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イタリア領アフリカ植民地の行政区分と交通機関(自動車道路Autostradaと鉄道路線Ferrovia)

ファシスト政権期はイタリアの歴史の中でも、特に植民地が成長した時期と言える。北アフリカではオマル・ムフタール(Omar al-Mukhtar)率いるサヌーシー旅団を武力で平定した後(リビア平定)、東アフリカではエチオピア帝国を征服すると、それまでの地域行政区分が改訂されることとなる。リビアではそれまでのトリポリタニアキレナイカフェザーンという伝統的な地域区分が改められ、その三つが統合されてリビア(Libia Italiana)」となった。東アフリカは、エチオピア帝国征服によって、それまでイタリアが保有していたエリトリアソマリアを含めて統合し、イタリア領東アフリカ(Africa Orientale Italiana)」として改組された。

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イタリア領アフリカ植民地の行政区分と交通機関(自動車道路及び鉄道網)早見表。

こうして植民地が安定に向かうと、ファシスト政権はインフラ整備に力を注いだ。都市間の高速移動を可能とする「自動車道路(Autostrada, アウトストラーダ)」の建設を実行する(余談であるが、世界初の高速道路(都市間の自動車専用道路)はイタリアのアウトストラーダである)。これは世界的に見ても驚くべき速度で建設されたが、その一方で両植民地共に鉄道建設は遅れを取り、結果的に他の国のアフリカ植民地と比べても非常に貧弱な鉄道路線しかなかった

今回はそういったイタリア領アフリカ植民地(リビア及び東アフリカ)の行政区分と交通機関について、少し調べてみよう。

 

◆行政区分

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リビア(左)及び東アフリカ(右)の行政区分。リビアは4つの県(Provincia)と1つの軍管区(Territorio Militare)が置かれ、東アフリカには6つの総督府(Governatorato)が設置された。

リビアの行政区分

リビアは元々トリポリタニア(Tripolitania italiana)キレナイカ(Cirenaica italiana)の二つのイタリア植民地が存在し、それに加えてイタリアの支配が及ばないリビア内陸部のフェザーン(Fezzan)が存在した。それがファシスト政権によって平定され、1930年代には完全に征服されるに至った。この結果、1934年にはこのトリポリタニアキレナイカフェザーンの三地域を合併し、「イタリア領リビア(Libia Italiana)」が成立することになる。「リビア」という一つの領域となった三つの地域は、以下に再編された。

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リビア植民地の行政区分。

トリポリ県(Provincia di Tripoli)

県都トリポリ

リビア植民地の首都トリポリを含む県。旧枠組だと、トリポリタニア西部に当たる。

初代リビア総督として赴任した空軍元帥イタロ・バルボ(Italo Balbo)の元で、多くのイタリア人の入植が行われ、首都トリポリを中心としてファシズム建築が多く作られ、数々の国際的なイヴェントが開催されるなど発展した(トリポリ国際見本市、トリポリ・グランプリなどは有名)。軍事的にもリビア植民地の最重要地域(心臓部)と言える。西部はフランス領チュニジアと国境を接している。

県内には5つの地区(Circondario)が存在する(トリポリ地区、ザヴィア地区、メッラーア地区、ナールート地区、ガリアン地区)。

ミズラータ県(Provincia di Misurata)

県都ミズラータ

旧枠組だと、トリポリタニア東部に当たる県。

マグロ漁業で有名なシルテ湾沿岸部の西部を管轄する。トリポリ県と共に、バルボ総督の元で多くのイタリア人が入植し、開拓都市が作られた(多くは農業都市)。県内には3つの地区が存在する(ミズラータ地区、ズリテン地区、オームス地区)。

ベンガジ県(Provincia di Bengasi)

県都ベンガジ

リビア東部最大の都市であり、旧キレナイカ植民地の首都であるベンガジ県都とする県。旧枠組だと、キレナイカ西部に当たる。

シルテ湾沿岸部の東部を管轄。ベンガジはイタリア海軍リビア艦隊の本部が置かれている(ベンガジ制圧後はトリポリに一時的に移動)。県内には3つの地区が存在する(ベンガジ地区、アジェダビア地区、バルチェ地区)。

デルナ県(Provincia di Derna)

県都デルナ

旧枠組だと、キレナイカ東部に当たる県。

英国の支配下にあるエジプトと国境を接しており、第二次世界大戦時は激戦地となった。そのため、戦略的にも重要視されており、イタリア軍の国境要塞も築かれている。トブルクにはリビア艦隊の支部が置かれていた。また、古代遺跡も多く存在するため、考古学的にも重要な地方だった。県内には3つの地区が存在する(デルナ地区、アッポロニーア地区、トブルク地区)。

南部軍管区(Territorio Militare del Sud)

主都:オーン

リビア南部の広大な砂漠地帯を管轄する領域。平定後も軍政下にあり、主都オーンを本部とするイタリア空軍(第26独立サハラ航空隊)が管轄している。旧枠組では、フェザーン及びキレナイカ南部に相当する。

沿岸部の4つの県と比べてインフラが整っておらず、大部分が砂漠ということもあり、重要視されていない。領域的には西部をフランス領アルジェリア、南部をフランス領赤道アフリカ(チャド)、東部をエジプト及びスーダンに接する。広大なサハラ砂漠は防衛が困難であるため、第二次世界大戦時にはサハラ砂漠を越えて侵攻した自由フランス軍(ルクレール大佐指揮)に拠点が制圧された。

エチオピア危機における妥協の結果、フランス領チャドからアオゾウ地帯が、英・エジプト領スーダンからサッラ三角地帯がこの領域に割譲されている。領域内には5つの地区が存在する(オーン地区、ムルズク地区、クフラ地区、ブラーク地区、ガート地区)。

 

◆東アフリカの行政区分

エチオピア征服前のイタリアは、東アフリカにエリトリア(Eritrea italiana)ソマリア(Somalia italiana)の2つの植民地を保有していた。それが、1936年のエチオピア帝国征服によって「イタリア領東アフリカ(Africa Orientale Italiana)」に再編され、征服されたエチオピア領域に加えてエリトリアソマリアも統合、6つの行政区分(総督府)になった。つまりは、エチオピア領は4つに分割されることとなった。

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東アフリカ植民地の行政区分。

ショア総督府(Governatorato dello Scioa)

主都:アディスアベバ

イタリア領東アフリカの首都であり、旧エチオピア帝国の帝都であるアディスアベバを中心とする領域。6つの総督府の中では最も面積が小さいが、アディスアベバを含むため、最も重要な領域である。1936年から1938年までは「アディスアベバ総督府(Governatorato di Addis Abeba)」と呼ばれていた。入植したイタリア人らによって首都近郊にはワイン葡萄の畑を始めとする農場が数多く作られ、これはエチオピアのワイン生産に大きな影響を及ぼした(エチオピアは古代からキリスト教国家であるためワインは作られていたが、儀礼的なものであったために限定的な小規模生産のみだった)。

領域内に分割された地区は存在せず、単一の自治体で統治されている。周囲はアマラ、ガッラ・エ・シダマ、アラールの3つの総督府に囲まれている。

アマラ総督府(Governatorato di Amara)

主都:ゴンダール

エチオピア帝国のかつての帝都であり、エチオピア北西部の主要都市ゴンダールを中心とする領域。しかし、旧エチオピア帝国領北西部をすべて管轄するわけではなく、アクスムやアドゥアを含むティグレ地方はエリトリアに併合されている。

北部と東部はエリトリア、西部はスーダン、南部はアマラとショアに囲まれている。領域内は8つの地区(Commissariato)に分けられている(ゴンダール地区、ベゲメデール地区、デブレ・ベルアーン地区、西ゴッジャム地区、東ゴッジャム地区、ウァグ・ラスタ地区、ウォッロ・イェッジュ地区、ゼミエーン地区)。

ガッラ・エ・シダマ総督府(Governatorato di Galla e Sidama)

主都:ジンマ

エチオピア帝国の版図南部を管轄し、その中心都市であるジンマを中心とする領域。エチオピア帝国による征服で併合された旧イスラーム王朝が存在した地域であるため、ムスリム人口が多く、反エチオピア帝国機運が強い領域。故に、イタリア支配期にはムスリムの懐柔を狙った当局がモスクなどイスラーム建築を建設して優遇している。

西部はスーダン、南部はケニアに接する。計10個の地区が領域内に存在する(ジンマ地区、西部地区、バコ地区、ボラーナ地区、カッファ・エ・ギミッラ地区、グラゲー・エ・カンバッター地区、マジ・エ・シウーロ地区、オメート地区、シダモ地区、ウォッレガ・エ・グンドルー地区)。多民族の領域であるため、主に民族で地区を分けている。

アラール総督府(Governatorato di Harar)

主都:アラール

エチオピア帝国の版図北東部を管轄し、要塞都市アラール(ハラール)を主都とする領域。ジブチアディスアベバ鉄道はこの領域を主に走っている。東アフリカ植民地の中央部に位置するため、見事に全ての植民地と領域を接しており、更に北部はフランス領ソマリランド(ジブチ)と英領ソマリランドに接している。

交通の要衝であるため、軍事的にも重要な領域となっている。領域内には8個の地区が存在する(アラール地区、ディレ・ダウア地区、ジジッガ地区、アルッシ地区、チェルチェル地区、ギミル地区、ゴバ地区、アダーマ地区)。

エリトリア総督府(Governatorato dell'Eritrea)

主都:アスマラ

旧枠組ではエリトリア植民地に当たる。エチオピア征服により、エチオピア北部のティグレ地方を吸収しており、「大エリトリア」を実現している。なお、イタリア語的には発音は「エリトリア」ではなく、「エリトレア」が正しい。

イタリア植民地の中でも特に力が入れられた領域であり、主都アスマラは「ピッコラ・ローマ」と呼ばれ、多くのファシズム建築が作られて発展した。これらのイタリア近代建築はユネスコ世界遺産に登録されている。また、イタリア紅海艦隊の母港マッサワ(マッサウア)を始め、ケレンやアゴルダトなど重要な都市が多い。それらの主要都市を結ぶ鉄道も発展しており、鉄道が貧弱なイタリア植民地では例外的に鉄道が発展した。

1938年までは7個の地区に分けられていたが、1938年以降は12個の地区に再編された(アマジエン地区、低地西部地区、低地東部地区、ケーレン地区、ダンカーリア地区、マッカレー地区、アッケレー・グツァーイ地区、アディグラート地区、パエージ・ガッラ地区、ゼラエー地区、テンビエン地区、西部ティグライ地区)。

ソマリア総督府(Governatorato della Somalia)

主都:モガディシオ

旧枠組ではソマリア植民地に当たる。エチオピア征服により、エチオピア領内のソマリ人居住地域であったオガデン地方を吸収し、「大ソマリア」を実現した(後の第二次世界大戦時には更に英領ソマリランド(北部ソマリア)とケニア北部を併合している)。

エリトリアほどではないが、ファシスト政権期に大きく発展した植民地である。特にアブルッツィ公(Duca degli Abruzzi)による農業開発、デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)によるスルタン国の併合による植民地の拡大が広く知られる。現在においても、ソマリア領内にはファシスト政権期の建築が多く残っている。産業としてはヴィラブルッツィ市の農業や、ダンテ市の大規模塩田が知られ、これらの産業品の輸出港であったモガディシオ港は、非常に大規模であった。

1938年までは8個の地区に分けられていたが、1938年以降は10個の地区に再編された(モガディシオ地区、高地ジュバ地区、低地ジュバ地区、高地シェヴェッリ地区、低地シェヴェッリ地区、ミジュルティニア地区、ムドゥグ地区、オガデン地区、ウエビ・ジェストロ地区、ノガール地区)。これに加え、ヴィラブルッツィ市は独立した自治として扱われている。

 

交通機関

◇自動車道路網

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イタリア植民地の自動車道路網。

イタリア植民地の自動車道路網は非常に発展していた。流石は自動車先進国イタリアと言えよう(「海を見たことがあるイタリア人より、自動車に乗ったことがあるイタリア人の方が多い」と言われていた程、ファシスト政権期のイタリアは自動車が普及していた。もっとも、自家用車は安価な国民車「FIAT 500"トポリーノ"」があったとはいえ敷居が高く、多くの市民はレンタカーを使っていた)。

リビアの場合

リビア沿岸部の大動脈である幹線道路「ヴィア・バルビア(Via Balbia, バルボ通り)」がバルボ総督の指揮のもとで作られた。この幹線道路はチュニジア国境のラス・アジェディールから、エジプト国境のバルディアまでを完全に網羅(約1800km)し、リビア植民地の最重要部分である沿岸部諸都市間の高速移動を可能とした(1937年開通)。後にグラツィアーニ元帥が西部エジプトを征服した際は、このヴィア・バルビアから接続する「ヴィア・デッラ・ヴィットーリア(Via della Vittoria, 勝利の通り)」が敷設されている。沿岸部と比べると貧弱ではあるが、内陸部にも道路網は敷設された。

東アフリカの場合

エチオピア侵攻前の準備段階からエリトリアにおいて建設が開始され、エチオピア制圧後、東アフリカ植民地全土を網羅する自動車道路が一気に敷設された。何万人もの労働者を大量動員して驚くべき速さでこれらの道路の建設が進められ、1936年から1940年初頭までの僅か4年ほどの期間で建設が完了した。最も広く知られているのは、エリトリアの首都アスマラから、アディスアベバを結ぶ「ストラーダ・デッラ・ヴィットーリア(Strada della Vittoria, 勝利の道)」である(1938年開通)。このインフラ整備によって、各総督府の主都間は勿論、各地区の主要都市間の高速移動が可能になった。つまりは、紅海艦隊の母港マッサワから、ソマリアモガディシオまでの自動車での高速移動が可能となったのである。また、市民らの足としては、国営のバス会社による都市間の長距離バス(プルマン)が運用されていた

◇鉄道網

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イタリア植民地の鉄道網。実に貧弱である。

見てわかるように、イタリア植民地における鉄道網は実に貧弱である。これは英国やフランス、更には旧ドイツ帝国の植民地の鉄道網と比べてみても明らかである。これには大きな理由がある。

リビアトリポリタニアキレナイカでは、伊土戦争でオスマン帝国からリビアを奪い取った直後から莫大な資金が投入されて鉄道の敷設が開始されたものの、サヌーシー教団を始めとするリビア人らの抵抗が激しく、建設がイタリアが安定して統治していた狭い領域のみでストップしてしまったためであった。リビア平定後はバルボ総督の元で自動車道路網建設が優先されたために、鉄道網は発展しなかった。結局、開戦後に鉄道の重要性が明らかとなったために建設が進められたが、殆ど進展せずに敗戦を迎えることとなったのである。実に残念。

一方、東アフリカ植民地では、エチオピア支配期間が短い、つまりは東アフリカが統一された期間が短かったために、それぞれの鉄道を繋ぐためには期間が短すぎたためである。しかも、自動車道路建設リビア同様に優先されたことは大きい。個々の鉄道は建設されており、エリトリア各地の主要都市を結ぶエリトリア鉄道(エリトリア鉄道はエリトリア領内の主要都市を網羅していたため、例外的に充実していた)、ヴィッラブルッツィ市の農作物輸送を目的としたソマリア鉄道、そしてエチオピア帝国が敷設したジブチアディスアベバ鉄道を奪い取ったエチオピア鉄道が存在しており、それらを繋げるための時間は足りなかったのである。

リビア鉄道路線

リビアには5つの路線が存在した。3つはトリポリタニアトリポリ近郊、2つはキレナイカベンガジ近郊に敷設されていた。トリポリタニアの路線は首都トリポリを中心に、西部のズアーラ(トリポリ・ズアーラ線)、東部のタジュラ(トリポリ・タジュラ線)、南部のガリアン(トリポリガリアン線)までの路線が存在した。トリポリ・タジュラ線は大戦時にはオームスまでの延伸計画があったが、建設途中で連合軍に制圧されたため、計画は放棄された。トリポリガリアン線はリビア人の反乱激化によって、ガリアン手前の無人領域「ヴェルティーチェ31」でストップしており、この駅からガリアンまでは自動車などでの移動になった。

キレナイカの路線は、首都ベンガジを中心に南部のソルチ(ベンガジ・ソルチ線)、東部のバルチェ(ベンガジ・バルチェ線)までの路線が存在した。ベンガジ・バルチェ線はデルナ経由でトブルクまでの路線が計画されたものの、実現には至らなかった。これらのトリポリタニアキレナイカの路線はリビア統一後も、自動車道路建設が優先されたために発展せず、遂には接続もされずに終わった。第二次世界大戦でこれらの路線は連合軍の侵攻で破壊され、残った路線も非常に摩耗していたことから維持が困難とされ、リビア独立後に放棄されたため、現在リビアに残っている路線は存在しない

東アフリカの鉄道路線

東アフリカ植民地の路線は、先述した通り、エリトリアソマリアエチオピアで別々の路線が存在しており、それぞれ別々の用途で作られていたエリトリアの鉄道はイタリア植民地の鉄道では最も歴史が古く、最初の路線は1888年に敷設されたファシスト政権期に例外的に力が入れられた鉄道でもあり、紅海艦隊の母港である軍港都市マッサワ、古戦場のドガリ、エリトリアの首都アスマラ、主要都市であるケレンとアゴルダトを通り、ビシアまで延伸していた。つまりは、鉄道はエリトリアの主要都市を網羅しており、これは鉄道が貧弱であったイタリア植民地では珍しい例だった。スーダン国境都市のテッセネイまでの延伸計画があったが、建設が間に合わず手前のビシアまでで延伸は中止となっている。第二次世界大戦時に連合軍の侵攻でこれらの鉄道路線は破壊されて廃止されたが、エリトリア独立後、マッサワ-アスマラ間の鉄道を再建して復活させており、現状で世界で唯一現役で使われているイタリア植民地時代の鉄道となっている

ソマリアの鉄道は首都モガディシオと農業都市ヴィッラブルッツィ(現ジョハール)を結ぶ路線のみであったが、これはヴィッラブルッツィ市で生産された農作物をモガディシオ港に輸送する、という目的のために造られた鉄道だったからである。つまりは、農作物の輸送のためだけに作られた鉄道であった。そのため、農作物の大量輸送以外の用途には向かなかった。第二次世界大戦時に連合軍の侵攻で破壊され、戦後にソマリアがイタリアの信託統治下に戻った後も再建されなかったため、現存していない。なお、残った車輛はエリトリアに引き渡され、現在も現役で使われてる。

エチオピアの鉄道はイタリアが作ったものではなく、完全にエチオピア帝国が敷設したものを奪い取ったものであった。路線は首都アディスアベバから、フランス領ソマリランドジブチ港を結んでいた。皮肉なことに、イタリアが保有した植民地鉄道の中では最も長い区間だった(約800km)。元々イタリアが敷設した鉄道ではないため、その他のイタリア植民地の鉄道とは規格が違っている。東アフリカ植民地(エチオピア)内の区間アディスアベバ-デウェレ間の約700kmで、これにジブチ領内の約100kmの区間が追加される。東アフリカ戦線終結後、再度エチオピア帝国の手に戻り、現在も現役の主要路線として使われている。数年前に中国の出資で新しい路線になったため、見違えるような最新の路線が走っているそうだ。

 

第二次世界大戦時の植民地の成長

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第二次世界大戦時のイタリア植民地の最大領域。

一応、第二次世界大戦時に一時的にイタリア領のアフリカ植民地は更に拡大し、歴史的な最大版図を手に入れた。とはいえ、結局イタリアは敗北するため、あくまで一時的な領有であったこともあり、殆ど統治らしい統治はされておらず、軍政のままである。あえて例を挙げるならば、スーダンのカッサラー市の公共建築(「エリトリア独立の父」と呼ばれるハミド・イドリース・アワテ(Hamid Idris Awate)も同市の占領軍副司令官として統治に深く関わった)、ソマリランドのベルベラ港の修復工事、リビアからエジプト領内に向かうヴィア・デッラ・ヴィットーリアなどの建設が存在する。

具体的にはイタリア領リビアチュニジア(フランス領)、エジプト西部(英国支配下の形式上独立国)、アオゾウ地帯(フランス領赤道アフリカ(チャド)の一部)を領有した(そのため、「イタリア領北アフリカ(Africa Settentrionale Italiana)」と便宜上呼ばれている)。東アフリカは英領ソマリランド、仏領ソマリランド国境地帯、スーダン南東部、ケニア北部を領有し、更にジブチ港の使用権を得ている

これらの一連の拡大は、後に植民地が独立すると、「大〇〇主義」としての膨張主義の土壌を作り、戦争の原因に繋がったと言える。具体的には以下の通り。

エリトリアの場合

エリトリアエチオピアの国境紛争

:植民地時代にエリトリアエチオピア北部を領有

(エチオピア戦争後のイタリア領東アフリカ成立後)

エリトリアジブチの国境紛争

:植民地時代にエリトリアジブチ国境を領有

(ムッソリーニ・ラヴァル協定及び第二次世界大戦時)

エリトリアとイエメンの領土紛争(ハニーシュ群島紛争)

:植民地時代にエリトリアはハニーシュ群島を保有

ソマリアの場合

ソマリアエチオピアの国境紛争(オガデン戦争)

:植民地時代にソマリアエチオピア東部のオガデン地方を領有

(エチオピア戦争後のイタリア領東アフリカ成立後)

ソマリアケニアの国境紛争

:植民地時代にソマリアケニア北部を領有

(第二次世界大戦時)

リビアの場合

リビアとチャドの国境紛争(所謂「トヨタ戦争」)

:植民地時代にリビアはチャド北部のアオゾウ地帯を領有

(ムッソリーニ・ラヴァル協定)

これらのことから、植民地独立後の紛争の原因の一つとして、イタリアの植民地支配時の「記憶」というのは必ずしも無いとは言い切れないだろう。