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第二次世界大戦時の東アフリカ戦線 ―孤立した戦場で勇敢に戦ったイタリア将兵の物語―

第二次世界大戦の「アフリカ戦線」といえば、大多数の人はやはり北アフリカ戦線をイメージするだろう。砂漠の戦場、ロンメル将軍、エル・アラメイン....などなど。

逆に、東アフリカ戦線はその陰に隠れがちである。日本語ウィキペディアもない。しかし、そこでは本国から補給が一切無い中、イタリア軍が英軍を相手に激闘を繰り広げていたのである。

というわけで、今回はその「東アフリカ戦線」にスポットライトを当ててみよう。

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東アフリカ戦線を描いたポストカード

開戦時の東アフリカ戦線

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イタリア領東アフリカ帝国の行政区分

エチオピア併合後、イタリア領東アフリカ帝国(AOI)の行政区分はこうなっていた。西を英領スーダン、南を英領ケニア、北を英領ソマリランド及び仏領ジブチと国境を接していたのである。イタリア軍部は開戦に当たって、エリトリア防衛のためにスーダンのガダーレフ市及びカッサラー市への攻勢、そして仏領ジブチへの攻勢も決定していた。また、ケニアにおいては守勢、または状況によって攻撃に出る、となっていた。
開戦時は東アフリカに駐屯する伊陸軍部隊は植民地兵23個旅団の兵員27万人と、このほかアディスアベバ駐屯のサヴォイア師団、黒シャツ大隊などを合わせて5万4千人である。軍隊の配備は三つの作戦地区で防衛陣を敷き、北部地区はルイージ・フルーシィ将軍、東部地区はグリエルモ・ナージ将軍、西南部地区はピエトロ・ガッツェラ将軍、東部のジュバ川周辺地区はグスタヴォ・ペセンティ将軍がそれぞれ指揮に当たった。

紅海艦隊はマリオ・ボネッティ提督が指揮し、マッサワ基地を母港とし、駆逐艦7隻、水雷艇2隻、駆潜艇5隻、潜水艦8隻で構成されていた。

空軍はアッサバ基地の東アフリカ北航空コマンド、アディスアベバ基地の東アフリカ中央航空コマンド、モガディシオ基地の東アフリカ南航空コマンドで構成され、戦闘機・爆撃機など計約400機配備されていた。戦闘機は旧式機のみであったが、スペイン内戦で経験を積んだヴェテランも多かった。

そして、この東アフリカの最高責任者は、東アフリカ帝国副王の肩書を持つ同地軍総司令官である空軍大将アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ公であった。

開戦、そして英領植民地への進撃

1940年6月11日、イタリア王国は英国及びフランスに宣戦布告した。

しかし、開戦後東アフリカ戦線はすぐには動かず、伊英両空軍による爆撃が行われたのみであった。

紅海艦隊は潜水艦艦隊による英船団への攻撃を開始したが、ジーノ・スパゴーネ中佐率いる潜水艦隊は6月中に潜水艦「ガリレイ」「マッカレー」「トッリチェッリ」「ガルヴァーニ」の計4隻を失う大損害を被った。

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第二次世界大戦の東アフリカ戦線におけるイタリア軍の最大領域

陸軍の積極的行動は7月に入ってからであった。まず、1940年7月3日に英軍が伊領エチオピアのメテマを攻撃したが伊軍の防衛により失敗した。

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イタリア軍スーダン侵攻。イタリア軍指揮官はルイージ・フルーシィ将軍。英軍指揮官はウィリアム・プラット将軍。

7月4日、イタリア軍は攻勢に移り、反撃を実行、スーダン侵攻を開始した。フルーシィ将軍率いる部隊が国境近くのカッサラー市を制圧した。翌日、ガッツェラ将軍の部隊がガッラバト要塞及びクルムク要塞の制圧に成功している。

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イタリア軍ケニア侵攻。イタリア軍側の指揮官はピエトロ・ガッツェラ将軍。英軍側の指揮官はアラン・カニンガム将軍。

スーダンでの成功後、続いてガッツェラ将軍及びペセンティ将軍率いる部隊がケニア侵攻を開始。7月16日に国境都市のモヤレを制圧後、続けてマンデラ市を制圧。しかし、英軍の抵抗は激しく、国境から100km地点のブナ市まで侵攻したところでイタリア軍は進撃を中止、両軍は膠着状態となった。

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イタリア軍の英領ソマリランド侵攻。イタリア軍の指揮官はグリエルモ・ナージ将軍。英軍の指揮官はアーサー・レジナルド・チェイター将軍。

スーダン及びケニア侵攻後、8月3日からはグリエルモ・ナージ将軍率いる部隊が英領ソマリランド侵攻を開始した。イタリア軍は多くの犠牲を出しながらも、8月3日に首都ハルゲイサを制圧。トゥグ・アルガン峠での英軍による最後の抵抗を伊軍が撃破した後、8月19日に伊軍は港湾都市ベルベラを陥落させ、侵攻開始からわずか2週間足らずで英領ソマリランド全土を制圧した。英軍は海路で脱出した。

東アフリカ戦線におけるイタリア軍の連勝はムッソリーニにとって喜ばしいことであり、ヒトラーも絶賛する祝電を打った。その後、両軍はスーダンケニア国境での一進一退の攻防戦を繰り広げていた。

紅海艦隊は駆逐艦隊で英船団への攻撃を実行して戦果を挙げていたが、10月には英空軍の爆撃によって駆逐艦「フランチェスコ・ヌーロ」が撃沈されている。

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東アフリカの伊空軍トップエース、マリオ・ヴィシンティーニ大尉

空軍は東アフリカのトップエースであるヴィシンティーニ大尉をはじめとするパイロットが活躍した。11月には反撃に出た英空軍部隊を5機撃墜し、5か月間に25機の英空軍機を撃墜する戦果を挙げている。ヴィシンティーニ大尉は16機撃墜の戦果を挙げていたが、1941年2月に悪天候の為墜落死してしまった。

しかし、12月18日、英軍がソマリア北西部国境のエル・ウァク基地を襲撃し、これを陥落させた。これは小さな勝利ではあったが、ロンドンではイタリア軍崩壊の前触れとして大々的に宣伝された。

実際、それが当たったのか、これ以降イタリア軍は苦境に陥っていく。同基地の防衛に当たっていたペセンティ将軍は敗北の責任を取って辞任している。

暗雲、敗北の始まり

1941年に入るとイタリア軍にとって状況は暗転する。英軍が大規模な反攻作戦を開始したのである。それに加え、帝国内では英国の工作によってアマラ地区にてエチオピア人の叛乱が頻発していた。孤立した戦場であり、本国からの補給がない東アフリカ植民地軍は次第にジリ貧になっていた。

英軍はスーダン国境地帯を奪還し、遂にはカッサラー市を1月19日に奪回した。そして、エリトリアへの逆侵攻を開始したのである。伊軍は反撃を行ったが、激闘の末1月31日にアゴルダト、2月2日にバレントゥが陥落し、伊軍はケレンまで撤退した。アゴルダトの戦いではアメデーオ・グイレット大尉率いるアムハラ騎兵隊が活躍し、味方の撤退の血路を開くことに成功している。

他方、南部方面では英軍がケニア国境地帯を奪還し、2月初めにソマリアへの侵攻を開始した。南部の主要都市であるアフマドゥ市とキスマヨ市が陥落し、2月25日にはソマリア首都モガディシオが英軍の攻撃で陥落した。英軍はソマリアでの伊軍掃討戦に移り、わずか数日で英領ソマリランドも奪還している。

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ケレンの戦いを描いた絵画

ケレンは伊軍の守備隊と英軍の6週間にも渡る指揮官であるオルランド・ロレンツィーニ准将が戦死するなど激闘の末、これ以上の犠牲を避けるため伊軍司令部は撤退を命じ、3月27日に英軍はケレンを制圧した。英軍はケレンでのイタリア将兵の勇敢さを讃えている。ケレン陥落によって事実上エリトリア戦線は崩壊、4月1日には英軍がエリトリア首都アスマラを攻略した。

4月3日、英軍はイタリア紅海艦隊母港のマッサワ攻略を開始した。マッサワ軍港司令官ボネッティ提督は防衛の指揮を取り、状況の打開のために艦隊にポートスーダン攻撃及びスエズ運河攻撃を命令。しかし、結果は散々な結果に終わり、サウロ級駆逐艦3隻、レオーネ級駆逐艦3隻を失った。マッサワ防衛に当たった水雷艇「オルシーニ」「アチェルビ」は撃沈され、「MAS213艇」が英軽巡ケープタウン」を大破させたが、4月8日、英軍側の圧倒的攻勢に敗れ、鹵獲を防ぐために残存艦隊は自沈された。通報艦エリトリア」及び仮装巡洋艦「ラム1」「ラム2」は同盟国である日本に、潜水艦「アルキメーデ」「フェッラーリス」「ペルラ」はボルドーに目指して航行しており、難を逃れた(しかし、「ラム1」はモルディヴ沖でニュージーランド海軍の追撃により撃沈されている)。これにより、イタリア紅海艦隊は壊滅した。

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水雷艇「ヴィンツェンツォ・ジョルダーノ・オルシーニ」

マッサワ陥落後、エリトリアは完全に陥落。アッサバの空軍基地も制圧された。ソマリア方面では、駐ソマリア伊軍主力はエチオピアの城塞都市ハラルまで撤退していた。しかし、3月17日に英軍は侵攻を開始。ハラル陥落後も伊軍は山岳地帯で戦い続けたが、3月29日にディレ・ダワが陥落、伊軍ソマリア駐屯軍は降伏した。

東アフリカ戦線の崩壊と各地の籠城戦

東アフリカ戦線はもはや壊滅状態であった。伊軍第25植民地師団は帝都アディスアベバ東方のアワシュ渓谷地帯で防衛戦を繰り広げていたが、英軍の侵攻によって4月5日に力尽きた。これによって帝都への道が開かれ、伊軍司令部は帝都放棄を決定。翌日にはアディスアベバは英軍によって陥落したのである。

帝都を脱出した東アフリカの伊軍総司令官アメデーオ公は、アンバ・アラジ山岳地帯のトセッリ城塞での防衛戦をおこなった。4月17日にはデシエが陥落。イタリア軍は軍需物資の欠乏に悩まされながら戦ったが、5月15日に統帥からの降伏許可の電文が届き、17日にアメデーオ公は英軍に降伏、東アフリカのイタリア軍主力は降伏した。

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降伏する伊軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ公

アメデーオ公降伏後も、ナージ将軍率いる部隊が北西部のゴンダールを拠点にアマラ地方で、ガッツェラ将軍率いる部隊が南方のジンマを拠点にガッラ・エ・シダマ地方で抗戦を続けていた。5月19日にはティート・アーゴスティ将軍率いる部隊がシャシャマンマで連合軍の進撃を食い止めた後、降伏した。

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ジンマ防衛戦。イタリア軍指揮官はピエトロ・ガッツェラ将軍。自由ベルギー軍指揮官はオーギュスト=エドゥアール・ジリアールト将軍。

3か月に渡る籠城戦の末、6月21日にジンマは陥落。ガッツェラ将軍率いる残存部隊は西部に撤退していたが、オーギュスト=エドゥアール・ジリアールト将軍率いる自由ベルギー軍部隊の追撃を受け、7月3日にガッツェラ将軍は降伏した。ナージ将軍率いる部隊は7か月に渡って抗戦を続けたが、11月28日に遂にゴンダールは陥落し、徹底抗戦後、30日にナージ将軍は降伏した。

東アフリカにおけるゲリラ戦の開始

東アフリカ戦線はこれで終結したように思えた。しかし、降伏を拒否した約7000人のイタリア軍兵士によって、ゴンダール陥落後も各地でゲリラ戦が続けられたのである。

アムハラ騎兵隊司令官であったグイレット騎兵大尉は、神出鬼没のゲリラ戦を行って英軍を苦しめた。英軍からは「悪魔の司令官」と畏怖されたという。イタリア兵は英軍から武器を奪取するなどして軍備を整え、英軍への破壊活動をたびたび行った。

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アメデーオ・グイレット大尉とアムハラ騎兵隊

戦車エースとして知られるフランチェスコ・デ・マルティーニ中佐も、イエメン人の義勇兵と共に砂漠地帯でゲリラ戦をおこなった。SIM(陸軍諜報部)の工作員だった女性軍医のローザ・ダニエッリは、アディスアベバで積極的な破壊活動をおこなっている。

後に「エリトリア独立の父」と呼ばれるハミド・イドリース・アワテもゲリラ戦に参加していた。彼はアスカリ兵の指揮官であり、スーダン侵攻やケレンの戦いで戦っていた。これらのゲリラ戦は1943年のイタリア王国降伏まで続いた。

 

大雑把な東アフリカ戦線の顛末は以上である。これを機に、東アフリカ戦線について興味を持ってもらえたら幸いだ。それでは。