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不屈の爆撃機エース、コジモ・ディ・パルマ大尉 ―CANT Z.1007を駆った、大胆不敵な名爆撃機乗りの生涯―

戦功金勲章(武勲黄金勲章とも, Medaglia d'oro al valor militare)は、イタリア軍最高位の勲章で、戦場で最も素晴らしい戦功を挙げた者に対して贈られる勲章である。1793年、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世によって設立され、リソルジメントで統一王国が出来上がってからも存在し続け、共和政移行後の現在も存在している。RSI政権(イタリア社会共和国)時代にも王国政府とは別にRSI政権独自の金勲章が作成された。なお、一番最初にこの勲章が叙勲されたのは、王立サルデーニャ海軍の士官ドメニコ・ミッレリーレ(Domenico Millelire)で、彼はラ・マッダレーナでの防衛戦を指揮し、ナポレオン率いるフランス軍サルデーニャ島への到達を防いだ。

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コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)

第二次世界大戦の軍人でも、金勲章(MOVMと略される)を叙勲した軍人は多い。当然、金勲章を叙勲していないから、といって「優れた軍人ではない」という指標にはならないが、金勲章を叙勲していることは「叙勲されるだけの武勲を戦場で挙げた人物」、という指標になる。また、戦死後に叙勲される場合も多々ある。

そこで、今回は金勲章を叙勲された飛行士の一人である、コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)という爆撃機エースについて紹介しよう。南イタリアのプーリア州(プッリャ州)で生まれた彼は、優秀な爆撃機パイロットとして名を挙げた人物だ。

彼は多くの戦果を挙げるだけでなく、大胆なエピソードをいくつか持っていたが、その中でも地中海戦線のエピソードは興味深い。彼は夜間爆撃任務時に英軍の夜間戦闘機(おそらくはモスキート)の追撃を受けた際に、しつこい敵機の追撃に対して大胆にも機体をぶつけて追い払うという荒業をやってのけたのだ。それでは、この不屈の爆撃機エースの波乱に満ちた生涯を見ていってみよう。

 

南イタリアに生まれた不屈の飛行士

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ディ・パルマの出身地、カンピ・サレンティーナの市庁舎に捧げられた、彼の記念碑。

コジモ・ディ・パルマ(Cosimo Di Palma)は1915年7月18日、南イタリア・プーリア(プッリャ)地方のカンピ・サレンティーナという町で生まれた。カンピ・サレンティーナは「南イタリアバロックの町」として有名なレッチェ近郊の町で、肥沃な大地が広がり、良質なワインブドウを生産する農業の町として知られていた。ブドウ畑のみならず、オリーヴや様々な野菜も育てられ、少年期のディ・パルマは眩しい日差しが降り注ぐ、この緑豊かな大地で生まれ育ったのであった。

やがて成長したディ・パルマアルプス山脈を仰ぐピエモンテの中心都市で、「美食の街」トリノに引っ越す。太陽降り注ぐ南イタリアで生まれ育ったディ・パルマにとって、北部ピエモンテという環境の変化は心理的に大きな変化を齎したことだろう。彼はトリノ大学の芸術学部に進学し、そこで航空機の美しさに魅了されることとなったこうして、彼はパイロットへの道を志すこととしたのである

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「カプローナ(Caprona)」と呼ばれ親しまれた、カプロニ Ca.133偵察爆撃機。設計者はジャンニ・カプロニ(Gianni Caproni)氏。エチオピア戦争時にイタリア空軍の主力爆撃機として使われ、ディ・パルマもこの機体で爆撃任務に従事した。第二次世界大戦は旧式機であったが、優れた設計であったため継続して使われ、東アフリカ戦線と東部戦線で主に活躍した。

エチオピア戦争が開始すると、ディ・パルマは空軍パイロットとして志願する。少尉として任官され、エチオピア戦争での爆撃任務で実戦経験を積んだ。1936年5月に帝都アディスアベバが陥落し、ひとまずエチオピア戦争は終結となるが、その後もエチオピアレジスタンスによる抵抗運動は起こっており、イタリア当局もゲリラ戦に苦しめられた。そのため、ディ・パルマエチオピア征服後も東アフリカに残り、エチオピアレジスタンスへの攻撃任務も実行することとなった

ディ・パルマは連続で任務に出撃、東アフリカでの飛行時間は420時間以上に達している彼は「疲れを知らない勇敢な飛行士」として知られるようになり、この働きによって2度表彰され、銅勲章を叙勲した。更にこの武勲によって中尉に昇進したのであった。中尉に昇進したディ・パルマは東アフリカでの任務を終了し、束の間の休暇を祖国で過ごした。しかし、世界大戦の足音はすぐ近くにまで来ていたのである。

 

◆ディ・パルマの愛機、CANT Z.1007"アルチョーネ"

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CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機。優れた飛行性と安定性を持つ傑作機で、木製であったため東部戦線やアフリカ戦線での活動は不向きであったが、地中海戦線やバルカン戦線で活躍し「イタリア最高の爆撃機」の一つと称された。

ここで、彼の愛機であった、CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機について紹介しよう。Z.1007はCANT社が開発した三発エンジンの中型爆撃機で、サヴォイアマルケッティ社のSM.79"スパルヴィエロ"やFIAT社のBR.20"チコーニャ"と共に、イタリア空軍の主力爆撃機として活躍した機体である。ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』でも、主人公が乗っている機体が、このZ.1007"アルチョーネ"であった。

Z.1007は優れた飛行性と安定性を持った傑作機と評価され、「イタリア最高の爆撃機」の一つであるとも称されている。後にZ.1007から発展したCANT Z.1018"レオーネ"も優れた性能を持った中型爆撃機として、高く評価されている(開発時期の遅さ故に配備が間に合わず戦果は残していないが)。Z.1007は拠点爆撃だけでなく、英駆逐艦「ジュノー」を撃沈するなど、地中海戦線における敵艦船への攻撃でも活躍した

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Z.1007から発展したCANT Z.1018"レオーネ"双発爆撃機。「イタリア空軍最高の中型爆撃機」と呼べる非常に洗練されたデザインの高性能爆撃機であったが、配備が休戦直前の1943年にまで遅れたため、実戦には殆ど参加出来なかった。爆撃機型のほかに、重戦闘機型や夜間戦闘機型といった様々なバリエーションがあった。

Z.1007の興味深い設計は、全木製である点であるその結果、機体の軽量化に成功し、他の主力爆撃機であるSM.79やBR.20に比べ、最高速度・航続距離・武装などの全てにおいて優れていた。しかし、全木製であることの代償として、北アフリカ戦線や東部戦線といった、極端な気候である環境での使用が非常に困難であった。更に、この極端な気候の戦線がイタリア軍の主要な戦場であったため、Z.1007の活動領域は基本的に地中海戦線を中心とする欧州での戦いに限られた。

Z.1007は1940年の春に配備が開始されたが、6月の参戦時には出撃準備が整っておらず、緒戦におけるフランスとの戦いには参加しなかった。その後、リノ・コルソ・フージェ(Rino Corso Fougier)将軍率いるCAI遠征空軍がベルギーに派遣され、バトル・オブ・ブリテンに参加すると、新型機のZ.1007もその一員としてベルギーに派遣された。こうして、英国本土爆撃にZ.1007も参加したが、この時点での主力爆撃機はあくまでBR.20"チコーニャ"であったため、本格的な戦闘参加はギリシャ侵攻作戦からである。この英国本土爆撃ではZ.1007はカルロ・ペレッリ・チッポ(Carlo Perelli Cippo)中佐指揮下の第172偵察飛行隊(シェーブル基地)に5機が配備されており、爆撃・偵察・陽動など様々な作戦行動に参加した。

 

◆大戦の勃発、バルカンでの活躍

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サヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"三発爆撃機。高速爆撃機であったSM.79は雷撃機としても活躍し、地中海戦線で英艦隊を苦しめた。大戦期を通じて使われ、RSI空軍の第一雷撃集団でも主力として活躍した。

話をディ・パルマ中尉の戦歴に戻そう。1940年6月、イタリア王国は英国とフランスに宣戦布告、第二次世界大戦に参戦した。開戦後、ディ・パルマはまずフランス戦線で戦ったが、この時の乗機はまだサヴォイアマルケッティ SM.79"スパルヴィエロ"三発爆撃機である。ディ・パルマが所属する第47爆撃航空団(ゲーティ基地・ジュゼッペ・リドンニ(Giuseppe Lidonni)大佐指揮)には新型機のZ.1007はエンジンが既に4機受領していたが、エンジンの関係上、まだ出撃準備が整っておらず、依然として出撃可能な機体はSM.79であった。そのため、ディ・パルマも後の機体となるZ.1007ではなく、SM.79で出撃した。

SM.79はレース機から発展した高速爆撃機で、後には雷撃機としても使われ、地中海戦線で活躍した傑作機だ。ディ・パルマ含むイタリア爆撃機部隊は、積極的に出撃を繰り返し、短い間ではあったが、フランスの主要都市への効果的な爆撃任務を実行している。間もなく、フランスがイタリア・ドイツと休戦したことによって、フランスでの戦いは終わった。フランス戦後、第47爆撃航空団はシチリアに移動し、ディ・パルマギリシャに配備されるまでの数カ月間、地中海戦域での爆撃任務に従事、マルタやアレクサンドリアへの爆撃任務に従事した

同年10月、イタリアはギリシャに対して宣戦布告、ギリシャ戦線が開幕した。ディ・パルマの所属する第47爆撃航空団は次の戦場であるバルカン半島に向かい、ェッルッチョ・ランツァ(Ferruccio Ranza)将軍率いるアルバニア・イタリア空軍部隊の指揮下に入ったディ・パルマは英国本土爆撃での試験的な運用で戦果を挙げた新型機、CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機を遂に受領した。こうして、後の愛機となるZ.1007に転換したディ・パルマは、ギリシャでの作戦行動を開始した。

アルバニアに駐屯するイタリア空軍部隊はギリシャ空軍部隊に対して、非常に優位に立っていたアルバニアのイタリア空軍部隊は約400機を擁しているのに対して、ギリシャ空軍は戦闘機38機、爆撃機27機などで構成され、フランス製のMB.150戦闘機やポテ630重戦闘機、英国製のバトル戦闘機、ポーランド製のP.24戦闘機などを始め、更に自国のKEA社でライセンス生産された機体もいくつか存在していた。しかし、ギリシャ空軍の戦力はイタリア空軍に対して劣勢であったものの、英空軍部隊がギリシャに派遣されたため、事実上この弱点はほぼ補強されていた。

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ギリシャ戦線のイタリア空軍部隊を指揮したフェッルッチョ・ランツァ(Ferruccio Ranza)将軍(左から二番目)。第一次世界大戦時の戦闘機エースパイロットである。ギリシャ戦線で空軍は大きな戦果を挙げたが、陸軍と反目していたのは作戦行動を行う上で大きな障害となった。ギリシャ戦線では前線にてブレダ Ba.44輸送機で移動中に、味方戦闘機に敵機だと誤認されて攻撃を受けたが、不時着して何とか事なきを得た。

ディ・パルマギリシャ戦線開始後、Z.1007を駆りギリシャの諸拠点への爆撃任務に従事した10月30日、ディ・パルマは重要港湾都市であったパトラ港への爆撃任務に従事することになったが、生憎とこの日は悪天候による集中豪雨に見舞われてしまった。全木製であるZ.1007は極端な気候だけでなく、集中豪雨によるダメージも深刻であったため、機体性能は悪化する結果となった。

更に、ディ・パルマの駆るZ.1007はパトラ港でギリシャ軍の激しい対空砲火に遭遇、被弾によりディ・パルマは腹部を負傷してしまうしかし、こういった立て続けのアクシデントに見舞われながらも、ディ・パルマは不屈の精神で爆撃任務を成功させて基地に帰還したのであった。ディ・パルマらによるパトラ港爆撃は連合軍の輸送船団に打撃を与えたことに加え、負傷しているにも拘らず、任務を遂行して帰還したという偉業から、ディ・パルマは高く評価された。この武勲から、ディ・パルマは銀勲章と戦功十字章を叙勲されている。

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ロベルト・ロッセリーニ監督の空軍映画『ギリシャからの帰還(原題:Un pilota ritorna)』のワンシーン。この映画の舞台も丁度ギリシャ戦線で、なおかつ主人公の機体はZ.1007だった。ディ・パルマ中尉を始めとする爆撃機乗りの活躍が、ロッセリーニ監督の作品に影響を与えたのだろう。

ギリシャ戦線におけるイタリア空軍の活躍は目覚ましく、爆撃機部隊がギリシャの港湾設備や鉄道、空軍基地などに損害を与えた。具体的には特にコリントス港、パトラ港、プレヴェザ軍港、エレフシナ空軍基地、ナフパクトス(レパント)軍港、ティアミス川沿いの軍事施設を爆撃して大きな損害を与える事に成功している。しかし、反目により、戦略爆撃は実行しても、地上部隊の支援は行っていなかった。とはいえ、戦局が悪化して陸軍部隊が壊滅状態に陥った際に、陸軍部隊を支援して戦線をギリギリで抑えたのは空軍の戦果であった

先述の戦闘における腹部の負傷のため、ディ・パルマは治療のため一時的に部隊を抜けた後、1941年2月に復帰した。復帰後、ユーゴスラヴィア戦線でも爆撃任務に従事したディ・パルマは4月6日にヘルツェゴヴィナモスタルへの爆撃を成功させている。イタリア空軍爆撃機部隊は、アドリア海沿岸のスプリト(イタリア語ではスパラート)では港湾設備や船舶などを爆撃、モンテネグロのコトル港(イタリア語ではカッタロ)では港湾への爆撃だけでなく、近くの軍事基地も甚大な被害を与え、ヴィットーリオ・アンブロージオ(Vittorio Ambrosio)将軍率いるユーゴ遠征軍の大勝に貢献したのであった。

 

◆地中海戦線での大胆なエピソード

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CANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

バルカンでの戦いを終えたディ・パルマの第47爆撃航空団は再び地中海戦線に移動した。こうして、再度シチリアのトラーパニ空港に配属となったディ・パルマは、激化していく中央地中海での伊英両空軍の戦いに参加していくのであった。こうして、休戦まで地中海戦線でディ・パルマは戦い、夜間爆撃を中心に多くの戦果を挙げ、二度の銀勲章、一度の銅勲章、一度の戦功十字章を叙勲される活躍を見せ、大尉に昇進している。特に、マルタ包囲戦における活躍は目覚ましい。ディ・パルマ爆撃機部隊の活躍は英軍のマルタ守備隊を苦しめ、降伏寸前まで追い込んだ。

ディ・パルマはこの戦線で、彼の戦歴の中で最も大胆なエピソードを経験した。1943年3月、ディ・パルマは地中海戦線での夜間爆撃任務時に、英空軍のモスキート夜間戦闘機の追撃を受けた。ディ・パルマは振り切るために飛行したが、モスキートの追撃はしつこく、中々振り切れなかった。ディ・パルマはこれに対し、大胆にもZ.1007の機体をモスキートにぶつけて追撃を振り払うという大胆な行動を取ったのである。この大胆な行動でZ.1007の機体は破損し、ディ・パルマ自身も負傷してしまったが、何とかトラーパニ基地に無事帰還したのであった。このエピソードにより、銀勲章を叙勲されている。その他、悪天候の状況での爆撃任務を成功させるなど、パイロットとしての技量は非常に高かった

 

◆不屈の飛行士、アドリア海に散る

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共同交戦空軍仕様のCANT Z.1007"アルチョーネ"三発爆撃機

1943年9月のイタリア休戦の発表の知らせを聞いたディ・パルマは、即座に南イタリアに飛んでピエトロ・バドリオ(Pietro Badoglio)元帥率いるブリンディジ政権(南部王国政府, イタリア王国政府)の「共同交戦空軍(Aeronautica Cobelligerante Italiana)」に合流した。これはやはりディ・パルマ南イタリア出身だったことも大きいだろう。

こうして、1944年2月から、ディ・パルマは共同交戦空軍の第19爆撃飛行隊の指揮を執ることとなった。故郷に近いガラティーナ空軍基地に所属となり、バルカン半島での輸送任務や爆撃任務の指揮を任されたのである。しかし、1944年5月14日の任務は、ディ・パルマにとって最後のフライトとなった。この日、ディ・パルマのZ.1007はバルカン半島でのティトー・パルチザンへの補給任務に従事する予定だった。モンテネグロ北部の町コラシンに向かっていたが、約20機のドイツ空軍のメッサーシュミット Bf 109G編隊に捕捉され、ディ・パルマ機含め5機のZ.1007が撃墜された

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ディ・パルマ大尉が戦死後に叙勲された金勲章(メダリア・ドロ)。

ディ・パルマは絶望的な状況でありながら、部下をパラシュート降下で堕ちる機体から逃がし、自らは最期まで諦めず操縦桿を握り、アドリア海への着水を試みたしかし、ドイツ軍機による損傷は致命的で、着水した機体は破壊され、ディ・パルマは戦死を遂げた。こうして、大戦期を通じて数々の戦果を挙げた名爆撃機乗りは28歳の若さでこの世を去ったのである。その勇気を讃え、後にイタリア軍最高の軍事勲章である、金勲章(メダリア・ドロ)を叙勲されている。その生涯で、彼は金勲章、2度の銀勲章、2度の銅勲章、2度の戦功十字章を叙勲されたのであった。

 

爆撃機パイロットの戦果は戦闘機パイロットの戦果と違ってわかりやすい指標がない(と私は思っている)ので、「勲章」という指標は実にわかりやすくて良い。特に、私のようなにわか空軍好きにとっては「戦果を挙げた爆撃機パイロット」を探すのに非常に役に立った。

 

◆主要参考文献・Web
・Franco Pagliano著, Aviatori italiani 1940-1945, Mursia, 2004
・B.Palmiro Boschesi著, L'ITALIA NELLA II GUERRA MONDIALE, Mondadori, 1975
・Indro Montanelli著, L'Italia delle grandi guerre, BUR Biblioteca Univ. Rizzoli, 2015
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006
吉川和篤著『Benvenuti!知られざるイタリア将兵録【上巻】』イカロス出版・2018

・Donne e Uomini della Resistenza: Cosimo Di Palma
(Associazione Nazionale Partigiani d'Italia, イタリアパルチザン協会の公式サイト)
http://www.anpi.it/donne-e-uomini/678/cosimo-di-palma