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友軍の窮地を救え!イタリア空軍「特別航空補給コマンド(S.A.S.)」による戦場への物資・人員補給作戦

第二次世界大戦時、イタリア軍の戦場はしばしば孤立した。例えば、まず最初に挙げられるのは東アフリカ戦線。1936年にイタリアがエチオピア帝国を征服し、その結果それまで植民地として保有していたエリトリア及びソマリアと合併して誕生した「イタリア領東アフリカ帝国(A.O.I.)」だが、他にイタリアがアフリカに保有する植民地であるリビアとはその間に英国が支配するスーダンとエジプトがあるため、隔てられていた。また、北アフリカリビアさえも、英海軍の制海権が明らかになってくると本国からの輸送船による輸送が困難になっていってしまう。ロシアの東部戦線においてもそうだ。ソ連軍の包囲によって、イタリア軍部隊がしばしば孤立状態に陥ることがあった。

そこで、そういった孤立した戦場で苦しむイタリア陸軍部隊の生命線を紡いだのが、「特別航空補給コマンド(S.A.S., Comando servizi aerei speciali)」であった。これは、空軍特殊部隊の一つで、孤立してしまった戦場への補給任務を担当する輸送部隊である。略称は"Comando servizi aerei speciali"を略した"C.S.A.S."と、"Servizi aerei speciali"を略した"S.A.S."がある。文献では後者が良く使われるため、後者を選択する。

今回は、このS.A.S.について、ちょっと調べてみようと思う。

 

◆S.A.S.の構造

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アウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)将軍。イタリア空軍の主要な将軍の一人。「特別航空補給コマンド(SAS)」の司令官として、空軍の補給作戦を指揮。軍の航空機だけでなく民間企業の輸送機も集め、海上輸送が困難な領域への補給任務を実行した。エチオピア潜像時に敵軍の攻撃で重傷を負っており、そのため片目と片足を失っている。

S.A.S.を率いたアウレリオ・リオッタ(Aurelio Liotta)将軍はシチリアのサンターガタ・ディ・ミリテッロという町の貴族出身の空軍将軍で、第一次世界大戦時にベルサリエリ士官として参加した後、大戦中に飛行士となった人物だ。空軍創設にも関わっている。エチオピア征服後、東アフリカのイタリア空軍部隊の指揮を取ったが、アディスアベバで行われた式典の際にグラツィアーニ将軍らと共にエチオピアレジスタンスのテロ攻撃に遭遇し、その結果片足を切断しなければならない重傷を負った。また、片目の視力も失っている。重傷を負ったリオッタ将軍だったが、駐独イタリア大使館駐在武官として勤務した後、上院議員に選ばれた。

とはいえ、彼がのんびり上院議員として隠居するようなことはなかった。間もなく欧州に軍靴の音が聞こえてくると、リオッタ将軍は新たに創設される「特別航空補給コマンド(S.A.S.)」の司令官となったのである。S.A.S.は空軍参謀本部の直轄で、この部隊は孤立した戦場への補給任務を担当することを目的としたが、その編制は開戦時の段階で以下の通りである。

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S.A.S.の輸送機部隊。

◆第147輸送航空群(第601飛行隊、第602飛行隊、第603飛行隊)

リットーリア(現ラティーナ)空港

サヴォイアマルケッティ SM.75輸送機×13機

◆第148輸送航空群(第605飛行隊、第606飛行隊)

:レッジョ・カラーブリア空港

サヴォイアマルケッティ SM.73輸送機×13機

◆第149輸送航空群(第607飛行隊、第608飛行隊、第609飛行隊)

ナポリ空港

サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"輸送機×12機

◆独立飛行隊(第611飛行隊、第615飛行隊、第616飛行隊)

レダ Ba.44輸送機×5機, サヴォイアマルケッティ SM.83輸送機×8機、サヴォイアマルケッティ SM.74×3機

北アフリカ輸送航空群(第146輸送航空群)

サヴォイアマルケッティ SM.75×14機、サヴォイアマルケッティ SM.81

◆東アフリカ輸送航空群

サヴォイアマルケッティ SM.73、カプロニ Ca.133T、カプロニ Ca.148C、IMAM Ro.10

◆その他(連絡飛行隊等)所属機

サヴォイアマルケッティ SM.83×13、サヴォイアマルケッティ SM.82×2、サヴォイアマルケッティ SM.86×1、サヴォイアマルケッティ SM.87×1、サヴォイアマルケッティ SM.79×2、サヴォイアマルケッティ SM.75×8、サヴォイアマルケッティ SM.73×1、サヴォイアマルケッティ S.71×2、カプロニ Ca.310×6、FIAT BR.20×3、FIAT APR.2×1、FIAT CR.42×4、FIAT G.12×3、FIAT G.18V×6、FIAT G.50×1、マッキ MC.94×6、マッキ MC.100×4、CANT Z.506×4、IMAM Ro.10×2、ユンカース Ju-52×6、ダグラス DC-2×2、ダグラス DC-3×1

これらの輸送機たちは軍用機のみならず、アラ・リットーリア航空を始めとした民間航空企業の保有の輸送機・旅客機もかき集められて使われた。そのため、SASは民間航空企業関係者の人員も多く存在した。

 

◆東アフリカへの補給作戦

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ウンベルト・クリンゲル(Umberto Klinger)。バルボ元帥とも親しい友人だった飛行士で、元アルディーティ兵出身。ダンヌンツィオのフィウーメ進軍にも参加している。イタリア初の国営航空会社「アラ・リットーリア航空」の創設者として、民間航空路線の拡大に尽力した。

その一人が、ウンベルト・クリンゲル(Umberto Klinger)である。北イタリア・ピエモンテ州のサルッツォに生まれた彼は、「イタリア空軍の父」であるイタロ・バルボ空軍元帥の親しい友人である飛行士だ。その特徴的な名前から、おそらくドイツ系の家庭だと思われる。第一次世界大戦ではアルディーティ部隊の一員として山岳戦でオーストリア軍と戦い、ダンヌンツィオのフィウーメ進軍にも参加、更にはバルボと共にフェッラーラのファシスト党支部の一員として活動した。

空軍の威信を高めようとするバルボ元帥は民間航空路線の拡大を目指し、クリンゲルにそれを任せた。クリンゲルは6つの民間航空企業を合併し、イタリア初の国営航空企業「アラ・リットーリア航空」を創設する。クリンゲルは「アラ・リットーリア航空」の社長として、民間航空路線の拡大を目指し、地中海領域とアフリカ全域を結ぶ航空路線を作りだし、更に旅客路線だけでなく空輸便の貿易網を構築していった

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バルボ(左)とクリンゲル(右)。二人は個人的な友人同士でもあった。

第二次世界大戦の開戦時、クリンゲルは空軍中佐の地位にあったが、S.A.S.の一員(後にS.A.S.の参謀長に就任)として活動することとなる。1940年6月、イタリアは英仏に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。これに対し、英国はスエズ運河を封鎖し、東アフリカに植民地を持つイタリアは海上輸送が不可能となるため、東アフリカ戦線のイタリア軍は孤立することとなる。そこで、S.A.S.が活躍することとなるのだ。クリンゲルは輸送機を夜間の飛行や英軍が駐屯していない砂漠を飛行させることを駆使し、孤立した戦場である東アフリカ戦線への空の補給路を確立したのであった。

この実績は素晴らしいものだった。一般的に物資が殆ど補給されなかったと思われがちな東アフリカ戦線だが(私自身も今までそう思ってた)、この結果、約275トンもの物資と約8万通もの郵便、約1800人もの軍人及び民間人が東アフリカ戦線に運ばれたのである。これにより、クリンゲルは銀勲章を叙勲されている。

 

◆S.A.S.の発展

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ヴィンチェンツォ・ヴェラルディ将軍(Vincenzo Velardi)。イタリア空軍の重要な将軍の一人。リオッタ将軍の後任としてS.A.S.の司令官に就任し、S.A.S.の発展に尽力した将軍。S.A.S.の主な功績は基本的に彼の指揮下で行われたものである。

1941年、S.A.S.の司令官はリオッタ将軍からヴィンチェンツォ・ヴェラルディ将軍(Vincenzo Velardi)に指揮権が引き渡された。新たな司令官であるヴェラルディ将軍のもとで更にS.A.S.は発展することとなる。ヴェラルディ将軍は第一次世界大戦で飛行士として活躍した人物で、中部マルケ州のマチェラータ出身。スペイン内戦では遠征空軍(Aviazione Legionaria)の司令官を務め、バルチェロナ空爆を指揮し、スペイン共和国側に大きな打撃を与えた。第二次世界大戦時は第一戦闘航空師団「アクィラ」の司令官であったが、リオッタ将軍の後任としてS.A.S.の司令官に選ばれた。

S.A.S.は現地部隊が必要とする「最も必要な物資」を迅速に届ける存在として信頼されていった遠く離れた戦線である東アフリカ戦線や東部戦線への食糧や医薬品、弾薬、燃料などの兵士にとって必要不可欠なものの輸送のほか、作戦資料など重要な書類の配達にも使われ、そういった離れた戦場のみならずギリシャ戦線や北アフリカ戦線など、各戦線でS.A.S.は重宝されたバルカンではユーゴスラヴィア戦線で孤立したクロアチア軍部隊にも補給をしており、北アフリカでは負傷したドイツ兵の輸送も行っており、同盟軍の援助にも尽力した

S.A.S.のパイロットたちは輸送機を駆り、様々な戦場にひっきりなしに荷物を届けたため、「疲れを知らない」とさえも言われた。しかし、彼らの任務は当然、楽なものではなかった。敵機や敵の対空砲火に捕捉され撃墜されたりする機体も少なくなく、危険な仕事であった。彼らの尽力がイタリア軍だけでなく、ドイツを始めとする同盟国軍の空の補給線を絶え間なく紡いだのである。

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フルヴィオ・セッティ(Fulvio Setti)中尉の帰還。左から3番目がセッティ中尉。

このS.A.S.のパイロットたちは卓越した操縦能力の高さで知られていたが、その中で最も知られているのがフルヴィオ・セッティ(Fulvio Setti)中尉である。セッティ中尉はモデナ出身の飛行士。学生時代は優秀な陸上選手として知られており、1936年のベルリンオリンピックで障害物競走のイタリア代表として参加する予定であったが、練習中の怪我で出場を断念する。その後爆撃機乗りとして空軍に入隊した。

セッティ中尉は第二次世界大戦開戦後、S.A.S.に配属となる。サヴォイアマルケッティ SM.82"カングーロ"輸送機を駆り任務に従事したが、1942年に弾薬の輸送中に敵機の襲撃に遭遇し、機体は大きく損傷したが無事目的地に届ける事が出来た。この働きによって銀勲章を叙勲されているが、彼のエピソードはそれだけに終わらないチュニス陥落寸前の1943年5月には、燃料輸送中に米陸軍航空隊のP-38重戦闘機に撃墜され、カルタゴ付近の海岸に強制的に着陸する。既に敵の占領下に置かれていたが、セッティらはボロボロの機体を何とか離陸可能に修復、再度飛行し、一度干上がった湖に着陸して休憩した後、制空権が奪われた状態で何とかシチリアに帰還したのであった。

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アッティーリオ・マトリカルディ(Attilio Matricardi)将軍。ヴェラルディ将軍の後任として、S.A.S.司令官に就任した。第一次世界大戦時は優秀なパイロットであり、エチオピア戦争時には爆撃機部隊を指揮している。

これは奇跡的な帰還であったが、これに対して、セッティの上官は任務中の軍規違反を指摘し、彼を叱責した。しかし、ヴェラルディ将軍の後任としてS.A.S.司令官になっていたアッティーリオ・マトリカルディ(Attilio Matricardi)将軍はセッティらの行動を讃え、イタリア軍最高位の勲章である金勲章を叙勲したのであった。

 

こうして、S.A.S.は1943年の休戦までに多くの任務を経験した。すべての戦場(アフリカ戦線、東部戦線、バルカン戦線、地中海戦線等)で計25114回の任務を経験し、17,845.318トンもの物資と4,323,289便もの郵便を運んだ。運んだ人員は民間人と軍人を合わせて336,904人。総移動距離は24,454,991kmにまで及んだのであった。

イタリア空軍はあまり知られていないものの、こういった「空の補給路」を持っていた。そう考えると、第二次世界大戦中に枢軸国で唯一欧州-極東の航空連絡便(1942年のローマ-東京飛行)を実行出来た理由も伺える。長距離飛行だけでなく、航空輸送便に関して十分なノウハウがあったのだ。