第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史⑤:戦間期の戦争とイタリア海軍(1935-39)
前回は軍縮時代のイタリア海軍通史でしたが、今回はいよいよ第二次世界大戦に至るまでの1930年代の三つの軍事衝突(エチオピア戦争、スペイン内戦、アルバニア戦争)と海軍の関わりを書いていきたいと思います。
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◆エチオピア戦争の勃発
1934年12月5日、イタリア領ソマリアとエチオピアの国境に位置するワルワルにて、イタリア軍とエチオピア軍の軍事衝突が発生した(ワルワル事件)。前回述べた通り、イタリアはエチオピアと1928年8月に友好条約を結んでいたが、この事件を契機に両国関係は著しく悪化し、1935年10月のエチオピア戦争開戦に繋がったのである。
エチオピアを征服することは、1896年のアドゥア(アドワ)での大敗の雪辱を晴らし、民族の悲願を達成するプロパガンダ的な意味も大きかったが、表面的には未だに奴隷制を維持しているエチオピアに対する「文明化」を侵攻の正当化に繋げた。現実的にはイタリア本土の余剰人口を吸収させる入植地の確保、エチオピアの豊富な地下資源の確保、更にエリトリアとソマリアを繋ぐ回廊を確保して東アフリカに一大植民地帝国を建設するというのが大きな目的であった。
この時を前後して、海軍内でも人事異動があった。1933年にジュゼッペ・ジリアンニ海相(Giuseppe Sirianni)は辞任し、再度ムッソリーニが海相を兼任した。そのため、海軍の事実上の責任者は新たに海軍次官に就任したドメニコ・カヴァニャーリ提督(Domenico Cavagnari)であった。間もなく1934年にはジーノ・ドゥッチ海軍参謀長(Gino Ducci)の後任として、カヴァニャーリ次官は海軍参謀長も兼任している。
こうして、ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人でもあるエミーリオ・デ・ボーノ将軍(Emilio De Bono)を遠征軍総司令官として侵攻が開始されたが、エチオピア帝国が内陸国であったという特性上、活躍した陸軍や空軍とは異なり、イタリア海軍は戦争の主体にはなれなかった。しかし、海軍の「サン・マルコ」海兵がエチオピア帝国軍との戦闘に参加したほか、海軍側が兵員輸送と哨戒などを担当しており、全く参加しなかったわけではない。例えば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」は東アフリカへの航空機輸送任務で大きな役割を果たしている。
エチオピア帝国軍はイタリア軍より大幅に遅れていると言えど、自動車化部隊や航空部隊を持つなど部分的に近代化に成功し、国産航空機を生産出来る工業力を擁していた。エチオピア兵が所謂「槍と盾しか持たない」というのは完全な誤りである。1936年5月5日、帝都アディスアベバがイタリア軍によって陥落したことにより、エチオピア戦争は終結し、エチオピアはイタリアに併合され、エリトリア・ソマリアと合併して「イタリア領東アフリカ(A.O.I.)」が成立したのであった。
エチオピアへの侵攻は、今までムッソリーニが続けていた英仏との協調外交を完全に転換させた。外相には海軍におけるファシスト政権の実力者であるコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)の息子、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)が新たに就任したが、彼はムッソリーニの娘エッダ(Edda Mussolini)の婿であり、ムッソリーニの後継者と目された人物にまでなった。日本では日独伊三国同盟の署名者として、「チアノ外相」という名前で知られているだろう。
経済的にもイタリアは事実上の戦時体制に移行した。エチオピア戦争前に財務相に就任したパオロ・イニャツィオ・タオン・ディ・レヴェル(Paolo Ignazio Thaon di Revel)はエチオピアとの関係悪化により、侵攻計画が現実味を帯びてくると、それに伴い財務相に就任、「経済ナショナリズム」の強化により、戦時即応体制の準備を進めた。彼の財務相時代は、まさしくファシスト・イタリアが冒険的な膨張主義に手を出し、戦争への道を突き進む時代と一致する。
すなわち、戦時下にも対応出来るように、他国への依存を廃するアウタルキー経済を目指した。経済と金融の「ファシズム化」を目指し、銀行改革によるシステム合理化、戦争費用で疲弊した財政の回復、新税制度の導入などを実行したが、これを実現するために大幅な増税をし、国民への負担を強いた。戦時中は国債をベースに物価安定に尽力。民間消費を抑制して物価を調整し、国債以外の投資を制限する事で、戦争経済によるインフレの回避を目的とした。彼は継続して1943年の内閣改造まで財務相を務めている。なお、彼はパオロ・タオン・ディ・レヴェル海軍元帥(Paolo Thaon di Revel)の甥であった。よく両者が混同されがちであるが、タオン・ディ・レヴェル海軍元帥が財務相になったわけではない。
◆海軍軍縮からの脱退と建艦計画
エチオピア戦争で国際連盟の制裁を受けたイタリアは、第二次ロンドン海軍軍縮会議にて海軍専門家としてカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)を参加させたが、軍縮条約への署名を拒否する事態となった。交渉は決裂し、イタリアは軍縮からの脱退を宣言したのである。同様に未来の同盟国たる日本も予備交渉がまとまらず、軍縮からの脱退を宣言している。こうして、軍縮条約という「足枷」を失ったイタリア海軍は、国際情勢の悪化と共に更なる軍拡に向けて動き出すことになった。とはいえ、常に予算不足という「足枷」は海軍に付きっ切りであった上、工業生産力は限られており、更に空軍との対立もあったため、自由な軍拡が行えたわけではない。
カヴァニャーリ海軍次官は海軍予算の増加を受けて、旧式化した艦艇の刷新と新造艦の建造を進めた。しかし、国際情勢の著しい変化により、イタリア海軍が一から主力艦を建造するには時間も資材も工業生産力も足りなかった。第一の仮想敵であるフランス海軍は新造戦艦のダンケルク級を1932年に起工したが、イタリア海軍には第一次世界大戦時の旧型戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(3隻が建造されたが、3番艦の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は第一次世界大戦時に戦没した)とカイオ・ドゥイリオ級2隻のみであり、既に旧式化が否めなかったのである。
イタリア海軍はこれに対抗するため、新造戦艦としてリットリオ級戦艦4隻(「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ローマ」及び「インペロ」)の建造を進める一方で、旧式戦艦であるコンテ・ディ・カヴール級2隻(「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」)及びカイオ・ドゥイリオ級2隻(「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)に対して急遽近代化改装を施し、主力戦艦8隻体制によって地中海の制海権掌握を狙ったのであった。
更にカヴァニャーリ次官が戦略の中心に考えたのが潜水艦である。第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻)もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有数だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。
ただ、その一方でカヴァニャーリ次官は電子装備開発には保守的で、ウーゴ・ティベリオ博士(Ugo Tiberio)を中心にレーダー開発が行われていたが、予算は僅かしか与えられていなかった。1936年にイタリア初のレーダー(E.C.1)開発に成功したが、海軍はこれを重要視せず、結局量産開始は開戦後の1942年からであった。
空母開発に関しては、エチオピア戦争での国際関係の悪化により、カヴァニャーリ次官は客船「ローマ」及び「アウグストゥス」を特設空母として改造する案を決定した。イタロ・バルボ空軍元帥(Italo Balbo)の後任として、空軍の責任者に就任したジュゼッペ・ヴァッレ空軍次官(Giuseppe Valle)は前任者よりも柔軟に対処し、地中海作戦を行う上で海軍との協力が不可欠と考えていた。そのため、空母の保有問題に関しても、海軍側に譲歩するようになった。しかし、エチオピア戦争の終了によって一旦緊張が和らいだために緊急空母改装計画は中止となった。なお、改装計画自体の研究は継続され、この時の設計案は後の空母「スパルヴィエロ」建造時に活用されている。その後、新造空母の建造を目指したカヴァニャーリ次官であったが、議会で建造案を提出した際にムッソリーニによって却下された。ムッソリーニが従来通り「イタリア半島不沈空母論」を主張し、現状の航空戦力のみで対処は可能としたためである。
◆スペイン内戦とアルバニア侵攻
イタリアの国際的な孤立は、1936年にムッソリーニによる「ローマ・ベルリン枢軸」が主張されてから、ナチス・ドイツとの蜜月関係を生み出した。1939年にはイタリア・ドイツ間の同盟である「鋼鉄協約」が結ばれ、1940年にはこれに日本を加えて「日独伊三国同盟」に発展することになった。一方、地中海やアフリカにおいて英仏との関係悪化が顕著となったイタリアは、エチオピア戦争後、更に冒険的な外交政策に舵を切っていったのである。これはファシスト・イタリアの破滅への序曲となった。
スペイン内戦ではイタリア海軍も陸軍・空軍と共に「義勇軍」として国粋派支援に派遣された。その役目は基本的に国粋派の船団護衛と共和派に対する通商破壊であった。それを担ったのはマリオ・ファランゴーラ提督(Mario Falangola)率いるイタリア潜水艦部隊で、計38隻の潜水艦が作戦に従事している。共和派及びソヴィエト連邦の輸送船の多くが撃沈・損傷され、カヴァニャーリ次官は潜水艦が海軍戦略において重要である事を再確認している。また、潜水艦「トッリチェッリ」が共和派の軽巡「ミゲル・デ・セルバンテス」を雷撃で大破させるなど、軍艦に対しても戦果を挙げた。
他にも、駆逐艦「マロチェッロ」によるバレアレス諸島制圧作戦や、巡洋艦隊によるスペイン沿岸諸都市への砲撃なども行われており、海軍は積極的に内戦介入に関わった。なお、空軍のSM.79も共和派スペインの戦艦「ハイメ・プリメロ」を水平爆撃で撃破しており、これは空軍が「艦船攻撃には高高度からの水平爆撃が有効」という誤った戦略をとる原因にもなっている。
第二次世界大戦前夜に発生した1939年4月のアルバニア侵攻では、アルトゥーロ・リッカルディ提督(Arturo Riccardi)率いる第一艦隊が派遣された。この艦隊は戦艦「コンテ・ディ・カヴール」(艦長:アントニオ・ボッビエーゼ大佐 Antonio Bobbiese)を旗艦とし、戦艦2隻、水上機母艦1隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦・水雷艇23隻等で構成された大艦隊であった。第一艦隊はアルフレード・グッツォーニ陸軍大将(Alfredo Guzzoni)率いるイタリア陸軍遠征軍船団を護衛しつつ、アルバニアの港湾に対して艦砲射撃を実行し、陸軍部隊の上陸を支援した。水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」はこの作戦時に戦車揚陸艦として運用されている点も興味深いだろう。
アルバニア海軍は貧弱な小型艦艇数隻しか保有しておらず、また沿岸砲台もあったがイタリア軍の猛攻を止めることは出来なかった。4月7日に上陸したイタリア軍は、翌日には首都ティラナを制圧。12日にはアルバニア全土が完全に制圧され、僅か数日間でイタリアはアルバニアの完全征服に成功したのであった。アルバニア制圧後、アルバニアはイタリア王を元首とする同君連合となり、イタリア軍の占領下となった。
ひとまず、この辺りで今回のイタリア海軍通史シリーズを終了としよう。参考文献については後日まとめてこの記事の末に貼る予定です。
第二次世界大戦参戦に至るまでのイタリア海軍通史④:軍縮時代のイタリア海軍(1919-1935)
さて、今回もイタリア海軍通史について書いていきましょう。前回まではリソルジメント後のゴタゴタから、伊土戦争と第一次世界大戦の快勝まで書いていきましたが、今回で第一次世界大戦後の軍縮時代に突入します。同時に、イタリアではファシスト政権が成立しますが、軍縮時代はファシスト外交の「攻撃性」が鳴りを潜めているのがミソですね(とはいえ、コルフ島事件など攻撃性が垣間見える事もありますが)。
前回まではこちら↓
◆"骨抜きにされた勝利"とワシントン海軍軍縮条約
第一次世界大戦での快勝はイタリア海軍の栄光を高めただけでなく、アドリア海における制海権を完全に確保させた。イタリアは戦勝により、トレンティーノ及びアルト・アディジェ(独語名は南チロル)、ヴェネツィア・ジュリア、そしてケルソ島やルッシーノ島、ラゴスタ島などアドリア海島嶼部等を獲得した。しかし、英仏も旧オスマン帝国領を領有する形で東地中海に勢力を拡大し、新たな脅威が出現してしまった。
東地中海では、英国はエジプトやパレスチナ、キプロスを領有し、フランスはシリア地域を領有した。一方、アドリア海地域はイタリアの完全な制海権に置かれた。アドリア海対岸に新たに生まれたユーゴスラヴィアの海軍力はかつてのオーストリアには遠く及ばず、イタリア海軍には全く脅威ではなかったのである。そのため、アドリア海の戦略的重要性は失われた。
第一次世界大戦後、戦勝国となったイタリアであったが、1915年のロンドン秘密条約で確約したはずの領土割譲(フィウーメ・ダルマツィアの獲得、アルバニアの保護国化)はパリ講和会議では反故にされ、イタリアでは「骨抜きにされた勝利」と言われ、イタリア国民に不満が広がった。それによって、英雄的詩人であったガブリエーレ・ダンヌンツィオらによるフィウーメ占領が発生し、国内は失業率の増大と不況の嵐が巻き起こった。ダンヌンツィオは前回も紹介したが、ブッカーリ奇襲にも参加している。
戦火が去ったことにより、イタリア海軍の予算は当然大幅に削減された。ジョヴァンニ・セーキ海相(Giovanni Sechi)はこれを受けて建造中のフランチェスコ・カラッチョロ級戦艦の建造を中止し、予算の関係的にも戦艦よりも巡洋艦・駆逐艦に重きを置く海軍戦略を採用するに至っている。
しかし、海軍の予算削減と建艦計画の停滞に対し、アルフレード・アクトン参謀長(Alfredo Acton)率いる海軍は不満を募らせた。このため、ダンヌンツィオの主張する「骨抜きにされた勝利」は海軍内部で強く支持され、それに伴うファシストの勢力拡大に対してもこれを支持している。前回紹介したブッカーリ襲撃の英雄であったコスタンツォ・チャーノ提督(Costanzo Ciano)がファシスト党の領袖となったため、その影響も強かった。彼は海軍次官や通信相を歴任した他、彼の息子であるガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)も宣伝相や外相を歴任し、ムッソリーニの娘婿として絶大な権力をふるった事で知られている。
1922年6月に締結されたワシントン海軍軍縮条約は英国、アメリカ、日本、フランス、イタリアの五大海軍国の艦隊比をそれぞれ5(英米):3(日):1.67(仏伊)と定めた。調印者はルイージ・ファクタ(Luigi Facta)政権の外相カルロ・スカンツェール(Carlo Schanzer)である。時のイタリア海相ロベルト・デ・ヴィート(Roberto De Vito)はこの軍縮に満足した。工業生産力が他列強に遅れをとるイタリアは他国との建艦競争に繋がれば厳しく、更に第一次世界大戦終戦後は戦時中の損害に対して賠償金が満足に得られなかったという事もあり、当時のイタリア経済は財政危機に陥っていたからである。
1919年から22年にかけて、海軍予算は1913年当時より20%も削られる有様であった。また、イタリア海軍は基本的地中海艦隊が戦力の中枢であり、地中海から離れた植民地は東アフリカ(と天津租界)程度であったため、世界各地に植民地を擁するフランスと同等の保有上限を手に入れたことは、地中海ではイタリア海軍が仮想敵たるフランス海軍に優位に立てる可能性があることを意味していた(まして、東アフリカ方面のフランス勢力圏はジブチのみだったため、対フランス戦略では事実上地中海のみに戦力を集中させておけば良い事になる)。当然、フランスはイタリアと比率が同等であった事に抗議している。フランス海軍はイタリア海軍に対抗するためにも、戦力の大半を地中海防衛に回さなくてはならなくなったからである。
オーストリア海軍が消滅した後、イタリア海軍の主要な仮想敵は専らフランス海軍であり、フランス海軍こそが対抗する相手になった。そのため、当時作られていたイタリア海軍の艦艇は基本的にフランス海軍の艦艇に対抗する設計となっている。
◆ムッソリーニ政権成立とコルフ島事件
国内情勢が不安定になる中、ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)率いるファシスト党は支持を拡大していき、1922年10月28日の象徴的な「ローマ進軍」を契機に、10月31日にはムッソリーニ政権が誕生した。第一次世界大戦時に海軍参謀長を務めた海軍の英雄であり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)からも信頼が厚いパオロ・タオン・ディ・レヴェル提督(Paolo Thaon di Revel)はムッソリーニ政権において海相として入閣した。ムッソリーニはこの偉大な提督のために海軍の最高位の階級である「海軍元帥(Grande Ammiraglio)」を創設し、この名誉称号を授与された。彼はイタリア海軍史上唯一の海軍元帥となったのである(彼の後に海軍元帥に処された人物はいない)。
ムッソリーニ政権成立後、さっそくイタリア海軍は実戦を経験することになる。1923年8月27日、ギリシャ・アルバニア国境劃定委員会の委員長であった、イタリア陸軍のエンリコ・テッリーニ将軍(Enrico Tellini)が同行していたイタリア代表団と共に何者かによって殺害される事件が発生した(イオアニナの虐殺)。ギリシャ側はテッリーニ将軍を以前よりアルバニア側に有利な国境劃定をしていると非難しており、この暗殺はギリシャ側の関与が当然考えられた。
ムッソリーニはこの事件に対し、ギリシャ政府側を強く非難。その後、ムッソリーニはギリシャ側に最後通牒を通告したが、ギリシャ政府は部分的に受け入れたのみであったためムッソリーニは満足せず、イタリア海軍にギリシャ領イオニア諸島のコルフ島制圧を命令。タオン・ディ・レヴェル海相はこれに対し、これを契機にイタリア政府と国民に海軍の重要性を示し、海軍予算の拡大に繋がると考えたため、ムッソリーニの判断を全面的に支持している。
この「コルフ島事件」と呼ばれるイタリア・ギリシャ間の紛争では、イタリア海軍がその軍事衝突の主体となった。イタリア海軍はエミーリオ・ソラーリ海軍大将(Emilio Solari)率いる主力戦艦4隻を含む艦隊(旗艦:戦艦「コンテ・ディ・カヴール」)をコルフ島に派遣した。この作戦に参加した4隻の戦艦「コンテ・ディ・カヴール」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」はいずれも第一次世界大戦時に就役したイタリア最新鋭の弩級戦艦であった。ソラーリ提督率いる主力艦隊はコルフ島の要塞を艦砲射撃した後、海兵部隊が同島を制圧した。
ギリシャ側が国際連盟に助けを求め、その後大使会議による審議の結果、ギリシャ側がイタリア側の要求を受け入れることで紛争は終結した。ギリシャ側はイタリア側に謝罪し、賠償金を支払った。これを受け、イタリア側はコルフ島から撤退し、外交危機は解決されたのである。イタリア世論はムッソリーニの強気の姿勢を高く評価し、ファシスト党の支持拡大へと繋がったのである。
この紛争の「勝利」の立役者となった海軍だが、この事態を受けてタオン・ディ・レヴェル海相はムッソリーニと距離を置くこととした。コルフ島事件により、英海軍の地中海艦隊増強を招き、伊英関係の悪化に繋がったからである。ムッソリーニの冒険的な外交は世界最大の海軍国を敵にしかねない、という判断によるものであった。実際、タオン・ディ・レヴェル提督の懸念は第二次世界大戦で現実のものとなった。
1924年6月のマッテオッティ事件を契機に更にムッソリーニへの警戒感を強めたタオン・ディ・レヴェル海相は1925年5月8日に海相を辞任。その後は首相であるムッソリーニが海相を兼ね、事実上の海軍の責任者としては新たに海軍次官に就任したジュゼッペ・ジリアンニ提督(Giuseppe Sirianni)がその役目を果たした。ジリアンニ提督は1929年9月から1933年1月の間は海相に就任している。
◆ファシスト政権の諸政策
ムッソリーニは今までのイタリア政府の「弱腰外交」を批判し、コルフ島事件を契機にその影響力を国際的に示した。ファシスト政権に対する他列強の反応は大方肯定的であり、例えば英国のオースティン・チェンバレン外相(Austen Chamberlain)やウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)などの人物がムッソリーニを高く評価した。この肯定的意見の理由は、イタリアの議会制民主主義に対する政治不安が原因であった。
ムッソリーニはフィウーメ問題を巡って対立関係にあったユーゴスラヴィア政府と交渉し、その結果両国の「友好条約」として1924年にローマ条約が締結、フィウーメをイタリアに割譲させる事に成功した。続く1925年のネットゥーノ条約ではラパッロ条約でイタリア領となった領土の再確認も含め、両国の国境が正式に確定した。これにより、両国関係は表面上安定したものとなり、イタリア人人口の多かったフィウーメの獲得もダンヌンツィオが武力で達成できなかったことを、ムッソリーニが外交で達成した、という目に見えるムッソリーニの成果であった。
続いて、ルーマニアとの友好条約締結(1926年9月)、イエメンとの友好条約締結(1926年9月)、アルバニアの経済的属国化(1927年11月)、エチオピアとの友好条約(1928年8月)、ギリシャとの友好条約締結(1928年9月)、ブルガリア国王とイタリア王女の政略結婚(1930年10月)、ブルガリアとの友好条約締結(1931年1月)、オーストリア及びハンガリーとの協力協定締結(1934年3月)、伊ソ友好不可侵条約締結(1933年9月)、伊仏友好協定(1935年1月)、英仏とのストレーザ戦線成立(1935年4月)、ユーゴスラヴィアとの友好不可侵条約締結(1935年6月)といった各国との協力関係を構築し、バルカン、中東欧、中東、アフリカに至るまでの勢力圏確保を目論んだ。この期間のファシスト政権はその「攻撃性」を隠し、諸国間との協調外交による勢力圏拡大を狙っていたのである。この時のファシスト政権は英仏ではなくオーストリア問題でナチス・ドイツと敵対関係にあったため、英仏やオーストリア及びハンガリー、更にはソ連までもを利用した対独包囲網の構築を進めていた。
また、ムッソリーニ政権の財務相として入閣したアルベルト・デ・ステーファニ(Alberto De Stefani)は超緊縮財政による財政再建と行財政改革を進め、戦後恐慌を脱して平均4%のGDP増加という目覚しい景気回復を示したことで、経済的な面でもファシスト政権の手腕は高く評価されることになった。経済の回復によって、海軍予算も増えており、イタリア経済の成長は海軍も無視出来ない話題だった。
通信相時代のコスタンツォ・チャーノ提督による鉄道改革も重要である。チャーノ通信相は「定時運行」をスローガンに掲げ、鉄道の近代化に取り組んだ。特に鉄道の電化に注力し、運用コストの削減と速達性・快適性の向上を実現している。非電化路線のローカル線にも「リットリナ」の愛称で親しまれる気動車が投入され、これは植民地でも運用された(エリトリアでは現在も使われている)。最大80%以上の割引率で運用される「人民列車」も運行され、イタリア国民は鉄道旅行を楽しんだ。ミラノ中央駅を始めとするイタリア各都市の主要駅舎も、この時に作られたものが多い。
ファシスト政権は植民地の「改革」を行った。ソマリア総督に就任したファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ」の一人であるチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)はソマリア植民地の統一と集権化を実行。2つのスルタン国と英国から割譲されたオルトレジュバを併合し、「ソマリアの統一」を実現した。海軍もスルタン国の制圧作戦に参加し、海兵部隊が戦果を挙げている。
続いて、伊土戦争で獲得したトリポリタニア・キレナイカ及びフェザーンにおける大規模な叛乱鎮圧作戦(リビア再征服)がピエトロ・バドリオ元帥(Pietro Badoglio)とロドルフォ・グラツィアーニ将軍(Rodolfo Graziani)のもとで実行され、1934年にはトリポリタニア・キレナイカ・フェザーンの三地域を合併し、「イタリア領リビア」が成立した。こうして、植民地の平定に成功したファシスト政権は、新たな膨張戦争に向かうことが可能となったのである。
◆空軍の優遇、海軍の冷遇
ムッソリーニは強大な艦隊を作り上げることに熱心であったが、一方で空軍力の増強には更に熱心だった。しかし、それによって第一次世界大戦で輝かしい戦果を挙げたイタリア海軍航空隊は壊滅する事態となる。1923年3月、勅令によってイタリア陸軍航空隊を前身とする、イタリア空軍が成立した。当初は海軍航空隊との関係に変化はなかったが、1929年9月12日に後に空軍元帥に昇進するイタロ・バルボ将軍(Italo Balbo)が空軍大臣に就任すると、バルボ空相は全ての航空戦力を空軍の元に集中させるため、事実上海軍航空隊を完全吸収した。
バルボは政府内でも屈指の実力者であり(ファシスト党終身最高幹部である「クァドルンヴィリ」の一人)、ムッソリーニも空軍贔屓であったため、航空戦力的な観点では海軍は冷遇されたのであった。まさに、ドイツにおけるゲーリング率いる空軍とヒトラーの関係によく似ていると言えよう。ファシストやナチスの独裁者にとって空母というものはどうにも相性が悪いのかもしれない。
海軍航空隊は以前の1/10の規模まで縮小された上に、旧式機ばかりしか残されず、例えば空母の建造計画を提案しようものなら、空軍の激しい反対に遭って計画は頓挫した。空軍としては地中海の中心に位置するイタリア半島は「不沈空母」であるから、イタリア海軍が地中海で活動する限り、海軍が空母を持つ必要は全くない、というスタンスであった。僅かに残された海軍の所属機ですら、空軍の管理下にあり、パイロットも空軍の所属であった。海軍の指揮下には爆撃機も戦闘機もなく、艦載用の飛行艇と水上機が50機あるのみであり、第一次世界大戦終戦時に600機以上の機体を保有した海軍航空隊は無惨にも「壊滅」したのである。日本では陸軍と海軍の不仲っぷりがネタとして有名だが、イタリアの場合では海軍と空軍の不仲が深刻だった。
また、第一次世界大戦時に保有していた海軍の飛行船はウンベルト・ノビレ空軍少将(Umberto Nobile)が指揮した1928年の飛行船「イタリア」による北極遠征での遭難事故を受けて、空軍・海軍問わず採用されなくなり、実験や研究も中止となって姿を消した。
だが、その一方でジリアンニ海相率いる海軍側も健気にも空母の建造計画をあの手この手で計画し続けた。どれもペーパープランのみで実現はしなかったものの、海軍航空隊出身のアレッサンドロ・グイドーニ空軍少将(Alessandro Guidoni)が考案したコスト削減のための双胴空母など、中々興味深い設計計画は多い。結局、伊海軍がファシスト政権を通じて保有した航空機運用艦は、未完成の空母2隻(「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」)を除けば、水上機母艦「ジュゼッペ・ミラーリア」しか存在しなかった。
ワシントン海軍軍縮会議を拡大させる形で試みられたロンドン海軍軍縮会議も実施され、イタリア代表はディーノ・グランディ外相(Dino Grandi)やジリアンニ海相が交渉役として参加した。主力艦の保有枠を決めたワシントン海軍軍縮会議に対して、ロンドン海軍軍縮会議は補助艦艇の保有枠を決めるものであった。イタリア側はフランス側と二国間交渉を行ったが、フランス側は一貫してイタリア側より多くの巡洋艦・駆逐艦の保有枠を主張したために交渉は決裂している。このため、イタリアとフランスは巡洋艦・駆逐艦の量的制限を受け入れないことを表明し、あくまで部分参加に留めることとなった。
次回はいよいよ戦間期の戦争とイタリア海軍についてです。