Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

「空の航海士」ルイージ・クエスタ大佐と英国本土爆撃作戦 ―英国上空におけるBR.20M双発爆撃機の戦歴―

第二次世界大戦時、英国本土上空で激しい航空戦(所謂バトル・オブ・ブリテン)が繰り広げられ、ロンドンは空襲によって火の海になったことはよく知られている。この戦いの主役は防衛側の英空軍(Royal Air Force)と攻撃側のドイツ空軍(Luftwaffe)であったが、イタリア空軍(Regia Aeronautica)の派遣部隊、「イタリア航空軍団(Corpo Aereo Italiano)」も参加していた。しかし、派遣された頃には両空軍の戦いはほぼ終結しており、その活動期間は非常に短いものとなってしまった。

英国本土上空でのイタリア戦闘機部隊の活躍は、ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)を始めとするFIAT CR.42"ファルコ"を駆る複葉戦闘機エースの活躍が知られている。宿敵である英国の本土上空で、性能的に圧倒的に勝るハリケーン戦闘機やスピットファイア戦闘機に対して、「時代遅れ」とされていた複葉戦闘機CR.42はその軽快な運動性能を生かして、引けを取らない活躍を見せたのであった。それに対して、活躍が期待された単葉戦闘機のFIAT G.50"フレッチャ"はその航続距離の短さ故に、空戦に参加しないことも多かった。

f:id:italianoluciano212:20190531213923j:plain

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)大佐。第43爆撃航空団を率いて、BR.20Mによる英国本土爆撃作戦を指揮した。その操縦能力の高さから、史実の航海士アントニオ・ピガフェッタに因み、「ピガフェッタ」という愛称が付けられている。

では、イタリア爆撃機はどうだったのか?英国本土爆撃作戦に参加したイタリア空軍の爆撃機は、FIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機と、CANT Z.1007bis"アルチョーネ"三発爆撃機だった。新型機のZ.1007bisは第172偵察飛行隊の装備であり、試験的な運用であったため、主力の爆撃機はBR.20Mであった。そのBR.20Mを装備した第15爆撃航空旅団は、第13爆撃航空団と第43爆撃航空団で構成された。後者を指揮したのが、ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)大佐である。彼自身、興味深い経歴を持っており、輸送船の船長から飛行機乗りになり、大西洋横断飛行を始めとする冒険的な飛行で名を馳せ、そして第二次世界大戦時では英国本土爆撃作戦に参加する...という感じで面白い。

今回は、英国本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)において、イタリア爆撃機部隊の一つを指揮したクエスタ大佐について、戦間期における水上機パイロットとしての活躍と、第二次世界大戦時の英国本土爆撃という、彼を象徴する二つの項目について紹介し、第二次世界大戦時のイタリア空軍による英国本土爆撃作戦を紐解いてみよう

 

◆輸送船の船長からの出発

f:id:italianoluciano212:20190531213014j:plain

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)

ルイージ・クエスタ(Luigi Questa)は1902年3月15日、リグーリア海岸に面するサン・テレンツォ(San Terenzo)という小さな海辺の町に生まれた。サン・テレンツォは現在はレーリチ(Lerici)市の分離集落(Frazione)となっている。サン・テレンツォは古くからワインとオリーヴオイルの交易港として知られており、十字軍ゆかりの地でもある。19世紀頃からは英国のロマン主義芸術家を中心に人気の避暑地となり、かの英国の詩人であるジョージ・バイロン卿もこの地にやってきている。
そんなちょっとした人気の避暑地に生まれたクエスタ少年は、その土地柄故に、まずは船乗りとしての道を歩むこととなった。1918年にはジェノヴァ近郊に位置するカモーリのクリストーフォロ・コロンボ航海学校を卒業、商船乗りとなった。こうして輸送船の若き船長として地中海航路で経験を積んだクエスタは、1920年に海軍からの招集を受けて1922年まで海軍少尉として従事した練習船アメリゴ・ヴェスプッチ」、駆逐艦「ラ・ファリーナ」、駆逐艦「アウグスト・リボティ」で勤務している。

なお、このうち「アメリゴ・ヴェスプッチ」は先代(1928年除籍)で、二代目の「アメリゴ・ヴェスプッチ」(1930年就役)は現在も練習船として現役である。イタリア海軍もお気に入りのようで、Twitterにはよく一般公開などがあると写真がよく載せられている。気になる人は是非チェックしてみよう。

海軍時代に海軍航空隊の水上機部隊を見たクエスタ青年は、飛行機の虜になったようだ。1923年に陸軍航空隊と海軍航空隊が合併されて、イタリア空軍(Regia Aeronautica)が成立した。これは、世界でも特に早い段階で成立した独立空軍である。1922年に海軍での任務を終えて再び商船乗りに戻ったクエスタであったが、空への憧れを捨てきれず、1925年に空軍への入隊を志願するこうして、飛行機乗りとしての彼のキャリアは出発することとなったのであった

 

水上機パイロットとしての活躍

f:id:italianoluciano212:20190531222804j:plain

イタリア海軍の軽巡洋艦アンコーナ」。元はドイツ海軍の巡洋艦「グラウデンツ」で、第一次世界大戦の結果賠償艦としてイタリアに渡った。甲板には艦載機の水上機が見える。クエスタ少尉はこの艦の艦載機のパイロットを務めた。

空軍に入隊したクエスタはまず、パッシニャーノ・スル・トラジメーノの飛行学校に入り、水上機の訓練を受けた。「イタリアの緑の心臓」と呼ばれるウンブリアにあるトラジメーノ湖畔は飛行機の飛行訓練によく使われており、水上機の訓練はこのトラジメーノ湖で行われている。1925年11月にクエスタは民間飛行士の資格を所得し、続いて、翌年2月には空軍飛行士としての資格を所得、無事軍のパイロットとなった

水上機飛行隊の一員となったクエスタは、マッキ M.7ter水上戦闘機を装備する第27水上機航空団の第163飛行隊に配備された。その後、クエスタはイタリア海軍の軽巡洋艦アンコーナ」の艦載機であるマッキ M.7ter水上戦闘機のパイロットとして勤務している。なお、この軽巡アンコーナ」は、第一次世界大戦の結果、ドイツ海軍からイタリア海軍に賠償艦として引き渡された巡洋艦「グラウデンツ」である。

f:id:italianoluciano212:20190531223949j:plain

フランチェスコ・デ・ピネード(Francesco De Pinedo)将軍。ナポリ貴族出身。水上機でのイタリア-オーストラリア-日本間の飛行を始め、数々の冒険的飛行を達成した優秀な飛行士である。しかし、長距離飛行の最中でアメリカで事故死した。

1928年4月、クエスタはシチリア・アウグスタ港を基地とする第184水上機飛行隊に転属された。彼はここで、新たに配備されたサヴォイアマルケッティ S.59水上偵察機に訓練を受けた後、転換した。この機体は、現在でも「イタリア史上最高の水上機」と言われるほどの優秀な機体であった。同年5月から6月にかけては、著名な飛行士フランチェスコ・デ・ピネード(Francesco De Pinedo)准将の指揮する地中海西部飛行に参加した。デ・ピネードは史上初の欧州-極東間の飛行(ローマ-東京飛行)を達成したアルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)の影響を受け、水上機で日本までの飛行を達成した人物としても知られており、日本でもその名声は知られていた。

この飛行の後、クエスタはオルベテッロ水上機基地に駐屯する第161飛行隊に配属された。1929年6月には、イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣が指揮する東地中海横断飛行に参加した。これは後に見据えた大西洋横断飛行の予行練習であった。クエスタは新たなる翼である双胴飛行艇サヴォイアマルケッティ S.55の訓練を終え、横断飛行に出発した。一行はターラントを出発し、ギリシャアテネ、トルコのイスタンブールブルガリアのヴァルナ、ソ連(ウクライナ)のオデッサルーマニアのコスタンツァを経由し、再度イスタンブールアテネを通り、ターラント経由でオルベテッロに帰還した。

f:id:italianoluciano212:20190531231137j:plain

イタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大臣。ファシスト党終身最高幹部「クァドルンヴィリ(ファシスト四天王)」の一人であり、「イタリア空軍の父」として知られる人物。イタリア空軍を育て上げ、空軍大臣という立場でありながら、自ら遠征部隊の隊長として二度の大西洋横断飛行を始めとする数々の空軍イヴェントを成功に導いた。なお、イタリア史上唯一の空軍元帥(Maresciallo dell'aria)でもある。

こうして、予行練習を終えたクエスタは、イタリア空軍の一大イヴェントである第一次大西洋横断飛行(イタリア・オルベテッロ基地から、ブラジルのリオデジャネイロまでの飛行)に参加した。この冒険的飛行には今までの予行練習と同様に、国家の威信を掛けて、バルボ空軍大臣自ら遠征部隊の指揮をとった。この飛行の際に、エスタは優れた飛行能力を示し、史実の航海士アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)に因み、「ピガフェッタ」という愛称が付けられた。アントニオ・ピガフェッタはフェルナン・デ・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)と共に世界一周航海に参加したヴィチェンツァ出身の航海士で、最後まで生き残ってヨーロッパに帰還した一人であった。また、フィリピン現地語を理解し、通訳としても務めた優秀な人物である。記録者としても知られ、彼の記録した航海日誌が後に重要な史料となった。

ブラジルへの飛行を無事成功させたエスタはバルボにその能力を高く評価され、次の第二次大西洋横断飛行(イタリア・オルベテッロからアメリカ・シカゴを目指した)への参加を指名された。ステーファノ・カーニャ(Stefano Cagna)と共にこの飛行の準備段階において重要な役割を果たし、アメリカまでの航路のため、経由地としてオランダや英国、デンマークに対して協力を要請して周った。こうして、エスタはオルベテッロ-シカゴ間の往復飛行に臨み、無事成功させたのであった。この功績から、クエスタは少佐に昇進している

一連の空軍イヴェントを経た後も、クエスタは偵察機部隊や水上機部隊の司令官を務めつつも、様々な航空イヴェントに参加した。アッティーリオ・ビゼオ(Attilio Biseo)ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)らと共に、第205爆撃飛行隊"ソルチ・ヴェルディ(緑色のネズミ)"に所属し、航空レースにも参加している。

空軍イヴェントでFIAT社の新型機のBR.20"チコーニャ"と出会ったクエスタは、この機体を気に入ったようだ。なお、クエスタはエチオピア戦争やスペイン内戦には参加せず、ローマ・チャンピーノ基地でカプロニ Ca.100の飛行教官を務めていた。1939年には大佐に昇進したクエスタは、第二次世界大戦への参戦時は北イタリア・ピエモンテのカーメリ基地に所属する第43爆撃航空団の司令官であった。

1940年6月にイタリアが英国とフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦すると、クエスタはBR.20Mを装備する第43爆撃航空団を指揮し、フランス本土のトゥーロン軍港やイエール飛行場、ファイエンス飛行場への爆撃を実行した。また、陸軍の支援のためにフランス軍要塞への爆撃も実行している。

 

◆英国本土爆撃作戦への参加

f:id:italianoluciano212:20190601005935j:plain

英国本土上空で作戦行動中のFIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機。クエスタ大佐の指揮する第43爆撃航空団第99航空群第242飛行隊所属の機体。

イタリアが参戦した後、間もなくフランスが休戦すると、ドイツ空軍は英国本土への航空爆撃を強化、これに対して英空軍は迎撃を開始し、英国本土上空では両空軍による熾烈な航空戦が繰り広げられた(バトル・オブ・ブリテン)ムッソリーニ統帥はこれに対して、空軍部隊の派遣を命じた。1940年9月10月に創設されたリノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍率いる「イタリア航空軍団(C.A.I.)」は、2個戦闘航空団・2個爆撃航空団、そして偵察飛行隊と輸送機部隊で構成されていた。

この2個の爆撃航空団のうち、片方の爆撃航空団はクエスタが指揮する第43爆撃航空団であった。イタリア空軍は地中海やアフリカ戦線における制空権維持を重要視したため、英国本土航空戦への派遣は望まなかったが、これは英国本土を直接叩くと言うプロパガンダ的な意味合いも大きかったため、ムッソリーニ統帥はバトル・オブ・ブリテンへの参加を望んだのであった。ベルギーのシェーブル基地に派遣されたクエスタは、第43爆撃航空団を指揮して英国本土爆撃作戦に参加することになる

エスタの第43爆撃航空団はマリオ・テンティ(Mario Tenti)大尉率いる第98航空群(第240飛行隊と第241飛行隊で構成)と、サルデーニャ島出身のジャン・バッティスタ・チックゥ(Gian Battista Ciccu)大尉率いる第99航空群(第242飛行隊と第243飛行隊で構成)で構成されていた。そして、37機のFIAT BR.20M"チコーニャ"双発爆撃機を装備していたのである。また、シェーブル基地にはカルロ・ペレッリ・チッポ(Carlo Perelli Cippo)中佐率いる第172偵察飛行隊も所属しており、こちらは新鋭のCANT Z.1007bis三発爆撃機5機を装備していた。しかし、このZ.1007はあくまで試験的な導入であった。

f:id:italianoluciano212:20190601010240j:plain

シェーブル基地のBR.20M。先ほどの機体と同様に、第242飛行隊の機体。

第43爆撃航空団の英国上空での初任務は10月24日夜間であったシェーブル基地を飛び立った18機のBR.20Mは英国本土のハリッジ及びフェリックストーへの夜間爆撃に出発した。しかし、イタリア機は北海の気候に適していなかったことと、夜間飛行の訓練が不足していたこともあり、攻撃目標を発見できずに帰還するという事態となった。

5日後の10月29日には15機のBR.20Mが出発し、FIAT CR.42"ファルコ"複葉戦闘機39機とFIAT G.50"フレッチャ"単葉戦闘機34機の護衛を受けて、マーゲイト及びラムズゲートへの爆撃を実行した。今回は前回の反省を生かして昼間の爆撃任務であった。なお、CAI遠征空軍に参加した航空機は、偵察部隊のZ.1007bisと輸送部隊のCa.133を除き、全てFIAT社製の航空機である(CR.42, G.50, BR.20)。更に、ディールの英海軍施設を1機のBR.20Mが爆撃に成功し、英海軍側は犠牲者を出している(民間労働者を含む)。

11月5日、クエスタ率いる第43爆撃航空団は8機のBR.20Mでサフォーク州の州都イプスウィッチとハリッジへの夜間爆撃を実行。BR.20M編隊は損害を被ることなく目標への爆撃を成功させている。11月11日には再度第43爆撃航空団は爆撃作戦を実行した。同基地の第172偵察飛行隊のZ.1007bis編隊がグレート・ヤーマスへの爆撃に見せかけた陽動作戦を実行し、英空軍防空システムを引き付けているうちに、10機のBR.20Mが約40機のCR.42及びG.50に護衛されてハリッジへの爆撃を実行した

f:id:italianoluciano212:20190601010744j:plain

ジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)曹長。英国本土航空戦において活躍したCR.42複葉戦闘機エースの一人。複葉戦闘機「だけ」にこだわりを持っていた人物でもあり、新型機のMC.202に転換した際はこれを好まず、全く戦果を挙げられていない(MC.202は数々のエースを生んだ機体であるため、機体の性能が悪いわけではない)。

この際、英空軍の戦闘機25機(スピットファイア及びハリケーン)が迎撃を実行し、護衛機であるCR.42と激しい空戦を繰り広げたジュゼッペ・ルッツィン(Giuseppe Ruzzin)曹長らCR.42部隊は9機の敵機を撃墜し、対するイタリア空軍側は3機のBR.20と2機のCR.42を撃墜されている。CR.42はこの空戦で素晴らしい戦果を残したが、G.50は航続距離の短さ故に不時着したり、途中で帰還した機体が多かったことと、部隊の損害(BR.20Mは敵機からの攻撃に非常に脆弱であることが証明された)から遠征空軍司令官のフージェ将軍は以降は昼間爆撃の中止を決定し、夜間爆撃のみとなった

その後の第43爆撃航空団による夜間爆撃は殆ど損害無く任務を達成させることが出来た11月17日には6機のBR.20Mがハリッジを夜間爆撃11月20日には12機のBR.20Mがハリッジ及びイプスウィッチを夜間爆撃11月29日には9機のBR.20Mがイプスウィッチに加え、更に遠方のローストフトとグレート・ヤーマスへの夜間爆撃を成功させている。これらの成功を受けて、12月中には12月14日、12月21日、12月22日と三度ハリッジへの夜間爆撃翌年1941年1月2日に連続でイプスウィッチへの夜間爆撃を成功させているが、1月3日には英国本土上陸作戦が棚上げとなったことから、フージェ将軍はCAI派遣空軍の任務を終了させ、機材と兵員をイタリアに戻し、一部の戦闘機部隊は北アフリカ戦線に移動させることとした。クエスタはその後、第43爆撃航空団の指揮から離れ、ローマの空軍省勤務となったが、これらの英国本土爆撃作戦の戦果から、銅勲章と戦功十字章を叙勲されたのであった

f:id:italianoluciano212:20190601005403j:plain

チェーザレ・トスキ(Cesare Toschi)少佐。イタリア軍最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲された優秀な爆撃機パイロット。第二次世界大戦時はBR.20M"チコーニャ"双発爆撃機を駆り、バルカン戦線での任務の後、マルタ包囲戦に参加、マルタへの夜間爆撃作戦で多くの戦果を挙げた。その功績を讃えて現在のイタリア空軍の第37航空団は彼の名前が付けられている(第37航空団は彼が所属していた航空団でもあった)。

エスタ率いる第43爆撃航空団は英国本土爆撃でまずまずの戦果を挙げたが、参戦時期の遅さと稼働率の低さ(これは一番の問題であった)から全体で見ると評価は微妙なところである。とはいえ、宿敵英国を直接叩くというプロパガンダ的な目的は果たされたと言えよう。また、BR.20Mが優れていない機体か、と言われたらそういうわけではない。地中海戦線ではチェーザレ・トスキ(Cesare Toschi)少佐を始めとするBR.20Mを駆る爆撃機エースが活躍している。トスキは特にマルタへの夜間爆撃で多くの戦果を挙げた人物で、1941年11月19日に地中海上空で悪天候の中撃墜されて戦死した後、イタリア軍最高位の勲章である金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている。

更に、BR.20は日本陸軍航空隊にも「イ式重爆撃機」として輸出され、中国戦線で使用されていることは有名だ。BR.20に搭載されていた武装が、日本陸軍の航空機関銃開発に与えた影響は非常に大きかったという点も評価が高い。ただ、やはりBR.20Mは防御力が欠ける機体であり、敵からの攻撃に非常に脆弱である点は難点であった。

 

今回はマイナーなイタリア空軍による英国本土爆撃作戦を扱ってみた(いや、そもそも私が扱う題材は大概マイナーか...)。ちまちま調べてみると、「意外と」イタリア空軍の爆撃機部隊は英国本土爆撃でも戦果を挙げている。もっと個人的には少ないと思っていたので。BR.20Mは好きな機体なので、今後も調べていきたい。

 

◆主要参考文献
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・Luca Guglielmetti/ Andrea Rebora著, La Regia Aeronautica nella battaglia d'Inghilterra, Uff. Storico Aeronautica, 2014
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
・Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018