第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史⑤:戦間期の戦争とイタリア海軍(1935-39)
前回は軍縮時代のイタリア海軍通史でしたが、今回はいよいよ第二次世界大戦に至るまでの1930年代の三つの軍事衝突(エチオピア戦争、スペイン内戦、アルバニア戦争)と海軍の関わりを書いていきたいと思います。
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◆エチオピア戦争の勃発
1934年12月5日、イタリア領ソマリアとエチオピアの国境に位置するワルワルにて、イタリア軍とエチオピア軍の軍事衝突が発生した(ワルワル事件)。前回述べた通り、イタリアはエチオピアと1928年8月に友好条約を結んでいたが、この事件を契機に両国関係は著しく悪化し、1935年10月のエチオピア戦争開戦に繋がったのである。
エチオピアを征服することは、1896年のアドゥア(アドワ)での大敗の雪辱を晴らし、民族の悲願を達成するプロパガンダ的な意味も大きかったが、表面的には未だに奴隷制を維持しているエチオピアに対する「文明化」を侵攻の正当化に繋げた。現実的にはイタリア本土の余剰人口を吸収させる入植地の確保、エチオピアの豊富な地下資源の確保、更にエリトリアとソマリアを繋ぐ回廊を確保して東アフリカに一大植民地帝国を建設するというのが大きな目的であった。
この時を前後して、海軍内でも人事異動があった。1933年にジュゼッペ・ジリアンニ海相(Giuseppe Sirianni)は辞任し、再度ムッソリーニが海相を兼任した。そのため、海軍の事実上の責任者は新たに海軍次官に就任したドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)であった。間もなく1934年にはジーノ・ドゥッチ海軍参謀長(Gino Ducci)の後任として、カヴァニャーリ次官は海軍参謀長も兼任している。
こうして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人でもあるエミーリオ・デ・ボーノ将軍(Emilio De Bono)を遠征軍総司令官として侵攻が開始されたが、エチオピア帝国が内陸国であったという特性上、活躍した陸軍や空軍とは異なり、イタリア海軍は戦争の主体にはなれなかった。しかし、海軍の「サン・マルコ」海兵がエチオピア帝国軍との戦闘に参加したほか、海軍側が兵員輸送と哨戒などを担当しており、全く参加しなかったわけではない。例えば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」は東アフリカへの航空機輸送任務で大きな役割を果たしている。
エチオピア帝国軍はイタリア軍より大幅に遅れていると言えど、自動車化部隊や航空部隊を持つなど部分的に近代化に成功し、国産航空機を生産出来る工業力を擁していた。エチオピア兵が所謂「槍と盾しか持たない」というのは完全な誤りである。1936年5月5日、帝都アディスアベバがイタリア軍によって陥落したことにより、エチオピア戦争は終結し、エチオピアはイタリアに併合され、エリトリア・ソマリアと合併して「イタリア領東アフリカ(A.O.I.)」が成立したのであった。
エチオピアへの侵攻は、今までムッソリーニが続けていた英仏との協調外交を完全に転換させた。外相には海軍におけるファシスト政権の実力者であるコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)の息子、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)が新たに就任したが、彼はムッソリーニの娘エッダ(Edda Mussolini)の婿であり、ムッソリーニの後継者と目された人物にまでなった。日本では日独伊三国同盟の署名者として、「チアノ外相」という名前で知られているだろう。
経済的にもイタリアは事実上の戦時体制に移行した。エチオピア戦争前に財務相に就任したパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)はエチオピアとの関係悪化により、侵攻計画が現実味を帯びてくると、それに伴い財務相に就任、「経済ナショナリズム」の強化により、戦時即応体制の準備を進めた。彼の財務相時代は、まさしくファシスト・イタリアが冒険的な膨張主義に手を出し、戦争への道を突き進む時代と一致する。
すなわち、戦時下にも対応出来るように、他国への依存を廃するアウタルキー経済を目指した。経済と金融の「ファシズム化」を目指し、銀行改革によるシステム合理化、戦争費用で疲弊した財政の回復、新税制度の導入などを実行したが、これを実現するために大幅な増税をし、国民への負担を強いた。戦時中は国債をベースに物価安定に尽力。民間消費を抑制して物価を調整し、国債以外の投資を制限する事で、戦争経済によるインフレの回避を目的とした。彼は継続して1943年の内閣改造まで財務相を務めている。なお、彼はパオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥(Paolo Thaon di Revel)の甥であった。よく両者が混同されがちであるが、タオン・ディ・レヴェル海軍元帥が財務相になったわけではない。
◆海軍軍縮からの脱退と建艦計画
エチオピア戦争で国際連盟の制裁を受けたイタリアは、第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家としてカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)を参加させたが、軍縮条約への署名を拒否する事態となった。交渉は決裂し、イタリアは軍縮からの脱退を宣言したのである。同様に未来の同盟国たる日本も予備交渉がまとまらず、軍縮からの脱退を宣言している。こうして、軍縮条約という「足枷」を失ったイタリア海軍は、国際情勢の悪化と共に更なる軍拡に向けて動き出すことになった。とはいえ、常に予算不足という「足枷」は海軍に付きっ切りであった上、工業生産力は限られており、更に空軍との対立もあったため、自由な軍拡が行えたわけではない。
カヴァニャーリ海軍次官は海軍予算の増加を受けて、旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めた。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった。第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。
イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」)及びカイオ・ドゥイリオ級2隻(「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。
更にカヴァニャーリ次官が戦略の中心に考えたのが潜水艦である。第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有数だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。
ただ、その一方でカヴァニャーリ次官は電子装備開発には保守的で、ウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を中心にレーダー開発が行われていたが、予算は僅かしか与えられていなかった。1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功したが、海軍はこれを重要視せず、結局量産開始は開戦後の1942年からであった。
空母開発に関しては、エチオピア戦争での国際関係の悪化により、カヴァニャーリ次官は客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を特設空母として改造する案を決定した。イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)の後任として、空軍の責任者に就任したジュゼッペ・ヴァッレ空軍次官(Giuseppe Valle)は前任者よりも柔軟に対処し、地中海作戦を行う上で海軍との協力が不可欠と考えていた。そのため、空母の保有問題に関しても、海軍側に譲歩するようになった。しかし、エチオピア戦争の終了によって一旦緊張が和らいだために緊急空母改装計画は中止となった。なお、改装計画自体の研究は継続され、この時の設計案は後の空母「スパルヴィエロ」建造時に活用されている。その後、新造空母の建造を目指したカヴァニャーリ次官であったが、議会で建造案を提出した際にムッソリーニによって却下された。ムッソリーニが従来通り「イタリア半島不沈空母論」を主張し、現状の航空戦力のみで対処は可能としたためである。
◆スペイン内戦とアルバニア侵攻
イタリアの国際的な孤立は、1936年にムッソリーニによる「ローマ・ベルリン枢軸」が主張されてから、ナチス・ドイツとの蜜月関係を生み出した。1939年にはイタリア・ドイツ間の同盟である「鋼鉄協約」が結ばれ、1940年にはこれに日本を加えて「日独伊三国同盟」に発展することになった。一方、地中海やアフリカにおいて英仏との関係悪化が顕著となったイタリアは、エチオピア戦争後、更に冒険的な外交政策に舵を切っていったのである。これはファシスト・イタリアの破滅への序曲となった。
スペイン内戦ではイタリア海軍も陸軍・空軍と共に「義勇軍」として国粋派支援に派遣された。その役目は基本的に国粋派の船団護衛と共和派に対する通商破壊であった。それを担ったのはマリオ・ファランゴーラ提督(Mario Falangola)率いるイタリア潜水艦部隊で、計38隻の潜水艦が作戦に従事している。共和派及びソヴィエト連邦の輸送船の多くが撃沈・損傷され、カヴァニャーリ次官は潜水艦が海軍戦略において重要である事を再確認している。また、潜水艦「トッリチェッリ」が共和派の軽巡「ミゲル・デ・セルバンテス」を雷撃で大破させるなど、軍艦に対しても戦果を挙げた。
他にも、駆逐艦「マロチェッロ」によるバレアレス諸島制圧作戦や、巡洋艦隊によるスペイン沿岸諸都市への砲撃なども行われており、海軍は積極的に内戦介入に関わった。なお、空軍のSM.79も共和派スペインの戦艦「ハイメ・プリメロ」を水平爆撃で撃破しており、これは空軍が「艦船攻撃には高高度からの水平爆撃が有効」という誤った戦略をとる原因にもなっている。
第二次世界大戦前夜に発生した1939年4月のアルバニア侵攻では、アルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)率いる第一艦隊が派遣された。この艦隊は戦艦「コンテ・ディ・カヴール」(艦長:アントニオ・ボッビエーゼ大佐 Antonio Bobbiese)を旗艦とし、戦艦2隻、水上機母艦1隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦・水雷艇23隻等で構成された大艦隊であった。第一艦隊はアルフレード・グッツォーニ陸軍大将(Alfredo Guzzoni)率いるイタリア陸軍遠征軍船団を護衛しつつ、アルバニアの港湾に対して艦砲射撃を実行し、陸軍部隊の上陸を支援した。水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」はこの作戦時に戦車揚陸艦として運用されている点も興味深いだろう。
アルバニア海軍は貧弱な小型艦艇数隻しか保有しておらず、また沿岸砲台もあったがイタリア軍の猛攻を止めることは出来なかった。4月7日に上陸したイタリア軍は、翌日には首都ティラナを制圧。12日にはアルバニア全土が完全に制圧され、僅か数日間でイタリアはアルバニアの完全征服に成功したのであった。アルバニア制圧後、アルバニアはイタリア王を元首とする同君連合となり、イタリア軍の占領下となった。
ひとまず、この辺りで今回のイタリア海軍通史シリーズを終了としよう。参考文献については後日まとめてこの記事の末に貼る予定です。