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熱砂の将軍、エットレ・バスティコ元帥 ―灼熱の北アフリカ戦線で戦った戦術家の生涯―

本来は前回の続きで人名由来の潜水艦名を調べた方が良いと思うが、今回はちょっとお休みで久々に陸軍関係について書いてみようと思う。空軍軍人については結構紹介したが、陸軍軍人については全然紹介していなかったので。

今回紹介するイタリア軍人は、北アフリカ戦線の指揮を執ったことで知られる、エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥だ。個人的な話だが、イタリア軍の陸軍将軍の中では一番好きな人物である(イタリア軍の将軍関係で一番最初に買った本が彼の本だと言うのも大きい)。実は、私が初めてのイタリア旅行の時にボローニャに行ったのも、ボローニャが彼の出身地だったことが理由だ。

だが、バスティコ元帥は基本的に評価はあまり高いとは言えない。理由としては、北アフリカ戦線での指揮において、イタリア軍北アフリカ戦線の主力であるにもかかわらず、派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル元帥に事実上主導権を奪われ、ロンメルの名声が高まるにつれて、「派遣軍に頼り切り」に見える状況となってしまったためだ。また、ムッソリーニ統帥とバスティコ元帥は親しかったと言われ、それ故に「コネと幸運で元帥に昇進した」と考えられることが多いのも理由の一つと言えるだろう。

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エットレ・バスティコ(Ettore Bastico)元帥

しかし、バスティコ元帥自身がどのような人物で、どういった経歴を歩んでいったかは一般的にあまり知られていない。"北アフリカの三将軍"(ロンメル、モントゴメリー、バスティコ)であるにもかかわらず、だ。これはイタリア映画の北アフリカ戦線モノを見ても、ロンメルがメインでバスティコはあくまでサブ、という立ち位置であることからも、イタリア本国でもあまり評価が高いとは言いにくい。言ってしまえば「地味」なのだ。完全に「ロンメルの陰に隠れた存在」である。とはいえ、バスティコがいかなる人物であったか?そもそも北アフリカ戦以外ではどのような行動をしていたのか?そもそも本当に上記のような評価は妥当なのか?それらに関しては知られていない

評価が高くない人物は、あまり注目されない。だが、だからこそ調べがいがあるというものだ。更に近年、ロンメルの再評価も行われ「ロンメル=名将」というイメージも崩れつつある(日本ではいまだに従来のイメージが強いが)。では、バスティコの再評価もしてみるのも良いだろう。私程度では再評価などは烏滸がましいため、今回はこの愛すべき陸軍元帥について、彼が歩んだ人生を改めて調べる事で、彼がいかなる人物であったか、その本質について迫ってみようと思う

なお、バスティコ将軍の第二次世界大戦時の立場をここにわかりやすく書いておくと、ローマ陸軍省勤務(1940.6-12)→エーゲ海諸島総督(1940.12-1941.7)→リビア総督(1941.7→1943.2)である。

 

◆「赤き街」に生まれた未来の元帥

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1876年4月9日、エットレ・バスティコは「赤き街」ボローニャで、父アキッレ・バスティコ(Achille Bastico)と母マティルデ・ロイセッコ(Matilde Roisecco)の間に生まれた。彼が生まれた2年後の1878年、「統一の王」であった国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)崩御し、新たな国王であるウンベルト1世(Umberto I)が即位している。

彼の出身地ボローニャエミリア・ロマーニャ州の州都で、世界最古の大学の一つである、ボローニャ大学がある「大学都市」として広く知られている。また、エミリアロマーニャ一帯は「美食の地」として知られ、イタリアを代表する食糧生産地だった。代表的な町を挙げると、バルサミコ酢の生産で知られるモデナや、パルミジャーノ・レッジャーノやプロシュット・ディ・パルマ(所謂パルマハム)の生産地パルマがある。ボローニャは肉の集積地で、それ故に肉料理が有名である代表的なものは、やはりボロネーゼ(ボロニェーゼ)ソースだろう。日本でも親しまれている、ミートソースの母体となったソースだ。

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バスティコの出身地、ボローニャ。「斜塔」というとピサが有名だが、この町のシンボルも「斜塔」である。

それに加え、ボローニャは「赤い街」として知られていた。これは、屋根が赤で統一されているためであったが、また「赤」を象徴とする左派運動が盛んな町でもあったためであるダブルミーニングだ。ボローニャで生まれ育ったバスティコ少年は、18歳の頃にモデナの陸軍士官学校に入って軍隊としてのキャリアを開始する。1896年10月、20歳の彼はモデナ士官学校を卒業し、第30ベルサリエリ連隊の少尉として配属された。1899年には中尉に昇進、1902年から1905年まではトリノの陸軍学校で訓練を受け、1906年にはフィレンツェ駐屯の第7軍団司令部、年内にクーネオ師団司令部に移り、1908年から1910年までは陸軍省で務めた。陸軍省時代の1909年に大尉に昇進している。

1910年から1913年まで首都ローマ駐屯の第二ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、この間に発生した伊土戦争(イタリア軍が世界で初めて戦争に航空機を投入した戦争である)にも派遣された。目立った活躍はしていないが、これにより伊土戦争従軍章を叙勲された。1913年の春にはオスマン帝国から獲得したばかりのリビアに飛行船での視察に同行している。その後、陸軍省勤務に戻ったが、1915年1月に発生したアヴェッツァーノ地震の救援に派遣され、そこでの迅速な対応とその功績が評価されたことで銅勲章を叙勲された

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トレントを攻略したイタリア兵たち。

第一次世界大戦にイタリアが参戦すると、バスティコ少佐は参謀本部付きの士官として順調に昇進していく。1917年2月には中佐、8月には大佐に昇進。第50歩兵師団、第25歩兵師団、第28歩兵師団、第32歩兵師団の参謀長を歴任し、イタリア軍の勝利に貢献している。後に第二次世界大戦時の北アフリカ戦線で共闘するロンメルはイタリア戦線で山岳部隊を指揮しているが、この時両者は敵同士だった(これは後にロンメルも発言している)。ロンメルも優れた戦術家として知られているが、バスティコも負けじと奮戦した。勉強熱心なバスティコは過去の事例から独自に戦術や兵法を研究・分析し、自らの指揮に役立てた。この軍功によって、大戦を通じて銀勲章、銅勲章、戦功十字章を叙勲され、フランス軍からもクロワ・ド・ゲール勲章を叙勲された。後にイタリア統一記念勲章、戦勝勲章、伊墺戦争記念勲章も叙勲されている。間違いなく、バスティコは第一次世界大戦で英雄の一人だった

 

◆訪れた戦間期、戦術研究家としての活躍

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バスティコ将軍の処女作、『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』。何度か重版されたため、表紙が変わっている。左から第一巻「過去の戦争」、第二巻「20世紀の戦争」、第三巻「未来の戦争」。

1918年に第一次世界大戦終結し、ひとまずイタリアに平和が訪れた。1919年からリヴォルノの海軍士官学校で兵法と軍事史について教鞭をとっているバスティコは第二次世界大戦後に軍事史家として活動したことが知られているが、この頃から軍事関係の執筆家として活動している軍の再編について積極的に議論を交わし、1924年には全三部冊で『兵法の発展(L'Evoluzione dell'Arte della Guerra)』という本を出版している。これは、第一部では古代の時代から始まる「過去の戦争」について、第二部では自らが体験した伊土戦争と第一次世界大戦を含む「20世紀の戦争」、第三部ではこれからを予想した「未来の戦争」と分かれており、それぞれの時代の戦術や兵法について分析されている。「未来の戦争」ではこれから発展するであろう新兵器の戦車の運用も指摘されており、彼が先進的な戦術家であったことがわかるだろう

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ファシスト政権を成立させた統帥(ドゥーチェ)、ベニート・ムッソリーニ。バスティコは後にムッソリーニと個人的な交友関係を持ち親しくなる。

バスティコは第一次世界大戦で軍功を挙げたことからも、優れた戦術家として考えられていた。1940年までは、彼の論文の要約が陸軍士官学校の試験準備対策の推奨テキストとされており、軍事思想研究家としての多くの功績を残した。後に東部戦線での優れた指揮で戦果を挙げることとなるイタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍も、バスティコの講義を直接受けた人物の一人だった。なお、彼がリヴォルノで教鞭をとっている間、1922年10月にベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党がローマ進軍を実行し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニに組閣を命令、ムッソリーニ率いるファシスト政権(当時はまだファシスト独裁体制ではなかったが)が誕生している。バスティコの上官であり、第一次世界大戦の最大の英雄だったアルマンド・ディアズ(Armando Diaz)将軍も、ムッソリーニ内閣の国防大臣として入閣している。バスティコ自身もイタリアの国力を高めようとするムッソリーニを支持した。

1923年にはスプマンテ(スパークリングワイン)の生産で有名なアスティの町に駐屯する第9ベルサリエリ連隊の指揮を任せられ、これを1927年まで務めた後、ローマに戻って陸軍広報誌の編集長と中央体育学校の校長を1929年まで務めた。この時、1928年に陸軍准将に昇進した。こうして将軍となったバスティコは、1929年にゴリツィアに駐屯する第14歩兵旅団の旅団長に任命されている。1932年には陸軍少将に昇進、ウーディネに駐屯する快速師団「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の師団長を務めた。翌年には、故郷ボローニャに駐屯する第16歩兵師団の師団長を務める。

 

エチオピア戦争での武功

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エチオピア戦争で指揮をするバスティコ将軍。

1935年にエチオピア帝国との戦争(エチオピア戦争)が勃発すると、新たに編成された第一黒シャツ師団「3月23日」の師団長に任命された。この師団はMVSN(黒シャツ隊を前進としたファシスト党の党兵で、陸軍・海軍・空軍・カラビニエリと共にイタリア軍を構成する「第五の軍」だった)の師団で、師団名の3月23日とは、ファシスト党の前進となったイタリア戦闘者ファッシの結成日である。

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中央の人物がエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人で、陸軍の老元帥。軍人としては古い固定観念を持つ守旧派で、イタリア軍の近代化の障害となった。左の人物は、イタリア軍側に降伏し、協力者となったエチオピア帝国軍の将軍ハイレ・セラシエ・ググサ。エチオピア皇室の一員で、皇帝ヨハンネス4世の曽孫に当たり、ハイレ・セラシエ帝の義理の息子(ゼネヴェウォルク皇女の婿)。

8月にエリトリアに派遣されたバスティコと「3月23日」師団であったが、エチオピア遠征軍司令官であるエミーリオ・デ・ボーノ(Emilio De Bono)元帥は旧来の植民地戦争の戦法で進めていたため、戦線に進展が無かった。当時、イタリアはエチオピアへの侵略行為が国際連盟で批判され、経済制裁を受けることとなった。このような状態でデ・ボーノの慎重な植民地戦略は不利なため、ムッソリーニはデ・ボーノを解任し、新たな司令官としてピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio)元帥を指名した。バドリオ元帥は植民地戦争で名を挙げた策士で、1925年以来から参謀総長を務める、軍部の重鎮中の重鎮であった。そして、新司令官バドリオは、新たに編成されたエチオピア遠征軍の第三軍の指揮をバスティコに任せたのである。

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第二次テンビエン会戦時のイタリア軍部隊。

司令官の交代によって、エチオピア戦争の戦局は動き始めた。バスティコ率いる第三軍は戦場で多くの戦果を挙げていった有名なものは、アンバ・アラダムの戦い(エンデルタの戦い)と、第二次テンビエン会戦において、勝利に決定的な貢献をした戦果である。特に第二次テンビエン会戦では、ラス・カッサ(Ras Cassa Darghiè)将軍率いるエチオピア帝国軍を包囲し、帝国軍部隊を壊滅させてエチオピア側に大きな打撃を与えて勝利に導いた。これらの戦功はバドリオによって高く評価され、帰国後中将に昇進し、サヴォイア軍事勲章、イタリア王冠勲章、イタリア植民地星勲章を叙勲されている。

エチオピア戦争末期はインフラ整備や物資の輸送を指揮した。このエチオピア戦争での経験から、1937年には『頑強な東アフリカの第三軍(Il Ferreo Iii Corpo In A.O.)』という著書を出版している。いくつかの失敗した仮説も含まれていたが、エチオピア戦争に投入された戦車の運用法を含む戦術など、バスティコの指摘は興味深い点が多い。

 

◆CTV部隊とサンタンデールの戦勝

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マリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍。SIM(陸軍諜報部)長官として、各国への工作や諜報活動など情報戦を指揮したことで知られている。ロッセッリ兄弟暗殺やウスタシャへの支援などで暗躍した。しかし、野戦指揮官としての能力は低く、CTV部隊の指揮官としてスペインに派遣されたが、グアダラハラで大敗を喫する。第二次世界大戦ではグラツィアーニ元帥の後任として陸軍参謀長を務めた他、ユーゴスラヴィア戦線でウスタシャを支援する一方で、チェトニックとも独自の協力関係を結ぶなど暗躍した。

エチオピア戦争が終結し、イタリアに帰国したバスティコであったが、すぐに間もなくスペイン内戦が勃発する。これに対して、イタリア政府はフランシスコ・フランコ将軍率いる国粋派を支援することを決定し、義勇軍「CTV(Corpo Truppe Volontarie)」の派遣を決定する。このCTV部隊の司令官として、SIM(陸軍諜報部)長官のマリオ・ロアッタ(Mario Roatta)将軍が任命された。

しかし、ロアッタ将軍は情報戦における指揮官としては優秀だったが、野戦指揮官としての経験は殆ど無かった。それゆえか、適時に防衛戦を立て直す努力を怠ったために、1937年3月のグアダラハラの戦いでCTV部隊は大敗してしまった。しかも、ファシスト政権に都合が悪かったのは、この戦いにおいてスペイン共和国側の勝利を演出したのは、国際旅団のイタリア人義勇兵部隊「ガリバルディ大隊」だったからである。つまりは、「反ファシストのイタリア人が、ファシストのイタリア人に勝った」と宣伝材料になってしまった。

とはいえ、ロアッタ将軍だけに敗北の責任があるとも言えない。「グアダラハラの大敗」は先例のない悪天候や、共和国軍の予想以上の健闘など、いくつもの悪運が重なったと言っていいだろう。更に、フランコによる「意図的な背信行為」も、大敗の大きな原因にあげられる。そもそも、このグアダラハラの戦いは、苦境に陥ったフランコ側がイタリア軍に陽動を懇願してなされたものであった。だが、フランコは「グアダラハラ作戦」の同時実施についてロアッタ将軍と合意していたにもかかわらず、結局フランコはその合意を反故として、同時攻撃も援護もせず、イタリア軍側の救援要請も無視し、挙句イタリア軍が総崩れになったところでようやく戦線に兵を送った。

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フランコ将軍に勲章を与えられるCTV部隊のイタリア兵士。

この大敗とフランコ側の行動を受けて、ムッソリーニは激怒し、フランコに利用されていることに気が付いたが、今更国粋派への支援を撤回するわけにもいかず、その大敗の責任を取る形でロアッタ将軍はCTV部隊の指揮官から解任された。新たな指揮官として白羽の矢が立ったのが、バスティコ中将だったバスティコは速やかにグアダラハラの大敗で大きな打撃を受けたCTV部隊の再編制を行い、立て直しを図ったここでの手腕は高く評価され、バスティコのもとで上手く立て直したCTV部隊は国粋派の勝利に貢献していき、一度は地に落ちたフランコ側のイタリア軍への信頼も、ビルバオ攻略戦などにおける戦果によって再び取り戻していったのである

特に、バスティコのスペイン内戦における戦果で輝かしいものは、同年8月~9月に起こったサンタンデールの戦いだバスティコ率いるCTV部隊はこのサンタンデールでの戦勝に決定的な役割を果たしたこのサンタンデールの勝利は共和国側に大きな打撃を与え、国粋派の勝利に大きく貢献することとなったのである。スペイン側から高く評価され、フランコもこの武功からバスティコに戦功十字章を叙勲した。

サンタンデール制圧後、共和国政府側についていたバスク自治政府の要人たちはサントーニャ港とラレドの町に集結し、バスティコ率いるイタリア軍に降伏した。これに対して、バスティコはバスク側との降伏協定に基づき、バスクの政治家など難民多数を英国船籍の貨客船に収容、国外への移送を認めた。しかし、フランコ率いる国粋派の軍艦が入港し、難民らに下船命令を出し、更にフランコがイタリア側に強硬にバスク難民の引き渡しを要求した。国粋派側は先の降伏協定を尊重すると約束したために、バスティコは仕方なく要求に応じて難民を国粋派側に引き渡したが、フランコは略式裁判で数百人の引き渡されたバスク難民を処刑したのである。

これに対し、バスティコは激怒してフランコに対して激しく抗議、イタリアの名誉にかかわると非難したが、フランコは真面目に取り合わずにムッソリーニに対してバスティコの更迭を要求。ムッソリーニフランコの行動に対して怒ったが、これに応ずるほかはなく、結局バスティコはCTV部隊の司令官を解かれ、後任のマリオ・ベルティ(Mario Berti)将軍に任せ、イタリアに帰国することとなったのである。フランコ側のこの行動は長い間バスクの人々に抜きがたい怨恨と不信感を植え付けることとなった。失意のうちに帰国したバスティコであったが、スペインでの武功から、聖マウリツィオ・ラッツァロ勲章、二度目の植民地星勲章、二度目のサヴォイア軍功勲章、サヴォイア軍功大勲章を叙勲されている。

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1937年11月には陸軍大将に昇進。これは事実上陸軍最高位の階級だった(元帥は特別な理由が無い限りは昇進が不可能なため)。バスティコは陸軍師団の機械化を任せられた。1938年5月から同年11月まで第二軍、1938年11月から1940年5月までは再編成された第六軍を指揮している。この第六軍はヴェローナに本部を置く軍で、元々は第一次世界大戦時に編成された軍だったが、戦争に備えてバスティコ大将によって再編成された。当時イタリア軍の中では最も近代化された装備で知られており、「ポー軍」の通称で呼ばれた。なお、1939年5月にはある種の名誉職であった上院議員にもなっている。この時点で既に、ムッソリーニ統帥の「お気に入り」の将軍だったことは間違いない

 

第二次世界大戦の開戦とエーゲ海総督

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チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人。ソマリア総督、国民教育相、エーゲ海総督などを歴任。バスティコの前任のエーゲ海総督で、エーゲ海諸島の急進的なイタリア化を行ったほか、対ギリシャ工作やイタリア・ファシズム様式の建築を指揮した。対ギリシャ宣戦を熱烈に支持したが、ギリシャ戦での一連の失敗によって自ら総督を辞職した。

1940年6月、イタリアは英仏に宣戦布告し、ドイツ側で第二次世界大戦に参戦した。戦争の勃発後、バスティコ大将は第六軍の指揮を離れ、ローマの陸軍省勤務となった。しかし、バスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍率いるイタリア軍部隊がギリシャ侵攻に失敗してしまったため、対ギリシャ工作を指揮し、ギリシャ侵攻の熱烈な賛成者であったエーゲ海総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)が、自らの行動を後悔し、エーゲ海総督の辞職をムッソリーニに申し出た。これを受け、1940年12月、バスティコは後任のエーゲ海総督に任命され、イタリア領エーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)の中心地ロードス島(イタリア語ではローディ)に向かった。

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カステルリゾ島での海軍による反撃を指揮したルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督。速やかな反撃によって英軍の上陸作戦を失敗させ、同島を奪還する事に成功した。

エーゲ海総督としてのバスティコの主な仕事は、エーゲ海に浮かぶ大小12の島々を英軍やギリシャ軍から防衛する事だった。1941年2月、英海軍上陸部隊が密かにこの1つであるカステルロッソ島(現ギリシャ領カステルリゾ島)に上陸し、占領下に置いた(アブステンション作戦)。しかし、バスティコは速やかにこれに対応し、イタリア軍守備隊の激しい反撃と陸海空軍による迅速な対応によって英軍を撃退し、防衛に成功している。その後もエーゲ海諸島での沿岸防衛を強化し、休戦まで敵軍の上陸を許さなかった。

また、エーゲ海諸島は重要な空軍基地としても使われた。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)中佐爆撃機部隊が中東の英軍石油基地爆撃の基地として使ったことは有名である(特に知られているのはバーレーンマナーマ油田及びサウジアラビア・ダーラン油田爆撃)。この爆撃機部隊はエーゲ海諸島の基地から頻繁に中東に向かい、テルアビブやハイファなどのパレスチナ諸都市を爆撃した。特に、ハイファは英軍の石油精製所が置かれたため重点的に爆撃が実行されている。それ以外には、カルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)大尉率いる雷撃機部隊がエーゲ海や東地中海で多くの敵艦を撃沈し、戦闘機部隊はイラク空軍支援も行っている。

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ギリシャ侵攻の結果、新たに占領下に置いたキクラデス諸島のシロス島(伊語ではシロ島)に訪れたエーゲ海総督時代のバスティコ大将。

エーゲ海諸島の統治は、前総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキが頑迷なファシストであったため(そもそもデ・ヴェッキはファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人である大幹部であった)、急進的なイタリア化統治が行われていた。1941年4月のギリシャ完全制圧までに、イタリア軍はキクラデス諸島を始めとするエーゲ海に浮かぶギリシャ領の島々を征服していたため、それらもこの「イタリア領エーゲ海諸島」に組み込まれた。バスティコも征服地となったギリシャの島々に総督として視察をしている。しかし、結局短期間の統治で終わり、イタリアは第二次世界大戦で負けたために、全てのエーゲ海諸島がギリシャに割譲されている。

 

北アフリカへの派遣、ロンメルとの邂逅

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左の人物がガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍。北アフリカ戦線でガリボルディ将軍、そしてその後任のバスティコ将軍のもとで幕僚を務めた。スペイン内戦終盤にCTV部隊の司令官を務め、共和派との最終決戦で活躍。休戦後はイタリア社会共和国(RSI政権)に合流した将軍の一人で、RSI軍の統合参謀総長に任命された。

バスティコのエーゲ海総督時代も、1941年7月に終わりを告げる。理由は、イタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍の後任のリビア総督として、北アフリカ戦線に派遣されることとなったからだ。ガリボルディ将軍は派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル側の独断専行的な姿勢から、初対面の時から双方の作戦に食い違いを感じ、対立していた。しかし、ガリボルディはロンメルがその強行策によって戦果を挙げていったことから、ロンメルの意向に沿って作戦を進めるべきだと考えるようになった。

このため、ガリボルディの幕僚であったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍は、ガリボルディ将軍の低めの姿勢を批判し、立場上ガリボルディ将軍が北アフリカの枢軸軍の総司令官なのであって、ロンメルは支援軍の指揮官に過ぎないのであるからとして、相応の実権を行使すべきであると主張した。ガンバラ将軍はロンメルと特に仲が悪いイタリア側の将軍だった。これをロアッタ陸軍参謀長は問題視し、北アフリカ戦線の立て直しで多くの貢献をしたガリボルディ将軍を評価しつつも、リビア総督の職を解き、新たにバスティコ将軍を任命したのであった。

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ロンメル将軍とバスティコ将軍。着色カラー写真。

バスティコ将軍は1941年7月19日にリビア総督に任命されると、すぐに北アフリカの現地を視察し、イタリア軍司令部やロンメルと会見した後、7月26日に一時帰国して、ローマで統合参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)大将に現地の状況を視察した。この際、バスティコは北アフリカ戦線の現状は防衛には問題ないが、イタリア軍はあらゆる面で困窮し、攻撃力が劣っていると指摘。そして、環境の劣悪さもあるが、支援軍であるドイツ軍に比べ食糧は当然のこと、全ての物資について貧弱な状態に置かれているため、このような状態に陥っていると分析した。こうして、リビアへの輸送強化を訴えた。これはゆくゆくのマルタ攻略を前提に考えていた。

北アフリカ戦線はこれ以降、「振り子戦争」の様相となっていった。英軍の反撃に対して、イタリア軍側はバスティコの派遣と共に北アフリカに派遣された「ファシスト青年(ジョーヴァニ・ファシスティ)」大隊集団が少ない装備でありながら、奮戦し連合軍の進軍を食い止めた。「ファシスト青年」大隊集団はMVSNから編制された部隊で、ファシスト党の青年組織であるリットーリオ青少年団から志願した若き兵たちによって構成されていた。この部隊はバスティコの幕僚であるガンバラ将軍の指揮する機動装甲戦闘団に編入され、前線部隊として戦うこととなった。

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イタリア軍屈指の精鋭であった戦車師団「アリエテ」を率いた名将、マリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍。1941年7月以降、エットレ・バルダッサッレ(Ettore Baldassarre)将軍から「アリエテ」師団の指揮を引き継ぎ、革新的な戦略で英軍側を苦しめた。1942年1月にはジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍に職を譲り、東部戦線に派遣された。

11月18日、オーキンレック将軍率いる英軍は「クルセーダー」作戦を発動し、反撃を開始した。イタリア軍側はこれに対してマリオ・バロッタ(Mario Balotta)将軍率いる戦車師団「アリエテ」がビル・エル・ゴビで迎撃し、40輌以上のクルセーダー巡航戦車を撃破、多くの捕虜を得た。そして、歩兵師団「パヴィア」とドイツ師団の防衛によって英軍側の進軍は食い止められたように思えた。

しかし、バスティコ将軍が指摘していたように、イタリア軍側は全ての物資が不足しており、弾薬と燃料が底をつく事態となった。英海空軍の活発化によって、地中海の海上輸送が困難になっており、多くの輸送船が撃沈されていた。そこで、イタリア海軍は巡洋艦による高速輸送を実行したが、英海軍側の襲撃を受け多くが撃沈されるなど、不利な状況に立たされていた。空軍の輸送部隊による迅速な補給も行われたが、輸送する重量などに制限もあり、最重要の物資しか補給が難しく、量も少なかった。

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ビル・エル・ゴビ防衛戦で活躍した「ファシスト青年」大隊集団。少ない装備ながら奮戦し、英軍側に大損害を与えた。

こうして、伊独軍はトブルク包囲を解き、撤退を命じた。この時に活躍したのが先ほどの「ファシスト青年」大隊集団であった。同大隊集団は1941年12月3日から7にかけてビル・エル・ゴビで守備に就き、高地に陣を張り、捨て身の防衛を行った。味方側の稼働戦車はM13/40中戦車が1輌あるのみで、装備としては対戦車砲が14門、対戦車ライフル12門、迫撃砲8門があるのみであった。

これを火炎瓶や地雷でカバーしながら「ファシスト青年」大隊集団は果敢に戦い、ヴァレンタイン歩兵戦車など12輌の戦車を含む車輛50輌を撃破するという活躍を見せている。追撃する英軍インド第11旅団は戦死者約200名、負傷者約300名、捕虜71名という大損害を出して撤退した。一方で「ファシスト青年」側の損害も大きく、戦死者52名、負傷者117名、行方不明者31名であった。かれらの奮戦はロンメルも高く評価しており、「彼らはよく戦ってくれた。戦勝の暁にはベルリンで会おう!」と述べている

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現地のリビア人たちと話すバスティコ将軍。

こうした部隊による奮戦もあったが、やはり全体としての劣勢はどうしようものかった。結果的に枢軸軍は再び撤退することとなったのである1942年に入るとロンメル将軍は反撃を決定し、バスティコ将軍もそれに合意した。こうして、イタリア第20自動車化軍団とドイツ軍部隊がマルサ・アル・ブレガを目標として突撃し、前進していた英軍をアジダビアへ退却させることに成功したのである。ロンメルはバスティコにこれ以上進撃しないことを打ち合わせていたが、ロンメルは勢いに乗って更に進撃し、1月22日のアジダビア攻略後、ベンガジ南方のアンテラトとサウンヌへの侵攻を迫った

 

◆熱砂の戦場での激闘

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左から、ドイツアフリカ軍団のロンメル将軍、ガンバラ将軍の後任の幕僚クリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍、カヴァッレーロ参謀総長リビア総督及び北アフリカ枢軸軍総司令官バスティコ将軍。

これに対してバスティコ将軍は、今まで退却を余儀なくされてきた枢軸軍は未だに立ち直っておらず、このような無鉄砲な進撃は部隊に混乱を引き起こすと批判し、そもそも広範囲に渡って攻撃できるほどの軍需物資を枢軸軍側は備えていないし、遠方に攻略目標を置くことは不利な現状を更に悪化させると指摘した。これを受け、幕僚のガンバラ将軍がローマに打電し、カヴァッレーロ参謀総長の介入を求めた。

カヴァッレーロ参謀総長ムッソリーニから厳命を受けて直ちにリビアに飛び、ロンメルに会った後にバスティコ将軍に対してベンガジ奪還を命じ、同時に港湾の修復工事を進めてアジダビアに軍の主力を集中させることを伝えた。結局、これを受けてもロンメルの進撃は止まらず、バスティコ率いるイタリア軍側も第20軍団を進軍させて1月29日にはベンガジを奪還したのであった。

しかし、ベンガジ占領前日にロンメルとガンバラの間で激しい対立が起こった。これはロンメルが山岳の高台にイタリア歩兵部隊の増強を主張したのに対して、ガンバラが激しく反対したためであるが、これに対してロンメルは、自らの作戦に度々難癖をつけてくるガンバラ将軍に対して憤慨し、アフリカ軍団の指揮を放棄するとまで言い出したため、バスティコ将軍がこれを両者を仲介して、ロンメルの怒りをなんとか鎮め、ロンメルの作戦に同意した。こういったこともあり、後にガンバラ将軍は解任され、後任の幕僚にはクリオ・バルゼッティ・ディ・プルン(Curio Barbasetti di Prun)将軍が派遣されることとなったのである。

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降伏した英軍側の捕虜たち。

戦局は枢軸側に有利になっていった。5月26日、枢軸軍は攻撃を開始し、アイネル・ガザラの戦いが開始された。ジュゼッペ・デ・ステファニス(Giuseppe De Stefanis)将軍率いる「アリエテ」戦車師団を先頭に、進軍を開始した。「アリエテ」師団は再度英軍側を圧倒した。しかし、ビル・アケムでマリー・ピエール・ケーニグ(Marie-Pierre Kœnig)将軍率いる自由フランス軍が奮戦し、足止めを食らうこととなった(ビル・アケムの戦い)。とはいえ、バスティコ将軍とロンメル将軍が率いる枢軸軍は多くの戦果を挙げていき、連合軍側の捕虜は3000人に上った。これはイタリア・ドイツ両軍の機甲師団による戦果であった。そしてついに、6月21日にトブルクが攻略され、英軍側のトブルク防衛司令官であるコップラー将軍が降伏文書に署名、トブルクの将兵2万5千人が捕虜となったのであった。

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映画『砂漠の戦場 エル・アラメン(La battaglia di El Alamein)』のワンシーン。左がバスティコ将軍で、右がロンメル将軍。ロンメル将軍が進撃を主張するのに対して、バスティコ将軍は海上輸送が困難になっていることと、ドイツ側が燃料補給の約束を反故としていることを指摘し、それによって物資が困窮していると主張している。映画でも両者の対立は描かれた。

ロンメル将軍はこのまま勢いに乗ってエジプト攻略を実行しようとしたが、バスティコ将軍はカヴァッレーロ参謀総長の意向を受けてマルタ島攻略の重要性を主張し、エジプト攻略でマルタ島上陸のための物資を使い果たしてしまうことを恐れた。こういった両者の意見対立から、ロンメルはバスティコを裏で「爆弾(Bomba)」にちなんだ「Bombastico(ボンバスティコ)」と呼び、嫌っていたバスティコ自身も、ロンメルの無鉄砲な作戦に付き合わされ、参謀本部側との板挟みになっていたために、ロンメルとの仲が更に険悪になっていった

 

◆元帥への昇進、そして事実上の司令官解任

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1942年8月11日、バスティコ大将は元帥に昇進した。こうして、11人目のイタリア王国陸軍元帥となったのである。バスティコの元帥の理由については、キレナイカ及びエジプト領内での戦闘において、ムッソリーニ統帥の訓令を忠実に守りつつ、ロンメル元帥との緊密な作戦を行い、指揮官として優れた手腕を発揮したためと発表された。更には、バスティコの昇進は枢軸軍に勝利をもたらすシンボルとされ、灼熱のアフリカ戦線で頑強な体力と比類ない自己犠牲的精神、そして卓越した戦術をもって奮戦する枢軸軍将兵の殊勲に報いた者であるとされた。

ただ、実際のところはあくまで派遣支援軍司令官の立場であるロンメルが元帥に昇進したために、立場上ロンメルがバスティコの指揮下に置かれている状況を考えると、「大将が元帥を指揮する」ということにならないための処置だったと言われている。

この元帥の昇進以降、枢軸側の最高指揮系統が変更されたバスティコ元帥が総司令官を務める北アフリカ総司令部はリビア総司令部となり、リビアの軍事のみを管轄することとなったのであるつまりは、バスティコは事実上、北アフリカの枢軸軍総司令官から退き、完全にリビア総督としての役割のみを果たすようになったのである。一方で、ロンメル元帥指揮下のドイツ・イタリア機甲軍はドイツ最高司令部に直属する事となり、ロンメルは今まで要求していた実戦の分野での自由を確保することとなった。

ディ・プルン将軍が管轄するイタリア最高司令部の北アフリカ代表部は、実戦以外のすべての問題を管轄することとなり、またカヴァッレーロ参謀総長北アフリカ代表部を通じて、全般的作戦を統括する任務を帯びたのである。

こうして、エジプトに進撃を行うイタリア・ドイツ軍の総指揮はロンメルがとることとなったのであったつまりは、その後起こったエル・アラメインの激戦はバスティコは形式上はイタリア軍の総指揮をとる立場であったが、事実上彼の与り知らぬところで行われていたのであるつまり、バスティコは「エル・アラメインの司令官」ではなかったのだ。それどころか、形式上の司令官という立場に落ちぶれてしまった

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バスティコ将軍。その後ろにはロンメルの姿が見える。

バスティコ元帥やカヴァッレーロ参謀総長イタリア軍司令部は、マルタ島の存在が北アフリカ及び地中海における最大の障害であると認識し、この攻略を主張していた。こうして、イタリア海空軍を主力とする大規模包囲戦によってマルタは陥落寸前にまで陥ることとなった。しかし、ロンメルはエジプトへの徹底的攻撃を望み、ヒトラーもそれを望んだ。一方でドイツ軍内でも意見が分かれ、アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥はロンメルの主張に反対し、「現在の兵力でトブルクを陥落させることは確かに可能であった。しかし、エル・アラメインを突破できるかといえば大いに疑問があり、それ以上の進撃は絶対に不可能だ」と現実的な分析をしている

マルサ・マトルーフを占領した枢軸軍はその後の進撃をムッソリーニの判断を待つこととなった。バスティコは自らの主張を統帥は受け入れていると思ったが、ムッソリーニはあれほど固執していたマルタ攻略をあっさりと棚上げし、スエズ運河攻略を最優先にするべきという考えに変わっていたのである。これを受けて、カヴァッレーロ参謀総長も諦め、マルタ上陸作戦をギリギリのところで断念するかたちとなった。しかし、これは枢軸軍崩壊の序曲となったことは間違いない。

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右の人物がセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)。ファシスト外交官で、エジプトやパラグアイなど各国の大使を歴任。第二次世界大戦時は新たにイタリアの同君連合となったモンテネグロ王国高等弁務官を務めた。エジプト制圧後は民政長官に任命される予定だったが、エル・アラメインの敗北によってこれは幻の計画に終わった。休戦後、イタリア社会共和国(RSI政権)に合流し、外務次官(外相はムッソリーニ)に任命。事実上RSI外務省のトップとして活動した。

この先に待ち受ける結果から考えれば、バスティコやカヴァッレーロらイタリア軍首脳部やケッセルリンク元帥の判断は正しかった。結局、ヒトラーロンメル、そしてムッソリーニの「結果的に間違っていた進撃」によって北アフリカ戦線は悲劇の結末を歩むこととなったのである。エジプトを征服できた場合、民政長官はファシスト外交官のセラフィーノ・マッツォリーニ(Serafino Mazzolini)、軍政長官をロンメル元帥が務めるということが予定されたが、結局アレクサンドリアもカイロも落とすことは失敗したため、幻の計画に終わってしまったのであった。

結局、バスティコにとっては、自らの主張も退けられ、信頼していた統帥にも裏切られ、そして自らの与り知らぬところで行われたエル・アラメインで枢軸軍は敗北し、北アフリカ戦線は壊滅する事態となったのである。今までロンメルの独断専行な戦術についても、バスティコが補正をする形で作戦は成功していったが、エル・アラメインではその補正をする役割の人間がいなかったために失敗したとも受け取れるのだ。

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ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍。第二次世界大戦時のイタリア軍の将軍で最も優秀な将軍と言われる名将で、一兵卒からイタリア軍最高位の元帥、そして参謀総長にまで上り詰めたというたたき上げのリアルチート。東部戦線での軍功で知られるが、北アフリカ戦線末期のチュニジア戦線にて巧みな撤退戦を行い、多くの戦果を挙げた。

エル・アラメインの敗北をもってして、北アフリカ戦線の命運は完全に決まった。更には、1942年11月に英米軍を中心とする連合軍がフランス領北アフリカ侵攻作戦「トーチ」を発動したことで、状況は一層悪化していった。ドイツ・イタリアの枢軸軍は速やかにヴィシー・フランス支配領域に侵攻し、チュニジアも形式上はイタリア領北アフリカ植民地に組み込まれ、占領下に置かれることとなった。トーチ作戦発動後、リビア総督のバスティコ元帥に対して再び指揮権が戻ったが、もはや壊滅も時間の問題となった北アフリカ戦線でバスティコ元帥が為せることは何もなかったのである。

既に命運が決まった北アフリカ戦線に未来はなかった。1943年が始まる頃には、北アフリカ戦線は四方八方から迫りくる連合軍によって、完全に崩壊していた。こうして、1943年1月23日には、リビアの首都トリポリが遂に陥落してしまった。これをもってして、イタリア領リビアは事実上壊滅したのである。バスティコ元帥はこれを受けて、1943年2月をもってリビア総督の職を解かれ、実権の無い「名誉リビア総督」という地位が与えられ、軍の指揮からも解かれてイタリアに帰国した。この後、北アフリカの枢軸軍を立て直すために派遣されたロシア帰りの名将、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍がバスティコ元帥の指揮権を引き継いでイタリア第一軍の司令官となり、病気で帰国したロンメルに代わり、チュニジアでの最後の戦いに挑んだのであった。

 

◆その後のバスティコ元帥

1943年2月にイタリアに帰国したバスティコは、もはや軍務につくことはなかった。1943年9月の休戦以降、北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にも、南部の王国政府にも協力せず、ドイツのローマ侵攻後はローマの町に潜伏し、1944年6月のローマ解放の日まで隠れて過ごしていた(形式上は王国軍元帥のまま)。1945年、正式に予備役となり、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

戦後のバスティコは、かつてのように軍事史家として活動し、更に文芸活動にも積極的に参加した。1956年には国際軍装史学協会の責任者となり、この地位を1972年まで務めた(辞任の理由は老齢であったため)。博物館の創設や国際展示会の開催、そして研究活動で多くの功績を挙げた。1957年には時のイタリア大統領、ジョヴァンニ・グロンキ(Giovanni Gronchi)からイタリア共和国功労勲章を与えられた。なお、グロンキはムッソリーニ政権初期に産業省次官を務めている。これは、彼が最後に叙勲された勲章だった。こうして96歳まで生きたバスティコは、1972年にこの世を去った。王族であるウンベルト2世を除けば、最も長生きしたイタリア軍の元帥だった

 

北アフリカのバスティコは、一言で言えば「無力な将」であったロンメルに主導権を奪われ、大した役割も担えず敗北の責を負わされた人物であったと言える。故に、評価が難しい。例えば、ギリシャのプラスカ将軍は対照的に評価がしやすい。彼はギリシャ軍を過小評価し、自らの間違った戦略によって、イタリア軍を窮地に追い込んでしまった「無能な将」であるのであるから。

バスティコの場合はそうは言えない。バスティコの役割はあくまでロンメルの方針の補正をする役割のみに限定され、名目上の北アフリカ軍司令官の立場にいた元帥昇進後はそれすらも失われ、自らの与り知らぬところで枢軸軍は敗北したそれ故に、「優秀な人物」であるとも、「無能な人物」であるとも、評価しづらい。そもそも、その二極で考えるのは愚かなことではあるのだが。

当然、ロンメルの大胆で、時に無鉄砲な戦術がなかったら、北アフリカの一連の勝利も難しかったかもしれないしかし、(ロンメル自身は忌み嫌っていたものの)ロンメルの無鉄砲な作戦に異議を唱え、度々軌道修正をしていたのは紛れもなくバスティコを始めとするイタリア軍の将軍たちだった。実際、ドイツ国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)元帥イタリア軍側の将軍が「癇癪持ちの」ロンメルに堪えて慎重に対策を講じ、均衡を失しない明確な決定を下しており、両者の違った性格が逆に良い戦果を上げていると評価している。あの時、ロンメルがもしバスティコらの意見を聞き入れていれば...いや、歴史のifを話しても意味はない。

ひとまず、実態についてあまり知られていないバスティコ元帥について、少しでもこのブログで参考になったというなら、幸いである。

 

◆主要参考文献

 

B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975

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色摩力夫著『フランコ スペイン現代史の迷路』中央公論新社・2000

吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006

吉川和篤著『Viva!知られざるイタリア軍イカロス出版・2012

吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策 1935-39-』東京大学出版会・1994