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イタリア軍のアルバニア侵略とアルバニアの油田 ―アドリア海の産油国の運命―

イタリア軍は1939年、アドリア海で対岸に位置するアルバニア王国に侵攻を開始した。数日の内にアルバニア全土はイタリア軍の占領下に置かれ、国王ゾグ1世は国外に亡命、アルバニアイタリア王国の同君連合となった。

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アルバニア軍を閲兵する国王ゾグ1世

この侵攻は「ヴァロナ(ヴロラ)の復讐」、そしてドイツの南下を防ぐため(つまりはバルカン進出の橋頭堡にするため)であったが、当然、アルバニア資源の完全確保も理由として存在した。

アルバニアはあまり知られていないが産油国である。アルバニア油田で産出された石油は当時のイタリアの石油消費の実に約3割を補っていたのである。イタリア国内は石油を産出せず、当時のリビアでは油田は発見されていたものの技術不足で未開発だったため、イタリアにとってアルバニア油田は重要な存在であった(それ以外は輸入と備蓄、そして合成燃料に頼っていた)。

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バーリの石油精製施設

アルバニア油田を管理していたのは、AGIP(イタリア石油公団)の子会社であるAIPA(アルバニア・イタリア石油会社)であった。1935年に設立されたAIPAは、油田から港湾都市へのパイプラインを建設し、またアルバニアでの探鉱活動をおこなった。このAIPAはイタリア王国の休戦でアルバニアがドイツ軍の管理下に置かれるまで活動した。

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現在のパトス・マリンツァ油田

アルバニア最大の油田はフィエル州に位置するパトス市のパトス・マリンツァ油田だった。このパトス市は現在でも油田の恩恵で繁栄している都市である。この油田は1928年に発見され、ヨーロッパ最大級の油田としても知られている。AIPAはこの油田からヴロラ港までのパイプラインを建設し、その石油はイタリアに輸出された。

 

アルバニア侵攻以前から、アルバニア経済はイタリアに依存しており、アルバニア国内で最も影響力を持っていた国家はイタリアであった。すなわち、事実上の保護領化は既に完了しており、軍事的な征服は合理的とは考えられなかった。しかし、ドイツがバルカンへの影響力を伸ばす中、アルバニアを「対独防波堤」として制圧する必要性に駆られ、侵略を実行に移したのであった。

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アルバニア戦争の両軍の司令官。左はイタリア遠征軍司令官グッツォーニ将軍、右はアルバニア陸軍大臣ラニタシ将軍。

かくして、1939年4月6日、イタリアはアルバニア政府に最後通牒を突き付けた。翌日、イタリア海軍はアルバニア本土への上陸を開始した。アルバニア遠征軍の総司令官はアルフレド・グッツォーニ陸軍大将、副司令官はジョヴァンニ・メッセ陸軍中将だった。両者とも、後の第二次世界大戦時に活躍する将軍である。

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アルバニア国王ゾグ1世と陸軍大臣ジェマル・アラニタシ

アルバニア側は陸軍大臣のジェマル・アラニタシ陸軍大将を総司令官として、総兵力は約1万5千人であった。軍もイタリアの影響を受けていたため、装備もイタリア製が多かった。例えば、アルバニア軍機甲部隊が使用した装甲車両は、CV33豆戦車、21年式のFIAT3000軽戦車、ビアンキ装甲車、ランチャ装甲車だった。
王立アルバニア海軍はイタリア製のMAS艇や警備艇を始めとする小型艦艇のみで構成された小規模なもので、陸軍が保有していた航空部隊もフォッカー社製のアルバトロス戦闘機が僅か5機存在するのみであった。

いずれにせよ、アルバニア軍は装備不足であり、それに加えて旧式化していた。

イタリア海軍のドゥラス上陸作戦に対し、アルバニア海軍の巡視船「ティラナ」のムジョ・ウルクィナク艦長らは勇敢に戦った。ドゥラス防衛軍は奮戦したが、その日のうちにドゥラスは陥落した。彼は戦死したが、共産主義時代のアルバニアで称賛され、ドゥラス城前に彼の銅像が作られている。結局、7日の昼過ぎまでにアルバニア港湾都市は全てイタリア軍によって陥落した。アルバニア海軍の残存艦はイタリア海軍に接収されている。

アルバニア軍は総じて士気が低く、積極的に抵抗をしなかった。ゾグ1世は山岳地帯で防衛線を築く計画を立てていたが、結局それは無理だった。イタリア遠征軍は作戦行動中にコミュニケーションが混乱していたが、それにもかかわらず、イタリア軍は短期間のうちにアルバニアを占領していき、遂に8日には首都ティラナがイタリア軍によって陥落した。僅か1日で首都の攻略に成功したのである。

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アルバニアに侵攻するイタリア軍

ゾグ1世とゲーラルディネ王妃、そしてレカ王子はギリシャに亡命した。陸軍大臣ジェマル・アラニタシは既に一足早くトルコに亡命していた。ティラナ防衛軍を指揮していたグスタヴ・ミュルダシ陸軍参謀長はイタリア軍に降伏し、その後、各地で小規模な抵抗が発生した後、12日に新たに宰相となったシェフケト・ヴェルラツィ(ゾグ1世の政敵)率いるアルバニア政府がゾグ王を廃位し、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世アルバニア王位を与えることを決定したため、アルバニア戦争は公式に終戦となった。

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アルバニア軍首脳部

イタリアの目的は完全に達成されたが、これは世界各国に「ファシスト・イタリアの新たな膨張の開始」と捉え、イタリアは外交の幅を狭めざるを得なくなり、結果的に枢軸関係を強化し、後の枢軸国側でのイタリア参戦に繋がった。

しかし、イタリアによるアルバニア支配は失敗した。ゾグ王政期のアルバニアは経済的に急激に成長し、安定していたが、イタリアによる征服後、それは悪い方向に変化した。イタリアは油田の制圧を始めとする合理的経済開発と政治的安定をアルバニア侵略の名目として挙げていたが、イタリア側による放漫な政策によってアルバニアは経済的破綻に陥る結果となってしまったのであった。

ギリシャ侵攻時においても、チャーノ外相は「大アルバニア主義」を掲げてアルバニア人兵士の対ギリシャ感情を煽ったが、結局プレンク・ペルヴィジ将軍率いるアルバニア人部隊は士気が低く、脱走者や降伏する兵を多数出したほか、逆にレジスタンスに加わってイタリア軍に攻撃する者までいた始末であった。

伊日交流史 ―日伊修好通商条約と明治初期の日本・イタリア関係―

数百年維持してきた鎖国体制が崩壊し、江戸幕府は西洋諸国と修好通商条約を結んだ。最も有名なものは、米蘭露英仏と結んだ安政の五か国条約が知られているが、その後、統一を果たしたばかりのイタリア王国や、後にドイツ統一を成し遂げるプロイセン王国などとも修好通商条約を結んだことはあまり知られていない。

2016年は伊日国交樹立150周年記念の年だった。すなわち、日伊修好通商条約の締結(1866年)から150年経ったのである。めでたい。

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2016年に開催された伊日国交150周年記念イヴェント「イタリア・アモーレ・ミオ!」

さて、日伊修好通商条約とはいかなる条約だったのだろうか。サルデーニャ王国という小国がイタリア統一を成し遂げたばかりの状況(この段階ではまだローマ遷都もしていない)で、何を求めて極東の小国、日本と修好通商条約を結ぶに至ったのだろうか。

日伊修好通商条約は、意外にも両国にとって非常に重要な存在だった。そのキーワードはずばり、「蚕」である。

当時、イタリア経済において養蚕製糸業は重要な役割を果たしていた。しかし、当時のイタリアでは微粒子病と呼ばれる病が流行り、これに感染した蚕は繭を作る事が出来なくなってしまった。これにより、イタリアの養蚕製糸業は大きなダメージを受けていたのである。

それにより、イタリアは無病で良質な蚕を求めた。そこで白羽の矢が立ったのが極東の島国、日本であった。日本の蚕は良質なことで知られていたのだ。

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海軍提督ヴィットーリオ・アルミニョン

イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、シャンベリ(サヴォイア公国時代の首都、中部イタリア併合の担保としてフランスに併合された)出身のヴィットーリオ・アルミニョン海軍提督に日本及び清朝との通商条約を結ぶことを命じ、全権を委任した。

そして、両国間の交渉の末、1866年8月には調印された日伊修好通商条約を締結し、これが伊日国交の始まりとなった。なお、アルミニョン一行は条約締結の日、御殿山下台場に船で降り立ったが、迎えに来るはずの隊列や馬が間に合わなかったため、一行は仕方なく歩いて締結の場に向かった。日本側はこれを受けて、イタリア人は他の外国人と違って横柄な態度をしない、という好印象を受けたようである(逆に、他の外国人は武力(黒船とか)を用いて横暴な態度をする、という印象だったようだ)。

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アルミニョン一行が乗っていた「マジェンタ号」

日伊両国は締結の翌年から本格的な国交を開始したが、これは両国に重要な役割をもたらした。蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7~8割はイタリア市場に流れるものだった。日本の良質な蚕は北イタリアの養蚕製糸業を支えることで結果的にイタリア経済を活性化させ、日本側は貿易で得た膨大な収入を用いて近代化を進めていったのである。

言ってしまえばWin-Winの関係だったが、日伊修好通商条約も日本にとっては「不平等条約」であったのは確かである。すなわち、領事裁判権があった。

ただ、駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と日本政府は領事裁判権の廃止で合意したものの、英国との摩擦を避けたいイタリア外相ヴィスコンティ・ヴェノスタがこれを拒否した事で交渉は水泡に帰したようだ。

これに関して、詳しく説明すると、英国によるイタリアへの警戒心があった。明治政府は外国人の移動範囲を横浜などの居留地とその周辺のみとしていた。しかし、蚕の原産地は内陸部にあったため、駐日イタリア公使フェ・ドスティアーニ伯爵は領事裁判権の廃止も視野に、日本内陸部へのイタリア人の旅行許可を欲していた。しかし、英国はイタリアの独走が自国への生糸輸出を妨げると考え、これに警戒感を示したのである。

アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵はブレシア出身の外交官で、ブレシアは養蚕製糸業が盛んであったため、養蚕製糸業にも知識があった。日本以外にもガージャール朝ペルシア帝国やブラジルなど各国に赴任経験があったヴェテラン外交官であり、まさに日本公使として適任の人物であった。

フェ・ドスティアーニ伯爵の申請によって2人のイタリア人の内陸部への旅行許可が下りたが、それに対して駐日英国公使ワトソンが抗議し、「最恵国条款」によって英国人への旅行許可も与えなければならないと訴えた。これを受け、日本側は慎重に行動するようになった.....のだが、フェ・ドスティアーニ伯爵は日本政府からも信頼を得ていたため、副島種臣と結んだ「暗黙の合意」によって、イタリア人が内陸部を訪れる事が出来る特権を得られた。これらの内陸部を訪れたイタリア人たちは全てが蚕の仕入れ人であり、イタリア政府とは直接的な繋がりがない純粋な商人たちだった。

 

結果的に紆余曲折を経て、領事裁判権は廃止され、「不平等条約」は改正されるに至るのであるが、最終的に英国の圧力で失敗したが、イタリア側からアプローチをかけていた、という点は面白い。一般的に日独伊防共協定の成立まで希薄と考えられがちな伊日関係だが、意外にも明治初期において両国が互いに重要なパートナーシップを築いていた、という点はとても興味深いだろう。

 

↓第二弾 イタリアから日本に伝わった大砲技術と日露戦争(二十八糎榴弾砲)

https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/02/04/235530

 

↓第三弾 イタリアの航空技術と日本(2度のローマ-東京飛行、イタリア機の輸出)

 https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/02/05/120628