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「イタリア帝国」の地下資源 —ファシスト政権による本土と植民地のアウタルキー経済―

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「イタリア帝国」における資源マップ(第二次世界大戦時の伊軍占領地は含まない)

ムッソリーニ率いるファシスト政権のもと、「イタリア帝国」は絶頂期を迎えた。「輸入大国」であったイタリアは産業のテコ入れとアウタルキー政策によって、赤字続きだった貿易収支を黒字に転じさせることに成功した。ファシスト政権は様々な分野でアウタルキーを目指したが、今回はその中でも資源分野に注目したいと思う。

「イタリアは資源が乏しい」と考えられがちであるが、燃料資源においてはそうだったが、鉱物資源に関しては古くから豊富に採掘されていた。また、燃料資源の不足はファシスト政権も深く認識していたため、「帝国領内」における資源開発を急いだ。サルデーニャ島における炭鉱開発や、AGIPによる植民地における油田探鉱・開発(成功例はアルバニアくらいだったが)が例として挙げられる。

 

■イタリア本土の地下資源

サルデーニャ島における炭鉱開発

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カルボーニア:セルバリウ鉱山の坑道

サルデーニャ島における炭鉱開発ファシスト政権による資源アウタルキー政策の典型例として知られている。地中海に浮かぶサルデーニャ島古くから鉄や金銀などの採掘が行われており、イタリアではトスカーナと共に鉱物資源に恵まれた地域として知られていた。ファシスト政権期においても、アルジェンティエーラ鉱山(Argentiera)で産出される鉄鉱石や鉛オルメド鉱山(Olmedo)ボーキサイトなどは戦争を推し進める軍の軍需物資としても重宝されている。

サルデーニャ島では1870年代からバク・アビス(Bacu Abis)で石炭の採掘が開始されており、燃料資源に乏しいイタリアにとっては貴重な炭田であった。イタリアは燃料資源において完全に外国に依存しており、第一次世界大戦前は英国、第一次世界大戦後はドイツから石炭の輸入に頼っていた。外国に資源の輸入を依存するということのリスクの高さはムッソリーニも認識しており、それを少しでも改善するために国内の資源開発に力を注ぐことになった。1930年代になるとSMCSによってサルデーニャ島での新たな炭田開発を行ったが、こうして誕生したのがカルボーニア鉱山(Carbonia)である。

カルボーニアはその名の通り、この地で産出される石炭(Carbone)に由来した名前だ。建築を重視するファシスト政権はこの新鉱山の開発と同時に、鉱山労働者のための新都市建設を行った鉱山労働者として、イタリア各地の失業者がこの地に移住し、コミュニティを形成していったのである。カルボーニアは貴重な燃料鉱山だったために、大戦中には連合軍による空爆対象とされ、戦後にはイタリアのECSC入りに大きく貢献する存在となった。ただ、カルボーニアは約50万トンの石炭を産出した一方で、産出される石炭の質は悪かった

 

◆中部:鉱物資源の宝庫、トスカーナ

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マッサ・マリッティマの鉱山跡に残るかつてのトロッコ

トスカーナは古くから鉱物資源が豊かな地として知られ、その資源開発の歴史はエトルリア時代からとかなり古い。トスカーナ西部に広がるメタッリーフェレ丘陵(Colline Metallifere)銅や鉛、ボーキサイトなどの鉱物資源が豊富だ。この丘陵に位置する町々は鉱山と共に発展した歴史を持っている。

例えば、マレンマ地方のマッサ・マリッティマ(Massa Marittima)近辺は古代から鉄鉱石などの鉱物採掘と加工工業で栄えた。マレンマ地方は湿地帯故にマラリアに悩まされており、それに伴いマッサ・マリッティマも衰退していったが、ファシスト政権の下で農地を増やすことを目的とした大規模干拓(所謂「大地の戦い」)がマレンマ地方で行われたことと同時に、政権による積極的な鉱山開発が行われ、都市は再度鉱山の町として息を吹き返した。他には、ガヴォッラーノ(Gavorrano)の黄鉄鉱、そして貴重な石炭を産出するリボッラ(Ribolla)などがメタッリーフェレ丘陵に位置した。

また、トスカーナの鉱山で忘れてはならない存在として、エルバ島がある。ナポレオンが島流しになったことで知られるこの島は、現在はサルデーニャ島同様にリゾート地として知られているが、鉱山と共に発展した島である。エルバ島東部のリオ・マリーナ(Rio Marina)エルバ島の鉱物採掘の中心地であり、この地から鉄鉱石を中心とする産出された鉱物が積み出され、船で本土に運ばれた。故に、ジェノヴァやピサといった海洋共和国だけでなく、スペインやフランスといった大国もエルバ島を狙ったのである。

イタリアの鉱山企業で有名なモンテカティーニ社も、本社をフィレンツェに置いていた。元々は化学工業で発展した企業で、化学肥料に使う合成窒素や、弾薬用の火薬、医薬品、水力発電、化学繊維や染料などなど、さまざまな分野を手掛けていた。ファシスト政権期のイタリア経済発展において重要な役割を果たした企業として知られる。イタリアがECSC内で重要な役割を果たした理由の一つとして、トスカーナの鉱物資源の存在は大きかった。カッラーラ(Carrara)の大理石ヴォルテッラ(Volterra)のアラバストロなど、芸術品や建築に用いる石材の採掘も現在においても有名である。

 

◆南部:シチリアの硫黄と、プーリアのボーキサイト

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トラボネッラ(Trabonella)硫黄鉱山の坑道

鉱山開発を南部の方に目を向けてみよう。シチリア古代より硫黄の産出地として知られた。ローマ人は医療と軍事の分野で硫黄を重宝したのである。シチリアの硫黄鉱山の規模は非常に大きいシチリア中部のイメラ渓谷(Valle dell'Imera)を中心に数百もの硫黄鉱山がシチリアには存在し、その生産量はかつて世界一を誇ったほどである。

硫黄は火薬の原料として最も重要な軍需物資である。そういうこともあり、ファシスト政権はシチリアの硫黄鉱山開発に着目した。かの有名な作家、ルイージピランデッロも親がアグリジェントの硫黄産業に勤めていた。シチリアの硫黄産業は実に文化や芸術とも密接なかかわりを持ったのである。しかし、劣悪な労働環境故に鉱山事故が多発していたため、ファシスト政権は大規模なインフラ投資を行わざるをえなかった。

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プーリア:サン・ジョヴァンニ・ロトンドのボーキサイト鉱山

南部の地下資源としてもう一つ、重要な存在がある。それはプーリアボーキサイトである。ボーキサイトはアルミニウムの原料であり、軍需物資としても重宝された。ファシスト政権期における探鉱活動の結果、1935年にプーリアのスピナッツォーラ(Spinazzola)に大規模なボーキサイト鉱床が発見され、開発が開始された。ボーキサイトの発見は貧しいプーリア地方の重要な収入源となったのである。

1940年のイタリアのボーキサイト産出量は世界の産出量の12.3%を担い(世界五位)、またヨーロッパにおいては産出量の20.2%を占めた。イタリアでボーキサイト産出が強化された理由は、ファシスト政権がアルミニウムのアウタルキーを重要視したためである。アルミニウムは航空機の原材料として使われたためだ。ファシスト政権は空軍の増強に力を入れており、そのためにもアルミニウムの増産は重要だった。なお、アルミニウムの精製には大量の電力が必要であったが、これは水力発電で賄っている。

プーリア最大のボーキサイト鉱山は、サン・ジョヴァンニ・ロトンド(San Giovanni Rotondo)である。プーリア北部のガルガーノ半島に位置するサン・ジョヴァンニ・ロトンドは、モンテカティーニ社によって開発が進められ、政権による鉱山労働者のための都市開発も行われた。その他、中部にはプーリア最初のボーキサイト鉱山であるスピナッツォーラ(Spinazzola)鉱山、南部のサレント半島先端にはオトラント鉱山(Otranto)といったボーキサイト鉱山が存在した。当然ながら、第二次世界大戦時にはこれらの鉱山は連合軍の空爆対象となっている。

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ビヴォンジ鉱山群のガリバルディ鉱山跡。

また、シチリアに近いカラブリアには銅や鉛、モリブデンなどを産出したビヴォンジ鉱山群(Bivongi)が存在した。歴史的にこの辺りはナポリ王国時代から鉄鋼業などが工業が盛んで、近郊の鉱山から産出された鉱物を加工していた。両シチリア王国時代は兵器工廠などがあったが、イタリア統一後にそれらは閉鎖され、同地の鉄鋼業は著しく衰退した。ファシスト政権期には更にこれらが注目され、鉱山の再開発を進めると共に、1932年よりクロトーネ(Crotone)にてペルトゥソーラ冶金工業が稼働されたため、同地の鉄鋼業の中心地として再度活性化されている。

また、カラブリアは山岳地帯が多いため、ビヴォンジ近郊にはそれを利用して南部イタリア初の水力発電所であるグイーダ水力発電所(Centrale idroelettrica Guida)が1914年に建設されていた(イタリアのおけるエネルギー供給は殆どが水力発電に頼っていた)。1928年には新たな水力発電所としてマルマーリコ水力発電所(Centrale idroelettrica Marmarico)も追加で建設されており、南部のエネルギー供給に一役買ったのであった。

 

◆北部各地の資源開発

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リグーリア:ガンバテーザ鉱山。現在は博物館として公開されており、来訪者は鉱山労働者に扮してトロッコに乗ることが出来るとのこと。

イタリア北部の鉱山というと、ピエモンテバランジェーロ鉱山群(Balangero)は有名だ。バランジェーロはヨーロッパ最大の石綿(アスベスト)鉱床であり、世界初のアスベスト鉱山の一つとしても知られていた。また、バランジェーロは作家プリーモ・レーヴィが勤務していたことで知られ、彼はこの地にあるサン・ヴィットーレ(San Vittore)鉱山にて、化学者エンニオ・マリオッティの助手として、産出された鉱物からのニッケルの分離実験を行っている。ニッケルは当時軍需物資として大きな需要があったが、技術不足によって結局実用的な分離には至らなかった

リグーリアにあるガンバテーザ鉱山(Gambatesa)欧州最大のマンガン鉱山である。古くから鉄鉱石や銅鉱石の鉱山地帯として知られていたが、19世紀にマンガンの鉱床が発見され、その後は世界でも有名なマンガン鉱山として知られた。ファシスト政権期には鉱山の国有化が行われており、第二次世界大戦時のイタリア王国休戦後はドイツ当局に接収され、SSの占領下のもとで鉱山が操業されていた(しかし、ドイツ統治下では人材不足から産出量は大きく低下したという)

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ヴァッレ・ダオスタ:コーニュ鉱山遠景

フランス及びスイス国境に近いヴァッレ・ダオスタには鉄鉱石(磁鉄鉱)の鉱山として知られるコーニュ鉱山(Cogne)がある。鉱山は元々兵器開発で知られるアンサルド社が持っていたが、ファシスト政権期に政府によって国有化された。軍需物資としても重要であったため、コーニュの鉱山労働者は第二次世界大戦時には兵役を免除されている。また、ヴァッレ・ダオスタでは小規模ながら石炭も産出した。

ロンバルディアエルト山近辺(Monte Elto)では古くから鉄鉱石を産出していたが、近代において稼働中の鉱山は少なかった。ファシスト政権期にはカローナ(Carona)硫黄鉱山がアウタルキーのため再稼働させられたが、シチリアの硫黄の産出量に比べればごく小規模であり、終戦後まもなく閉山となっている。

 

■属国・植民地の地下資源

◆帝国領内唯一の油田地帯、アルバニア

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アルバニア:ペトロリア油田の石油タンク

アルバニア「イタリア帝国」領内で唯一の実用的な油田を擁していたことで知られている。ファシスト政権は時のアルバニア大統領であるアフメト・ゾグ大統領の後ろ盾となることで、アルバニアの石油利権の確保を目論んだ。1925年3月にはイタリア-アルバニア両国で石油研究に関する協定が結ばれ、アルバニア領内の47,000ヘクタールの領域でイタリアは油田開発をする権利を得た

これを受け、1925年7月にはAGIPの子会社としてアルバニア油田を開発・管理するAIPA社を設立した。AIPAによる油田開発の結果、1935年には油田パイプラインを完成させた。これを受け、油田地帯の中心地の名称を石油(Petrolio)に由来する「ペトロリア(Petrolia)」に改称し、「イタリア帝国」における石油生産の中心地となった。当時のアルバニアは独立国であったが、既に経済的にイタリアの属国と化していたのである。1939年4月のイタリア軍アルバニア侵攻でイタリアはアルバニアを完全な統治下に置いたことにより、油田も完全な制御下に置いている

ペトロリア油田は406,800トンの石油を生産していたが、その質は悪く、精製に手間が掛かったアルバニアで生産された石油は船で輸送され、バーリの精製所で精製されていた。とはいえ、質も生産量もサルデーニャの石炭同様にそこまで良くはなかったアルバニア油田であるが、イタリア国内の石油消費の1/3を賄っている。どんなに質が劣悪でも、戦時下のアウタルキー経済では最重要な存在だった。

また、アルバニアにおいて、セレニッツァ鉱山(Selenizza)天然アスファルトも石油と並び重要な資源の一つであった。年間15,000トンの生産量を持つこの鉱山で産出された天然アスファルトは、海外への輸出において重要な役割を果たしたのである。

現在、アルバニアクロム鉱の産出で有名だが、イタリア支配期もクロム鉱山の開発が行われており、国内最大のクロム鉱山であるブルキザ鉱山(Bulqizë)では戦時中に掛けて本格的なクロム産出が開始された。とはいえ、当時の産出量は1万トン未満とさほど多くはなく本格的な開発は共産主義政権期に行われることとなった

 

◆期待外れに終わったリビアの資源開発

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リビアの油田開発の従事した地質学者、アルディート・デシオ

伊土戦争でイタリアの植民地となった北アフリカリビアリビアは現在では世界有数の産油国として知られているが、植民地時代のリビアは実に「貧しい地」であった。しかし、イタリア植民地時代のリビア(キレナイカ)で油田が発見されていなかったわけではないキレナイカにおける油田は1914年に井戸水を採掘していたイタリア当局によって、偶然にも発見されていたのである。

第一次世界大戦後、ファシスト政権が成立するとムッソリーニによるアウタルキー政策と共に、AGIPによる石油の国産化計画が浮上する。1929年にはトリポリ在住のイタリア人入植者が石油調査企業を設立し、リビアでの探鉱活動を再開した。探検家アルディート・デシオのもとで1936年からキレナイカにおける油田開発が開始キレナイカ西部のマラダ油田(Marada)では1938年までに18の井戸が掘られた。こうして、約1リットルの実験的な石油抽出に成功したが、石油は地下2000m以下にあり、当時のイタリアの技術では採掘することが不可能であることが判明してしまった。

リビア総督のバルボ空軍元帥のもと、アメリカの石油掘削技術を導入し、これらの油田から石油の抽出が計画としてあったが、大戦の勃発で技術導入は頓挫し、敗戦でイタリアがリビアを失ったことにより、結局イタリア植民地時代のリビアで実用的な油田開発が実現することはなかった。また、キレナイカでは硫黄資源の存在も期待されたが、こちらも探鉱活動の結果、僅かな埋蔵量と判明し、期待外れな結果となった。

1940年にはデシオはフランスから割譲されたアオゾウ地帯ティベスティ山地にてプラチナの採掘実験を行っているが、こちらは良い結果が得られたものの戦争の勃発により途中で中止となっている。なお、この地域は独立後のリビアとチャドの戦争の舞台となっており、現在でもウランなどの資源が豊富に存在すると考えられている。

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トリポリタニアにおけるリン酸塩鉱床の調査を行った地質学者、イグナツィオ・サンフィリッポ

また、トリポリタニアにおいては石油ではなく、リン酸塩の豊かな鉱床が期待されていた。ファシスト政権は当時、食糧増産を進める「小麦の戦い」を進めており、そのためにも化学肥料の原料となるリン酸塩の存在は非常に重要であった。化学肥料のアウタルキーを進める上で、窒素肥料はモンテカティーニ社の合成、カリ肥料はエリトリアのカリ岩塩で可能であったため、残るはリン酸塩が必要だった。当時、イタリアはリン酸塩を完全に海外からの輸入に頼っていたため、この解消がファシスト政権の狙いであった。こうして、豊かな鉱床が期待されるトリポリタニアでの開発が開始した。

1929年には地質学者イグナツィオ・サンフィリッポ率いる調査団によるトリポリタニアにおける調査が行われ、ガリアン、タルフーナ、シェメクといった各地で採掘が行われた。しかし、トリポリタニアにおけるリン酸塩の産出量は予想を遥かに下回る量であり、とても需要をカヴァーするだけの量はなかったのである。結果として、石油やリン酸塩など、リビアにおける資源開発は完全な失敗に終わったが、戦後にリビアが独立した後、技術導入によってリビアは世界的な産油国として成長したのであった。

 

◆「黄金郷」東アフリカの夢

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エリトリアアウガロ(ウガロ)の金鉱山

東アフリカ鉱物資源に恵まれていた。しかし、イタリア本土やリビア植民地から遠く離れた立地、そして地中海に至るには英国管理下のスエズ運河を通るか(通行料が高い)、遠回りの喜望峰ルートしか無く、一部の大量に採掘された資源を除いて、海外から輸入するよりも輸送コストが高かったために上手く活用出来なかった。それ故に、今日ではイタリアによる東アフリカの資源開発は失敗したとされている。

エリトリアはイタリアが最初に植民地化したエリアであることもあり、東アフリカで最も資源開発が進んでいたエリトリアは現在でも金を始めとする豊かな鉱物資源で知られており、独立後も外貨獲得のための大きな手段として使われている。最も代表的な鉱山はバレントゥ南方に位置するアウガロ(Augaro, ウガロUgaroとも)鉱山であり、エリトリア西方の鉱山開発の中心地として栄え、金鉱石を採掘した。このほか、エリトリア鉄道の終着駅であるビシア(Biscia)や、北部のナクファ近郊に位置するザラ(Zara)大規模な金鉱山として知られ、現在も稼働中である。

また、エリトリア中部のコルッリ鉱山(Colulli)東アフリカ最大のカリ岩塩鉱山として知られており、資源の積み出し港であるメルサ・ファトマ港とは鉄道で繋がっていた。カリ岩塩はカリ肥料の原材料として、食糧増産を推し進めるファシスト政権にとって非常に重要な資源の一つとなった。現在も稼働中の鉱山であり、鉄道は戦時中に解体されてしまっているが、エリトリア政府の下で鉄道復旧計画が進行中である。コルッリと同様にダナキル砂漠に位置するエチオピア北部のダロール鉱山(Dallol)カリ岩塩の採掘で知られ、鉄道でメルサ・ファトマまで運ばれた。

エリトリアは大規模な塩田が多い地域でもあった。著名なものはマッサワ(Massaua)アッサブ(Assab)の二カ所であるが、スーダン国境に近いヘルン塩田や、エチオピア北部のダナキル砂漠に位置するアッサーレ(Assale)でも岩塩が採掘されている。マッサワとアッサブはイタリア植民地時代も現在もエリトリア第一・第二の港湾でも知られる。特にマッサワの製塩業は有名で、かつては日本の食卓塩はマッサワ産で占められていた1934年時には日本に輸出された紅海海域の塩の内、42.5%がエリトリア産であり、175千トンが輸出されている。

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エチオピア:トゥッル・カピ鉱山

エチオピアは1935-1936年のエチオピア戦争でイタリアに征服された。侵攻前から鉱物資源が豊富であることが知られていたが、イタリアによる征服後もエチオピアレジスタンスによる抵抗が激しく、開発は思うように進まなかったエチオピア北部には先述したダロール鉱山やアッサーレ塩田があったが、北部を除けばイタリア植民地時代にマトモに資源開発が進んだのは西部のウォレッガ(Uollega)くらいである。

既存の鉱山を再活性化させる形で開発が進められジュブド鉱山(Jubdo)トゥッル・カピ鉱山(Tullu Capi)では金を始めとする鉱物の採掘が行われた。また、エチオピア南部でも雲母の実験的な採掘が行われている。しかし、いずれにせよレジスタンスの襲撃で鉱山労働者が殺害される事件も発生し、開発は困難を極めた

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ソマリア:ダンテ塩田

ソマリアは東アフリカにしては資源は乏しく、その多くは未開発であった。しかし、そんな中でも特筆すべきは北部のダンテ塩田(Dante)で、イタリアの詩人の名を冠したこの塩田はファシスト政権期に世界最大の塩田として発展した。ダンテ塩田の塩はケーブルカーで湾を越えて運ばれ、オルディオの製塩所に輸送されている。なお、ダンテ塩田一帯を除き、ソマリアでは大規模な塩田は他に無かったため、事実上ソマリアの塩の生産量はダンテ塩田の塩の生産量とほぼ同じである。

なお、イタリア植民地の「塩貿易」で重要な役割を果たしたのは日本との貿易である。日本は当時、満州事変を機に経済が好調に向かったことから、国内のソーダ産業が飛躍的な成長を遂げ、そのため紅海地域から大量の塩の輸入を望んだ。そこで選ばれたのがイタリア領東アフリカであった。一方、イタリアは最大の塩の輸出先であった英領インドが国内製塩業の保護のために外国産の塩に高い関税を課したために、新たな輸出先として日本を選んだのである。こうして、伊日両国の利害が一致したことから、1931年からイタリア領東アフリカから大量の塩が日本に輸出されていった

紅海方面から輸出された塩の内、1934年には50.5%(208千トン)が伊領ソマリアで生産されたものであり、その殆どがダンテ塩田の塩だった。こうして輸出された塩は日本のソーダ産業の成長を支える一方で、イタリアの植民地経済にとっても重要な存在となったのである。戦後も紅海地域から日本への塩の輸出が続けられていたのはこの時のルートがあったから故である。また、1941年12月8日にプーケット島沖で自沈したイタリア輸送船「10月28日」が塩の輸送船だったことも、当時の伊日間貿易の内容を物語っていると言えるだろう。

ただ、製塩業がイタリア植民地経済を支える一方で、ソマリアは地下資源としてはあまり成功例はなく、石油掘削実験が行われたが失敗に終わった北部のガルカロ鉱山(Galcalo)では錫(スズ)が産出されたが、産出量はごく僅かである。

 

◆主要参考文献

Ciro Poggiali, ITALIA MINERARIA, Edizioni Roma, 1939
Francesco Manconi, LE MINIERE E I MINATORI DELLA SARDEGNA, Consiglio Regionale Della Sardegna, 1986
Orazio Cangila, STORIA DELL'INDUSTRIA IN SICILIA, Editori Laterza, 1995,
Andrea Francioni, IL MIRAGGIO DEI FOSFATI: LA MISSIONE SANFILIPPO IN TRIPOLITANIA (1929-1931), Rubbettino Editore, 1996

澤口恵一著『イタリアの炭鉱都市カルボニア その発展と衰退』大正大学研究紀要

そるえんす 第48号 平成13年3月31日発行