Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史⑤:戦間期の戦争とイタリア海軍(1935-39)

前回は軍縮時代のイタリア海軍通史でしたが、今回はいよいよ第二次世界大戦に至るまでの1930年代の三つの軍事衝突(エチオピア戦争、スペイン内戦、アルバニア戦争)と海軍の関わりを書いていきたいと思います。

↓前回まではこちら

associazione.hatenablog.com

associazione.hatenablog.com

associazione.hatenablog.com

associazione.hatenablog.com

 

エチオピア戦争の勃発

f:id:italianoluciano212:20220210224528j:plain

1930年代半ばから1940年までイタリア海軍の責任者(海軍次官及び海軍参謀長)を務めたドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)。戦艦と潜水艦を重要視する海軍ドクトリンを採用し、第二次世界大戦におけるイタリア海軍の基本体制を確立した人物と言える。レーダーなどの電子装備を重要視しない保守的な次官であったが、空母建造に関しては積極的なアプローチをしていた。開戦後、空母の建造計画について正式に開始させている。

1934年12月5日、イタリア領ソマリアエチオピアの国境に位置するワルワルにて、イタリア軍エチオピア軍の軍事衝突が発生した(ワルワル事件)。前回述べた通り、イタリアはエチオピアと1928年8月に友好条約を結んでいたが、この事件を契機に両国関係は著しく悪化し、1935年10月のエチオピア戦争開戦に繋がったのである。

エチオピアを征服することは、1896年のアドゥア(アドワ)での大敗の雪辱を晴らし、民族の悲願を達成するプロパガンダ的な意味も大きかったが、表面的には未だに奴隷制を維持しているエチオピアに対する「文明化」を侵攻の正当化に繋げた。現実的にはイタリア本土の余剰人口を吸収させる入植地の確保エチオピアの豊富な地下資源の確保更にエリトリアソマリアを繋ぐ回廊を確保して東アフリカに一大植民地帝国を建設するというのが大きな目的であった。

この時を前後して、海軍内でも人事異動があった。1933年にジュゼッペ・ジリアンニ海相(Giuseppe Sirianni)は辞任し、再度ムッソリーニ海相を兼任した。そのため、海軍の事実上の責任者は新たに海軍次官に就任したドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)であった。間もなく1934年にはジーノ・ドゥッチ海軍参謀長(Gino Ducci)の後任として、カヴァニャーリ次官は海軍参謀長も兼任している。

f:id:italianoluciano212:20220210230235p:plain

1935年-1941年にかけての東アフリカ戦線の地図。イタリア軍は1935年-36年のエチオピア帝国侵攻、そして第二次世界大戦での対英仏戦争によって東アフリカの大部分を占領下に置いている。しかし、本国から遠く離れたこの戦線は本国から大規模な支援が不可能であり、第二次世界大戦開戦後は空軍による最低限度の支援輸送しか出来なかった。そのため、第二次世界大戦時には1941年末には既に陥落している。なお、インド洋沿岸を支配したイタリアだが、第二次世界大戦時の伊海軍はインド洋に戦力を配備せずに紅海のみに戦力を集中させた。インド洋での作戦行動は紅海艦隊及び大西洋艦隊所属の潜水艦が進出したくらいで、あとは日本を目指した仮装巡洋艦が交戦しただけである。

こうして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人でもあるエミーリオ・デ・ボーノ将軍(Emilio De Bono)を遠征軍総司令官として侵攻が開始されたが、エチオピア帝国内陸国であったという特性上、活躍した陸軍や空軍とは異なり、イタリア海軍は戦争の主体にはなれなかった。しかし、海軍の「サン・マルコ」海兵がエチオピア帝国軍との戦闘に参加したほか、海軍側が兵員輸送と哨戒などを担当しており、全く参加しなかったわけではない。例えば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」は東アフリカへの航空機輸送任務で大きな役割を果たしている。
エチオピア帝国軍はイタリア軍より大幅に遅れていると言えど、自動車化部隊や航空部隊を持つなど部分的に近代化に成功し、国産航空機を生産出来る工業力を擁していた。エチオピア兵が所謂「槍と盾しか持たない」というのは完全な誤りである。1936年5月5日、帝都アディスアベバイタリア軍によって陥落したことにより、エチオピア戦争は終結し、エチオピアはイタリアに併合され、エリトリアソマリアと合併して「イタリア領東アフリカ(A.O.I.)」が成立したのであった。

エチオピアへの侵攻は、今までムッソリーニが続けていた英仏との協調外交を完全に転換させた。外相には海軍におけるファシスト政権の実力者であるコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)の息子、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)が新たに就任したが、彼はムッソリーニの娘エッダ(Edda Mussolini)の婿であり、ムッソリーニの後継者と目された人物にまでなった。日本では日独伊三国同盟の署名者として、「チアノ外相」という名前で知られているだろう。

f:id:italianoluciano212:20220210230740p:plain

1930年代半ばから第二次世界大戦にかけて、財務相を務めたパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)。パオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥の甥で、「経済ナショナリズム」を主張し、戦時即応体制の準備を進めた。ちなみに、1920年アントワープ五輪ではフェンシングで金メダルを受賞する経験を持ち、そういった関係からスポーツ界でも著名人で、1956年のコルティーナ・ダンペッツォ冬季五輪ではイタリア五輪組織委員会の委員長を務めている。

経済的にもイタリアは事実上の戦時体制に移行した。エチオピア戦争前に財務相に就任したパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)エチオピアとの関係悪化により、侵攻計画が現実味を帯びてくると、それに伴い財務相に就任、「経済ナショナリズム」の強化により、戦時即応体制の準備を進めた。彼の財務相時代は、まさしくファシスト・イタリアが冒険的な膨張主義に手を出し、戦争への道を突き進む時代と一致する。
すなわち、戦時下にも対応出来るように、他国への依存を廃するアウタルキー経済を目指した経済と金融の「ファシズム化」を目指し、銀行改革によるシステム合理化、戦争費用で疲弊した財政の回復、新税制度の導入などを実行したが、これを実現するために大幅な増税をし、国民への負担を強いた。戦時中は国債をベースに物価安定に尽力民間消費を抑制して物価を調整し、国債以外の投資を制限する事で、戦争経済によるインフレの回避を目的とした。彼は継続して1943年の内閣改造まで財務相を務めている。なお、彼はパオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥(Paolo Thaon di Revel)の甥であった。よく両者が混同されがちであるが、タオン・ディ・レヴェル海軍元帥が財務相になったわけではない。

 

◆海軍軍縮からの脱退と建艦計画

f:id:italianoluciano212:20220210231343j:plain

第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家として参加したカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)。少年時代を南アフリカで過ごした彼は英語が堪能であり、ロンドン海軍軍縮会議における交渉役として選ばれたが、結局軍縮への脱退を宣言することになった。スペイン内戦では駆逐艦「マロチェッロ」艦長として、バレアレス諸島制圧に支援。この時の戦功により、伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章を叙勲された。第二次世界大戦時は第11駆逐戦隊の司令官として、パッセロ岬沖海戦で戦死している(戦死後、戦功金勲章を叙勲されている)。彼の名前は戦時中に建造されたメダリエ・ドロ級駆逐艦の1隻、冷戦期に作られたベルガミーニ級フリゲートの1隻、そして2014年に就役したベルガミーニ級フリゲート(2代)の1隻として艦名に採用された。

エチオピア戦争で国際連盟の制裁を受けたイタリアは、第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家としてカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)を参加させたが、軍縮条約への署名を拒否する事態となった。交渉は決裂し、イタリアは軍縮からの脱退を宣言したのである。同様に未来の同盟国たる日本も予備交渉がまとまらず、軍縮からの脱退を宣言している。こうして、軍縮条約という「足枷」を失ったイタリア海軍は、国際情勢の悪化と共に更なる軍拡に向けて動き出すことになった。とはいえ、常に予算不足という「足枷」は海軍に付きっ切りであった上、工業生産力は限られており、更に空軍との対立もあったため、自由な軍拡が行えたわけではない。

カヴァニャーリ海軍次官は海軍予算の増加を受けて、旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めた。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった。第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。

イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」)及びカイオ・ドゥイリオ級2隻(「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。

f:id:italianoluciano212:20220210232558j:plain

リットリオ級戦艦のネームシップ、「リットリオ(Littorio)」。艦名はファシスト党の象徴であるファッショ・リットーリオ(Fascio Lottorio)に由来する。1940年5月6日に就役したイタリア待望の新戦艦である(なお、進水も就役も姉妹艦の「ヴィットリオ・ヴェネト」の方が先であるため、他国ではヴィットリオ・ヴェネト級と呼ばれることもある)。主砲の50口径381mm主砲は885kgの砲弾を850m/秒で撃ち出すことが可能で、高初速砲のため最大射程は42,600mと長かった(これはリシュリュー級や大和型を上回る射程だった)。威力的にも大和型やアイオワ級に匹敵する主砲性能とされている。この381mm主砲は第二次シルテ湾海戦で荒天と煙幕の中で英艦隊相手に猛威を振るっており、敵駆逐艦数隻に大損害を与えた。

更にカヴァニャーリ次官が戦略の中心に考えたのが潜水艦である。第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。
ただ、その一方でカヴァニャーリ次官は電子装備開発には保守的でウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を中心にレーダー開発が行われていたが、予算は僅かしか与えられていなかった1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功したが、海軍はこれを重要視せず、結局量産開始は開戦後の1942年からであった。

f:id:italianoluciano212:20220210233558p:plain

第二次世界大戦時に建造されたイタリアの2隻の空母。客船「ローマ」を改装したのが左の「アクィラ(Aquila)」で、客船「アウグストゥス」を改装したのが右の「スパルヴィエロ(Sparviero)」である。客船時代は姉妹船だった2隻だが、空母改装後は全く異なる見た目となった。このうち、「スパルヴィエロ」は1936年時の緊急空母改装案が一部変更された形で採用されている。なお、2隻とも休戦までには完成しなかった。

空母開発に関しては、エチオピア戦争での国際関係の悪化により、カヴァニャーリ次官は客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を特設空母として改造する案を決定した。イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)の後任として、空軍の責任者に就任したジュゼッペ・ヴァッレ空軍次官(Giuseppe Valle)は前任者よりも柔軟に対処し、地中海作戦を行う上で海軍との協力が不可欠と考えていた。そのため、空母の保有問題に関しても、海軍側に譲歩するようになった。しかし、エチオピア戦争の終了によって一旦緊張が和らいだために緊急空母改装計画は中止となった。なお、改装計画自体の研究は継続され、この時の設計案は後の空母「スパルヴィエロ」建造時に活用されている。その後、新造空母の建造を目指したカヴァニャーリ次官であったが、議会で建造案を提出した際にムッソリーニによって却下された。ムッソリーニが従来通り「イタリア半島不沈空母論」を主張し、現状の航空戦力のみで対処は可能としたためである。

 

◆スペイン内戦とアルバニア侵攻

f:id:italianoluciano212:20220210234033j:plain

マルコーニ級潜水艦の1隻、「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」。1940年3月に就役したイタリア海軍の潜水艦である。第二次世界大戦時、大西洋での通商破壊作戦を行い、計120,243トン(17隻)の輸送艦を撃沈している。この戦果は第二次世界大戦時において、ドイツ潜水艦(Uボート)を除けば世界最大の潜水艦による撃沈戦果となった。第一次世界大戦時は戦果に乏しいイタリア潜水艦隊であったが、第二次世界大戦時には他国海軍と比較しても高い戦果を挙げたと言えるだろう。カヴァニャーリ提督の戦略が実を結んだと言える。

イタリアの国際的な孤立は、1936年にムッソリーニによる「ローマ・ベルリン枢軸」が主張されてから、ナチス・ドイツとの蜜月関係を生み出した。1939年にはイタリア・ドイツ間の同盟である「鋼鉄協約」が結ばれ1940年にはこれに日本を加えて「日独伊三国同盟」に発展することになった。一方、地中海やアフリカにおいて英仏との関係悪化が顕著となったイタリアは、エチオピア戦争後、更に冒険的な外交政策に舵を切っていったのである。これはファシスト・イタリアの破滅への序曲となった。

スペイン内戦ではイタリア海軍も陸軍・空軍と共に「義勇軍」として国粋派支援に派遣された。その役目は基本的に国粋派の船団護衛と共和派に対する通商破壊であった。それを担ったのはマリオ・ファランゴーラ提督(Mario Falangola)率いるイタリア潜水艦部隊で、計38隻の潜水艦が作戦に従事している。共和派及びソヴィエト連邦の輸送船の多くが撃沈・損傷され、カヴァニャーリ次官は潜水艦が海軍戦略において重要である事を再確認している。また、潜水艦「トッリチェッリ」が共和派の軽巡「ミゲル・デ・セルバンテス」を雷撃で大破させるなど、軍艦に対しても戦果を挙げた

他にも、駆逐艦「マロチェッロ」によるバレアレス諸島制圧作戦や、巡洋艦隊によるスペイン沿岸諸都市への砲撃なども行われており、海軍は積極的に内戦介入に関わった。なお、空軍のSM.79も共和派スペインの戦艦「ハイメ・プリメロ」を水平爆撃で撃破しており、これは空軍が「艦船攻撃には高高度からの水平爆撃が有効」という誤った戦略をとる原因にもなっている。

f:id:italianoluciano212:20220210234710j:plain

近代化改修後の戦艦「コンテ・ディ・カヴール(Conte di Cavour)」。元々は第一次世界大戦中の1915年4月1日に竣工した旧式の弩級戦艦だったが、1933年10月より姉妹艦「ジュリオ・チェーザレ」と共に大規模な近代化改修を行い、1937年6月に再就役した。改装前の面影を全く感じさせない魔改造っぷりで(実に艦の約6割を作り直す徹底ぶり)、もはや新造戦艦のようである。苦肉の策とはいえ、イタリアの建艦技術の高さの結晶と言えるだろう。第二次世界大戦時にはプンタ・スティーロ海戦に参加したが、その後のターラント空襲では空母「イラストリアス」艦載機のソードフィッシュ雷撃機の攻撃を受けて大破着底。浮揚されるが損害が多く、修復と同時に対空兵装を中心とした近代化改修が行われたが、結局1943年までに改修が終わらずに戦列復帰は出来なかった。

第二次世界大戦前夜に発生した1939年4月のアルバニア侵攻では、アルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)率いる第一艦隊が派遣された。この艦隊は戦艦「コンテ・ディ・カヴール」(艦長:アントニオ・ボッビエーゼ大佐 Antonio Bobbiese)を旗艦とし、戦艦2隻、水上機母艦1隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦水雷艇23隻等で構成された大艦隊であった。第一艦隊はアルフレード・グッツォーニ陸軍大将(Alfredo Guzzoni)率いるイタリア陸軍遠征軍船団を護衛しつつ、アルバニアの港湾に対して艦砲射撃を実行し、陸軍部隊の上陸を支援した。水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」はこの作戦時に戦車揚陸艦として運用されている点も興味深いだろう。

アルバニア海軍は貧弱な小型艦艇数隻しか保有しておらず、また沿岸砲台もあったがイタリア軍の猛攻を止めることは出来なかった4月7日に上陸したイタリア軍は、翌日には首都ティラナを制圧12日にはアルバニア全土が完全に制圧され、僅か数日間でイタリアはアルバニアの完全征服に成功したのであった。アルバニア制圧後、アルバニアはイタリア王を元首とする同君連合となり、イタリア軍の占領下となった。

f:id:italianoluciano212:20220211003244p:plain

1939年時点のイタリア支配領域と主要港。インド洋に面するソマリアを領有しているが、東アフリカ方面のイタリア海軍は紅海に面するエリトリアのマッサワ港及びアッサブ港に基地を置いており、インド洋方面には戦力を置いていなかった。イタリア海軍の戦力の大半は地中海に集中しており、世界中の植民地帝国を領有する英仏にとって、地中海戦線のイタリア海軍は大きな脅威となっていた。なお、小規模ながらイタリア海軍も天津を根拠地とする極東艦隊が存在し、太平洋戦争開戦後は日本軍に協力している。

ひとまず、この辺りで今回のイタリア海軍通史シリーズを終了としよう。参考文献については後日まとめてこの記事の末に貼る予定です。

第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史④:軍縮時代のイタリア海軍(1919-1935)

さて、今回もイタリア海軍通史について書いていきましょう。前回まではリソルジメント後のゴタゴタから、伊土戦争と第一次世界大戦の快勝まで書いていきましたが、今回で第一次世界大戦後の軍縮時代に突入します。同時に、イタリアではファシスト政権が成立しますが、軍縮時代はファシスト外交の「攻撃性」が鳴りを潜めているのがミソですね(とはいえ、コルフ島事件など攻撃性が垣間見える事もありますが)。

前回まではこちら↓

associazione.hatenablog.com

associazione.hatenablog.com

associazione.hatenablog.com

◆"骨抜きにされた勝利"とワシントン海軍軍縮条約

f:id:italianoluciano212:20220208173040p:plain

第一次世界大戦でイタリアがオーストリア及びオスマン帝国から獲得した領土(薄い緑色)。トレンティーノ及びアルト・アディジェ、ヴェネツィア・ジュリア、そしてアドリア海島嶼部をオーストリアから、アダリア地域とサセノ島をオスマン帝国から割譲した。しかし、1923年のローザンヌ条約でエーゲ海諸島の支配権の確立と引き換えに、アダリア(アンタルヤ)はトルコに返還している。なお、フィウーメはロンドン密約で約束されたにも拘わらず獲得出来ず、1924年ユーゴスラヴィアとのローマ条約によりイタリアに割譲された。ちなみに、これらの獲得した領土の多くは第二次世界大戦の敗戦にて再び失われている。

第一次世界大戦での快勝はイタリア海軍の栄光を高めただけでなく、アドリア海における制海権を完全に確保させた。イタリアは戦勝により、トレンティーノ及びアルト・アディジェ(独語名は南チロル)ヴェネツィア・ジュリア、そしてケルソ島やルッシーノ島、ラゴスタ島などアドリア海島嶼等を獲得した。しかし、英仏も旧オスマン帝国領を領有する形で東地中海に勢力を拡大し、新たな脅威が出現してしまった。

東地中海では、英国はエジプトやパレスチナキプロスを領有し、フランスはシリア地域を領有した。一方、アドリア海地域はイタリアの完全な制海権に置かれたアドリア海対岸に新たに生まれたユーゴスラヴィアの海軍力はかつてのオーストリアには遠く及ばず、イタリア海軍には全く脅威ではなかったのである。そのため、アドリア海の戦略的重要性は失われた

f:id:italianoluciano212:20220208210528j:plain

ジョヴァンニ・セーキ海相(Giovanni Sechi)。第一次世界大戦時に海軍大臣を務めたアルベルト・デル・ボーノ提督(Alberto del Bono)の後任として海相に就任し、第一次世界大戦後初の海軍大臣を務めたサルデーニャ島出身の海軍提督。終戦による海軍予算の著しい縮小に伴い、カラッチョロ級戦艦の建艦計画を中止し、既に進水していた1番艦「カラッチョロ」の空母改装計画も断念した。一方、潜水艦と小型艦艇の増強を目指した。

第一次世界大戦後、戦勝国となったイタリアであったが、1915年のロンドン秘密条約で確約したはずの領土割譲(フィウーメ・ダルマツィアの獲得、アルバニア保護国化)はパリ講和会議では反故にされ、イタリアでは「骨抜きにされた勝利」と言われ、イタリア国民に不満が広がった。それによって、英雄的詩人であったガブリエーレ・ダンヌンツィオらによるフィウーメ占領が発生し、国内は失業率の増大と不況の嵐が巻き起こった。ダンヌンツィオは前回も紹介したが、ブッカーリ奇襲にも参加している。
戦火が去ったことにより、イタリア海軍の予算は当然大幅に削減された。ジョヴァンニ・セーキ海相(Giovanni Sechi)はこれを受けて建造中のフランチェスコ・カラッチョロ級戦艦の建造を中止し、予算の関係的にも戦艦よりも巡洋艦駆逐艦に重きを置く海軍戦略を採用するに至っている。

f:id:italianoluciano212:20220208211934j:plain

ブッカーリ港奇襲の英雄、コスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)。第一次世界大戦の海軍の英雄だが、戦間期ファシスト党の領袖となった。最終階級は海軍准将。ムッソリーニ政権の元で海軍次官や通信大臣を歴任。海軍次官としては造船工廠の近代化に貢献した。通信大臣としてはラジオ通信網と鉄道網の構築の功績で知られる。特に鉄道網の構築はファシスト政権期の政策でも肝煎りで、現在もイタリア鉄道網の基盤を作っている。彼の息子ガレアッツォも外相に就任してムッソリーニと後継者と呼ばれ、ファシスト政権期に最も政権に対して強い影響力を持った海軍軍人と言えるだろう。

しかし、海軍の予算削減と建艦計画の停滞に対し、アルフレード・アクトン参謀長(Alfredo Acton)率いる海軍は不満を募らせた。このため、ダンヌンツィオの主張する「骨抜きにされた勝利」は海軍内部で強く支持され、それに伴うファシストの勢力拡大に対してもこれを支持している。前回紹介したブッカーリ襲撃の英雄であったコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)ファシスト党の領袖となったため、その影響も強かった。彼は海軍次官や通信相を歴任した他、彼の息子であるガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)も宣伝相や外相を歴任し、ムッソリーニの娘婿として絶大な権力をふるった事で知られている。

1922年6月に締結されたワシントン海軍軍縮条約英国、アメリカ、日本、フランス、イタリアの五大海軍国の艦隊比をそれぞれ5(英米):3(日):1.67(仏伊)と定めた。調印者はルイージ・ファクタ(Luigi Facta)政権の外相カルロ・スカンツェール(Carlo Schanzer)である。時のイタリア海相ロベルト・デ・ヴィート(Roberto De Vito)はこの軍縮に満足した。工業生産力が他列強に遅れをとるイタリアは他国との建艦競争に繋がれば厳しく、更に第一次世界大戦終戦後は戦時中の損害に対して賠償金が満足に得られなかったという事もあり、当時のイタリア経済は財政危機に陥っていたからである。

f:id:italianoluciano212:20220208212908j:plain

ザラ級重巡洋艦ネームシップである重巡「ザラ(Zara)」。ザラ級重巡洋艦は「ザラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ポーラ」の4隻で構成され、いずれも第一次世界大戦の勝利によってイタリアが獲得したヴェネツィア・ジュリアの諸都市の名前が付けられている。トレント重巡の改良型で、ワシントン海軍軍縮条約の制限下の条約型重巡洋艦として、1920年代終盤に起工、1930年代初頭に竣工している。

1919年から22年にかけて、海軍予算は1913年当時より20%も削られる有様であった。また、イタリア海軍は基本的地中海艦隊が戦力の中枢であり、地中海から離れた植民地は東アフリカ(と天津租界)程度であったため、世界各地に植民地を擁するフランスと同等の保有上限を手に入れたことは、地中海ではイタリア海軍が仮想敵たるフランス海軍に優位に立てる可能性があることを意味していた(まして、東アフリカ方面のフランス勢力圏はジブチのみだったため、対フランス戦略では事実上地中海のみに戦力を集中させておけば良い事になる)。当然、フランスはイタリアと比率が同等であった事に抗議している。フランス海軍はイタリア海軍に対抗するためにも、戦力の大半を地中海防衛に回さなくてはならなくなったからである。

オーストリア海軍が消滅した後、イタリア海軍の主要な仮想敵は専らフランス海軍であり、フランス海軍こそが対抗する相手になった。そのため、当時作られていたイタリア海軍の艦艇は基本的にフランス海軍の艦艇に対抗する設計となっている。

 

ムッソリーニ政権成立とコルフ島事件

f:id:italianoluciano212:20220208213716j:plain

ムッソリーニ政権初期の海軍大臣、パオロ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Thaon di Revel)提督。第一次世界大戦時は海軍参謀長を務め、イタリア海軍を勝利に導いた英雄である。その功績により、イタリア海軍史上唯一の海軍元帥に昇進している。海軍大臣としては、ギリシャとの軍事衝突である「コルフ島事件」に直面し、海軍予算の拡大に繋がると考えた事からファシストの行動を支持した。しかし、事件後は英海軍との衝突可能性を憂慮し、次第にファシストと距離を置き、最終的にマッテオッティ事件を契機に辞任している。その後も海軍の長老であり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に近しい側近だった。なお、ファシスト政権期に財務相を務めたパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル氏は甥。

国内情勢が不安定になる中、ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)率いるファシスト党は支持を拡大していき、1922年10月28日の象徴的な「ローマ進軍」を契機に、10月31日にはムッソリーニ政権が誕生した。第一次世界大戦時に海軍参謀長を務めた海軍の英雄であり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)からも信頼が厚いパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)ムッソリーニ政権において海相として入閣した。ムッソリーニはこの偉大な提督のために海軍の最高位の階級である「海軍元帥(Grande Ammiraglio)」を創設し、この名誉称号を授与された。彼はイタリア海軍史上唯一の海軍元帥となったのである(彼の後に海軍元帥に処された人物はいない)。

 

ムッソリーニ政権成立後、さっそくイタリア海軍は実戦を経験することになる。1923年8月27日、ギリシャアルバニア国境劃定委員会の委員長であった、イタリア陸軍のエンリコ・テッリーニ将軍(Enrico Tellini)が同行していたイタリア代表団と共に何者かによって殺害される事件が発生した(イオアニナの虐殺)。ギリシャ側はテッリーニ将軍を以前よりアルバニア側に有利な国境劃定をしていると非難しており、この暗殺はギリシャ側の関与が当然考えられた
ムッソリーニはこの事件に対し、ギリシャ政府側を強く非難。その後、ムッソリーニギリシャ側に最後通牒を通告したが、ギリシャ政府は部分的に受け入れたのみであったためムッソリーニは満足せず、イタリア海軍にギリシャイオニア諸島のコルフ島制圧を命令。タオン・ディ・レヴェル海相はこれに対し、これを契機にイタリア政府と国民に海軍の重要性を示し、海軍予算の拡大に繋がると考えたため、ムッソリーニの判断を全面的に支持している。

f:id:italianoluciano212:20220208214426j:plain

コルフ島事件時、イタリア主力艦隊を率いたエミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)。伊土戦争時は装甲巡洋艦「サン・マルコ」艦長で、ドデカネス諸島のレロス島(レーロ島)制圧を指揮した(その後、レーロ島は伊海軍エーゲ海艦隊の基地となった)。第一次世界大戦時はリヴォルノ海軍士官学校長官、第二戦隊及び第三戦隊司令官を歴任している。戦後、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」を旗艦とするイタリア主力艦隊の司令長官を務め、コルフ島事件ではギリシャ軍要塞への艦砲射撃と海兵による同島の制圧を成功させている。

この「コルフ島事件」と呼ばれるイタリア・ギリシャ間の紛争では、イタリア海軍がその軍事衝突の主体となった。イタリア海軍はエミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)率いる主力戦艦4隻を含む艦隊(旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」)をコルフ島に派遣した。この作戦に参加した4隻の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」はいずれも第一次世界大戦時に就役したイタリア最新鋭の弩級戦艦であった。ソラーリ提督率いる主力艦隊はコルフ島の要塞を艦砲射撃した後、海兵部隊が同島を制圧した。
ギリシャ側が国際連盟に助けを求め、その後大使会議による審議の結果、ギリシャ側がイタリア側の要求を受け入れることで紛争は終結した。ギリシャ側はイタリア側に謝罪し、賠償金を支払った。これを受け、イタリア側はコルフ島から撤退し、外交危機は解決されたのである。イタリア世論はムッソリーニの強気の姿勢を高く評価し、ファシスト党の支持拡大へと繋がったのである。

 

この紛争の「勝利」の立役者となった海軍だが、この事態を受けてタオン・ディ・レヴェル海相ムッソリーニと距離を置くこととした。コルフ島事件により、英海軍の地中海艦隊増強を招き、伊英関係の悪化に繋がったからである。ムッソリーニの冒険的な外交は世界最大の海軍国を敵にしかねない、という判断によるものであった。実際、タオン・ディ・レヴェル提督の懸念は第二次世界大戦で現実のものとなった。
1924年6月のマッテオッティ事件を契機に更にムッソリーニへの警戒感を強めたタオン・ディ・レヴェル海相は1925年5月8日に海相を辞任その後は首相であるムッソリーニ海相を兼ね、事実上の海軍の責任者としては新たに海軍次官に就任したジュゼッペ・ジリアンニ提督(Giuseppe Sirianni)がその役目を果たした。ジリアンニ提督は1929年9月から1933年1月の間は海相に就任している。

 

ファシスト政権の諸政策

f:id:italianoluciano212:20220208220700j:plain

ファシスト政権期中盤の海軍次官海軍大臣を務めたジュゼッペ・ジリアンニ提督(Giuseppe Sirianni)。第一次世界大戦時は前半は駆逐艦「インペトゥオーゾ」艦長として活躍し、船団護衛や対潜戦、そして沿岸のオーストリア軍基地攻撃で多くの戦果を挙げ、後半は海兵連隊の指揮官として陸戦で活躍する等輝かしい戦歴を持っている(伊軍最高位の名誉であるサヴォイア軍事勲章の他、戦功銀勲章を2度、戦功十字章を3度叙勲されている)。コスタンツォ・チャーノ提督とは親しく、タオン・ディ・レヴェル海相が辞任した後、海軍次官(ムッソリーニ海相を兼任したため)に任命された。ムッソリーニや空軍高官らと度々意見を衝突させながらも、海軍の近代化と拡大に尽力した。1930年のロンドン海軍軍縮会議ではグランディ外相と共に参加している。

ムッソリーニは今までのイタリア政府の「弱腰外交」を批判し、コルフ島事件を契機にその影響力を国際的に示したファシスト政権に対する他列強の反応は大方肯定的であり、例えば英国のオースティン・チェンバレン外相(Austen Chamberlain)ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)などの人物がムッソリーニを高く評価した。この肯定的意見の理由は、イタリアの議会制民主主義に対する政治不安が原因であった。
ムッソリーニはフィウーメ問題を巡って対立関係にあったユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結フィウーメをイタリアに割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約ではラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定した。これにより、両国関係は表面上安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった。
続いて、ルーマニアとの友好条約締結(1926年9月)イエメンとの友好条約締結(1926年9月)アルバニアの経済的属国化(1927年11月)エチオピアとの友好条約(1928年8月)ギリシャとの友好条約締結(1928年9月)ブルガリア国王とイタリア王女の政略結婚(1930年10月)ブルガリアとの友好条約締結(1931年1月)オーストリア及びハンガリーとの協力協定締結(1934年3月)伊ソ友好不可侵条約締結(1933年9月)伊仏友好協定(1935年1月)英仏とのストレーザ戦線成立(1935年4月)ユーゴスラヴィアとの友好不可侵条約締結(1935年6月)といった各国との協力関係を構築し、バルカン、中東欧、中東、アフリカに至るまでの勢力圏確保を目論んだ。この期間のファシスト政権はその「攻撃性」を隠し、諸国間との協調外交による勢力圏拡大を狙っていたのである。この時のファシスト政権は英仏ではなくオーストリア問題でナチス・ドイツと敵対関係にあったため、英仏やオーストリア及びハンガリー、更にはソ連までもを利用した対独包囲網の構築を進めていた。

f:id:italianoluciano212:20210908150049j:plain

ファシスト政権最初の財務相、アルベルト・デ・ステーファニ(Alberto De Stefani)。ファシスト政権期のイタリア(ムッソリーニ政権)初の財務相として就任した人物で、古参ファシスト党員の経済学者。経済的自由主義を信念としていた。国家の経済介入を排し財政負担を軽減させ、私的イニシアチブの解放と財政再建を目指している。超緊縮財政による財政再建行財政改革を進めて、戦後恐慌を脱して平均4%のGDP増加という目覚しい景気回復を示した。しかし、国民への負担を強いたために不満が高まり、政策の行き詰まりを理由に解任されることとなった。解任後もファシズム大評議会員としての地位を維持し、国内の学術機関の要職や、中華民国(蒋介石政権)での経済顧問を務めるなど国内外で活躍した。

また、ムッソリーニ政権の財務相として入閣したアルベルト・デ・ステーファニ(Alberto De Stefani)超緊縮財政による財政再建行財政改革を進め、戦後恐慌を脱して平均4%のGDP増加という目覚しい景気回復を示したことで、経済的な面でもファシスト政権の手腕は高く評価されることになった。経済の回復によって、海軍予算も増えており、イタリア経済の成長は海軍も無視出来ない話題だった。

通信相時代のコスタンツォ・チャーノ提督による鉄道改革も重要である。チャーノ通信相は「定時運行」をスローガンに掲げ、鉄道の近代化に取り組んだ。特に鉄道の電化に注力し、運用コストの削減と速達性・快適性の向上を実現している。非電化路線のローカル線にも「リットリナ」の愛称で親しまれる気動車が投入され、これは植民地でも運用された(エリトリアでは現在も使われている)。最大80%以上の割引率で運用される「人民列車」も運行され、イタリア国民は鉄道旅行を楽しんだ。ミラノ中央駅を始めとするイタリア各都市の主要駅舎も、この時に作られたものが多い

ファシスト政権は植民地の「改革」を行ったソマリア総督に就任したファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人であるチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)ソマリア植民地の統一と集権化を実行。2つのスルタン国と英国から割譲されたオルトレジュバを併合し、「ソマリアの統一」を実現した。海軍もスルタン国の制圧作戦に参加し、海兵部隊が戦果を挙げている
続いて、伊土戦争で獲得したトリポリタニアキレナイカ及びフェザーンにおける大規模な叛乱鎮圧作戦(リビア再征服)ピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)ロドルフォ・グラツィアーニ将軍(Rodolfo Graziani)のもとで実行され、1934年にはトリポリタニアキレナイカフェザーンの三地域を合併し、「イタリア領リビア」が成立した。こうして、植民地の平定に成功したファシスト政権は、新たな膨張戦争に向かうことが可能となったのである。

 

◆空軍の優遇、海軍の冷遇

f:id:italianoluciano212:20220208222749j:plain

ファシスト政権の空軍大臣であり、イタリア史上唯一の空軍元帥であるイタロ・バルボ(Italo Balbo)。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人であり、ムッソリーニの後継者とも言われ強い影響力を持った空軍将軍。「イタリア空軍の父」と言われ、独立したイタリア空軍を拡大させた功績から伊空軍では現在も高く評価されている。エア・レースや長距離飛行など数々の空軍イヴェントを開催し、イタリア空軍の威光を国際的に示すことに成功し、海外でも人気のある人物だった。一方で、航空戦力の独占によって海軍航空隊を一方的に吸収したことから、海軍側とのソリが合わなかった。なお、植民地統治者としても優秀な人物で、空相辞任後はリビア総督に就任している。

ムッソリーニは強大な艦隊を作り上げることに熱心であったが、一方で空軍力の増強には更に熱心だった。しかし、それによって第一次世界大戦で輝かしい戦果を挙げたイタリア海軍航空隊は壊滅する事態となる。1923年3月、勅令によってイタリア陸軍航空隊を前身とする、イタリア空軍が成立した。当初は海軍航空隊との関係に変化はなかったが、1929年9月12日に後に空軍元帥に昇進するイタロ・バルボ将軍(Italo Balbo)が空軍大臣に就任すると、バルボ空相は全ての航空戦力を空軍の元に集中させるため、事実上海軍航空隊を完全吸収した。

バルボは政府内でも屈指の実力者であり(ファシスト党終身最高幹部である「クァドルンヴィリ」の一人)、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、航空戦力的な観点では海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストナチスの独裁者にとって空母というものはどうにも相性が悪いのかもしれない。

f:id:italianoluciano212:20220208224840j:plain
f:id:italianoluciano212:20220208224847j:plain
1935年時点の主力海軍艦載機、マッキM.18爆撃艇(左)とピアッジオP.6ter水偵(右)。水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」、カイオ・ドゥイリオ級戦艦、トレント重巡洋艦などの艦載機として搭載された。例えば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」にはそれぞれが9機ずつ搭載されている。M.18はスペインにも輸出され、スペイン海軍の水上機母艦「デダロ」の艦載機としてリーフ戦争やスペイン内戦にも参加している。しかし、いずれも1920年代に初飛行した機体で、1935年時点では既に旧式化している。

海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、例えば空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった。僅かに残された海軍の所属機ですら、空軍の管理下にあり、パイロットも空軍の所属であった。海軍の指揮下には爆撃機も戦闘機もなく、艦載用の飛行艇水上機が50機あるのみであり、第一次世界大戦終戦時に600機以上の機体を保有した海軍航空隊は無惨にも「壊滅」したのである。日本では陸軍と海軍の不仲っぷりがネタとして有名だが、イタリアの場合では海軍と空軍の不仲が深刻だった。

また、第一次世界大戦時に保有していた海軍の飛行船はウンベルト・ノビレ空軍少将(Umberto Nobile)が指揮した1928年の飛行船「イタリア」による北極遠征での遭難事故を受けて、空軍・海軍問わず採用されなくなり、実験や研究も中止となって姿を消した

f:id:italianoluciano212:20220208231219j:plain

海軍航空隊出身の空軍将軍、アレッサンドロ・グイドーニ少将(Alessandro Guidoni)。1910年代に海軍の航空パイオニアとして知られ、巡洋艦への航空機発射設備の搭載、世界初の雷撃機の開発、水上機母艦「エルバ」及び「エウロ―パ」の設計開発など海軍航空隊の拡大と海軍航空兵器の新兵器開発において重要な役割を果たした。1923年に空軍が独立した後、海軍航空隊出身者では珍しく空軍に移籍を決断。空軍に移籍してからも、海軍の航空戦力保有には熱心で、建造こそされなかったが大胆な双胴空母の設計もしている。1928年、試作パラシュートの実験を自ら行ったが、パラシュートが開かずに事故死してしまった。海軍航空隊出身では貴重な空軍将軍だったグイドーニ将軍の死により、海軍の航空戦力保有はますます厳しいものとなってしまったのである。

だが、その一方でジリアンニ海相率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けた。どれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、海軍航空隊出身のアレッサンドロ・グイドーニ空軍少将(Alessandro Guidoni)が考案したコスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い。結局、伊海軍がファシスト政権を通じて保有した航空機運用艦は、未完成の空母2隻(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)を除けば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」しか存在しなかった。

 

ワシントン海軍軍縮会議を拡大させる形で試みられたロンドン海軍軍縮会議も実施され、イタリア代表はディーノ・グランディ外相(Dino Grandi)やジリアンニ海相が交渉役として参加した。主力艦の保有枠を決めたワシントン海軍軍縮会議に対して、ロンドン海軍軍縮会議は補助艦艇の保有枠を決めるものであった。イタリア側はフランス側と二国間交渉を行ったが、フランス側は一貫してイタリア側より多くの巡洋艦駆逐艦保有枠を主張したために交渉は決裂している。このため、イタリアとフランスは巡洋艦駆逐艦の量的制限を受け入れないことを表明し、あくまで部分参加に留めることとなった。

 

次回はいよいよ戦間期の戦争とイタリア海軍についてです。

 

associazione.hatenablog.com