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伊日交流史・第二弾 ―ポンペオ・グリッロ少佐と、日本陸軍に伝わったイタリアの大砲技術―

以前、「伊日交流史」として日伊修好通商条約締結直後の伊日関係について紹介した。久しぶりに再びイタリア-日本関係についてまた堀進めてみようと思う。

両国関係で重要な役割を果たしたのは、他の欧州諸国と日本の関係同様に、軍事に関することが多かった。その軍事分野に関して、イタリアが日本に大きな影響をもたらしたのは、大砲技術に関してであった

日本に派遣された「お雇い外国人」である、イタリア陸軍のポンペオ・グリッロ(Pompeo Grillo)砲兵少佐の指導によって開発された「二十八糎榴弾砲(280mm榴弾砲)」は、日露戦争で日本軍の勝利に決定的な役割を果たし、日本軍を代表する大砲ともされた名兵器である。 

更に、その後派遣されたシピオーネ・ブラッチャリーニ(Scipione Braccialini)砲兵少佐によって、優れたイタリアの距離計の技術と弾道学の理論も日本にやってきた

今回はそんな日本陸軍に大きな影響を与えたイタリアの大砲技術について紹介してみることとしよう。

 

◆グリッロ少佐と「二十八糎榴弾砲

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ポンペオ・グリッロ(Pompeo Grillo)

ポンペオ・グリッロ少佐は、1843年にピエモンテ州のピネローロで生まれた。ピネローロは騎兵学校があることで知られている町である。

イタリア独立戦争で武勲を示し、また優れた大砲技術者として知られていた彼は、1883年に日本陸軍大山巌将軍の提案で日本に「お雇い外国人」として派遣されることとなった。何故イタリア人が日本の大砲技術の「お雇い外国人」となったのか?これは日本とイタリアの地形が似ていることにあった。イタリアも日本も山がちで細長く、海岸線が長かった。大山将軍はイタリアという「沿岸防衛が困難な地」の大砲技術を日本に持ち込むことで、同様に「沿岸防衛が困難な地」の日本の防衛を効率化させようと考えたのであった。

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大山巌将軍。後に日露戦争での勝利に重要な役割を果たした。

こうして、イタリア-日本間でグリッロ少佐の日本への派遣が合意され、1884年2月にグリッロ少佐はイタリアを出発し、日本に向かった彼は大阪砲兵工廠で製砲術教授と務めることとなった。なお、グリッロ少佐は日本側では「ポンペヲ・グリロ」や「ポンペオ・グリロー」などと書かれていたようである。彼は合意時点では1884年から1885年の契約であったが、グリッロ少佐はイタリア政府の承認を得て1888年まで「お雇い外国人」の職を継続している。

当時の日本では鋼鉄を作る設備が無かったため、グリッロ少佐はまず鋳造工場を作っている1884年9月には彼を手伝うためにイタリア本国からアントニオ・フォルネリス(Antonio Fornelis)ジャコモ・イッソ(Giacomo Hisso)という二人の技術者もやってきて日本政府と契約をしている。

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日本陸軍の「二十八糎榴弾砲

その後、鋳造設備が完成し、野戦砲や沿岸砲など様々な砲が作られていった。こうして作られたが「二十八糎榴弾砲」であった。これはアンサルド社の榴弾砲をモデルとし、グリッロ少佐自ら設計した榴弾砲であった1884年に試作、射撃試験で優秀な成績を収めた後1887年に制式審査を経て、グリッロ少佐が帰国した1892年から量産が開始された。元々のコンセプトは大山将軍の目論みからわかる通り、対艦用の沿岸砲台であったが、後の日露戦争ではこれが攻城砲として用いられることとなったつまりは、沿岸砲台のために作られたが、思わぬところで活躍して、日本陸軍を代表する大砲になった...という奇妙な経歴を持つ榴弾砲だったのである。

グリッロ少佐の指導によって開発された「二十八糎榴弾砲」は日露戦争で日本軍の勝利に決定的な役割を果たしただけでなく、その後も使われ続けた第一次世界大戦では連合軍側で参戦した日本軍によってドイツ軍の青島要塞攻略に使われ、更に日本の同盟軍だったロシア軍に譲渡され、東部戦線でのドイツ軍との戦いにも投入された。そして、既に旧式化しているにもかかわらず、日中戦争においても戦果を挙げており、まさしく「日本陸軍を代表する名兵器」と言えるだろう。イタリアからもたらされた技術で作られた大砲が、長い間日本陸軍の象徴だったと思うと感慨深いものがある。

 

1888年4月に惜しまれながらも、2人の技術者と共にグリッロ少佐はイタリアに帰った。イタリア政府はグリッロ少佐の後任の人材を派遣する事を日本陸軍に約束し、その結果アレッサンドロ・クァラテーツィ(Alessandro Quaratezi)砲兵少佐が後任として日本に派遣されたが、1890年に何故か突如帰国している。原因は不明。

イタリアに帰ったグリッロ少佐は最終的に少将にまで昇進し、第一次世界大戦後の1922年にこの世を去った。

 

◆ブラッチャリーニ少佐と弾道学理論

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石本新六将軍。1911年には薩長出身者以外で初めて陸軍大臣に就任した。ブラッチャリーニ少佐を日本に招聘し、イタリアの弾道学の理論を日本に伝えた。

グリッロ少佐帰国後、日本は沿岸砲台用の距離計を求めていた。イタリアに派遣された経験があった石本新六工兵中佐は、イタリア軍のシピオーネ・ブラッチャリーニ(Scipione Braccialini)砲兵少佐が制作した距離計を見て、「世界最高の距離計」を確信し、ブラッチャリーニ少佐の日本への招聘を依頼した。

こうして、日本を去ったクァラテーツィ少佐の後任として、ブラッチャリーニ少佐が日本に招かれた。1892年8月のことである。彼は弾道学の専門家であり、彼の指導の元で距離計が作成された。しかし、ブラッチャリーニが作成した距離計は軍事機密であったため、彼はほぼ同じであるが、僅かに設計が異なる距離計を設計している。また、日本陸軍士官学校でブラッチャリーニ少佐は弾道学の講義を行い、そして彼の弾道学に関する著作も日本語に翻訳されて日本で出版されている。

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ブラッチャリーニが設計した距離計

彼の設計した距離計は日本軍に採用され、長い間使用される事になり、また彼の弾道学の理論は日本陸軍に重要な影響を与えた。しかし、彼は1894年に罹患し、1895年で契約終了だったがその1年前にイタリア本国に帰国することとなってしまった。

 

イタリアの大砲技術が日本陸軍に強い影響を与え、それが日露戦争の勝利に繋がったというのは、イタリアと日本の意外な接点である。非常に興味深い。

一般的にイタリアと日本の関係は「マイナー」であるとされるが、調べてみると案外そういうわけではない(前回調べた日伊修好通商条約もそうだが)。更にどんどん調べていきたい。

 

↓第一弾 幕末・明治日本の近代化におけるイタリアとの貿易(日伊修好通商条約)

https://associazione.hatenablog.com/entry/2018/10/05/235417


↓第三弾 イタリアの航空技術と日本(2度のローマ-東京飛行、イタリア機の輸出)

 https://associazione.hatenablog.com/entry/2019/02/05/120628