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エリトリア旅行の最終日程と、行く予定の街の紹介

さて、今回のブログ更新は来週に迫ったエリトリア旅行で行く予定の街を紹介します。前回のブログ更新でざっと当初の予定をまとめましたが、12/6にはアスマラから日帰りでアゴルダトに行くことにしたので、そこだけ予定変更という感じです。ただ、アゴルダトはアスマラ、マッサワ、ケレンとは異なり観光情報が殆ど無いので、日帰りで行けるかどうかは現地での車のチャーター状況次第、という感じになると思います(多分バスで行ったら一泊せざるを得ないため)。

 

associazione.hatenablog.com

 

というわけで、修正版の旅行予定地図は以下の通り。

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エリトリア旅行計画:最終日程

予定滞在日を簡略に纏めると以下の通りです。町のちょっとした紹介もします。

エリトリア:滞在日12/11~12/17

アスマラ(Asmara)

滞在日12/11, 12/12, 12/14, 12/15, 12/16, 12/17

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アスマラのイメージ写真。

エリトリアの首都で、中央州(マアカル地方)の州都。かつてファシスト政権期には「ピッコラ・ローマ(Piccola Roma)」と呼ばれ、ファシスト政権期らしいイタリア合理主義建築群(よくモダニズム建築、アール・デコ建築とも呼ばれる)が素晴らしい保存状態で維持されています。2017年にはそれらのイタリア建築群はアスマラ近代主義的アフリカ都市」という名前でUNESCO世界文化遺産に登録され、エリトリア国内初の世界遺産登録に成功しました。

イタリアがエリトリアを植民地化した後、1897年に首都機能をマッサワから移したことによってエリトリアの首都になりました。1911年にはマッサワと鉄道で繋がれ、この鉄道は第二次世界大戦を経て独立戦争期に廃止されましたが、エリトリア独立後に再建が進められ、2003年に全線が再開通しています。標高2350mの高地に位置するアスマラは年間の平均気温が17度で、過ごしやすい気候です(ただ、標高の低い場所に住む日本人からすると高山病になってしまう人が多いとか)。

エリトリアに入国する場合、大多数の人はアスマラの国際空港を利用するため、アスマラが最初に訪れる町になるでしょう。

 

◆マッサワ(Massawa)

:滞在日12/12, 12/13

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マッサワのイメージ写真。

紅海沿岸部の街、マッサワエリトリア最大の港湾都市であり、北紅海州(セメナウィ・ケイバハリ地方)の州都です。かつて「紅海の真珠」と謳われた古都で、古くから紅海の要衝として栄えました。エジプト支配下にありましたが、1885年にイタリアが上陸し、アッサブに続いてマッサワを拠点とします。こうして、エリトリア植民地初の首都になりました(エリトリア初の拠点はアッサブですが、植民地成立宣言後の初の首都はマッサワ)。現在はエリトリア最大の港町、そしてエリトリア海軍の軍港です。

イタリア植民地時代にはエリトリア第二の都市として栄え、イタリア海軍の紅海艦隊の母港も置かれました第二次世界大戦時のマッサワ包囲戦の結果、沈んだイタリア海軍の軍艦(おそらくは水雷艇アチェルビ」)が現在も沖合に見ることが出来ます。マッサワを含む紅海は非常に透明度が高いことで知られ、ダイビングスポットとして人気。ダフラク諸島への船の出発地としても知られています。

エチオピアエリトリアを支配していた頃は、内陸国エチオピアにとってアッサブと並び重要な港町であったため、独立戦争時には激戦地になりました。そのため、美しい旧市街はエチオピア空軍の爆撃の結果、多くの建物が破壊されてしまいました。紅海沿岸らしく、夏には40度を超す高温になります。また、高地のアスマラやケレンとは異なり、低地にあるためマラリア対策も必須です。

 

◆ケレン(Keren)

:滞在日12/13, 12/14

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ケレンのイメージ写真。

「市場の街」として知られる、現在のエリトリア第二の都市アンセバ地方の州都1923年に首都アスマラとの鉄道が開通したことで著しい発展を遂げました。独立戦争期に鉄道は廃止されてしまいましたが、現在鉄道の復旧事業が進められています。ケレンの名は「高原」を意味し、アスマラと同様に高原地帯に位置するため年間を通して過ごしやすい気候といわれています。交通の要衝であることから、エリトリアの中でも特に言語や宗教の構成が複雑なことで知られ、エリトリア唯一のアガウ諸語であるビレン語を使うビレン人もケレン周辺にのみ住んでいます。

市場都市として物資が集積することでも知られ、現在でもラクダ市が開かれています。今でも自動車よりラクダの数の方が多い、とも言われています。アスマラ同様に良い保存状態でイタリア植民地時代の建築が残っているのも町の観光の見所になっています。また、ケレンの名は第二次世界大戦時の東アフリカ戦線最大の激戦地として記憶されており、郊外にはイタリア人墓地や連合軍墓地があります。

 

アゴルダト(Agordat)

:滞在日12/16

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アゴルダトのイメージ写真。

ケレンからやや南西に行った場所にある都市かつてはバルカ州の州都でしたが、地方区分の再編でガシュ・バルカ地方が創設されたために州都の座をバレントゥに引き渡すこととなりました。1928年にはケレンから鉄道が延伸され、ケレンと共に鉄道を中心として経済的に発展した町になりました。イタリア植民地時代にはアスマラ、マッサワ、アッサブ、ケレンと共に重要な都市とされていましたが、州都機能の移転もあり、人口的には上位の都市ではなくなりました。ですが、周辺が肥沃な大地であることから農業の街として重要な役割を持ち、また市場の街としても知られています。

第二次世界大戦時にはケレン同様に東アフリカ戦線の激戦地になりました。特にこの戦いではアメデオ・グイレット大尉率いるアムハラ騎兵隊が活躍し、「英軍戦車を騎兵が撃破する」という、東部戦線のイスブシェンスキの突撃と並ぶ「イタリア軍騎兵の活躍エピソード」として知られています。市内には大戦で死亡したイタリア人のモニュメントが戦後に作られました。

 

ドガリ(Dogali)

:滞在日12/12

マッサワから15kmの地点にある町。小さな町ですが、1887年に発生した「ドガリの戦い」で知られることとなった古戦場として有名です。現在、モニュメントや墓所が残っているそうです。1888年にマッサワからサアティまで作られた軍事鉄道の中継駅も作られ、その後、マッサワからアスマラに伸びる鉄道の中継駅も同様に作られました。

一般に観光地とはされていませんが、マッサワに向かう途中で途中下車して寄る予定です。

 

◆ネファジット(Nefasit)

:滞在日12/15

アスマラから30km程度の距離に位置する町。高原地帯に位置し、デブレ・ビゼンの山岳僧院があることで知られています。アスマラからの観光列車の停車駅として知られており、毎週日曜にアスマラからネファジットまでの往復観光列車が運行しています。鉄道に乗って往復するだけなので多分、町自体には寄りません。

 

エチオピア:滞在日12/11, 12/17

アディスアベバ(Addis Ababa)

:滞在日12/11, 12/17

エチオピアの首都。今回の旅のメインはエリトリアですが、トランジットで利用するのでついでにアディスアベバで半日観光もする予定です。