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地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1941年の海戦:エーゲ海の激戦、そして"勝利の年"―

前回の続きで、今回は1941年の地中海の海戦を扱う。前年末に海軍首脳部が大改造され、リッカルディ提督率いる新指導部のもとで新たな戦いが始まった(前年度の戦いは下記リンクより過去記事を参照してください)。1941年はイタリア海軍の戦いを象徴するような戦いも多く、調べていても中々面白いだろう。一進一退の戦いを繰り広げていた伊英海軍であったが、1941年末には英海軍側は地中海戦線のイニシヤチブをイタリア海軍に奪われ、まさに英海軍にとっては悲劇の年になった。

1941年の海戦はざっくり言うと、前半は陸軍のギリシャ戦線に伴い、エーゲ海で激戦が繰り広げられ後半は北アフリカ戦線の熱が高まるにつれて「船団の戦い」が本格化し、戦場が中央地中海に移る。1941年の著名な戦いと言えば、何と言ってもマタパン岬の大敗と、アレクサンドリア港攻撃の成功だろう。前者はイタリア海軍の「欠点」を集めたような戦い、後者はイタリア海軍の真骨頂ともいえる戦いだ。勿論それだけでなく、イタリア海軍が勝利を収めた戦いも多い。

前回の記事はこちら↓

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 前々回の記事はこちら↓

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 ◆1941年:舞台はエーゲ海

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1940年の地中海の主要な海戦。前半は主にエーゲ海方面、後半は中央地中海が戦場となった。

前年度末の1940年12月8日に海軍指導部の大改造によって、海軍参謀長はアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督、海軍参謀次長には前第一艦隊司令官のイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督、そして第一艦隊と第二艦隊を合併した主力艦隊司令官にはアンジェロ・イアキーノ(Angelo Iachino)提督が就任した。

新参謀長であるリッカルディ提督は隊司令官の裁量権を増やし、臨機応変な戦い方を可能にした一方で、「艦隊の損失を防ぐために明確に数的有利な状況でなければ敵艦隊との交戦を回避するように」という命令を発した。一方で、今まで順調だった陸軍の戦況も、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ(Sebastiano Visconti Prasca)将軍による無策なギリシャ攻勢の失敗と、アフリカ戦線における英軍の反攻作戦によって崩れつつあった。イタリア軍部は北アフリカ戦線よりもギリシャ戦線を重視したため、海軍の行動もそれに影響を受けた。これにより、戦場はエーゲ海方面へと移った

 

■1月31日:カソス海峡海戦

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1941年1月31日:カソス海峡海戦

1940年6月のイタリア参戦時、ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるイタリア海軍エーゲ海方面艦隊の戦力は、非常に限られたものであった。駆逐艦2隻(「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」)、水雷艇4隻(「ルーポ」「リブラ」「リンチェ」「リブラ」)、MAS艇5隻、潜水艦8隻(「スクァーロ」「デルフィーノ」「トリケーコ」「ナルヴァーロ」「アメジスタ」「ザッフィーロ」「イアレア」「イアンティーナ」)、機雷敷設艦2隻(「レニャーノ」「レーロ」)、砲艦3隻(「チェレーレ」「カボト」「ソンツィーニ」)で構成されていた。

明らかな戦力不足であったが、エーゲ海艦隊は東地中海を勢力圏とする英海軍やギリシャにとって脅威となっていた。ギリシャ海軍は中小国の中では強い海軍力を持っていたが、イタリア艦隊を恐れて潜水艦を除いて殆ど出撃しなかった(結果として航空攻撃で撃沈される艦艇が多くを占めていた)。そのため、エーゲ海艦隊の主要敵はギリシャ海軍ではなく、ギリシャを支援する英海軍となった。英軍によるギリシャ支援船団は、ギリシャ侵攻中のイタリア軍にとって邪魔以外の何物でもなかったのである。年明けに戦場が東地中海に移動することによって、エーゲ海艦隊の行動も活発化した。

ビアンケーリ提督は水雷艇「ルーポ」及び「リブラ」をカソス海峡に派遣し、対潜水艦哨戒を行わせていた。この2隻の旧式水雷艇戦隊の司令官はフランチェスコ・ミンベッリ(Francesco Mimbelli)少佐で、彼は後に第二次世界大戦時のイタリア海軍の指揮官の中でも特に優れた人物の一人として名を挙げている。彼の最初の活躍が、この「カソス海峡海戦」であった。一方、英海軍はギリシャ支援船団「AN14」をギリシャに向けて派遣した。これは計10隻の輸送船で構成され、この輸送船団を軽巡カルカッタ」を旗艦とし、軽巡3隻(「カルカッタ」「エイジャックス」「パース」)、駆逐艦2隻コルベット2隻から成る艦隊で護衛していた。この英船団はハーバート・アネスリー・パッカー提督(Herbert Annesley Packer)が指揮した。

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イタリア水雷艇「ルーポ」

輸送船団の大部分は1月28日からエジプトのポートサイードから出港し、軽巡カルカッタ」及びコルベット「ピオニー」、輸送船2隻は1月29日アレクサンドリアから出港、そこから少し遅れてギリシャ派遣英軍部隊の兵員輸送船と駆逐艦「ヘイスティ」がアレクサンドリア港から出港、これに合流した。一方、ミンベッリ少佐が指揮するイタリア水雷戦隊は1月31日レーロ基地を出発し、カソス海峡に向かった。

同日夕方、カソス海峡にてイタリア水雷戦隊は英船団を発見した。ミンベッリ少佐は「ルーポ」と「リブラ」を二手に分け、「リブラ」が英船団の注意をひいている隙に、「ルーポ」が船団への雷撃を行うこととした。これは見事に成功し、「ルーポ」は雷撃を行い、魚雷二発が輸送船団のタンカー「デスモーレア」に命中「デスモーレア」は爆沈した。一方で、「リブラ」も英巡洋艦隊に対して雷撃を行ったが、これは回避されてしまった。攻撃の後、「ルーポ」と「リブラ」は英艦隊の追撃を振り切り離脱。無傷でレーロ基地への帰港を成功させたのであった。

この海戦においてイタリア側はミンベッリ少佐の巧みな指揮により、旧式の水雷艇2隻のみで、物量も戦力も格上の巡洋艦隊が護送する船団の攻撃に成功し、一方的な勝利を無傷で手に入れたのである。エーゲ海方面の海軍作戦の幸先の良いスタートとなった。

 

■2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

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2月27日-28日:カステルロッソ島奪還戦

カソス海峡海戦後、今度はイタリア潜水艦隊がエーゲ海で輸送船団を攻撃し、戦果を挙げていた。また、空軍の輸送船団攻撃も強化され、特にカルロ・エマヌエーレ・ブスカーリア(Carlo Emanuele Buscaglia)を始めとする雷撃機乗りや、ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)やフェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Marvezzi)といった急降下爆撃機乗りが数多くの戦果を挙げていった。エットレ・ムーティ(Ettore Muti)率いる爆撃機部隊もローディ島を拠点としてキプロスパレスチナといった東地中海の英軍拠点への爆撃を度々敢行し(特にハイファの石油精製所への爆撃は脅威であった)、更にはペルシャ湾油田への長距離戦略爆撃さえも実行してみせていた。

1月11日にはマルヴェッツィとその僚機であるジャンピエロ・クレスピ軍曹(Giampiero Crespi)とマッツェイ曹長(Sergente Maggiore Mazzei)が英軽巡サウサンプトン」を250kg爆弾を急降下爆撃で次々と命中させ、撃沈させたのであった。チェンニも新たに編み出した新戦術「スキップ爆撃(反跳爆撃)」を用いてギリシャ艦艇を次々と撃沈することに成功し、これを受けたギリシャ海軍側は「雷撃を受けた」と勘違いした程であった。ブスカーリアも軽巡「ケント」、軽巡グラスゴー」、そして空母「イラストリアス」といった英海軍の主要な艦艇を次々と雷撃することに成功し、大きな損害を与えた。これらのイタリア空軍部隊に加え、支援空軍として派遣されたドイツ空軍部隊も大きな役割を果たした。

一方、英海軍は陸軍によるコンパス作戦の成功を受けて、脅威となっていたエーゲ海方面のイタリア軍の無力化を望んだ。ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は小規模であるが脅威であることは変わらず、それに加えて空軍部隊は英軍にとって大きな脅威だったことが理由である。そのための橋頭保としてエーゲ海諸島東端のカステルロッソ島の制圧を計画した。チャーチルは同盟国たるギリシャ、そして中立国であるトルコとの間に摩擦を引き起こすと考えた(特にトルコ沿岸から僅か3kmの距離だったため)ため作戦には乗り気ではなかったが、カンニンガム提督の強い要請により作戦は実行されることとなった。カンニンガム提督は同地域のイタリア軍部隊の戦力を過小評価し、カステルロッソ島はローディ島から約130kmの距離にあるため、イタリア側は有効な対応が出来ないと予測していた。

2月24日、英海軍は計200名のコマンド部隊駆逐艦「デコイ」及び「ヘレワード」に乗艦させ、また24名の海兵隊を砲艦「レディバード」に乗艦させ出発した。その後、増援部隊として軽巡「パース」及び「ボナヴェンチャー」の護衛のもとで、武装商船「ロザウラ」に約150名の兵士を派遣した。潜水艦「パーシアン」は哨戒により、カステルロッソ島の守備隊が僅かな戦力であることを確認し、2月25日の夜明け前に英海軍はカステルロッソ島への強襲上陸を行った。約40名程度のイタリア軍守備隊は雑多な兵器しか持たずに有効な抵抗が出来なかったが、降伏前に近隣の島やローディ島の本部に英軍の襲撃を連絡していた。こうして、カステルロッソ島は英軍に制圧された。英軍による制圧戦により、イタリア軍側は戦死6名、負傷7名、捕虜35名を出した

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イタリア駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」

カステルロッソ島からの連絡を受けたビアンケーリ提督は迅速に同島への奪還を命じた。まず、空軍への派遣要請を行った。ローディ島のイタリア空軍部隊は直ちにカステルロッソ島の英軍部隊への攻撃作戦のため、FIAT CR.42戦闘機の護衛のもと、サヴォイアマルケッティSM.81爆撃機を派遣。英軍の上陸から数時間も経たないうちに、空軍部隊はカステルロッソ島の英軍部隊を強襲し、爆撃によって砲艦「レディバード」が損傷、数名の船員が負傷した。燃料が不足していた「レディバード」は海兵隊員24名を再度乗船させ、ハイファに撤退した。

翌日の2月26日の日没後、ビアンケーリ提督は反撃を開始した。派遣された水雷艇「ルーポ」及び「リンチェ」は英軍部隊に対して攻撃を実行。これにより、コマンド兵3名が戦死、7名が負傷した。一方で、港に集まった民間人らをイタリア海軍は救出し、これを避難させることに成功した。続いて、2月27日の夜明けにビアンケーリ提督はカステルロッソ島への上陸作戦を実行する。水雷艇「ルーポ」「リンチェ」に加え、ビアンケーリ提督は増援として駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」「クィンティーノ・セッラ」MAS艇「MAS 546」及び「MAS 561」を派遣し、同時に258名の陸軍兵士と80名のサン・マルコ海兵がカステルロッソ島に上陸を開始。英艦隊はイタリア軍の上陸を阻止しようとするが失敗し、英軍部隊は伊軍陸戦部隊の攻撃と、空軍による爆撃、伊艦隊からの砲撃に圧倒され、疲弊していった。アレクサンドリア港から増援部隊を載せた駆逐艦「ヒーロー」及び「ジャガー」が派遣されるも、最早戦線を維持することは出来ないと判断され、英軍はカステルロッソ島からの撤退を決定した。

英艦隊は上陸部隊の回収を行ったが、伊軍の攻撃によって回収が間に合わず、20名が取り残されて伊軍の捕虜となった。撤退中に英駆逐艦ジャガー」は駆逐艦「クリスピ」の砲撃を受け損傷、更に「クリスピ」は雷撃を行ったが、「ジャガー」は回避することに成功。一方で「ジャガー」も反撃を行ったが命中しなかった。辛うじて英艦隊は撤退し、英軍によるカステルロッソ島制圧作戦は完全な失敗に終わったのであった。

英海軍側はイタリア軍の戦力を過小評価していたことを改めなくてはならなくなり、エーゲ海方面のイタリア軍の反応の速さに驚いた。結局、英軍はエーゲ海諸島部におけるイタリア軍の防御の堅牢さを認識し、その後イタリアの休戦に至るまでエーゲ海諸島への上陸作戦は実行しなかった。一方で、この大勝利を演出したビアンケーリ提督は賞賛され、三度目の戦功銀勲章、サヴォイア軍事勲章を叙勲されたのであった。

 

■3月25日:スダ湾襲撃

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3月25日:スダ湾襲撃

クレタ島のスダ湾は天然の良港であり、ギリシャ軍の基地が置かれていた。ギリシャ参戦後、英海軍はスダ湾を基地として活用しており、 先のカステルロッソ島の奪還作戦によって英海軍側の出鼻を挫くことに成功したエーゲ海隊司令官のビアンケーリ提督は、スダ湾を攻撃して英海軍に打撃を与え、エーゲ海方面の制海権確保を望んだ。

こうして、スダ湾への襲撃作戦が計画された。航空偵察によってスダ湾には多くの海軍艦艇が確認されたため、実行が開始された。この作戦には海軍特殊部隊の「デチマ・マス」が投入された。これはイタリア海軍が「小型艇による特殊攻撃」のために創設した部隊で、SLC人間魚雷「マイアーレ」やMTM爆装艇「バルキーノ」といった特殊装備による敵泊地攻撃を主任務とした。イタリア側がこれに拘った理由は先の大戦において、MAS艇がオーストリア戦艦「スツェント・イストファン」の撃沈や墺軍港への一方的名奇襲攻撃を成功させたり、試作型人間魚雷が戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させることに成功していたからであった。

この作戦で使われた機材はMTM爆装艇「バルキーノ」である。これはスポレート侯アイモーネ提督の肝煎りで開発された対艦攻撃用の自爆艇で、最大時速30ノット以上、航続距離130km以上のスペックを持った。自爆艇というと、自らの命を犠牲に敵艦に突っ込む、日本軍の「震洋」をイメージするかもしれない。しかし、このバルキーノ」は脱出装置が付いているため、特殊部隊員が死亡することはない(敵に攻撃されてしまったら意味がないが)。つまり、敵艦に突撃する直前に脱出し、爆発の衝撃波をやり過ごて離脱する、という戦術を取った。そのため、かなり危険な任務であり、訓練も苛酷なものであった。とはいえ、この兵器でイタリア海軍は戦果を挙げ、戦後もイスラエル海軍が中東戦争で活用してエジプト海軍の旗艦を撃沈することに成功している。

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重巡「ヨーク」

3月25日の深夜駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」及び「クィンティーノ・セッラ」それぞれ3隻ずつMTM艇を搭載し、レーロ基地を出発。MTM艇の乗員はそれぞれ1人ずつであるため、「デチマ・マス」の操縦手が6人参加した。これらのMTM艇戦隊を「デチマ・マス」のルイージ・ファッジョーニ中尉(Luigi Faggioni)が指揮した。深夜23時半にスダ湾の湾外にて「クリスピ」及び「セッラ」からMTM艇6隻が発信し、スダ湾の湾内に高速で侵入した。湾内には三重の防御網が敷かれていたが、MTM艇戦隊はこれを突破し、港内に突入。6隻のMTM艇は停泊中の英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」を攻撃し、これを撃沈することに成功したのである。

6人の操縦手たちは英軍の攻撃や爆撃に巻き込まれることなく無事で、英海軍部隊の捕虜となった。英海軍側はこの攻撃を受けた時、空襲を受けたと勘違いして上空に対空砲火を行っている。当然であるが、上空にイタリア機はいなかった。MTM艇によって撃沈された重巡「ヨーク」は昨年のパッセロ岬沖海戦でイタリア駆逐艦「アルティリエーレ」を撃沈していたため、この攻撃は「アルティリエーレ」の仇討ちとなった。

このスダ湾攻撃は「デチマ・マス」にとって初の成功となった。そして、第二次世界大戦時のイタリア海軍による、初の敵泊地攻撃にもなった。MTM艇の操縦手6名は全員が金勲章を叙勲され、英海軍側のエーゲ海制海権にも大きな打撃を与えることに成功したのであった。しかし、このイタリア海軍による大勝利は英海軍側も強く受け止め、港湾襲撃に備えて各地の港湾の警戒態勢を強化することとなり、イタリア軍にとっては今後の港湾襲撃は一層難しいものとなってしまった。

 

■3月28日:マタパン岬沖海戦

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3月28日:マタパン岬沖海戦

年明けからの3カ月間、イタリア海軍はエーゲ海における戦いで英海軍相手に連戦連勝を重ねたが、英海軍側は2月に以前のフランス海軍同様にジェノヴァを砲撃しこれに対抗した。エーゲ海方面においてはイタリア海軍が勝利を重ねて戦局を有利に進めていた一方で、依然として英海軍による脅威は去っていなかった。2月にリッカルディ海軍参謀長はドイツ海軍のレーダー提督と初会談し、ドイツ海軍は英艦隊のギリシャへの航行に打撃を与えるため、主力艦隊の出動を提案していた。

3月19日、ドイツ海軍は再度イタリア側に主力艦隊の出動要請を出した。ドイツ海軍はイタリア海軍エーゲ海艦隊の連続の勝利によって、東部地中海方面において英海軍部隊は劣勢であると判断し、ここで主力艦隊を出撃して英艦隊を撃破することで、ギリシャ船団輸送を完全に停止させることが出来ると主張した。これを受け、スーペルマリーナはドイツ側の要請を受諾し、エーゲ海方面への主力艦隊の派遣を決定したのであった。主力艦隊の派遣には乗り気ではなかったスーペルマリーナであるが、イアキーノ提督もマタパン岬の海戦は「海軍史上に輝かしい1ページを飾るもの」として期待していたのであった。しかし、それは悪い意味で裏切られることとなった。

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イタリア重巡「ザラ」

3月25日戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を旗艦とするイアキーノ艦隊はナポリから出発した。これは戦艦1隻(「ヴィットリオ・ヴェネト」)、軽巡2隻(「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦10隻で構成された。これにターラントから出発したカルロ・カッターネオ提督(Carlo Cattaneo)率いる第一巡洋戦隊、メッシーナから出発したルイージ・サンソネッティ提督(Luigi Sansonetti)提督率いる第三巡洋戦隊が合流した。第一巡洋戦隊は重巡3隻(「ザラ」「ポーラ」「フィウーメ」)、第三巡洋戦隊は重巡3隻(「トリエステ」「トレント」「ボルツァーノ」)と駆逐艦3隻でそれぞれ構成されていた。合流した艦隊はギリシャの作戦海域に向かっていた

他方、英国海軍のカンニンガム提督は通信傍受によってイタリア艦隊の派遣を知った。このため、ギリシャへの輸送船団の航行を中止、イタリア艦隊との戦闘のために戦艦「ウォースパイト」を旗艦とするA戦隊をアレクサンドリア港から出発させた。この艦隊は戦艦3隻(「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」)、空母1隻(「フォーミダブル」)、駆逐艦9隻で構成されていた。また、ウィッペル提督率いるB戦隊がピレウスから出港し、こちらは軽巡「オライオン」を旗艦とし、軽巡4隻(「オライオン」「エイジャックス」「グロスター」「パース」)、駆逐艦4隻で構成された。更に駆逐艦3隻から成るD戦隊もこれに合流し、ギリシャ南方海域のガウード島沖にて合流する計画を立てていた。

ドイツ側の情報提供により、英艦隊の主力艦は戦艦「ヴァリアント」1隻のみで、空母は不在であるとされていた。しかし、この事前情報は誤りで、実際の英艦隊の戦力は戦艦3隻、空母1隻と一大戦力となっていた。この誤りは戦局に大きな影響を与えることとなった3月28日未明、「ヴィットリオ・ヴェネト」はウィッペル提督率いるB戦隊を発見した。これを受け、イアキーノ提督はサンソネッティ提督率いる第三巡洋戦隊にB戦隊の追撃を命令した。これを受け、ウィッペル提督はカンニンガム提督率いるA戦隊にイアキーノの主力艦隊を引き付けるため、攻撃を逃れる作戦に出た。距離が遠すぎたためにイタリア艦隊はB戦隊に有効な攻撃を与えることが出来ず「ヴィットリオ・ヴェネト」の砲撃で軽巡「オライオン」が小破したのみであった。

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英空母「フォーミダブル」

砲撃戦の最中、9時38分にA戦隊の空母「フォーミダブル」はフェアリーアルバコア雷撃機6機を発進させた。一度目の攻撃はイタリア艦隊の対空砲火によって雷撃機は撃退された。しかし、雷撃機からの襲撃を受けイタリア艦隊はB戦隊への追撃を一旦中止した。その後、15時9分に二度目の攻撃が行われ、1機の雷撃機が対空砲火で撃墜される直前に魚雷を発射し、見事「ヴィットリオ・ヴェネト」に命中。プリエーゼ式水雷防御の効果もあり、雷撃のダメージが軽減されて自力航行は可能ではあったが、左舷後部が大きな損害を受け、速力を落とさざるを得なくなった。「ヴィットリオ・ヴェネト」の損害を聞いたカンニンガム提督は、イタリア艦隊の追撃を決定した。

夜間19時半頃、イタリア艦隊は三度目の攻撃を受けた。6機のアルバコア雷撃機と4機のソードフィッシュ雷撃機が来襲し、重巡「ポーラ」に雷撃が命中した。これにより、「ポーラ」は立ち往生したため、イアキーノ提督はカッターネオ提督に「ポーラ」の救援に向かうように命令した。カッターネオ提督率いる第一巡洋戦隊の重巡「ザラ」「フィウーメ」、駆逐艦4隻は「ポーラ」の救援に向かったが、これは悲劇の始まりだった。イタリア海軍最大の悪夢、マタパン岬沖の夜戦である。

夜20時15分、軽巡「オライオン」はレーダーで「ポーラ」の存在を確認した。戦艦「ヴァリアント」は「ポーラ」の救援に向かう残りの第一巡洋戦隊をレーダーによって捕捉したが、一方のイタリア第一巡洋戦隊はレーダーを搭載していなかったため、闇の中で敵を発見することは出来なかった。「ザラ」は夜22時20分にカンニンガム提督率いる英艦隊主力を発見したが、カッターネオ提督はこれをイタリア艦隊だと勘違いしてしまった。そんな中で、英艦隊の探照灯は第一巡洋戦隊を照らし出し、戦艦「ウォースパイト」「バーラム」「ヴァリアント」の3隻を含む艦隊は十字砲火を浴びせ、「ザラ」と「フィウーメ」は成すすべもなく撃沈されたのである。「フィウーメ」は砲撃で撃沈され、「ザラ」は最終的に駆逐艦ジャーヴィス」の雷撃で沈んだ駆逐艦「アルフィエーリ」「カルドゥッチ」も撃沈され、最後に「ポーラ」が雷撃で撃沈された。残る2隻の駆逐艦「ジョベルティ」及び「オリアーニ」は何とか戦線を離脱したが、この一連の夜戦によって重巡3隻・駆逐艦2隻が混乱の中の奇襲で一気に撃沈され、乗員数4000人の内3000人が戦死(司令官であるカッターネオ提督も戦死)するという、悲惨極まる大敗北を経験することとなったのであった。

この大敗北を受けて、ギリシャが完全に陥落するまでの間、エーゲ海艦隊や潜水艦隊を除いてイタリア艦隊は東地中海に進出することを中止した。マタパン岬沖の敗北は、イタリア艦隊の「欠点」を煮詰めたようなものであった。まず、イタリア艦隊はレーダーを持っていなかったことにより、夜間の戦闘において圧倒的に不利となった。イタリア艦隊はパッセロ岬沖海戦で既にそれを経験していたが、この時はまだ「英海軍はレーダーを持っているのではないか?」という予測に過ぎず、今回の夜間奇襲によって完全にそれは確信に繋がった。リッカルディ提督はレーダー開発計画を再開させたが、結局量産化されるのは1942年にまでずれ込むこととなった。同時に夜間戦闘に関するノウハウも圧倒的にイタリア艦隊は不足していた点も指摘された。

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イタリア空母「アクィラ」

また、例によって例の如く、今までの海戦同様にイタリア側は航空偵察と航空支援、艦隊の防空戦力が不足していた。すなわち、空軍との連携不足である。また、これに伴い、空軍の陸上基地だけでは艦隊の行動を支援することは不可能であると判断され、ムッソリーニも「イタリア半島不沈空母論」を放棄せざるを得なくなった。結果として、海軍は空軍の反対で実現出来ていなかった空母建造をようやく開始することが出来たが、こうして建造が開始された2隻の空母(「アクィラ」と「スパルヴィエロ」)は休戦までには完成しなかった

ただ、海戦におけるプリエーゼ式水雷防御の効果は今回の海戦で効果的であると証明された。「ヴィットリオ・ヴェネト」は雷撃の直撃ダメージを軽減して、艦体には大きな損傷があったが、自力航行でターラント軍港に到着することが出来た。3月29日にイアキーノ艦隊はターラントに帰港し、「ヴィットリオ・ヴェネト」は7月まで修復工事を受けることとなった。マタパン岬の大敗は良くも悪くも、イタリア側にとって多くの教訓を齎すこととなったのである。ムッソリーニはこの敗北を受けて、当面の主力艦隊の行動制限を行った。このため、地中海において英船団の妨害を担当するのは、従来通りに潜水艦と空軍が中心となったのである。

 

■4月16日:タリゴ船団の海戦

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4月16日:タリゴ船団の海戦

エーゲ海方面で激戦が続く中、中央地中海方面でもイタリア船団によるリビア輸送と、英艦隊による妨害が行われ、熾烈な戦いを繰り広げていた。イタリア船団の護衛は基本として駆逐艦水雷艇によって行われ、英国側は大量生産した潜水艦を地中海に送り込み、リビア輸送を阻止すべく船団を襲撃した。駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」艦長のジョヴァンニ・ガラーティ大佐を始めとする優秀な戦隊指揮官の奮戦により、イタリア艦隊は効果的に英国潜水艦との戦いを繰り広げていた。しかし、英軍側の通信傍受によって英潜水艦は次々とイタリア船団を効果的に襲撃していた。スーペルマリーナの指令に基本的に絶対服従を命じられていたイタリア戦隊にとって、通信傍受による待ち伏せ攻撃はかなり痛手となっていたのである。一方で、英船団に対してもイタリア側は激しく攻撃を行った。潜水艦隊はジブラルタル-マルタ間の仏領北アフリカ沿岸航路(西地中海)と、マルタ-スエズ間のエジプト沿岸航路(東地中海)で待ち伏せ攻撃を度々行っていた。それに加え、空軍機による攻撃も高い戦果を挙げていた。

イタリア軍北アフリカ戦線の戦力強化のために、度々輸送船団を派遣していた。伊英海軍の主戦場は東地中海であったため、この間におけるリビア船団輸送は効果的な防衛もあってイタリア側の成功が続いていた4月13日の夕方ピエトロ・デ・クリストファロ(Pietro de Cristofaro)中佐を司令官とし、駆逐艦3隻(「ルカ・タリゴ」(旗艦)、「バレノ」「ランポ」)で構成された駆逐戦隊は5隻の輸送船を護衛し、ナポリからトリポリに向けて出発した。当時の地中海は悪天候で、イタリア船団の出航は予定より遅れることとなった。一方で、英海軍側は無線傍受によってイタリア船団の出発を確認し、更に航空偵察によって敵の正確な位置を把握した。英海軍はマタパン岬の大勝利を機に、イタリア艦隊の行動が制限されたことから、水上艦隊によるリビア船団の積極的な妨害を計画した。これにより、マタパン岬の海戦で武勲を挙げたフィリップ・マック大佐(Philip Mack)率いる駆逐艦隊を迎撃に派遣した。ジャーヴィス」を旗艦とし、「ジェーナス」「ヌビアン」「モホーク」の駆逐艦4隻で構成されていた。

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イタリア駆逐艦「ルカ・タリゴ」

悪天候は船団の航行に大きな影響を及ぼし、目的地への到達が遅れた。スーペルマリーナも通信傍受によって英海軍側がタリゴ船団の迎撃に出発したことを知ったが、空軍への支援要請をしたものの、空軍は悪天候であるため支援は出来なかった。他方、レーダーと航空偵察によってタリゴ船団の位置を完全に把握していた英海軍はチュニジアのケルケナ諸島沖を航行中のタリゴ船団を的確に襲撃していたのである。これにより、4月16日午前2時20分に英艦隊は船団を襲撃、交戦が開始された。英海軍が得意とする夜間戦闘であった。

英海軍の奇襲は成功し、一方的に攻撃を進めていったが、旗艦「ルカ・タリゴ」は大破しながらも、沈没の寸前まで攻撃を続け雷撃で英駆逐艦「モホーク」を撃沈。一矢を報いたのであった。しかし、結局「ルカ・タリゴ」「バレノ」は撃沈され、「ランポ」は沈没を防ぐために座礁(後に回収・修復されて戦線復帰)。船団輸送は失敗し、デ・クリストファロ中佐も戦死した。海戦自体はイタリアの敗北であったが、海戦後、イタリア軍潜水部隊は撃沈した駆逐艦「モホーク」から重要文書を回収し、英海軍の重要な情報がイタリア側に漏れることとなった

 

■4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

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4月29日-5月4日:イオニア諸島制圧戦

 イタリア海軍は開戦後、地中海諸島部の制圧のために水陸両用部隊を設立した。これは「海軍特殊戦力(Forza Navale Speciale, F.N.S.)」と呼ばれ、ギリシャ侵攻を目前とした1940年10月に新設されている。アルバニア隊司令官であったヴィットーリオ・トゥール(Vittorio Tur)提督が司令官に任命され、軽巡「バーリ」を司令旗艦とし、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇11隻、仮装巡洋艦4隻、揚陸艦3隻、MAS艇4隻で構成され、上陸部隊は海軍陸戦部隊であった「サン・マルコ」海兵であった。これらの他に、他艦隊の駆逐戦隊が支援した。

コルフ島を始めとするイオニア諸島攻略は、ギリシャ侵攻と同時の10月28日に開始されたが、当時は悪天候であったため10月29日にトゥール提督は作戦を中止した。結局その後ギリシャ戦線の戦況は悪化してしまったため、戦線の安定まで上陸作戦は中止となっていた。春になってギリシャにおけるイタリア軍の戦局が有利になってくると、トゥール提督はイオニア諸島への上陸作戦再開を決定し、作戦中止から6カ月後に当たる4月29日にようやく作戦が実行されるに至ったのである。

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イタリア巡洋艦「バーリ」

アルバニアのドゥラス港を出港したF.N.S.はトゥール提督の指揮のもと、軽巡2隻(「バーリ」「ターラント」)、駆逐艦2隻(「ミラベッロ」「リボティ」)、水雷艇7隻、揚陸艦3隻で構成されていた。これに上陸部隊である「サン・マルコ」海兵部隊が乗っていた。4月29日には順調にコルフ島に上陸し、同島の拠点を次々と制圧。ギリシャ軍守備隊は混乱の中で抵抗したが、有効な反撃を出来ずに成すすべもなく降伏した。トゥール提督はコルフ島での成功を機に、チェファロニア島、ザンテ島などイオニア諸島を次々と制圧していき、更には重要な拠点であるコリントス運河も攻略した。これらの制圧作戦は5月9日までには完全に終了し、イタリア軍は完全に勝利した。

他方、エーゲ海方面でもビアンケーリ提督率いるイタリア軍部隊がキクラデス諸島などのギリシャ島嶼部への上陸作戦を行い、ギリシャ島嶼部はクレタ島を除いて次々と制圧されていった。これらのイタリア海軍に制圧されたギリシャ領の島々はイタリア領に組み込まれ、事実上の「植民地」の一部となったのであった。これらの成功を受け、イタリア海軍はトゥール提督による水陸両用作戦を高く評価し、次に行われるであろうマルタ島の上陸作戦の司令官として彼を任命したのであった。

なお、ギリシャ攻略と同時に4月にはユーゴスラヴィア侵攻も行われた。この際、イタリア海軍はアドリア海ユーゴスラヴィア艦隊との間に小規模な交戦が発生しているが、ユーゴスラヴィアは早期に陥落したためにアドリア海での戦いが大規模になることはなかった。アドリア海は開戦時から休戦までジェノヴァ侯フェルディナンド・ディ・サヴォイア提督(Duca di Genova, Ferdinando di Savoia)によって指揮されていたが、彼の巧みな指揮によって連合軍のアドリア海侵入を許さず、休戦までアドリア海制海権はイタリア側が握り続けている。

 

■5月21日:ルーポ船団の海戦

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5月21日:ルーポ船団の海戦

マタパン岬の大敗によってイタリア艦隊の東地中海進出は中止されたため、ビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊は依然として小規模戦力で戦いを続けなくてはならなかった。春になると、ドイツ軍の介入とイタリア軍の攻勢によってギリシャは敗れ、更にイタリア海軍による島嶼部の制圧も行われてギリシャ本土と周辺の島嶼部は陥落した。ギリシャ首相であるイオアニス・メタクサス将軍(Ιωάννης Μεταξάς)は病死し、後を継いだアレクサンドロス・コリジス首相(Αλέξανδρος Κοριζής)も枢軸軍のアテネ市街戦時に拳銃で自殺を遂げた。職務を継いだエマヌエル・ツデロス首相(Εμμανουήλ Τσουδερός)の政府は陥落寸前のアテネから国王ゲオルギオス2世(Γεώργιος Βʹ)と共にクレタ島に脱出した。ドイツ軍はギリシャへの介入でイニシアチブを握っていたため、クレタ島の攻略はイタリア軍ではなく、ドイツ軍によって行われることとなったイタリア軍部はクレタ島攻略戦への参加を望んだが、ドイツ軍のヘルマン・ゲーリング元帥は自らのイニシアチブを取られることを嫌い、これを拒否した。

しかし、ドイツ軍にとってもクレタ島攻略においてはエーゲ海に展開するイタリア海軍の支援は必須であった。だが、マタパン岬の大敗によって大損害を受けていたスーペルマリーナはイタリア主力艦隊のエーゲ海派遣を拒否したため、ビアンケーリ提督は小規模戦力のみでドイツ軍のクレタ攻略戦を援護しなくてはならなくなった。ドイツ軍は空挺降下によって順調にクレタ島攻略を開始した。空挺降下作戦の後、海上からのドイツ軍部隊上陸を開始するため、エーゲ海艦隊は水雷艇部隊によるドイツ上陸船団輸送を担当することになったのである。

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軽巡ダイドー

5月21日、ドイツの輸送船・揚陸艦25隻を護衛し、水雷艇「ルーポ」は単独で出発した。指揮官はカソス海峡海戦やカステルロッソ島奪還作戦で活躍した「ルーポ」艦長のフランチェスコ・ミンベッリ中佐であった。一方で、英海軍は枢軸軍のクレタ島侵攻に対してこれに対応するべくアーヴァイン・グレンニー提督(Irvine Glennie)率いるD戦隊を派遣した。これは軽巡ダイドー」を旗艦とし、軽巡3隻(「ダイドー」「オライオン」「エイジャックス」)と駆逐艦4隻で構成されていた。

5月21日23時頃、「ルーポ」船団とD戦隊は遭遇した。これも英海軍が得意とする夜戦であった。それに加え、英海軍側が軽巡3隻・駆逐艦4隻という大戦力で、イタリア海軍側は旧式水雷艇1隻であることに加え、護衛対象である25隻の輸送船が存在した。英海軍側は圧倒的有利な状況で、一方的に勝利するかと思われたが、「ルーポ」は予想以上の奮戦を見せた。「ルーポ」は果敢に圧倒的な敵を相手に戦い、大きな損害を受けながらも戦いを続けて輸送船団の損害を10隻に抑え込み、更に軽巡「オライオン」に損害を与えて一矢を報いた。英艦隊の撃退に成功した「ルーポ」は、輸送船15隻と共に何とか帰還したのである。

結果として、英海軍は輸送船団の打撃に成功したが、旧式水雷艇1隻を相手に苦戦し、船団全てを撃沈出来たような状況にも拘わらず、それに失敗した。ミンベッリ艦長の巧みな指揮は高く評価され、イタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■5月27日-28日:シティア港制圧戦

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5月27日-28日:シティア港制圧戦

ドイツ軍はイタリア軍クレタ攻略戦への参加を許可していなかったが、5月26日にドイツ軍の進軍が停滞したため、ようやくイタリア軍への支援要請を出した。イタリア軍はこれを受諾し、さっそくビアンケーリ提督率いるエーゲ海艦隊はクレタ島への上陸作戦を開始した。カステルロッソ島奪還作戦での成功もあり、イタリア海軍のクレタ島上陸は高い戦果を挙げられると期待出来た。

上陸艦隊は駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」を旗艦とし、水雷艇「リラ」「リンチェ」「リブラ」の3隻MAS艇2隻、揚陸艦・輸送船14隻の編制クレタ島東部への侵攻を開始した。グレンニー提督はこの船団攻撃を実行したが、失敗。 損害軽微でイタリア軍部隊はクレタ島東部の主要港シティア港を難なく制圧し、また「クリスピ」はクレタ島東端のシデロス灯台を砲撃で破壊し、連合軍の航行に打撃を与えた。上陸部隊は陸軍のエットレ・カッファーロ(Ettore Caffaro)将軍によって指揮され、計2500名の兵士で構成された。順調に上陸したイタリア軍部隊はクレタ島東部を制圧し、ドイツ軍部隊と合流して作戦を遂行した。

6月1日、遂にクレタ島は陥落し、枢軸軍部隊は全域の占領に成功したのであった。クレタ島攻略後、西部はドイツ軍、東部はイタリア軍の占領地域として分割されたのである。クレタ島の攻略完了によって、完全にギリシャ戦線は終了し、東地中海における英海軍の制海権も安定を失った。一方で、ギリシャ戦線の終結によって、イタリア海軍も、英海軍も、主要な戦場をマルタ船団とリビア船団が交わる中央地中海に移動することとなり、エーゲ海での激闘が中心であった1941年の前半期はこれにて終了することとなったのであった。

 

■7月25日:マルタ・ヴァレッタ港襲撃

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MTM爆装艇「バルキーノ」

ギリシャ戦線が終わり、地中海もひと段落ついたその頃、6月22日には突如ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻を開始(バルバロッサ作戦)ムッソリーニは毎度毎度の事前通告無しのヒトラーの行動に怒り心頭であったが、同盟国としてバルバロッサ作戦発動の知らせを聞いた直後に対ソ宣戦布告を行った。イタリアはその後、ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe)将軍を司令官とする「ロシア派遣軍」をドイツ軍支援のために派遣し、更にリッカルディ提督は黒海及び極北のラドガ湖への支援艦隊派を決定した(ラドガ湖はフィンランド-ソ連国境の巨大な湖で、この地のフィンランド海軍戦力は旧式の魚雷艇1隻であったため、MAS艇戦隊の派遣が決定された)。これに伴い、イタリア海軍の活動範囲も東部方面に大きく広がることとなった

だが、イタリア海軍の主戦場は依然として地中海であることには変わりはなかった。この頃海軍においてもギリシャ戦線の終結に伴って人事異動が行われ、エーゲ海総督のバスティコ将軍がリビア総督として北アフリカ戦線を指揮することとなったため、海軍参謀次長カンピオーニ提督が後任のエーゲ海総督として派遣された。カンピオーニ提督の後任の参謀次長には第三巡洋戦隊司令官ルイージ・サンソネッティ(Luigi Sansonetti)提督が就任。彼のもとでリビア補給船団の総指揮が行われている。

クレタ島の陥落後、英海軍はマルタ島に戦力を補給した。偵察によって英艦隊がマルタ島ヴァレッタ港に集結していることを知ったイタリア海軍は、エーゲ海作戦のスダ湾襲撃で大きな戦果を挙げた「デチマ・マス」によるヴァレッタ港攻撃を計画した。

このマルタへの直接攻撃作戦は7月25日の深夜に実行された。しかし、これは完全なる失敗に終わったイタリア軍は攻撃によってヴァレッタ港にて火柱が高く上がっていたことから作戦は大成功に終わったと認識したが、「デチマ・マス」の突入部隊は英軍に発見されて機銃掃射を受けて全滅した。英軍側の損害はハリケーン戦闘機数機の撃墜と港湾設備の破壊程度であり、艦隊に損害はなかったのである。「デチマ・マス」のヴィットーリオ・モッカガッタ(Vittorio Moccagatta)司令や、SLC人間魚雷「マイアーレ」の開発者であるテゼオ・テゼイ(Teseo Tesei)中佐も戦死し、「デチマ・マス」は主要メンバーも戦死する手堅い敗北を経験することとなった。彼らは戦死後にイタリア軍最高位の金勲章を叙勲された。

 

■9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

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9月10日:第一次ジブラルタル襲撃

ヴァレッタ港攻撃の失敗によって大打撃を受けた「デチマ・マス」であったが、新たに司令官に就任したユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ(Junio Valerio Borghese)少佐のもとで新たなる作戦を実行した。それは地中海と大西洋を繋ぐ要衝、ジブラルタルへの初の襲撃作戦であった。既にイタリア空軍によるジブラルタル爆撃作戦は度々実行されていたが、海軍による襲撃作戦は初となった(イタリア潜水艦によるジブラルタル周辺海域での通商破壊作戦は度々行われていたが)。

9月10日、ラ・スペツィアを出港した潜水艦「シィレー」は3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」を搭載した。SLC人間魚雷「マイアーレ」はヴァレッタ港攻撃で戦死したテゼオ・テゼイ中佐が設計・開発した新型兵器で、元々は第一次世界大戦時にポーラ軍港に侵入し、敵戦艦「フィリブス・ウニティス」を爆沈させた試作人間魚雷「ミニャッタ」を前進とした。魚雷に操縦桿をくっつけたような「ミニャッタ」に対して、「マイアーレ」は操縦性が向上した水中バイクのような見た目をしていた。勿論、「人間魚雷」と言えども、日本海軍の「回天」のような自殺兵器ではなく、所謂工作用の特殊潜航艇であった。潜水部隊(ウォーモ・ラーナ)を敵港湾内部に潜入させ、敵艦の船底に爆弾を仕掛け、離脱する、という攻撃手段であった。

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イタリア潜水艦「シィレー」

9月19日、情報収集によってジブラルタル港にネルソン級戦艦が発見されたために、ボルゲーゼ中佐は「シィレー」から計6人が駆るSLC人間魚雷「マイアーレ」3隻を出発させた。潜入部隊(ガンマ潜水部隊)のリーダーはリーチオ・ヴィシンティーニ隊長(Licio Visintini)が務めた。ヴィシンティーニ隊長は東アフリカ戦線の空軍トップエースであるマリオ・ヴィシンティーニ(Mario Visintini)の弟である。無事港湾に潜入したガンマ潜水部隊はネルソン級戦艦への攻撃は失敗したが、輸送船「ダーラム」及びタンカー「デンビデール」「フィオナ・シェル」の計3隻を一気に撃沈することに成功したのであった。この大戦果を受けてボルゲーゼ少佐は中佐に昇進し、ガンマ潜水部隊の6人は全員が戦功銀勲章を叙勲されたのであった。なお、攻撃後にフロッグマン6名はジブラルタル港を脱出することに成功し、無事帰還している。

イタリア海軍によるジブラルタル攻撃はこれが始まりとなり、その後も何度も行われることとなり、英海軍は大打撃を受けた。英海軍も対策として港湾防衛のために哨戒を強化するが、有力な対策をあまり取れずに休戦までに度々伊海軍部隊の侵入を許した。

 

■11月9日:デュースブルク船団の海戦

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11月9日:デュースブルク船団の海戦

ギリシャ戦線の終結後、新たにリビア総督に赴任したエットレ・バスティコ(Ettore Bastico)将軍は、ドイツから派遣された「ドイツアフリカ軍団」のエルヴィン・ロンメル将軍と共に、北アフリカの戦況を有利に進めていた。そんな中で重要視されたのはリビアへの補給船団である。バスティコ将軍は間近に備えた進軍のために大規模なリビア輸送船団を海軍に要請し、イタリア海軍は7隻の輸送船を派遣した。護衛にはブルーノ・ブリヴォネージ提督(Bruno Brivonesi)率いる艦隊が担当し、重巡2隻(「トリエステ」(旗艦)、「トレント」)、駆逐艦10隻で構成されていた。

ブルーノ・ブリヴォネージ提督は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊司令官ブルート・ブリヴォネージ(Bruto Brivonesi)提督の兄であり、前リビア隊司令官であった。弟ブルートはプンタ・スティーロ海戦やテウラダ岬沖海戦で活躍し、その後も「チェーザレ」を旗艦とする第五戦艦戦隊を率いて「ドゥイリオ」「ドーリア」と共に中央地中海における船団護衛を成功させていた。一方の兄ブルーノは大戦序盤にリビア隊司令官として水上艦隊によるアレクサンドリア港攻撃作戦を実行したが、自らの母艦「モンテ・ガルガーノ」を撃沈され、大失敗を経験していた。

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イタリア重巡トリエステ

イタリア艦隊は11月7日にナポリを出港した。既にこの段階で英海軍側は暗号解読によってこの情報を掴み、2隻の軽巡(「オーロラ」「ペネロペ」)と2隻の駆逐艦から為る艦隊を差し向けてこの船団を攻撃することとした。英艦隊による船団攻撃は、イタリア艦隊が苦手とする夜間に実行された。8日深夜から翌日早朝に掛けて行われ、レーダーを持っていないイタリア艦隊は奇襲を許し、大損害を被った。イタリア艦隊は駆逐艦「フルミネ」が撃沈されたが、英海軍側の損害は僅か駆逐艦1隻が小破したのみであった。ブルーノ率いる遠距離護衛部隊はこの攻撃を艦隊ではなく航空機による攻撃だと誤認したため、上手く対応できず、敗北を喫することとなったのである。
この船団輸送の失敗は北アフリカ戦線に重要な影響を及ぼし、戦局は再び英軍有利になっていった。ブルーノは軍法会議にまでかけられたが、イアキーノ提督の助け舟によって無罪で済んでいる。しかし、「デュースブルクの敗北」以降、ムッソリーニとブルーノの対立は酷いことになり、ブルーノは反ファシズムに傾倒することとなる。その後、海軍最高司令部(スーペルマリーナ)の副参謀長に任命されてリッカルディ提督を補佐しており、弟ブルート(スーペルマリーナ所属の対潜総監として勤務)と同じ職場で勤務した。そして、ラ・マッダレーナに本部を置くサルデーニャ隊司令部の指揮官に新たに就任し、西部地中海方面の艦隊運営を指揮している。ブルーノは以前より海軍航空の先駆者として名を知られていたものの、艦隊指揮能力があったかと言われると、かなり微妙なところである。なお、海戦で大勝利を挙げた英海軍であったが、5日後には空母「アーク・ロイヤル」、月末の25日には戦艦「バーラム」が潜水艦の攻撃で撃沈され、地中海における英海軍の制海権に動揺が生じた。

 

■12月13日:ボン岬沖夜戦

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12月13日:ボン岬沖夜戦

1941年12月7日、日本海軍は真珠湾攻撃を実行し、遂に日本が第二次世界大戦に枢軸国側で参戦した。一方で、連合軍の最大戦力であるアメリカが参戦し、既に日本と交戦状態であった中国も連合国側で参戦した。東アフリカ戦線の崩壊に伴い、神戸に来航していた旧イタリア紅海艦隊は日本の参戦によって自由な行動が許可され、日本海軍との共同作戦に従事するようになった。また、天津を母港とするイタリア極東艦隊もそれと共に行動を開始した。つまりは、イタリア海軍がアジア・太平洋戦線でも活動を開始したのである(既にインド洋では作戦を行っていたが)。ムッソリーニはドイツのソ連攻撃とは対照的に、日本の参戦を熱狂的に喜んでいたが、軍部としてはアメリカの参戦によってもう短期決戦の道は経たれてしまったと認識された。後に、イタリア海軍は潜水艦隊による日本向けの輸送作戦を行い、またイタリア空軍も敵地上空を通過してローマ-東京連絡便を実行している(大戦中の枢軸国では唯一の欧州-極東飛行)。

一方で、地中海においては依然として中央地中海を巡る戦いが繰り広げられていた。イタリア海軍はデュースブルクの大敗を受けて、今度は主力艦による船団護衛が行われ、11月29日には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦とする戦艦1隻(「ドゥイリオ」)、軽巡1隻(「ガリバルディ」)、駆逐艦6隻が護衛する船団が無事北アフリカに到着した(指揮官はカルロ・ベルガミーニ(Carlo Bergamini)提督)。しかし、北アフリカにおける燃料不足は追い付かず、海軍はこの急務に対応するため、北アフリカ戦線を支えるためにも高速航行が可能な艦艇による燃料輸送を提案。これに伴い、高速の巡洋艦による緊急燃料輸送作戦が実行された。第一陣として、12月2日に軽巡ルイージ・カドルナ」によって実行されたリビア燃料輸送は無事に成功し、トリポリに到着した。これの成功を受け、スーペルマリーナは第四巡洋戦隊アントニーノ・トスカーノ(Antonino Toscano)提督軽巡2隻による追加高速輸送を命令した。

トスカーノ提督率いる高速輸送戦隊は軽巡「バルビアーノ」と「ジュッサーノ」の2隻で構成されていた。2隻は12月5日の朝8時15分にターラント軍港を出発し、17時50分にブリンディジ港に到着。そこで物資を詰め込んだ。その後、12月8日にパレルモに到着し、航空機用の燃料を詰め込んだ。この輸送作戦は当然、かなり危険なものであった。燃料を搭載しているということは、航空攻撃を軽く受けただけでも大炎上になりかねない。更に、イタリアの巡洋艦は高速性能を発揮するために、例の如く装甲が薄かった。12月9日の17時20分に2隻はパレルモを出港して、トリポリに向けて出発した。しかし、2隻に護衛艦も航空支援も存在しなかった

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イタリア軽巡「アルベリーコ・ダ・バルビアーノ」

同日22時にパンテッレリーア島沖を航行中の2隻は英軍偵察機によって発見された。その後、シチリア海峡の中心にて荒れた海の中で英空軍部隊の空爆に遭遇。2隻は何とかこの空爆をやり過ごし、燃料も無傷であったが英軍側の追撃を恐れてトスカーノ提督は反転し、パレルモに戻ることを決めた。こうして、12月10日の8時20分に2隻はパレルモに到着したが、作戦の放棄に対してスーペルマリーナはトスカーノ提督を激しく叱責し、再出撃を命じた。これを受け、12月12日18時10分、2隻は再度パレルモから出港し、護衛の水雷艇「チーニョ」を加えて、トリポリに向けて出発した

イタリアの高速輸送艦隊に対して、英海軍はグラハム・ストークス中佐(Graham Stokes)率いる駆逐戦隊を差し向けた。この駆逐戦隊は英海軍の駆逐艦3隻(「シーク」「リージョン」「マオリ」)と、オランダ海軍の駆逐艦「イサーク・スウェールズ」で構成された。航空偵察によってトスカーノ艦隊の位置を把握した英艦隊はチュニジア・ボン岬沖にて待ち伏せることとした。北アフリカでは燃料不足に陥っていたため、伊艦隊の航空支援を北アフリカの空軍部隊が行うことは出来ず軽巡2隻は航空支援無しで戦闘海域に突入した(そもそもその航空機用の燃料を2隻の巡洋艦は運んでいたため)。

12月13日午前2時45分、トスカーノ艦隊は英軍偵察機を発見した。この偵察機はストークス中佐にトスカーノ艦隊の位置を知らせたが、偵察機に発見されたためにトスカーノ艦隊は反転し、全速力での海域突破を試みた。しかし、レーダー装備と航空偵察によって暗闇の中でトスカーノ艦隊を捕捉した英艦隊はトスカーノ艦隊を追撃奇襲は完全に成功し、「バルビアーノ」「ジュッサーノ」は成すすべもなく撃沈され、トスカーノ提督は戦死した。「チーニョ」のみが海戦を無傷で生き残り、生存者の救出に当たったが、2隻の轟沈によって800人以上が戦死している。

結局、この戦いにおいてもレーダー未装備での夜戦は不可能であることが明らかとなった。そして、中央地中海における輸送作戦を安定化させるためには、マルタ島の攻略が不可欠であると認識され、海軍によるマルタ島制圧作戦が進められることとなったのである。また、巡洋艦隊による高速輸送は困難であると判断され、結局主力艦隊による船団護衛が有効だと認識された

 

■12月17日:第一次シルテ湾海戦

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12月17日:第一次シルテ湾海戦

ボン岬沖夜戦による高速輸送失敗により、北アフリカ戦線には物資が届かず、兵站不足に陥った。そのため、連合軍側の攻勢を許すこととなり、再び北アフリカ戦線では連合国側が有利な戦況となっていた。これを受け、スーペルマリーナは主力艦隊による大規模船団輸送作戦を実行に移すこととした。マタパン岬の大敗によってムッソリーニは主力艦隊の出動を制限していたが、これを機に主力艦隊は活動を再度活発化させた。

船団輸送にはマタパン岬の傷を癒した戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」が参加予定であったが、12月13日シチリアアウグスタ港沖にて英潜水艦の雷撃を受けて損傷したため、修復のために参加しなかった。なお、この時も「ヴィットリオ・ヴェネト」はプリエーゼ式水雷防御の効果を発揮し、雷撃のダメージを軽減することが出来ている。12月16日イアキーノ提督率いる大船団はターラント軍港を出発した。この大船団は戦艦「リットリオ」を旗艦とし、戦艦4隻(「リットリオ」「ジュリオ・チェーザレ」「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」)、重巡2隻(「トレント」「ゴリツィア」)、軽巡3隻(「ドゥーカ・ダオスタ」「アッテンドーロ」「モンテクッコリ」)、駆逐艦水雷艇20隻輸送船4隻という大規模な艦隊であった。後にも先にも、イタリア側が戦艦4隻を一挙に参加させた海戦はこれが唯一であり、「ヴィットリオ・ヴェネト」を除く当時就役中であった全戦艦が参加している(「カヴール」はターラント空襲で全損扱いである)。なお、ここまで強力な護衛をつけた理由は、航空偵察によって英艦隊に戦艦が確認されたためであったが、実際はこれは戦艦ではなく大型の輸送船「ブレコンシャー」であった(つまり、英海軍の護衛対象)。

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イタリア戦艦「アンドレア・ドーリア

一方、英海軍もマルタへの輸送船団を派遣した。フィリップ・ヴァイアン(Philip Vian)提督が指揮する護衛艦隊は軽巡「ナイアド」を旗艦とし、軽巡6隻(「ナイアド」「カーライル」「ネプチューン」「オーロラ」「ペネロペ」「ユーライアラス」)、駆逐艦6隻で、先程の大型輸送船「ブレコンシャー」を護衛した。12月15日にアレクサンドリア港を出発し、マルタに向かった。すなわち、伊英双方共に、それぞれの船団護衛中に敵艦隊と遭遇し、交戦する事態になったのである。

イタリア空軍の偵察機はエジプトのシディ・バッラーニ沖を航行する英艦隊を発見し、艦隊の位置を把握した。イアキーノ提督は船団を護衛するためにもこれを迎撃することを決定した。こうして、12月17日17時42分、リビアのシルテ湾にて両艦隊は衝突することとなった。シルテ湾はリビア東部(キレナイカ)のベンガジから、リビア西部(トリポリタニア)のミズラータに至る巨大な湾で、現在は石油基地が置かれることで知られている主要港シルテ(スルト)が湾の由来であり、湾の南西に位置している。海戦が発生した場所は正確にはシルテ湾の外部沖合であるが、第二次世界大戦においてはイタリアのリビア船団と英国のマルタ船団が丁度衝突するエリアとして知られた。英艦隊のヴァイアン提督は、イタリア艦隊側が圧倒的に戦力が勝っていることを認識し、交戦を避けるための行動を取った一方のイアキーノ提督も、夜が近づいていたために夜戦を避けるべく、英艦隊を短時間で撃退して船団護衛を優先する方針を決定した。イアキーノ提督には夜戦におけるマタパン岬の大敗の記憶がまだ新しく、レーダーを持たないイタリア艦隊は夜戦において圧倒的に不利だったことを知っていたのである。また、敵艦隊に戦艦が存在する(と誤認していた)ことも、イアキーノ提督の戦術を消極的にさせた(スーペルマリーナは圧倒的有利な状況以外の戦闘は避けるように命令したため)。

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イタリア戦艦「リットリオ」

英艦隊はイタリア艦隊を発見したのち、速やかに煙幕を張って海域の離脱を図った。しかし、イタリア艦隊は英艦隊への攻撃を開始、駆逐艦キプリング」は重巡「ゴリツィア」の砲撃を受け、無線アンテナが破壊されて通信が不可能となった。その後、戦艦「アンドレア・ドーリア」及び「ジュリオ・チェーザレ」の主砲斉射によって甲板に被弾、上部構造に損傷を受けたが煙幕に紛れて戦線の離脱に成功した。また、駆逐艦「ニザム」も駆逐艦「マエストラーレ」による近距離からの砲撃を受け損傷を受けた戦艦「リットリオ」は30数kmからの超遠距離砲撃を英艦隊に浴びせ、護衛対象である輸送船「ブレコンシャー」を含む英船団は砲弾の破片による損害を受けたものの、巧みな防衛戦術によって総じて軽微な被害で済んでいる。

煙幕に紛れて海域の離脱を試みた英艦隊であったが、そこで機雷原に遭遇するという悲劇が起こった。その結果、軽巡ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が爆沈し、軽巡「オーロラ」及び「ペネロペ」も大きな被害を受けたのである。結果として、この海戦で英艦隊は軽巡1隻・駆逐艦1隻が撃沈し、軽巡2隻・駆逐艦2隻が大きな損害を受けた。しかし、護衛対象の輸送船「ブレコンシャー」は戦艦「リットリオ」の超遠距離砲撃によって多少損傷を受けた程度で済み、無事マルタに到着することが出来た。一方のイタリア艦隊側は一切の損害を負わずに無傷で海戦を終了し、船団護衛を継続してトリポリベンガジの港に到着することが出来ている海戦自体はイタリア側の完全な勝利であったが、船団護衛という目的は伊英双方が達成することが出来た。なお、ベンガジに輸送船団が到着して物資が補給されたが、残念な事にその数日後にベンガジは英軍の攻勢によって陥落し、イアキーノの努力は無駄になってしまった。

 

■12月18日:アレクサンドリア港襲撃

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12月18日:アレクサンドリア港襲撃

1941年12月19日は第二次世界大戦におけるイタリア海軍最大の大勝利の日と記憶されている。まさに、イタリア海軍が得意とする特殊部隊による港湾攻撃において、最大戦果が挙げたのがこの日であった。英海軍は1941年12月、特に厳しい状況を迎えていた。地中海では既に空母1隻と戦艦1隻を始めとする多くの軍艦を失い、更に日本の参戦によって東アフリカ戦線崩壊以降、再びインド洋方面に脅威が出現した。そして、12月10日のマレー沖海戦では戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が日本軍の航空攻撃で撃沈されるという大打撃を受けていた。このため、地中海艦隊司令官であるカンニンガム提督は特にアレクサンドリア港の襲撃を危惧して厳戒態勢を敷いていた。また、英海軍は地中海戦線の有利な状況を維持できれば、インド洋方面の日本軍への対応を強化しようとしていた。そんな中で、残る地中海艦隊の主力である旗艦・戦艦「クイーン・エリザベス」と姉妹艦「ヴァリアント」を狙ったのが、イタリア海軍の「デチマ・マス」だった。

アレクサンドリア港攻撃は1940年8月22日にリビア隊司令官ブルーノ・ブリヴォネージ提督の直接の指揮で行われていたが、大失敗に終わっていた。その後、先述した通り、「デチマ・マス」はスダ湾襲撃やジブラルタル港襲撃を大成功させて戦果を挙げており、英艦隊への大打撃を与えるためにアレクサンドリア港への攻撃を再度計画していた。綿密な準備をした潜水艦「シィレー」ジブラルタルで武勲を挙げたボルゲーゼ艦長のもとで12月14日にエーゲ海諸島のレーロ基地を出発し、12月17日のアレクサンドリア港湾攻撃作戦のためにエジプト沿岸に向かった。しかし、途中で暴風雨に遭遇し、到着が1日遅れて12月18日にアレクサンドリア港近辺に到着した。

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SLC人間魚雷「マイアーレ」(2017年3月31日筆者撮影)

同日深夜、「シィレー」から3隻のSLC人間魚雷「マイアーレ」が発進した。潜水工作部隊は2人乗り×3隻で6名、これをルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ大尉(Luigi Durand de la Penne)が率いていた。夜の闇に紛れて潜入した3隻のSLC人間魚雷は厳戒態勢が敷かれたアレクサンドリア軍港に潜入し、何重もの魚雷ネットを潜り、哨戒艇の警備をかわして港内の深部へと進んでいった。英軍に気付かれることなく軍港内に潜入した3隻は、第一班は戦艦「ヴァリアント」、第二班は戦艦「クイーン・エリザベス」、第三班はタンカー「サゴナ」に狙いを定めて攻撃を実行戦艦「ヴァリアント」及び「クイーン・エリザベス」は撃沈され、タンカー「サゴナ」は大爆発し大破、側にいた駆逐艦ジャーヴィス」も爆発に巻き込まれて大破したのであった。

こうして、たった3隻の特殊潜航艇と、6人の工作部隊による攻撃で、英艦隊は戦艦2隻を撃沈され、タンカー1隻と駆逐艦1隻を大破する事態となったのであった。このイタリア海軍による大成功は英海軍の地中海の制海権に大きな影響を与えることとなった。すなわち、英海軍地中海艦隊には行動可能な主力戦艦が存在しなくなってしまったのである。英首相チャーチルは自らの回顧録「我が地中海艦隊は存在しないも同然」とまで述べており、事実上、地中海の制海権は完全にイタリア側に渡ることとなったのであった。この結果、英海軍は行動を制限され、イタリア海軍は北アフリカ戦線に向けて安定して船団を送れるようになったのであったのである。こうして、安定した物資輸送を受けて活力を回復した北アフリカの枢軸軍は翌年1942年の初めより大規模な攻勢を開始し、戦線のイニシアチブを奪還するのであった。

イタリア海軍としては、まさに1940年11月のターラント空襲の仕返しとも言える攻撃であった。あの時は少数の英軍雷撃機がイタリア主力艦隊に大打撃を与えたが、その約1年後の1941年12月には、今度は少数の伊軍特殊部隊が英主力艦隊に大打撃を与えたのである。長らく一進一退の戦いを続けていた地中海の伊英海軍だったが、ここにきてようやくイタリア海軍は「地中海の覇者」たる威光を手に入れようとしていた

 

1941年はマタパン岬の大敗を経験した一方で、最終的にはアレクサンドリア港攻撃の大成功によって英海軍は地中海の制海権を失った。1941年はまさに、イタリア海軍にとっては「勝利の年」、英海軍にとっては「悲劇の年」と言えるかもしれない。

地中海の制海権を握ったイタリア海軍であったが、翌年に入ると今度は英海軍の反撃を受けることとなり、マルタ島を巡る大激戦が繰り広げられることとなる。この海戦はイタリア艦隊の活躍が特に光る戦いとしても知られているのだが、この話は次回の1942年の海戦で紹介しよう。

次回の記事はこちら↓

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版

 

地中海におけるイタリア海軍の熾烈な戦い ―1940年の海戦:戦いの始まり―

前回から引き続き、地中海戦線におけるイタリア海軍の戦いについて書こうと思う。今回扱う範囲は1940年の地中海の海戦。すなわち、最初の一年となる。

基本的にこれらの記事は「海戦」に特化したものであり、潜水艦隊の戦いや船団護衛による対潜水艦戦、敷設機雷による戦果等については扱わないものとする(寧ろ戦果を考えればそっちの方がイタリア海軍の真価とも言えそうだが)。また、地中海の戦いのみを扱い、大西洋、紅海、黒海、ラドガ湖、インド洋、太平洋等のその他の海域におけるイタリア海軍の戦いに関しては基本的に扱わないこととする。

 前回の記事はこちら↓

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前回纏めた「欠点」を踏まえながら、イタリア海軍の戦いを見ていってみよう。 

 

◆1940年:地中海の戦いの始まり

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1940年の地中海の主要な海戦。最初の年は基本的にイタリア半島近海で行われた。

1940年6月10日、イタリアは枢軸国側での参戦を表明し、対英仏宣戦布告を行った。こうして、イタリア海軍も戦いを開始することとなったが、前回説明した通り、準備不足の参戦となった。そのため、海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ(Domenico Cavagnari)提督は基本方針として、主力艦隊に関しては燃料不足のため「現存艦隊主義」をドクトリンとして定め、潜水艦や小型艦艇による船団襲撃を決定した。戦間期から海軍を指揮するカヴァニャーリ提督は地中海における海軍戦力の格差を認識しており、様々な観点からこの方針が最良だとした。

第一の仮想敵とされ、戦力が拮抗するフランス海軍に加え、本来仮想敵として定められていなかった「格上」の英海軍をも敵に回したことを考えると、こうせざるを得ないのは当然ともいえる。そういった方針に基づき、海軍計画はその方針に沿って強化が進められ、海軍は戦艦と潜水艦を特に強化した。しかし、計画最中に第二次世界大戦に参戦することとなったため、1940年6月の時点で行動可能な戦艦はカヴール級2隻のみだった。こうして、イタリア海軍の戦いが始まった。

開戦時(1940年6月10日)のイタリア海軍の戦力を見てみると、

▣戦艦

:2隻(カヴール級)

水上機母艦

:1隻(ジュゼッペ・ミラーリア)

巡洋艦

:22隻(トレント級、ザラ級、サン・ジョルジョ、ジュッサーノ級、カドルナ級、モンテクッコリ級、ドゥーカ・ダオスタ級、アブルッツィ級、バーリ、ターラント)

駆逐艦

:59隻(レオーネ級、ナヴィガトーリ級、オリアーニ級、ソルダーティ級、マエストラーレ級、ダルド級、ミラベッロ級、フォルゴレ級、トゥルビネ級、サウロ級、セッラ級)

水雷艇

:69隻(スピカ級、オルサ級、ピーロ級、シルトリ級、ラ・マーサ級、ジェネラーリ級、パレストロ級、クルタトーネ級、インドミート級、アウダーチェ)

▣潜水艦

:117隻(アドゥア級、アルゴナウタ級、ペルラ級、シレーナ級、アルキメーデ級、アルゴ級、バリッラ級、バンディエーラ級、ブラガディン級、ブリン級、カルヴィ級、フィエラモスカ級、フォカ級、グラウコ級、H級、リウッツィ級、マメーリ級、マルチェッロ級、マルコーニ級、ミッカ級、ピサーニ級、セッテンブリーニ級、スクァーロ級、X級)

これに通報艦(アヴィゾ)、機雷敷設艦、MAS艇、仮装巡洋艦などが加わった。

 ↓参戦時の各艦隊の編制等はこちら。

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特筆すべきは潜水艦隊の規模で、開戦当時ではドイツ海軍より勝り(ドイツ海軍が潜水艦隊重視に本格シフトしたのは大戦中盤頃)、ソ連海軍に次ぐ世界第二位の潜水艦隊の規模を持っていた。この理由は先述したように、船団襲撃の戦力としてカヴァニャーリ提督は潜水艦を重要視したからである。

また、駆逐艦水雷艇部隊の実力も高く、船団護衛における対潜水艦戦の実力は枢軸国の中でも特に特筆するべき点だろう。ターラント空襲でカヴァニャーリ提督が失脚するまでは基本的に地中海におけるイタリア海軍の戦果は水雷艇駆逐艦による対潜水艦戦の戦果と、潜水艦による船団襲撃の戦果が主であることからも、それがよくわかる。

今回は詳述しないが、以前記事にちょろっと書いたのでよければどうぞ。

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 また、イタリアの参戦と共に紅海・インド洋におけるイタリア海軍の戦いも開始した。こちらは地中海戦線と違い、陸軍・空軍の前半の善戦とは対照的に、終始イタリア海軍が不利な状況で一方的に敗北している。

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■6月14日:ジェノヴァ沖海戦

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1940年6月14日:ジェノヴァ沖海戦

イタリア海軍は6月10日の参戦後、まず近海への機雷敷設任務に従事した。同時に潜水艦隊による船団攻撃が開始され、開戦二日後の6月12日には潜水艦「バニョリーニ」がクレタ島沖にて英軽巡カリプソを、潜水艦「ナイアデ」がアレクサンドリア沖にて英船団のタンカーを撃沈している(6月11日の段階で潜水艦「スメラルド」がアレクサンドリア沖にて英船団襲撃を行ったが、こちらは失敗に終わっている)。

6月における地中海の海戦は、「第一の仮想敵」たるフランス海軍を主要な敵として定めた。イタリアは参戦した一方で、「ドイツ軍が勝利すると思われるこの戦いにおいて、講和会議で勝者側に立つ」というムッソリーニの目論見による"形式的参戦"の部分があったため、主要敵であるフランス側への積極的な攻撃は行われず、特に陸軍に至っては発砲禁止命令が出ていた。その均衡が崩れたのが6月14日で、イタリア陸軍は伊仏国境を突破し、国境付近のフランス軍拠点を制圧している。しかし、すぐに守勢に戻っており、本格的な侵攻開始は6月21日まで待たねばならなかった。

陸軍の不甲斐ない戦いぶりが強調されるフランス戦だが、空軍はフランス本土/植民地の主要拠点を次々と爆撃し、航空戦でも多くの戦果を挙げた。一方で、海軍もフランス戦においてまずまずの戦果を挙げていると言える。第二次世界大戦のフランス海軍vsイタリア海軍の戦いの中でも特に知られているのが、6月14日に発生したジェノヴァ沖海戦」だ。というのも、これは第二次世界大戦時において唯一と言える、イタリア水上艦隊vsフランス水上艦隊の戦いだからである。

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イタリア水雷艇「カラタフィーミ」

イタリア参戦から3日後、1940年6月13日の夜にジュゼッペ・ブリニョーレ(Giuseppe Brignole)中尉が艦長を務める水雷艇「カラタフィーミ」は機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を護衛し、リグーリア海岸で機雷敷設任務に従事していた。その時、フランス海軍はリグーリア海岸工業都市に艦砲射撃(ヴァード作戦)を行うため、重巡艦隊を派遣していた。フランス第三艦隊司令官であるエミール・デュプラ(Émile Duplat)提督は重巡「アルジェリー」を旗艦とし、リグーリア海岸砲撃に向かった。

フランス艦隊は三つのグループに分けられており、一つ目のグループがデュプラ提督が直接指揮する「アルジェリー」を旗艦とし、重巡「フォッシュ」、そして6隻の駆逐艦で構成された。これは、サヴォーナ周辺の工業地帯を目標とした。二つ目のグループは、重巡デュプレクス」と重巡「コルベール」、そして5隻の駆逐艦で構成された。これは、ジェノヴァへの直接攻撃を目的とした。更に三つ目のグループは三隻の駆逐艦と四隻の潜水艦で構成されていた。このグループは後方支援を担当し、二つのグループをサポートしつつ、イタリア海軍の介入を妨害することを目的とした。

デュプラ提督率いる一つ目のグループはサヴォーナ及びヴァード・リーグレの工業地帯を砲撃した。ここではイタリア側の対応は遅れ、「アルジェリー」及び「フォッシュ」から放たれる砲弾によって工業地帯は被害を受けることになった。スポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア(Duca di Spoleto, Aimone di Savoia-Aosta)率いるリグーリア隊司令部は直ちにMAS艇部隊を発進させたが、フランス艦隊に効果的なダメージを与える事は出来なかった

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フランス海軍の重巡デュプレクス

「カラタフィーミ」艦長ブリニョーレ中尉は、翌日となった6月14日の朝4時、双眼鏡でフランス艦隊を発見した。場所は丁度サヴォーナとジェノヴァの中間であった。この艦隊はジェノヴァ攻撃を目標とする第二グループのフランス艦隊で、重巡デュプレクス」「コルベール」、駆逐艦「ヴォートゥール」「アルバトロス」「ゲパール」「ヴァルミ」「ヴュルデン」の計7隻で構成されていた。
ブリニョーレ中尉は、機雷敷設艦「エルバノ・ガスペリ」を撤退させ、今まさにジェノヴァを砲撃している重巡2隻・駆逐艦5隻、計7隻から構成されるフランス艦隊に「カラタフィーミ」単艦で勝負を挑んだのである。戦闘はジェノヴァ沖で行われた。戦闘が開始されると、陸上側も行動を起こした。沿岸要塞と装甲列車が「カラタフィーミ」を援護したのである。しかし、「カラタフィーミ」は主砲と魚雷を活用して攻撃したが、高速能力を誇るフランス艦隊はそれを回避していった。「カラタフィーミ」は駆逐艦「ヴォートゥール」及び「アルバトロス」を追撃したが、その際に駆逐艦「アルバトロス」は砲弾が命中した。これをイタリア側は「撃沈」と確認したが、実際は撃沈まではしておらず、「アルバトロス」は中破した状態であった。
フランス艦隊司令官デュプラ提督はこの「カラタフィーミ」の突撃を受けて、イタリア海軍の増援が来ることを恐れ、砲撃艦隊に撤退を命令。これにより、「カラタフィーミ」は単艦でフランス艦隊に突撃し、これの撃退に成功したのであった。更にはリグーリア海岸への砲撃の被害も運良く小規模なものであった。旧式の水雷艇が、たった一隻で7隻(内2隻は重巡)の艦隊に立ち向かい、それの撃退に成功し、更には無事に帰還したという例は海軍史上でも中々無いだろう。ブリニョーレ艦長はこの功績によってイタリア軍最高名誉である金勲章を受勲されて英雄となり、LUCEによって彼の功績を讃える映画『Alba di guerra sul Mar Ligure(リグーリア海での戦争の夜明け)』も作られている。

とはいえ、隣国とはいえ自国の工業生産の中心地の沿岸まで敵艦隊の侵入を許したイタリア側の失態は大きく、今回の成功は運良く「カラタフィーミ」が敵艦隊を発見し、これを撃退したことによるものだった。イタリア空軍の航空偵察不足、そして海軍の哨戒不足が指摘され、当時のリグーリア隊司令部長であるスポレート侯アイモーネ・ディ・サヴォイア提督の失態と言える。

 

■6月28日:エスペロ船団の海戦

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1940年6月28日:エスペロ船団の海戦

ジェノヴァ沖海戦後も依然として地中海戦線では潜水艦による船団攻撃と、船団護衛中の対潜水艦戦が中心で、結局フランス休戦まで水上艦隊同士の海戦は発生しなかった。1940年6月24日、イタリアとフランスはヴィッラ・インチーサ休戦協定を調印し、翌日には両軍の戦闘は停止した。この休戦までにイタリア軍はフランス本土と植民地の仏領ソマリ(現在のジブチ)において攻勢を行い、ある程度の領域を占領地域としている。フランスの休戦により、地中海戦線からフランス海軍は離脱した。

フランス海軍の離脱後、地中海戦線は完全にイタリア海軍と英海軍の戦場となった。そんな中発生した、「伊英水上艦隊初の海戦」が6月28日のエスペロ船団の海戦である。この海戦はエンリコ・バローニ(Enrico Baroni)大佐が率いる駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団と、ジョン・トーヴィー提督(John Tovey)率いる軽巡「オリオン(オライオン)」を旗艦とする艦隊の衝突である。駆逐艦エスペロ」を旗艦とするイタリア船団は「エスペロ」の他、「オストロ」「ゼフィッロ」の駆逐艦3隻と北アフリカ戦線のための兵員及び兵器を輸送する輸送船で構成されていた。この船団はターラント港から出発し、リビアのトブルク港を目指していた。当時、北アフリカ戦線ではリビア総督であるイタロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥がエジプト侵攻作戦を準備しており、その増強の一環として行われた輸送船団であった(しかし、この船団輸送と同日にバルボ元帥はトブルク上空にて味方の誤射で撃墜死している)。

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イタリア駆逐艦エスペロ」

一方で、英海軍側はアレクサンドリアに向かう船団護衛のためにクレタ島沖に展開していた。この艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、「シドニー」「グロスター」「ネプチューン」「リヴァプール」の軽巡5隻で構成されていた。航空偵察によってイタリア船団の位置を確認した英艦隊はこれの襲撃に向かった。逆に、イタリアは例の如く、空軍による航空偵察の不足によって、英艦隊を発見出来ていなかった。こうして、6月28日18時半にクレタ島西方沖にて英艦隊は伊船団を発見、交戦を開始した。

イタリア旗艦エスペロ」は機関に不調があり高速が発揮出来なかったため、バローニ大佐はこのままでは敵の圧倒的火力を前に撤退は不可能と判断、「エスペロ」を盾に他の船団を逃がすことを決めた。エスペロ」は煙幕を展開し、迂回行動を取って英艦隊を攪乱させて船団の逃亡を試みた。バローニ大佐の戦術は効果的であった。英艦隊は「エスペロ」との戦いに多くの弾薬を使い、弾薬不足に陥った

この間に、残る2隻の駆逐艦「ゼフィッロ」「オストロ」に護衛された船団はトブルク港に辿り着くことに成功している。軽巡シドニー」の攻撃によって「エスペロ」は撃沈、バローニ大佐も戦死したが、「エスペロ」も軽巡リヴァプール」を攻撃し、これを小破させて一矢を報いた。結局トーヴィー提督は弾薬欠乏のためにイタリア船団への追撃を中止し、アレクサンドリアへの帰港を決定したのであった。結果として、イタリア艦隊は駆逐艦1隻による捨て身の反撃によって、船団輸送に成功し、戦略的な勝利を得たのである。この海戦の結果により、イタリア側は航空偵察の不足を痛感し、英国側は昼間における高速艦隊との戦いは困難であると実感した。

 

■7月9日:プンタ・スティーロ海戦

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1940年7月9日:プンタ・スティーロ海戦

 地中海戦線最初の一カ月が終わり、7月に突入した。イタリア陸軍はこの月は東アフリカ戦線で攻勢を行い、スーダン南東部とケニア北部の制圧に成功した。一方で、地中海方面では同戦線初となる、主力艦隊同士の衝突が発生した。その海戦が「プンタ・スティーロ海戦(英語ではカラブリア沖海戦とも)」である。

バルボ元帥の戦死後、後任としてリビア総督を兼任した陸軍参謀長ロドルフォ・グラツィアーニ元帥(Rodolfo Graziani)はエジプト侵攻計画のために本土への増援要請を行った。海軍はリビアへの大規模輸送船団を組織し、リビアへの派遣を決定した。4隻の輸送船がナポリから、もう1隻の輸送船はカターニアから出発し、計5隻の輸送船団がリビアベンガジ港に向かった。この輸送船団をイニーゴ・カンピオーニ(Inigo Campioni)提督率いる戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする主力艦隊が護衛した。この輸送船団は約2000人の兵員、72輌のM11/39中戦車、232輌の戦闘車両、更に約1万トンの物資と約6千トンの燃料を運ぶ大船団であった。

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イタリア戦艦「ジュリオ・チェーザレ

一方で、英海軍側は先のエスペロ船団の海戦の結果を受けてマルタ船団の出発を中止したため、アレクサンドリア港から主力艦隊を出港させ、マルタに向かわせていた。戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、アンドリュー・カンニンガム(Andrew Cunningham)提督の指揮下にあった。つまり、両艦隊の衝突は双方共に船団護衛任務中に発生した。ジュゼッペ・ロンバルディ(Giuseppe Lombardi)提督率いるSIS(海軍諜報部)は電波傍受によって英艦隊側の行動を把握しており、更にCANT Z.506による水上偵察により、敵艦隊の位置を把握していた。カンピオーニ提督は船団を護衛するために敵艦隊の迎撃を開始しようとしたが、カヴァニャーリ提督率いるスーペルマリーナは夜間戦闘で艦隊が損害を受けることを考慮し、敵艦隊への接触を避けるように命令した。英艦隊はエーゲ海諸島から出発したイタリア空軍のサヴォイアマルケッティSM.79及びSM.81爆撃機の攻撃を受け、軽巡グロスター」が大きな損害を受けた。「グロスター」は艦橋に爆弾が直撃し、艦長含む司令部が戦死。更に操縦桿と主砲が使用不能となった。こうして、イタリア艦隊は船団護衛を成功させ、7月8日の午後にトブルク港に到着した。

船団護衛を終えたカンピオーニ提督率いるイタリア艦隊はターラント軍港への帰路についたが、英海軍側もイタリア艦隊の位置を航空偵察で把握しており、7月9日の正午にカラブリア、プンタ・スティーロ沖にて両艦隊は遭遇した。イタリア艦隊はカンピオーニ提督率いる戦闘艦隊(第一艦隊)と、リッカルド・パラディーニ(Riccardo Paladini)提督率いる援護艦隊(第二艦隊)で構成されていた。第一艦隊戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦2隻(「ジュリオ・チェーザレ」「コンテ・ディ・カヴール」)、軽巡8隻(「バルビアーノ」「ジュッサーノ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「ドゥーカ・ダオスタ」「モンテクッコリ」「アッテンドーロ」「アブルッツィ」「ガリバルディ」)、駆逐艦14隻で構成され、第二艦隊重巡「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「ザラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「トレント」「ボルツァーノ」)、駆逐艦12隻で構成されていた。一方で、英艦隊は戦艦「ウォースパイト」を旗艦とし、戦艦3隻(「ウォースパイト」「マラヤ」「ロイヤル・サブリン」)、空母1隻(「イーグル」)、軽巡5隻(「オリオン」「リヴァプール」「グロスター」「シドニー」「ネプチューン」)、駆逐艦16隻で構成された。

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カラブリア州モナステラーチェに残るプンタ・スティーロ海戦の記念碑(2018年2月3日筆者撮影)

海戦は英空母「イーグル」の艦上雷撃機による雷撃によって始まったが、これは失敗した。その後、両艦隊による砲撃戦が開始。軽巡ガリバルディ」の砲撃を受け、軽巡ネプチューン」はカタパルトと艦載機を破壊される損害を受け、甲板が炎上した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」は主砲斉射により、駆逐艦「ヘレワード」及び駆逐艦「デコイ」に損害を与えた。イタリアの測距儀は英艦隊の測距儀より優れた性能を持っていたため、これは英艦隊にとって大きな脅威となった。

戦艦「ウォースパイト」は「ジュリオ・チェーザレ」に対して直撃弾を与えたが、これは約26,000mも離れた距離から当たったため、「移動目標に対する最長の命中記録」として記録されている(ボイラー室が損傷したため速度が下がったが、迅速なダメコンによって「チェーザレ」は被害自体は最小限に抑えることが出来た)。重巡ボルツァーノ」も敵艦隊との交戦で損害を受けた

この海戦は双方に損害を齎した後、決定的な勝敗がつかずに両艦隊は帰港を決定した(事実上の引き分け)。ムッソリーニはこれを英艦隊を撃退した一大勝利として称えた。更に、イタリア艦隊は既に大輸送船団のリビアへの護衛を無傷で成功させていた上英海軍のマルタ到達を阻止したため、戦略的な勝利とも言える。カンピオーニ提督は主力艦が旧式戦艦2隻(カヴール級)という状況で戦力に勝る英艦隊と拮抗した戦いを繰り広げた事に対して、大きな自信を得られたとしている。この海戦で、伊空軍の追撃を合わせると、イタリア側は英艦隊に対して軽巡グロスター」及び「ネプチューン」、駆逐艦「ヘレワード」及び「デコイ」に対して損害を与え自軍は戦艦「チェーザレ」及び重巡ボルツァーノ」を損傷した。一方で、主力艦が2隻しか行動不能である状態に「チェーザレ」が損害を受けたことは伊艦隊側の行動を抑制した。海戦後、「チェーザレ」はラ・スペツィアで修復され、翌月に戦線に復帰した。一方、この段階でリットリオ級2隻はまだ出撃準備が整っていなかったため、イタリアの主力戦艦は「カヴール」1隻のみという状態になった。

なお、プンタ・スティーロ海戦はイタリア映画の巨匠ロッセリーニ監督の『白い船』でも描かれている。気になる人はぜひ見てみてほしい。

 

■7月19日:スパダ岬沖海戦

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1940年7月19日:スパダ岬沖海戦

プンタ・スティーロ海戦の余波が残っている中、イタリア艦隊は東地中海における英船団攻撃の強化のため、エーゲ海諸島への艦隊派遣を決定した。イタリアは伊土戦争によってドデカネス諸島を獲得しており、東地中海を勢力圏とする英国、そして近隣諸国のギリシャとトルコにとっては大きな脅威となっていた。ルイージ・ビアンケーリ(Luigi Biancheri)提督率いるエーゲ海艦隊は小規模戦力ながら東地中海において船団攻撃を実行し、駐在空軍も英軍拠点や船団への爆撃を行い、英国側に打撃を与えていた。スーペルマリーナは英国の勢力圏である東地中海を脅かすため、戦力強化を決定した。

艦隊はフェルディナンド・カサルディ提督(Ferdinando Casardi)によって指揮され、旗艦である軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ」及び僚艦・軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」の軽巡2隻で構成された。トリポリ港を出港したカサルディ艦隊はエーゲ海諸島のレーロ軍港を目指した。英艦隊側はこの2隻の軽巡戦隊の移動を哨戒によって把握しており、軽巡シドニー」を旗艦とする艦隊を出撃させた。この艦隊はジョン・コリンズ提督(John Collins)によって指揮され、軽巡1隻駆逐艦5隻で構成された。

スーペルマリーナはエーゲ海諸島駐屯空軍に航行の安全を確保するために航空偵察を要請した。空軍部隊は航空偵察を実行したが、敵艦隊を発見できなかった。一方、トリポリを出港した2隻のイタリア軽巡だったが、「コッレオーニ」は機関の不調を起こしていた。そんな中、7月19日の夜明けにクレタ島東部のスパダ岬沖にてカサルディ提督率いる巡洋艦戦隊はコリンズ提督率いる英艦隊を発見し、交戦を開始した。

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イタリア軽巡ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

当時、海は荒れており、更に霧による視界不良により砲撃の命中率が下がった。「コッレオーニ」は機関の不調により不動の状態の中で軽巡シドニー」による連続の砲撃、更に駆逐艦隊による雷撃を受けて撃沈された。「コッレオーニ」が瞬く間に撃沈された要因として、機関の不調だけでなく、イタリアの巡洋艦は高速能力を実現するために総じて軽装甲(英国側が言うには「紙装甲」)であったことが挙げられる。防御性能を持たない「コッレオーニ」は悪天候の中で敵艦隊に袋叩きにされるに至った。一方で、「バンデ・ネーレ」は「シドニー」に対して砲撃を命中させて損害を与えた。コリンズ提督は弾薬の欠乏と損害のために「バンデ・ネーレ」に対する追撃を中止し、「バンデ・ネーレ」はベンガジに辿り着いた。空軍部隊の航空支援は今回も対応に遅れたが、爆撃によって駆逐艦「ハヴォック」が中破するなど英艦隊側も被害を受けている。

この海戦においてイタリア巡洋艦の装甲の薄さ、空軍の航空支援の対応の遅さが露呈した。カサルディ提督はその後軽巡「ドゥーカ・ダオスタ」に旗艦を変更し、東地中海における船団護衛、ギリシャ沿岸部への艦砲射撃、機雷敷設といった数々の任務を成功させて活躍、スパダ岬の敗北イメージを払拭させることに成功した。

 

■8月15日:ティノス港攻撃

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1940年8月15日:ティノス港攻撃

1940年8月、地中海戦線では相変わらず潜水艦と水雷艇駆逐艦の戦いが継続され、戦局に大きな変化はなかった。なお、この月には潜水艦「マラスピーナ」がジブラルタル海峡を突破し、イタリア潜水艦として初めて大西洋で戦果を挙げた。また、陸軍の動向では東アフリカ戦線でグリエルモ・ナージ(Guglielmo Nasi)将軍率いる伊軍部隊が英領ソマリランド全域を完全制圧し、英軍は今大戦で初の自国領(植民地を含む)における決定的な敗北を喫することとなった。イタリア軍は戦局を有利に進めていた。

エーゲ海方面ではこの頃、「ティノス港攻撃」と呼ばれる事件が起こっている。ギリシャ侵攻計画に賛同し、対ギリシャ工作を実行していたエーゲ海総督のチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(Cesare Maria De Vecchi)はエーゲ海における特殊作戦を命じた。ギリシャ領海を航行する連合軍側の輸送船を攻撃することであった。これは、スーペルマリーナからもたらされた情報に基づくものであったが、当時はギリシャは中立国であるため、この作戦は秘密裏に実行されることとなった。 

デ・ヴェッキの命令はティノス島及びシロス島近海とのことであった。このギリシャ領海における輸送船攻撃作戦はジュゼッペ・アイカルディ中尉が艦長を務める潜水艦「デルフィーノ」に任された。「デルフィーノ」はティノス港に入港するギリシャ軽巡「エリ」と輸送船2隻を発見した。この時、ギリシャでは「生神女就寝祭」と呼ばれる正教会の祭日であり、「エリ」はその式典参加のためにティノス島を訪れていた。アイカルディ艦長は「エリ」と共に航行していた輸送船が「中立国であることを示す旗を掲げていなかった」ために雷撃を実行し、「エリ」は撃沈された。

この問題はギリシャ・イタリア関係を極度に悪化させる事態となった。中立国であるギリシャ軍艦をイタリア潜水艦が撃沈したため、当然である。イタリア側は関与を否定して英国の仕業であると主張したが、英国はそれを否定し、イタリア側の仕業であると反論した。ギリシャ側は魚雷の破片がイタリア製であったことを確認していたが、関係悪化を恐れてイタリア側には通告しなかった。しかし、イタリア側のギリシャ侵略への意思は揺らぐことはなく、10月末にはイタリアは侵攻作戦を開始することとなる。

 

■10月12日:パッセロ岬沖海戦

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1940年10月12日:パッセロ岬沖海戦

1940年9月、グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍はエジプトへの侵攻を実行し、シディ・バッラーニまでの制圧に成功した。東アフリカ戦線においても伊軍は戦局を有利に進め、更に9月27日には日独伊三国同盟が締結され、非参戦状態ではあるが日本はイタリアやドイツと同盟国となった。大西洋においてはアンジェロ・パローナ(Angelo Parona)提督率いるイタリア大西洋艦隊が発足し、潜水艦隊は着々と戦果を挙げていった。一方で、空軍は英国本土爆撃への参加やペルシャ湾油田への長距離爆撃を行うなど、その存在感を増していっていた。

マルタ島はイタリア参戦後からイタリア空軍による爆撃に晒されており、更に周囲はイタリアの制海権にあることから英海軍はこの拠点を失わない為にも必需物資の供給をしなければならなかった。シチリア島シラクーザ近郊、パッセロ岬にて哨戒中であったカルロ・マルゴッティーニ大佐(Carlo Margottini)率いる第11駆逐戦隊は、10月12日の夜明けにマルタに向かっていたデズモンド・マッカーシー大佐(Desmond McCarthy)率いる英艦隊を発見、交戦を開始した。伊英艦隊初の夜間戦闘であった。

イタリア側は駆逐艦「アルティリエーレ」を旗艦とし、駆逐艦8隻・水雷艇6隻で構成された。一方で、英国側は軽巡「エイジャックス」を旗艦とし、重巡1隻(「ヨーク」)、軽巡7隻、駆逐艦16隻で構成されていた。水雷艇「アイローネ」「アルチョーネ」「アリエール」は軽巡「エイジャックス」に雷撃を発射するが、「エイジャックス」はこれを回避。更に「アイローネ」は追加で雷撃を行い、砲撃も実行。これに関しては、雷撃は回避されたが、砲撃は「エイジャックス」に命中し、損害を与えた

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軽巡「エイジャックス」

「エイジャックス」は反撃を開始し、水雷艇「アリエール」「アイローネ」は連続で砲撃を受けて撃沈。「アルチョーネ」は攻撃を回避して撃沈を免れた。続いて、旗艦「アルティリエーレ」が「エイジャックス」と交戦。「アルティリエーレ」は雷撃と砲撃を行い、雷撃は「エイジャックス」によって回避されたが、砲撃は命中し、レーダーを破壊して使用不能にするなど損害を与えた。しかし、その後の追撃で重巡「ヨーク」の攻撃を受けて「アルティリエーレ」は撃沈されてしまった。残存イタリア艦隊は煙幕を展開し、アウグスタ港に帰港することに成功した。

この海戦を受けて、夜間戦闘においてイタリア艦隊は圧倒的に不利な状況にあると確信した。スーペルマリーナは英艦隊がレーダーを使用している可能性を疑ったが、この段階では推測に過ぎず、カヴァニャーリ提督はレーダーの開発再開を命じることはなかった。また、航空偵察の欠如はこの海戦においても指摘されていた。

 

■11月11日~12日:ターラント空襲

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1940年11月11日-12日:ターラント空襲

ターラントの夜(Notte di Taranto)」はイタリア海軍にとって、大戦を通じて最大の大惨事となった。カヴァニャーリ提督率いるイタリア海軍は依然として現存艦隊主義を掲げており、ターラント軍港にはリットリオ級戦艦「リットリオ」及び「ヴィットリオ・ヴェネト」、カヴール級戦艦「カヴール」及び「チェーザレ」、そしてドゥイリオ級戦艦「ドゥイリオ」及び「ドーリア」の6隻の主力戦艦が大集結していた。英海軍のカンニンガム提督はこの現存艦隊主義によって地中海の制海権が脅かされ、連合軍船団の航行が困難となっていることを考え、ターラント軍港を襲撃し、主力戦艦を一挙に行動不能とする計画を実行した。

空母「イラストリアス」から発進したソードフィッシュ雷撃機20機による攻撃が行われた。第一班は11月11日夜20時40分、第二班は夜22時に出動した。22時50分、ターラント軍港にて空襲警報が発令、照明弾によって主力艦隊がはっきりと照らし出され、まず「カヴール」への攻撃が行われた。「カヴール」はプリエーゼ式水雷防御システムの範囲外であり、急所である船底に雷撃が被弾し、更に港湾内という環境ゆえに雷撃の威力が増幅され、港湾内で撃沈された。しかし、雷撃機も「カヴール」の機銃掃射で撃墜されている。「リットリオ」に対しては左舷の艦尾と艦首に雷撃を食らった。「ヴィットリオ・ヴェネト」及び「ドーリア」に対しても攻撃が実行されたが、これは失敗した。

次いで、第二班による攻撃も連続で行われた。これを受け、「ドゥイリオ」は右舷艦首に雷撃を受け大破。更に「リットリオ」が再度攻撃を受けて大破、また「ヴィットリオ・ヴェネト」と重巡「ゴリツィア」も攻撃を受けたがこれは再度失敗している。また駆逐艦「リベッチオ」及び「ペッサーニョ」、重巡トレント」も被害を受けた

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イタリア主力艦隊が攻撃を受けた、ターラント軍港のマル・グランデ(Mar Grande)。現在もイタリア主力艦隊(空母2隻を主軸とする)の母港で、後方に主力空母「ガリバルディ」及び「カヴール」が見える(2017年5月27日筆者撮影)

これを受け、主力戦艦3隻が行動不能となる大惨事となってしまった。「カヴール」に至っては浮揚され、その後修復が開始されたが損害が酷く、結局修復は完了しなかった。「リットリオ」は翌年3月、「ドゥイリオ」は翌年5月までに修復を完了して復帰している。このターラント空襲の結果から、イタリア戦艦に搭載された「プリエーゼ式水雷防御」が欠陥と言われることがあるが、その評価は正しくない。最も被害の大きかった「カヴール」に至ってはそもそもプリエーゼ式水雷防御の範囲外である船底に攻撃を食らい、そこはそもそも船の弱点であった。それに加え、港湾は水深が浅いために雷撃の威力が増幅されたことが、「カヴール」がたった一発の雷撃で沈んだ原因である。

「ドゥイリオ」に関しては、カヴール級同様に旧式戦艦を改修してプリエーゼ式水雷防御を搭載したため、本来の性能を発揮出来ていなかった、と言われる。と言えども、撃沈は免れて翌年には復帰した。「リットリオ」は今回の攻撃で計3本もの雷撃を食らったが、受けた攻撃の被害は最大であったにもかかわらず、最短で修復が完了した。なお、実戦においてはリットリオ級は度々戦場で雷撃を受けているが、ダメージを軽減して自力の航行で帰港しているため、プリエーゼ式水雷防御は効果的な防御システムであったと評価出来るだろう(この海戦については後に説明する)。

ターラント空襲の被害を受け、海軍参謀長カヴァニャーリ提督は更迭され、新たな参謀長にはアルトゥーロ・リッカルディ(Arturo Riccardi)提督が就任した。彼の就任後、艦隊の基本方針(現存艦隊主義)は燃料不足から継続されたが、艦隊指揮官の裁量権の向上、保守的な兵器開発方針の変更などをおこなっている。また、被害を受けた戦艦の修復を巡り、設計者であったウンベルト・プリエーゼ(Umberto Pugliese)造船中将が復帰している(プリエーゼ式水雷防御の名前のもとになった人物)。プリエーゼ提督はユダヤ系の出自であったため、ファシスト政権による反ユダヤ諸法「人種法」によって失脚していたが、この非常事態によって「特例」として「人種法」適用外になり、海軍へ復帰させられたのであった。

 

■11月12日:オトラント海峡海戦

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1940年11月12日:オトラント海峡海戦

一方で、英海軍はターラント空襲と同時に、イタリア海軍への陽動のために、オトラント海峡への進出を行った。ヘンリー・プリダム・ウィッペル(Henry Pridham-Wippell)提督率いる英艦隊は軽巡「オリオン」を旗艦とし、軽巡3隻(「オリオン」「シドニー」「エイジャックス」)、駆逐艦2隻(「モホーク」「ヌビアン」)で構成された。丁度、南部アドリア海ではジョヴァンニ・バルビーニ(Giovanni Barbini)大佐率いる水雷艇「ファブリツィ」を旗艦とし、僚艦である仮装巡洋艦「ラム3」で構成された艦隊が4隻の輸送船を護衛し、アルバニアのヴロラ港(ヴァロナ港)に向かっていた。当時、イタリアはギリシャ侵攻を開始しており、アルバニアへの物資補給が急がれていた。

11月12日の深夜1時20分に艦隊は遭遇し、交戦を開始した。旧式の水雷艇軽武装仮装巡洋艦で構成された護衛艦隊では、軽巡3隻と駆逐艦2隻で構成された英軍陽動艦隊には太刀打ちすることも不可能であった。水雷艇「ファブリツィ」は大きな損害を受けて中破し、司令官であるバルビーニ大佐も重傷を受けた。バルビーニ大佐は重傷を負いながらも「ファブリツィ」で指揮を続け、何とか「ラム3」と共に撃沈を免れてバーリ港に避難した。イタリア空軍は即座に反応し、敵艦隊の捜索を行ったが見つからなかった。結果として、英海軍側の陽動は成功したのであった。

 

■11月17日:ホワイト作戦阻止

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1940年11月17日:ホワイト作戦阻止

ターラント空襲によって、英海軍地中海艦隊司令カンニンガム提督はイタリア艦隊は更に消極的になり、港に引きこもるだろうと予想していた。しかし、それは11月17日のっホワイト作戦発動により裏切られることとなった。 実際、イタリア艦隊は大きな損害を受けており、地中海における制海権は英国有利になっていたが、イタリア艦隊は英海軍側が思っていたようには臆病ではなかった

ターラントの奇襲によってイタリア主力艦隊の脅威を一掃したと考えた英軍は、マルタ防衛のために同島の航空機増強を計画した。ジェームズ・サマヴィル提督(James Somerville)は11月15日にジブラルタルを出港、1940年11月17日、英海軍はマルタ島への航空機輸送作戦「ホワイト」を発動、空母「アーク・ロイヤル」及び空母「アーガス」から艦載機がマルタに向けて発艦した。これを巡洋戦艦レナウン」及び軽巡2隻・駆逐艦7隻が護衛した。

しかし、ロンバルディ提督率いるSISはこの情報を入手し、英海軍の動向を把握したカンピオーニ提督率いる第一艦隊はナポリを出港し、これの迎撃に出撃した。戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、サルデーニャから出港した戦艦「ヴィットーリオ・ヴェネト」と合流し、2隻の重巡(「トレント」及び「ボルツァーノ」)、数隻の駆逐艦で構成されていた。このイタリア艦隊の登場は、英海軍側の完全な予想外であり、英海軍の作戦妨害に効果的であった。発艦時間を早めた結果、様々な要因によって英海軍の作戦は失敗することとなったからである。発艦した14機の内9機が失われ、僅か5機しかマルタ島に到着できず、英海軍による航空機輸送作戦は失敗した。特に、経験豊富な戦闘機パイロットを失ったのは英国にとって打撃が大きく、サマヴィル提督は「凄まじい失敗である」と述べたイタリア艦隊は英海軍の作戦阻止に成功し、「イタリア主力艦隊は港に引きこもっている」という英国側の予想は完全に外れることとなった

 

■11月27日:テウラダ岬沖海戦

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1940年11月27日:テウラダ岬沖海戦

先のホワイト作戦の大失敗により出鼻を挫かれた英艦隊であったが、ターラント空襲の余波でイタリア海軍が麻痺している間に、大輸送船団の地中海横断計画を立てた。これは11月24日から開始され、まず輸送船団がジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、同じくジブラルタル出港の巡洋戦艦レナウン」及び空母「アーク・ロイヤル」を始めとする艦隊(巡洋戦艦1、空母1、巡洋艦2、駆逐艦9、コルベット4)がこれを護衛した。同時にアレクサンドリア港から「ラミリーズ」など戦艦5隻、空母2隻及び巡洋艦3隻が出港した。この計画はアレクサンドリア港を出た艦隊のうち、空母1隻と戦艦2隻はシチリア海峡を通過したところでアレクサンドリア港に引き返し、他の空母1隻と戦艦2隻は輸送船の護衛、残りの戦艦1隻と巡洋艦3隻は航行を続けてジブラルタルに入港することとなった。

11月26日、スーペルマリーナはこの英艦隊への攻撃を決定し、艦隊を出発させた。カンピオーニ提督率いる第一艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の戦艦2隻と7隻の駆逐艦で構成された。第二艦隊は指揮を執るパラディーニ提督が心臓疾患で倒れたため、後任司令官となったアンジェロ・イアキーノ提督(Angelo Iachino)のもとで、重巡洋艦「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻(「ポーラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トリエステ」「トレント」)及び駆逐艦7隻で構成されていた。この出撃によって、ホワイト作戦に続き、英海軍による「イタリア海軍引きこもり論(仮)」を最早意味のないものと化した。

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イタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」

11月27日には、サルデーニャ島南のテウラダ岬沖(スパルティヴェント岬沖とも)にて、イタリア艦隊はサマヴィル提督率いる英国艦隊と遭遇した。これは、二度目の伊英主力艦隊同士の大規模海戦となった。英国艦隊はサマヴィル提督率いるB部隊とランスロットホランド提督(Lancelot Holland)率いるF部隊で構成された。B部隊は巡洋戦艦レナウン」を旗艦とし、戦艦「ラミリーズ」、空母「アーク・ロイヤル」、駆逐艦9隻で構成された。F部隊は重巡1隻(「ベリック」)、軽巡4隻(「マンチェスター」「サウサンプトン」「シェフィールド」「ニューカッスル」)で構成されていた。その他、軽巡「ディスパッチ」及び「コヴェントリー」、駆逐艦数隻が艦隊に加わった

戦闘開始後、イアキーノ提督率いる第二艦隊は戦闘を有利に進めていき重巡「ポーラ」及び「トレント」の砲撃を連続で受けて重巡「ベリック」は中破、後部砲塔が使用不能になった。一方で、巡洋戦艦レナウン」の攻撃を受けて「トリエステ」が小破、更にマンチェスター」の攻撃で駆逐艦「ランチエーレ」が大破。航行不能となった「ランチエーレ」は駆逐艦「アスカリ」によって基地に曳航されている。

戦闘を有利に進めていたイアキーノ提督率いる第二艦隊であったが、「ランチエーレ」の被害を受けてカンピオーニ提督は戦闘中止をイアキーノ提督に命令したため、撤退した。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」の主砲斉射によって英艦隊は後退し、また「ヴェネト」の主砲攻撃によって「マンチェスター」も小破した。これを受けて、損害の拡大を望まなかった英艦隊は撤退を決定し、海戦はプンタ・スティーロ海戦同様に互角の戦いを繰り広げた上に、双方に被害を出す形で勝敗付かずに終了した。しかし、英艦隊を撃退し、その後英艦隊はジブラルタルへ帰港したため、イタリア側の戦略的勝利と言えなくもない。サマヴィル提督は一連の失敗によりチャーチルに叱責され、解任騒ぎにまでなったが、他の提督らが擁護したことで事なきを得た。

 

 

このテウラダ岬海戦の後、海軍を含む軍部の大改革が行われた。12月8日、先述したようにターラント空襲の結果を受けてカヴァニャーリ提督が海軍参謀長から解任され、新たにリッカルディ提督が就任した。また、海軍首脳部の人事異動も行われ、第一艦隊司令官のカンピオーニ提督は海軍参謀次長、第二艦隊司令官のイアキーノ提督は第一艦隊と第二艦隊が統合された「主力艦隊」の司令官に任命されたのであった。

1940年の海戦は伊英両艦隊は互角の戦いを繰り広げて勝敗をはっきりつけることが双方共に出来なかったが、2つの大規模海戦ではイタリア側が戦略的勝利を手に入れたと言える。11月のターラント空襲の結果を受けて地中海における制海権は英国側に揺れ動いたが、その後もイタリア艦隊は積極的に出撃して英海軍の行動を牽制し、英海軍側が思っていた程には有利に戦局が展開しなかった

こうして、ターラント空襲を機に行われた人事異動の結果、新たなる参謀長と艦隊指揮官のもとで、次の1941年の戦いを迎える事になったのである。というわけで、次回は1941年の海戦を紹介するとしよう。

↓次回(1941年の海戦)はこちら

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■主要参考文献
Arrigo Petacco著 "Le battaglie navali del Mediterraneo nella seconda guerra mondiale", 1995, Mondadori
B.Palmiro Boschesi著 "L' Italia nella II guerra mondiale. (10/VI/1940 - 25 /VII /1943)", 1975, Mondadori
Pier Paolo Battistelli/Piero Crociani著 "Reparti d'élite e forze speciali della marina e dell'aeronautica militare italiana 1940-45", 2013, LEG Edizioni
Giorgio Giorgerini著 "Uomini sul fondo", 2002, Mondadori
Aldo Cocchia著 "Convogli -Un marinaio in guerra 1940-1942", 2004, Mursia
吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939-1945』, 2006, イカロス出版
吉川和篤著『Viva! 知られざるイタリア軍』.2012, イカロス出版