロンメル将軍、ガンバラ将軍の後任の幕僚クリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍、カヴァッレーロ参謀総長リビア総督及び北アフリカ枢軸軍総司令官バスティコ将軍。

これに対してバスティコ将軍は、今まで退却を余儀なくされてきた枢軸軍は未だに立ち直っておらず、このような無鉄砲な進撃は部隊に混乱を引き起こすと批判し、そもそも広範囲に渡って攻撃できるほどの軍需物資を枢軸軍側は備えていないし、遠方に攻略目標を置くことは不利な現状を更に悪化させると指摘した。これを受け、幕僚のガンバラ将軍がローマに打電し、カヴァッレーロ参謀総長の介入を求めた。

カヴァッレーロ参謀総長ムッソリーニから厳命を受けて直ちにリビアに飛び、ロンメルに会った後にバスティコ将軍に対してベンガジ奪還を命じ、同時に港湾の修復工事を進めてアジダビアに軍の主力を集中させることを伝えた。結局、これを受けてもロンメルの進撃は止まらず、バスティコ率いるイタリア軍側も第20軍団を進軍させて1月29日にはベンガジを奪還したのであった。

しかし、ベンガジ占領前日にロンメルとガンバラの間で激しい対立が起こった。これはロンメルが山岳の高台にイタリア歩兵部隊の増強を主張したのに対して、ガンバラが激しく反対したためであるが、これに対してロンメルは、自らの作戦に度々難癖をつけてくるガンバラ将軍に対して憤慨し、アフリカ軍団の指揮を放棄するとまで言い出したため、バスティコ将軍がこれを両者を仲介して、ロンメルの怒りをなんとか鎮め、ロンメルの作戦に同意した。こういったこともあり、後にガンバラ将軍は解任され、後任の幕僚にはクリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍が派遣されることとなったのである。

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降伏した英軍側の捕虜たち。

戦局は枢軸側に有利になっていった。5月26日、枢軸軍は攻撃を開始し、アイネル・ガザラの戦いが開始された。ジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍率いる「アリエテ」戦車師団を先頭に、進軍を開始した。「アリエテ」師団は再度英軍側を圧倒した。しかし、ビル・アケムでマリー・ピエール・ケーニグ(Marie-Pierre Kœnig)将軍率いる自由フランス軍が奮戦し、足止めを食らうこととなった(ビル・アケムの戦い)。とはいえ、バスティコ将軍とロンメル将軍が率いる枢軸軍は多くの戦果を挙げていき、連合軍側の捕虜は3000人に上った。これはイタリア・ドイツ両軍の機甲師団による戦果であった。そしてついに、6月21日にトブルクが攻略され、英軍側のトブルク防衛司令官であるコップラー将軍が降伏文書に署名、トブルクの将兵2万5千人が捕虜となったのであった。

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映画『砂漠の戦場 エル・アラメン(La battaglia di El Alamein)』のワンシーン。左がバスティコ将軍で、右がロンメル将軍。ロンメル将軍が進撃を主張するのに対して、バスティコ将軍は海上輸送が困難になっていることと、ドイツ側が燃料補給の約束を反故としていることを指摘し、それによって物資が困窮していると主張している。映画でも両者の対立は描かれた。

ロンメル将軍はこのまま勢いに乗ってエジプト攻略を実行しようとしたが、バスティコ将軍はカヴァッレーロ参謀総長の意向を受けてマルタ島攻略の重要性を主張し、エジプト攻略でマルタ島上陸のための物資を使い果たしてしまうことを恐れた。こういった両者の意見対立から、ロンメルはバスティコを裏で「爆弾(Bomba)」にちなんだ「Bombastico(ボンバスティコ)」と呼び、嫌っていたバスティコ自身も、ロンメルの無鉄砲な作戦に付き合わされ、参謀本部側との板挟みになっていたために、ロンメルとの仲が更に険悪になっていった

 

◆元帥への昇進、そして事実上の司令官解任

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1942年8月11日、バスティコ大将は元帥に昇進した。こうして、11人目のイタリア王国陸軍元帥となったのである。バスティコの元帥の理由については、キレナイカ及びエジプト領内での戦闘において、ムッソリーニ統帥の訓令を忠実に守りつつ、ロンメル元帥との緊密な作戦を行い、指揮官として優れた手腕を発揮したためと発表された。更には、バスティコの昇進は枢軸軍に勝利をもたらすシンボルとされ、灼熱のアフリカ戦線で頑強な体力と比類ない自己犠牲的精神、そして卓越した戦術をもって奮戦する枢軸軍将兵の殊勲に報いた者であるとされた。

ただ、実際のところはあくまで派遣支援軍司令官の立場であるロンメルが元帥に昇進したために、立場上ロンメルがバスティコの指揮下に置かれている状況を考えると、「大将が元帥を指揮する」ということにならないための処置だったと言われている。

この元帥の昇進以降、枢軸側の最高指揮系統が変更されたバスティコ元帥が総司令官を務める北アフリカ総司令部はリビア総司令部となり、リビアの軍事のみを管轄することとなったのであるつまりは、バスティコは事実上、北アフリカの枢軸軍総司令官から退き、完全にリビア総督としての役割のみを果たすようになったのである。一方で、ロンメル元帥指揮下のドイツ・イタリア機甲軍はドイツ最高司令部に直属する事となり、ロンメルは今まで要求していた実戦の分野での自由を確保することとなった。

ディ・プルン将軍が管轄するイタリア最高司令部の北アフリカ代表部は、実戦以外のすべての問題を管轄することとなり、またカヴァッレーロ参謀総長北アフリカ代表部を通じて、全般的作戦を統括する任務を帯びたのである。

こうして、エジプトに進撃を行うイタリア・ドイツ軍の総指揮はロンメルがとることとなったのであったつまりは、その後起こったエル・アラメインの激戦はバスティコは形式上はイタリア軍の総指揮をとる立場であったが、事実上彼の与り知らぬところで行われていたのであるつまり、バスティコは「エル・アラメインの司令官」ではなかったのだ。それどころか、形式上の司令官という立場に落ちぶれてしまった

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バスティコ将軍。その後ろにはロンメルの姿が見える。

バスティコ元帥やカヴァッレーロ参謀総長イタリア軍司令部は、マルタ島の存在が北アフリカ及び地中海における最大の障害であると認識し、この攻略を主張していた。こうして、イタリア海空軍を主力とする大規模包囲戦によってマルタは陥落寸前にまで陥ることとなった。しかし、ロンメルはエジプトへの徹底的攻撃を望み、ヒトラーもそれを望んだ。一方でドイツ軍内でも意見が分かれ、アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥はロンメルの主張に反対し、「現在の兵力でトブルクを陥落させることは確かに可能であった。しかし、エル・アラメインを突破できるかといえば大いに疑問があり、それ以上の進撃は絶対に不可能だ」と現実的な分析をしている

マルサ・マトルーフを占領した枢軸軍はその後の進撃をムッソリーニの判断を待つこととなった。バスティコは自らの主張を統帥は受け入れていると思ったが、ムッソリーニはあれほど固執していたマルタ攻略をあっさりと棚上げし、スエズ運河攻略を最優先にするべきという考えに変わっていたのである。これを受けて、カヴァッレーロ参謀総長も諦め、マルタ上陸作戦をギリギリのところで断念するかたちとなった。しかし、これは枢軸軍崩壊の序曲となったことは間違いない。

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右の人物がセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)。ファシスト外交官で、エジプトやパラグアイなど各国の大使を歴任。第二次世界大戦時は新たにイタリアの同君連合となったモンテネグロ王国高等弁務官を務めた。エジプト制圧後は民政長官に任命される予定だったが、エル・アラメインの敗北によってこれは幻の計画に終わった。休戦後、イタリア社会共和国(RSI政権)に合流し、外務次官(外相はムッソリーニ)に任命。事実上RSI外務省のトップとして活動した。

この先に待ち受ける結果から考えれば、バスティコやカヴァッレーロらイタリア軍首脳部やケッセルリンク元帥の判断は正しかった。結局、ヒトラーロンメル、そしてムッソリーニの「結果的に間違っていた進撃」によって北アフリカ戦線は悲劇の結末を歩むこととなったのである。エジプトを征服できた場合、民政長官はファシスト外交官のセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)、軍政長官をロンメル元帥が務めるということが予定されたが、結局アレクサンドリアもカイロも落とすことは失敗したため、幻の計画に終わってしまったのであった。

結局、バスティコにとっては、自らの主張も退けられ、信頼していた統帥にも裏切られ、そして自らの与り知らぬところで行われたエル・アラメインで枢軸軍は敗北し、北アフリカ戦線は壊滅する事態となったのである。今までロンメルの独断専行な戦術についても、バスティコが補正をする形で作戦は成功していったが、エル・アラメインではその補正をする役割の人間がいなかったために失敗したとも受け取れるのだ。

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ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍。第二次世界大戦時のイタリア軍の将軍で最も優秀な将軍と言われる名将で、一兵卒からイタリア軍最高位の元帥、そして参謀総長にまで上り詰めたというたたき上げのリアルチート。東部戦線での軍功で知られるが、北アフリカ戦線末期のチュニジア戦線にて巧みな撤退戦を行い、多くの戦果を挙げた。

エル・アラメインの敗北をもってして、北アフリカ戦線の命運は完全に決まった。更には、1942年11月に英米軍を中心とする連合軍がフランス領北アフリカ侵攻作戦「トーチ」を発動したことで、状況は一層悪化していった。ドイツ・イタリアの枢軸軍は速やかにヴィシー・フランス支配領域に侵攻し、チュニジアも形式上はイタリア領北アフリカ植民地に組み込まれ、占領下に置かれることとなった。トーチ作戦発動後、リビア総督のバスティコ元帥に対して再び指揮権が戻ったが、もはや壊滅も時間の問題となった北アフリカ戦線でバスティコ元帥が為せることは何もなかったのである。

既に命運が決まった北アフリカ戦線に未来はなかった。1943年が始まる頃には、北アフリカ戦線は四方八方から迫りくる連合軍によって、完全に崩壊していた。こうして、1943年1月23日には、リビアの首都トリポリが遂に陥落してしまった。これをもってして、イタリア領リビアは事実上壊滅したのである。バスティコ元帥はこれを受けて、1943年2月をもってリビア総督の職を解かれ、実権の無い「名誉リビア総督」という地位が与えられ、軍の指揮からも解かれてイタリアに帰国した。この後、北アフリカの枢軸軍を立て直すために派遣されたロシア帰りの名将、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍がバスティコ元帥の指揮権を引き継いでイタリア第一軍の司令官となり、病気で帰国したロンメルに代わり、チュニジアでの最後の戦いに挑んだのであった。

 

◆その後のバスティコ元帥

1943年2月にイタリアに帰国したバスティコは、もはや軍務につくことはなかった。1943年9月の休戦以降、北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にも、南部の王国政府にも協力せず、ドイツのローマ侵攻後はローマの町に潜伏し、1944年6月のローマ解放の日まで隠れて過ごしていた(形式上は王国軍元帥のまま)。1945年、正式に予備役となり、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

戦後のバスティコは、かつてのように軍事史家として活動し、更に文芸活動にも積極的に参加した。1956年には国際軍装史学協会の責任者となり、この地位を1972年まで務めた(辞任の理由は老齢であったため)。博物館の創設や国際展示会の開催、そして研究活動で多くの功績を挙げた。1957年には時のイタリア大統領、ジョヴァンニ・グロンキ(Giovanni Gronchi)からイタリア共和国功労勲章を与えられた。なお、グロンキはムッソリーニ政権初期に産業省次官を務めている。これは、彼が最後に叙勲された勲章だった。こうして96歳まで生きたバスティコは、1972年にこの世を去った。王族であるウンベルト2世を除けば、最も長生きしたイタリア軍の元帥だった

 

北アフリカのバスティコは、一言で言えば「無力な将」であったロンメルに主導権を奪われ、大した役割も担えず敗北の責を負わされた人物であったと言える。故に、評価が難しい。例えば、ギリシャのプラスカ将軍は対照的に評価がしやすい。彼はギリシャ軍を過小評価し、自らの間違った戦略によって、イタリア軍を窮地に追い込んでしまった「無能な将」であるのであるから。

バスティコの場合はそうは言えない。バスティコの役割はあくまでロンメルの方針の補正をする役割のみに限定され、名目上の北アフリカ軍司令官の立場にいた元帥昇進後はそれすらも失われ、自らの与り知らぬところで枢軸軍は敗北したそれ故に、「優秀な人物」であるとも、「無能な人物」であるとも、評価しづらい。そもそも、その二極で考えるのは愚かなことではあるのだが。

当然、ロンメルの大胆で、時に無鉄砲な戦術がなかったら、北アフリカの一連の勝利も難しかったかもしれないしかし、(ロンメル自身は忌み嫌っていたものの)ロンメルの無鉄砲な作戦に異議を唱え、度々軌道修正をしていたのは紛れもなくバスティコを始めとするイタリア軍の将軍たちだった。実際、ドイツ国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥イタリア軍側の将軍が「癇癪持ちの」ロンメルに堪えて慎重に対策を講じ、均衡を失しない明確な決定を下しており、両者の違った性格が逆に良い戦果を上げていると評価している。あの時、ロンメルがもしバスティコらの意見を聞き入れていれば...いや、歴史のifを話しても意味はない。

ひとまず、実態についてあまり知られていないバスティコ元帥について、少しでもこのブログで参考になったというなら、幸いである。

 

◆主要参考文献

 

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Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015

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Franco Fucci著, Emilio De Bono, il maresciallo fucilato, Mursia, 1989

Alberto Santoni著, Il vero traditore. Il ruolo documentato di Ultra nella guerra del Mediterraneo, Mursia, 2005

Evander Luther著, Ettore Bastico, Acu Publishing, 2011

Ettore Bastico著, L'Evoluzione dell'Arte della Guerra. -La guerra nel futuro-, 
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色摩力夫著『フランコ スペイン現代史の迷路』中央公論新社・2000

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Viva!知られざるイタリア軍イカロス出版・2012

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策 1935-39-』東京大学出版会・1994