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地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1942年の海戦:マルタ島を巡る大海戦!―

さて、今回は遂に1942年の地中海の海戦だ。前年1941年の末のアレクサンドリア港攻撃によって英海軍は致命的な大打撃を受け地中海の制海権はイタリア参戦から1年半経ってようやくイタリア海軍が握ることとなった。イタリア側は北アフリカ戦線に安定して物資を輸送船団で供給できるようになったこの頃、対照的に英海軍はマルタへの物資補給が困難となっていた。空軍によるマルタ空爆も日々加速し、まさに地中海の要衝が無力化されようとしていた。そんな中で劣勢の英海軍はマルタ救援作戦を実行、それを止めんとするイタリア海軍と激戦を繰り広げるのである。また、制海権を握り優勢となったイタリア海軍であったが、一方で燃料不足の深刻化が加速していた。

1942年の海戦はマルタを周辺とする中央地中海が中心で行われ、基本的に英海軍のマルタ補給と、それを阻止せんとするイタリア海軍の戦いである。「イタリア水上艦隊最大の勝利」とも言える、パンテッレリーア沖海戦の栄光もこのマルタの攻防戦において行われた。イタリア海軍としては前年度以上に「勝利の年」と言えなくもないが、1942年後半になると燃料が遂に枯渇する事態となって艦隊が使用困難、そして北アフリカ戦線の崩壊によって結果的に制海権を奪われる事態となってしまった。

1940年(前々回)の記事はこちら↓

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 1941年(前回)の記事はこちら↓

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 イタリア海軍の「欠点」について↓

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◆1942年:中央地中海の激戦

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1942年の主要な海戦。敵泊地攻撃が行われた以外は中央地中海における戦いが基本となった。

地中海の戦局はイタリア側に傾いていたアレクサンドリア港攻撃で地中海における制海権を獲得したイタリア海軍は安定して補給物資をリビアに運び、陸軍はそれに伴い北アフリカで攻勢を進め、遂にエジプトへの再進撃を開始した。北アフリカ戦線・地中海戦線ともにイタリア側がイニシアチブを握りつつあったが、未だ地中海の要衝であるマルタが邪魔な存在であった。マルタが存在しうる限り、英軍の地中海における脅威は去らなかったからである。英海軍側もマルタの重要性を理解し、マルタを陥落させまいとして救援作戦を展開した。こうして、両艦隊は一つの島を巡り衝突した。

年が明けてから、イタリア主力艦隊は積極的に自軍側の船団護衛や、英船団妨害に度々出撃し、英海軍側を悩ませていた。年明けの1月3日には戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦4隻(「リットリオ」「チェーザレ」「ドーリア」「ドゥイリオ」)を含む大船団がリビアへの輸送を成功させた。3月までの間に最も頻繁に出撃した戦艦は「ドゥイリオ」で、1月22日には「ドゥイリオ」を旗艦とする船団がリビア輸送を成功させ、その後2月14日には軽巡2隻・駆逐艦7隻と共に英艦隊の船団妨害に出撃し、同月21日にもギリシャ方面からのターラントまでの船団護衛を行っている。

 

■3月22日:第二次シルテ湾海戦

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1942年3月22日:第二次シルテ湾海戦

制海権を獲得したイタリア海軍であったが、英海軍側はイタリア海軍側が燃料不足に陥っていることを見抜いてた。アレクサンドリアに使用できる戦艦が存在しない英海軍はジブラルタルからの支援艦隊を派遣した。3月20日に戦艦「マラヤ」、空母「アーガス」「イーグル」を含む戦隊がジブラルタルを出発し、包囲されたマルタへの補給に失敗し、翌日に作戦を中止して帰還した。そこで、対空能力と対潜能力が高い巡洋艦駆逐艦で構成された小艦隊による強行突破によるマルタ船団補給を計画した。こうして、3月21日に英海軍はアレクサンドリア港からマルタへの補給船団を出発させた。フィリップ・ヴァイアン提督が指揮するこの船団は軽巡クレオパトラ」を旗艦とし、軽巡5隻(「クレオパトラ」「ダイドー」「ペネロペ」「ユーライアラス」「カーライル」)と駆逐艦18隻輸送船4隻を護衛していた。

一方で、リビア隊司令官となったロンバルディ提督に代わって新たにSIS(海軍諜報部)長官に任命されたフランコ・マウジェリ(Franco Maugeri)提督は英艦隊側の行動を察知した。これを阻止するため、スーペルマリーナは主力艦隊の派遣を決定。「ヴィットリオ・ヴェネト」は前年末に潜水艦の雷撃を受けて修復中であったため、戦艦は「リットリオ」1隻のみであった。イアキーノ提督率いるこの主力艦隊は、戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦1隻(「リットリオ」)、重巡2隻(「ゴリツィア」「トレント」)、軽巡1隻(「バンデ・ネーレ」)、駆逐艦10隻で構成されていた。戦艦「リットリオ」を旗艦「リットリオ」と駆逐艦4隻はターラントから出港し、これにアンジェロ・パローナ提督(Angelo Parona)率いる残りの艦隊(第三巡洋戦隊)が合流した。パローナ提督は大西洋の戦いにおいて巧みな指揮によって多くの戦果を挙げた提督で、昨年のデュースブルク船団の海戦で解任されたブルーノ・ブリヴォネージ提督の後任として、第三巡洋戦隊の指揮を任せられていた。後任の大西洋艦隊司令官にはローモロ・ポラッキーニ提督(Romolo Polacchini)が任命され、大西洋の潜水艦作戦は全盛期を迎えた。

3月22日14時30分に両艦隊は衝突した。当時の中央地中海は悪天候で、両艦隊は嵐の中での戦いを余儀なくされた。しかし、この荒天は戦力が不利な英艦隊に有利に働いている。ヴァイアン提督はイタリア艦隊との遭遇後、「カーライル」と駆逐艦の半数に輸送船団の防衛を任せて、残りの戦力でイタリア艦隊の足止めを行った。英艦隊は煙幕を張ってそれに紛れて「カーライル」を中心とする輸送船団護衛部隊は南に航路を変更し、残りの艦隊はイタリア艦隊を引き付けるために行動を開始。両艦隊との激しい砲撃船と同時に、シチリアから出発した空軍部隊も英艦隊への攻撃を実行した。そのため、今までの海戦とは異なり、イタリア側にとっては海軍と空軍が上手く連携をとれた海戦とも言えるだろう(連携を取れるようになるまでが遅過ぎたが)。

英艦隊側は風上にいたため、不幸なことに煙幕は強風と共に全てイタリア側にやってきた。更に、英艦隊はレーダーを用いて煙幕の中からもイタリア艦隊を効率的に攻撃した。英艦隊が有利に戦況を展開したように思われたが、英艦隊側の魚雷を全てイタリア艦隊は回避し、イタリア艦隊側に損害はなかった。一方で、イタリア艦隊は煙幕と荒天によって視界不良の中での戦いを強いられたが、有利に戦局を進めていった。軽巡「バンデ・ネーレ」は主砲斉射で英海軍側の旗艦・軽巡クレオパトラ」の艦橋に直撃弾を食らわせ、「クレオパトラ」は大破、レーダーと無線通信が使用不可能となった

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イタリア戦艦「リットリオ」

この海戦で最も活躍したのは戦艦「リットリオ」であった。戦艦「リットリオ」の50口径381mm三連装砲の主砲斉射によって英艦隊側は大損害を被り、駆逐艦キングストン」が直撃弾によるダメージで撃沈され、駆逐艦「ライヴリー」も直撃弾を受けて大破したが、巧みなダメコンによって撃沈は免れた。軽巡「ユーライアラス」「ペネロペ」も「リットリオ」の砲撃で小破、また駆逐艦「リージョン」「サウスウォールド」も「リットリオ」の砲撃で大きな損害を受けたが、最終的に「リージョン」も空軍の攻撃で喪失、牽引しようとした「サウスウォールド」は機雷によって爆沈することとなった。これに加え、駆逐艦「シーク」「ズールー」も巡洋艦「ゴリツィア」と戦艦「リットリオ」の攻撃によって小破している。

煙幕と悪天候による視界不良の中でイタリア艦隊は不利な状況に置かれたが、英艦隊に対して一方的な勝利を挙げた。ヴァイアン提督は巧みな防衛戦術を展開したが、「リットリオ」の主砲斉射によって艦隊は多くの被害を受けることとなったのである。18時55分、イアキーノ提督は夜戦を避けるために戦闘を切り上げ、艦隊の追撃は空軍に任せてトブルクに撤退した。先述したように英船団は先に輸送船4隻を別行動をさせていたために、船団の防衛自体には成功したように思われたが、その後の空軍の追撃を受けて結局道中で輸送船「クラン・キャンベル」が撃沈され、生き残った3隻も物資を急いで運び出したが、全て港内で撃沈される事態となった。結局、輸送物資は80%以上が失われ、マルタ島に届いた物資は5000トンのみだった。そのため、この海戦は戦略的にも戦術的にも、イタリア艦隊側の勝利となったのである。

結果として、空軍の追撃を含めると英海軍側は駆逐艦3隻(「キングストン」「サウスウォールド」「リージョン」)・輸送船1隻が撃沈、軽巡クレオパトラ」及び駆逐艦「ライヴリー」大破、駆逐艦「ハヴォック」中破、軽巡2隻(「ユーライアラス」「ペネロペ」)及び駆逐艦2隻(「シーク」「ズールー」)小破、そして港内で輸送船3隻が撃沈されるという、悲惨極まる結果となった。一方のイタリア艦隊は無傷で海戦を終了するという一方的なワンゲームを繰り広げたのであったのである。気候条件によってイタリア艦隊は苦戦を強いられたが、大戦中において最もリットリオ級戦艦が活躍を見せた海戦と言えるだろう。結果として、英艦隊によるマルタ救援作戦は失敗し、マルタ島は連日の空爆によって更なる苦境に追い込まれた。

 

■6月15日:6月中旬の海戦

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1942年6月15日:6月中旬の海戦

第二次シルテ湾海戦で勝利を挙げたイタリア海軍であったが、戦局は有利である一方で、燃料問題がここにきて深刻になってきたため、燃料消費の関係から主力戦艦で行動可能なものは「リットリオ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」の2隻のみとなり、「チェーザレ」「ドーリア」「ドゥイリオ」は出撃制限を受けることとなった(主力艦に使う燃料を駆逐艦や潜水艦などの出撃回数が多い小型艦に優先したため)。ドイツ側はイタリア海軍に安定した燃料補給を約束したが、地中海戦線を「第二戦線」と考えたドイツはイタリア海軍の約束を反故とし、東部戦線(対ソ戦)向けの燃料を優先した。このため、イタリア海軍側には僅かな量の燃料しか供給されず、結果としてイタリア海軍は行動を制限されて有利な状況を生かせなかったのである。

一方で、6月14日にはリットリオ級の三番艦である新鋭戦艦「ローマ」が竣工し、新たに就役した(姉妹艦「インペロ」が先に進水していることから、日本では「ローマ」が四番艦と呼ばれることもある)。これに伴い、イタリア海軍は戦艦6隻体制(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」「ドゥイリオ」「ドーリア」「チェーザレ」)となっていたが、先述した通り「ドゥイリオ」「ドーリア」「チェーザレ」は行動が制限され、「ローマ」は訓練が未完了であったため出撃準備が整わず、結局出撃可能な戦艦は「リットリオ」と「ヴィットリオ・ヴェネト」のみであった。年末の雷撃で大きな損害を受けた「ヴィットリオ・ヴェネト」であったが、プリエーゼ式水雷防御の効果もあり、損害を最小限に抑え、第二次シルテ湾海戦後に修復を完了して戦列に復帰した。なお、この6月までの地中海の戦いにおいて、イタリア海軍は戦艦1隻、巡洋艦10隻、駆逐艦29隻、水雷艇18隻、潜水艦44隻を失っている

さて、6月に入るとマルタへの空爆が一層強化された。北アフリカ戦線の輸送船団の強化もあって枢軸国側が有利になっており、順調に進軍を進めていた。マルタ島が事実上無力化されつつあったために、英海軍はマルタ島への救援船団を2方向から派遣することを決定した。一方はアレクサンドリアから出発した「ヴィガラス」船団で、もう一方はジブラルタルから出発した「ハープーン」船団である。無線通信傍受によって、スーペルマリーナはこの船団輸送を把握し、二方向から来る船団を妨害するために艦隊の派遣を決定。これにより、地中海戦線最大の大海戦が繰り広げられることとなった

「6月中旬の海戦(Battaglia di Mezzo Giugno)」はヴィガラス船団及びハープーン船団双方への戦いを総称したイタリア側での呼称だが、ここではヴィガラス船団とイタリア海軍の戦いのみについて書き、ハープーン船団との戦いは「パンテッレリーア沖海戦」として次の項で紹介する。スーペルマリーナはヴィガラス船団が本命の船団であり、ハープーン船団がオトリであると判断されたため、主力艦隊はヴィガラス船団妨害に差し向けられた。ヴィガラス船団はフィリップ・ヴァイアン提督が指揮し、旗艦・軽巡クレオパトラを始めとして、先のイタリア艦隊との戦いで損傷を受けた艦が多かったが、全て修復を終えて戦列に復帰していた。軽巡8隻(「クレオパトラ」「ダイドー」「ユーライアラス」「アレトゥーザ」「コヴェントリー」「ハーマイオニー」「ニューカッスル」「バーミンガム」)、駆逐艦26隻掃海艇9隻コルベット4隻輸送船11隻を護衛する、大船団であった。これに加え、既に武装が解除されて訓練艦として使われていた旧式戦艦センチュリオン」がキング・ジョージV世級戦艦「アンソン」に「偽装」されて対空砲が設置された。これは昨年のアレクサンドリア港攻撃の被害によって地中海艦隊に使用可能な戦艦が無かったためである。

一方で、イタリア艦隊はイアキーノ提督を司令官とし、戦艦「リットリオ」が旗艦を務めた。戦艦2隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」)、重巡2隻(「トレント」「ゴリツィア」)、軽巡2隻(「ガリバルディ」「ドゥーカ・ダオスタ」)、駆逐艦12隻で構成されていった。二度のシルテ湾海戦に続いて、イアキーノ提督vsヴァイアン提督という因縁の海戦となった。

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イタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」

6月13日にアレクサンドリア港を出港した英艦隊はマルタに向かったが、出港直後すぐに艦隊は空軍の爆撃を受け、結果として1隻の輸送船が大破。速力を維持できないため、この輸送船はアレクサンドリア港への帰港を余儀なくされた。6月13日夜、英船団を嵐を受けたため掃海艇4隻をアレクサンドリア港に帰還させた。しかし、その内1隻が嵐で沈んだ。また、コルベット「エリカ」も機関に異常が出たため、マルサ・マトルーフ港に避難した。6月14日朝、再び空軍機による攻撃を受けたことにより、コルベットプリムラ」及び輸送船1隻が撃沈されている。同日午後、イアキーノ艦隊はターラントを出発し、英船団の迎撃に向かった。なお、この艦隊に所属したソルダーティ級駆逐艦「レジョナリオ」はこの戦いにおいてイタリア艦で初めてレーダーを実戦投入している。これに伴い、イタリア艦隊は不得意であった夜間戦闘において「レジョナリオ」は艦隊のサポートという重要な役割を担った

イタリア艦隊も出港直後から連合軍機に目を付けられていた。6月15日朝、マルタ島から襲来した英空軍雷撃機はイタリア巡洋艦隊を攻撃した。軽巡ガリバルディ」及び重巡「ゴリツィア」は魚雷を回避したが、トレント」は右舷に魚雷を受けて大破。航行不能となった「トレント」に対して、駆逐艦3隻(「ピガフェッタ」「サエッタ」「カミーチャ・ネーラ」)を救援に向かわせたが、トレント」は英潜水艦「ウンブラ」の雷撃によって撃沈されてしまった。「トレント」の雷撃を受けてヴァイアン提督はイタリア艦隊はこれ以上の損害を受けないために撤退するだろうと判断した(イアキーノと度々交戦していたヴァイアンは、イアキーノがマタパン岬の記憶によって慎重な行動を取ると看破していたため)。しかし、ヴァイアン提督の予想に反してイアキーノ提督は「トレント」撃沈後も、空襲を受けながらイタリア艦隊は英船団への進撃を続けた。これはまさにヴァイアンによって予想外であった。一方で、英艦隊も攻撃を受け、駆逐艦「ヘイスティ」が撃沈、英軽巡ニューカッスル」が大破する被害を受けている。

英艦隊と遭遇したイアキーノ提督は戦艦「アンソン」に偽装された「センチュリオン」に遭遇したが、これを偽装であると看破した。イタリア艦隊は「トレント」を失いつつも英船団への攻撃を続け英艦隊側は駆逐艦「エアデール」が撃沈、軽巡バーミンガム」及び輸送船2隻が中破した。駆逐艦ネスター」も大破し、駆逐艦「ジャベリン」が牽引を試みたが最終的に放棄されて撃沈された。ヴァイアン提督は今なお突撃を続けるイタリア艦隊の脅威と、ここまでに被った被害の多さ、そして燃料と弾薬の不足によって作戦を中止してアレクサンドリア港への反転を決定。これを受けて、イアキーノ艦隊は英船団による「ヴィガラス」作戦を完全な失敗に追い込むことに成功したのであった。帰還途中に「リットリオ」は英軍雷撃機からの攻撃を受けたが、プリエーゼ式水雷防御の効果もあり僅かな損傷を受けたのみであった。「リットリオ」はその後修復のためにドッグ入りし、8月27日に修復が完了した。英船団も帰還途中で潜水艦の雷撃を受け、軽巡ハーマイオニー」が撃沈している。

英海軍による「ヴィガラス」作戦は完全な失敗に終わり、英艦隊は多くの被害を受けた。英海軍は一連の海戦によって、軽巡ハーマイオニー」、駆逐艦3隻(「ヘイスティ」「ネスター」「エアデール」)、輸送船2隻、魚雷艇1隻が撃沈され、軽巡ニューカッスル」が大破、軽巡バーミンガム」及び輸送船2隻が中破する損害を被った上に、船団の到達にも失敗してアレクサンドリア港に帰還したのであった。対するイタリア艦隊の被害は重巡トレント」の撃沈と、戦艦「リットリオ」の小破であった。「トレント」の喪失は打撃であったが、船団襲撃の完全な成功によってその損失は補填されたといえるだろう。損害を受けながらも勇敢に進撃を続けて敵艦隊の船団輸送を完全失敗に追い込んだイアキーノは、この大勝利の立役者であった。マタパン岬の記憶から慎重な戦いを続けていた彼にとって、これは最大の勝利となったのである。また、空軍の活躍も目覚ましいもので、空軍と海軍の連携が上手くいった海戦とも言える。しかし、これはイアキーノ提督、そして主力艦隊にとって最後の海戦となってしまった。戦艦は燃料不足ゆえに出撃出来なくなってしまったからである。

 

■6月15日:パンテッレリーア沖海戦

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1942年6月15日:パンテッレリーア沖海戦

アレクサンドリアから派遣された「ヴィガラス船団」はイアキーノ提督率いるイタリア主力艦隊と空軍部隊の活躍によって完全に失敗に追い込まれた。一方で、英海軍はアレクサンドリアから「ヴィガラス船団」を出発させるのと同時に、ジブラルタルからも「ハープーン船団」を同時発進させてマルタ救援に向かわせた。スーペルマリーナは通信傍受によって完全にこの船団の出発の情報を把握していたが、「ヴィガラス船団」が本命であると判断して主力艦隊を差し向ける一方で、「ハープーン船団」にはオトリであるとして小規模の艦隊を差し向けた。しかし、新たに地中海に入った戦力によって護衛が強化されており、寧ろこっちが本命とも言える存在だった。

英海軍「ハープーン」船団はアルバン・カーティス(Alban Curteis)提督によって指揮されており、旗艦は軽巡ケニアであった。護衛艦隊は戦艦1隻(「マラヤ」)、空母2隻(「アーガス」「イーグル」)、軽巡4隻(「ケニア」「リヴァプール」「カリブディス」「カイロ」)、駆逐艦17隻、掃海艇4隻、魚雷艇6隻、敷設艦1隻、コルベット2隻という大艦隊であり、これが7隻の輸送船を護衛した。対するイタリア艦隊はアルベルト・ダ・ザーラ提督(Alberto Da Zara)が指揮しており、旗艦は軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイアであった。ダ・ザーラ艦隊は軽巡2隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「モンテクッコリ」)と駆逐艦7隻で構成されており、主力戦艦2隻が存在することで優位に立っていたイアキーノ艦隊とは対照的に、こちらは伊英艦隊との間に圧倒的な戦力差があり、イタリア側が完全に不利な状態であった。

ダ・ザーラ提督は大戦前半には軽巡戦隊の指揮官として船団護衛や機雷敷設で活躍した後、対潜総監を務めて対潜戦の指導に努めた。対潜戦に経験が無かった彼であったが、驚くほどの手腕を発揮し、対潜水艦戦の訓練や兵器開発が行われ、大戦後期に開発された駆潜艇「VAS艇」や対潜能力が強化されたガッビアーノ級コルベットは彼の指導によって開発されたものであった。実際に彼の指導を受けた駆逐戦隊・水雷戦隊は対潜水艦作戦で高い戦果を挙げ、1942年4月14日にはイタリア水雷艇「ペガソ」は英海軍の撃沈数トップを誇る潜水艦「アップホルダー」を撃沈することに成功している。「アップホルダー」は船団の襲撃でイタリア側を大いに悩ませていた潜水艦であった。

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イタリア軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア

6月13日、カリャリ港からダ・ザーラ提督率いる第七巡洋戦隊が出発した。しかし、7隻の駆逐艦の内、駆逐艦「ジョベルティ」「ゼーノ」の2隻の機関が不調を起こし、2隻は速力を維持できないためにパレルモに寄港する事態となった。このため、2隻はパレルモに残り、戦隊は軽巡2隻・駆逐艦5隻の戦力となっている。一方で、ジブラルタルを出港した英船団はマルタに向けて航行中の6月14日早朝、イタリア潜水艦部隊からの攻撃を受けた。潜水艦「ウァルシエク」が雷撃したがこれは失敗。続いて潜水艦「ジャダ」が空母「イーグル」に魚雷3発を命中させているが、全て不発という不運に見舞われた。続いて、サルデーニャ島からイタリア空軍機が来襲し、船団を襲撃した。SM.79雷撃機の雷撃を受けた輸送船「タニンバー」が撃沈され、軽巡リヴァプール」は大破・航行不能となった。このため、「リヴァプール」は駆逐艦アンテロープ」に牽引され、ジブラルタルへ撤退している。

6月14日21時30分、スーペルマリーナの命令を受けて、ダ・ザーラ艦隊はパレルモからの再出撃を開始し、パンテッレリーア沖海域に向かった。駆逐艦2隻が港に残ったため、戦力は軽巡2隻・駆逐艦5隻であった。スーペルマリーナが傍受によって英船団の正確な位置を把握したことで、ダ・ザーラ艦隊は翌日6月15日の5時40分にパンテッレリーア沖にて英船団を発見、「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」による主砲斉射によって海戦が開始、両艦隊は衝突した。

護衛艦隊は船団を守るために煙幕を展開した。ダ・ザーラは速力の遅い駆逐艦「ヴィヴァルディ」及び「マロチェッロ」に別行動を取らせ、輸送船に対する攻撃を命令した。7時15分、駆逐艦「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」の主砲斉射によって、輸送船「オラリ」が直撃弾を受けて中破した。「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」も英護衛艦隊への砲撃を実行し、駆逐艦ベドウィン」は直撃弾を受けて大破、駆逐艦「パートリッジ」は中破した。「パートリッジ」は自らも大きな損害を受けながらも、「ベドウィン」を牽引して戦線の離脱を図った。駆逐艦隊を支援していた軽巡「カイロ」も「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の主砲斉射を受け、艦首に被弾し中破している。しかし、駆逐艦隊は煙幕の中から「ヴィヴァルディ」「マロチェッロ」に対する反撃を行い、「ヴィヴァルディ」の甲板が炎上する事態となった。損傷を受けた「ヴィヴァルディ」を救援するため、駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」「プレムダ」が艦隊から切り離され、「マロチェッロ」と共に「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に牽引した。一方、この煙幕によって8時頃にはダ・ザーラ提督は英船団を見失うこととなり、これに関してダ・ザーラ提督も「何も言うことはない。流石は海の巨匠だよ」と感嘆したという。しかし、ダ・ザーラは英船団の航路から機雷原に向かっていると予測し、パンテッレリーア沖の機雷原に向かった

ダ・ザーラ艦隊の追撃を振り切った英船団であったが、次は10時頃にシチリアから襲来するイタリア空軍機の攻撃を受けることとなり、船団は大きな被害を受け、輸送船「チャント」が撃沈された。ダ・ザーラ艦隊は英船団を追撃に向かっている最中にマルタから飛来する英軍機の襲撃を受けたが、全て回避することに成功した。11時頃、中破した「ヴィヴァルディ」をパンテッレリーア島に護送した駆逐艦「オリアーニ」「アスカリ」が帰還し、艦隊に合流している。正午過ぎに予測通りに英船団を再度発見したダ・ザーラ艦隊はこれを攻撃し、輸送船「ブルドワーン」は軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」及び「モンテクッコリ」の砲撃で撃沈され、輸送船「ケンタッキー」は駆逐艦「オリアーニ」の雷撃で撃沈された。駆逐艦「パートリッジ」は「ベドウィン」の牽引を断念し、ベドウィン」はブスカーリア中尉が駆るSM.79雷撃機によってトドメを刺されて撃沈されている(既に午前中の戦闘で軽巡2隻の攻撃によって大破していた)。

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イタリア軽巡「モンテクッコリ」

軽巡「モンテクッコリ」は13km離れた距離から長距離射撃を行い、掃海艇「ヘーベ」に直撃弾を食らわせて大破させたが、ダ・ザーラ艦隊は弾薬不足のためにスーペルマリーナからの撤退命令が出され、14時20分にトラーパニへの帰還を決定した。なお、退避に成功した残りの船団も機雷原によって大損害を受け、自由ポーランド海軍の駆逐艦「クヤヴィアク」が撃沈し、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」と輸送船「オラリ」が大破する被害を被った。結果として、最終的にマルタに到達出来た輸送船は「トローイロス」と「オラリ」の2隻のみであった。しかし、「オラリ」は海戦による被害で貨物を失っていたため、事実上到着した輸送船は「トローイロス」1隻のみと言える。また、この輸送船2隻も直後の枢軸軍機による空襲によって港内で撃沈される事態となってしまった。

ダ・ザーラ提督は圧倒的に戦力に勝る英船団を相手に勇敢に戦い軽巡2隻と駆逐艦7隻(しかも海戦勃発前に2隻が離脱したため、事実上駆逐艦は5隻)という戦力で大勝利を挙げることに成功した。英艦隊は駆逐艦2隻(「ベドウィン」「クヤヴィアク」)と輸送船4隻を撃沈され、軽巡リヴァプール」、駆逐艦「マッチレス」「バッズワース」、掃海艇「ヘーベ」、輸送船1隻が大破軽巡「カイロ」及び駆逐艦「パートリッジ」が中破する大損害を被り、輸送船団も2隻しか到達出来なかった上に、1隻は海戦の損害で貨物を失い、もう1隻の貨物を補給できたが、結局2隻とも港内で撃沈されている。その一方で、イタリア側の被害は駆逐艦「ヴィヴァルディ」が中破したのみで留まった。ダ・ザーラ提督の巧みな指揮によって実現したこの勝利は、第二次世界大戦におけるイタリア水上艦隊の戦いで最大の勝利と言っても過言ではないだろう。しかし、この勝利を契機として、イタリア艦隊は燃料枯渇によって行動不能に追い込まれてしまう。大勝利の後に燃料枯渇で行動不能となるとは、なんとも皮肉である。

この「ヴィガラス」「ハープーン」両船団の粉砕による大勝利を受けて、イタリアの国営ステーファニ通信は次のように報道した。「今次の地中海における海空激戦は、英海軍が自称する海域の制海権に甚大な打撃を与えたものとして歴史に記憶されよう。英海軍は自らが被った無残な姿に対する国民の憤りを鎮めるため、我が艦隊の損害を大袈裟に宣伝して、自らの被害を隠すのに懸命だ。それにもかかわらず、海上に漂流する残骸や、我が国の救助隊が撃沈された艦船の乗組員を大勢助けた事実から判断して、敵の艦船が多数沈没したことは最早疑いようのない事実である」

イアキーノ提督率いる主力艦隊によってアレクサンドリア港を出発した「ヴィガラス」船団が完全に撃退され、ダ・ザーラ提督率いる巡洋戦隊によってジブラルタルを出港した「ハープーン」船団は僅かな物資しかマルタに届けることが出来ず、英海軍は両船団の派遣を完全に失敗し、マルタ島は完全なる包囲下に置かれて陥落も間近であった。そのため、ヴィットーリオ・トゥール提督率いるF.N.S.によってマルタ攻略作戦が計画されていたが、これは北アフリカ戦線の戦況が好転したことで中止となってしまう。6月29日、ムッソリーニが枢軸軍のマルサ・マトルーフ占領を受け、バスティコやカヴァッレーロが主張していたマルタ攻略を棚上げし、ロンメルが主張していたスエズ攻略を優先したためであった。用意周到に準備されたマルタ攻略作戦はこれによっておじゃんになってしまったが、これは後に明らかな戦略ミスだと明らかになるのである。

 

■7月13日:第二次ジブラルタル襲撃

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英戦艦「ネルソン」

ムッソリーニは伊軍参謀本部が主張するマルタ攻略を放棄し、エジプト征服という魅力に取りつかれてしまった。しかし、エジプトに進軍するロンメルであったが、結局のところ7月初めの段階でアレクサンドリアを目前とするエル・アラメインで足止めを食らった状態となった。ムッソリーニは結局、自らの選択に失望することとなった。しかし、それを気付く頃にはもう時は遅かったのである。

一方で、去年末のアレクサンドリア攻撃で大戦果を挙げた伊海軍「デチマ・マス」は、効率的にジブラルタルを襲撃するためにアルヘシラス港に停泊する工作母艦「オルテッラ」を母艦として作戦を開始するようになり、7月13日の第二次ジブラルタル襲撃では計4隻の輸送船を撃沈し、計5万4000トンの被害を連合軍は被った。更に、同年9月15日には第三次ジブラルタル襲撃が実行され、1隻の輸送船が撃沈されている。しかし、英主力艦隊(戦艦「ネルソン」及び空母「フォーミダブル」「フューリアス」他で編制)を狙った12月17日の襲撃作戦はライオネル・クラブ(Lionel Crabb)司令率いるジブラルタル守備隊の哨戒によって発見され、司令官のヴィシンティーニ中尉も戦死してしまった。

なお、この頃には黒海や極北のラドガ湖に派遣されたイタリア海軍の派遣艦隊が多くの戦果を挙げ、ソ連輸送船団やソ連艦艇への襲撃を実行している。特に知られているのは8月3日のケルチ南東沖海戦で、1隻のMAS艇が至近距離による雷撃でソ連重巡モロトフ」を大破させ、航行不能に追い込むという大戦果を挙げている。

 

■8月12日:8月中旬の海戦

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1942年8月12日:8月中旬の海戦

6月中旬の一連の大海戦の敗北によって英軍は細々とした空輸によってマルタの補給を繋いでいた。陥落寸前にまで追い込まれていたマルタであったが、枢軸軍の意識が北アフリカ戦線に移っており、マルタ攻略が放棄されたために首の皮一つで繋がっている状態であった。そんな中で英海軍は再度マルタへの大規模補給作戦を計画に移した。作戦名は「ペデスタル」で、同船団の護衛艦隊はネヴィル・サイフレット提督(Neville Syfret)の指揮に置かれた。旗艦は戦艦「ロドニー」で、戦艦2隻(「ロドニー」「ネルソン」)、空母4隻(「イーグル」「ヴィクトリアス」「フューリアス」「インドミタブルル」)、軽巡7隻(「シリアス」「フィービ」「カリブディス」「カイロ」「ナイジェリア」「マンチェスター」「ケニア」)、駆逐艦34隻潜水艦8隻掃海艇4隻コルベット4隻駆潜艇7隻という大艦隊であった。護衛対象の輸送船は13隻である。この船団輸送が失敗すればマルタの陥落は必須だったため、英海軍は船団の戦力を強化した。

一方のイタリア海軍は、戦艦「リットリオ」は先の戦いでの損害で修復中であり(8月27日に修復完了)、新造艦である戦艦「ローマ」は訓練中であり戦闘準備が整っていなかった(8月21日に戦闘準備完了)。そのため、出撃可能な戦艦は「ヴィットリオ・ヴェネト」のみであったが、こちらも燃料不足のために他の小型艦の出撃が優先されて出撃が許可されなかった。また、英船団の出発は把握していたが、船団の規模まではわかっておらず、スーペルマリーナは巡洋艦駆逐艦、潜水艦などの中型・小型艦艇による船団妨害を進めることとし、イアキーノ提督率いる主力艦隊ではなく、アンジェロ・パローナ提督率いる巡洋艦隊を派遣した。これはメッシーナ港を出発した第三巡洋戦隊(パローナ提督指揮、重巡3隻・駆逐艦7隻)と、カリャリを出発した第七巡洋戦隊(ダ・ザーラ提督指揮、軽巡3隻・駆逐艦4隻)が合流して形成され、これにアントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)率いる潜水艦隊18隻が加わった。これによって、戦力は重巡3隻(「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トリエステ」)、軽巡3隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「モンテクッコリ」「アッテンドーロ」)、駆逐艦11隻潜水艦18隻となった。この他、MS艇やMAS艇、空軍部隊が加わった。ドイツ軍部隊も加わったが、イタリア・ドイツ間の確執によって共同作戦は行われず、各々が独自の行動を取ったため全く連携を取れなかったことは問題であった。

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イタリア重巡「ゴリツィア」

サイフレット提督率いる英海軍の大船団は8月10日にジブラルタルを出港し、マルタに向けて出発した。8月11日、バレアレス諸島の南方沖にて、英空母「イーグル」が潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。一方、駆逐艦ウルヴァリン」も反撃で潜水艦「ダガブール」を撃沈している。8月12日朝、サルデーニャから飛来した空軍部隊が船団を襲撃し、駆逐艦「フォアサイト」を撃沈、空母「インドミタブル」を大破させるなど、船団に損害を与えた。パローナ提督とダ・ザーラ提督はパンテッレリーア沖の海域に独自の判断で艦隊を出撃させたが、これはスーペルマリーナの命令とは別であり、スーペルマリーナが定める艦隊指揮官の裁量権を超えるものであった。夜間にはMS艇とMAS艇から構成されたイタリア魚雷艇部隊が英船団を襲撃し、軽巡マンチェスター」及び輸送船5隻(「ワイランギ」「グレノーチー」「アルメリア・ライクス」「サンタ・エリーザ」「ロチェスター・キャッスル」)を撃沈するという大戦果を挙げている。

潜水艦隊も船団襲撃で目覚ましい戦果を挙げた潜水艦「コバルト」が英駆逐艦「イシューリエル」の攻撃で撃沈されたが、潜水艦「アクスム」は雷撃で軽巡「カイロ」を撃沈させ、軽巡「ナイジェリア」が大破させた。大破して航行不能になった「ナイジェリア」は駆逐艦3隻の護衛によって牽引されてジブラルタルへ撤退した。更にタンカー「オハイオ」に致命的な攻撃を与え、後にこの時のダメージによって「オハイオ」は沈没した。潜水艦「ブロンツォ」は輸送船「クラン・ファーガソン」を撃沈潜水艦「アラジ」は軽巡ケニア」を大破させている。

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イタリア潜水艦「アクスム

英船団は一連の襲撃によって混乱状態に陥ったが、スーペルマリーナはパローナ提督に対して、英船団が遥かに戦力が勝っていることを指摘し、艦隊が活動範囲限度を超えたとして帰還を命じた。これを受けてパローナ提督率いるイタリア艦隊は帰還を決めたが、道中のメッシーナ海峡にて英潜水艦「アンブロークン」の雷撃を受けて重巡ボルツァーノ」及び軽巡「アッテンドーロ」が大破するという不幸な事態に陥った。ボルツァーノ」は沈没を防ぐためにパナレーア島の浜辺に座礁させ、「アッテンドーロ」は艦首を失う程の大損害を受けてしまったのである。巡洋艦隊は結局会敵前にスーペルマリーナの命令によって帰還する事態となったため、海戦によって戦果を挙げたのは潜水艦部隊とMS艇・MAS艇部隊、そして空軍部隊であった。

生き残った英船団はマルタに向けて航行を続けたが、翌日8月13日早朝にシチリアから飛来した空軍機の襲撃を受け、2隻の輸送船が撃沈された。結局、英艦隊はこの一連の海戦によって、空母「イーグル」、軽巡マンチェスター」「カイロ」、駆逐艦「フォアサイト」、輸送船9隻が撃沈され、空母「インドミタブル」、軽巡ケニア」「ナイジェリア」、駆逐艦3隻が大破する大損害を受けた。対して、イタリア海軍側の損害は潜水艦「コバルト」「ダガブール」が撃沈され、重巡ボルツァーノ」及び軽巡「アッテンドーロ」が大破する被害を受けた。この海戦後にムッソリーニは海戦においてイタリア艦隊と空軍が偉勲を立てたことを激賞し、「これまで海上支配を自惚れてきた英海軍を、僅か数カ月間に屈服させ、その威信を挫いたことにイタリア国民は大きな誇りを感ずるのである」と述べている。イタリア側にとって重要な戦術的な大勝利であったが、結局船団の完全な到達阻止は果たせず、その後船団は輸送船3隻をマルタに到着させ、マルタ島は息を吹き返すこととなったのであった。

6月中旬の海戦を終えた段階で陥落寸前にまで追い込まれていたマルタ島を放置し、エジプト侵攻に固執してしまったロンメルの判断と、それを支持したムッソリーニの決断は完全な誤りであったことが明らかとなった。カヴァッレーロ参謀総長、そしてリビア総督のバスティコ、ドイツ空軍のケッセルリンク兵站重視の観点からもマルタ島の攻略を主張し、実際に海軍を主戦力としてマルタ攻略が進められていたが、この誤りによって完全に頓挫し、8月中旬の海戦で英海軍が僅かな量と言えどもマルタに船団を到着させたことは、完全に地中海戦域の戦略失敗を意味すこととなったのである。

一方でイタリア艦隊は最早燃料が枯渇して出撃すら困難になっていき、陸軍もエル・アラメインの敗北によって北アフリカ戦線の崩壊を招くことになったのである。ロンメルの戦略ミスとムッソリーニの誤った決断によって招かれたマルタ攻略の失敗のツケは、地中海戦線の完全崩壊という形で代償を払うこととなったのである。だが、この海戦自体は明らかにイタリア側の戦術的勝利であることは認めなければならず、まだこの段階ではイタリア艦隊はリビアに船団を積極的に送ることが出来ていた(9月の段階でもイタリア船団の90%以上はリビアに無事到着しており、物資の補給も成功している)。先程も言及した通り、マルタ島の上陸作戦は実際に進められていた。当時のマルタ島の状況を見るに、仮にトゥール提督率いるF.N.S.による攻略作戦が実行されていれば、攻略出来た可能性は非常に高かったであろう(歴史にIFはないが)。

 

■9月13日:トブルク沖海戦

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1942年9月13日:トブルク沖海戦(ダフォディル作戦)

 先の8月中旬の海戦でマルタ島を何とか回復させた英軍であったが、全体として戦線において劣勢であるという事実は変わらなかった。そこで、英軍は軍全体の士気を回復するためにキレナイカの各イタリア軍陣地への夜間の同時的強襲作戦を計画した。これは4つの作戦で構成され、一つ目は「ダフォディル作戦」ことトブルク港強襲作戦二つ目は「スノードロップ作戦」ことベンガジ強襲作戦三つ目は「ヒヤシンス作戦」ことバルチェ強襲作戦四つ目は「チューリップ作戦」ことジャロ・オアシス強襲作戦で、これら4つを総称して「アグリーメント作戦」とした。すなわち、海上と陸上(砂漠)の双方からの同時攻撃によって進軍するイタリア・ドイツ軍の混乱を招く作戦だった。この大規模強襲作戦のそれぞれの詳細を説明すると、スノードロップ作戦」「ヒヤシンス作戦」「チューリップ作戦」は全て内陸の砂漠地帯を通って奇襲する陽動作戦であり、「ダフォディル作戦」のみが陸上及び海上からの同時奇襲攻撃であった。

対するキレナイカイタリア軍であったが、リビア陸上部隊リビア総督であるバスティコ元帥の指揮下にあり、リビアの港湾と艦隊はトブルク軍港に本部を移したリビア隊司令部の指揮下にあった(開戦時は本部はベンガジ軍港に置かれ、ベンガジ陥落後は一度トリポリに移り、エジプト侵攻後はトブルク軍港に本部が移された)。リビア艦隊の司令官は大戦前半にSIS(海軍諜報部)長官を務め、正確な情報収集と分析に務めたジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督であった。彼は1941年の中盤に軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」を旗艦とする第八巡洋戦隊の司令官に任命されて船団護衛に従事した後、北アフリカ戦線の戦局好転と共に1942年にリビア隊司令官に任命され、トブルク軍港に赴任していた。

リビア植民地の軍港設備は総じて未発達であり、更に連合国との攻防戦による損害もかなり多かった。それもあり、リビア艦隊の本部が置かれているトブルク軍港にも艦隊戦力は不足している状態であった。英軍のトブルク軍港襲撃時にトブルク軍港に展開していた艦隊は水雷艇3隻(「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」)、哨戒艇・揚陸艇7隻MAS艇複数という実に小規模な艦隊のみであった。そして、海軍の「サン・マルコ」海兵と、カラビニエーリやリビア人兵士を含む陸軍部隊、基地防空を担う空軍部隊が港湾の防衛に従事していた。この小規模な艦隊と守備隊をリビア隊司令官のロンバルディ提督が指揮することとなった

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イタリア水雷艇「カストーレ」

英軍側の作戦はジョン・エドワード・ハーセルデン中佐(John Edward Haselden)によって考案・計画され、英海軍地中海艦隊のヘンリー・ハーウッド提督(Henry Harwood)はこの特殊作戦を許可した。陸軍・海軍から成るA~Eの5つの戦隊に分けられ、これに空軍部隊が加わったA戦隊はハイファ港から出発した海軍部隊で、駆逐艦「シーク」及び「ズールー」で構成され、2隻の駆逐艦はイタリア海軍の駆逐艦迷彩を使ってイタリア艦に見せかけて偽装した。この2隻に約400名の海兵隊員が乗り込み、上陸作戦を担ったB戦隊は内陸のクフラ(自由フランス軍に制圧されたキレナイカ南部の拠点)から出発した陸軍部隊で、ドイツ軍部隊に偽装して港湾への侵入を試みた。C戦隊はアレクサンドリア港から出発した海軍部隊で、18隻のMTB魚雷艇で構成された。これに陸軍の機関銃部隊と対空砲部隊が乗り込み、A戦隊とは別の上陸作戦を担ったD戦隊はアレクサンドリア港から派遣された海軍部隊で、軽巡「コヴェントリー」を旗艦として、軽巡1隻・駆逐艦4隻で構成された。これは上陸艦隊の支援と戦隊の防衛を担っていた。更にE戦隊は潜水艦「タク」による上陸支援ビーコンの設置を担当した。

これらの作戦はトブルク軍港を攻略する本命の「ダフォディル作戦」で、先述した通り、これと同時攻撃として他に3つの陽動作戦が同時進行させた。後述するが、陽動はいずれも伊軍側の反応で失敗している。9月13日の夜20時30分、英空軍部隊がトブルク軍港を空襲した。この混乱の隙に20時45分、クフラから北上したB戦隊がドイツ軍部隊に偽装することで軍港内部に容易く潜入することに成功。B戦隊は野戦病院を襲撃してドイツ軍負傷兵を殺害した後、沿岸砲台の制圧を試みるためにイタリア軍守備隊と交戦状態に入った。B戦隊の不意打ちに対して伊軍守備隊は応戦し、手榴弾で撃退した。

9月14日午前0時、A戦隊とC戦隊の上陸部隊による攻撃をイタリア側は認識し、ロンバルディ提督はこれの迎撃と港湾の防衛を命令。E戦隊の潜水艦「タク」は海が荒れていたために上陸支援ビーコンの設置に失敗し、B戦隊とのコンタクトも取れなかった。B戦隊の失敗によってイタリア軍守備隊は強化され、イタリアの哨戒艇「Mz 733」がC戦隊を発見。0時30分、今度はイタリア哨戒艇「Mz 756」がC戦隊の分隊を発見し、2隻の哨戒艇は分散したC戦隊を追撃する。B戦隊はイタリア軍守備隊との交戦のためC戦隊との連絡が取れず、結果としてC戦隊の上陸の前にA戦隊の上陸を命令した。しかし、海岸での戦闘によって指揮官であるハーセルデン中佐はヘッドショットを受けて戦死。作戦は混乱を極めた。3時頃、展開する英海軍上陸部隊を発見したリビア艦隊の水雷艇「カシーノ」「カストーレ」「モンタナーリ」の3隻は上陸部隊を迎撃し、魚雷艇揚陸艦の数々を撃沈している。

英空軍の爆撃は3時40分に終了し、4時30分にA戦隊の駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は、潜水艦「タク」が設置する予定だった上陸支援ビーコンが無いため、計画とは異なるトブルク西側の海岸にて海兵隊部隊を上陸させてしまった。海軍の「サン・マルコ」海兵とカラビニエーリは上陸部隊を発見してこれを攻撃、揚陸艇が次々と撃沈される事態となった。結果として上陸出来たのは150人に過ぎず、それらも降伏を余儀なくされた駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は港からの探照灯に照らされて沿岸砲台の攻撃を受けた。また、イタリア軍守備隊は8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を「シーク」に向けて発射し、「シーク」の機関室に命中航行不能に陥った「シーク」は続けて砲弾を受けて大破した。

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駆逐艦「ズールー」

これを受けて駆逐艦「ズールー」は「シーク」援護のために煙幕を展開し、大破して航行不能となった「シーク」を牽引、「ズールー」は自らも被弾しながらも海域の離脱を試みた。上陸部隊は完全に混乱に陥り、イタリア軍部隊の奮戦を受けて多くは戦死、もしくは捕虜となった。夜明け頃には完全に英軍の上陸作戦は失敗し、上陸していない残存部隊は撤退を始めた。5時30分、ロンバルディ提督は水雷艇「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」に対して残存部隊の追撃を命令する。そして、イタリア空軍部隊も残存部隊の追撃に参加し(マッキ MC.200の戦闘爆撃機型が敵艦隊に多くの損害を与えた)、散り散りになった英海軍上陸艦隊は次々と撃沈されていった。結局、「ズールー」「シーク」、そして軽巡「コヴェントリー」は艦隊と空軍の追撃で撃沈され、アレクサンドリア港まで帰還できた部隊は僅かであった。

朝7時にはロンバルディ提督は本部に撃退の完了を連絡した。結局、英軍側の「ダフォディル作戦」は完全な失敗に終わることとなり、軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)、魚雷艇6隻、揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受けるという大敗北となった。上陸部隊に関しては戦死は779名、捕虜576名という被害であった。一方のイタリア軍側はロンバルディ提督による巧みな防衛指揮によってこれだけの大勝利を挙げておきながらも、損害を戦死16名(イタリア兵15名、ドイツ兵1名)、負傷50名(イタリア兵43名、ドイツ兵7名)に抑えることに成功したのである。自軍側は少ない損害で抑え、敵軍側に大損害を与えたロンバルディ提督の指揮は高く評価され、サヴォイア軍事勲章を叙勲された。ここまで一方的な勝利は、イタリア海軍の歴史の中でも珍しく、それも相手はかの強大な英軍であった。ロンバルディ提督の手腕とトブルク軍港守備隊の勇敢さは評価されるべきであろう。

さて、英軍部隊はトブルク軍港を夜間強襲する「ダフォディル作戦」の他に、キレナイカの各拠点を襲撃する陽動作戦を同時に行っていたが、結果として全て完全に失敗した。ベンガジへの強襲作戦である「スノードロップ作戦」は英軍部隊が悪路のために夜明けまでに到達出来ずに夜間奇襲に失敗、任務を中止して撤退したがイタリア空軍部隊に発見され、対地攻撃を受けて約半数の車輛が破壊、10名の兵士が戦死した。バルチェへの強襲作戦「ヒヤシンス作戦」及びジャロ・オアシス攻略を目的とした「チューリップ作戦」もイタリア軍側の反撃によって撤退し、一連の作戦は英軍の敗北に終わった。

英軍側による大規模な特殊作戦を完全に失敗に追い込んだイタリア軍であったが、一方で全体における戦況はじわじわと悪くなっていた。エル・アラメインを巡る戦いでは英軍の猛撃によってロンメルは進軍を中止せざるを得ず、更にマルタから飛来した英空軍の襲撃によって重要なタンカー船団が撃沈され、北アフリカ戦線の兵站に大きな影響を与えた。ここにきて、マルタ攻略を事実上放棄したことが仇となり、枢軸軍にとって補給路を断たれたことで戦局は急速に悪化していった。艦隊が燃料枯渇によって行動が制限される一方で、陸軍の戦局悪化に伴い、英海軍は地中海における制海権を急速に回復させていった。それに伴い、リビア船団は損失率が徐々に多くなり、北アフリカの戦況は日に日に悪化していったのである。今更マルタ攻略放棄を後悔した枢軸軍であったが、艦隊を出撃出来ないために有効な対策を取れず、結局マルタへの空爆を強化する以外になすすべはなかったのである。

 

■9月15日:第三次ジブラルタル襲撃

先述した通り、9月15日には第三次ジブラルタル襲撃が実行され、工作艦「オルテッラ」から発進したSLC人間魚雷部隊が1隻の輸送船を撃沈している。

 

■11月11日:コルシカ島制圧戦

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1942年11月11日:コルシカ島制圧戦

10月後半から11月初旬に掛けて第二次エル・アラメインの戦いが行われた。この大激戦でイタリア軍部隊は物資困窮の中で奮戦してみせたが、英軍は大きな損害を被った一方でイタリア・ドイツ軍の防衛線を突破した。エル・アラメインの大敗は北アフリカ戦線に決定的な崩壊を齎した。こうして、エル・アラメインは英軍によって奪還され、11月5日に英軍は撤退する枢軸軍の追撃を開始し、まもなくフーカが陥落、7日にはマルサ・マトルーフも英軍によって奪還させる事態となり、枢軸軍はエジプトから追いやられていった

エジプトでの撤退が続いている最中、アフリカ北西部においても急速に戦局が展開した。11月8日にアメリカ軍・英軍を中心とする連合軍部隊がヴィシー・フランス領北アフリカへの上陸作戦「トーチ」を発動し、ヴィシー・フランス海軍の戦艦「ジャン・バール」などが抵抗するが、勢いに勝る連合軍によって圧倒されていた。これを察知したムッソリーニは速やかにヴィシー・フランス支配下である南フランスとコルシカ島の制圧作戦を決定した。一方で10日には仏領北アフリカの司令官であるフランソワ・ダルラン海軍元帥(François Darlan)が連合国側と停戦を結んだ。これを受け、イタリア軍はドイツ軍と共にチュニジアへ遠征軍を派遣することとなり、これはリノ・コルソ・フージェ空軍参謀長(Rino Corso Fougier)率いる空挺部隊が担当した。空軍部隊は上陸部隊の妨害のために新鋭四発爆撃機のピアッジオP.108B爆撃機を含む部隊を送り込んだが、物量に勝る連合軍部隊を止めることは出来なかった。

南フランスへの進軍はマリオ・ヴェルチェッリーノ将軍(Mario Vercellino)率いる陸軍が担当した。これに伴い、ヴィシー・フランス領はイタリア軍とドイツ軍に分割統治された。なお、この際にドイツ軍はフランス艦隊の拿捕を狙ったが、その殆どがトゥーロンでドイツ軍に拿捕される前に自沈を選択した(トゥーロン港の自沈)。自沈を免れたフランス艦をイタリア海軍は接収しており、駆逐艦5隻と潜水艦8隻などを入手している。一方で、ヴィシー・フランスの支配下となっていたコルシカ島の制圧戦は、中止となったマルタ攻略を任されていたヴィットーリオ・トゥール提督率いるF.N.S.がその攻略を担うこととなった11月11日にトゥール提督率いるF.N.S.及び陸軍上陸部隊はコルシカ島の4つの重要な港湾(バスティアアジャクシオ、ボニファシオ、ポルトヴェッキオ)を同時攻撃し、これを制圧、上陸に成功して同島を制圧した。ヴィシー・フランスのコルシカ島守備隊は13日にまでに完全降伏している。

結果として、イタリア軍コルシカ島を占領下に置いた。しかし、既に北アフリカ戦線は崩壊状態に陥っており、11月9日にはシディ・バッラーニ、11月11日にはハルファヤが奪還され、枢軸軍はエジプトから完全撤退していた。そしてフランス領北アフリカチュニジアを除き連合軍の手に落ちていた。スーペルマリーナはこの事態を受けて攻撃から守るためにリットリオ級戦艦3隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」)をターラント軍港からナポリ軍港に移動した。制海権も制空権も一気に失ってしまったイタリア艦隊は、最早細々とした船団を北アフリカに送ることしか出来なくなってしまったのである。

 

■12月2日:スケルキ海峡海戦

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1942年12月2日:スケルキ海峡海戦

戦局は日に日に悪化していき、イタリア軍は英軍によるリビア逆侵攻を受けていた制海権と制空権を完全に奪われた状態でもイタリア海軍は北アフリカへの輸送船団を派遣し続けた。大型艦の運用が事実上不可能となったイタリア海軍は駆逐艦水雷艇といった小型艦艇による船団護衛を展開していたが、アルド・コッキア大佐(Aldo Cocchia)はそういった船団護衛の指揮官の一人で、英空軍の激しい攻撃や潜水艦隊の襲撃を回避し、数々の船団を北アフリカに送り届けることに成功していた。陸軍部隊はそういった海軍の船団輸送に支えられて劣勢の中で戦っていたが、そういった成功は常に続くものではなかった。

アルド・コッキア大佐はナヴィガトーリ級駆逐艦「ニコローゾ・ダ・レッコ」を旗艦とする第十六駆逐戦隊の司令官であった。第十六駆逐戦隊は制海権が失われた中央地中海において幾度も船団護衛を行い、イタリアやギリシャ方面から多くの物資を北アフリカに送り届けた12月1の夜間にコッキア大佐率いる第十六駆逐戦隊は4隻の輸送船を護衛し、チュニジアに向けて出発した。この護衛船団は駆逐艦「ダ・レッコ」を旗艦とし、駆逐艦3隻(「ダ・レッコ」「フォルゴレ」「カミーチャ・ネーラ」)、水雷艇2隻(「プロチョーネ」「クリオ」)の計5隻で構成されていた。航空偵察によってイタリア側はアルジェリア・アンナバ港を出発した英海軍部隊を発見した。この英海軍部隊は軽巡「オーロラ」を旗艦とし、軽巡3隻(「オーロラ」「シリウス」「アルゴノート」)と駆逐艦2隻(「キベロン」「クエンティン」)で構成されていた。この英海軍部隊はコッキア大佐率いるイタリア船団の妨害に出発した。

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イタリア駆逐艦「ダ・レッコ」

両艦隊はシチリアチュニジア間に位置する「スケルキ・バンク」と呼ばれる海域で衝突した。ここは古代から多くの船が難破する難所として知られており、イタリア空軍基地が近いために連合軍艦船は度々この場所で爆撃を受けて多数が撃沈されていたために「連合軍船団の墓場」としても知られていた。しかし、この時は既に制海権を奪われ、燃料も不足するイタリア空軍部隊は効果的に出動することは出来なかった。翌日の12月2日の深夜0時37分に英艦隊は第十六駆逐戦隊を発見し、攻撃を開始。海戦は開始した

コッキア大佐は船団の防衛のために迫りくる英艦隊への反撃を命令。しかし、大きな戦力差がある上に、不利な夜間戦闘が強いられていた。イタリア海軍では既に国産の「グーフォ」レーダーの量産が行われており、「リットリオ」級戦艦やカピターニ・ロマーニ級軽巡などいくつかの艦船に搭載されていたが、第十六駆逐戦隊に所属する艦艇にはレーダーは搭載されていなかった。一方で、当然の如く英艦隊はレーダーを完備しており、海戦開始時点で既に絶望的な状況となっていた。旗艦「ダ・レッコ」他第十六駆逐戦隊所属の全艦艇は英艦隊に向けて魚雷を一斉に発射した。しかし、イタリア艦隊の位置を完全に把握していた英艦隊はこれを全て回避することに成功している。「ダ・レッコ」は勇敢にも英艦隊に接近し視界不良の中で攻撃を行うが、逆に集中砲火を受けて中破、コッキア大佐も重度の火傷を負い、一時的に失明する事態となった。英艦隊の砲撃によって駆逐艦「フォルゴレ」は撃沈、「カミーチャ・ネーラ」も中破。海戦は英海軍側の一方的な勝利で終了している。英軍側の被害は空軍の追撃で駆逐艦「クエンティン」が撃沈されたのみであった。こうして、1942年最後の地中海における水上艦隊同士の衝突は、イタリア側の敗北に終わった。

 

■12月11日:アルジェ港襲撃

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1942年12月11日:アルジェ港襲撃

連合軍の北西アフリカ進出に伴い、イタリア潜水艦隊は西部地中海における襲撃を強化。多くの戦果を挙げていた一方で、急速に対潜能力を向上させた連合軍側の攻撃で多くの損害を受けることとなった。これによってイタリア大西洋艦隊の潜水艦作戦も限界が見え始めていたが、中には喜望峰を超えてインド洋にまで進出して通商破壊を実行する潜水艦も存在していた。一方で、「デチマ・マス」は昨年のアレクサンドリア港の襲撃以降も地中海において数々の破壊作戦を実行していた。先述した第二次・第三次ジブラルタル襲撃の他に、8月10日にはブルーノ・ゼリク(Bruno Zelik)少佐が艦長を務める潜水艦「シィレー」がハイファ港の襲撃を行ったが、英海軍側に捕捉されて撃沈されていた(「シィレー」の残骸は戦後に回収され、現在はローマのヴィットリアーノ内の博物館に展示されている)。8月29日にはエジプトのエル・ダバ沖にて「デチマ・マス」所属の高速魚雷艇MTSM艇が英駆逐艦「エリッジ」を雷撃で撃沈している。

「デチマ・マス」は仏領北アフリカ制圧後、チュニジア制圧のために集結した連合軍艦隊への打撃を目論んだ作戦はマリオ・アリッロ(Mario Arillo)大尉が艦長を務める潜水艦「アンブラ」によって実行された。アリッロ大尉は「アンブラ」艦長として地中海で数々の戦果を挙げたエースで、1941年3月31日にはエジプト沖にて英軽巡「ボナヴェンチャー」を撃沈することに成功し、1942年5月14日にはアレクサンドリア港を攻撃して英海軍の乾ドッグを撃沈した。これらの戦果を挙げていたアリッロ大尉に対して、ボルゲーゼ司令は次なる攻撃を命令した。次なる攻撃目標は連合軍に制圧され、数多くの連合軍艦船・輸送船がひしめくアルジェ港であった。

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イタリア潜水艦「アンブラ」

12月4日、アリッロ大尉率いる潜水艦「アンブラ」はラ・スペツィアを出発した。攻撃部隊はSLC人間魚雷「マイアーレ」3隻を駆る計6名の乗員と、計10名のガンマ潜水部隊の混成チームであった。しかし、作戦に向かった「アンブラ」は悪天候により作戦決行を1日送らせて行わざるを得なくなった。偶然にもアレクサンドリア港襲撃時と同じ状況である。12月10日夕方に港外で偵察を行った後、翌日12月11日17時頃に哨戒網を突破して「アンブラ」はアルジェ港内に潜入した。21時45分、目標となる大型輸送船数隻を確認し、22時20分にまずガンマ潜水部隊が、23時から3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が「アンブラ」から出発した。

潜入した混成チームは輸送船4隻に時限爆弾を設置。その後、警戒態勢によって潜水部隊を発見したアメリカ海軍の哨戒艇によって全員が捕虜となったが、12月12日朝5時に爆弾が炸裂し、輸送船「オーシャン・ヴァンクィッシャー」(7174t)、輸送船「ベルト」(1493t)、輸送船「エンパイア・ケンタウル」(7041t)、輸送船「ハルマッタン」(4558t)の計4隻が撃沈されたのであった。港が攻撃によって厳重警戒になった後もアリッロ大尉の「アンブラ」は混成チームのランデブーポイントに待機していたが、結局全員捕虜となって母艦に帰還することが出来なかったため、19時45分に港を脱出してラ・スペツィアに無事帰還したのであった。

アルジェ港攻撃はアレクサンドリア港、ジブラルタル港、スダ湾、そして1943年のトルコ港湾における一連の破壊作戦と並ぶ、「デチマ・マス」による大成功の一つであった。アルジェ港の襲撃は連合軍側に大打撃を与えたが、物量に勝る連合軍側の勢いを止めることは最早出来なかった。このアルジェ港攻撃は1942年最後の、イタリア海軍による大規模作戦となったのであったのである。

 

1942年の海戦は前半はマルタを巡る一連の海戦でイタリア海軍水上艦隊にとっての大勝利を得たが、後半からは燃料枯渇による艦隊の行動制限、そして北アフリカ戦線の悪化によって急速に戦局が展開し、最終的に制海権を完全に奪われる形となってしまった。イタリア海軍の戦いはよく1942年までで終了するケースが多いが、1943年以降も小艦隊が中心となり絶望的な戦況下で勇敢な戦いを続けたのである。次回は、そういった絶望の中の戦いを紹介しよう。

次回(休戦までの1943年の海戦)はこちら↓

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1941年の海戦:エーゲ海の激戦、そして"勝利の年"―

前回の続きで、今回は1941年の地中海の海戦を扱う。前年末に海軍首脳部が大改造され、リッカルディ提督率いる新指導部のもとで新たな戦いが始まった(前年度の戦いは下記リンクより過去記事を参照してください)。1941年はイタリア海軍の戦いを象徴するような戦いも多く、調べていても中々面白いだろう。一進一退の戦いを繰り広げていた伊英海軍であったが、1941年末には英海軍側は地中海戦線のイニシヤチブをイタリア海軍に奪われ、まさに英海軍にとっては悲劇の年になった。

1941年の海戦はざっくり言うと、前半は陸軍のギリシャ戦線に伴い、エーゲ海で激戦が繰り広げられ後半は北アフリカ戦線の熱が高まるにつれて「船団の戦い」が本格化し、戦場が中央地中海に移る。1941年の著名な戦いと言えば、何と言ってもマタパン岬の大敗と、アレクサンドリア港攻撃の成功だろう。前者はイタリア海軍の「欠点」を集めたような戦い、後者はイタリア海軍の真骨頂ともいえる戦いだ。勿論それだけでなく、イタリア海軍が勝利を収めた戦いも多い。

前回の記事はこちら↓

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 前々回の記事はこちら↓

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 ◆1941年:舞台はエーゲ海

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1940年の地中海の主要な海戦。前半は主にエーゲ海方面、後半は中央地中海が戦場となった。

前年度末の1940年12月8日に海軍指導部の大改造によって、海軍参謀長はアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督、海軍参謀次長には前第一艦隊司令官のイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督、そして第一艦隊と第二艦隊を合併した主力艦隊司令官にはアンジェロ・イアキーノ(Angelo Iachino)提督が就任した。

新参謀長であるリッカルディ提督は隊司令官の裁量権を増やし、臨機応変な戦い方を可能にした一方で、「艦隊の損失を防ぐために明確に数的有利な状況でなければ敵艦隊との交戦を回避するように」という命令を発した。一方で、今まで順調だった陸軍の戦況も、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍による無策なギリシャ攻勢の失敗と、アフリカ戦線における英軍の反攻作戦によって崩れつつあった。イタリア軍部は北アフリカ戦線よりもギリシャ戦線を重視したため、海軍の行動もそれに影響を受けた。これにより、戦場はエーゲ海方面へと移った

 

■1月31日:カソス海峡海戦

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1941年1月31日:カソス海峡海戦

1940年6月のイタリア参戦時、ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるイタリア海軍エーゲ海方面艦隊の戦力は、非常に限られたものであった。駆逐艦2隻(「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」)、水雷艇4隻(「ルーポ」「リブラ」「リンチェ」「リブラ」)、MAS艇5隻、潜水艦8隻(「スクァーロ」「デルフィーノ」「トリケーコ」「ナルヴァーロ」「アメジスタ」「ザッフィーロ」「イアレア」「イアンティーナ」)、機雷敷設艦2隻(「レニャーノ」「レーロ」)、砲艦3隻(「チェレーレ」「カボト」「ソンツィーニ」)で構成されていた。

明らかな戦力不足であったが、エーゲ海艦隊は東地中海を勢力圏とする英海軍やギリシャにとって脅威となっていた。ギリシャ海軍は中小国の中では強い海軍力を持っていたが、イタリア艦隊を恐れて潜水艦を除いて殆ど出撃しなかった(結果として航空攻撃で撃沈される艦艇が多くを占めていた)。そのため、エーゲ海艦隊の主要敵はギリシャ海軍ではなく、ギリシャを支援する英海軍となった。英軍によるギリシャ支援船団は、ギリシャ侵攻中のイタリア軍にとって邪魔以外の何物でもなかったのである。年明けに戦場が東地中海に移動することによって、エーゲ海艦隊の行動も活発化した。

ビアンケーリ提督は水雷艇「ルーポ」及び「リブラ」をカソス海峡に派遣し、対潜水艦哨戒を行わせていた。この2隻の旧式水雷艇戦隊の司令官はフランチェスコ・ミンベッリ(Francesco Mimbelli)少佐で、彼は後に第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官の中でも特に優れた人物の一人として名を挙げている。彼の最初の活躍が、この「カソス海峡海戦」であった。一方、英海軍はギリシャ支援船団「AN14」をギリシャに向けて派遣した。これは計10隻の輸送船で構成され、この輸送船団を軽巡カルカッタ」を旗艦とし、軽巡3隻(「カルカッタ」「エイジャックス」「パース」)、駆逐艦2隻コルベット2隻から成る艦隊で護衛していた。この英船団はハーバート・アネスリー・パッカー提督(Herbert Annesley Packer)が指揮した。

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イタリア水雷艇「ルーポ」

輸送船団の大部分は1月28日からエジプトのポートサイードから出港し、軽巡カルカッタ」及びコルベット「ピオニー」、輸送船2隻は1月29日アレクサンドリアから出港、そこから少し遅れてギリシャ派遣英軍部隊の兵員輸送船と駆逐艦「ヘイスティ」がアレクサンドリア港から出港、これに合流した。一方、ミンベッリ少佐が指揮するイタリア水雷戦隊は1月31日レーロ基地を出発し、カソス海峡に向かった。

同日夕方、カソス海峡にてイタリア水雷戦隊は英船団を発見した。ミンベッリ少佐は「ルーポ」と「リブラ」を二手に分け、「リブラ」が英船団の注意をひいている隙に、「ルーポ」が船団への雷撃を行うこととした。これは見事に成功し、「ルーポ」は雷撃を行い、魚雷二発が輸送船団のタンカー「デスモーレア」に命中「デスモーレア」は爆沈した。一方で、「リブラ」も英巡洋艦隊に対して雷撃を行ったが、これは回避されてしまった。攻撃の後、「ルーポ」と「リブラ」は英艦隊の追撃を振り切り離脱。無傷でレーロ基地への帰港を成功させたのであった。

この海戦においてイタリア側はミンベッリ少佐の巧みな指揮により、旧式の水雷艇2隻のみで、物量も戦力も格上の巡洋艦隊が護送する船団の攻撃に成功し、一方的な勝利を無傷で手に入れたのである。エーゲ海方面の海軍作戦の幸先の良いスタートとなった。

 

■2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

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2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

カソス海峡海戦後、今度はイタリア潜水艦隊がエーゲ海で輸送船団を攻撃し、戦果を挙げていた。また、空軍の輸送船団攻撃も強化され、特にカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)を始めとする雷撃機乗りや、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)やフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Marvezzi)といった急降下爆撃機乗りが数多くの戦果を挙げていった。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)率いる爆撃機部隊もローディ島を拠点としてキプロスパレスチナといった東地中海の英軍拠点への爆撃を度々敢行し(特にハイファの石油精製所への爆撃は脅威であった)、更にはペルシャ湾油田への長距離戦略爆撃さえも実行してみせていた。

1月11日にはマルヴェッツィとその僚機であるジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)とマッツェイ曹長(Sergente Maggiore Mazzei)が英軽巡サウサンプトン」を250kg爆弾を急降下爆撃で次々と命中させ、撃沈させたのであった。チェンニも新たに編み出した新戦術「スキップ爆撃(反跳爆撃)」を用いてギリシャ艦艇を次々と撃沈することに成功し、これを受けたギリシャ海軍側は「雷撃を受けた」と勘違いした程であった。ブスカーリアも軽巡「ケント」、軽巡グラスゴー」、そして空母「イラストリアス」といった英海軍の主要な艦艇を次々と雷撃することに成功し、大きな損害を与えた。これらのイタリア空軍部隊に加え、支援空軍として派遣されたドイツ空軍部隊も大きな役割を果たした。

一方、英海軍は陸軍によるコンパス作戦の成功を受けて、脅威となっていたエーゲ海方面のイタリア軍の無力化を望んだ。ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は小規模であるが脅威であることは変わらず、それに加えて空軍部隊は英軍にとって大きな脅威だったことが理由である。そのための橋頭保としてエーゲ海諸島東端のカステルロッソ島の制圧を計画した。チャーチルは同盟国たるギリシャ、そして中立国であるトルコとの間に摩擦を引き起こすと考えた(特にトルコ沿岸から僅か3kmの距離だったため)ため作戦には乗り気ではなかったが、カンニンガム提督の強い要請により作戦は実行されることとなった。カンニンガム提督は同地域のイタリア軍部隊の戦力を過小評価し、カステルロッソ島はローディ島から約130kmの距離にあるため、イタリア側は有効な対応が出来ないと予測していた。

2月24日、英海軍は計200名のコマンド部隊駆逐艦「デコイ」及び「ヘレワード」に乗艦させ、また24名の海兵隊を砲艦「レディバード」に乗艦させ出発した。その後、増援部隊として軽巡「パース」及び「ボナヴェンチャー」の護衛のもとで、武装商船「ロザウラ」に約150名の兵士を派遣した。潜水艦「パーシアン」は哨戒により、カステルロッソ島の守備隊が僅かな戦力であることを確認し、2月25日の夜明け前に英海軍はカステルロッソ島への強襲上陸を行った。約40名程度のイタリア軍守備隊は雑多な兵器しか持たずに有効な抵抗が出来なかったが、降伏前に近隣の島やローディ島の本部に英軍の襲撃を連絡していた。こうして、カステルロッソ島は英軍に制圧された。英軍による制圧戦により、イタリア軍側は戦死6名、負傷7名、捕虜35名を出した

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イタリア駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」

カステルロッソ島からの連絡を受けたビアンケーリ提督は迅速に同島への奪還を命じた。まず、空軍への派遣要請を行った。ローディ島のイタリア空軍部隊は直ちにカステルロッソ島の英軍部隊への攻撃作戦のため、FIAT CR.42戦闘機の護衛のもと、サヴォイアマルケッティSM.81爆撃機を派遣。英軍の上陸から数時間も経たないうちに、空軍部隊はカステルロッソ島の英軍部隊を強襲し、爆撃によって砲艦「レディバード」が損傷、数名の船員が負傷した。燃料が不足していた「レディバード」は海兵隊員24名を再度乗船させ、ハイファに撤退した。

翌日の2月26日の日没後、ビアンケーリ提督は反撃を開始した。派遣された水雷艇「ルーポ」及び「リンチェ」は英軍部隊に対して攻撃を実行。これにより、コマンド兵3名が戦死、7名が負傷した。一方で、港に集まった民間人らをイタリア海軍は救出し、これを避難させることに成功した。続いて、2月27日の夜明けにビアンケーリ提督はカステルロッソ島への上陸作戦を実行する。水雷艇「ルーポ」「リンチェ」に加え、ビアンケーリ提督は増援として駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」MAS艇「MAS 546」及び「MAS 561」を派遣し、同時に258名の陸軍兵士と80名のサン・マルコ海兵がカステルロッソ島に上陸を開始。英艦隊はイタリア軍の上陸を阻止しようとするが失敗し、英軍部隊は伊軍陸戦部隊の攻撃と、空軍による爆撃、伊艦隊からの砲撃に圧倒され、疲弊していった。アレクサンドリア港から増援部隊を載せた駆逐艦「ヒーロー」及び「ジャガー」が派遣されるも、最早戦線を維持することは出来ないと判断され、英軍はカステルロッソ島からの撤退を決定した。

英艦隊は上陸部隊の回収を行ったが、伊軍の攻撃によって回収が間に合わず、20名が取り残されて伊軍の捕虜となった。撤退中に英駆逐艦ジャガー」は駆逐艦「クリスピ」の砲撃を受け損傷、更に「クリスピ」は雷撃を行ったが、「ジャガー」は回避することに成功。一方で「ジャガー」も反撃を行ったが命中しなかった。辛うじて英艦隊は撤退し、英軍によるカステルロッソ島制圧作戦は完全な失敗に終わったのであった。

英海軍側はイタリア軍の戦力を過小評価していたことを改めなくてはならなくなり、エーゲ海方面のイタリア軍の反応の速さに驚いた。結局、英軍はエーゲ海諸島部におけるイタリア軍の防御の堅牢さを認識し、その後イタリアの休戦に至るまでエーゲ海諸島への上陸作戦は実行しなかった。一方で、この大勝利を演出したビアンケーリ提督は賞賛され、三度目の戦功銀勲章、サヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。

 

■3月25日:スダ湾襲撃

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3月25日:スダ湾襲撃

クレタ島のスダ湾は天然の良港であり、ギリシャ軍の基地が置かれていた。ギリシャ参戦後、英海軍はスダ湾を基地として活用しており、 先のカステルロッソ島の奪還作戦によって英海軍側の出鼻を挫くことに成功したエーゲ海隊司令官のビアンケーリ提督は、スダ湾を攻撃して英海軍に打撃を与え、エーゲ海方面の制海権確保を望んだ。

こうして、スダ湾への襲撃作戦が計画された。航空偵察によってスダ湾には多くの海軍艦艇が確認されたため、実行が開始された。この作戦には海軍特殊部隊の「デチマ・マス」が投入された。これはイタリア海軍が「小型艇による特殊攻撃」のために創設した部隊で、SLC人間魚雷「マイアーレ」やMTM爆装艇「バルキーノ」といった特殊装備による敵泊地攻撃を主任務とした。イタリア側がこれに拘った理由は先の大戦において、MAS艇がオーストリア戦艦「スツェント・イストファン」の撃沈や墺軍港への一方的名奇襲攻撃を成功させたり、試作型人間魚雷が戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させることに成功していたからであった。

この作戦で使われた機材はMTM爆装艇「バルキーノ」である。これはスポレート侯アイモーネ提督の肝煎りで開発された対艦攻撃用の自爆艇で、最大時速30ノット以上、航続距離130km以上のスペックを持った。自爆艇というと、自らの命を犠牲に敵艦に突っ込む、日本軍の「震洋」をイメージするかもしれない。しかし、このバルキーノ」は脱出装置が付いているため、特殊部隊員が死亡することはない(敵に攻撃されてしまったら意味がないが)。つまり、敵艦に突撃する直前に脱出し、爆発の衝撃波をやり過ごて離脱する、という戦術を取った。そのため、かなり危険な任務であり、訓練も苛酷なものであった。とはいえ、この兵器でイタリア海軍は戦果を挙げ、戦後もイスラエル海軍が中東戦争で活用してエジプト海軍の旗艦を撃沈することに成功している。

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重巡「ヨーク」

3月25日の深夜駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」及び「クィンティーノ・セッラ」それぞれ3隻ずつMTM艇を搭載し、レーロ基地を出発。MTM艇の乗員はそれぞれ1人ずつであるため、「デチマ・マス」の操縦手が6人参加した。これらのMTM艇戦隊を「デチマ・マス」のルイージ・ファッジョーニ中尉(Luigi Faggioni)が指揮した。深夜23時半にスダ湾の湾外にて「クリスピ」及び「セッラ」からMTM艇6隻が発信し、スダ湾の湾内に高速で侵入した。湾内には三重の防御網が敷かれていたが、MTM艇戦隊はこれを突破し、港内に突入。6隻のMTM艇は停泊中の英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」を攻撃し、これを撃沈することに成功したのである。

6人の操縦手たちは英軍の攻撃や爆撃に巻き込まれることなく無事で、英海軍部隊の捕虜となった。英海軍側はこの攻撃を受けた時、空襲を受けたと勘違いして上空に対空砲火を行っている。当然であるが、上空にイタリア機はいなかった。MTM艇によって撃沈された重巡「ヨーク」は昨年のパッセロ岬沖海戦でイタリア駆逐艦「アルティリエーレ」を撃沈していたため、この攻撃は「アルティリエーレ」の仇討ちとなった。

このスダ湾攻撃は「デチマ・マス」にとって初の成功となった。そして、第二次世界大戦時のイタリア海軍による、初の敵泊地攻撃にもなった。MTM艇の操縦手6名は全員が金勲章を叙勲され、英海軍側のエーゲ海制海権にも大きな打撃を与えることに成功したのであった。しかし、このイタリア海軍による大勝利は英海軍側も強く受け止め、港湾襲撃に備えて各地の港湾の警戒態勢を強化することとなり、イタリア軍にとっては今後の港湾襲撃は一層難しいものとなってしまった。

 

■3月28日:マタパン岬沖海戦

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3月28日:マタパン岬沖海戦

年明けからの3カ月間、イタリア海軍はエーゲ海における戦いで英海軍相手に連戦連勝を重ねたが、英海軍側は2月に以前のフランス海軍同様にジェノヴァを砲撃しこれに対抗した。エーゲ海方面においてはイタリア海軍が勝利を重ねて戦局を有利に進めていた一方で、依然として英海軍による脅威は去っていなかった。2月にリッカルディ海軍参謀長はドイツ海軍のレーダー提督と初会談し、ドイツ海軍は英艦隊のギリシャへの航行に打撃を与えるため、主力艦隊の出動を提案していた。

3月19日、ドイツ海軍は再度イタリア側に主力艦隊の出動要請を出した。ドイツ海軍はイタリア海軍エーゲ海艦隊の連続の勝利によって、東部地中海方面において英海軍部隊は劣勢であると判断し、ここで主力艦隊を出撃して英艦隊を撃破することで、ギリシャ船団輸送を完全に停止させることが出来ると主張した。これを受け、スーペルマリーナはドイツ側の要請を受諾し、エーゲ海方面への主力艦隊の派遣を決定したのであった。主力艦隊の派遣には乗り気ではなかったスーペルマリーナであるが、イアキーノ提督もマタパン岬の海戦は「海軍史上に輝かしい1ページを飾るもの」として期待していたのであった。しかし、それは悪い意味で裏切られることとなった。

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イタリア重巡「ザラ」

3月25日戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を旗艦とするイアキーノ艦隊はナポリから出発した。これは戦艦1隻(「ヴィットリオ・ヴェネト」)、軽巡2隻(「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦10隻で構成された。これにターラントから出発したカルロ・カッターネオ提督(Carlo Cattaneo)率いる第一巡洋戦隊、メッシーナから出発したルイージ・サンソネッティ提督(Luigi Sansonetti)提督率いる第三巡洋戦隊が合流した。第一巡洋戦隊は重巡3隻(「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」)、第三巡洋戦隊は重巡3隻(「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」)と駆逐艦3隻でそれぞれ構成されていた。合流した艦隊はギリシャの作戦海域に向かっていた

他方、英国海軍のカンニンガム提督は通信傍受によってイタリア艦隊の派遣を知った。このため、ギリシャへの輸送船団の航行を中止、イタリア艦隊との戦闘のために戦艦「ウォースパイト」を旗艦とするA戦隊をアレクサンドリア港から出発させた。この艦隊は戦艦3隻(「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)、空母1隻(「フォーミダブル」)、駆逐艦9隻で構成されていた。また、ウィッペル提督率いるB戦隊がピレウスから出港し、こちらは軽巡「オライオン」を旗艦とし、軽巡4隻(「オライオン」「エイジャックス」「グロスター」「パース」)、駆逐艦4隻で構成された。更に駆逐艦3隻から成るD戦隊もこれに合流し、ギリシャ南方海域のガウード島沖にて合流する計画を立てていた。

ドイツ側の情報提供により、英艦隊の主力艦は戦艦「ヴァリアント」1隻のみで、空母は不在であるとされていた。しかし、この事前情報は誤りで、実際の英艦隊の戦力は戦艦3隻、空母1隻と一大戦力となっていた。この誤りは戦局に大きな影響を与えることとなった3月28日未明、「ヴィットリオ・ヴェネト」はウィッペル提督率いるB戦隊を発見した。これを受け、イアキーノ提督はサンソネッティ提督率いる第三巡洋戦隊にB戦隊の追撃を命令した。これを受け、ウィッペル提督はカンニンガム提督率いるA戦隊にイアキーノの主力艦隊を引き付けるため、攻撃を逃れる作戦に出た。距離が遠すぎたためにイタリア艦隊はB戦隊に有効な攻撃を与えることが出来ず「ヴィットリオ・ヴェネト」の砲撃で軽巡「オライオン」が小破したのみであった。

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英空母「フォーミダブル」

砲撃戦の最中、9時38分にA戦隊の空母「フォーミダブル」はフェアリーアルバコア雷撃機6機を発進させた。一度目の攻撃はイタリア艦隊の対空砲火によって雷撃機は撃退された。しかし、雷撃機からの襲撃を受けイタリア艦隊はB戦隊への追撃を一旦中止した。その後、15時9分に二度目の攻撃が行われ、1機の雷撃機が対空砲火で撃墜される直前に魚雷を発射し、見事「ヴィットリオ・ヴェネト」に命中。プリエーゼ式水雷防御の効果もあり、雷撃のダメージが軽減されて自力航行は可能ではあったが、左舷後部が大きな損害を受け、速力を落とさざるを得なくなった。「ヴィットリオ・ヴェネト」の損害を聞いたカンニンガム提督は、イタリア艦隊の追撃を決定した。

夜間19時半頃、イタリア艦隊は三度目の攻撃を受けた。6機のアルバコア雷撃機と4機のソードフィッシュ雷撃機が来襲し、重巡「ポーラ」に雷撃が命中した。これにより、「ポーラ」は立ち往生したため、イアキーノ提督はカッターネオ提督に「ポーラ」の救援に向かうように命令した。カッターネオ提督率いる第一巡洋戦隊の重巡「ザラ」「フィウーメ」、駆逐艦4隻は「ポーラ」の救援に向かったが、これは悲劇の始まりだった。イタリア海軍最大の悪夢、マタパン岬沖の夜戦である。

夜20時15分、軽巡「オライオン」はレーダーで「ポーラ」の存在を確認した。戦艦「ヴァリアント」は「ポーラ」の救援に向かう残りの第一巡洋戦隊をレーダーによって捕捉したが、一方のイタリア第一巡洋戦隊はレーダーを搭載していなかったため、闇の中で敵を発見することは出来なかった。「ザラ」は夜22時20分にカンニンガム提督率いる英艦隊主力を発見したが、カッターネオ提督はこれをイタリア艦隊だと勘違いしてしまった。そんな中で、英艦隊の探照灯は第一巡洋戦隊を照らし出し、戦艦「ウォースパイト」「バーラム」「ヴァリアント」の3隻を含む艦隊は十字砲火を浴びせ、「ザラ」と「フィウーメ」は成すすべもなく撃沈されたのである。「フィウーメ」は砲撃で撃沈され、「ザラ」は最終的に駆逐艦ジャーヴィス」の雷撃で沈んだ駆逐艦「アルフィエーリ」「カルドゥッチ」も撃沈され、最後に「ポーラ」が雷撃で撃沈された。残る2隻の駆逐艦「ジョベルティ」及び「オリアーニ」は何とか戦線を離脱したが、この一連の夜戦によって重巡3隻・駆逐艦2隻が混乱の中の奇襲で一気に撃沈され、乗員数4000人の内3000人が戦死(司令官であるカッターネオ提督も戦死)するという、悲惨極まる大敗北を経験することとなったのであった。

この大敗北を受けて、ギリシャが完全に陥落するまでの間、エーゲ海艦隊や潜水艦隊を除いてイタリア艦隊は東地中海に進出することを中止した。マタパン岬沖の敗北は、イタリア艦隊の「欠点」を煮詰めたようなものであった。まず、イタリア艦隊はレーダーを持っていなかったことにより、夜間の戦闘において圧倒的に不利となった。イタリア艦隊はパッセロ岬沖海戦で既にそれを経験していたが、この時はまだ「英海軍はレーダーを持っているのではないか?」という予測に過ぎず、今回の夜間奇襲によって完全にそれは確信に繋がった。リッカルディ提督はレーダー開発計画を再開させたが、結局量産化されるのは1942年にまでずれ込むこととなった。同時に夜間戦闘に関するノウハウも圧倒的にイタリア艦隊は不足していた点も指摘された。

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イタリア空母「アクィラ」

また、例によって例の如く、今までの海戦同様にイタリア側は航空偵察と航空支援、艦隊の防空戦力が不足していた。すなわち、空軍との連携不足である。また、これに伴い、空軍の陸上基地だけでは艦隊の行動を支援することは不可能であると判断され、ムッソリーニも「イタリア半島不沈空母論」を放棄せざるを得なくなった。結果として、海軍は空軍の反対で実現出来ていなかった空母建造をようやく開始することが出来たが、こうして建造が開始された2隻の空母(「アクィラ」と「スパルヴィエロ」)は休戦までには完成しなかった

ただ、海戦におけるプリエーゼ式水雷防御の効果は今回の海戦で効果的であると証明された。「ヴィットリオ・ヴェネト」は雷撃の直撃ダメージを軽減して、艦体には大きな損傷があったが、自力航行でターラント軍港に到着することが出来た。3月29日にイアキーノ艦隊はターラントに帰港し、「ヴィットリオ・ヴェネト」は7月まで修復工事を受けることとなった。マタパン岬の大敗は良くも悪くも、イタリア側にとって多くの教訓を齎すこととなったのである。ムッソリーニはこの敗北を受けて、当面の主力艦隊の行動制限を行った。このため、地中海において英船団の妨害を担当するのは、従来通りに潜水艦と空軍が中心となったのである。

 

■4月16日:タリゴ船団の海戦

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4月16日:タリゴ船団の海戦

エーゲ海方面で激戦が続く中、中央地中海方面でもイタリア船団によるリビア輸送と、英艦隊による妨害が行われ、熾烈な戦いを繰り広げていた。イタリア船団の護衛は基本として駆逐艦水雷艇によって行われ、英国側は大量生産した潜水艦を地中海に送り込み、リビア輸送を阻止すべく船団を襲撃した。駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」艦長のジョヴァンニ・ガラーティ大佐を始めとする優秀な戦隊指揮官の奮戦により、イタリア艦隊は効果的に英国潜水艦との戦いを繰り広げていた。しかし、英軍側の通信傍受によって英潜水艦は次々とイタリア船団を効果的に襲撃していた。スーペルマリーナの指令に基本的に絶対服従を命じられていたイタリア戦隊にとって、通信傍受による待ち伏せ攻撃はかなり痛手となっていたのである。一方で、英船団に対してもイタリア側は激しく攻撃を行った。潜水艦隊はジブラルタル-マルタ間の仏領北アフリカ沿岸航路(西地中海)と、マルタ-スエズ間のエジプト沿岸航路(東地中海)で待ち伏せ攻撃を度々行っていた。それに加え、空軍機による攻撃も高い戦果を挙げていた。

イタリア軍北アフリカ戦線の戦力強化のために、度々輸送船団を派遣していた。伊英海軍の主戦場は東地中海であったため、この間におけるリビア船団輸送は効果的な防衛もあってイタリア側の成功が続いていた4月13日の夕方ピエトロ・デ・クリストファロ(Pietro de Cristofaro)中佐を司令官とし、駆逐艦3隻(「ルカ・タリゴ」(旗艦)、「バレノ」「ランポ」)で構成された駆逐戦隊は5隻の輸送船を護衛し、ナポリからトリポリに向けて出発した。当時の地中海は悪天候で、イタリア船団の出航は予定より遅れることとなった。一方で、英海軍側は無線傍受によってイタリア船団の出発を確認し、更に航空偵察によって敵の正確な位置を把握した。英海軍はマタパン岬の大勝利を機に、イタリア艦隊の行動が制限されたことから、水上艦隊によるリビア船団の積極的な妨害を計画した。これにより、マタパン岬の海戦で武勲を挙げたフィリップ・マック大佐(Philip Mack)率いる駆逐艦隊を迎撃に派遣した。ジャーヴィス」を旗艦とし、「ジェーナス」「ヌビアン」「モホーク」の駆逐艦4隻で構成されていた。

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イタリア駆逐艦「ルカ・タリゴ」

悪天候は船団の航行に大きな影響を及ぼし、目的地への到達が遅れた。スーペルマリーナも通信傍受によって英海軍側がタリゴ船団の迎撃に出発したことを知ったが、空軍への支援要請をしたものの、空軍は悪天候であるため支援は出来なかった。他方、レーダーと航空偵察によってタリゴ船団の位置を完全に把握していた英海軍はチュニジアのケルケナ諸島沖を航行中のタリゴ船団を的確に襲撃していたのである。これにより、4月16日午前2時20分に英艦隊は船団を襲撃、交戦が開始された。英海軍が得意とする夜間戦闘であった。

英海軍の奇襲は成功し、一方的に攻撃を進めていったが、旗艦「ルカ・タリゴ」は大破しながらも、沈没の寸前まで攻撃を続け雷撃で英駆逐艦「モホーク」を撃沈。一矢を報いたのであった。しかし、結局「ルカ・タリゴ」「バレノ」は撃沈され、「ランポ」は沈没を防ぐために座礁(後に回収・修復されて戦線復帰)。船団輸送は失敗し、デ・クリストファロ中佐も戦死した。海戦自体はイタリアの敗北であったが、海戦後、イタリア軍潜水部隊は撃沈した駆逐艦「モホーク」から重要文書を回収し、英海軍の重要な情報がイタリア側に漏れることとなった

 

■4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

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4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

 イタリア海軍は開戦後、地中海諸島部の制圧のために水陸両用部隊を設立した。これは「海軍特殊戦力(Forza Navale Speciale, F.N.S.)」と呼ばれ、ギリシャ侵攻を目前とした1940年10月に新設されている。アルバニア隊司令官であったヴィットーリオ・トゥール(Vittorio Tur)提督が司令官に任命され、軽巡「バーリ」を司令旗艦とし、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇11隻、仮装巡洋艦4隻、揚陸艦3隻、MAS艇4隻で構成され、上陸部隊は海軍陸戦部隊であった「サン・マルコ」海兵であった。これらの他に、他艦隊の駆逐戦隊が支援した。

コルフ島を始めとするイオニア諸島攻略は、ギリシャ侵攻と同時の10月28日に開始されたが、当時は悪天候であったため10月29日にトゥール提督は作戦を中止した。結局その後ギリシャ戦線の戦況は悪化してしまったため、戦線の安定まで上陸作戦は中止となっていた。春になってギリシャにおけるイタリア軍の戦局が有利になってくると、トゥール提督はイオニア諸島への上陸作戦再開を決定し、作戦中止から6カ月後に当たる4月29日にようやく作戦が実行されるに至ったのである。

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イタリア巡洋艦「バーリ」

アルバニアのドゥラス港を出港したF.N.S.はトゥール提督の指揮のもと、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇7隻、揚陸艦3隻で構成されていた。これに上陸部隊である「サン・マルコ」海兵部隊が乗っていた。4月29日には順調にコルフ島に上陸し、同島の拠点を次々と制圧。ギリシャ軍守備隊は混乱の中で抵抗したが、有効な反撃を出来ずに成すすべもなく降伏した。トゥール提督はコルフ島での成功を機に、チェファロニア島、ザンテ島などイオニア諸島を次々と制圧していき、更には重要な拠点であるコリントス運河も攻略した。これらの制圧作戦は5月9日までには完全に終了し、イタリア軍は完全に勝利した。

他方、エーゲ海方面でもビアンケーリ提督率いるイタリア軍部隊がキクラデス諸島などのギリシャ島嶼部への上陸作戦を行い、ギリシャ島嶼部はクレタ島を除いて次々と制圧されていった。これらのイタリア海軍に制圧されたギリシャ領の島々はイタリア領に組み込まれ、事実上の「植民地」の一部となったのであった。これらの成功を受け、イタリア海軍はトゥール提督による水陸両用作戦を高く評価し、次に行われるであろうマルタ島の上陸作戦の司令官として彼を任命したのであった。

なお、ギリシャ攻略と同時に4月にはユーゴスラヴィア侵攻も行われた。この際、イタリア海軍はアドリア海ユーゴスラヴィア艦隊との間に小規模な交戦が発生しているが、ユーゴスラヴィアは早期に陥落したためにアドリア海での戦いが大規模になることはなかった。アドリア海は開戦時から休戦までジェノヴァ侯フェルディナンド・ディ・サヴォイア提督(Duca di Genova, Ferdinando di Savoia)によって指揮されていたが、彼の巧みな指揮によって連合軍のアドリア海侵入を許さず、休戦までアドリア海制海権はイタリア側が握り続けている。

 

■5月21日:ルーポ船団の海戦

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5月21日:ルーポ船団の海戦

マタパン岬の大敗によってイタリア艦隊の東地中海進出は中止されたため、ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は依然として小規模戦力で戦いを続けなくてはならなかった。春になると、ドイツ軍の介入とイタリア軍の攻勢によってギリシャは敗れ、更にイタリア海軍による島嶼部の制圧も行われてギリシャ本土と周辺の島嶼部は陥落した。ギリシャ首相であるイオアニス・メタクサス将軍(Ιωάννης Μεταξάς)は病死し、後を継いだアレクサンドロス・コリジス首相(Αλέξανδρος Κοριζής)も枢軸軍のアテネ市街戦時に拳銃で自殺を遂げた。職務を継いだエマヌエル・ツデロス首相(Εμμανουήλ Τσουδερός)の政府は陥落寸前のアテネから国王ゲオルギオス2世(Γεώργιος Βʹ)と共にクレタ島に脱出した。ドイツ軍はギリシャへの介入でイニシアチブを握っていたため、クレタ島の攻略はイタリア軍ではなく、ドイツ軍によって行われることとなったイタリア軍部はクレタ島攻略戦への参加を望んだが、ドイツ軍のヘルマン・ゲーリング元帥は自らのイニシアチブを取られることを嫌い、これを拒否した。

しかし、ドイツ軍にとってもクレタ島攻略においてはエーゲ海に展開するイタリア海軍の支援は必須であった。だが、マタパン岬の大敗によって大損害を受けていたスーペルマリーナはイタリア主力艦隊のエーゲ海派遣を拒否したため、ビアンケーリ提督は小規模戦力のみでドイツ軍のクレタ攻略戦を援護しなくてはならなくなった。ドイツ軍は空挺降下によって順調にクレタ島攻略を開始した。空挺降下作戦の後、海上からのドイツ軍部隊上陸を開始するため、エーゲ海艦隊は水雷艇部隊によるドイツ上陸船団輸送を担当することになったのである。

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軽巡ダイドー

5月21日、ドイツの輸送船・揚陸艦25隻を護衛し、水雷艇「ルーポ」は単独で出発した。指揮官はカソス海峡海戦やカステルロッソ島奪還作戦で活躍した「ルーポ」艦長のフランチェスコ・ミンベッリ中佐であった。一方で、英海軍は枢軸軍のクレタ島侵攻に対してこれに対応するべくアーヴァイン・グレンニー提督(Irvine Glennie)率いるD戦隊を派遣した。これは軽巡ダイドー」を旗艦とし、軽巡3隻(「ダイドー」「オライオン」「エイジャックス」)と駆逐艦4隻で構成されていた。

5月21日23時頃、「ルーポ」船団とD戦隊は遭遇した。これも英海軍が得意とする夜戦であった。それに加え、英海軍側が軽巡3隻・駆逐艦4隻という大戦力で、イタリア海軍側は旧式水雷艇1隻であることに加え、護衛対象である25隻の輸送船が存在した。英海軍側は圧倒的有利な状況で、一方的に勝利するかと思われたが、「ルーポ」は予想以上の奮戦を見せた。「ルーポ」は果敢に圧倒的な敵を相手に戦い、大きな損害を受けながらも戦いを続けて輸送船団の損害を10隻に抑え込み、更に軽巡「オライオン」に損害を与えて一矢を報いた。英艦隊の撃退に成功した「ルーポ」は、輸送船15隻と共に何とか帰還したのである。

結果として、英海軍は輸送船団の打撃に成功したが、旧式水雷艇1隻を相手に苦戦し、船団全てを撃沈出来たような状況にも拘わらず、それに失敗した。ミンベッリ艦長の巧みな指揮は高く評価され、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■5月27日-28日:シティア港制圧戦

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5月27日-28日:シティア港制圧戦

ドイツ軍はイタリア軍クレタ攻略戦への参加を許可していなかったが、5月26日にドイツ軍の進軍が停滞したため、ようやくイタリア軍への支援要請を出した。イタリア軍はこれを受諾し、さっそくビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊はクレタ島への上陸作戦を開始した。カステルロッソ島奪還作戦での成功もあり、イタリア海軍のクレタ島上陸は高い戦果を挙げられると期待出来た。

上陸艦隊は駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」を旗艦とし、水雷艇「リラ」「リンチェ」「リブラ」の3隻MAS艇2隻、揚陸艦・輸送船14隻の編制クレタ島東部への侵攻を開始した。グレンニー提督はこの船団攻撃を実行したが、失敗。 損害軽微でイタリア軍部隊はクレタ島東部の主要港シティア港を難なく制圧し、また「クリスピ」はクレタ島東端のシデロス灯台を砲撃で破壊し、連合軍の航行に打撃を与えた。上陸部隊は陸軍のエットレ・カッファーロ(Ettore Caffaro)将軍によって指揮され、計2500名の兵士で構成された。順調に上陸したイタリア軍部隊はクレタ島東部を制圧し、ドイツ軍部隊と合流して作戦を遂行した。

6月1日、遂にクレタ島は陥落し、枢軸軍部隊は全域の占領に成功したのであった。クレタ島攻略後、西部はドイツ軍、東部はイタリア軍の占領地域として分割されたのである。クレタ島の攻略完了によって、完全にギリシャ戦線は終了し、東地中海における英海軍の制海権も安定を失った。一方で、ギリシャ戦線の終結によって、イタリア海軍も、英海軍も、主要な戦場をマルタ船団とリビア船団が交わる中央地中海に移動することとなり、エーゲ海での激闘が中心であった1941年の前半期はこれにて終了することとなったのであった。

 

■7月25日:マルタ・ヴァレッタ港襲撃

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MTM爆装艇「バルキーノ」

ギリシャ戦線が終わり、地中海もひと段落ついたその頃、6月22日には突如ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻を開始(バルバロッサ作戦)ムッソリーニは毎度毎度の事前通告無しのヒトラーの行動に怒り心頭であったが、同盟国としてバルバロッサ作戦発動の知らせを聞いた直後に対ソ宣戦布告を行った。イタリアはその後、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍を司令官とする「ロシア派遣軍」をドイツ軍支援のために派遣し、更にリッカルディ提督は黒海及び極北のラドガ湖への支援艦隊派を決定した(ラドガ湖はフィンランド-ソ連国境の巨大な湖で、この地のフィンランド海軍戦力は旧式の魚雷艇1隻であったため、MAS艇戦隊の派遣が決定された)。これに伴い、イタリア海軍の活動範囲も東部方面に大きく広がることとなった

だが、イタリア海軍の主戦場は依然として地中海であることには変わりはなかった。この頃海軍においてもギリシャ戦線の終結に伴って人事異動が行われ、エーゲ海総督のバスティコ将軍がリビア総督として北アフリカ戦線を指揮することとなったため、海軍参謀次長カンピオーニ提督が後任のエーゲ海総督として派遣された。カンピオーニ提督の後任の参謀次長には第三巡洋戦隊司令官ルイージ・サンソネッティ(Luigi Sansonetti)提督が就任。彼のもとでリビア補給船団の総指揮が行われている。

クレタ島の陥落後、英海軍はマルタ島に戦力を補給した。偵察によって英艦隊がマルタ島ヴァレッタ港に集結していることを知ったイタリア海軍は、エーゲ海作戦のスダ湾襲撃で大きな戦果を挙げた「デチマ・マス」によるヴァレッタ港攻撃を計画した。

このマルタへの直接攻撃作戦は7月25日の深夜に実行された。しかし、これは完全なる失敗に終わったイタリア軍は攻撃によってヴァレッタ港にて火柱が高く上がっていたことから作戦は大成功に終わったと認識したが、「デチマ・マス」の突入部隊は英軍に発見されて機銃掃射を受けて全滅した。英軍側の損害はハリケーン戦闘機数機の撃墜と港湾設備の破壊程度であり、艦隊に損害はなかったのである。「デチマ・マス」のヴィットーリオ・モッカガッタ(Vittorio Moccagatta)司令や、SLC人間魚雷「マイアーレ」の開発者であるテゼオ・テゼイ(Teseo Tesei)中佐も戦死し、「デチマ・マス」は主要メンバーも戦死する手堅い敗北を経験することとなった。彼らは戦死後にイタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

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9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

ヴァレッタ港攻撃の失敗によって大打撃を受けた「デチマ・マス」であったが、新たに司令官に就任したユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ(Junio Valerio Borghese)少佐のもとで新たなる作戦を実行した。それは地中海と大西洋を繋ぐ要衝、ジブラルタルへの初の襲撃作戦であった。既にイタリア空軍によるジブラルタル爆撃作戦は度々実行されていたが、海軍による襲撃作戦は初となった(イタリア潜水艦によるジブラルタル周辺海域での通商破壊作戦は度々行われていたが)。

9月10日、ラ・スペツィアを出港した潜水艦「シィレー」は3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」を搭載した。SLC人間魚雷「マイアーレ」はヴァレッタ港攻撃で戦死したテゼオ・テゼイ中佐が設計・開発した新型兵器で、元々は第一次世界大戦時にポーラ軍港に侵入し、敵戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させた試作人間魚雷「ミニャッタ」を前進とした。魚雷に操縦桿をくっつけたような「ミニャッタ」に対して、「マイアーレ」は操縦性が向上した水中バイクのような見た目をしていた。勿論、「人間魚雷」と言えども、日本海軍の「回天」のような自殺兵器ではなく、所謂工作用の特殊潜航艇であった。潜水部隊(ウォーモ・ラーナ)を敵港湾内部に潜入させ、敵艦の船底に爆弾を仕掛け、離脱する、という攻撃手段であった。

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イタリア潜水艦「シィレー」

9月19日、情報収集によってジブラルタル港にネルソン級戦艦が発見されたために、ボルゲーゼ中佐は「シィレー」から計6人が駆るSLC人間魚雷「マイアーレ」3隻を出発させた。潜入部隊(ガンマ潜水部隊)のリーダーはリーチオ・ヴィシンティーニ隊長(Licio Visintini)が務めた。ヴィシンティーニ隊長は東アフリカ戦線の空軍トップエースであるマリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)の弟である。無事港湾に潜入したガンマ潜水部隊はネルソン級戦艦への攻撃は失敗したが、輸送船「ダーラム」及びタンカー「デンビデール」「フィオナ・シェル」の計3隻を一気に撃沈することに成功したのであった。この大戦果を受けてボルゲーゼ少佐は中佐に昇進し、ガンマ潜水部隊の6人は全員が戦功銀勲章を叙勲されたのであった。なお、攻撃後にフロッグマン6名はジブラルタル港を脱出することに成功し、無事帰還している。

イタリア海軍によるジブラルタル攻撃はこれが始まりとなり、その後も何度も行われることとなり、英海軍は大打撃を受けた。英海軍も対策として港湾防衛のために哨戒を強化するが、有力な対策をあまり取れずに休戦までに度々伊海軍部隊の侵入を許した。

 

■11月9日:デュースブルク船団の海戦

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11月9日:デュースブルク船団の海戦

ギリシャ戦線の終結後、新たにリビア総督に赴任したエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍は、ドイツから派遣された「ドイツアフリカ軍団」のエルヴィン・ロンメル将軍と共に、北アフリカの戦況を有利に進めていた。そんな中で重要視されたのはリビアへの補給船団である。バスティコ将軍は間近に備えた進軍のために大規模なリビア輸送船団を海軍に要請し、イタリア海軍は7隻の輸送船を派遣した。護衛にはブルーノ・ブリヴォネージ提督(Bruno Brivonesi)率いる艦隊が担当し、重巡2隻(「トリエステ」(旗艦)、「トレント」)、駆逐艦10隻で構成されていた。

ブルーノ・ブリヴォネージ提督は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊司令官ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)提督の兄であり、前リビア隊司令官であった。弟ブルートはプンタ・スティーロ海戦やテウラダ岬沖海戦で活躍し、その後も「チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊を率いて「ドゥイリオ」「ドーリア」と共に中央地中海における船団護衛を成功させていた。一方の兄ブルーノは大戦序盤にリビア隊司令官として水上艦隊によるアレクサンドリア港攻撃作戦を実行したが、自らの母艦「モンテ・ガルガーノ」を撃沈され、大失敗を経験していた。

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イタリア重巡トリエステ

イタリア艦隊は11月7日にナポリを出港した。既にこの段階で英海軍側は暗号解読によってこの情報を掴み、2隻の軽巡(「オーロラ」「ペネロペ」)と2隻の駆逐艦から為る艦隊を差し向けてこの船団を攻撃することとした。英艦隊による船団攻撃は、イタリア艦隊が苦手とする夜間に実行された。8日深夜から翌日早朝に掛けて行われ、レーダーを持っていないイタリア艦隊は奇襲を許し、大損害を被った。イタリア艦隊は駆逐艦「フルミネ」が撃沈されたが、英海軍側の損害は僅か駆逐艦1隻が小破したのみであった。ブルーノ率いる遠距離護衛部隊はこの攻撃を艦隊ではなく航空機による攻撃だと誤認したため、上手く対応できず、敗北を喫することとなったのである。
この船団輸送の失敗は北アフリカ戦線に重要な影響を及ぼし、戦局は再び英軍有利になっていった。ブルーノは軍法会議にまでかけられたが、イアキーノ提督の助け舟によって無罪で済んでいる。しかし、「デュースブルクの敗北」以降、ムッソリーニとブルーノの対立は酷いことになり、ブルーノは反ファシズムに傾倒することとなる。その後、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の副参謀長に任命されてリッカルディ提督を補佐しており、弟ブルート(スーペルマリーナ所属の対潜総監として勤務)と同じ職場で勤務した。そして、ラ・マッダレーナに本部を置くサルデーニャ隊司令部の指揮官に新たに就任し、西部地中海方面の艦隊運営を指揮している。ブルーノは以前より海軍航空の先駆者として名を知られていたものの、艦隊指揮能力があったかと言われると、かなり微妙なところである。なお、海戦で大勝利を挙げた英海軍であったが、5日後には空母「アーク・ロイヤル」、月末の25日には戦艦「バーラム」が潜水艦の攻撃で撃沈され、地中海における英海軍の制海権に動揺が生じた。

 

■12月13日:ボン岬沖夜戦

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12月13日:ボン岬沖夜戦

1941年12月7日、日本海軍は真珠湾攻撃を実行し、遂に日本が第二次世界大戦に枢軸国側で参戦した。一方で、連合軍の最大戦力であるアメリカが参戦し、既に日本と交戦状態であった中国も連合国側で参戦した。東アフリカ戦線の崩壊に伴い、神戸に来航していた旧イタリア紅海艦隊は日本の参戦によって自由な行動が許可され、日本海軍との共同作戦に従事するようになった。また、天津を母港とするイタリア極東艦隊もそれと共に行動を開始した。つまりは、イタリア海軍がアジア・太平洋戦線でも活動を開始したのである(既にインド洋では作戦を行っていたが)。ムッソリーニはドイツのソ連攻撃とは対照的に、日本の参戦を熱狂的に喜んでいたが、軍部としてはアメリカの参戦によってもう短期決戦の道は経たれてしまったと認識された。後に、イタリア海軍は潜水艦隊による日本向けの輸送作戦を行い、またイタリア空軍も敵地上空を通過してローマ-東京連絡便を実行している(大戦中の枢軸国では唯一の欧州-極東飛行)。

一方で、地中海においては依然として中央地中海を巡る戦いが繰り広げられていた。イタリア海軍はデュースブルクの大敗を受けて、今度は主力艦による船団護衛が行われ、11月29日には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする戦艦1隻(「ドゥイリオ」)、軽巡1隻(「ガリバルディ」)、駆逐艦6隻が護衛する船団が無事北アフリカに到着した(指揮官はカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督)。しかし、北アフリカにおける燃料不足は追い付かず、海軍はこの急務に対応するため、北アフリカ戦線を支えるためにも高速航行が可能な艦艇による燃料輸送を提案。これに伴い、高速の巡洋艦による緊急燃料輸送作戦が実行された。第一陣として、12月2日に軽巡ルイージ・カドルナ」によって実行されたリビア燃料輸送は無事に成功し、トリポリに到着した。これの成功を受け、スーペルマリーナは第四巡洋戦隊アントニーノ・トスカーノ(Antonino Toscano)提督軽巡2隻による追加高速輸送を命令した。

トスカーノ提督率いる高速輸送戦隊は軽巡「バルビアーノ」と「ジュッサーノ」の2隻で構成されていた。2隻は12月5日の朝8時15分にターラント軍港を出発し、17時50分にブリンディジ港に到着。そこで物資を詰め込んだ。その後、12月8日にパレルモに到着し、航空機用の燃料を詰め込んだ。この輸送作戦は当然、かなり危険なものであった。燃料を搭載しているということは、航空攻撃を軽く受けただけでも大炎上になりかねない。更に、イタリアの巡洋艦は高速性能を発揮するために、例の如く装甲が薄かった。12月9日の17時20分に2隻はパレルモを出港して、トリポリに向けて出発した。しかし、2隻に護衛艦も航空支援も存在しなかった

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イタリア軽巡「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」

同日22時にパンテッレリーア島沖を航行中の2隻は英軍偵察機によって発見された。その後、シチリア海峡の中心にて荒れた海の中で英空軍部隊の空爆に遭遇。2隻は何とかこの空爆をやり過ごし、燃料も無傷であったが英軍側の追撃を恐れてトスカーノ提督は反転し、パレルモに戻ることを決めた。こうして、12月10日の8時20分に2隻はパレルモに到着したが、作戦の放棄に対してスーペルマリーナはトスカーノ提督を激しく叱責し、再出撃を命じた。これを受け、12月12日18時10分、2隻は再度パレルモから出港し、護衛の水雷艇「チーニョ」を加えて、トリポリに向けて出発した

イタリアの高速輸送艦隊に対して、英海軍はグラハム・ストークス中佐(Graham Stokes)率いる駆逐戦隊を差し向けた。この駆逐戦隊は英海軍の駆逐艦3隻(「シーク」「リージョン」「マオリ」)と、オランダ海軍の駆逐艦「イサーク・スウェールズ」で構成された。航空偵察によってトスカーノ艦隊の位置を把握した英艦隊はチュニジア・ボン岬沖にて待ち伏せることとした。北アフリカでは燃料不足に陥っていたため、伊艦隊の航空支援を北アフリカの空軍部隊が行うことは出来ず軽巡2隻は航空支援無しで戦闘海域に突入した(そもそもその航空機用の燃料を2隻の巡洋艦は運んでいたため)。

12月13日午前2時45分、トスカーノ艦隊は英軍偵察機を発見した。この偵察機はストークス中佐にトスカーノ艦隊の位置を知らせたが、偵察機に発見されたためにトスカーノ艦隊は反転し、全速力での海域突破を試みた。しかし、レーダー装備と航空偵察によって暗闇の中でトスカーノ艦隊を捕捉した英艦隊はトスカーノ艦隊を追撃奇襲は完全に成功し、「バルビアーノ」「ジュッサーノ」は成すすべもなく撃沈され、トスカーノ提督は戦死した。「チーニョ」のみが海戦を無傷で生き残り、生存者の救出に当たったが、2隻の轟沈によって800人以上が戦死している。

結局、この戦いにおいてもレーダー未装備での夜戦は不可能であることが明らかとなった。そして、中央地中海における輸送作戦を安定化させるためには、マルタ島の攻略が不可欠であると認識され、海軍によるマルタ島制圧作戦が進められることとなったのである。また、巡洋艦隊による高速輸送は困難であると判断され、結局主力艦隊による船団護衛が有効だと認識された

 

■12月17日:第一次シルテ湾海戦

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12月17日:第一次シルテ湾海戦

ボン岬沖夜戦による高速輸送失敗により、北アフリカ戦線には物資が届かず、兵站不足に陥った。そのため、連合軍側の攻勢を許すこととなり、再び北アフリカ戦線では連合国側が有利な戦況となっていた。これを受け、スーペルマリーナは主力艦隊による大規模船団輸送作戦を実行に移すこととした。マタパン岬の大敗によってムッソリーニは主力艦隊の出動を制限していたが、これを機に主力艦隊は活動を再度活発化させた。

船団輸送にはマタパン岬の傷を癒した戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」が参加予定であったが、12月13日シチリアアウグスタ港沖にて英潜水艦の雷撃を受けて損傷したため、修復のために参加しなかった。なお、この時も「ヴィットリオ・ヴェネト」はプリエーゼ式水雷防御の効果を発揮し、雷撃のダメージを軽減することが出来ている。12月16日イアキーノ提督率いる大船団はターラント軍港を出発した。この大船団は戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦4隻(「リットリオ」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)、重巡2隻(「トレント」「ゴリツィア」)、軽巡3隻(「ドゥーカ・ダオスタ」「アッテンドーロ」「モンテクッコリ」)、駆逐艦水雷艇20隻輸送船4隻という大規模な艦隊であった。後にも先にも、イタリア側が戦艦4隻を一挙に参加させた海戦はこれが唯一であり、「ヴィットリオ・ヴェネト」を除く当時就役中であった全戦艦が参加している(「カヴール」はターラント空襲で全損扱いである)。なお、ここまで強力な護衛をつけた理由は、航空偵察によって英艦隊に戦艦が確認されたためであったが、実際はこれは戦艦ではなく大型の輸送船「ブレコンシャー」であった(つまり、英海軍の護衛対象)。

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イタリア戦艦「アンドレア・ドーリア

一方、英海軍もマルタへの輸送船団を派遣した。フィリップ・ヴァイアン(Philip Vian)提督が指揮する護衛艦隊は軽巡「ナイアド」を旗艦とし、軽巡6隻(「ナイアド」「カーライル」「ネプチューン」「オーロラ」「ペネロペ」「ユーライアラス」)、駆逐艦6隻で、先程の大型輸送船「ブレコンシャー」を護衛した。12月15日にアレクサンドリア港を出発し、マルタに向かった。すなわち、伊英双方共に、それぞれの船団護衛中に敵艦隊と遭遇し、交戦する事態になったのである。

イタリア空軍の偵察機はエジプトのシディ・バッラーニ沖を航行する英艦隊を発見し、艦隊の位置を把握した。イアキーノ提督は船団を護衛するためにもこれを迎撃することを決定した。こうして、12月17日17時42分、リビアのシルテ湾にて両艦隊は衝突することとなった。シルテ湾はリビア東部(キレナイカ)のベンガジから、リビア西部(トリポリタニア)のミズラータに至る巨大な湾で、現在は石油基地が置かれることで知られている主要港シルテ(スルト)が湾の由来であり、湾の南西に位置している。海戦が発生した場所は正確にはシルテ湾の外部沖合であるが、第二次世界大戦においてはイタリアのリビア船団と英国のマルタ船団が丁度衝突するエリアとして知られた。英艦隊のヴァイアン提督は、イタリア艦隊側が圧倒的に戦力が勝っていることを認識し、交戦を避けるための行動を取った一方のイアキーノ提督も、夜が近づいていたために夜戦を避けるべく、英艦隊を短時間で撃退して船団護衛を優先する方針を決定した。イアキーノ提督には夜戦におけるマタパン岬の大敗の記憶がまだ新しく、レーダーを持たないイタリア艦隊は夜戦において圧倒的に不利だったことを知っていたのである。また、敵艦隊に戦艦が存在する(と誤認していた)ことも、イアキーノ提督の戦術を消極的にさせた(スーペルマリーナは圧倒的有利な状況以外の戦闘は避けるように命令したため)。

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イタリア戦艦「リットリオ」

英艦隊はイタリア艦隊を発見したのち、速やかに煙幕を張って海域の離脱を図った。しかし、イタリア艦隊は英艦隊への攻撃を開始、駆逐艦キプリング」は重巡「ゴリツィア」の砲撃を受け、無線アンテナが破壊されて通信が不可能となった。その後、戦艦「アンドレア・ドーリア」及び「ジュリオ・チェーザレ」の主砲斉射によって甲板に被弾、上部構造に損傷を受けたが煙幕に紛れて戦線の離脱に成功した。また、駆逐艦「ニザム」も駆逐艦「マエストラーレ」による近距離からの砲撃を受け損傷を受けた戦艦「リットリオ」は30数kmからの超遠距離砲撃を英艦隊に浴びせ、護衛対象である輸送船「ブレコンシャー」を含む英船団は砲弾の破片による損害を受けたものの、巧みな防衛戦術によって総じて軽微な被害で済んでいる。

煙幕に紛れて海域の離脱を試みた英艦隊であったが、そこで機雷原に遭遇するという悲劇が起こった。その結果、軽巡ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が爆沈し、軽巡「オーロラ」及び「ペネロペ」も大きな被害を受けたのである。結果として、この海戦で英艦隊は軽巡1隻・駆逐艦1隻が撃沈し、軽巡2隻・駆逐艦2隻が大きな損害を受けた。しかし、護衛対象の輸送船「ブレコンシャー」は戦艦「リットリオ」の超遠距離砲撃によって多少損傷を受けた程度で済み、無事マルタに到着することが出来た。一方のイタリア艦隊側は一切の損害を負わずに無傷で海戦を終了し、船団護衛を継続してトリポリベンガジの港に到着することが出来ている海戦自体はイタリア側の完全な勝利であったが、船団護衛という目的は伊英双方が達成することが出来た。なお、ベンガジに輸送船団が到着して物資が補給されたが、残念な事にその数日後にベンガジは英軍の攻勢によって陥落し、イアキーノの努力は無駄になってしまった。

 

■12月18日:アレクサンドリア港襲撃

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12月18日:アレクサンドリア港襲撃

1941年12月19日は第二次世界大戦におけるイタリア海軍最大の大勝利の日と記憶されている。まさに、イタリア海軍が得意とする特殊部隊による港湾攻撃において、最大戦果が挙げたのがこの日であった。英海軍は1941年12月、特に厳しい状況を迎えていた。地中海では既に空母1隻と戦艦1隻を始めとする多くの軍艦を失い、更に日本の参戦によって東アフリカ戦線崩壊以降、再びインド洋方面に脅威が出現した。そして、12月10日のマレー沖海戦では戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が日本軍の航空攻撃で撃沈されるという大打撃を受けていた。このため、地中海艦隊司令官であるカンニンガム提督は特にアレクサンドリア港の襲撃を危惧して厳戒態勢を敷いていた。また、英海軍は地中海戦線の有利な状況を維持できれば、インド洋方面の日本軍への対応を強化しようとしていた。そんな中で、残る地中海艦隊の主力である旗艦・戦艦「クイーン・エリザベス」と姉妹艦「ヴァリアント」を狙ったのが、イタリア海軍の「デチマ・マス」だった。

アレクサンドリア港攻撃は1940年8月22日にリビア隊司令官ブルーノ・ブリヴォネージ提督の直接の指揮で行われていたが、大失敗に終わっていた。その後、先述した通り、「デチマ・マス」はスダ湾襲撃やジブラルタル港襲撃を大成功させて戦果を挙げており、英艦隊への大打撃を与えるためにアレクサンドリア港への攻撃を再度計画していた。綿密な準備をした潜水艦「シィレー」ジブラルタルで武勲を挙げたボルゲーゼ艦長のもとで12月14日にエーゲ海諸島のレーロ基地を出発し、12月17日のアレクサンドリア港湾攻撃作戦のためにエジプト沿岸に向かった。しかし、途中で暴風雨に遭遇し、到着が1日遅れて12月18日にアレクサンドリア港近辺に到着した。

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SLC人間魚雷「マイアーレ」(2017年3月31日筆者撮影)

同日深夜、「シィレー」から3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が発進した。潜水工作部隊は2人乗り×3隻で6名、これをルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ大尉(Luigi Durand de la Penne)が率いていた。夜の闇に紛れて潜入した3隻のSLC人間魚雷は厳戒態勢が敷かれたアレクサンドリア軍港に潜入し、何重もの魚雷ネットを潜り、哨戒艇の警備をかわして港内の深部へと進んでいった。英軍に気付かれることなく軍港内に潜入した3隻は、第一班は戦艦「ヴァリアント」、第二班は戦艦「クイーン・エリザベス」、第三班はタンカー「サゴナ」に狙いを定めて攻撃を実行戦艦「ヴァリアント」及び「クイーン・エリザベス」は撃沈され、タンカー「サゴナ」は大爆発し大破、側にいた駆逐艦ジャーヴィス」も爆発に巻き込まれて大破したのであった。

こうして、たった3隻の特殊潜航艇と、6人の工作部隊による攻撃で、英艦隊は戦艦2隻を撃沈され、タンカー1隻と駆逐艦1隻を大破する事態となったのであった。このイタリア海軍による大成功は英海軍の地中海の制海権に大きな影響を与えることとなった。すなわち、英海軍地中海艦隊には行動可能な主力戦艦が存在しなくなってしまったのである。英首相チャーチルは自らの回顧録「我が地中海艦隊は存在しないも同然」とまで述べており、事実上、地中海の制海権は完全にイタリア側に渡ることとなったのであった。この結果、英海軍は行動を制限され、イタリア海軍は北アフリカ戦線に向けて安定して船団を送れるようになったのであったのである。こうして、安定した物資輸送を受けて活力を回復した北アフリカの枢軸軍は翌年1942年の初めより大規模な攻勢を開始し、戦線のイニシアチブを奪還するのであった。

イタリア海軍としては、まさに1940年11月のターラント空襲の仕返しとも言える攻撃であった。あの時は少数の英軍雷撃機がイタリア主力艦隊に大打撃を与えたが、その約1年後の1941年12月には、今度は少数の伊軍特殊部隊が英主力艦隊に大打撃を与えたのである。長らく一進一退の戦いを続けていた地中海の伊英海軍だったが、ここにきてようやくイタリア海軍は「地中海の覇者」たる威光を手に入れようとしていた

 

1941年はマタパン岬の大敗を経験した一方で、最終的にはアレクサンドリア港攻撃の大成功によって英海軍は地中海の制海権を失った。1941年はまさに、イタリア海軍にとっては「勝利の年」、英海軍にとっては「悲劇の年」と言えるかもしれない。

地中海の制海権を握ったイタリア海軍であったが、翌年に入ると今度は英海軍の反撃を受けることとなり、マルタ島を巡る大激戦が繰り広げられることとなる。この海戦はイタリア艦隊の活躍が特に光る戦いとしても知られているのだが、この話は次回の1942年の海戦で紹介しよう。

次回の記事はこちら↓

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版