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エチオピア戦争時のエチオピア帝国軍に参加した外国人義勇兵たち(1935-36)

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エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ(Haile Selassie)。

1935年10月から1936年5月にかけて、東アフリカではエチオピア帝国とイタリアが戦った「エチオピア戦争(Guerra d'Etiopia)」が勃発した。英語では「第二次エチオピア戦争(Second Italo-Ethiopian War)」と呼ばれるこの戦争は、イタリア軍によるエチオピア帝国侵攻により始まり、エチオピアの帝都アディスアベバが陥落した事で幕を閉じた。その後、エチオピア全土はイタリア軍の占領下に置かれ、既にイタリアによって植民地化されていたエリトリア及びソマリアと統合され、「イタリア領東アフリカ(A.O.I.)」となった。イタリア占領下でもエチオピアの闘士(レジスタンス)らは抵抗を続けたが、イタリア軍側による激しい弾圧を受けて多くの犠牲者を出している。結局、第二次世界大戦で英軍によってイタリアが敗れた事でエチオピアは再度独立を取り戻したが、それまでエチオピアは伊英両軍の激しい戦場となってしまった。

エチオピアの大地を征服することは、イタリアにとって、1896年のアドゥア(アドワ)での大敗の雪辱を晴らし、民族の悲願を達成するプロパガンダ的な意味も大きかったが、表面的には未だに奴隷制を維持しているエチオピアに対する「文明化」を侵攻の正当化に繋げた。現実的にはイタリア本土の余剰人口を吸収させる入植地の確保、エチオピアの豊富な地下資源の確保、更にエリトリアソマリアを繋ぐ回廊を確保して東アフリカに一大植民地帝国を建設するというのが大きな目的であった。

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イタリア軍側でエチオピア戦争に参加したサンマリノ義勇兵

このエチオピア戦争において、エチオピア帝国軍には外国人義勇兵が数多く参加した。数としては、直後に発生したスペイン内戦における国際義勇軍(最大時は3万5千人に及んだ)には遠く及ばず、全て合わせても200人程度でしかなかったが、様々な国籍・民族の義勇兵達の中には帝国軍内で要職を務めた者も多く、戦局の展開には無視出来ない存在であった。今回は、そんなエチオピア帝国軍側で参加した代表的な8名の外国人義勇兵について見ていくことにしよう。
なお、今回はエチオピア帝国側に参加した外国人義勇兵を紹介するが、サンマリノ義勇兵のようにイタリア軍側に参加した義勇兵も僅かではあるが存在している。

 

トルコ人(アルバニア系)義勇兵
:メフメト・ワヒブ・パシャ(Mehmed Vehib Paşa)

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オスマン帝国時代のメフメト・ワヒブ・パシャ(Mehmed Vehib Paşa)

エチオピア帝国軍に参加した外国人義勇兵の中でも、最も重要な人物はトルコ人義勇兵のワヒブ・パシャだろう。オスマン帝国軍の将軍(最終階級は陸軍中将)だった人物で、義勇兵としてはエチオピア帝国軍オガデン戦線参謀長を務めている。義勇兵として参加した外国人の中で最も高位の階級だった人物だ。
当時オスマン帝国領だった現ギリシャのイオアニナにて生まれた。民族的にはアルバニア系の出自であり、彼自身もアルバニア系であることを誇りに思っていたようである。また、彼の兄であるメフメト・エサド・パシャ(Mehmed Esad Pasha)もオスマン帝国軍の著名な将軍だった。
ワヒブ・パシャは伊土戦争、バルカン戦争、そして第一次世界大戦で指揮した歴戦の指揮官であり、特に第一次世界大戦ではガリポリ戦線にて第二軍、コーカサス戦線にて第三軍を指揮したことで知られている。

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ワヒブ・パシャが補佐したオガデン戦線司令官のナシブ・ザマヌエル将軍(ነሲቡ ዘአማኑኤል,Nasibù Zemanuel)。

1935年夏にエチオピアに渡って義勇軍として参加。南部戦線(対イタリア領ソマリア戦線)にて、戦死したアファワルク・ワルダ・サマィアト将軍(Afawarq Walda Samayat)の後任として、オガデン戦線司令官に就任したナシブ・ザマヌエル将軍(ነሲቡ ዘአማኑኤል,Nasibù Zemanuel)の参謀長としてワヒブ・パシャは重用され、巧みな手腕で軍の組織化と防衛線の建設を指揮した。
ワヒブ・パシャは数か月に渡って要塞線と塹壕を構築し、第一次世界大戦時のドイツ軍の「ヒンデンブルク線(ジークフリート線)」に肖ってヒンデンブルク防壁」と名付けた強固な陣地軍を作り上げたのである。この堅牢な要塞線はイタリア軍司令官であるロドルフォ・グラツィアーニ将軍(Rodolfo Graziani)を苦戦させ、グラツィアーニはワヒブ・パシャを「広範な軍事活動を展開した戦士である」と敵ながら高く評価している。
しかし、1936年4月末のオガデンの戦いにて、グラツィアーニ率いるイタリア軍は「ヒンデンブルク防壁」の突破に成功し、帝国軍の戦線は崩壊。これを受けて、ワヒブ・パシャは仏領ソマリ海岸(現ジブチ)に逃れたが、現地のフランス当局が彼の身柄をイタリア側に引き渡そうとしたため、英領ソマリランドに逃げ、ゼイラ港からドイツに行き、その後祖国であるトルコに帰国したのであった。戦後もイタリア批判を行うなどしたが、1940年にイスタンブールにて死去している。

 

◆ロシア人義勇兵
ヒョードル・コノヴァロフ(Фёдор Коновалов)

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ロシア帝国時代のヒョードル・コノヴァロフ(Фёдор Коновалов)

外国人義勇兵の中でも特に名の知れた人物だったのは、ロシア帝国軍の元将校(ロシア内戦時は白軍として参加)であり、航空隊のパイロットとしても活躍した経験を持ったロシア人義勇兵ヒョードル・コノヴァロフ大佐である。帝国軍の義勇兵としては、北部戦線右翼軍の軍事顧問を務めている。
1887年、コーカサスにてクリミア系の家系に生まれたコノヴァロフは当初、ロシア帝国軍にて工兵隊に所属したが、陸軍航空隊が創設されるとセヴァストポリの飛行学校でパイロットの免許を所得し、第一次世界大戦時には帝都ペトログラードを防衛する第一近衛軍団の航空隊に所属している。大戦時には偵察機パイロットとして数々の危険な任務を遂行し、それらの武勲により数々の勲章を叙勲され、1917年には大佐に昇進した。
ロシア内戦が勃発すると、ヴラーンゲリ将軍が率いる白軍側に合流し、航空隊副司令官を務めている。白軍が敗北すると、1920年11月にヴラーンゲリと共にイスタンブールに逃げ、その後コノヴァロフはエチオピアに亡命した。エチオピア正教会国家だったからである。

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コノヴァロフが補佐した北部戦線右翼軍司令官のカッサ・ダルゲ将軍(Kassa Darge, ካሣ ኀይሉ ዳርጌ)。

エチオピアに亡命したコノヴァロフは市民権を与えられ、公共事業省で技術者として働いていたが、イタリアとエチオピアの緊張関係が高まると、ハイレ・セラシエ皇帝から防衛準備の助言を依頼され、帝国軍北部戦線右翼軍司令官のカッサ・ダルゲ将軍(Kassa Darge, ካሣ ኀይሉ ዳርጌ)の軍事顧問となっている。1935年12月の所謂「クリスマス攻勢」の成功など、一定の戦果を挙げることには成功したが、最終的には敗北して帝都に撤退した。アディスアベバ陥落後もしばらくは潜伏していたが、その後は欧州に向けて出国。その後、皇帝のそばで軍事顧問を務めた者としてエチオピア戦争の回顧録を出版したことで、彼の名は知られるようになった。
スペイン内戦が勃発すると、コノヴァロフはフランコ将軍率いる国粋派に義勇兵として参加。興味深いことに、少し前までエチオピア戦争で敵として戦ったイタリア軍と共闘関係を築いたのである。航空隊出身だった彼は、エチオピア戦争やスペイン内戦を通じて、イタリア空軍の航空戦術を高く評価した。
1941年末、エチオピア帝国が解放された後、ハイレ・セラシエ帝の許しを得て再度エチオピアに戻り、文芸活動に従事。その後、1951年頃に英領ケニアに移住、ケニア独立後は南アフリカに移住して現地での発掘調査に参加した。1970年に南アフリカのダーバンにて死去。

 

◆ソマリ人義勇兵

:オマル・サマタール(Cumar samatar)

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ソマリ人義勇兵のオマル・サマタール(Cumar samatar)。

エチオピア帝国軍に参加した外国人義勇兵の中でも珍しいアフリカ人義勇兵であり、エチオピア同様に「東アフリカ人」のソマリ人義勇兵。元々はソマリア中部を支配したホビョ・スルタン国の軍司令官で、ソマリア支配を進めるイタリア当局に大規模な叛乱を組織したが、鎮圧された後に同志らと共にエチオピアに亡命。エチオピア帝国義勇兵としては南部戦線にて数百人から構成されたソマリ人軍団の総司令官を務めた。
当時、マジェールティーン・スルタン国の支配領域にあった、北部ソマリアの港町ゲーサレイに1880年に生まれた。青年期にホビョ・スルタン国の首都であるホビョに移住したサマタールはスルタンであるユスフ・ケナディッド(Yusuf Kenadid)の顧問となり、彼が1900年に崩御すると、その跡を継いだアリ・ユスフ・ケナディッド(Ali Yusuf Kenadid)の元でも軍事顧問を務めている。ホビョ・スルタン国は1889年に既にイタリアの保護国となっていたが、サマタールはこれに対してイタリア支配に抵抗すべしという意見を常に主張していた。
第一次世界大戦後、イタリアでは新たにファシスト政権が誕生した。ムッソリーニソマリアでの植民地支配を確固たるものにするべく、新たにソマリア総督に派遣したチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)を派遣。デ・ヴェッキ総督はファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人として知られる実力者で、ホビョとマジェールティーンの二つのスルタン国の併合を強行した。

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イタリア側に協力したソマリ人有力者、オロル・ディンレ(Olol Dinle)。

マジェールティーンは伊軍によって早期に制圧されたが、ホビョ・スルタン国の軍司令官だったサマタールはイタリア軍に対して抵抗し、大規模な叛乱を実行。1925年11月、サマタールはソマリア中部の奪還に一時的に成功し、地元住民からの熱烈な支持を受けた。しかし、デ・ヴェッキはこれに対して援軍の派遣を決定し、更にソマリ人有力者の買収に動いた。この時、イタリア軍側に寝返ったソマリ人有力者として有名なのが、アジュラーン帝国の末裔として知られるオロル・ディンレ(Olol Dinle)で、彼は領地であったケラフォがエチオピア軍の支配下に置かれたことからエチオピアに対して憎悪を抱いており、イタリア軍側に積極的に協力している。結局、12月末にはイタリア軍は再度ソマリア中部の制圧に成功し、サマタールはエチオピアに亡命した。
エチオピア亡命後、1927年に再度イタリア領ソマリアに対して攻撃を仕掛けたが失敗。1928年8月にエチオピア帝国がイタリアと友好条約を締結したことで、イタリア・エチオピア国境が正式に決まったために、サマタールはイタリアに対する攻撃を断念せざるを得なくなった。しかし、ワルワル事件によってエチオピア・イタリア関係が再度悪化すると、アファワルク将軍率いるオガデン軍の指揮下の元、数百人のソマリ人志願兵から成るソマリ人部隊の司令官に就任し、エチオピア戦争が開戦するとオガデンの砂漠地帯でイタリア軍と交戦した。この戦いでは、イタリア軍側についたソマリ人とエチオピア軍側についたソマリ人が交戦し、さながらソマリア内戦の様相であった。
1936年4月末、エチオピア軍の戦線が崩壊すると、サマタールは英領ソマリランドに逃亡し、そのまま欧州に逃れた。1941年にエチオピアが解放された後、ハラールに移住し、1946年に死去した。現在もソマリアでは民族的英雄として尊敬されている

 

◆ナイジェリア人義勇兵

ムハンマド・タリク・ベイ(Muhammad Tariq Bey)

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オスマン帝国時代のムハンマド・タリク・ベイ(Muhammad Tariq Bey)。

エチオピア帝国軍に参加した唯一の「西アフリカ人」とされている義勇兵エチオピア帝国義勇兵としては、帝国軍オガデン戦線参謀長補佐

イタリアの歴史家アンジェロ・デル・ボカ氏(Angelo Del Boca)の著作である"Gli italiani in Africa Orientale - 2. La conquista dell'Impero"ではナイジェリア出身とあるが、英国のアフリカ研究家であるジョン・オーウェン・ハンウィック氏(John Owen Hunwick)の著作"The writings of the Muslim peoples of northeastern Africa"ではスーダン系の出自を持った人物と紹介されているため、実際の出自は諸説あるようだが、もしかしたらスーダン系ナイジェリア人だったりするのかもしれない。おそらく、地理的にソコト帝国時代の北部ナイジェリア出身だと思われる。ソコト帝国1903年に英軍の侵攻によって滅亡し、北部ナイジェリア保護領によって組み込まれた。

どちらにせよ、ナイジェリア北部からオスマン帝国に移住したタリク・ベイはオスマン帝国陸軍の将校として伊土戦争におけるトリポリ防衛戦、そして第一次世界大戦でのコーカサス戦線、希土戦争でのアナトリア戦線と激戦を渡り抜いた数々の武勲により、陸軍少佐にまで昇進している。トルコ共和国成立後は出身地である英領ナイジェリアに戻ったが、その後エジプトのポート・サイードに移住した。

エチオピア戦争の勃発により、ナイジェリアを含む西アフリカでは反植民地主義的な観点から、エチオピア支援の声が高まったが(例えば現ガーナ共和国の英領ゴールド・コースト植民地では第一次世界大戦の従軍兵士を中心にアシャンティ義勇軍が結成されている)、これが植民地独立の機運に繋がると考えた英国当局は外国軍志願法を根拠として義勇兵の出国を厳しく制限し、先述したアシャンティ義勇兵も未遂に終わっている。西アフリカの独立国であったリベリア共和国も、1930年フェルナンド・ポー島事件(リベリア現地部族の労働者を強制労働のためにスペイン領フェルナンド・ポー島に"輸出"した事件に、リベリア副大統領のアレン・ヤンシーが関与したことが発覚した事件)により、国際的に立場が危うくなっており、独立の危機に瀕していたこともあり、こういった義勇兵派遣に積極的になれなかった。
しかし、当時ポート・サイードにいたタリク・ベイは植民地当局の規制を回避し、エチオピアに渡ることが出来たエチオピア渡航後、ワヒブ・パシャ中将率いるトルコ人義勇兵らと合流したタリク・ベイは、共に南部戦線にてイタリア軍と戦っている。彼は最後までオガデン地方で戦い、戦死した。


キューバ義勇兵

:アレハンドロ・デル・バジェ(Alejandro del Valle)

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義勇兵時代のアレハンドロ・デル・バジェ(Alejandro del Valle)。

エチオピア帝国軍では珍しいキューバ義勇兵で、おそらく唯一のラテンアメリカ系の外国人義勇兵である。キューバ陸軍大尉の階級を持ったが、祖国キューバのみならず、メキシコやエクアドルでも反政府運動に加担した革命家だった。エチオピア帝国軍の義勇兵としては、帝国軍の北部戦線中央軍参謀長を務めている。

デル・バジェは1907年にキューバ中央部南岸の港町、シエンフエーゴスの銀行家一家に生まれた。キューバ陸軍の士官学校を卒業して任官されたが、メキシコの反政府運動に加担するために大尉で除隊。その後、エクアドル反政府運動に参加した後、1931年にキューバでヘラルド・マチャド政権に対する反政府組織であるABC革命グループが設立されると、祖国に戻りこれに合流している。後にキューバの独裁者となるフルヘンシオ・バティスタともこの時知り合っていた。

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エチオピア帝国のムルゲタ・イェッガズ陸相(Mulugeta Yeggazu, ሙሉጌታ ይገዙ)。

1935年にエチオピアに移ったデル・バジェは、エチオピア帝国のムルゲタ・イェッガズ陸相(Mulugeta Yeggazu, ሙሉጌታ ይገዙ)の元で機関銃手として参加した。ムルゲタ陸相は帝国軍北部戦線中央軍司令官を兼任し、デル・バジェはエチオピア戦争時は彼の元で中央軍参謀長を務めている。しかし、外国人嫌いで伝統主義者のムルゲタ陸相はデル・バジェとはソリが合わなかった。デル・バジェは陸相に防衛線の維持を進言したが、ムルゲタ陸相はこれに耳を傾けず、攻勢に固執し、戦いの中でオロモ人ゲリラに襲撃され戦死した。
ムルゲタ陸相戦死後、デル・バジェは帝都に戻ったが、帝都陥落後は帝国軍抵抗勢力と共にエチオピア西部のゴレに移動して伊軍相手に抗戦。1936年12月に抵抗勢力の司令官であるラス・イムル将軍が降伏すると、デル・バジェは伊軍の追撃を振り切り、国境を越えて英埃共同統治領スーダンに逃れたのであった。祖国に戻ったデル・バジェは1976年に死去した。

 

アフリカ系アメリカ人義勇兵

ジョン・ロビンソン(John Robinson)

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帝国軍航空隊司令官時代のジョン・ロビンソン(John Robinson)。

「ブラウン・コンドル」の異名で知られるアフリカ系アメリカ人の飛行士アフリカ系アメリカ人の航空パイオニアで、「エチオピア空軍の父」や「タスキーギ・エアメン(第二次世界大戦時に米陸軍航空隊で従軍したアフリカ系アメリカ人パイロット達)の父」として知られる人物である。エチオピア帝国義勇兵としては、エチオピア戦争中に帝国軍航空隊総司令官を務めた。
1903年アメリカ合衆国南部のフロリダ州で生まれたロビンソンは、ミシシッピ州に移り幼少期を過ごした。アラバマ州のタスキーギ大学では機械工学を専攻して卒業。しかし、学位を所得したにもかかわらず、ロビンソンは人種差別の影響で故郷のガルフポートでは職を得られなかった。その後、デトロイトに移住し、自動車整備士として職を得ている
空への憧れを持っていたロビンソンはカーチス・ライト航空学校でパイロット免許を所得した。なお、当時のアメリカではアフリカ系アメリカ人に対する差別が深刻であり、航空学校での授業が受けられなかった。しかし、カーチス・ライト航空学校はロビンソンの熱心な働きかけにより、アフリカ系アメリカ人にも教育を解放した最初の航空学校となった。ロビンソンは友人であり、共にアフリカ系アメリカ人の飛行士であったコーネリアス・コフィーと協力して、独自の航空学校や航空協会を開設し、アフリカ系アメリカ人の航空業界進出の先駆者として活躍した。

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左が「ブラック・イーグル」ことヒューバート・ジュリアン大佐(Hubert Julian)で、右がエチオピア人初のパイロットの一人であるミシュカ・バビチェフ中尉(Mishka Babitcheff)。

1935年、エチオピアとイタリアの関係が悪化すると、ロビンソンは反ファシズム・反植民地主義的な観点からエチオピアの独立を支持し、ハイレ・セラシエ帝からの招待を受けてエチオピアに渡ったエチオピアに渡ったロビンソンは帝国軍航空隊の総司令官を任せられ、大佐の階級とエチオピア国籍が与えられた(エチオピア国籍の所得は米国民が外国人義勇兵として参加する事を禁止する法から回避するため)。

ロビンソンはミシュカ・バビチェフ中尉(Mishka Babitcheff)らを始めとするエチオピアパイロットの育成に務めて航空隊の拡充に尽力したが、同じく大佐の階級を持っていた西インド諸島出身のアフリカ系パイロット、「ブラック・イーグル」の異名を持つヒューバート・ジュリアン(Hubert Julian)とは性格的にも思想的にもソリが合わずに激しく衝突している。エチオピア戦争開戦後、ロビンソン率いる帝国軍航空隊は約20機の航空機しか保有していなかったが、圧倒的戦力差ながら偵察任務や輸送任務で活躍している。帝都陥落後、ロビンソンはジブチに撤退し、アメリカに帰国した。帰国後はタスキーギの航空学校の設立に尽力している。
エチオピア解放後、1944年にロビンソンは再びエチオピアに戻り、そしてイタリアの侵攻によって壊滅した航空隊の再建でバビチェフ中尉と共に中心的な役割を果たした。しかし、1954年にアディスアベバ郊外にて搭乗するスティンソンL-5連絡機が墜落事故を起こし、その事故により死亡した。

 

スウェーデン義勇兵

:ヴィーキング・タム(Viking Tamm)

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エチオピアに派遣されたスウェーデン使節。左から3番目がヴィーキング・タム大尉(Viking Tamm)。その右隣が使節団長のエリク・ヴィルギン将軍(Eric Virgin)。

スウェーデン政府が公式に派遣した使節団の一員としてエチオピアに渡り、親衛隊を中心に帝国軍の近代化に貢献したスウェーデン義勇兵。開戦によって大部分の軍事顧問が帰国した後も義勇兵として残り、皇帝より特別旅団の編成を許可され、最後まで帝都防衛の役目を果たした。帝国軍義勇兵としてはタム特別旅団(通称「タムズ・ボーイ(Tam's Boy)」)の旅団長を務めている。
1896年にストックホルムの銀行家の家に生まれた。彼の父はルイス・ドゥ・イェール政権(Louis De Geer)にて財務相を務めたヘンリク・タム(Henric Tamm)である。タムは1916年に少尉で任官され、1934年12月には空軍のエリク・ヴィルギン将軍(Eric Virgin)を司令官とする軍事使節団の一人としてエチオピアに派遣された(当時の階級は大尉)。軍事使節はヴィルギン将軍を含む計6名で構成され、ベルギー顧問団が実施した帝国親衛隊の養成を継続し、軍の近代化の仕上げとして帝都近郊に士官学校の創設任務を引き受けている。
タムら軍事使節による集中講義で最も重要なものは対空砲の訓練で、スウェーデン軍事使節の教育を受けたエチオピア帝国親衛隊の対空部隊は帝都防衛戦にて重要な役割を果たすことになる。また、ゲリラ戦術の訓練も行い、この時の戦術はレジスタンスが伊軍占領下で抵抗する際にも役に立った

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陸軍参謀長時代のヴィーキング・タム少将。

ワルワル事件が起こると、スウェーデン軍事使節はワルワルに派遣されたため、これを受けてイタリア政府はスウェーデン政府に激しく抗議。しかし、スウェーデン政府はイタリア側を批判して対立を深めたエチオピア戦争が開戦してスウェーデン使節は正式には引き揚げることになったが、タムら数名の使節エチオピアに残り、親衛隊への教育任務を継続した。また、タムは1935年11月にハイレ・セラシエ帝より特別旅団設立の許可を受け、士官候補生らを中心に小部隊の組織化に従事。この特別旅団は帝都防衛で中心的な役割を果たし、バドリオ元帥率いるイタリア軍の侵攻を二日間遅らせることに成功した。
帝都陥落後、スウェーデンに帰国したタムは陸軍に復帰して少佐に昇進。1939年には中佐に昇進したが、冬戦争が勃発するとフィンランド軍側で義勇兵として参加スウェーデン義勇軍第二戦闘群司令官としてフィンランド軍を支援し、侵攻を目論むソ連軍に対して抵抗している。冬戦争後は帰国し、1941年に大佐に昇進した。エチオピア解放後も再びエチオピアに軍事顧問として派遣された後、少将に昇進したタムは1948年から1953年にかけてスウェーデン陸軍参謀長を務めている。最終階級は中将。1975年に亡くなった。

 

チェコ義勇兵

:アドルフ・パルレザーク(Adolf Parlesák)

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義勇兵時代のアドルフ・パルレザーク(Adolf Parlesák)。

チェコ義勇兵のアドルフ・パルレザークは他の義勇兵らとは異なり、全くの「偶然」でエチオピア帝国軍の義勇兵として戦うことになった人物である。というのも、パルレザークジャーナリスト・旅行作家であり、世界各地を旅しながら旅行雑誌のルポ・ライターとして活動していた青年で、エチオピアでの旅行中に偶然イタリア軍の侵攻に遭遇、偶発的にエチオピア帝国軍で軍事顧問を務めることになったエチオピア帝国義勇兵としては、帝国軍北部戦線右翼軍軍事顧問として活動している。
1908年、当時オーストリア領であったチェコのブルノにて生まれたパルレザークは、大学では電子工学を専攻した青年であった。少年の頃から旅行が好きで、14歳の時に既に自転車でチェコスロヴァキア国内だけでなく、近隣のオーストリアハンガリー、ドイツ、ルーマニアポーランドを旅し17歳の頃にはアルプスを越えてイタリアまで遠征、更にサンマリノ共和国にも旅した翌年にはバルカン半島に進出し、ユーゴスラヴィアアルバニアギリシャブルガリアに行き、更にダーダネルス海峡を越えてトルコにまで遠征している。19歳の頃、伊領エーゲ海諸島を含むエーゲ海の島々を旅し、シリアやパレスチナといった中東方面に進出更にエジプトにも行きアフリカ大陸に達した。こうして、アフリカを南下を開始ナイル川に沿ってスーダン、そしてエチオピアに行き、更には伊領エリトリアを通り、紅海を渡ってイエメンに到達。海路で英国支配下のペリム島とアデンにも寄っている。遂には東南アジアや中国大陸、そして日本にまで旅行をしており、沖縄に関するルポを書いたことでも知られている。
そんな旅人パルレザークエチオピアでの冒険旅行中、突如イタリア軍の侵攻に遭遇。国際関係の悪化を考えればこの事態を察知出来たはずだが、今まで世界中を渡り歩いてきたパルレザークは気にしていなかったのかもしれない。ティグライの古い正教会の教会堂で取材中、パルレザークは伊軍の侵攻に遭遇。元々チェコスロヴァキア政府はイタリアとの関係が悪く、イタリア・エチオピア関係の悪化後ハイレ・セラシエ帝を支持していた。とはいえ、チェコス政府はエチオピア政府側と貿易協定を締結した程度しか外交的な働きかけはしていなかった。パルレザークはあくまで個人的な意思のもと、エチオピア側への協力を決断し、右翼軍司令官のカッサ・ダルゲ将軍の協力要請に基づき、彼の軍事顧問として帝国軍の教練指揮を担当することになった。つまり、パルレザークは軍事関係は未経験であったが、既に右翼軍軍事顧問であったコノヴァロフ大佐と共に帝国軍の指導をすることになったのである。
戦線崩壊後は皇帝と共にジブチに逃れ、祖国に帰国した。帰国後はエチオピアの従軍経験について著作を出版した他、翻訳家やドキュメンタリー映画監督などとして手広い活動を行い、共産化後もチェコスに留まり、1981年にプラハにて死去した。

 

◆主要参考文献
石田憲著『ファシストの戦争―世界史的文脈で読むエチオピア戦争』千倉書房・2011年発行
石田憲著『地中海新ローマ帝国への道』東京大学出版会・1994年発行
岡倉登志著『エチオピアの歴史』明石書店・1999年発行
Giancarlo Mazzuca, Gianmarco Walch著, Mussolini e i musulmani, Mondadori, 2017
Angelo Del Boca著, Il Negus: Vita e morte dell'ultimo re dei re, Editori Laterza, 2007
Angelo Del Boca著, Gli italiani in Africa orientale, Mondadori, 1999
John O. Hunwick著, The writings of the Muslim peoples of northeastern Africa, BRILL, 2003
Christopher Othen著, Lost Lions of Judah: Haile Selassie's Mongrel Foreign Legion 1935-41, Amberley Publishing, 2017

Piergiovanni Volpinari著, Alla ricerca della verita' sepolta, Carlo Filippini Edizione, 2016

第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史⑤:戦間期の戦争とイタリア海軍(1935-39)

前回は軍縮時代のイタリア海軍通史でしたが、今回はいよいよ第二次世界大戦に至るまでの1930年代の三つの軍事衝突(エチオピア戦争、スペイン内戦、アルバニア戦争)と海軍の関わりを書いていきたいと思います。

↓前回まではこちら

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エチオピア戦争の勃発

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1930年代半ばから1940年までイタリア海軍の責任者(海軍次官及び海軍参謀長)を務めたドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)。戦艦と潜水艦を重要視する海軍ドクトリンを採用し、第二次世界大戦におけるイタリア海軍の基本体制を確立した人物と言える。レーダーなどの電子装備を重要視しない保守的な次官であったが、空母建造に関しては積極的なアプローチをしていた。開戦後、空母の建造計画について正式に開始させている。

1934年12月5日、イタリア領ソマリアエチオピアの国境に位置するワルワルにて、イタリア軍エチオピア軍の軍事衝突が発生した(ワルワル事件)。前回述べた通り、イタリアはエチオピアと1928年8月に友好条約を結んでいたが、この事件を契機に両国関係は著しく悪化し、1935年10月のエチオピア戦争開戦に繋がったのである。

エチオピアを征服することは、1896年のアドゥア(アドワ)での大敗の雪辱を晴らし、民族の悲願を達成するプロパガンダ的な意味も大きかったが、表面的には未だに奴隷制を維持しているエチオピアに対する「文明化」を侵攻の正当化に繋げた。現実的にはイタリア本土の余剰人口を吸収させる入植地の確保エチオピアの豊富な地下資源の確保更にエリトリアソマリアを繋ぐ回廊を確保して東アフリカに一大植民地帝国を建設するというのが大きな目的であった。

この時を前後して、海軍内でも人事異動があった。1933年にジュゼッペ・ジリアンニ海相(Giuseppe Sirianni)は辞任し、再度ムッソリーニ海相を兼任した。そのため、海軍の事実上の責任者は新たに海軍次官に就任したドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)であった。間もなく1934年にはジーノ・ドゥッチ海軍参謀長(Gino Ducci)の後任として、カヴァニャーリ次官は海軍参謀長も兼任している。

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1935年-1941年にかけての東アフリカ戦線の地図。イタリア軍は1935年-36年のエチオピア帝国侵攻、そして第二次世界大戦での対英仏戦争によって東アフリカの大部分を占領下に置いている。しかし、本国から遠く離れたこの戦線は本国から大規模な支援が不可能であり、第二次世界大戦開戦後は空軍による最低限度の支援輸送しか出来なかった。そのため、第二次世界大戦時には1941年末には既に陥落している。なお、インド洋沿岸を支配したイタリアだが、第二次世界大戦時の伊海軍はインド洋に戦力を配備せずに紅海のみに戦力を集中させた。インド洋での作戦行動は紅海艦隊及び大西洋艦隊所属の潜水艦が進出したくらいで、あとは日本を目指した仮装巡洋艦が交戦しただけである。

こうして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人でもあるエミーリオ・デ・ボーノ将軍(Emilio De Bono)を遠征軍総司令官として侵攻が開始されたが、エチオピア帝国内陸国であったという特性上、活躍した陸軍や空軍とは異なり、イタリア海軍は戦争の主体にはなれなかった。しかし、海軍の「サン・マルコ」海兵がエチオピア帝国軍との戦闘に参加したほか、海軍側が兵員輸送と哨戒などを担当しており、全く参加しなかったわけではない。例えば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」は東アフリカへの航空機輸送任務で大きな役割を果たしている。
エチオピア帝国軍はイタリア軍より大幅に遅れていると言えど、自動車化部隊や航空部隊を持つなど部分的に近代化に成功し、国産航空機を生産出来る工業力を擁していた。エチオピア兵が所謂「槍と盾しか持たない」というのは完全な誤りである。1936年5月5日、帝都アディスアベバイタリア軍によって陥落したことにより、エチオピア戦争は終結し、エチオピアはイタリアに併合され、エリトリアソマリアと合併して「イタリア領東アフリカ(A.O.I.)」が成立したのであった。

エチオピアへの侵攻は、今までムッソリーニが続けていた英仏との協調外交を完全に転換させた。外相には海軍におけるファシスト政権の実力者であるコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)の息子、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)が新たに就任したが、彼はムッソリーニの娘エッダ(Edda Mussolini)の婿であり、ムッソリーニの後継者と目された人物にまでなった。日本では日独伊三国同盟の署名者として、「チアノ外相」という名前で知られているだろう。

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1930年代半ばから第二次世界大戦にかけて、財務相を務めたパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)。パオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥の甥で、「経済ナショナリズム」を主張し、戦時即応体制の準備を進めた。ちなみに、1920年アントワープ五輪ではフェンシングで金メダルを受賞する経験を持ち、そういった関係からスポーツ界でも著名人で、1956年のコルティーナ・ダンペッツォ冬季五輪ではイタリア五輪組織委員会の委員長を務めている。

経済的にもイタリアは事実上の戦時体制に移行した。エチオピア戦争前に財務相に就任したパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)エチオピアとの関係悪化により、侵攻計画が現実味を帯びてくると、それに伴い財務相に就任、「経済ナショナリズム」の強化により、戦時即応体制の準備を進めた。彼の財務相時代は、まさしくファシスト・イタリアが冒険的な膨張主義に手を出し、戦争への道を突き進む時代と一致する。
すなわち、戦時下にも対応出来るように、他国への依存を廃するアウタルキー経済を目指した経済と金融の「ファシズム化」を目指し、銀行改革によるシステム合理化、戦争費用で疲弊した財政の回復、新税制度の導入などを実行したが、これを実現するために大幅な増税をし、国民への負担を強いた。戦時中は国債をベースに物価安定に尽力民間消費を抑制して物価を調整し、国債以外の投資を制限する事で、戦争経済によるインフレの回避を目的とした。彼は継続して1943年の内閣改造まで財務相を務めている。なお、彼はパオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥(Paolo Thaon di Revel)の甥であった。よく両者が混同されがちであるが、タオン・ディ・レヴェル海軍元帥が財務相になったわけではない。

 

◆海軍軍縮からの脱退と建艦計画

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第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家として参加したカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)。少年時代を南アフリカで過ごした彼は英語が堪能であり、ロンドン海軍軍縮会議における交渉役として選ばれたが、結局軍縮への脱退を宣言することになった。スペイン内戦では駆逐艦「マロチェッロ」艦長として、バレアレス諸島制圧に支援。この時の戦功により、伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲された。第二次世界大戦時は第11駆逐戦隊の司令官として、パッセロ岬沖海戦で戦死している(戦死後、戦功金勲章を叙勲されている)。彼の名前は戦時中に建造されたメダリエ・ドロ級駆逐艦の1隻、冷戦期に作られたベルガミーニ級フリゲートの1隻、そして2014年に就役したベルガミーニ級フリゲート(2代)の1隻として艦名に採用された。

エチオピア戦争で国際連盟の制裁を受けたイタリアは、第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家としてカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)を参加させたが、軍縮条約への署名を拒否する事態となった。交渉は決裂し、イタリアは軍縮からの脱退を宣言したのである。同様に未来の同盟国たる日本も予備交渉がまとまらず、軍縮からの脱退を宣言している。こうして、軍縮条約という「足枷」を失ったイタリア海軍は、国際情勢の悪化と共に更なる軍拡に向けて動き出すことになった。とはいえ、常に予算不足という「足枷」は海軍に付きっ切りであった上、工業生産力は限られており、更に空軍との対立もあったため、自由な軍拡が行えたわけではない。

カヴァニャーリ海軍次官は海軍予算の増加を受けて、旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めた。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった。第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。

イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」)及びカイオ・ドゥイリオ級2隻(「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。

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リットリオ級戦艦のネームシップ、「リットリオ(Littorio)」。艦名はファシスト党の象徴であるファッショ・リットーリオ(Fascio Lottorio)に由来する。1940年5月6日に就役したイタリア待望の新戦艦である(なお、進水も就役も姉妹艦の「ヴィットリオ・ヴェネト」の方が先であるため、他国ではヴィットリオ・ヴェネト級と呼ばれることもある)。主砲の50口径381mm主砲は885kgの砲弾を850m/秒で撃ち出すことが可能で、高初速砲のため最大射程は42,600mと長かった(これはリシュリュー級や大和型を上回る射程だった)。威力的にも大和型やアイオワ級に匹敵する主砲性能とされている。この381mm主砲は第二次シルテ湾海戦で荒天と煙幕の中で英艦隊相手に猛威を振るっており、敵駆逐艦数隻に大損害を与えた。

更にカヴァニャーリ次官が戦略の中心に考えたのが潜水艦である。第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。
ただ、その一方でカヴァニャーリ次官は電子装備開発には保守的でウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を中心にレーダー開発が行われていたが、予算は僅かしか与えられていなかった1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功したが、海軍はこれを重要視せず、結局量産開始は開戦後の1942年からであった。

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第二次世界大戦時に建造されたイタリアの2隻の空母。客船「ローマ」を改装したのが左の「アクィラ(Aquila)」で、客船「アウグストゥス」を改装したのが右の「スパルヴィエロ(Sparviero)」である。客船時代は姉妹船だった2隻だが、空母改装後は全く異なる見た目となった。このうち、「スパルヴィエロ」は1936年時の緊急空母改装案が一部変更された形で採用されている。なお、2隻とも休戦までには完成しなかった。

空母開発に関しては、エチオピア戦争での国際関係の悪化により、カヴァニャーリ次官は客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を特設空母として改造する案を決定した。イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)の後任として、空軍の責任者に就任したジュゼッペ・ヴァッレ空軍次官(Giuseppe Valle)は前任者よりも柔軟に対処し、地中海作戦を行う上で海軍との協力が不可欠と考えていた。そのため、空母の保有問題に関しても、海軍側に譲歩するようになった。しかし、エチオピア戦争の終了によって一旦緊張が和らいだために緊急空母改装計画は中止となった。なお、改装計画自体の研究は継続され、この時の設計案は後の空母「スパルヴィエロ」建造時に活用されている。その後、新造空母の建造を目指したカヴァニャーリ次官であったが、議会で建造案を提出した際にムッソリーニによって却下された。ムッソリーニが従来通り「イタリア半島不沈空母論」を主張し、現状の航空戦力のみで対処は可能としたためである。

 

◆スペイン内戦とアルバニア侵攻

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マルコーニ級潜水艦の1隻、「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」。1940年3月に就役したイタリア海軍の潜水艦である。第二次世界大戦時、大西洋での通商破壊作戦を行い、計120,243トン(17隻)の輸送艦を撃沈している。この戦果は第二次世界大戦時において、ドイツ潜水艦(Uボート)を除けば世界最大の潜水艦による撃沈戦果となった。第一次世界大戦時は戦果に乏しいイタリア潜水艦隊であったが、第二次世界大戦時には他国海軍と比較しても高い戦果を挙げたと言えるだろう。カヴァニャーリ提督の戦略が実を結んだと言える。

イタリアの国際的な孤立は、1936年にムッソリーニによる「ローマ・ベルリン枢軸」が主張されてから、ナチス・ドイツとの蜜月関係を生み出した。1939年にはイタリア・ドイツ間の同盟である「鋼鉄協約」が結ばれ1940年にはこれに日本を加えて「日独伊三国同盟」に発展することになった。一方、地中海やアフリカにおいて英仏との関係悪化が顕著となったイタリアは、エチオピア戦争後、更に冒険的な外交政策に舵を切っていったのである。これはファシスト・イタリアの破滅への序曲となった。

スペイン内戦ではイタリア海軍も陸軍・空軍と共に「義勇軍」として国粋派支援に派遣された。その役目は基本的に国粋派の船団護衛と共和派に対する通商破壊であった。それを担ったのはマリオ・ファランゴーラ提督(Mario Falangola)率いるイタリア潜水艦部隊で、計38隻の潜水艦が作戦に従事している。共和派及びソヴィエト連邦の輸送船の多くが撃沈・損傷され、カヴァニャーリ次官は潜水艦が海軍戦略において重要である事を再確認している。また、潜水艦「トッリチェッリ」が共和派の軽巡「ミゲル・デ・セルバンテス」を雷撃で大破させるなど、軍艦に対しても戦果を挙げた

他にも、駆逐艦「マロチェッロ」によるバレアレス諸島制圧作戦や、巡洋艦隊によるスペイン沿岸諸都市への砲撃なども行われており、海軍は積極的に内戦介入に関わった。なお、空軍のSM.79も共和派スペインの戦艦「ハイメ・プリメロ」を水平爆撃で撃破しており、これは空軍が「艦船攻撃には高高度からの水平爆撃が有効」という誤った戦略をとる原因にもなっている。

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近代化改修後の戦艦「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」。元々は第一次世界大戦中の1915年4月1日に竣工した旧式の弩級戦艦だったが、1933年10月より姉妹艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に大規模な近代化改修を行い、1937年6月に再就役した。改装前の面影を全く感じさせない魔改造っぷりで(実に艦の約6割を作り直す徹底ぶり)、もはや新造戦艦のようである。苦肉の策とはいえ、イタリアの建艦技術の高さの結晶と言えるだろう。第二次世界大戦時にはプンタ・スティーロ海戦に参加したが、その後のターラント空襲では空母「イラストリアス」艦載機のソードフィッシュ雷撃機の攻撃を受けて大破着底。浮揚されるが損害が多く、修復と同時に対空兵装を中心とした近代化改修が行われたが、結局1943年までに改修が終わらずに戦列復帰は出来なかった。

第二次世界大戦前夜に発生した1939年4月のアルバニア侵攻では、アルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)率いる第一艦隊が派遣された。この艦隊は戦艦「コンテ・ディ・カヴール」(艦長:アントニオ・ボッビエーゼ大佐 Antonio Bobbiese)を旗艦とし、戦艦2隻、水上機母艦1隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦水雷艇23隻等で構成された大艦隊であった。第一艦隊はアルフレード・グッツォーニ陸軍大将(Alfredo Guzzoni)率いるイタリア陸軍遠征軍船団を護衛しつつ、アルバニアの港湾に対して艦砲射撃を実行し、陸軍部隊の上陸を支援した。水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」はこの作戦時に戦車揚陸艦として運用されている点も興味深いだろう。

アルバニア海軍は貧弱な小型艦艇数隻しか保有しておらず、また沿岸砲台もあったがイタリア軍の猛攻を止めることは出来なかった4月7日に上陸したイタリア軍は、翌日には首都ティラナを制圧12日にはアルバニア全土が完全に制圧され、僅か数日間でイタリアはアルバニアの完全征服に成功したのであった。アルバニア制圧後、アルバニアはイタリア王を元首とする同君連合となり、イタリア軍の占領下となった。

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1939年時点のイタリア支配領域と主要港。インド洋に面するソマリアを領有しているが、東アフリカ方面のイタリア海軍は紅海に面するエリトリアのマッサワ港及びアッサブ港に基地を置いており、インド洋方面には戦力を置いていなかった。イタリア海軍の戦力の大半は地中海に集中しており、世界中の植民地帝国を領有する英仏にとって、地中海戦線のイタリア海軍は大きな脅威となっていた。なお、小規模ながらイタリア海軍も天津を根拠地とする極東艦隊が存在し、太平洋戦争開戦後は日本軍に協力している。

ひとまず、この辺りで今回のイタリア海軍通史シリーズを終了としよう。参考文献については後日まとめてこの記事の末に貼る予定です。