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二つの戦線の「英雄」、アトス・マエストリ大尉 ―東アフリカと地中海で戦った爆撃機エースの気高き精神―

東アフリカ戦線、それは第二次世界大戦時の戦線で最も孤立した戦場といっても過言ではないスエズ運河を封鎖されてしまったイタリアにとって、この戦線への補給はS.A.S.の航空機による補給しか不可能であった。また、主戦場であった地中海戦線に比べ、東アフリカ戦線の装備は更に旧式化が目立っていた。それは空軍においてもそうであったが、戦闘機エースのマリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)を始めとする数々のエースはその状況でも屈することなく、連合軍と果敢に戦っていた

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アトス・マエストリ(Athos Maestri)大尉

爆撃機パイロットのアトス・マエストリ(Athos Maestri)大尉もその一人である。彼は東アフリカ戦線においてカプロニ Ca.133偵察爆撃機パイロットとして、この孤立した戦場で戦い抜き、戦線崩壊後は敵への降伏をよしとせず、東アフリカを脱出、スーダン・エジプト上空を通って本国部隊に合流、地中海戦線でも継続して戦った不屈のパイロットである。彼は人生において数々の困難に直面したが、そのたびにその不屈の精神でそういった困難を乗り越えてきた、気高き精神を持った人物でもある。今回は、そんな二つの戦線で戦った英雄について紹介しよう。

 

◆小さな町に生まれた不屈の精神を持つ男

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マエストリ一家。後列左から、兄フィリベルト(Filiberto)とその妻ティナ(Tina)、アトス、弟アニチェート(Aniceto)。前列が母アンジョリーナと父マリオである。

アトス・マエストリ(Athos Maestri)は1913年4月14日に、「美食の町」パルマ近郊のタリニャーノ(Talignano)という小さな町に、父マリオ・マエストリ(Mario Maestri)と母アンジョリーナ・ボンテンピ(Angiolina Bontempi)の間に生まれた。生まれた場所は母アンジョリーナの実家である。タリニャーノは現在はサーラ・バガンツァの分離集落(Frazione)となっている、人口50人の本当に小さな町...というか村だ。

少年期のマエストリは父方の祖母の家に預けられ、食品加工で知られるコッレッキオの町で過ごしたが、12歳の頃家族と共にアブルッツォ州の州都ラクイラに引っ越しており、そこの工業高校に通った。慣れない環境のマエストリは、更に彼が成績が良くなかっため中退を余儀なくされることとなり、どんどん苦境に追い込まれた。その後、仕方なく建設業の作業員として働き始めることとなったが、仕事は非常に苛酷な環境であり、今度は過労で病を患い倒れてしまったのであった

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晴れて空軍パイロットとなった20歳の頃のマエストリ(1933年)。

踏んだり蹴ったりの状況であったが、この病を機に、マエストリは辞職し、再び学業に励むことにした。後に不屈の飛行士として、彼は名を馳せることとなるが、この頃から不屈の精神は宿っていた。こうして、マエストリはミラノのルイージ・ボッコーニ大学(Università commerciale Luigi Bocconi)の経済学部に入学した。マエストリは学業のためだけにミラノに向かったわけではなかった。自由な空に憧れを持ち、航空機に興味を持っていたマエストリは、その飛行免許を取るため、という目的もあったのである。
大学入学の翌年である1933年には空軍に志願。こうして、1934年7月にはブレダ社の運営する飛行学校で民間飛行士免許を所得した彼は、その後正式に空軍飛行士の資格を所得して正式に空軍に入隊となったのであった

なお、マエストリ兄弟は皆、航空関係の仕事についていた点も興味深い。兄フィリベルト(Filiberto Maestri)はイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣が企画した地中海東部飛行に参加した水上機パイロットであり、戦後はアリタリア航空の旅客機パイロットとして活躍した(RAIのインタビュー映像も残っている)。弟のアニチェート(Aniceto Maestri)も民間航空会社に就職し技師として活躍、まさにパイロット一族という感じであった。

 

エチオピアでの武勲

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エチオピア戦士とマエストリ(中央の人物)。

空軍に入隊して少尉に任官されたマエストリ第7爆撃航空団、第40航空群、第14飛行隊(カプロニ Ca.101爆撃機装備)に配属となり、彼はその後勃発したエチオピア戦争で初陣を飾った。イタリア空軍はエチオピア戦争において効果的に爆撃機部隊の運用を行い、戦局の進展に大きな影響を与えた。エチオピア帝国軍の帝国親衛隊(ハイレ・セラシエ皇帝直属の主力部隊)は航空部隊を作り、各国から購入した航空機だけでなくオーストリア人技師の協力で自国製の航空機までも生産していたが、イタリア空軍部隊に抗うのはほぼ不可能な状態であった。
マエストリエチオピア戦争で銀勲章と戦功十字章を叙勲している。銀勲章は、エチオピア帝国軍の対空砲火によって足に重傷を負うも、爆撃を成功させたことによって叙勲された(エチオピア帝国軍はスウェーデン駐在武官の協力で優れた対空砲を持っていた)。戦功十字章はこれらの事態に遭遇しながらも、不屈の精神で爆撃を成功させたためだった。

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サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"とマエストリ

アディスアベバ陥落後、東アフリカ帝国成立後もマエストリは東アフリカに留まり、エチオピア人ゲリラ(レジスタンス)掃討戦にも参加している(サヴォイアマルケッティ SM.81"ピピストレッロ"装備)。その際、ゲリラ兵の砲撃で彼のSM.81が被弾、エンジン火災を起こして飛行不可能となったが、上手く不時着させることで自らと乗組員の命を救ったことによって二度目の銀勲章を叙勲された

この負傷によって本国に治療のために一時帰還したマエストリは、「カプロンチーノ」と呼ばれたカプロニ Ca.100練習機でフェリーノという町で曲芸飛行をやってみせた。ソーセージ工場の娘であったコンチェッタ・ブランキ(Concetta Branchi)という女性は、このマエストリの飛行を見て、それに魅了されたのである。コンチェッタは後に、「彼が私に恋の爆弾を落としたんだわ」と表現している。コンチェッタは飛行を終えたマエストリに会いに行き、やがて二人は恋に落ちた。そうして、1939年7月3日には、マエストリとコンチェッタは結婚。二人の夫婦仲は非常に良好で、お似合いのカップルだった。

 

◆二つの戦線の英雄、東アフリカの戦い

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カプロニ Ca.133偵察爆撃機。カプロニ社製の偵察爆撃機で、1935年からイタリア空軍に導入された。旧式機ではあったが、その高い汎用性と短距離離着陸(STOL)が可能なことから東アフリカ戦線では主力機の一つとして活躍した。

マエストリは怪我の影響から安静にすることを医者から言われていたが(実際、足の骨が怪我の後遺症で痛み、座りがちな活動を強いられた)、1940年6月にイタリアが英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦すると、マエストリは再び飛ぶ事を望んだ。彼は空軍大将であり、東アフリカの副王だったアメデーオ公(Amedeo di Savoia-Aosta)に懇願し、最愛の妻に別れを告げ、再び東アフリカの戦場に戻ることとなった。

こうして、マエストリは東アフリカ戦線で戦うこととなった。彼はエリトリアのグーラ基地に駐屯する第118偵察爆撃飛行隊(カプロニ Ca.133装備)の隊長として、スーダンやアデン、エジプトの英軍基地爆撃や、紅海での敵艦船爆撃を実行している。英国にとって、インド-地中海を繋ぐ紅海の補給路は非常に重要なものであり、マエストリ爆撃機部隊による英船団攻撃は、伊紅海艦隊が作戦に失敗した(潜水艦「ガリレイ」の拿捕により、作戦計画が英海軍側に漏れた)こともあり、非常に効果的であった。

また、初期のフランス軍との戦いにおいては、フランス領ソマリランド(現ジブチ共和国領)のジブチ港への爆撃も実行した。カプロニ Ca.133偵察爆撃機は「カプロナ(Caprona)」と呼ばれて親しまれ、旧式機であったが汎用性が高い万能機として戦場に貢献した機体だ。更に、開戦当時は、東アフリカ戦線の戦況はイタリア軍有利に進んでおり、陸軍部隊はスーダン及びケニアの国境地帯を突破し、英領ソマリランド全土を制圧下に置いていたため、未来の戦況は明るいものに見えた。

しかし、補給がS.A.S.の輸送機部隊による支援しかないという状況では、次第に東アフリカ戦線の戦況は悪化していった。マエストリを始めとする爆撃機パイロットたちは連日の攻撃を強いられたこうして、弾薬や燃料の欠乏、パイロットたちの疲労は日に日に苦しくなっていくマエストリの同僚も一人、また一人と戦死していった。英空軍側も、新型の戦闘機を東アフリカ戦線においても導入していくと、イタリア空軍の旧式爆撃機では非常に分が悪い戦況になっていった。

イタリア紅海艦隊は壊滅し、陸軍部隊も追い詰められ、もはや戦線の崩壊は時間の問題となっていったのである。この絶望的な状況であったが、マエストリグラツィアーニ(Giulio Cesare Graziani, 後に雷撃機エースとして名を馳せる名パイロット)らは英軍側に降伏することをよしとせず、戦線崩壊直前に東アフリカを脱出して、本国部隊に合流、地中海戦線で戦闘を継続することを望んだのであった

 

◆地中海戦線での活躍、そして最期の飛行

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操縦席のマエストリ(左)。

本国への帰還はマエストリに束の間の休息を与えた。丁度、彼と妻コンチェッタの長女、アンナリータ(Annarita)が生まれたばかりであった。帰還したマエストリは1年ぶりに最愛の妻と再会し、生まれたばかりの愛しい我が子を抱いた。しかし、この休息はすぐに終わり、マエストリは再び空で戦うためにロードス島の基地に移動することになった。今度の戦場は地中海戦線であった。第47爆撃航空団、第106航空群、第261飛行隊に配属となり、同飛行隊の隊長を務めた
この飛行隊は新型機のCANT Z.1007"アルチョーネ"爆撃機を装備していた。このZ.1007はCANT社が開発した三発エンジンの中型爆撃機で、サヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"やFIAT社のBR.20"チコーニャ"と共に、イタリア空軍の主力爆撃機として活躍した機体であった。ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』でも、主人公が乗っている機体が、このZ.1007"アルチョーネ"である。優れた飛行性と安定性を持つ傑作機で、木製であったため東部戦線やアフリカ戦線での活動は不向きであったが、地中海戦線やバルカン戦線で活躍し「イタリア最高の爆撃機」の一つと称されたバトル・オブ・ブリテンで試験的導入されたZ.1007bisであったが、その後のギリシャ戦線以降本格的導入となった。

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ロードス島の基地で乗機のZ.1007と記念撮影をするマエストリ隊長。

ロードス島の基地に移動したマエストリは、英国の地上拠点と海軍艦船への爆撃任務を担当。爆撃任務中、1941年9月10日に敵機に捕捉され、マエストリは負傷したが、これまで幾度の困難も乗り越えてきた彼の不屈の精神はこの程度では折れなかった。治療後、すぐに戦線に復帰、ここでマエストリはエジプトなどの英軍基地(主にアレクサンドリア軍港)への大胆な爆撃作戦を何度も成功させ、1942年1月には三度目の銀勲章を叙勲されている
しかし、そんな不屈の精神を持った英雄も、最期の時が突然現れた。1942年7月31日深夜、ローディ(ロードス)島の基地を出発したマエストリのZ.1007は、アレクサンドリア港への夜間爆撃任務に向かった。しかし、彼は基地に帰還しなかった。Z.1007は高性能な機体であったが、全木製であったため、極端な気候である北アフリカ沿岸の気候はZ.1007の飛行性能を著しく悪化させたのである。しかも、時は夏の地中海であり、連日猛暑を記録していた。更に、マエストリの機体は燃料と爆弾のため、重量が過負荷の状態となっており、基地の離陸すらもやっとの状態であった。すなわち、離陸の段階からかなり冒険的な作戦だったのである

この爆撃では、アレクサンドリア軍港を爆撃した後、燃料の関係上、シチリア経由で基地に帰還する予定とされていた。また、アレクサンドリア軍港の攻撃の際に、地中海側から攻撃するのではなく、一度エジプトの内陸部に移動し、そこから反転してアレクサンドリア軍港に向かった。これは、英軍側が地中海側への防衛は強化されているが、内陸側からの防衛が甘かったためである。実際、マエストリのこの作戦は後に見るように敵の目を欺くことに成功した。1942年8月1日早朝、マエストリは爆撃目標であるアレクサンドリア軍港の上空に到達した。

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CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

英国守備隊は内陸側から入ってきたマエストリの機体を誤って友軍機であると誤認してしまった。完全にマエストリの策は英軍側の目を欺くことに成功したのである。その隙をついたマエストリアレクサンドリア軍港の海軍設備に対してすべての爆弾を投下、作戦は無事成功した。爆撃を受けた英軍側は慌てて敵機だと認識し、守備隊と艦艇による激しい対空砲火を開始させた。マエストリのZ.1007は急いで戦線離脱を図ったものの、迎撃に出撃した英空軍のボーファイター重戦闘機に捕捉され、ボーファイターの攻撃を受けたマエストリのZ.1007は撃墜されてしまったのであった。作戦は成功したが、帰還出来なかったというのは非常に皮肉である。

機体は空中で爆発し、遺体は発見されなかった。享年29歳の若さである。その後、戦死報告を受けて今までの成果を讃え、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲され、更に四度目の銀勲章と二度目の戦功十字章を叙勲されたのであった

 

不屈の精神で数々の困難を乗り越えてきたマエストリ大尉。彼の爆撃機エースとしての輝かしい戦果も、この気高き不屈の精神によるところは大きかっただろう。私も、彼の不屈の精神を見習っていきたい。

 

◆主要参考文献
・Francesca D'Onofrio著, ATHOS MAESTRI Nel centenario della nascita, issuu, 2013
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018