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英軍の夜間奇襲を返り討ち!トブルク防衛の「鉄壁」、ジュゼッペ・ロンバルディ提督の防衛戦術

提督の戦歴シリーズ第四回!今回はトブルク軍港防衛の手腕で知られる名指揮官ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督の戦歴を見て行こう。ロンバルディ提督は、英軍のコマンド部隊によって綿密に計画された海・陸双方からのトブルク軍港への夜間奇襲作戦「アグリーメント作戦」を迎撃し、巧みな指揮でこれを完膚なきまでに粉砕した戦果で知られている。自軍側の損害は戦死16名・負傷50名で抑えたのに対し、英軍側は軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)魚雷艇6隻揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受け、上陸部隊に関しては戦死779名捕虜576名という大損害であった。不意打ちに対して冷静に対応し、自軍側の損害を最小限に抑える一方で、敵側には大損害を与えるというイタリア軍を舐めると痛い目に合う」というのを体現した人物と言えよう。

今までの記事はこちら

第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督

associazione.hatenablog.com

 

第二回:フェルディナンド・カサルディ提督

associazione.hatenablog.com

 

第三回:ジョヴァンニ・ガラーティ提督

associazione.hatenablog.com

 

 

◆「鉄壁」の出自と、大戦前半の戦歴

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ジュゼッペ・ロンバルディ提督(Giuseppe Lombardi)

1886年5月11日、ジュゼッペ・ロンバルディはフランス国境に近いピエモンテのドロネーロに三男として生まれた。長男のジャコモはアルピーニ(山岳兵)将校、次男のカルロは騎兵将校となり、ピエモンテ人らしい進路を歩んでいるが、ジュゼッペは海軍士官の道を目指した。1905年に少尉に任官され、海軍士官となった後、伊土戦争に従軍。戦艦「シチリア」に乗艦し、トリポリタニアにおける上陸作戦で活躍、この活躍により銀勲章を叙勲され、中尉に昇進した。
第一次世界大戦では駆逐艦「ストッコ」の副艦長を務め、アドリア海における数々の海軍作戦に従事。この武勲により戦功十字章を叙勲されている。終戦後、海軍少佐に昇進。ムッソリーニ政権成立後、間もなく発生したギリシャとの紛争(コルフ島事件)にて、エミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)の指揮の下、コルフ島の上陸を指揮。イタリアの外交的勝利に貢献した。その後は極東や東アフリカ方面など植民地方面での中心に勤務した後、ラ・スペツィア軍港司令官に就任。第二次世界大戦開戦時にはエーゲ艦隊司令であった。

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軽巡洋艦「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」。第八巡洋戦隊司令官時代のロンバルディ提督の旗艦。

イタリアの参戦直前に本国に召還され、海軍中将に昇進した。ロンバルディ提督の第二次世界大戦における最初のキャリアは海軍諜報部(SIS)の長官としてであった。当時、イタリアには陸軍、海軍、空軍で別々の諜報機関が存在し、諜報活動も一本化されているわけではなかった。しかし、ロンバルディ提督率いるSISは正確な情報収集/分析に尽力し、イタリア海軍の作戦全般の円滑な遂行に貢献している。
1941年6月、SIS長官の地位をマウジェリ提督(Franco Maugeri)に譲り、潜水艦隊司令官に任命されたレニャーニ提督(Antonio Legnani)の後任として、軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」を旗艦とする第八巡洋戦隊司令官に任命されている。9月末には英海軍のマルタ補給作戦「ハルバード作戦」を妨害するためにイアキーノ提督(Angelo Iachino)率いる主力艦隊と共に出撃、ロンバルディ提督率いる第八巡洋戦隊は輸送船団に打撃を与えたが、阻止には失敗した。
ロンバルディ率いる第八巡洋戦隊はそれ以外に、何度か船団護衛に従事している。しかし、11月末の船団護衛任務時には英軍機の襲撃に遭遇船団への損害は防いだが、英軍機の雷撃を受けて旗艦「アブルッツィ」が小破、帰港後ドック入りすることとなった。

 

◆「アグリーメント作戦」の完全粉砕

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リビア隊司令長官時代のロンバルディ提督。トブルク軍港にて。

1942年に入ると、第八巡洋戦隊の指揮を離れ、ロンバルディはリビア隊司令長官に任命、トリポリ軍港に赴任した。なお、リビア艦隊の参謀長はガラーティ大佐(Giovanni Galati)である。北アフリカにおける戦局の好転により、リビア艦隊の司令部はまずベンガジ軍港、その後エジプト国境に近いトブルク軍港に移されている。本部をトブルクに移したリビア隊司令部は、小規模な艦隊しか有していなかったが、沿岸部の基地に展開したMAS艇部隊が大きな戦果を挙げている。例えば、8月29日に発生した「エル・ダバ沖海戦」では、イタリア軍が占領したエジプトのエル・ダバ空軍基地の艦砲射撃を実行しようとする英艦隊を迎撃し、魚雷艇の雷撃により駆逐艦「エリッジ」を撃沈、英艦隊の撃退に成功した。
9月には、英軍は軍全体の士気を回復するためにキレナイカイタリア軍陣地への夜間の同時的強襲作戦を計画した。これは4つの作戦で構成され、一つ目は本命である「ダフォディル作戦」ことトブルク港強襲作戦二つ目はスノードロップ作戦」ことベンガジ強襲作戦三つ目は「ヒヤシンス作戦」ことバルチェ強襲作戦四つ目は「チューリップ作戦」ことジャロ・オアシス強襲作戦で、これら4つを総称して「アグリーメント作戦」とした。すなわち、海上と陸上(砂漠)の双方からの同時攻撃によって進軍するイタリア・ドイツ軍の混乱を招く作戦だった。この大規模強襲作戦のそれぞれの詳細を説明すると、スノードロップ作戦」「ヒヤシンス作戦」「チューリップ作戦」は全て内陸の砂漠地帯を通って奇襲する陽動作戦であり、本命の「ダフォディル作戦」のみが陸上及び海上からの同時奇襲攻撃であった。

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リビア艦隊所属の水雷艇「カストーレ」。トブルク軍港の設備が未発達だったこともあり、リビア艦隊所属の艦艇は小型艦ばかりであった。

リビア植民地のイタリア軍港設備は総じて未発達であり、更に連合国との攻防戦による損害もかなり多かったリビア艦隊参謀長のガラーティ大佐は港湾設備の修復と改修に奔走することになった。そういった状況もあり、リビア艦隊の本部が置かれているトブルク軍港にも艦隊戦力は不足している状態であった。英軍のトブルク軍港襲撃時にトブルク軍港に展開していた艦隊は水雷艇3隻(「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」)哨戒艇・揚陸艇7隻MAS艇複数という実に小規模な艦隊のみであった。そして、海軍の「サン・マルコ」海兵と、カラビニエーリやリビア人兵士を含む陸軍部隊、基地防空を担う空軍部隊が港湾の防衛に従事していた。この小規模な艦隊と守備隊をリビア隊司令官のロンバルディ提督が指揮することとなった

英軍側の作戦はジョン・エドワード・ハーセルデン中佐(John Edward Haselden)によって考案・計画され、英海軍地中海艦隊のヘンリー・ハーウッド提督(Henry Harwood)はこの綿密に計画された特殊作戦を許可した。陸軍・海軍から成るA~Eの5つの戦隊に分けられ、これに空軍部隊が加わった。A戦隊ハイファ港から出発した海軍部隊で、駆逐艦「シーク」及び「ズールー」で構成され、2隻の駆逐艦はイタリア海軍の駆逐艦迷彩を使ってイタリア艦に見せかけて偽装した。この2隻に約400名の海兵隊が乗り込み、上陸作戦を担ったB戦隊は内陸のクフラ(自由フランス軍に制圧されたキレナイカ南部の拠点)から出発した陸軍部隊で、ドイツ軍部隊に偽装して港湾への侵入を試みた。C戦隊アレクサンドリア港から出発した海軍部隊で、18隻のMTB魚雷艇で構成された。これに陸軍の機関銃部隊と対空砲部隊が乗り込み、A戦隊とは別の上陸作戦を担ったD戦隊アレクサンドリア港から派遣された海軍部隊で、軽巡「コヴェントリー」を旗艦として、軽巡1隻・駆逐艦4隻で構成された。これは上陸艦隊の支援と戦隊の防衛を担っていた。更にE戦隊潜水艦「タク」による上陸支援ビーコンの設置を担当した。

これらの作戦はトブルク軍港を攻略する本命の「ダフォディル作戦」で、先述した通り、これと同時攻撃として他に3つの陽動作戦が同時進行させた。後述するが、陽動はいずれも伊軍側の反応で失敗している9月13日の夜20時30分、英空軍部隊がトブルク軍港を空襲した。この混乱の隙に20時45分、クフラから北上したB戦隊がドイツ軍部隊に偽装することで軍港内部に容易く潜入することに成功B戦隊は野戦病院を襲撃してドイツ軍負傷兵を殺害した後、沿岸砲台の制圧を試みるためにイタリア軍守備隊と交戦状態に入った。B戦隊の不意打ちに対して伊軍守備隊は応戦し、手榴弾で撃退した。

9月14日午前0時、A戦隊C戦隊の上陸部隊による攻撃をイタリア側は認識し、ロンバルディ提督はこれの迎撃と港湾の防衛を命令E戦隊潜水艦「タク」は海が荒れていたために上陸支援ビーコンの設置に失敗し、B戦隊とのコンタクトも取れなかった。B戦隊の失敗によってイタリア軍守備隊は強化され、イタリアの哨戒艇「Mz 733」C戦隊を発見。0時30分、今度はイタリア哨戒艇「Mz 756」C戦隊分隊を発見し、2隻の哨戒艇は分散したC戦隊を追撃する。B戦隊はイタリア軍守備隊との交戦のためC戦隊との連絡が取れず、結果としてC戦隊の上陸の前にA戦隊の上陸を命令した。しかし、海岸での戦闘によって指揮官であるハーセルデン中佐はヘッドショットを受けて戦死。作戦は混乱を極めた。3時頃、展開する英海軍上陸部隊を発見したリビア艦隊の水雷艇「カシーノ」「カストーレ」「モンタナーリ」の3隻は上陸部隊を迎撃し、魚雷艇揚陸艦の数々を撃沈している。

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英海軍のトライバル級駆逐艦「シーク」。8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を受け大破するという、珍しい経験をしている。

英空軍の爆撃は3時40分に終了し、4時30分にA戦隊駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は、潜水艦「タク」が設置する予定だった上陸支援ビーコンが無いため、計画とは異なるトブルク西側の海岸にて海兵隊部隊を上陸させてしまった伊海軍の「サン・マルコ」海兵とカラビニエーリは上陸部隊を発見してこれを攻撃、揚陸艇が次々と撃沈される事態となった。結果として上陸出来たのは150人に過ぎず、それらも降伏を余儀なくされた駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は港からの探照灯に照らされて沿岸砲台の攻撃を受けた。また、イタリア軍守備隊は8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を「シーク」に向けて発射し、「シーク」機関室に命中航行不能に陥った「シーク」は続けて砲弾を受けて大破した。

これを受けて駆逐艦「ズールー」「シーク」援護のために煙幕を展開し、大破して航行不能となった「シーク」を牽引、「ズールー」は自らも被弾しながらも海域の離脱を試みた。上陸部隊は完全に混乱に陥り、イタリア軍部隊の奮戦を受けて多くは戦死、もしくは捕虜となった夜明け頃には完全に英軍の上陸作戦は失敗し、上陸していない残存部隊は撤退を始めた。5時30分、ロンバルディ提督は水雷艇「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」に対して残存部隊の追撃を命令する。そして、イタリア空軍部隊も残存部隊の追撃に参加し(マッキ MC.200の戦闘爆撃機型が敵艦隊に多くの損害を与えた)、散り散りになった英海軍上陸艦隊は次々と撃沈されていった。結局、「ズールー」「シーク」、そして軽巡「コヴェントリー」艦隊と空軍の追撃で撃沈され、アレクサンドリア港まで帰還できた部隊は僅かであった。

朝7時にはロンバルディ提督は本部に撃退の完了を連絡した。結局、英軍側の「ダフォディル作戦」完全な失敗に終わることとなり軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)魚雷艇6隻揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受けるという大敗北となった。上陸部隊に関しては戦死は779名捕虜576名という被害であった。一方のイタリア軍側はロンバルディ提督による巧みな防衛指揮によってこれだけの大勝利を挙げておきながらも、損害を戦死16名(イタリア兵15名、ドイツ兵1名)、負傷50名(イタリア兵43名、ドイツ兵7名)に抑えることに成功したのである。自軍側は少ない損害で抑え、敵軍側に大損害を与えたロンバルディ提督の指揮は高く評価された。ここまで一方的な勝利は、イタリア海軍の歴史の中でも珍しく、それも相手はかの強大な英軍であった(まして、海の上の戦いだけでなく、陸上での戦いも含んでいた)。ロンバルディ提督の手腕とトブルク軍港守備隊の勇敢さは評価されるべきであろう。

さて、英軍部隊はトブルク軍港を夜間強襲する「ダフォディル作戦」の他に、キレナイカの各拠点を襲撃する陽動作戦を同時に行っていたが、結果として全て完全に失敗した。ベンガジへの強襲作戦であるスノードロップ作戦」は英軍部隊が悪路のために夜明けまでに到達出来ずに夜間奇襲に失敗、任務を中止して撤退したがイタリア空軍部隊に発見され、対地攻撃を受けて約半数の車輛が破壊、10名の兵士が戦死した。バルチェへの強襲作戦「ヒヤシンス作戦」及びジャロ・オアシス攻略を目的とした「チューリップ作戦」もイタリア軍側の反撃によって撤退し、一連の作戦は英軍の敗北に終わった。この圧倒的な勝利を受け、ロンバルディ提督はイタリア軍最高の名誉」とされるサヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。

 

リビア艦隊の崩壊、そして戦後

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ジュゼッペ・ディ・バルトロ中尉(Giuseppe Di Bartolo)。1943年1月19日のズアーラ沖海戦にてトリポリ港からの脱出を試みるが、英艦隊の襲撃を受けて戦死した。

しかし、彼とイタリア軍の栄光も長くは続かなかったエル・アラメインでの陸軍の大敗に続き、連合軍は仏領北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)を実行したことにより、北アフリカ戦線は崩壊の一途を辿り、イタリア軍は挟撃される事態となった。こうして、リビア艦隊は撤退に伴い、再度司令部をトブルクからベンガジ、更にトリポリに移すことになった。地中海の制海権も連合軍側が再度掌握していき、小規模なリビア艦隊にそれを防ぐ術は無かった絶望的な状況下で1943年を迎えたロンバルディは、トリポリから出来るだけ多くの部隊や物資を撤退させるべく行動に出た。ズアーラ沖海戦のような悲劇も発生したが、概ね残存艦隊の本国への引き上げには成功している。結局トリポリタニアの陥落と同時に、リビア艦隊は名目上の存在となり、ロンバルディは北アフリカを離れ、本国に帰還した。
ムッソリーニが王党派のクーデターによって逮捕された後、1943年8月にはパトラ軍港に司令部を置く西部ギリシャ海軍司令部の長官に任命され、正式にリビア隊司令官を辞任した。短い期間であったが、駆逐艦水雷艇を中心とするギリシャ方面の伊艦隊を率いて、本国との船団護衛等を指揮している。しかし、一カ月と待たずして9月8日の突如の休戦発表を聞き、ドイツ軍が迫りくる中、ド・クールタン参謀長の命令に従い直ちに残存艦隊をマルタに向けて出港を命じた。自らはパトラ軍港に残ったため、ドイツ当局に逮捕されることになった。ドイツ側からRSI海軍への合流を迫られるが、いかなる協力も拒否したため、ポーランドにあるスコッケン収容所に移送。1945年1月にソ連軍に解放されるまで、その地で囚われていた。
1946年に本国に帰還したロンバルディは予備役に編入、1952年には海軍上級中将に昇進。戦後は外交官として活動し、アルゼンチンに派遣、サン・ミゲル・デ・トゥクマンのイタリア領事館にて領事を1957年まで務めた。なお、サン・ミゲル・デ・トゥクマンは『母をたずねて三千里』で主人公マルコが最後に母と巡り合う町として知られる。1957年に帰国したロンバルディは、1978年3月25日、ローマにて没した。

 

◆参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Aldo Cocchia著 "La Difesa del traffico con l'Africa Settentrionale.La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale.Volume VII", Ufficio Storico della Marina Militare, 1962
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori

一隻の損失も出さなかった「輸送船団の守護神」! ジョヴァンニ・ガラーティ提督と駆逐艦「ヴィヴァルディ」

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ジョヴァンニ・ガラーティ提督(Giovanni Galati)

提督の戦歴シリーズも今回で三回目だ。さて、今回は「船団の守護神」たる若き名指揮官、ジョヴァンニ・ガラーティ(Giovanni Galati)提督の戦歴について見ていってみることにしよう。ガラーティ提督は駆逐艦「ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官で、30回を超える船団護衛任務の中で、敵潜水艦の猛攻や、敵機からの激しい空襲に見舞われながらも、巧みな指揮によって一隻も護衛対象である輸送船を失わなかったという、世界的に見ても素晴らしい戦歴を持つ指揮官だ。

彼は任務を成功させるためには司令部の命令を無視することさえしてみせた、大胆不敵な指揮官であった。中央地中海における英軍の猛攻とイタリア輸送船団の損害を見ると、対照的に彼の戦歴の凄さがわかるだろう。また、休戦後はイタリア艦隊の降伏に対し、「海軍の名誉に反する」として熱烈に反対した指揮官の一人としても知られている。

過去回はこちら↓

第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督

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第二回:フェルディナンド・カサルディ提督

associazione.hatenablog.com

 

 

◆その出自と大戦序盤の戦功

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士官学校時代の若き日のガラーティ。

1897年9月19日、ジョヴァンニ・ガラーティは南イタリア最大の都市であり、「永遠の劇場」と謳われるナポリの砲兵将校の家に生まれた。ガラーティは父ロベルトとは違い海軍への道を進み、1916年4月、海軍大尉として任官、第一次世界大戦には新型戦艦「カイオ・ドゥイリオ」の艦橋要員となった。大戦後半にはその若さにしてモニター艦「カルソ」の艦長を務め、カポシレの前線に展開アオスタ侯爵(Emanuele Filiberto di Savoia-Aosta)率いる第三軍の進軍を支援した。この活躍により、銀勲章を叙勲されている。この頃から勇敢な若き指揮官として評判であった。戦間期には巡洋艦「クアルト」の副艦長として、エチオピア戦争やスペイン内戦に参加している。
第二次世界大戦参戦時、ガラーティは海軍大佐だった。彼は駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」を旗艦とする第14駆逐戦隊の司令官を務めた。ガラーティ大佐はこのナヴィガトーリ級駆逐艦4隻から構成された戦隊を率いて、地中海における船団護衛戦の「主人公」となったのである。しかし、彼が船団護衛戦に従事するのは主に1941年からであり、1940年の段階では主力艦隊の作戦援護対潜哨戒任務機雷敷設任務等が中心となった。

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「ヴィヴァルディ」によって救出された英潜水艦「オズワルド」の水兵たち。

7月のプンタ・スティーロ海戦では援護艦隊の一員として参加、戦闘の際に雷撃を受けたが回避に成功している。対潜戦闘の指揮も優れ、8月にはスパルティヴェント岬沖にて対潜哨戒中に英潜水艦「オズワルド」を発見し、これを撃沈した。この際、撃沈した潜水艦の乗員を救助し、潜水艦の全乗員55名の内、大半の52名を救出することに成功している。これらの戦果から、プンタ・スティーロ海戦の援護艦隊における活躍で二度目の銀勲章を、「オズワルド」の撃沈によって三度目の銀勲章を叙勲されている。
10月にはボン岬沖の機雷敷設に従事。これは後に駆逐艦ハイペリオンを撃沈している。同月のパッセロ岬沖海戦では海戦後に生存者の救出任務に従事した後、戦線を離脱した英艦隊の捜索・追撃を行った。

 

◆「船団の守護神」の真骨頂

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ガラーティの旗艦・駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」。ナヴィガトーリ級駆逐艦の一隻で、第14駆逐戦隊の旗艦として数々の船団護衛任務を成功に導いた武勲艦である。

ガラーティの本領発揮は1941年からである。何故なら、ガラーティの真骨頂たる「船団護衛戦」が開始されたのは1941年からであったからだ彼は1941年1月から、1942年1月までの約1年間に30回を超える船団護衛任務に従事したが、巧みな指揮によって一隻の損失を出さずに船団を守り抜いたのだ。ガラーティの手腕は司令部にも高く評価され、「決して船を失わない」とさえ言われた
しかし、ガラーティは船団護衛の成功のために時折司令部の命令を無視する事も厭わなかった。これは英軍の的確な襲撃とその高い輸送船団消耗率を不審に思い、司令部にスパイがいるとガラーティが考えていたからである(実際は英軍側による暗号傍受が原因だった)。結果的に彼の大胆さは功を奏し、船団護衛を成功させたのであった。命令違反をしても勝てばよかろう、ということだ。
1941年に入ると、前年に引き続き、再度ボン岬への機雷敷設任務に従事し、その後「真骨頂」である船団護衛に従事することとなった。1月末には初の船団護衛任務を実行し、ナポリからトラーパニへの船団護衛に従事道中で英潜水艦の襲撃に遭遇したが、これを撃退し、無傷で船団を到達させた。その後も6月までの間に幾度もナポリ-トリポリ間の船団護衛任務に従事したが、この間に英軍機の激しい爆撃や潜水艦による雷撃を経験したが、全て回避に成功し、船団に一切の損失を出さず、目的地に到着させた。4月16日にはタリゴ船団の海戦」の生存者救出にも従事している。4月の船団護衛任務では敵潜水艦を返り討ちにした戦果から、銅勲章を叙勲された。6月7日から8月4日は整備のため旗艦「ヴィヴァルディ」がドッグ入りしたため、ガラーティは久々の休暇を過ごした。

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「ヴィヴァルディ」甲板で記念撮影を撮る水兵たち。

8月に入ってから再度任務を再開し、8月13日から15日、再度ナポリからトリポリへの船団護衛任務に従事したが、この時は特に困難な状況に遭遇した。この船団護衛戦では英軍機の激しい爆撃に加え、英潜水艦の襲撃にも遭遇するという、空と海中の両方からの激しい攻撃に晒されたのである。しかし、この状況の中でもガラーティは冷静に指揮し、英潜水艦を機雷で返り討ちにして撃退、対空砲火で雷撃機編隊も撃退している。この十字砲火の中でも船団の損失を一切出さずに無事目的地まで到達したのであった。この武勲により、二度目の銅勲章を叙勲された。その後も12月まで休みなく船団護衛任務に従事し、戦局の展開と共に、母港をナポリからメッシーナターラントに変更しながら、リビアへの船団を守り抜いた。

1942年1月3日から5日、ガラーティは第14駆逐戦隊での最後の船団護衛に従事した。シチリアメッシーナからトリポリへの船団護衛任務であった。当然、これも無傷で船団をリビアに到達させている。数々の船団護衛任務を成功に導いたその手腕は高く評価され、四度目の銀勲章を叙勲され、更にこれまでに六度の戦功十字章を叙勲された。第二次世界大戦において、ガラーティは3度の銀勲章(第一次世界大戦を含め累計4度)、2度の銅勲章、6度の戦功十字章を叙勲され、更にドイツ軍からも鉄十字章を叙勲されている。この勲章の多さからも、彼の武勲がわかるだろう。

 

◆不屈の精神、王への忠誠

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ガラーティの最後の旗艦となった、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」。第二次世界大戦時は機雷敷設任務や高速輸送任務、兵員輸送などで活用された旧式の軽巡洋艦ターラントに赴任したガラーティの下で最後の旗艦となり、ターラント湾への機雷敷設任務に従事した。戦後は復員船として活動。

1月7日、旗艦「ヴィヴァルディ」を降りたガラーティはリビア隊司令部参謀長に就任した。司令官のジュゼッペ・ロンバルディ提督(Giuseppe Lombardi)を補佐する役目を担った。枢軸軍の反撃でトブルクが解放されると、トブルク軍港の司令官も兼任した。後にリビア艦隊の総司令部がベンガジから移転され、トブルクに新たなリビア艦隊総司令部が設置されている。ロンバルディ提督は英軍のトブルク軍港奇襲作戦(アグリーメント作戦)を完全に粉砕することに成功し、英軍側に甚大な被害を与えたが、ガラーティはこの作戦迎撃には関与していなかったようだ。とはいえ、戦闘や空襲で深く傷ついたトブルク軍港の復旧にガラーティは尽力した。
1943年2月1日からは第14駆逐戦隊の司令官に再度就任したが、最早地中海の制海権は連合軍側に奪われており、最早ガラーティが戦果を挙げられる場はなかった。7月25日に海軍少将に昇進し、提督となった。46歳での提督の就任は、イタリア海軍でも特に若い提督の一人でもあった。8月12日には軽巡ルイージ・カドルナ」「ポンペオ・マーニョ」「シピオーネ・アフリカーノ」の3隻から構成された軽巡戦隊(旗艦・軽巡「カドルナ」)の司令官に任命され、ターラント軍港に着任短い期間ながら、本土沿岸の機雷敷設任務に従事し、連合軍の本土侵攻に備えた。一応、この時に設置された機雷原は後の連合軍によるイタリア半島進撃時にいくつかの艦船を撃沈する戦果を挙げている。それはまさしく、「イタリア海軍最後の抵抗」と言えるだろう。

しかし、9月8日に突如休戦の知らせが届き、ド・クールタン参謀長から連合国への艦隊の降伏を命じられる。ガラーティはこの命令に対して拒否を宣言し、連合軍の進軍から逃れるために北部へ艦隊を移送するか、特攻覚悟の艦隊決戦、更には名誉のための自沈を主張した。上官であるブリヴォネージ提督は「王の命令である」とガラーティの説得に当たったが、ガラーティは頑なに命令の遂行を拒否し意見を曲げなかった。ブリヴォネージは仕方なく、ガラーティを軍港内で"命令拒否による叛逆罪"として「逮捕」することを決断し、軍港内の独房に閉じ込められた。連合軍がターラント軍港を制圧した後、ガラーティはブリンディジに移転した海軍司令部に連行されている。
ガラーティは軍事法廷で裁かれることとなったが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世自ら裁判の停止を要請し、ガラーティを現役復帰させることを命じた。これを受け、ド・クールタン参謀長はガラーティに対し、何のペナルティも負わせずにそのまま現役に復帰させている。ガラーティは王党派であったが、このエピソードは彼の国王への忠誠心を更に高めることとなった
その後、チェファロニア島でドイツ軍の包囲下となっている「アックイ」師団の存在を知り、ド・クールタン参謀長の承認を得て、水雷艇「シリオ」及び「クリオ」医薬品、武器、弾薬、補給品を搭載し、救援に出発。しかし、連合軍側がこの出発に気付き、無許可の出撃を「救出は理由付けであり、実際は連合軍の支配下から逃れようとしている」と非難、任務を中止して帰還するよう警告した。ガラーティは立場上従わざるを得ず、これにより、「アックイ」師団の救出は連合軍側の介入で失敗することとなり、「アックイ」師団はドイツ軍によって虐殺された。もし、連合軍側の妨害がなく、彼が「アックイ」の救援に迎えていれば、5000人以上の命を救うことが出来ただろう。連合軍側は「アックイ」の将兵らを見殺しにしたのである。
その後、ティレニア艦隊司令官に短期間就任した後、海軍省付属となった。戦後、共和政移行に伴い、熱心な王党派であったガラーティは予備役となり、これまでの武勲を称えてイタリア軍事勲章が叙勲されているイタリア軍事勲章はサヴォイア軍事勲章と同格の「イタリア軍最高の名誉」とされる勲章であり、共和政移行後に王政時代のサヴォイア軍事勲章に替わる形で成立した。王党派であるガラーティが共和政となったイタリアの最高位の勲章を叙勲されたのは皮肉と言える。最終階級は海軍中将。1955年に退役し、1971年10月15日にローマにて没した。

 

◆主要参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori