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第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史③:第一次世界大戦、アドリア海での激闘

前回の続きで、今回もイタリア海軍通史です。私の通史では基本的に人物や戦史を中心に扱います。普段のブログと大して変わらんですね。兵器の設計思想云々は素人なので、下手に扱いません。その辺はご了承くださいませ。

さて、第三回目は第一次世界大戦です。個人的に今回注目して欲しいのは、第一次世界大戦時に活躍した指揮官の中には、伊土戦争時に活躍した指揮官も多い事です。まぁ数年しか経ってないから当然とも言えますが、「おっ、この人は前回見たな」と気付いてくれたら嬉しいですね。

前回まではこちら↓

 

associazione.hatenablog.com

 

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第一次世界大戦開戦時のイタリア海軍

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1914年時点の地中海及びアフリカにおけるイタリア植民地帝国。東アフリカではエリトリアソマリア北アフリカにはトリポリタニアキレナイカ、東地中海にはエーゲ海諸島を領有していた(そして、アジアには中国の天津に租界を建設)。フェザーンを含むリビア内陸部はイタリア領扱いではあるが、完全にイタリアの統治下になるのはファシスト政権によって「リビア再征服」が行われてからである。

イタリアは一連の植民地獲得と伊土戦争での大勝により、北アフリカトリポリタニアキレナイカ(後にフェザーンと共にイタリア領リビアとして統合)、東アフリカのエリトリアソマリア(ソマリア北部は英領ソマリランドとして英国が保護領化)、更にエーゲ海諸島(現ギリシャ領ドデカネス諸島)を領有し、義和団事変に介入する事で中国の天津にも租界を開設して中国権益にものめり込んだ。

広大な植民地帝国とそれに見合う軍事力を身に付けたイタリアは、自他共に「列強」と認識されるようになったのである。

イタリアは以前先述した通り、チュニジア危機にてフランスとの関係が悪化した結果、ドイツとオーストリアと共に1882年に三国同盟を締結していた。しかし、1902年の伊仏合意でフランスとの対立が改善されたのを契機に、イタリアは後に連合国と呼ばれる国々との協調関係を保つようになり、ロシアと1909年に伊露合意1912年には日本と日伊協約を結んでいる。フランスとの関係が改善された今、イタリアは寧ろ"同盟国"であったオーストリアとの関係が険悪化していた。何故ならば、オーストリアは未だに「未回収のイタリア」と呼ばれる領域を保有し、イタリア側の要求にも応じなかったからである。

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第一次世界大戦時、イタリア主力艦隊の旗艦であった戦艦「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」。参戦直前の1915年4月に就役したばかりの新造の弩級戦艦だった。1930年代には大規模な近代化改修を行い、新造時とは全く見違う外見になったことで知られる。第二次世界大戦開戦時には行動可能な2隻のイタリア戦艦の1隻だったが、ターラント空襲時に大損害を受け、大破着底。その後は修復工事と同時並行的に近代化改修を実行したが、結局他軍艦の建造や修復が優先され、1943年の休戦までに改修は修了しなかった。

1914年の第一次世界大戦開戦時、イタリアは中立を宣言した。当時、イタリア海軍の戦力は世界第6位の規模であったが、保有戦艦の合計排水量は290,000トンに達しており、建造中のものは76,000トンであった。1915年4月のロンドン密約を契機に、イタリアは連合国側から「未回収のイタリア」の領有を保障されたことを受け、翌月には中立を破棄してオーストリアに宣戦布告連合国側でイタリアは第一次世界大戦に参戦した。

オーストリアは海外植民地を持たず、海軍根拠地をアドリア海にしか持たなかったため、オーストリア海軍とイタリア海軍の戦いは殆どアドリア海の中に限定された。ただ、オーストリア防護巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」は開戦時にドイツが支配する中国の青島・膠州湾租借地に停泊していたため、日本軍と交戦している。

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イタリア参戦時の海軍大臣、レオーネ・ヴィアーレ提督(Leone Viale)。伊土戦争時は戦争の膠着状態を打開するため、エーゲ海諸島(ドデカネス諸島)の制圧を指揮し、成功に導いた。更に、ミッロ大佐によるダーダネルス海峡侵攻を計画したのも彼である。これらの戦功から伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲された。伊土戦争後、海相に就任。海相時代は艦隊決戦を重視し、カラッチョロ級超弩級戦艦の建造を命じた。

イタリア海軍は戦争の全期間を通じてアドリア海で優位に立ち、数々の勝利を重ねたオーストリア海軍はイタリア海軍の包囲により港湾に閉じ込められた状態であり、何度か攻撃を試みたがオトラント海峡海戦を除き大きな成功はなく、基本的に潜水艦メインの戦略を取らざるを得なかった。両国共に主力艦隊は基本的に積極的に運用せず、終戦まで「現存艦隊主義」を貫いた。そのため、ユトランド沖海戦のような主力艦同士の大規模海戦は遂に起こらなかったのである。

開戦時の海軍大臣レオーネ・ヴィアーレ提督(Leone Viale)、海軍参謀長はパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)であったが、参戦後にとある問題の発生により短期間で辞任に追い込まれた。この問題に関しては後に詳述しよう。

 

 

◆イタリア水上艦隊のアドリア海での活躍

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ポルト・ブーソ港襲撃にて活躍した、駆逐艦「ゼフィッロ」(右)艦長のアルトゥーロ・チャーノ大尉(Arturo Ciano, 左)。後半に紹介する弟コスタンツォ(Costanzo Ciano)と共に第一次世界大戦時の海軍の英雄。戦間期には海軍少将にまで昇進し、造船工廠の責任者も務めた。日独伊三国同盟に深く関わった外相ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)は彼の甥(コスタンツォの息子)である。

参戦直後の1915年5月24日にはアルトゥーロ・チャーノ大尉(Arturo Ciano)が指揮するイタリア駆逐艦「ゼフィッロ」がオーストリア海軍の前哨基地であるポルト・ブーソ基地を襲撃(ポルト・ブーソ襲撃)損害なしで同基地を制圧することに成功し、これが第一次世界大戦におけるイタリア海軍初の勝利となっている。開戦から僅か2時間後のことであった。同日、アントン・ハウス提督(Anton Haus)率いるオーストリア主力艦隊はイタリア参戦の報復として、港湾都市アンコーナに対する艦砲射撃を行った。

続いて、同年7月11日にはエンリコ・ミッロ少将(Enrico Millo)率いる伊海軍偵察艦隊がアドリア海の孤島であるペラゴーサ島を制圧し、ダルマツィア沿岸攻撃の前哨基地を築いた。12月の第一次ドゥラッツォ沖海戦ではエルネスト・プレスビーテロ中将(Ernesto Presbitero)率いるイタリア第二戦隊がオーストリア海軍の駆逐艦2隻を撃沈して、セルビア軍支援のための船団輸送を成功させている。

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ヴィアーレ海相の後任として海相に就任したカミッロ・コルシ提督(Camillo Corsi)。第一次世界大戦開戦時は第一艦隊の司令官であった。海相就任後、間もなくタオン・ディ・レヴェル参謀長が辞任すると参謀長も兼任している。伊土戦争時はヴィアーレ提督の参謀長として、エーゲ海諸島制圧に貢献し、ヴィアーレ提督同様に伊海軍最高の名誉たるサヴォイア軍事勲章を叙勲された。

しかし、オーストリア海軍の潜水艦は攻撃作戦を開始し、7月7日には装甲巡洋艦アマルフィ」を撃沈した。艦隊司令長官のアブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Duca degli Abruzzi, Luigi Amedeo di Savoia-Aosta)ダルマツィア沿岸の艦砲射撃を命令し、エウジェニオ・トリーファリ提督(Eugenio Trifari)率いる第五巡洋戦隊(旗艦:装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ」)が出撃したが、7月18日、これを発見したオーストリア海軍の潜水艦によって艦隊は攻撃を受け、旗艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」が撃沈されている。なお、トリファリ提督は泳いで生還した。連続して巡洋艦が被害に遭ったことの衝撃は大きく、アドリア海における潜水艦の脅威により、イタリア海軍も主力艦隊の行動を制限する事態となった。

2隻の装甲巡洋艦が続けてオーストリア潜水艦による攻撃で撃沈されたことに対し、タオン・ディ・レヴェル海軍参謀長は潜水艦の重要性を理解していなかったとアブルッツィ公率いる海軍上層部を非難タオン・ディ・レヴェル参謀長は元々艦隊決戦に否定的で、潜水艦や魚雷艇、航空機の導入がこれからの戦争で重要な役割を果たすと考えており、艦隊決戦を支持するヴィアーレ海相やアブルッツィ公らとは対立していた(後にタオン・ディ・レヴェル提督の戦略が正しかったことが証明される)。

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第三戦隊司令官のエルネスト・ルビン・デ・チェルヴィン提督(Ernesto Rubin de Cervin)。トリノの男爵家出身の海軍提督で、伊土戦争時はオーブリー提督率いる第一艦隊の旗艦である戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele)」艦長を務め、トリポリ砲撃を指揮した。第一次世界大戦時は戦艦「ベネデット・ブリン(Benedetto Brin)」を旗艦とする第三戦隊司令官だったが、1915年9月27日に港湾内で「ブリン」が爆沈した際に艦と運命を共にした。この爆沈はオーストリア軍による工作と宣伝されたが、実際は偶発的な事故だった。日本海軍でも第一次世界大戦時、戦艦「河内」を同様の事故で失っている。

海軍内における内輪揉めの結果に加え、2隻の装甲巡洋艦の撃沈の責任を国内メディアや内閣から問われたヴィアーレ海相は体調不良を理由に辞任する事態になり、タオン・ディ・レヴェル提督も参謀長を辞任し、ヴェネツィア方面の海軍司令官に事実上左遷された。後任の海相兼参謀長には第一艦隊司令カミッロ・コルシ提督(Camillo Corsi)が就任した。コルシ海相兼参謀長は、同盟国である英仏と協力し、オトラント海峡を封鎖することでオーストリア海軍の封じ込めを図った。なお、ヴィアーレ前海相が進めていたカラッチョロ級戦艦の建造に関しては後回しにされ、小型艦艇の建造が優先されている。結局4隻が起工されたカラッチョロ級戦艦だったが、全て戦時中には完成せず、終戦後に全てが未完の状態で解体されている。

11月27日にはアドリア海南方、ブリンディジ港にて第三戦隊旗艦の戦艦「ベネデット・ブリン」が火薬庫の誘爆によって爆沈する事故が発生。第三戦隊司令エルネスト・ルビン・デ・チェルヴィン提督(Ernesto Rubin de Cervin)含む456名が死亡している。19世紀の伊海軍の拡大を実現した海相の名を冠した戦艦、「ブリン」は第一次世界大戦でイタリアが初めて失った戦艦となった。オーストリア軍による工作とイタリア海軍は主張したが、実際は偶発的な火薬庫の誘爆が原因だったようだ。日本海軍でも第一次世界大戦時、戦艦「河内」を同様の事故で失ったことはよく知られている。爆沈した「ブリン」から艦砲のみが再利用され、後にヴェネツィアを防衛する沿岸砲として使われた。

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第一次世界大戦時のイタリア海軍の潜水艦、メドゥーサ級潜水艦「サルパ(Salpa)」。1912年9月就役。イタリア海軍は第一次世界大戦時に積極的に潜水艦を運用したが、オーストリア海軍及びドイツ海軍に比べてその戦果は乏しかったと言える。「サルパ」はウーゴ・ペッリコーニ艦長(Ugo Perriconi)の元でアドリア海で攻撃任務を行い、オーストリア駆逐艦「マグネート」を大破(戦列復帰せず喪失扱い)させた。第一次世界大戦時の伊潜水艦は輸送船への攻撃で戦果を挙げた一方、軍艦への攻撃で成功したのはこれくらいである。

1916年に入って、イタリア海軍も潜水艦によるダルマツィア海岸攻撃を行い、輸送艦を多数撃沈するなどオーストリア軍の兵站に打撃を与えたが、自軍も戦艦「レジーナ・マルゲリータ」を敵軍の機雷で失っている。「レジーナ・マルゲリータ」の撃沈によって、アルバニア派遣軍司令官のオレステ・バンディーニ将軍(Oreste Bandini)を含む675名が死亡する惨事となった。また、新型戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が「ブリン」同様に港内にて火薬庫の誘爆にて爆沈する不手際を犯した。これはオーストリア軍による破壊工作と宣伝されたが、実際は不適切な管理が理由だったとされる。

イタリア海軍は戦時中を通して3隻の戦艦(「ベネデット・ブリン」「レジーナ・マルゲリータ」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」)を失っているが、3隻のうち2隻が火薬庫の誘爆による偶発的な事故が原因だった。なお、オーストリア海軍も同数の3隻(「ウィーン」「スツェント・イストファン」「フィリブス・ウニティス」)を失ったが、これはいずれもイタリア海軍の攻撃によって撃沈されたものである。

正直なところ、第一次世界大戦のイタリア潜水艦の戦果は、オーストリアやドイツの戦果に比べて非常に乏しかったことは間違いないだろう。軍艦への攻撃作戦に関しては、マトモに敵軍艦に損害(大破)を与えたのは一度だけである。

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オトラント海峡封鎖で活躍したアルフレード・アクトン提督(Alfredo Acton)。ミッロ提督の後任として伊海軍偵察艦隊の司令官に就任し、オトラント海峡海戦ではホルティ提督率いるオーストリア艦隊に突破を許すが、その後の再封鎖に成功した。なお、アクトン提督は両シチリア海軍の発展に貢献し、両シチリア王国帰化したアイルランド系英国人貴族であるジョン・アクトン提督の末裔である。ちなみにこの人、義和団事件鎮圧にも参加した。

イタリア海軍によるオトラント海峡封鎖は英仏と共同作戦を行うことでオーストリア海軍をアドリア海に封じ込める事に成功していたが、1917年にはホルティ・ミクローシュ提督(Horthy Miklós)率いるオーストリア巡洋艦隊は封鎖の突破を計画(オトラント海峡海戦)。イタリア海軍側はアルフレード・アクトン提督(Alfredo Acton)率いる艦隊に迎撃させたが、オーストリア艦隊はこれの突破に成功している。しかし、再び海峡の突破を目論んだオーストリア海軍はイタリア海軍の迎撃を受け断念した。

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第二次ドゥラッツォ湾海戦を勝利に導いたオスヴァルド・パラディーニ提督(Osvaldo Paladini)。前回も紹介したが、伊土戦争においてイタリア紅海艦隊を指揮し、オスマン帝国海軍の紅海艦隊をクンフィダ湾海戦で壊滅させた海軍の英雄である。第一次世界大戦時は第三戦隊司令として活躍し、第二次ドゥラッツォ湾海戦ではドゥラッツォ湾にてオーストリア艦隊を襲撃し、ドゥラッツォ(ドゥラス)からオーストリア軍を撃退することに成功した。

1918年10月2日、イタリア海軍はドゥラッツォ港のオーストリア軍を撤退させるために攻撃を実行(第二次ドゥラッツォ沖海戦)、戦艦「ダンテ・アリギエーリ」を旗艦とするオスヴァルド・パラディーニ提督(Osvaldo Paladini)率いるイタリア艦隊はオーストリア艦隊を撃破した。甚大な被害を受けたオーストリア軍はイタリア側の目論見通り完全に撤退し、後に同港は伊軍に制圧された。
主力艦隊の行動が伊墺両国ともに消極的だったために、どちらか片方の主力艦が海戦に参加することはあっても、戦艦同士による艦隊決戦はアドリア海では終戦まで結局起こらなかった。もっとも、積極的に運用したとしても、イタリア海軍の場合はオーストリア潜水艦の脅威が、オーストリア海軍の場合はイタリア魚雷艇の脅威があると思うと、現存艦隊主義は合理的な選択だったと言えるだろう。実際、オトラント海峡の突破を目指したオーストリア艦隊は、大戦終盤に伊海軍魚雷艇の攻撃で返り討ちにされている。

 

◆伊海軍航空隊、アドリア海の空を舞う

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イタリア海軍航空隊のエースの一人、フェデリーコ・マルティネンゴ(Federico Martinengo)。マッキ M.5戦闘艇を駆り、アドリア海上空にて5機の敵機を撃墜した。特に、1918年5月4日のトリエステ湾空戦では3機の敵機を連続撃墜している。なお、戦後は海軍航空隊が事実上空軍に吸収されたが、空軍側には移らず海軍側に残り、水上艦隊指揮官の道を歩んだ。ベルガミーニ級フリゲートの1隻に彼の名が付けられている。

水上艦のみならず、イード・シェルージ(Guido Scelsi)大佐率いる海軍航空隊もアドリア海において大活躍した。第一次世界大戦時のイタリアのエース・パイロットといえば陸軍航空隊の活躍が有名だが(陸軍航空隊のフランチェスコ・バラッカ少佐Francesco Baraccaは34機の敵機を撃墜した)、海軍航空隊も戦闘飛行艇で多数の敵機を撃墜している。代表的なエースラツィオ・ピエロッツィ(Orazio Pierozzi, 7機撃墜・9機未確認撃墜)フェデリーコ・マルティネンゴ(Federico Martinengo, 5機撃墜)ウンベルト・カルヴェッロ(Umberto Calvello, 5機撃墜)などが存在。ジブリ映画『紅の豚』の主人公ポルコ・ロッソは第一次世界大戦時にイタリア海軍航空隊のエースだった設定だが、まさに搭乗していた機体も同様のマッキ M.5戦闘艇であった。

ピエロッツィらはオーストリア海軍航空隊のトップエースであり、第一次世界大戦時の最高戦闘艇エースであるゴットフリード・フォン・バンフィールド男爵(Gottfried von Banfield, 9機撃墜)も撃墜する戦果を挙げた。なお、フォン・バンフィールド男爵は戦後にイタリアに帰化し、トリエステで海運会社を運営している。イタリア海軍は当初主力艦の艦載機として水上機を運用したが、後に2隻の水上機母艦(「エルバ」及び「エウローパ」)を運用して集中管理し、アドリア海作戦に従事した。

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第一次世界大戦時、海軍航空隊の飛行船「チッタ・ディ・イェージ」艦長として活躍したブルーノ・ブリヴォネージ(Bruno Brivonesi)。写真は第二次世界大戦時のもの。伊土戦争時には飛行船「P.3」の艦長を務め、イタリア海軍航空隊による初の空爆を実行した。海軍航空隊発足後は副司令官を務めた海軍における航空パイオニアであったが、戦後は海軍航空隊が空軍に事実上吸収されたため、彼もまた水上艦隊指揮官としての道を歩んだ。

海軍航空隊は飛行船によるオーストリア軍拠点の爆撃も行っていた。ブルーノ・ブリヴォネージ艦長(Bruno Brivonesi)が指揮する飛行船「チッタ・ディ・イェージ」によるポーラ軍港空襲が有名だろう。発足当時は飛行船2隻と水上機15機しか持たなかった海軍航空隊は、戦時中に拡大していき、第一次世界大戦終戦時には飛行船39隻、航空機(陸上機含む)638機までに増強したのだった。
また、イタリア海軍は陸戦でも勇敢に戦った1915年10月には海軍では後の「サン・マルコ海兵連隊」の母体となる「海兵連隊」が設立され、ピアーヴェ川の大激戦にて投入された。勇敢な海兵達はイタリアの勝利に陸戦でも大きく貢献したのであった。

 

◆伊海軍の秘密兵器、"MAS艇"と"人間魚雷"

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第一次世界大戦時のブッカーリ奇襲で活躍したMAS艇(高速小型魚雷艇)、「M.A.S.96」艇。ガルダ湖畔にあるガルドーネ・リヴィエラのヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ(Vittoriale degli Italiani)に実物が保存されている。筆者撮影。

そして、イタリア海軍の第一次世界大戦での勝利というと、やはり欠かせないのがMAS艇の活躍である。MAS艇とは、第一次世界大戦時に開発されたイタリアの高速魚雷艇で、Motobarca Armata SVAN(SVAN社製武装モーターボート)もしくはMotobarca Anti Sommergibile(駆潜モーターボート)の略称である。ヴェネツィアのSVAN社が1915年3月に試作型を開発。次第に実戦に投入されていったが、元々の駆潜艇としての役割よりも、魚雷艇として敵水上艦に対する攻撃で戦果を挙げたために、後にMotoscafo Armato Silurante(魚雷武装モーターボート)に正式名称を変更している。

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第一次世界大戦のイタリア海軍の勝利の立役者、パオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)。第一次世界大戦開戦時と後半の海軍参謀長を務めた。海軍における次世代の戦争は潜水艦、高速魚雷艇(MAS艇)、そして航空機が重要な役割を果たすと早くから分析しており、そのため艦隊決戦を重視する海軍主流派とは対立していたが、後に彼の主張が正しかったことが証明され参謀長に返り咲いた。大戦後半の伊海軍の大勝は彼の指揮によるところが大きく、現在の伊海軍でも高く評価されている人物である。

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大戦後半の海軍大臣、アルベルト・デル・ボーノ提督(Alberto del Bono)。タオン・ディ・レヴェル提督とは大戦前から親しい友人同士だった。伊土戦争時はリヴォルノ海軍士官学校の長官で、「実地演習」として練習艦隊を率いてリビア沿岸部偵察を実行、戦局に貢献している。第一次世界大戦時は海軍省事務総長だったが、1917年よりコルシ海相の後任として海相に就任。高速魚雷艇であるMAS艇の研究開発に注力し、大戦後半の勝利の立役者となった。

イタリア海軍のMAS艇は第一次世界大戦後半にアドリア海で猛威を奮った。1916年には最初のMAS艇部隊が編成され、同年6月にはドゥラッツォ湾を襲撃オーストリア軍の輸送艦を撃沈し、初の戦果を挙げた。参謀長を兼任していたカミッロ・コルシ海相の後任として、1917年2月9日に再び海軍参謀長に就任したタオン・ディ・レヴェル提督はMAS艇を重要視し、MAS艇部隊は急成長を遂げていった

コルシ海相は6月16日に海相を辞任し、その後任には海軍参謀次長のマデルノ伯アルトゥーロ・トリアンジ提督(Conte di Maderno, Arturo Triangi)が就任したが、僅か一ヶ月で交代となり、後任の海相には海軍事務総長のアルベルト・デル・ボーノ提督(Alberto del Bono)が就任した。タオン・ディ・レヴェル参謀長とデル・ボーノ海相の二人体制によって、第一次世界大戦終盤における伊海軍の大勝は実現できたと言えよう。

 

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ブッカーリ奇襲でMAS艇部隊指揮官を務めた、コスタンツォ・チャーノ中佐(Costanzo Ciano)。先述したアルトゥーロ・チャーノ氏の弟。ブッカーリ奇襲によってカポレットの大敗で沈んだイタリア世論を立て直すことに成功し、伊軍最高位の名誉である戦功金勲章を叙勲された海軍の英雄である。戦後はファシスト党の領袖として政界に進出し、海軍次官や通信大臣などを歴任している。通信大臣時代の彼による鉄道行政改革とイタリア領における鉄道網の構築は特に偉業とされている。なお、彼の息子であるガレアッツォ(後の外相)はムッソリーニの娘エッダと結婚し、ムッソリーニの後継者と目された人物だった。

1917年12月10日未明には、ルイージ・リッツォ中尉(Luigi Rizzo)が指揮する「M.A.S.9」艇と「M.A.S.13」艇がトリエステ湾に侵入(トリエステ湾海戦)オーストリア海軍の戦艦「ウィーン」を撃沈する大戦果を挙げている。その後、1918年2月11日未明にはコスタンツォ・チャーノ中佐(Costanzo Ciano)率いるMAS艇戦隊がブッカーリ港を襲撃(ブッカーリ港奇襲)しており、カポレットの大敗で意気消沈したイタリア国民を鼓舞した。これにはかの英雄詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)も同行しており、彼がブッカーリ港襲撃時に港湾内に引きこもるオーストリア艦隊を揶揄した詩を瓶に詰めて湾に流したことから、「ブッカーリの嘲り(Beffa di Buccari)」と呼ばれている。

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第一次世界大戦時の最高のMAS艇指揮官、ルイージ・リッツォ大尉(Luigi Rizzo)。第一次世界大戦時のイタリア海軍における最高の指揮官と言っても過言じゃないだろう。大戦時は度重なる勝利により、イタリア軍最高の名誉である戦功金勲章(メダリア・ドロ)を二度も叙勲されている。伊軍史上、二度金勲章を叙勲された人物は7名のみである。

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海軍参謀次長のロレンツォ・クザーニ・ヴィスコンティ提督(Lorenzo Cusani Visconti)。伊土戦争時は戦艦「ローマ(Roma)」の艦長を務め、オーブリー提督率いる第一艦隊に所属、リビアの諸都市やドデカネス諸島に対して砲撃を行った。第一次世界大戦時は海軍参謀次長として、タオン・ディ・レヴェル提督と共に活躍。特にプレムダ沖海戦の作戦実行の計画を立てた人物として知られ、大戦中における伊海軍最大の勝利を実現した。

イタリア海軍側にコケにされたオーストリア海軍は1918年春、温存していたホルティ・ミクローシュ提督率いる主力艦隊を出撃させ、オトラント海峡を突破して連合軍船団を叩く計画を立てた。これを察知したイタリア海軍参謀次長のロレンツォ・クザーニ・ヴィスコンティ提督(Lorenzo Cusani Visconti)は、リッツォ大尉が指揮する「M.A.S.15」艇とジュゼッペ・アオンツォ少尉(Giuseppe Aonzo)が指揮する「M.A.S.21」艇に対して敵艦隊の待ち伏せ攻撃を命令(プレムダ海戦)プレムダ島北方のグルイツァ島の影に潜んだ2隻のMAS艇は、6月10日未明にオーストリア艦隊を発見し、攻撃を実行した。リッツォ大尉の「M.A.S.15」艇から発射された魚雷がオーストリア第二戦艦隊旗艦「スツェント・イストファン」右舷に直撃、これにより同艦は横転、撃沈したのであった。

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プレムダ沖海戦でオーストリア戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈した、リッツォ大尉の「M.A.S.15艇」。首都ローマのシンボル、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ)内の軍旗慰霊堂博物館(Museo Sacrario delle Bandiere)に実物が展示されている。筆者撮影。この博物館、他にも海軍関係の展示が多いのでおススメ。

小型の魚雷艇によって弩級戦艦が撃沈されたという事実は各国に衝撃を与え、オーストリア艦隊は再び港湾に撤退したのである。この勝利の日は後にイタリアの海軍記念日(Giornata della Marina Militare)として設定されたのであった。リッサ海戦が起きた場所にも程近いダルマツィア海岸の多島海にて、イタリア海軍がオーストリア海軍に対して大勝利したという戦果は、イタリア海軍にとって「リッサの雪辱」を晴らし、アドリア海制海権の完全な掌握に繋がった重要な勝利であると記憶されている。

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ロッセッティ少佐とパオルッチ大尉をポーラ軍港内部に潜入させた"人間魚雷"ミニャッタ。第二次世界大戦時の伊海軍の秘密兵器「マイアーレ」の前身とも言える原始的な兵器である。試作兵器を設計者自ら搭乗し、大戦果を挙げるというのもアニメやゲームみたいでロマンがある。ラ・スペツィアの海軍技術博物館にて、筆者撮影。

大敗したオーストリア海軍に追い討ちを掛けるように、タオン・ディ・レヴェル海軍参謀長はオーストリア海軍の根拠地であるポーラ軍港襲撃を考案。これに投入されたのが新兵器たる"人間魚雷"「ミニャッタ」で、1918年11月1日に設計者である技術将校ラッファエーレ・ロッセッティ少佐(Raffaele Rossetti)と軍医ラッファエーレ・パオルッチ中尉(Raffaele Paolucci)自ら搭乗した「ミニャッタ」は見事ポーラ軍港の潜入に成功(ポーラ軍港襲撃)。"人間魚雷"とは言え、後の日本海軍の特攻兵器「回天」のような自殺兵器ではなく、潜水工作員が水中を低速移動して敵艦に爆弾を仕掛け撃沈する、という攻撃法であった。戦艦「フィリブス・ウニティス」の艦底に設置した爆弾が爆発し、同艦は撃沈され、作戦は大成功に終わっている。この成功はイタリア海軍に強い影響を与え、第二次世界大戦時には「世界最強の潜水部隊」と称されるだけの戦果を得るに繋がっていくのであった。

 

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伊土戦争及び第一次世界大戦の主な海戦マップ。伊土戦争が地中海から紅海にかけて広範囲で海軍作戦が行われたのに対し、第一次世界大戦時のイタリア海軍の戦いはアドリア海に限定されている。この狭い海域ではオーストリア潜水艦は非常に脅威となった。

長くなってしまったが、説明していく過程で時代が前後したため、最後に年表として主な出来事をまとめておこう。

1915年5月24日:イタリア、オーストリアに宣戦布告。
(第一次世界大戦への参戦)

同日:伊海軍、ポルト・ブーソ港を襲撃。
大戦における伊海軍初の軍事作戦。同基地の制圧に成功。

同日:オーストリア艦隊によるアンコーナ砲撃。
墺主力艦隊によるイタリア参戦の報復。アンコーナ市に甚大な被害。

1915年7月7日:伊装甲巡洋艦アマルフィ」撃沈。
オーストリア潜水艦による雷撃。

1915年7月11日:伊偵察艦隊、ペラゴーサ島制圧。

1915年7月18日:伊装甲巡洋艦ガリバルディ」撃沈。
オーストリア潜水艦による雷撃。伊海軍主力は出撃を制限。

1915年9月24日:ヴィアーレ海相辞任。暫定的にサランドラ首相が海相兼任。

1915年9月30日:コルシ第一艦隊司令海相に就任。

1915年10月1日:タオン・ディ・レヴェル参謀長辞任。
コルシ海相が参謀長兼任。

1915年11月27日:伊戦艦「ブリン」、港内で爆沈。火薬庫の誘爆。

1915年12月28日-29日:第一次ドゥラッツォ湾海戦。
イタリア側がセルビア軍支援のための船団輸送に成功。

1916年6月12日:伊駆逐艦隊、パレンツォ港襲撃。

1916年6月25日:伊MAS艇部隊、ドゥラッツォ湾襲撃。
オーストリア輸送艦を撃沈。MAS艇部隊の初戦果。

1916年8月1日:伊潜水艦、墺駆逐艦を雷撃で大破。
WW1中の伊潜水艦の唯一の敵軍艦に対する戦果。

1916年8月2日:伊戦艦「レオナルド」、港内で爆沈。火薬庫の誘爆。

1916年12月11日:伊戦艦「マルゲリータ」、機雷に触雷沈没。

1917年2月9日:タオン・ディ・レヴェル提督、海軍参謀長に再就任。

1917年5月15日:オトラント海峡海戦。
オーストリア艦隊が海峡の封鎖を突破。

1917年6月16日:コルシ海相辞任、トリアンジ参謀次長が一時的に海相就任。

1917年7月16日:デル・ボーノ海軍事務総長が海相に就任。

1917年12月10日:トリエステ湾海戦。
伊MAS艇部隊、墺戦艦「ウィーン」の撃沈に成功。

1918年2月11日:伊MAS艇部隊、ブッカーリ港奇襲。
カポレットの大敗で沈んだ伊世論を回復。

1918年6月10日:プレムダ沖海戦。
伊MAS艇部隊、墺戦艦「スツェント・イストファン」撃沈。

1918年10月2日:第二次ドゥラッツォ湾海戦。
伊海軍の勝利。墺軍はドゥラッツォ港より撤退。

1918年11月1日:ポーラ軍港襲撃。
伊潜水部隊、墺戦艦「フィリブス・ウニティス」撃沈。

1918年11月3日:ヴィッラ・ジュスティ休戦協定署名。
オーストリア降伏。イタリア戦線の終結

 

次は軍縮時代のイタリア海軍について紹介します。

 

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第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史②:海軍の拡大と伊土戦争での大勝

前回の続きで、今回もイタリア海軍の通史を扱います。参考文献は後日纏めて紹介します。前回の記事はこちら↓

associazione.hatenablog.com

 

◆イタリア海軍、紅海に進出す

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イタリア紅海艦隊の母港、マッサワ。イタリア語ではマッサウア(Massaua)。「紅海の真珠」と謳われるエリトリアの古都で、アッサブに次いで紅海沿岸におけるイタリアの拠点として領有され、エリトリア植民地発足後は最初の首都が置かれた。筆者撮影。

リッサの敗北により、海軍は更に数年間停滞することになったが、1870年の教皇領併合、そしてチュニジア問題でフランスとの間に緊張関係が高まった。これを機に海軍は再び重要視され、再発展が開始された。
また、植民地獲得に遅れて参戦したイタリアは1869年のスエズ運河開通により、紅海方面に進出グリエルモ・アクトン提督(Guglielmo Acton)率いる船団は1869年11月15日にラハイタのスルタンからアッサブ湾を6000タレーロで購入する協定を秘密裏に調印した。1870年3月にはアッサブの領有を正式に宣言し、後のエリトリア植民地化(1890年1月)に繋がった。植民地獲得においても、海軍は重要な役割を果たした。その後イタリアはソマリアも植民地化し、インド洋にも進出するに至ったのである。

なお、グリエルモ・アクトン提督はナポリ海軍の発展に貢献したアイルランド系英国人貴族のジョン・アクトン(ジョヴァンニ・アクトン)提督の子孫である。アクトン家の子孫はナポリ海軍、両シチリア海軍、そしてイタリア海軍で重要なポストを占めた。

 

◆イタリア海軍の拡大

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19世紀後半のイタリア海軍の発展の立役者、ベネデット・ブリン提督(Benedetto Brin)。海相として海軍の発展に貢献し、また造船総監として数々の優秀な主力艦の設計を行った。主な功績としては海軍士官学校の統合、ターラントラ・スペツィアの二大海軍基地の建設などがある。軍艦の建造に必要な鋼鉄の調達のため、テルニ製鉄所の建設を提案したのも彼であり、海軍方面以外でイタリア工業の発展に貢献した。

これを機にアウグスト・リボティ提督(Augusto Riboty)シモーネ・サン・ボン提督(Simone Pacoret de Saint-Bon)ベネデット・ブリン提督(Benedetto Brin)三代の海相の元でイタリア海軍は大発展を遂げることになった。特にブリン提督は造船総監も務め、主力艦の建設でも偉大な功績を挙げた。また、議会の承認を得てリヴォルノに海軍士官学校を開設し、士官教育を統合したのもブリン海相であった。1889年にはイタリア海軍は英海軍に次いで、世界第2位の保有艦船を誇ったのである。

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20世紀初頭のイタリア海軍の近代化に貢献したカルロ・ミラベッロ海相(Carlo Mirabello)。イタリアを代表する物理学者であるグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)とは親友同士で、彼の無線電信の開発にも貢献した。海相就任後、潜水艦や駆逐艦を始めとする補助艦艇を中心に海軍の増強を図り、海軍を近代化させた。

 

しかし、1902年の伊仏合意によりフランスとイタリアの対立は解消され、また1896年にはアドゥア(アドワ)でエチオピア帝国軍に大敗して植民地獲得が停滞していたこともあり、軍事費は削減されて、海軍はその影響を大きく受けてしまった1902年時点でイタリア海軍の艦船保有量はフランス、ロシア、ドイツに次々と抜かされ、世界第5位へと転落。そして、急成長を遂げるアメリカや日本もそれに追いつかんとしていた。1903年に就任したカルロ・ミラベッロ海相(Carlo Mirabello)の手腕によりイタリア海軍は何とか勢いを立て直しているが、とはいえ他列強との艦隊保有量の差は中々埋まらなかった

 

◆伊土戦争での伊海軍の活躍

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アウグスト・オーブリー提督(Augusto Aubry)。ナポリ出身のイタリア海軍提督で、伊土戦争時は戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」を旗艦として第一艦隊の指揮官を務めている。伊土戦争の勝利に貢献した人物だが、戦争終結後に自らの旗艦の甲板上で急死しており、彼を記念して「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の母港であるターラント軍港の施設には彼の名前が付けられている。

こうして、急発展を遂げたイタリア海軍は1911年-1912年にはオスマン帝国海軍と交戦した(伊土戦争)。イタリアの対岸に位置するトリポリタニア及びキレナイカの制圧を目論むイタリアは、その地を領有するオスマン帝国との戦争を開始したからである。両艦隊の戦闘はオスマン帝国が海岸線を持つ地中海、エーゲ海、紅海など広範囲で行われたアウグスト・オーブリー中将(Augusto Aubry)率いるイタリア第一艦隊(旗艦:戦艦「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」)がリビアトリポリを砲撃し、陸軍兵士と共に海軍の海兵部隊もリビアの各拠点の制圧に参加している。

以下、代表的な海戦をいくつか紹介する。

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イオニア海での海戦を指揮した海軍少将、アブルッツィ公ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta, Duca degli Abruzzi)。イタリア王サヴォイア家の一員であり、伊土戦争ではイオニア海アドリア海方面にて水雷戦隊を率いた。第一次世界大戦時では主力艦隊を率いた海軍提督だが、登山家・探検家としても有名であり、戦間期にはソマリア植民地の農業開発で重要な役割を果たした。

 

伊土戦争開始直後の1911年9月に発生したプレヴェザ沖海戦は伊土戦争初の海戦となった。アブルッツィ公(Luigi Amedeo di Savoia-Aosta, Duca degli Abruzzi)率いるイタリア駆逐戦隊は、数的有利であったオスマン艦隊に完勝し、補助巡洋艦「タラーブルス」と魚雷艇3隻を撃沈したほか、艦砲射撃で陸上砲台の破壊にも成功した。アブルッツィ公は続いて10月に当時オスマン帝国支配下にあったアルバニアの港湾攻撃を行い、北部シェンジン港襲撃では2隻のオスマン輸送艦を拿捕している。

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海軍提督時代のオスヴァルド・パラディーニ大佐(Osvaldo Paladini)。伊土戦争では伊海軍の紅海派遣艦隊の司令官を務め、クンフィダ海戦でオスマン艦隊を壊滅させ、その戦功から伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲されている。第一次世界大戦時は第三戦隊司令官を務め、第二次ドゥラッツォ湾海戦でオーストリア艦隊を撃破した。

 

エリトリアに進出していたイタリアは、アラビア半島に勢力圏を持つオスマン帝国と紅海においても対峙した。1911年10月初めにはオスマン帝国海軍の水雷巡洋艦「ペイキ・シェヴケト」をイタリア艦隊(水雷巡洋艦1隻・砲艦1隻)が追撃し、「ペイキ・シェヴケト」が撤退したフダイダ港を砲撃して港湾設備を破壊した。続いて1912年1月、紅海にて行われたクンフィダ湾海戦ではオスヴァルド・パラディーニ大佐(Osvaldo Paladini)率いる防護巡洋艦1隻・駆逐艦2隻から為るイタリア艦隊は、イタリアの補給線を脅かすオスマン艦隊を迎撃し、損害無しで砲艦7隻を撃沈して完勝オスマン帝国海軍の紅海艦隊は壊滅し、イタリアは紅海の制海権を完全に掌握したのであった。

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ベイルート海戦の勝利の立役者、パオロ・タオン・ディ・レヴェル少将(Paolo Thaon di Revel)。第一次世界大戦時は海軍参謀長を務め、伊海軍全体を指揮、アドリア海戦線を勝利に導いた。戦後、「海の公爵(Duca del Mare)」の称号を与えられ、イタリア海軍史上唯一の海軍元帥(Grande Ammiraglio, 大提督の意味)に昇進した。ムッソリーニ政権初期には海軍大臣を務めたが、コルフ島事件を契機にその職を辞した。

 

1912年2月には、パオロ・タオン・ディ・レヴェル少将(Paolo Thaon di Revel)率いる装甲巡洋艦2隻は大胆にもオスマン帝国海軍の主要港であるベイルート港に突入(ベイルート海戦)装甲艦「アヴニッラー」及び水雷艇アンゴラ」を撃沈した。「アヴニッラー」は旧式であったが、数年前にイタリアのアンサルド社で近代化改修をしたばかりの貴重な主力艦の一隻だった。また、レオーネ・ヴィアーレ提督(Leone Viale)率いる海軍分隊オスマン支配下にあったドデカネス諸島を制圧し、帝国本土を脅かしている。これはエーゲ海諸島としてイタリア領となり、東地中海における重要なイタリア軍拠点となった。

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ダーダネルス海峡襲撃を指揮したエンリコ・ミッロ大佐(Enrico Millo)。オスマン帝国側の激しい反撃によって作戦自体は失敗したが、敵国の首都に迫るその大胆な攻撃はイタリア世論を熱狂させた。第一次世界大戦時は偵察艦隊の司令官としてペラゴーサ島制圧を指揮。しかし、タオン・ディ・レヴェル参謀長とは海軍戦略を巡り対立した。

代表的なこれらの海戦の他に、エンリコ・ミッロ大佐(Enrico Millo)によるダーダネルス海峡への大胆な進撃なども実行され、海軍は終始オスマン艦隊を圧倒し、大勝利を挙げた。かつて地中海の覇者だったオスマン艦隊に苦戦したイタリア諸邦海軍だったが、今や逆にオスマン艦隊を圧倒する側に変わり、イタリア艦隊の成長と、オスマン艦隊の衰退を世界に印象付ける戦いとなったのである。伊土戦争でオスマン艦隊を圧倒したイタリア海軍は、大きく自信を付けることになった。

なお、この戦争では陸軍のジュリオ・ガヴォッティ大尉(Giulio Gavotti)が駆るエトリッヒ・タウベ機がオスマン帝国軍部隊に対して爆撃を敢行、「世界初の国家間戦争への航空機の投入」に加え、「世界初の航空機による爆撃」という偉業も果たしており、イタリアは航空史的にも歴史を刻んでいた。

 

次回は第一次世界大戦とイタリア海軍について!

 

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