イタリア社会共和国(RSI政権)陸軍の編制 ―4つの正規師団と11の地方軍司令部、そしてGNR―
イタリア休戦後、新たに成立した北部のイタリア社会共和国(RSI政権)にて、軍が再編されることになった。グラツィアーニ元帥、カネヴァーリ准将、ガンバラ中将を始めとするRSIに合流した将軍たちの尽力により再編が進められ、四つの師団の設立がドイツ側との協議によって認められた。しかし、ドイツ側で再訓練することになり、これはムッソリーニ含む首脳部は反感を抱くことになる。また、GNRのリッチ司令の主張により、GNRはグラツィアーニの国防省とは異なり、内務省の管轄となった。
新生ファシスト軍四師団がドイツでの再訓練が決定されると、軍事使節団はSIM(陸軍諜報部)出身のエミーリオ・カネヴァーリ准将が率いた。彼は軍事理論家として知られている人物で、プロイセン式の軍事教練の熱烈な支持者である彼はムッソリーニと意見を対立させて解任されていたが、ドイツにとって都合の良い人材だったため、四師団のドイツでの再訓練が決定されると軍事使節団の団長となった。
四師団は山岳師団「モンテローザ」、海兵師団「サン・マルコ」、擲弾兵師団「リットーリオ」、ベルサリエリ師団「イタリア」で構成されていた。「モンテローザ」はゴッフレード・リッチ少将、「サン・マルコ」はアルド・プリンチヴァッレ少将、「リットーリオ」はティート・アーゴスティ少将、「イタリア」はヴィンチェンツォ・ジャルディーナ少将が師団長を務める事になった。
しかし、「リットーリオ」師団を除き、訓練中に人事変更が行われ、訓練終了時には師団長は違う将軍となっていた。「モンテローザ」はマリオ・カルローニ准将、「サン・マルコ」はアミルカーレ・ファリーナ少将、「イタリア」はグイード・マナルディ准将に師団長が変更されたのである。
また、RSIは地方の駐屯軍を管轄する「地方軍司令部(CMR)」を設置した。これは基本的にイタリアの各地方を管轄し、その中心都市に司令部が設置された。以下にその一覧を紹介すると、
◆第200地方軍司令部(ラツィオ):ローマ司令部
司令官:ジュニオ・ルッジェーロ将軍
司令官:エンリコ・アダーミ・ロッシ将軍
◆第202地方軍司令部(エミリア・ロマーニャ):ボローニャ司令部
司令官:ゲラルド・マガルディ将軍
◆第203地方軍司令部(ヴェネト):パドヴァ司令部
司令官:ウンベルト・ピアッティ・ダル・ポッツォ将軍
◆第204地方軍司令部(フリウーリ):トリエステ司令部
◆第205地方軍司令部(ロンバルディア):ミラノ司令部
司令官:エンリコ・ブローリャ将軍
◆第206地方軍司令部(ピエモンテ北部及びヴァッレ・ダオスタ):アレッサンドリア司令部(後にトリノに変更)
司令官:フェリーチェ・ヴァッレッティ・ボルニーニ将軍
◆第207地方軍司令部(ウンブリア):ペルージャ司令部
司令官:ゴッフレード・リッチ将軍
◆第208地方軍司令部(マルケ):マチェラータ司令部
司令官:レンツォ・モンターニャ将軍
◆第209地方軍司令部(アブルッツォ):ラクィラ及びキエーティ司令部
司令官:イーロ・ジャコモ・ペルジーニ将軍
◆第210地方軍司令部(リグーリア及び南部ピエモンテ):ジェノヴァ司令部(後にアレッサンドリア)
司令官:フィリッポ・ディアマンティ将軍
以上は設立時のものである。RSI陸軍(ENR)には正規四師団のほかに様々な独立部隊が存在したが、これらはこの地方軍司令官の指揮下に置かれた。
また、ローマ陥落後、1944年に「リグーリア軍集団」という軍集団が作られた。これは西アルプスの国境地帯とリグーリア海岸防衛のための軍集団で、RSI軍とドイツ軍の混合であった。司令官はアルフレード・グッツォーニ大将で、RSI軍では「モンテローザ」「リットーリオ」、及び「サン・マルコ」が組み込まれていた。
そして、1944年8月14日にはGNRが国軍の指揮下に組み込まれることになり、GNRも陸軍の指揮下に置かれることとなった。GNRの代表的な師団「エトナ」はルイージ・ヴォランテ将軍によって指揮され、同師団は空挺大隊「マッツァリーニ」や装甲集団「レオネッサ」、突撃大隊「ローマ」、少年兵大隊「フィアンメ・ビアンケ」などで構成された。これらのGNR部隊も、治安維持任務に関しては「黒い旅団(ブリガーテ・ネーラ)」に任せる事になり、連合軍との戦闘へと投入されることになった。なお、GNRは新たに「ヴェズヴィオ」師団の編制を行っていたが、休戦までに実現しなかった。
それぞれについて詳しく今後調べていくことにしよう。