英軍の夜間奇襲を返り討ち!トブルク防衛の「鉄壁」、ジュゼッペ・ロンバルディ提督の防衛戦術
提督の戦歴シリーズ第四回!今回はトブルク軍港防衛の手腕で知られる名指揮官、ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督の戦歴を見て行こう。ロンバルディ提督は、英軍のコマンド部隊によって綿密に計画された海・陸双方からのトブルク軍港への夜間奇襲作戦「アグリーメント作戦」を迎撃し、巧みな指揮でこれを完膚なきまでに粉砕した戦果で知られている。自軍側の損害は戦死16名・負傷50名で抑えたのに対し、英軍側は軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)、魚雷艇6隻、揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受け、上陸部隊に関しては戦死779名・捕虜576名という大損害であった。不意打ちに対して冷静に対応し、自軍側の損害を最小限に抑える一方で、敵側には大損害を与えるという「イタリア軍を舐めると痛い目に合う」というのを体現した人物と言えよう。
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第一回:アルベルト・ダ・ザーラ提督
第二回:フェルディナンド・カサルディ提督
第三回:ジョヴァンニ・ガラーティ提督
◆「鉄壁」の出自と、大戦前半の戦歴
1886年5月11日、ジュゼッペ・ロンバルディはフランス国境に近いピエモンテのドロネーロに三男として生まれた。長男のジャコモはアルピーニ(山岳兵)将校、次男のカルロは騎兵将校となり、ピエモンテ人らしい進路を歩んでいるが、ジュゼッペは海軍士官の道を目指した。1905年に少尉に任官され、海軍士官となった後、伊土戦争に従軍。戦艦「シチリア」に乗艦し、トリポリタニアにおける上陸作戦で活躍、この活躍により銀勲章を叙勲され、中尉に昇進した。
第一次世界大戦では駆逐艦「ストッコ」の副艦長を務め、アドリア海における数々の海軍作戦に従事。この武勲により戦功十字章を叙勲されている。終戦後、海軍少佐に昇進。ムッソリーニ政権成立後、間もなく発生したギリシャとの紛争(コルフ島事件)にて、エミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)の指揮の下、コルフ島の上陸を指揮。イタリアの外交的勝利に貢献した。その後は極東や東アフリカ方面など植民地方面での中心に勤務した後、ラ・スペツィア軍港司令官に就任。第二次世界大戦開戦時にはエーゲ艦隊司令官であった。
イタリアの参戦直前に本国に召還され、海軍中将に昇進した。ロンバルディ提督の第二次世界大戦における最初のキャリアは海軍諜報部(SIS)の長官としてであった。当時、イタリアには陸軍、海軍、空軍で別々の諜報機関が存在し、諜報活動も一本化されているわけではなかった。しかし、ロンバルディ提督率いるSISは正確な情報収集/分析に尽力し、イタリア海軍の作戦全般の円滑な遂行に貢献している。
1941年6月、SIS長官の地位をマウジェリ提督(Franco Maugeri)に譲り、潜水艦隊司令官に任命されたレニャーニ提督(Antonio Legnani)の後任として、軽巡「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」を旗艦とする第八巡洋戦隊司令官に任命されている。9月末には英海軍のマルタ補給作戦「ハルバード作戦」を妨害するためにイアキーノ提督(Angelo Iachino)率いる主力艦隊と共に出撃、ロンバルディ提督率いる第八巡洋戦隊は輸送船団に打撃を与えたが、阻止には失敗した。
ロンバルディ率いる第八巡洋戦隊はそれ以外に、何度か船団護衛に従事している。しかし、11月末の船団護衛任務時には英軍機の襲撃に遭遇。船団への損害は防いだが、英軍機の雷撃を受けて旗艦「アブルッツィ」が小破、帰港後ドック入りすることとなった。
◆「アグリーメント作戦」の完全粉砕
1942年に入ると、第八巡洋戦隊の指揮を離れ、ロンバルディはリビア艦隊司令長官に任命、トリポリ軍港に赴任した。なお、リビア艦隊の参謀長はガラーティ大佐(Giovanni Galati)である。北アフリカにおける戦局の好転により、リビア艦隊の司令部はまずベンガジ軍港、その後エジプト国境に近いトブルク軍港に移されている。本部をトブルクに移したリビア艦隊司令部は、小規模な艦隊しか有していなかったが、沿岸部の基地に展開したMAS艇部隊が大きな戦果を挙げている。例えば、8月29日に発生した「エル・ダバ沖海戦」では、イタリア軍が占領したエジプトのエル・ダバ空軍基地の艦砲射撃を実行しようとする英艦隊を迎撃し、魚雷艇の雷撃により駆逐艦「エリッジ」を撃沈、英艦隊の撃退に成功した。
9月には、英軍は軍全体の士気を回復するためにキレナイカの各イタリア軍陣地への夜間の同時的強襲作戦を計画した。これは4つの作戦で構成され、一つ目は本命である「ダフォディル作戦」ことトブルク港強襲作戦、二つ目は「スノードロップ作戦」ことベンガジ強襲作戦、三つ目は「ヒヤシンス作戦」ことバルチェ強襲作戦、四つ目は「チューリップ作戦」ことジャロ・オアシス強襲作戦で、これら4つを総称して「アグリーメント作戦」とした。すなわち、海上と陸上(砂漠)の双方からの同時攻撃によって進軍するイタリア・ドイツ軍の混乱を招く作戦だった。この大規模強襲作戦のそれぞれの詳細を説明すると、「スノードロップ作戦」「ヒヤシンス作戦」「チューリップ作戦」は全て内陸の砂漠地帯を通って奇襲する陽動作戦であり、本命の「ダフォディル作戦」のみが陸上及び海上からの同時奇襲攻撃であった。
リビア植民地のイタリア軍港設備は総じて未発達であり、更に連合国との攻防戦による損害もかなり多かった。リビア艦隊参謀長のガラーティ大佐は港湾設備の修復と改修に奔走することになった。そういった状況もあり、リビア艦隊の本部が置かれているトブルク軍港にも艦隊戦力は不足している状態であった。英軍のトブルク軍港襲撃時にトブルク軍港に展開していた艦隊は水雷艇3隻(「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」)、哨戒艇・揚陸艇7隻、MAS艇複数という実に小規模な艦隊のみであった。そして、海軍の「サン・マルコ」海兵と、カラビニエーリやリビア人兵士を含む陸軍部隊、基地防空を担う空軍部隊が港湾の防衛に従事していた。この小規模な艦隊と守備隊をリビア艦隊司令官のロンバルディ提督が指揮することとなった。
英軍側の作戦はジョン・エドワード・ハーセルデン中佐(John Edward Haselden)によって考案・計画され、英海軍地中海艦隊のヘンリー・ハーウッド提督(Henry Harwood)はこの綿密に計画された特殊作戦を許可した。陸軍・海軍から成るA~Eの5つの戦隊に分けられ、これに空軍部隊が加わった。A戦隊はハイファ港から出発した海軍部隊で、駆逐艦「シーク」及び「ズールー」で構成され、2隻の駆逐艦はイタリア海軍の駆逐艦迷彩を使ってイタリア艦に見せかけて偽装した。この2隻に約400名の海兵隊員が乗り込み、上陸作戦を担った。B戦隊は内陸のクフラ(自由フランス軍に制圧されたキレナイカ南部の拠点)から出発した陸軍部隊で、ドイツ軍部隊に偽装して港湾への侵入を試みた。C戦隊はアレクサンドリア港から出発した海軍部隊で、18隻のMTB魚雷艇で構成された。これに陸軍の機関銃部隊と対空砲部隊が乗り込み、A戦隊とは別の上陸作戦を担った。D戦隊はアレクサンドリア港から派遣された海軍部隊で、軽巡「コヴェントリー」を旗艦として、軽巡1隻・駆逐艦4隻で構成された。これは上陸艦隊の支援と戦隊の防衛を担っていた。更にE戦隊は潜水艦「タク」による上陸支援ビーコンの設置を担当した。
これらの作戦はトブルク軍港を攻略する本命の「ダフォディル作戦」で、先述した通り、これと同時攻撃として他に3つの陽動作戦が同時進行させた。後述するが、陽動はいずれも伊軍側の反応で失敗している。9月13日の夜20時30分、英空軍部隊がトブルク軍港を空襲した。この混乱の隙に20時45分、クフラから北上したB戦隊がドイツ軍部隊に偽装することで軍港内部に容易く潜入することに成功。B戦隊は野戦病院を襲撃してドイツ軍負傷兵を殺害した後、沿岸砲台の制圧を試みるためにイタリア軍守備隊と交戦状態に入った。B戦隊の不意打ちに対して伊軍守備隊は応戦し、手榴弾で撃退した。
9月14日午前0時、A戦隊とC戦隊の上陸部隊による攻撃をイタリア側は認識し、ロンバルディ提督はこれの迎撃と港湾の防衛を命令。E戦隊の潜水艦「タク」は海が荒れていたために上陸支援ビーコンの設置に失敗し、B戦隊とのコンタクトも取れなかった。B戦隊の失敗によってイタリア軍守備隊は強化され、イタリアの哨戒艇「Mz 733」がC戦隊を発見。0時30分、今度はイタリア哨戒艇「Mz 756」がC戦隊の分隊を発見し、2隻の哨戒艇は分散したC戦隊を追撃する。B戦隊はイタリア軍守備隊との交戦のためC戦隊との連絡が取れず、結果としてC戦隊の上陸の前にA戦隊の上陸を命令した。しかし、海岸での戦闘によって指揮官であるハーセルデン中佐はヘッドショットを受けて戦死。作戦は混乱を極めた。3時頃、展開する英海軍上陸部隊を発見したリビア艦隊の水雷艇「カシーノ」「カストーレ」「モンタナーリ」の3隻は上陸部隊を迎撃し、魚雷艇や揚陸艦の数々を撃沈している。
英空軍の爆撃は3時40分に終了し、4時30分にA戦隊の駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は、潜水艦「タク」が設置する予定だった上陸支援ビーコンが無いため、計画とは異なるトブルク西側の海岸にて海兵隊部隊を上陸させてしまった。伊海軍の「サン・マルコ」海兵とカラビニエーリは上陸部隊を発見してこれを攻撃、揚陸艇が次々と撃沈される事態となった。結果として上陸出来たのは150人に過ぎず、それらも降伏を余儀なくされた。駆逐艦「シーク」及び「ズールー」は港からの探照灯に照らされて沿岸砲台の攻撃を受けた。また、イタリア軍守備隊は8.8cm高射砲(所謂アハト・アハト)を「シーク」に向けて発射し、「シーク」の機関室に命中。航行不能に陥った「シーク」は続けて砲弾を受けて大破した。
これを受けて駆逐艦「ズールー」は「シーク」援護のために煙幕を展開し、大破して航行不能となった「シーク」を牽引、「ズールー」は自らも被弾しながらも海域の離脱を試みた。上陸部隊は完全に混乱に陥り、イタリア軍部隊の奮戦を受けて多くは戦死、もしくは捕虜となった。夜明け頃には完全に英軍の上陸作戦は失敗し、上陸していない残存部隊は撤退を始めた。5時30分、ロンバルディ提督は水雷艇「カストーレ」「カシーノ」「モンタナーリ」に対して残存部隊の追撃を命令する。そして、イタリア空軍部隊も残存部隊の追撃に参加し(マッキ MC.200の戦闘爆撃機型が敵艦隊に多くの損害を与えた)、散り散りになった英海軍上陸艦隊は次々と撃沈されていった。結局、「ズールー」「シーク」、そして軽巡「コヴェントリー」は艦隊と空軍の追撃で撃沈され、アレクサンドリア港まで帰還できた部隊は僅かであった。
朝7時にはロンバルディ提督は本部に撃退の完了を連絡した。結局、英軍側の「ダフォディル作戦」は完全な失敗に終わることとなり、軽巡「コヴェントリー」及び駆逐艦2隻(「ズールー」「シーク」)、魚雷艇6隻、揚陸艦他多数の艦艇を撃沈され、その他殆どの艦艇が損害を受けるという大敗北となった。上陸部隊に関しては戦死は779名、捕虜576名という被害であった。一方のイタリア軍側はロンバルディ提督による巧みな防衛指揮によってこれだけの大勝利を挙げておきながらも、損害を戦死16名(イタリア兵15名、ドイツ兵1名)、負傷50名(イタリア兵43名、ドイツ兵7名)に抑えることに成功したのである。自軍側は少ない損害で抑え、敵軍側に大損害を与えたロンバルディ提督の指揮は高く評価された。ここまで一方的な勝利は、イタリア海軍の歴史の中でも珍しく、それも相手はかの強大な英軍であった(まして、海の上の戦いだけでなく、陸上での戦いも含んでいた)。ロンバルディ提督の手腕とトブルク軍港守備隊の勇敢さは評価されるべきであろう。
さて、英軍部隊はトブルク軍港を夜間強襲する「ダフォディル作戦」の他に、キレナイカの各拠点を襲撃する陽動作戦を同時に行っていたが、結果として全て完全に失敗した。ベンガジへの強襲作戦である「スノードロップ作戦」は英軍部隊が悪路のために夜明けまでに到達出来ずに夜間奇襲に失敗、任務を中止して撤退したがイタリア空軍部隊に発見され、対地攻撃を受けて約半数の車輛が破壊、10名の兵士が戦死した。バルチェへの強襲作戦「ヒヤシンス作戦」及びジャロ・オアシス攻略を目的とした「チューリップ作戦」もイタリア軍側の反撃によって撤退し、一連の作戦は英軍の敗北に終わった。この圧倒的な勝利を受け、ロンバルディ提督は「イタリア軍最高の名誉」とされるサヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。
◆リビア艦隊の崩壊、そして戦後
しかし、彼とイタリア軍の栄光も長くは続かなかった。エル・アラメインでの陸軍の大敗に続き、連合軍は仏領北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)を実行したことにより、北アフリカ戦線は崩壊の一途を辿り、イタリア軍は挟撃される事態となった。こうして、リビア艦隊は撤退に伴い、再度司令部をトブルクからベンガジ、更にトリポリに移すことになった。地中海の制海権も連合軍側が再度掌握していき、小規模なリビア艦隊にそれを防ぐ術は無かった。絶望的な状況下で1943年を迎えたロンバルディは、トリポリから出来るだけ多くの部隊や物資を撤退させるべく行動に出た。ズアーラ沖海戦のような悲劇も発生したが、概ね残存艦隊の本国への引き上げには成功している。結局トリポリタニアの陥落と同時に、リビア艦隊は名目上の存在となり、ロンバルディは北アフリカを離れ、本国に帰還した。
ムッソリーニが王党派のクーデターによって逮捕された後、1943年8月にはパトラ軍港に司令部を置く西部ギリシャ海軍司令部の長官に任命され、正式にリビア艦隊司令官を辞任した。短い期間であったが、駆逐艦や水雷艇を中心とするギリシャ方面の伊艦隊を率いて、本国との船団護衛等を指揮している。しかし、一カ月と待たずして9月8日の突如の休戦発表を聞き、ドイツ軍が迫りくる中、ド・クールタン参謀長の命令に従い直ちに残存艦隊をマルタに向けて出港を命じた。自らはパトラ軍港に残ったため、ドイツ当局に逮捕されることになった。ドイツ側からRSI海軍への合流を迫られるが、いかなる協力も拒否したため、ポーランドにあるスコッケン収容所に移送。1945年1月にソ連軍に解放されるまで、その地で囚われていた。
1946年に本国に帰還したロンバルディは予備役に編入、1952年には海軍上級中将に昇進。戦後は外交官として活動し、アルゼンチンに派遣、サン・ミゲル・デ・トゥクマンのイタリア領事館にて領事を1957年まで務めた。なお、サン・ミゲル・デ・トゥクマンは『母をたずねて三千里』で主人公マルコが最後に母と巡り合う町として知られる。1957年に帰国したロンバルディは、1978年3月25日、ローマにて没した。
◆参考文献
・Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
・Aldo Cocchia著 "La Difesa del traffico con l'Africa Settentrionale.La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale.Volume VII", Ufficio Storico della Marina Militare, 1962
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
・B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
・Giuseppe Fioravanzo著 "La Marina Italiana nella Seconda Guerra Mondiale. Vol. V: La Guerra nel Mediterraneo – Le azioni navali: dal 1º aprile 1941 all'8 settembre 1943", Ufficio Storico della Marina Militare, 1960
・Giorgio Giorgerini著 "La guerra italiana sul mare. La Marina tra vittoria e sconfitta 1940-1943", 2002, Mondadori