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第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史①:リソルジメントと統一海軍の誕生

木栓さんのフランス海軍通史に影響を受けて、せっかくなので私はイタリア海軍の通史を書いてみようと思います。第二次世界大戦のイタリア海軍の戦歴はブログの方でも結構書いたので、今回はリソルジメントから戦間期にかけて、ということで。

「イタリア海軍」の通史を書くにあたり、悩んだのが「書き始め」です。イタリアは統一国家としての歴史は浅いものの、イタリア半島を支配する国々にとって地中海における海軍力は非常に重要なものでした。勿論、歴史を遡ればローマ帝国にまで至るわけですが、流石にそれを「イタリア海軍」として論じるのはどうかと。となると、ヴェネツィアジェノヴァといった海洋共和国?うーん、と悩んで結局は統一国家としての「イタリア海軍」が誕生したリソルジメントあたりから論じることにします。機会があったら海洋共和国の海軍史も書いてみたいですね。専門外ですが....。参考文献は後日整理してから纏めて紹介する予定です。

第二次世界大戦時の伊海軍についてはこちらをどうぞ↓

 

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現在のイタリア海軍(Marina Militare)の紋章。 かつてイタリアに存在した四つの海洋共和国(repubbliche marinare)の国旗をあしらったもの。左上がヴェネツィア共和国、右上がジェノヴァ共和国、左下がアマルフィ共和国、右下がピサ共和国。ヴェネツィア海洋史博物館にて筆者撮影。

イタリアは古くより海運が発展した地であった。現在のイタリア海軍旗の紋章にも描かれている4つの海洋共和国(ヴェネツィアジェノヴァ、ピサ、アマルフィ)がその代表格と言えるだろう。ジェノヴァ共和国アンドレア・ドーリア提督(Andrea Doria)や、ヴェネツィア共和国バスティアーノ・ヴェニエル(Sebastiano Venier)アゴティーノ・バルバリーゴ(Agostino Barbarigo)といった数々の優秀な海軍指揮官を生み、更にクリストーフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)を始めとするイタリア出身の航海者たちは大航海時代に重要な役割を果たしたことは世界的にもよく知られているコロンボは日本では「クリストファー・コロンブス」の名で世界史の教科書でもお馴染みだろう。

 

サルデーニャ海軍と両シチリア海軍

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サルデーニャ海軍のフリゲート「サン・ミケーレ(San Michele)」。ジェノヴァのフォーチェ海軍工廠にて建造され、1842年にサルデーニャ海軍で就役。サルデーニャ海軍最大のフリゲートで、第一次独立戦争におけるヴェネツィア支援においてヴェネツィア艦隊及び両シチリア艦隊と共闘した。その後はクリミア戦争やガエータ包囲戦などに参加したが、統一後にイタリア海軍に編入されると、旧式だったため練習船として運用された。1875年に解体。

現在に繋がる「イタリア」という国が出来たのは1861年のことであり、それまではイタリア半島島嶼部には大小様々な国家が存在していた。イタリアの統一の中心となったのは、北部イタリアのサルデーニャ王国である。欧州屈指の名門サヴォイア家が統治するこの国家は、1815年のウィーン会議の結果、旧ジェノヴァ共和国領を併合していた。
しかし、海軍力的にはボルボーネ家(ブルボン家)が治める南部イタリアの両シチリア王国の方が、技術、艦船、士官の練度、そして訓練の面と全ての分野で優れていたと言って良い。歴史的にもサルデーニャ王国とその前身たるサヴォイア公国は海軍国としては微妙なところで、フランス革命前までは海軍の英雄もレパントの海戦サヴォイア公国でたった一隻だけ参加したアンドレア・プロヴァーナ提督(Andrea Provana)ぐらいしかいない陸軍国だった。フランス革命戦争ではフランス軍の侵攻で王国政府は大陸領土のピエモンテを失い、サルデーニャ島に追いやられたため、ジョルジョ・デス・ジェネイス提督(Giorgio Des Geneys)ドメニコ・ミッレリーレ提督(Domenico Millelire)などの指揮官が活躍して、サルデーニャ島の仏軍上陸を阻止する戦果を挙げ、歴史においては久々の海戦での戦果となった。デス・ジェネイス提督はナポレオン戦争後、サルデーニャ海軍の再建に尽力し、後の「イタリア海軍」の基盤を築いたとも言えるため、彼を「イタリア海軍の父」と見做す意見もある。

 

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シチリア海軍の戦列艦「モナルカ(Monarca)」。カステッランマーレ・ディ・スタービア王立海軍工廠にて建造され、両シチリア海軍にて1852年に就役。就役当時、イタリア諸邦最大の軍艦だった。1860年サルデーニャ海軍に拿捕され、艦名を「レ・ガラントゥオーモ(Re Galantuomo)」に変更している。そのままイタリア海軍籍となった後は、旧式ながら第三次独立戦争での哨戒任務に従事する等活躍した。1875年に除籍。

 

対する両シチリア王国海軍は英仏両国からの支援により高度な訓練を受けていただけでなく、ナポレオン時代にジョアッキーノ・ミュラ(Gioacchino Murat)の治世下で海軍の発達に多大な努力が払われ、極めて優れた海軍力を持っていたのである。両シチリア王国の前身となったナポリ王国シチリア王国の時代から、長い海岸線を持つため海軍力の維持は必須であったからだ。フランチェスコ・カラッチョロ提督(Francesco Caracciolo)ジョヴァンニ・バウサン提督(Giovanni Bausan)といったナポリ海軍の名指揮官がフランス革命戦争/ナポレオン戦争期に活躍し、前者は1795年のジェノヴァ沖海戦でフランス艦隊を破り(とはいえ後にフランスの衛星国である共和国海軍に合流した)、後者は1808年のカプリ沖海戦でフランス側で戦い、英艦隊に大勝している。彼らは現在でもイタリアを代表する優秀な海軍指揮官として記憶されている。

 

◆統一イタリア海軍、足並み揃わず

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イタリア王国初代首相となったカミッロ・ベンソ・カヴール伯(Camillo Benso, conte di Cavour)。小国であるサルデーニャ王国によるイタリア統一を実現した名宰相として名高いが、海軍の統一にも非常に熱心であった。しかし、統一直後に死亡してしまっている。イタリア海軍では伝統的に彼の名を主力艦に採用している。著名なものでは、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」や航空母艦「カヴール」などが有名だろう。

1861年サルデーニャ王国の元でイタリアが統一されると、イタリア王国初代首相となったカミッロ・ベンソ・カヴール伯(Camillo Benso, conte di Cavour)の元で、新生イタリア海軍が設立された。イタリアは長い海岸線を持ち、海軍力の強化は国土防衛のためにも必須であったからである。王立サルデーニャ海軍と王立両シチリア海軍の二大海軍、そしてトスカーナ大公国海軍と、1870年のローマ制圧により教皇領海軍も統合される形で「海軍の統一」が行われた。トスカーナ艦隊と教皇領艦隊はいずれも戦力に乏しかったため、事実上はサルデーニャ海軍と両シチリア海軍が統合された形であった。カヴール伯は海軍の組織に熱心であったが、旧諸邦海軍は習慣や訓練などが異なり、統合は容易ではなかった。また、カヴール伯が統一直後に没したこともあり、その後の海軍の統合は遅れを取る形となった

 

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教皇領海軍のコルベット「インマコラータ・コンチェツィオーネ(Immacolata Concezione)」。日本海軍の戦艦「富士」「敷島」を建造した事でも知られる英国のテムズ鉄工造船工業にて建造され、1859年に教皇領海軍で就役した。1870年のイタリア軍によるローマ侵攻によって、イタリア海軍籍に編入。1877年、フランスに売却され、1888年に解体。

 

原因はやはり、サルデーニャ海軍派閥と旧両シチリア海軍派閥の対立が大きく、サルデーニャ派閥のジェノヴァ海軍士官学校と旧両シチリア派閥のナポリ海軍士官学校が別々に存在したことも深刻だった。更に、ピエモンテ閥を中心とするイタリア政府は両シチリア王国時代の工業地区や兵器工廠を次々と閉鎖に追い込み、重工業を北部に集中させたため、南部の工業は著しく衰退して現在まで続く南北問題に繋がった。これは旧両シチリア海軍派閥の反発を更に増幅させた。両シチリア王国併合の際に、海軍の士官はそのままイタリア海軍への合流が許されたが、下士官と水兵は何の保証もなく兵役を解かれたことも不満が広がった。また、カヴール死後に海軍相を歴任したアルフォンソ・ラ・マルモラ(Alfonso La Marmora)ディエゴ・アンジョレッティ(Diego Angioletti)の時代は海軍は予算不足の関係で発展が停滞し、建艦計画も縮小せざるを得なくなり、訓練と艦隊行動も制限されて士気の低下にも繋がった。その状態で突入した1866年の第三次イタリア独立戦争における、所謂「リッサ海戦」ではカルロ・ペルサーノ提督(Carlo Pellion di Persano)率いるイタリア艦隊はテゲトフ提督(Wilhelm von Tegetthoff)率いるオーストリア艦隊に無残にも敗北したのであった。

 

次回は伊土戦争について紹介します!

次回↓

 

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第二次世界大戦時のイタリア戦艦と艦長たち:その②

さて、今回は前回の続きという事で、引き続き第二次世界大戦時のイタリア戦艦の艦長たちを紹介したいと思う。前回の記事はこちら↓

 

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今回は以下の三名について紹介する。

この3名はいずれもイタリア戦艦の艦長の中では結構有名な方である。というのも、スパルツァーニは休戦後はRSI海軍参謀長、ペコリ・ジラルディは戦後に海軍参謀長と要職を務め、デル・チーマ艦長は悲劇の戦死を遂げた人物であるからだ。

 

◆ジュゼッペ・スパルツァーニ GIUSEPPE SPARZANI
―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長 (1940.4.30-1942.2.17)

 

◆コルソ・ペコリ・ジラルディ CORSO PECORI GIRARDI
―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長 (1942.2.18-1943.11.4)

 

◆アドネ・デル・チーマ ADONE DEL CIMA
―戦艦「ローマ」艦長 (1941.9.20-1943.9.9)

 

◆ジュゼッペ・スパルツァーニ 
GIUSEPPE SPARZANI

1899.10.19-1964.2.13

―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長
 (1940.4.30-1942.2.17)

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イタリア社会共和国(RSI政権期)に撮影された写真で、右の人物が戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長を務めたジュゼッペ・スパルツァーニ(Giuseppe Sparzani)。この時点ではイタリア社会共和国海軍(RSI海軍, MNR)の参謀長。RSI軍バルバリーゴ海兵大隊の閲兵。

戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」初代艦長。

1899年10月19日、ヴェネツィアにて生誕。1912年にリヴォルノ海軍士官学校に入学し、第一次世界大戦中の1916年に任官。戦時中は装甲巡洋艦「サン・マルコ」、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」に乗艦してアドリア海での軍事作戦に参加した。大戦を通じて大尉に昇進。戦間期重巡洋艦「ポーラ」の副艦長(1924-25)砲艦「マレキアーロ」艦長(1925-26)を歴任。1928年に少佐に昇進後は、重巡洋艦トレント」の砲術長を1930年まで務め、その後は駆逐艦「ラ・マーサ」艦長を務めた。1933年に中佐に昇進。1936年-37年に掛けては装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ」艦長を務め、スペイン内戦における軍事作戦に従軍した。

1938年には大佐に昇進し、同年に重巡洋艦「フィウーメ」艦長に就任。その後、当時建造中だった新造戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の艤装員長に任命され、竣工と共に初代艦長に就任している。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の艦長として、テウラダ岬沖海戦やマタパン岬沖海戦といった主要な海戦で指揮をした。「ヴィットリオ・ヴェネト」は「リットリオ」がターラント空襲で大破してドッグ入りすると、イニーゴ・カンピオーニ提督(Inigo Campioni)、後にアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)が率いる主力艦隊の旗艦となったため、スパルツァーニ大佐は旗艦の艦長だった。

特にマタパン岬沖海戦では彼の指揮によって、英空母「フォーミダブル」艦載機からの攻撃を受けた際、艦のダメコンを適切に行って、損傷を受けたものの撃沈を免れて母港に帰港することが出来たテウラダ岬沖海戦での戦功も合わせて、戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長として2度の戦功銀勲章、1度の戦功銅勲章を叙勲されている。

1942年2月より海軍総司令部(スーペルマリーナ)所属の海軍軍需局長に任命されたことで、艦を降りた。1943年1月には海軍准将に昇進している。熱心なファシストではなかったが、休戦後はイタリア社会共和国海軍(RSI海軍, MNR)に合流。アントニオ・レニャーニ提督(Antonio Legnani)が事故死した後、後任の海軍参謀長に就任。「デチマ・マス」のユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐(Junio Valerio Borghese)との「政争」で海軍次官のフェッルッチョ・フェッリーニ大佐(Ferruccio Ferrini)が失脚した後、1944年2月より後任の海軍次官にも兼任海軍の再編と戦力補填に尽力した

終戦により連合軍によって捕らえられ、RSI側に付いていた事からパージ裁判によって公職追放された。1964年2月13日、ローマにて没。

 

◆コルソ・ペコリ・ジラルディ 
CORSO PECORI GIRARDI

1899.7.9-1964.5.17

―戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長
 (1942.2.18-1943.11.4)

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戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長、コルソ・ペコリ・ジラルディ大佐((Corso Pecori Girardi)。制服的におそらく戦後の共和政移行後に撮られた写真。

戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長(1942.2-1943.11)。

1899年7月9日、ナポリ近郊のポッツオーリにて生誕ペコリ・ジラルディ家はフィレンツェ発祥の名門貴族。第一次世界大戦のイタリア陸軍の名将であり、伊陸軍元帥であったグリエルモ・ペコリ・ジラルディ将軍(Guglielmo Pecori Giraldi)は叔父。

1913年にリヴォルノ海軍士官学校に入学し、1917年に少尉として任官。第一次世界大戦中は新造戦艦である戦艦「カイオ・ドゥイリオ」に乗艦した。戦間期1921年に偵察艦「プレムダ」の砲術長に任命され、1923年まで務めた。1924年から25年までは海軍兵学校の副校長を務め、その後駆逐艦「クィンティーノ・セッラ」艦橋役員、続いてスポレート公アイモーネ・ディ・サヴォイア(Aimone di Savoia)の副官を務めた。

1928年、砲艦「アンドレア・バフィーレ」艦長に就任。初めて艦長に就任した。ロンドン海軍軍縮条約のイタリア海軍代表団や駆逐艦艦長などを歴任し、1937年には駆逐艦「ヴィンチェンツォ・ジョベルティ」艦長に就任、スペイン内戦における軍事作戦に参加している。1938年からは駐独イタリア大使館駐在武官として派遣された。これは、彼がドイツ語に非常に堪能だったことを買われたためである。第二次世界大戦開戦後も1941年まではベルリンで勤務していた。そういった経験から、ドイツ軍側からも信頼される人物であった。1941年1月からはギリシャ作戦における上部エーゲ海隊司令部の長官を務め、ドイツ海軍との共同作戦により、第1級及び第2級鉄十字章を叙勲された。

その後、スパルツァーニ大佐の後任として、1942年2月より戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の第二代艦長に就任している。「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長時代の彼の特に著名な戦果として、6月中旬の海戦(ヴィガラス作戦迎撃)では敵の攻撃に怯むことなく進撃を続け、空軍と共同作戦によって英艦隊の船団輸送を完全に失敗に追い込むことに成功したことが挙げられるだろう。この戦功によって、伊軍最高の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている。

休戦時も「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長であり、旗艦「ローマ」が撃沈される中で無事にマルタまで辿り着くことに成功した。このため、そのまま共同交戦軍側に合流している。1943年11月に艦を降り、海軍准将に昇進した。昇進後は共同交戦海軍の軍令部作戦部長に就任し、共和政移行後も1947年1月まで職務を続けた。戦後も海軍の要職を歴任し、1955年には海軍参謀長に就任。1962年まで務め、戦後におけるイタリア海軍の再建で大きな役割を果たした。まさに、戦後イタリア海軍再建の立役者と言える人物。1964年5月17日、駐在武官時の任地であったドイツを訪問中に急死。

 

 

◆アドネ・デル・チーマ 
ADONE DEL CIMA

1898.6.7-1943.9.9

―戦艦「ローマ」艦長
 (1941.9.20-1943.9.9)

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戦艦「ローマ」艦長、アドネ・デル・チーマ艦長(Adone del Cima)。艦と運命を共にした「悲劇の艦長」として名を知られている。

戦艦「ローマ」の初代艦長にして、最後の艦長。

1898年6月7日、トスカーナのヴィアレッジョにて生誕。リヴォルノ海軍士官学校に入学後、1917年に任官。第一次世界大戦時は戦艦「レ・ウンベルト」に乗艦。戦時中の功績から中尉に昇進後、戦後間もなくアルバニア沿岸の機雷除去のため、掃海艇の艇長として作戦に従事している。戦間期戦艦「コンテ・ディ・カヴール」の砲術員を務めた後、ラ・スペツィア沿岸警備のMAS艇指揮官を務めている。

1932年、少佐に昇進した後、駆逐艦「フルミネ」艦長に就任。その後、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」副艦長に任命され、中佐に昇進後は1939年より第8駆逐戦隊司令官(旗艦は駆逐艦「フォルゴレ」)。第8駆逐戦隊司令官としてはアルバニア侵攻における上陸艦隊支援に従事し、この活躍により戦功十字章を叙勲されている。

1940年6月10日、イタリアが第二次世界大戦に参戦すると、彼は水雷艇「アルタイル」を旗艦とする第12水雷戦隊の司令官だった。マルタ周辺における機雷敷設任務に従事し、英海軍に大きな損害を与えている。このため、二度目の戦功十字章を叙勲された。1940年11月には大佐に昇進、海軍総司令部(スーペルマリーナ)に異動となった。

1941年9月、建造中の戦艦「ローマ」の艤装員長に就任1942年6月に「ローマ」が竣工すると、そのまま初代艦長に就任している。「ローマ」は待望の新造戦艦として竣工したものの、訓練任務を終えた頃には地中海の制海権は連合国側に渡っており、更にイタリア海軍は燃料不足によって出撃すら困難な状態となっていた。そのため、「ローマ」艦長としてのデル・チーマ艦長の任務は訓練任務と、母港に襲来する連合軍機に対する防空任務であった。1943年6月5日のラ・スペツィア空襲では連合軍機の爆撃によって「ローマ」は損傷。続いて同月24日にも夜間の爆撃により被弾したため、ドッグ入りして修復。8月には戦列に復帰した。

1943年9月の休戦により、カルロ・ベルガミーニ提督(Carlo Bergamini)率いる主力艦隊の旗艦となっていた「ローマ」は姉妹艦と共に海軍総司令部の命令に従って、連合国側への降伏のためにマルタに向かった。しかし、「ローマ」はその道中であるサルデーニャ島近郊のアジナーラ島沖合にて、昨日までの友軍であるドイツ軍の爆撃を受け、轟沈全乗組員1946人のうち、艦長であるデル・チーマ大佐、艦隊司令官のベルガミーニ提督を含む乗組員1352人が犠牲となった。

最初で最後の、唯一の戦艦「ローマ」の艦長は悲劇の戦死を遂げたのである

 

さて、今回は「ヴィットリオ・ヴェネト」と「ローマ」の艦長たち3名を紹介してみた。次回の更新はいつになるかわからないが、「コンテ・ディ・カヴール」や「アンドレア・ドーリア」あたりを紹介したいと思っている。ではまた!アッリヴェデルチ!

 

◆主要参考文献
・Paolo Alberini, Franco Prosperini共著 "Uomini della Marina 1861-1946", 2016, UFFICIO STORICO DELLA MARINA MILITARE 
・Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori