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地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1943年の海戦:絶望の船団護衛、本土防衛戦―

さて、今回は1943年の地中海の海戦を扱おう。前年1942年前半はイタリア海軍は地中海の制海権を確保して戦局を有利に展開していた。しかし、陥落寸前のマルタを放置するという戦略ミス(これはイタリア海軍の責任ではなく、ロンメルの戦略ミス)によって結果として北アフリカ戦線は崩壊、制海権と制空権を一挙に失ったことに加え、そして燃料枯渇によって艦隊は最早出撃も困難となった。

地中海戦線で最も転換点となったのは、アメリカ軍・英軍を中心とする連合軍によるフランス領北アフリカへの上陸(トーチ作戦)であった。その結果、イタリア軍は東西からの挟み撃ち、更にはリビア南部からは自由フランス軍も北上していたため、全方向からの攻撃に対応しなくてはならなくなった。その結果、北アフリカ戦線はまるでドミノ倒しのように崩壊していったのである。トーチ作戦を受け、イタリア主力艦隊はターラント軍港からナポリに引き上げ、最早出動の機会は無かった。ナポリも激しい空襲に合うようになった後は、ラ・スペツィア軍港に引きこもることとなった。しかし、ここも安全ではなく、度々の襲撃を受けていた。

1943年に入る頃、地中海における制海権は完全に連合軍側に奪われていた燃料を失ったイタリア海軍は最早小型艦艇による細々とした船団護衛や、「デチマ・マス」の泊地攻撃しか出来なかった。今まで戦果を挙げていた潜水艦隊も、連合軍側の対潜能力の飛躍的向上によって、最早マトモに戦うことは出来なくなった。

そして、ご存じの通り1943年にはイタリアにとって大きな転換点となる。本土防衛戦の開始、ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の誕生、突然の王国政府の休戦、ドイツ軍のイタリア侵攻、イタリア社会共和国(RSI政権)の誕生と内戦化....と目まぐるしく状況は変化していくのであった。今回は休戦(1943年9月8日)までの海戦を扱い、休戦後(つまり内戦期)の海戦については次回扱うこととしよう。

 

1940年の海戦はこちら↓

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1941年の海戦はこちら↓

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1942年の海戦はこちら↓ 

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 イタリア海軍の「欠点」についてはこちら↓

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◆1943年:絶望の中の船団護衛戦

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1943年の地中海における主要な海戦(王国政府の休戦まで)。船団護衛戦と敵泊地攻撃に限定されている。

新年が明けたが、イタリア政府からの公のメッセージは何もなかった。ムッソリーニは戦況の悪化に無念と憤慨を感じ、日に日に胃痛が酷くなっていた。海軍では多少の人事異動があった。前年度末、1942年12月29日にイタリア大西洋艦隊司令官のローモロ・ポラッキーニ提督が更迭され、新たにエンツォ・グロッシ大佐(Enzo Grossi)が新司令官に就任した。グロッシ大佐は潜水艦「バルバリーゴ」艦長として大西洋における通商破壊・艦船攻撃で戦果を挙げた人物で、昨年5月にはブラジル沖でアメリカ海軍の戦艦「メリーランド」を、昨年10月にはシエラレオネ沖でアメリカ戦艦「ミシシッピ」を撃沈するという大挙を挙げたとされる人物だ(実際には誤認戦果であったことが戦後判明した)。グロッシ大佐の"大戦果"は伊独両国で高く評価されたが、「誤認では?」と疑問を抱いたのが大西洋艦隊司令で、グロッシ大佐の上官であったポラッキーニ提督である。しかし、劣勢の伊軍にとってその正論は不都合であったため、ポラッキーニ提督は更迭され、その後任に皮肉にもグロッシ大佐が就任した、というわけである。しかし、先述した通り、潜水艦隊は連合軍側の対潜能力の向上によって通商破壊が困難となったため、新司令官グロッシは同盟国である日本への物資輸送に潜水艦隊を使うこととした。所謂「遣日潜水艦作戦」であった。

一方、対ソ戦において派遣されたイタリア海軍部隊であったが、ドガ湖に派遣された第12MAS小艦隊に関しては地中海戦線の悪化に伴い撤退が決まった。この部隊は1942年7月末から10月末までの短い間にラドガ湖でソ連船団相手に戦い、ソ連海軍の砲艦「ビラ」及び輸送艀1隻を撃沈する戦果を挙げていた。撤退時、同戦隊に所属していた4隻のMAS艇はそのまま同盟国であるフィンランド海軍に引き渡されている。

一方で、黒海に派遣されたイタリア海軍艦隊はそのまま活動を続けた。この部隊は重巡モロトフ」や潜水艦等ソ連海軍艦艇を多数撃沈/大破させ、輸送船団攻撃でも活躍した。また、アジア・太平洋戦線では紅海艦隊の残存艦が極東艦隊に加わり、更に遣日潜水艦作戦で派遣された数隻のイタリア潜水艦が事実上極東艦隊の一員として日本軍と共闘した。これらの部隊は休戦まで戦い続けた後、休戦後にルーマニア軍や日本軍の襲撃を受け拿捕、もしくは自沈・連合国側に降伏している。

戦況は刻一刻と悪化していた。制海権と制空権を奪われたことで、連合軍部隊はイタリア海軍の軍港へ易々と攻撃出来るようになっていた。そんな中で英軍はとある新兵器を戦場に投入した。それは、イタリア海軍のSLC人間魚雷「マイアーレ」を完全にコピーした「チャリオット」と呼ばれる兵器だった。今までこの手の港湾への特殊攻撃はイタリア海軍が世界トップを独走する形であったが、遂に英軍もこれを導入したのである。1月3日、英海軍「チャリオット」部隊はパレルモ港内に潜入、昨年11月末に進水したばかりのカピターニ・ロマーニ級軽巡「ウルピオ・トライアーノ」を撃沈したのであった。今まで伊海軍部隊にしてやられた仕返しとも言えるだろう。

 

■1月19日:ズアーラ沖海戦

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1943年1月19日:ズアーラ沖海戦

北アフリカ戦線は崩壊寸前であった。他方、イタリア軍東部戦線でもソ連軍の反撃によって戦線が崩壊状態となっており、最早維持することは困難となっていた。リビアの陥落は時間の問題であり、イタリア軍が1943年1月の段階で支配しているリビア領はトリポリタニアに過ぎなかった。そのトリポリタニアですら厳しい状況になっていたため、イタリア軍トリポリから出来るだけ多くの部隊や物資を撤退させるべく行動に出た。その撤退作戦の護衛艦隊には駆逐艦の数が足りず、貧弱な掃海艇等も駆り出された。それらの小艦隊の内の一隻が、ジュゼッペ・ディ・バルトロ中尉(Giuseppe Di Bartolo)率いる掃海艇による戦隊であった。

地中海は完全に英海軍の制海権にあった。北アフリカ沿岸では連合軍の艦艇が哨戒しており、こういった小艦隊による撤退も満足に行えなかった。燃料枯渇によって巡洋艦すらも出動が難しく、結果として駆逐艦水雷艇はまだマシ、ほぼほぼ非武装の補助艦艇での戦闘を強いられた部隊もあった。英海軍の駆逐艦「ジャベリン」と「ケルヴィン」トリポリタニア沖を哨戒していた。2隻の役目はトリポリを脱出したイタリア輸送船団を襲撃し、これを沈めることだった。既に「ケルヴィン」は1月15日にトリポリを脱出した輸送船「ダンヌンツィオ」を撃沈している。

1月19日の夜間、ディ・バルトロ中尉率いる小艦隊は夜の闇に紛れてチュニジアへの撤退を開始、トリポリ港を出発した。この小艦隊は掃海艇「RD36」を旗艦とし、掃海艇4隻、輸送船・補助艦艇等7隻で構成された。この小艦隊はリビア艦隊・トリポリ軍港所属の掃海艇部隊で、トリポリタニア沿岸の掃海を担当していたが、鹵獲を防ぐためにチュニジア経由でイタリア本土への撤退が命じられていた。一方、英海軍「ジャベリン」及び「ケルヴィン」はトリポリから出発したこの小艦隊をレーダーで察知した。2隻はこれを輸送船団と認識(実際は掃海艇小艦隊)し、襲撃に向かった。

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駆逐艦「ジャベリン」

トリポリタニア・ズアーラ沖にて、2隻の英駆逐艦は伊艦隊を発見した。ズアーラはトリポリ西方の港町で、仏領チュニジアに近い軍事拠点でもあり、イタリア空軍部隊の基地が置かれた都市だ。リビア植民地の首都であったトリポリとは鉄道で繋がれており、地中海マグロ漁の水揚げ港でもあったため、植民地漁業の重要な漁港としても知られた。1月19日深夜、伊艦隊を発見した英駆逐戦隊はまず閃光弾を打ち上げ、イタリア船であることを確認後、攻撃を開始した。不幸なことに、掃海艇部隊の装備は貧弱であった。掃海艇4隻は76mm単装砲を一門装備していたが、それ以外の船は機関銃が装備されたのみであった。効果的な抵抗など出来ず、一方的に英駆逐艦によって小艦隊は殲滅させられた。結果として、夜明けまでにイタリア小艦隊は全滅。それに対して、英海軍側の損害は10名程度の負傷者のみであった。

ズアーラ沖海戦の後、1月23日にはイタリア軍トリポリを放棄。英軍部隊がトリポリ入城を果たしたのであった。イタリア・ドイツ軍はチュニジアへ撤退し、連合軍はリビアを制圧していった。2月4日までにリビア領内の枢軸軍は完全にチュニジア国境まで撤退。これをもって、リビアは完全に陥落し、イタリア領リビアの歴史は終止符が打たれることとなったのである。リビアトリポリタニアキレナイカを英国が、フェザーンをフランスが占領統治とする分割統治体制が行われ、この状態はリビア独立まで続くこととなったのである。リビアの失墜は、先の東アフリカ(エリトリアソマリアエチオピア)の崩壊と共に、19世紀から続いたイタリア植民地主義の消滅を意味した。

 

■4月16日:チーニョ船団の海戦

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1943年4月16日:チーニョ船団の海戦

東部戦線では遂にドン川戦線が崩壊し、更に地中海戦線の防衛のためにイタリア第八軍はソ連方面からの完全撤退を決定した。1月末にはムッソリーニ北アフリカ・ロシア両戦線の崩壊によって統合参謀総長であったカヴァッレーロ元帥の解任を決めた。ギリシャ戦で更迭されたバドリオ元帥に続き、大戦中2人目の参謀総長の解任である。後任にはユーゴスラヴィア侵攻で巧みな指揮を見せたヴィットーリオ・アンブロージオ将軍が任命されている。一方、海軍でも主力艦隊司令官のアンジェロ・イアキーノ提督は4月1日に辞任し、後任にカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督が就任した。ベルガミーニ提督は戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする第五戦艦戦隊の司令官として、数々のリビア船団護衛を成功させた指揮官であった。前年度初頭の一連の船団護衛や英船団妨害の活躍で特に知られている。

連合軍が制海権を握っており、英米艦隊や爆撃機による襲撃が度々行われた一方で、イタリア海軍によるこの時期の船団護衛は意外にも成功率は高かった兵員輸送の93%、物資の72%、燃料の72%はチュニジアまで届けられている損失が急増したのは1943年3月から5月に掛けてで、このためチュニジア戦線終盤の船団数は一気に減少した。チュニジア戦線において、イタリア艦隊はチュニス及びビゼルタへの輸送任務を担った。そんな数多の船団の一つが、今回の「チーニョ船団」である。

4月15日にシチリアのトラーパニ港を出発したイタリア護衛艦隊は、水雷艇「チーニョ」を旗艦とし、水雷艇2隻(「チーニョ」「カッシオペア」)で構成された。2隻の水雷艇1隻の輸送船「ベッルーノ」を護衛した。この輸送船はチュニジア戦線の枢軸軍のための弾薬が満載されており、護衛船団と共にチュニスに向かった。この「チーニョ船団」に続いて、後続でパレルモ港から水雷艇「ティフォーネ」「クリメーネ」が戦力強化のために出撃することになっており、また「ティフォーネ」は航空機用の燃料を積んでおり、ビゼルタ港に届ける役目を担っていた。一方で、通信傍受によってイタリア船団の出発を察知した英海軍は駆逐戦隊を差し向けた。これは駆逐艦「パケナム」を旗艦とし、駆逐艦2隻(「パケナム」「パラディン」)で構成された部隊であった。

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イタリア水雷艇「チーニョ」

イタリアでは既に国産レーダーである「グーフォ」が量産されていたが、船団の護衛艦隊には装備されていなかった。しかし、当時は満月であり、英海軍側が得意とする夜間の奇襲が難しかった4月16日2時38分、シチリア西方沖のエーガディ諸島に属するマレッティモ島沖にて、イタリア船団は接近中の英駆逐戦隊を発見した。このため、イタリア船団の司令官(「チーニョ」乗艦)であるカルロ・マッカフェッリ少佐(Carlo Maccaferri)は輸送船「ベッルーノ」に一時的にトラーパニへの撤退を命じ、その護衛を後続の「ティフォーネ」「クリメーネ」に任せ、「チーニョ」と「カッシオペア」は英艦隊の足止めのために戦うこととした。通信の後、光信号を合図にイタリア側は行動を起こし、それと共に「チーニョ」は英艦隊への攻撃を開始。英艦隊発見の10分後に2時48分に交戦が開始した。

交戦開始と共に発射した「チーニョ」の砲撃は英駆逐艦「パケナム」に命中更に続けて「チーニョ」は「パケナム」に主砲を命中させ、「パケナム」は大破、航行不能になった。しかし、航行不能となった「パケナム」は雷撃を発射「チーニョ」は回避を試みるが、2本が命中「チーニョ」は不運なことに当たり所が悪く、真っ二つに割れて撃沈された。しかし、完全に沈没するまでの間、「チーニョ」は「パケナム」への攻撃を継続し、「パケナム」に対して致命的なダメージを与えた

戦闘を終えた「パケナム」は応急処置で航行可能になり、損害は大きいが「パラディン」に合流し、残る「カッシオペア」との交戦を開始した。「カッシオペア」は大破した「パケナム」の機関室を砲撃で破壊、再度航行不能になった。「パケナム」は「チーニョ」「カッシオペア」との戦いの傷を受けて戦闘継続は不可能になり、最終的に「パラディン」によって雷撃処分されている。パラディン」も「カッシオペア」との交戦によって損害を受けたため、損害が多くなったことから4時半に撤退した。

「チーニョ」は撃沈されたが、「カッシオペア」は生還し、護衛対象であった輸送船「ベッルーノ」も後続艦隊の護衛のもとで一時的にトラーパニ港に避難したのち、再度チュニス港に目指して出発。更に「ティフォーネ」もビゼルタへの燃料輸送を完了させ、イタリア海軍は「チーニョ」1隻の代償によって船団護衛を成功させたのであった。圧倒的に不利な夜間戦闘であり、更に戦力的にも不利であったが、果敢に戦ったイタリア水雷戦隊は船団護衛を成功させたのであった。一方で、英艦隊は得意の夜戦にも拘わらず、満月で奇襲が失敗するという不測の事態によって、駆逐艦「パケナム」を撃沈され、更に輸送船も取り逃がすという失態をすることとなったのである。

 

■5月3日:カンポバッソ船団の海戦

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1943年5月3日:カンポバッソ船団の海戦

チュニジアのイタリア・ドイツ軍は追い詰められ、最早北アフリカ戦線の完全崩壊は目前となっていた。それに伴い、イタリア輸送船団の喪失率も非常に高くなっていたが、イタリア海軍は最後までチュニジアに輸送船団を派遣し続けた。 しかし、この「カンポバッソ船団」を含む4つの船団がイタリア海軍の最後のチュニジア船団となった。それはこの船団派遣の後、まもなくチュニジアは陥落したからである。

5月3日夕方、水雷艇「ぺルセオ」 によって護衛された船団(輸送船1隻)がパンテッレリーア島を出発した。この船団はチュニスに向かう船団で、サヴェリオ・マロッタ(Saverio Marotta)少佐によって指揮されていた。「ぺルセオ」によって護衛された輸送船「カンポバッソ」は弾薬や車輛など、イタリア軍にとって重要な物資を運んでいた。一方、英海軍の3隻の駆逐艦(「ヌビアン」「ペタード」「パラディン」)はシチリア海峡、ボン岬沖にてイタリア船団を待ち伏せしていた。

同日夜間、英駆逐戦隊のレーダーは「カンポバッソ船団」を察知。駆逐艦3隻はイタリア船団に奇襲攻撃を仕掛け、一方的に撃沈された。船団は全滅したが、その後派遣された水雷艇「ティフォーネ」に率いられた船団は英駆逐戦隊の追撃を回避し、チュニジアに航空燃料を届けることが出来た。これがチュニジアに届けられた最後の船団となり、5月12日をもってチュニジアは陥落。北アフリカ戦線は完全に崩壊したのである。

 

■5月8日:第四次ジブラルタル襲撃

地中海の制海権が奪われた後も、「デチマ・マス」は継続してジブラルタルへの襲撃作戦を実行していた。5月8日には悪天候の中、工作艦「オルテッラ」から出発した3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が3隻の輸送船を撃沈して損害を与えている。 

 

■6月2日:メッシーナ船団の海戦

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1943年6月2日:メッシーナ船団の海戦

北アフリカ戦線の崩壊後、次に連合軍が標的と定めたのはシチリア島南方に浮かぶ、パンテッレリーア島とペラージェ諸島であった。パンテッレリーア島は連合軍側からムッソリーニマルタ島」と呼ばれ、堅牢な要塞で築かれた難攻不落の要塞島として認識されていた。 マルタ爆撃作戦においても開戦時からイタリア空軍の基地として知られており、イタリア軍にとって重要な軍事拠点であった。ランペドゥーザ島を含むペラージェ諸島も同様に要塞化された島であり、重要な軍事拠点であった。ただ、これらの島の問題点は、温泉は出るが、飲み水に乏しい点であった。すなわち、包囲戦を展開した場合、抗戦継続は可能であっても、先に飲み水が枯渇する可能性が戦ったのである。マルタの場合は海水を淡水化していたが、これらのイタリア領の島には存在しなかった。

北アフリカ戦線の崩壊後、5月初旬から連合軍はこれらのイタリア島嶼部の海上封鎖を行い、包囲戦を開始した。連合軍側はシチリア攻略のためにもこれらの島々を橋頭保として確保しようとしていたが、無茶な上陸作戦によって多大な損害を被ることは間違いないとされており、アイゼンハワー将軍を始めとする米軍参謀本部はパンテッレリーア島攻略には慎重な考えを見せていた。これは、1941年のエーゲ海作戦において、イタリア軍が英軍に制圧されたカステルロッソ島を迅速に奪還した経緯があったからだ。

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ジーノ・パヴェージ(Gino Pavesi)提督

パンテッレリーア島守備隊はジーノ・パヴェージ提督(Gino Pavesi)率いる約1万名以上の兵士たちで構成されていた。一方、ランペドゥーザ島を含むペラージェ諸島はオラツィオベルナルディーニ海軍大佐(Orazio Bernardini)率いる約4千名の守備隊によって守られていた。連合国側は上陸作戦の準備のため、海上封鎖を実行後、連日猛烈な爆撃を行うことで要塞島の戦力を削ごうとした。つまり、イタリア軍がかつてマルタ島に実行したことと同じことをやっていたのである。連合軍側は連日激しい爆撃を島嶼部に実行したが、パヴェージ提督は降伏勧告を拒否し続けた

島嶼部を巡り激しい戦いが繰り広げられる中、イタリア海軍はシチリアへの戦力強化のために水雷艇「カストーレ」に護衛された輸送船団(輸送船2隻で構成)を派遣した。マリーノ・ファサン少佐(Marino Fasan)によって指揮されたこの船団は5月31日の夜間にターラント軍港を出発し、メッシーナ港に向かった。しかし、連合軍は最早イタリア半島沿岸にも迫ってきており、6月1日に英駆逐艦ジャーヴィス」とギリシャ駆逐艦「ヴァシリッサ・オルガ」はスクイッラーチェ湾を哨戒中にこの船団を捕捉した。6月2日の夜1時45分、クロトーネ近郊沖合にて2隻の連合軍駆逐艦はイタリア船団を攻撃。これに対して、ファサン少佐は輸送船を逃がすべく、「カストーレ」1隻で駆逐戦隊の足止めに挑み、奮戦。結果、「カストーレ」は撃沈され、ファサン少佐も戦死したが、船団は無事退避することに成功し、メッシーナ港に到着した。すなわち、イタリア側の戦略的勝利であった。

一方で、奮戦を続けていた島嶼部のイタリア守備隊であったが(海外のメディアにもその勇敢さは評価されていた)、最終的に水の枯渇と連合軍の上陸作戦によって降伏する事態となり、6月11日にはパンテッレリーア島、6月12日にはランペドゥーザ島、6月13日にはリノーザ島、6月14日にはランピョーネ島と次々とシチリア海峡の島々が連合軍に攻略され、シチリアへの上陸作戦は秒読みという状態になった。しかし、連合軍側も布石を投じ、シチリアではなくサルデーニャ島エーゲ海諸島への攻略をチラつかせて枢軸軍の戦力の分散を図った(ミンスミート作戦)。

 

■6月30日:第一次イスケンデルン港襲撃 

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潜水服を着たフェッラーロ少尉

シチリア海峡の島々が陥落し、戦況が悪化していく中、「デチマ・マス」は大胆な泊地攻撃作戦を実行した。それは、たった一人の潜水工作員によって実行された、「ステッラ作戦」と呼ばれる一連のトルコ港湾における破壊作戦であった。トルコは枢軸と連合の間を揺れ動きながら、巧みに中立を維持していた。しかし、地中海戦線の戦況が明らかになってくると、トルコは連合国寄りの態度を取り始めた(トルコが正式に連合国側で参戦するのは1945年の最終局面になってからである)。

これに対し、「デチマ・マス」ガンマ潜水部隊のスーパーエースであるルイージ・フェッラーロ少尉(Luigi Ferraro)は単身でトルコに渡り、トルコ港湾に停泊する連合軍船舶への攻撃作戦を開始した。その一連の破壊作戦で最も最初に行われたものが、6月30日の第一次イスケンデルン港襲撃で、身一つでイスケンデルン港に潜入したフェッラーロ少尉は時限爆雷で停泊中の輸送船「オリオン」を撃沈する事に成功したのであった。

 

■7月9日:メルスィン港襲撃

7月9日、連合軍はシチリアへの上陸作戦を開始した。シチリア方面の海軍司令官はピエトロ・バローネ提督(Pietro Barone)提督であったが、海軍は最早上陸作戦の対抗に有効な行動を取れず、潜水艦部隊による迎撃を行わせたが、結局散発的な成功しか得られずに終わったシチリアでの激戦が繰り広げられている中、トルコではフェッラーロ少尉による破壊作戦がトルコ当局に発見されることなく継続され、連合軍のシチリア侵略と同日である7月9日に、フェッラーロ少尉はメルスィン港に潜入し、英軍の輸送船「カイトゥーナ」を時限爆雷で爆沈させたのであった。 

 

■7月12日:第一次メッシーナ海峡海戦

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1943年7月12日:第一次メッシーナ海峡海戦

連合軍のシチリア攻略戦が繰り広げる中、連合軍はメッシーナ海峡の封鎖を試みた。これに対する抵抗として行われたのが、メッシーナ海峡の封鎖突破作戦である、「シッラ作戦」である。この封鎖突破には最新鋭国産レーダーである「グーフォ」を搭載したカピターニ・ロマーニ級軽巡が用いられた。これは、イオニア海方面において高速巡洋艦が不足しているということもあり、それの戦力補充という意味合いもあった。

7月12日深夜、カピターニ・ロマーニ級軽巡「ポンペオ・マーニョ」は メッシーナ海峡の突破を試みた。この対応として、英海軍は5隻の魚雷艇による奇襲を試みたが、「グーフォ」レーダーの威力を発揮した「ポンペオ・マーニョ」はこれを撃退し、2隻を撃沈、1隻を大破させる働きを見せている。これらの「ポンペオ・マーニョ」の戦果は「シピオーネ・アフリカーノ」の戦果と混同されており、一説によるとこれらの戦果は「ポンペオ・マーニョ」ではなく「シピオーネ・アフリカーノ」単独の戦果とも言われている(「グーフォ」レーダーを搭載したカピターニ・ロマーニ級軽巡も「シピオーネ・アフリカーノ」のみという説があるため)。

 

■7月17日:第二次メッシーナ海峡海戦

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1943年7月17日:第二次メッシーナ海峡海戦

「シッラ作戦」発動に伴い、7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発し、ナポリで一時停泊した後、7月16日18時15分にナポリを出発、メッシーナ海峡を通ってターラント軍港に向かった。「シピオーネ・アフリカーノ」艦長はエルネスト・デ・ペッレグリーニ・ダイ・コイ大佐(Ernesto De Pellegrini Dai Coi)であった。7月17日夜2時にメッシーナ海峡を通った「シピオーネ・アフリカーノ」は、デニス・ジャーメイン大佐(Dennis Jermain)率いる英海軍魚雷艇部隊の襲撃を受けた。しかし、「グーフォ」レーダーを生かして夜戦の主導権を握った「シピオーネ・アフリカーノ」はこれを見事に返り討ちにして、今までイタリア海軍が連戦連敗を繰り返していた夜間戦闘において、一方的な大勝利を得たのである。「グーフォ」レーダーの真価が発揮された数少ない戦いの一つでもあった。

「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。なお、この時「シピオーネ・アフリカーノ」の機関長を務めたのはウンベルト・バルデッリ少佐で、後にRSI軍「デチマ・マス」の海兵大隊「バルバリーゴ」の司令官を務めた人物である。

 

■8月1日:第二次イスケンデルン港襲撃

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新海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督

1943年7月は激動の月であった。7月19日には「永遠の都」ローマが米軍ドゥーリットル少将指揮下の連合軍機による初空襲を受けた。ローマ初空襲の熱が冷めやらぬ中で、ファシスト大評議会内部でのグランディらによる謀反、更に王党派と軍上層部が結託したムッソリーニ逮捕計画が実行され、7月25日に独裁者ムッソリーニは失脚することとなった。新たに国王に組閣を命じられたピエトロ・バドリオ元参謀総長は枢軸国側での戦闘継続を宣言したが、水面下では連合軍との休戦交渉を行っていた

ムッソリーニの失脚によって、海軍内部も人事異動が行われた海軍参謀長であるアルトゥーロ・リッカルディ提督が更迭され、新たな参謀長としてラッファエーレ・ド・クールタン(Raffaele de Courten)提督が就任した。ド・クールタン提督らスーペルマリーナの一部にも連合軍との休戦工作は伝えられていたが、休戦発表などの詳細事項は全く知らされておらず、海軍は本土防衛に伴う艦隊決戦の準備を進めていた。なお、ファシスト政権の崩壊によって、戦艦「リットリオ」は戦艦「イタリア(イターリア)」に改称されていた(バドリオ政権は一種の軍事政権であった)。

一方で、フェッラーロ少尉による一連のトルコでの港湾襲撃も最後の攻撃が行われた。8月1日に再度イスケンデルン港にて潜入、爆雷で輸送船「フェルンプラント」を撃沈し、爆弾を使い果たしたことで一連の作戦は終了し、イタリアに帰国した。フロッグマン一人で特殊作戦を損害無しで実行したことは高く評価され、フェッラーロ少尉はイタリア軍最高峰の金勲章を叙勲された。

 

■8月3日:第五次ジブラルタル襲撃

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1943年8月3日:第五次ジブラルタル襲撃

「デチマ・マス」のジブラルタル襲撃作戦はムッソリーニの失脚後も継続されていた。1943年8月のジブラルタル襲撃は、バドリオ政権下の枢軸イタリア唯一のジブラルタル襲撃作戦であり、 更に第二次世界大戦における伊海軍最後の連合軍軍港襲撃作戦となった。工作母艦「オルテッラ」から出発した3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」は英米軍の輸送船3隻を撃沈し、計2万3000トンの損害を与えることに成功した。結局、「デチマ・マス」によるジブラルタル襲撃は失敗したものも含めると計9回実行され、多大な損害を連合国側に与えたのであった。

 

■8月6日:パレルモ沖海戦

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1943年8月6日:パレルモ沖海戦

1942年末から休戦に至るまで、イタリア艦隊は効果的な出撃が出来ない一方で、度々連合軍機による軍港爆撃を受け、甚大な被害を受けていた。1943年6月のアメリカ軍によるラ・スペツィア空襲ではリットリオ級戦艦3隻は甚大な被害を受け、その後ジェノヴァで修復を受けることとなった。

ド・クールタン海軍参謀長率いる新海軍指導部は、連合軍との交渉に挑むバドリオ政権とは対照的に戦意は未だ高く、燃料枯渇ゆえの出撃不足であり、艦隊決戦の準備を進めていた。先の空襲で甚大な被害を受けたベルガミーニ提督率いる主力艦隊は修復を進め、修復が完了し次第イタリア半島に迫る連合軍艦隊相手に艦隊決戦を仕掛ける計画が立てられていたシチリアでの海軍の不手際とは対照的に、半島防衛における海軍の戦意は非常に高く、潜水艦までもを総動員した迎撃作戦が計画されていた。

ド・クールタン提督の後任として第八巡洋戦隊司令官に任命されたジュゼッペ・フィオラヴァンツォ(Giuseppe Fioravanzo)提督は、連合軍側の手に落ちたパレルモ港への艦砲射撃を命令されていた。フィオラヴァンツォ提督は6月中旬の海戦で戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を旗艦とする第9戦艦戦隊の司令官として、海戦の大勝利に貢献した優秀な指揮官であったが、連合軍側によって制圧されていたとはいえ、シチリアの町に対して砲撃を行うことには乗り気ではなった。

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アメリ軽巡フィラデルフィア

8月6日夜間、フィオラヴァンツォ提督率いる第八巡洋戦隊はジェノヴァ港を出発した。これは軽巡ガリバルディ」及び「ドゥーカ・ダオスタ」の軽巡2隻で構成された巡洋艦戦隊であった。一旦ラ・マッダレーナに寄って、8月7日夕方にパレルモ港に連合軍船団が確認されたことからラ・マッダレーナを出発、パレルモに向かった。しかし、2隻の軽巡はいずれもレーダーが未装備であり、更に機関の不調により高速能力を発揮出来なかった。そんな中で航空偵察によってパレルモに向かう米海軍艦隊が確認された。

この米海軍艦隊はライアル・A・デヴィッドソン(Lyal A. Davidson)提督によって指揮された艦隊で、軽巡フィラデルフィア」を旗艦とし、軽巡2隻(「フィラデルフィア」「サバンナ」)、駆逐艦6隻で構成された艦隊であった。これによって、第二次世界大戦初となる、イタリア艦隊とアメリカ艦隊の本格的な衝突が起こるかと思われたが、フィオラヴァンツォ提督は劣勢の状態による艦隊の衝突(しかも例の如く夜間戦闘)は敵側に殆ど損害を与えられずに全滅する確率が高いと判断、艦隊の交戦開始前に撤退を命令した。これによって伊米両艦隊による衝突は防がれたが、イタリア艦隊は無益な犠牲を払わずに済んだのである。レーダー未装備の夜戦、機関の不調、更に数的不利というこの状況で仮に戦闘を行っていた場合、フィオラヴァンツォ提督の予想の通り、米軍側の圧倒的勝利によって海戦は決着がついていただろう

しかし、作戦を実行せずに帰還したフィオラヴァンツォ提督に対して、ド・クールタン海軍参謀長は激しく叱責し、フィオラヴァンツォ提督は第八巡洋戦隊司令官を解任される事態となった。後任にはエーゲ海作戦で武勲を挙げたビアンケーリ提督が就任しているが、その後は休戦まで本格的な作戦行動に出ることは無かった。

 

最終的に1943年9月8日にイタリア王国は連合国との休戦を宣言したが、ベルガミーニ提督率いるイタリア主力艦隊は連合軍の本土上陸に伴う迎撃の準備を進めている最中であり、8月末に修復が完了したリットリオ級戦艦3隻による出動を目前に控えていた。その最中の突如の休戦発表に対して、ド・クールタン提督は何も相談されていなかったことに対して国王に抗議したが、国王は不機嫌になるだけであった。海軍の長老であり、イタリア唯一の海軍元帥であるパオロ・タオン・ディ・レヴェル元帥(Paolo Thaon di Revel)は国王の側近であったが、休戦工作には一切関わっていなかった。すなわち、海軍は休戦工作に関して完全に蚊帳の外であったのである。

結局、ド・クールタン提督にすら相談されていなかった突如の休戦発表は、海軍に混乱を齎し、今まさに出撃せんとしていたベルガミーニ提督率いる主力艦隊に対しても休戦発表が知らされたのは更に後であった。国王の命令によって連合軍側への艦隊の降伏が命じられたが、未だ戦意が高い海軍内部では反発が多くビアンケーリ提督やガラーティ提督のように降伏に反対して自沈か北部への艦隊移動を要求する艦隊指揮官も多かった。更に、戦艦「ジュリオ・チェーザレ」では艦隊降伏への反発から水兵による叛乱も発生している。「デチマ・マス」のボルゲーゼ司令や大西洋艦隊のグロッシ司令を始めとして、休戦発表に抗議して独自にドイツ軍側と交渉する軍人たちもいた。

結局、この混乱の中で、連合軍への艦隊降伏が行われることとなり、更に降伏直後からドイツ軍はイタリア半島への「侵攻」を開始し、イタリア軍への攻撃を開始することとなった(極東では日本軍がその役割を担った)。その一連の攻撃の後、枢軸国側での戦闘継続を宣言したイタリア社会共和国(RSI政権)が成立したことで、イタリア海軍も二分され、内戦状態に陥っていくのであった。

 

1943年の海戦は劣勢の中の戦いを強いられ、最早イタリア海軍は有効な対応がとれていなかった。しかし、その一方で未だイタリア海軍の戦意が消えていなかったことは、明らかである。今回は1943年9月の休戦までの「枢軸国側の王立イタリア海軍としての連合国との戦い」を扱った次回は1943年9月の休戦から1945年の終戦に至るまでにおける、「休戦直後のイタリア海軍とドイツ軍の戦い」と「RSI海軍による連合国との戦い」、そして「内戦期のRSI海軍と共同交戦海軍の戦い」を扱うこととしよう。

 

■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版