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「永遠の都」ローマを防衛せよ! ―イタリア社会共和国(RSI)軍とアンツィオ・ローマの防衛戦―

1944年初頭、連合軍は枢軸国側の防衛線「グスタフ・ライン」に阻まれ、北上が出来ずにいた。とはいえ、名目上のRSI政権の首都であるローマは目前であった。連合軍はこの状況を打開するために、モンテ・カッシーノ戦に呼応するかのように、1月22日に「シングル」作戦を発動した。アメリカ第六軍がローマ南方約60kmの港町アンツィオに上陸を開始することになる。

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アンツィオに上陸する連合軍

アンツィオはローマの喉元に位置し、鉄道でも1時間程度で着くほど近い町だ。かつてローマ帝国時代はネロ帝やカリグラ帝の出身地として知られ、ネロの別荘の遺跡がある事でも知られている。イタリア社会共和国首脳部はアンツィオ防衛のために軍の派遣を決定したが、正規四師団は訓練中であったため、いくつかの独立部隊がドイツ軍と共に防衛戦に投入された。当時のローマはRSI軍第200地方軍司令部の本部が置かれ、その指揮をジュニオ・ルッジェーロ陸軍少将が執っていた。アンツィオもこの第200地方軍司令官の管轄となっていた。

アンツィオ戦に投入されたRSI軍の部隊は以下の通りである。

◆陸戦部隊
・空挺連隊「フォルゴーレ」大隊「ネンボゥ」
(司令官:コッラディーノ・アルヴィーノ空軍大尉)
・デチマ・マス海兵大隊「バルバリーゴ」
(司令官:ウンベルト・バルデッリ海軍大尉)
◆海軍部隊
・デチマ・マス海上部隊(MAS艇、MTSM艇等)
◆空軍部隊
・第一雷撃集団「ブスカーリア」

(司令官:カルロ・ファッジョーニ空軍大尉)

 

陸戦部隊は陸軍からではなく、空軍から「フォルゴーレ」空挺連隊、海軍デチマ・マスから「バルバリーゴ」海兵大隊が派遣された。ドイツ軍とRSI軍は連合軍上陸部隊を包囲する事に成功し、戦線を膠着状態に持ち込んだ。

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海兵大隊「バルバリーゴ」

アンツィオ防衛戦に参加したRSI海兵大隊「バルバリーゴ」は編成されてすぐの投入であり、装備も足りず博物館に展示されていたWW1時の野砲を引っ張り出してくるほどであったが、多くの犠牲を払いながらも奮戦し、その士気の高さと能力をドイツ軍に高く評価され、これはRSI軍全体の再評価に繋がった。

後に「サン・ジョルジョ」砲兵大隊も加わり、第29SS擲弾兵師団「第一イタリア」や、ドイツの第16SS師団と共に多くの犠牲を払いながら、5月末の残存部隊の撤退まで連合軍上陸部隊と死闘を繰り広げた。

海兵大隊「バルバリーゴ」と共にアンツィオ防衛戦に投入されたのが、空挺連隊「フォルゴーレ」のコッラディーノ・アルヴィーノ大尉が指揮する独立空挺部隊「ネンボゥ」で、白兵戦で果敢に戦い、連合軍部隊に多くの損害を与えた。しかし、部隊の損害も高く、実に70%に及ぶ多大な犠牲を払う事になったのである。これらの奮戦によって枢軸軍は連合軍を5月まで海岸線10kmの地点にまで押しとどめた。

続いて、海上部隊である。アンツィオ防衛線に駆り出されたRSI海軍「デチマ・マス」はM.A.S.艇や高速魚雷艇(M.T.S.M.艇とM.T.S.M.A.艇)を用いて繰り返し攻撃を行い、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦を数多く撃沈する事に成功している。

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サヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機とカルロ・ファッジョーニ大尉

雷撃の卓越した指揮官であったカルロ・ファッジョーニ大尉によって指揮されたRSI空軍の第一雷撃集団「ブスカーリア」も参加した。同部隊はサヴォイアマルケッティSM.79"スパルヴィエロ"爆撃機を用いた。海軍と協力し、連合軍の上陸舟艇や揚陸艦を数多く撃沈し、連合軍艦隊に対して多くの戦果を挙げたが、その一方で、殆どのパイロットが戦死し、指揮官であるファッジョーニ大尉自身も戦死している。ファッジョーニ大尉死後はマリーノ・マリーニ大尉が指揮官を継いだ。

 

5月になると枢軸軍の奮戦敵わず、連合軍は包囲網を突破した。枢軸軍はローマ近郊のポンティーノ平原に撤退し、ポンティーノ戦線が開かれた。ポンティーノ平原は元々は広大な湿地帯であり、古代からマラリアの発生源として人々を悩ませてきた。ムッソリーニは農地拡大のためにこの地で大規模干拓を実行し、ポンティーノ大湿地帯は平原となったのである。その後、リットーリア(現ラティーナ)やアプリリアといった新都市が作られたのであり、これはファシスト政権の成果の中でも特に大きなものとなった。

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「フォルゴーレ」のエドアルド・サーラ大尉

ローマ防衛戦は開始された。空挺連隊「フォルゴーレ」と海兵大隊「バルバリーゴ」はポンティーノ戦線で連合軍と激戦を繰り広げた。特に「フォルゴーレ」の奮戦は目を見張るものがあり、6月3日にはフェレット中尉が指揮する「フォルゴーレ」第三大隊「アッズーロ」第7中隊が英軍との激戦の末に、フォッソ・デッラックア・ブォーナを再占領することに成功した。その後オルテッリ中尉率いる第10中隊はローマ首都圏のアチリア地区で大損害を受けながらも敵軍の侵攻を食い止めた。激闘の末、チステルナやアプリリア、ポメツィア、リットーリアといった諸都市が陥落した。

オスティアではリッツァッティ少佐が指揮する第一大隊「ネンボゥ」は英軍戦車部隊に包囲されたが、最後まで戦線を維持し、これによってドイツ軍はテヴェレ川を渡って撤退する事に成功した。また同大隊の400人はローマ首都圏のカステル・ディ・デチマで英軍と激戦を繰り広げ、多くの犠牲を出している。リッツァッティ少佐の戦死後、副官のサーラ大尉が鹵獲した英軍戦車を使って残存部隊は脱出に成功した。

激闘の末、枢軸軍の撤退によって、連合軍が6月4日にローマに入城。イタリア社会共和国の「首都」は陥落したのであった。しかし、この戦いによってRSI側はドイツ軍に高く評価されることになり、「フォルゴーレ」のリッツァッティ少佐もイタリア軍で最高位の金勲章を授与されている。