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「潜水艦大国」イタリアの潜水艦隊の活躍 ―海の狼、出撃せよ!―

第二次世界大戦時のイタリア海軍はあまり知られてはいないが、実は世界でも屈指の潜水艦大国であった。これは時のイタリア海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督の戦略によるもので、1940年の開戦時には実に計117隻(アドゥア級17隻、アルゴナウタ級7隻、ペルラ級10隻、シレーナ級12隻、アルキメーデ級2隻、アルゴ級2隻、バリッラ級4隻、バンディエーラ級4隻、ブラガディン級2隻、ブリン級5隻、カルヴィ級3隻、フィエラモスカ級1隻、フォカ級3隻、グラウコ級2隻、H(アッカ)級5隻、リウッツィ級4隻、マメーリ級4隻、マルチェッロ級11隻、マルコーニ級6隻、ミッカ級1隻、ピサーニ級4隻、セッテンブリーニ級2隻、スクァーロ級4隻、X級2隻もの総数を誇り、ソ連に次いで世界で二位の潜水艦保有数だった。これに戦時中に建造されたアンミラーリ級、トリトーネ級、プラティーノ級、R級、ポケット潜水艦のCA級とCB級、更にはフランス海軍とユーゴスラヴィア海軍から鹵獲した潜水艦が加わった。

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アンミラーリ級潜水艦「アンミラーリオ・カラッチョロ」

ドイツの潜水艦増産は開戦後で、英国も開戦前は潜水艦をあまり作っていなかった。しかし、イタリアの参戦後にS級やT級U級などの近距離哨戒用の潜水艦を大量生産することになる。

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イタリア潜水艦隊司令官(1940-41):マリオ・ファランゴーラ提督

なお、イタリア潜水艦隊の開戦時の総司令官はマリオ・ファランゴーラ提督であり、1941年12月にアントニオ・レニャーニ提督と交代するまで地中海で潜水艦作戦を指揮した。ファランゴーラ提督は海軍の練度不足、潜水艦の技術的な欠点、空軍との協力不足などを詳細に描いた報告書を報告した後、潜水艦隊司令官を解任され、沿岸警備隊の司令官に任命、休戦時もその職であった。

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イタリア潜水艦隊司令官(1941-43):アントニオ・レニャーニ提督

その後は後任のレニャーニ提督が休戦まで潜水艦隊の指揮を執った。レニャーニ提督は元々は軽巡洋艦ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アオスタ」を旗艦とする第八巡洋艦隊の司令官で、同艦隊の指揮を執り、プンタ・スティーロ沖海戦やマタパン岬沖海戦といった主要な海戦で戦った人物だった。

また、レニャーニ提督の息子であるエミーリオ・レニャーニ海軍大尉は第18戦隊所属のMAS568艇の艇長として、休戦前に黒海にてソ連海軍のキーロフ級重巡洋艦モロトフ」を大破させた戦果で知られる。

なお、このファランゴーラ提督とレニャーニ提督の二人は、両方共ファシスト政権の熱狂的な支持者であり、休戦後は二人とも北部のイタリア社会共和国(RSI)海軍に合流している。RSI海軍では、ファランゴーラ提督は艦隊司令官、レニャーニ提督は海軍参謀長となって海軍再建に尽力している。

イタリア海軍の潜水艦隊は地中海だけでなく、紅海や大西洋、更には黒海、果てにはインド洋や太平洋にまで活躍した。ここでは、特筆すべき戦果を挙げたイタリア海軍の潜水艦たちについて紹介しよう。

今回紹介するのは以下のとおり。

アドゥア級「シィレー」
マルコーニ級「レオナルド・ダ・ヴィンチ
カルヴィ級「エンリコ・タッツォーリ」
ペルラ級「アンブラ」
バリッラ級「エンリコ・トーティ」
マルチェッロ級「アゴティーノ・バルバリーゴ」
スクアーロ級「デルフィーノ」
バンディエーラ級「チーロ・メノッティ」
リウッツィ級「アルピーノ・バニョリーニ」
アドゥア級「アクスム
アドゥア級「アラダム」
アドゥア級「アシアンギ」
ラティーノ級「プラティーノ
ラティーノ級「アッチアイーオ」
ラティーノ級「アヴォリオ」
CB級ポケット潜水艦

 

アドゥア級潜水艦「シィレー」 

特殊作戦に従事したボルゲーゼ公の母艦

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潜水艦「シィレー」

アドゥア級潜水艦の一隻。就役は1938年8月10日。
第二次世界大戦時のイタリア潜水艦では最も有名ではないだろうか。第二次世界大戦時のイタリア海軍最大の貢献者とも言える、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ中佐の指揮の元、アレクサンドリア港攻撃やジブラルタル攻撃で人間魚雷「マイアーレ」の母艦として作戦に従事し、作戦を無事成功させた潜水艦だ。

「シィレー」を含むアドゥア級潜水艦は優れた性能から、特殊作戦に運用されることになった。「シィレー」は敵泊地攻撃のため、主砲を撤去して人間魚雷用の輸送管を設置された。まずはジブラルタル攻撃に投入された。「シィレー」から発進した人間魚雷はジブラルタルの連合軍の輸送船や武装商船を数隻撃沈することに成功し、人間魚雷「マイアーレ」の初戦果を華々しいものに飾ったのである。しかし、敵海域で人間魚雷を発進させることは非常に危険であるため、効率よく戦果を挙げるためにもボルゲーゼ中佐はアルへシラス港に伊海軍の秘密基地を作る事を決定した。これについてはまた別の機会に述べるとしよう。

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アレクサンドリア港攻撃で撃沈された英戦艦「クイーン・エリザベス」

次に、アレクサンドリア港攻撃についてだ。これはイタリア海軍史上最も有名な大勝利の一つと言っても過言ではないだろう。1941年12月18日、「シィレー」から発進したデ・ラ・ペンネ大尉率いる3隻の人間魚雷部隊は、厳重な哨戒艇の監視をかわしながら無事港内への侵入に成功した。そして、英国地中海艦隊の主力戦艦である「ヴァリアント」及び「クイーン・エリザベス」、更には駆逐艦ジャービス」、タンカー「サゴナ」を攻撃し、これらを大破させ、航行不能にしたのである。英首相チャーチルもこの攻撃によって我が地中海艦隊は存在しないも同然となった、と後に回顧録で述べている。

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ローマ・ヴィットリアーノに残る潜水艦「シィレー」の残骸。

1942年にはボルゲーゼ中佐は艦を降り、「シィレー」の指揮はブルーノ・ゼリク少佐に移った。ゼリク少佐はパレスチナのハイファ港の攻撃作戦を実行した。この作戦は人間魚雷ではなく、潜行部隊「ガンマ」の工作員を用いて同港を攻撃する作戦であった。しかし、これは成功しなかった。英国側に捕捉された「シィレー」は撃沈され、ゼリク少佐を含む乗組員は戦死した。撃沈された「シィレー」の残骸は戦後にイスラエル海軍によって回収され、イタリアに返還、現在はローマのヴィットリアーノ内に展示されている。

 

マルコーニ級潜水艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ

イタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦

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マルコーニ級潜水艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ

マルコーニ級潜水艦の一隻。就役は1940年3月5日。
潜水艦「レオナルド」はイタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦で、計17隻、総重量12万243トンもの連合軍船舶を撃沈した。これらは地中海ではなく、大西洋で挙げられた戦果であった。イタリア海軍はフランス休戦後、アンジェロ・パローナ提督の指揮下で南仏ボルドーに大西洋潜水艦隊の基地、ベータソム(BETASOM)を建設した。ベータソム基地のイタリア潜水艦隊はドイツ海軍のUボートと共に大西洋で通商破壊作戦に従事した。しかしドイツ海軍から任されたのは、南大西洋からインド洋に掛けての作戦範囲であり、これは会敵機会が北大西洋に比べて少なかったため、イタリア側から不満が生じた。これは両海軍間の対立によるものであった。

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「レオナルド」を指揮したルイージ・ロンガネージ・カッターニ大尉

とはいえ、ベータソム基地のイタリア潜水艦は多くの戦果を挙げた。この代表例がこの潜水艦「レオナルド」であった。その指揮を執ったのはルイージ・ロンガネージ・カッターニ大尉で、潜水艦エースの一人として知られている。しかし、連合軍側の潜水艦索敵能力の向上によって、イタリア潜水艦が戦果を挙げるのも徐々に難しくなっていった。なお、日本ではレオナルド・ダ・ヴィンチを「ダ・ヴィンチ」と呼ぶが、イタリア本国では一般的に「レオナルド」と呼ぶ。これはダ・ヴィンチが固有の苗字ではなく、「ヴィンチ村(トスカーナ地方の村)の~」という意味だからである。イタリア人に彼のことを話す時は気を付けよう。

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右の人物が「レオナルド」を指揮したジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐。左の人物は同じく潜水艦エースのディ・コッサート少佐。

イタリア海軍「デチマ・マス」のボルゲーゼ司令は奇妙な作戦を計画した。それはマルコーニ級潜水艦にCA型ポケット潜水艦を搭載し、ニューヨークを攻撃する作戦という大胆な作戦だった。数々の特殊作戦を成功に導いたボルゲーゼ中佐はその母艦としてこの潜水艦「レオナルド」を選んだのである。そして、「レオナルド」はニューヨーク攻撃作戦のために改造を受けた。その後、「レオナルド」はニューヨーク攻撃作戦の決行前に通商破壊作戦に従事した。1942年10月にカッターニ大尉から艦長を受け継いだジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐は、1943年4月に僅か一週間で計6隻(29480トン)もの連合軍船舶を南アフリカ沖で撃沈する戦果を挙げた。しかし、「レオナルド」がベータソム基地に帰還する事は無かった。5月の帰還時にボルドー手前で英海軍に捕捉され、撃沈されたからである。こうしてイタリア海軍最大の撃沈数を誇る潜水艦はその歴史に幕を閉じたのであった。そして、「レオナルド」の撃沈によって、更にはイタリア休戦の混乱によって、ニューヨーク攻撃作戦は完全に中止となった。

 

カルヴィ級潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

イタリアNo.2の撃沈数を誇る潜水艦

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潜水艦「エンリコ・タッツォーリ」

カルヴィ級潜水艦の一隻。就役は1936年4月18日。
「エンリコ・タッツォーリ」はイタリア海軍では、先述の「レオナルド」に続き、第二位の撃沈数を誇る潜水艦だ。撃沈数は「レオナルド」と同じ17隻だが、総トン数は88318トンで、「レオナルド」より少ない。

この艦も「レオナルド」同様にベータソム基地を拠点に大西洋で戦果を挙げた潜水艦だ。この潜水艦を指揮したのはイタリアを代表する潜水艦エースとして名高いカルロ・フェチア・ディ・コッサート少佐であった。「レオナルド」艦長のジャンフランコ・ガッザーナ・プリアロッジャ少佐とは戦果を競い合う良いライバルだったという。

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「タッツォーリ」を指揮したディ・コッサート少佐

1942年からはディ・コッサート少佐はチクローネ級水雷艇「アリセオ」の艦長となったため艦を降り、ジュゼッペ・ガイート大尉に艦長が変わった。「タッツォーリ」は日本への輸送任務のために改造され、遣日潜水艦作戦に出発したが、1943年5月以降、「タッツォーリ」から連絡は途絶え、消息不明となった。

 

ペルラ級潜水艦「アンブラ」

軽巡「ボナヴェンチャー」撃沈と、アルジェ港攻撃

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潜水艦「アンブラ」

ペルラ級潜水艦の一隻。就役は1936年8月4日。
潜水艦「アンブラ」は大西洋ではなく、地中海で戦果を挙げた潜水艦だ。「アンブラ」を指揮したのは、卓越した指揮官であるマリオ・アリッロ大尉で、彼の活躍は現在もラ・スペツィアの海軍技術博物館で展示が見られる。

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RSI時代のマリオ・アリッロ大尉の写真(ラ・スペツィア海軍技術博物館所蔵)

「アンブラ」の主な戦果は二つある。一つは、英国海軍のダイドー級軽巡洋艦「ボナヴェンチャー」の撃沈で、もう一つはアルジェ港の攻撃作戦である。

まずは「ボナヴェンチャー」の撃沈であるが、これは「アンブラ」がアレクサンドリア港周辺を哨戒中、1941年3月31日にギリシャからアレクサンドリア港へ船団護衛に従事していた英海軍の軽巡洋艦「ボナヴェンチャー」をクレタ島沖で発見。「アンブラ」はこれに雷撃し、「ボナヴェンチャー」の撃沈に成功したのである。

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「アンブラ」に撃沈された英軽巡「ボナヴェンチャー

続いてアルジェ港への攻撃作戦である。これは1942年12月12日に行われた作戦で、「アンブラ」から発進された人間魚雷部隊によるアルジェリアのアルジェ港攻撃作戦であった。アルジェリア植民地はヴィシー政権下のフランス支配下にあったが、1942年11月に行われたトーチ作戦によって既に連合軍の支配下にあった。そこで、アリッロ大尉率いる「アンブラ」はアルジェ港の攻撃作戦を実行。「アンブラ」から発進した人間魚雷部隊は厳重な警戒態勢のアルジェ港に無事侵入に成功し、潜行部隊「ガンマ」の工作によって連合軍船舶が数隻撃沈されたのであった。

1943年6月、アリッロ大尉はドイツ海軍から譲り受けられたUボートの受け取りのためにドイツに向かう事になり、艦長はレナート・フェッリーニ少佐に変わった。フェッリーニ少佐は「アンブラ」でMTM艇(バルキーノ)を輸送し、連合軍の占領下になっていたシチリアシラクーザ港の攻撃作戦を実行した。しかし、これは連合軍側に捕捉されて失敗に終わり、「アンブラ」も損傷した。休戦時は「アンブラ」はラ・スペツィアで修復中で、ドイツ軍に接収された。しかし、1944年の連合軍によるラ・スペツィア爆撃によって「アンブラ」は港湾内で撃沈されたのだった。

 

バリッラ級潜水艦「エンリコ・トーティ」

死闘の砲撃戦の末に英潜水艦「トライアド」を撃沈

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潜水艦「エンリコ・トーティ」

バリッラ級潜水艦の一隻。就役は1928年9月20日

第二次世界大戦開戦時の段階で既に旧式艦になっていた潜水艦「エンリコ・トーティ」であるが、ある特異な戦歴で知られている。

それは、英国海軍の潜水艦「トライアド」との砲撃戦を繰り広げた後、同潜水艦を撃沈した、という戦歴である。艦長はバンディーノ・バンディーニ大尉。1940年10月15日、ターラント湾にて「エンリコ・トーティ」艦長バンディーニ大尉は、「トライアド」を発見し、戦闘を開始した。「トライアド」は「エンリコ・トーティ」に魚雷を発射したが、「エンリコ・トーティ」はこれを回避、その後、両艦は砲撃戦を開始した。約3時間に渡る長い砲撃戦の末に、「エンリコ・トーティ」は「トライアド」に魚雷を発射、雷撃は見事命中し、「トライアド」は撃沈されたのであった。これは、CB型ポケット潜水艦の黒海でのソ連潜水艦に対する戦果を除けば、イタリア潜水艦が潜水艦を撃沈した唯一の例であった。

このエピソードは1942年の映画『アルファ、タウ!』でも描かれており、この映画では後半が「トライアド」との戦いを描いている。イタリア語版しかないが、是非見て欲しい作品だ。「トライアド」の撃沈後は数回の攻撃任務に参加した後、1942年3月からはポーラ軍港で潜水艦学校の訓練艦となった。6月まで92回の訓練任務に従事した後、6月からは新たな艦長ジョヴァンニ・チェレステ中尉の元でリビアへの輸送任務を行った。

 

マルチェッロ級潜水艦「アゴティーノ・バルバリーゴ」

世界が驚愕する大戦果?米戦艦二隻の「撃沈」

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潜水艦「アゴティーノ・バルバリーゴ」

マルチェッロ級潜水艦の一隻。就役は1938年9月19日。
潜水艦「バルバリーゴ」は面白い戦歴で知られる。「バルバリーゴ」のエンツォ・グロッシ艦長は、1942年5月にはブラジル沖にてアメリカ海軍の戦艦「メリーランド」と輸送船、タンカーを撃沈し、更に同年10月にはアフリカ西岸シエラレオネフリータウン港沖にて、アメリカ海軍の戦艦「ミシシッピ」を撃沈する戦果を挙げたと主張した。これは当時、イタリア各紙によって「潜水艦“バルバリーゴ”の英雄的快挙、世界の反響を呼ぶイタリア海軍の威力」として大々的に報じられた。米戦艦二隻を立て続けに撃沈するという戦果によってグロッシ艦長はムッソリーニヒトラーに激励され、勲章(金勲章と騎士鉄十字章)を授与され、更には大佐にまで昇進し、ベータソム基地の司令官にまでなった。彼は一躍イタリアの英雄となったのである。

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撃沈されたと誤認されたアメリカの戦艦「メリーランド」

しかし、戦後になってそのような事実は一切無かったことが判明した。実際には、5月に「バルバリーゴ」が攻撃したのはアメリカ海軍のオマハ軽巡洋艦ミルウォーキー」であり、10月に攻撃したのは英海軍のフラワー級コルベットペチュニア」だった。いずれに対しても、雷撃は行われたが、撃沈には成功していない。グロッシはこの2隻をアメリカの戦艦だと誤認した事に加え、雷撃後に速やかに撤退した為に撃沈したと誤認していたのだ。なお、グロッシ大佐の虚偽の報告を疑問視する声は当時からあり、その例として、当時ベータソム基地の司令官であったローモロ・ポラッキーニ提督による指摘があるが、グロッシの戦果を宣伝に利用したいイタリア政府によってポラッキーニ提督は左遷され、その後任としてグロッシが就任したのであった。

 グロッシが「英雄」となり船を降りた後、新たな艦長にはロベルト・リゴーリ中尉がなり、大西洋で通商破壊任務に従事した。その後、新艦長に任命されたウンベルト・デ・フリオ大尉の元で「バルバリーゴ」は遣日潜水艦作戦に参加する事になった。日本陸軍の軍人である権藤正威大佐も乗せていたが、モロッコ沖で連合軍機の攻撃を受けて撃沈された。

 

スクアーロ級潜水艦「デルフィーノ」

秘密作戦、ギリシャ軍港への攻撃作戦

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潜水艦「デルフィーノ」

スクアーロ級潜水艦の一隻。就役は1930年10月11日。

「デルフィーノ」は一つの特殊任務に参加した事で知られる。それは、ギリシャ海軍のティノス軍港への攻撃作戦であった。これは、時のエーゲ海諸島総督チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキが計画したものであった。デ・ヴェッキは「ファシスト四天王」と訳されるクァドルンヴィリ、すなわちファシスト党終身最高幹部の一人である人物で、ギリシャとの戦争に積極的に賛成していた。当時、ギリシャはまだイタリアとは開戦していなかったが、イタリアはギリシャへの侵攻を目論んでいた。すなわち、ギリシャはまだ中立国であった。そこで、デ・ヴェッキ総督は海軍参謀長カヴァニャーリ提督にこのティノス港攻撃を打診した。このティノス港攻撃は二つの意味があった。つまりは、ギリシャへの挑発行為であるのと同時に、ギリシャ海軍の戦力を事前に削いでおく意味があった。

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撃沈されたギリシャ軽巡「エリ」

海軍諜報部はギリシャ海軍の軽巡洋艦「エリ」がティノス港に式典への参列のために来港するという情報を入手し、これによって1940年8月15日に作戦は決行された。艦長はジュゼッペ・アイカルディ中尉であった。「デルフィーノ」は軽巡「エリ」の撃沈に成功したが、これは後にまでイタリア-ギリシャ関係に禍根を残すこととなった。

「エリ」の撃沈に関してイタリア側は関与を否定し、英国海軍の仕業だと断定し、英国を非難した。当の英国側は全く身に覚えが無いので、イタリアがやった事だとしてこれを非難した。なお、ギリシャ側は「エリ」撃沈後、「デルフィーノ」から発射された魚雷の断片を発見しており、これがイタリア製であることも判明していた。しかしギリシャ政府はイタリアとの戦争を避けるために事実を公表しなかったが、結局ギリシャの行動は無意味になった。その数か月後にムッソリーニギリシャに対して宣戦布告、侵攻を開始したからである。

「デルフィーノ」はその後、アルベルト・アヴォガドロ・ディ・チェッリオーネ大尉の指揮に移った。ギリシャ開戦後もギリシャ戦線に従事し、ギリシャ海軍の駆逐艦「プサラ」に雷撃したが、撃沈する事は出来なかった。その後は英国船団の妨害を行うために行動し、サルデーニャ島シチリア島マルタ島沖等で活動した。1942年2月から11月まではポーラ軍港で訓練艦任務を務め、1942年11月からはリビアへの輸送任務に従事している。

 

バンディエーラ級潜水艦「チーロ・メノッティ」

占領下のリビアへの極秘の上陸作戦!

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潜水艦「メノッティ」

バンディエーラ級潜水艦の一隻。就役は1930年8月29日。
第二次世界大戦参戦前では、フランコ政権側でスペイン内戦に秘密裏に参加しており、1937年1月31日には共和国政府側の輸送船を撃沈している。また、2月2日から3日にかけて、共和国政府側が支配するスペイン沿岸領域に1914年式102/35砲で艦砲射撃を実行、橋や道路などのインフラの破壊に成功した。

第二次世界大戦開戦後、初期は潜水艦エースとして名高いディ・コッサート少佐が艦長だったが、いくつかの攻撃任務の後、1940年秋ごろに彼がベータソム基地に配属となると、艦長は変更となった。その後、1942年1月まで地中海東部にて哨戒任務を行ったが、目立った会敵はなかった。5月からはリビアへの輸送任務に従事。1943年3月7日にはポーラ軍港にて訓練艦として使われている。

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リビアで戦う「サン・マルコ」連隊

「メノッティ」の注目すべき行動はその後である。1943年8月3日深夜、とある特殊作戦に「メノッティ」は参加した。それは、連合軍占領下にあったリビアベンガジへの秘密の上陸作戦である。これは連合軍が使用している軍事基地(特に空港)の破壊任務のためであり、ディ・マルティーノ中尉によって指揮された。海軍の陸戦部隊である海兵連隊「サン・マルコ」によって実行される事になった。兵員輸送のために、輸送任務に適していた「メノッティ」が選ばれたのである。作戦は決行され、「メノッティ」は兵員を輸送し、深夜にベンガジ近くの海岸に19人の「サン・マルコ」工作員が上陸に成功した。そして、工作員らは米軍及び英軍が使っているベンガジの飛行場にて、破壊工作に従事したのであった。

9月7日にはイタリア本土防衛のため、「プラティーノ」などと共に連合軍への待ち伏せ作戦「ゼータ」に参加する事になった。「メノッティ」はイオニア海にて敵艦隊を待ち伏せしていた。しかし、結局作戦は決行されず、休戦発表によってマルタで連合軍による武装解除を受けた。イタリア分裂後は共同交戦海軍の一員として戦い、終戦まで生き残った。

 

リウッツィ級潜水艦「アルピーノ・バニョリーニ」

第二次世界大戦における初戦果を挙げたイタリア潜水艦!

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潜水艦「バニョリーニ」

リウッツィ級潜水艦の一隻。就役は1939年12月22日。
「バニョリーニ」はイタリア海軍の潜水艦で一番最初に戦果を挙げた潜水艦であった。艦長は潜水艦エースのフランコ・トゾーニ・ピットーニ少佐。

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撃沈された英国海軍の軽巡洋艦カリプソ

1940年6月12日、すなわちイタリア参戦から2日後のことであった。ピットーニ少佐率いる「バニョリーニ」はクレタ島沖にて哨戒中、英国海軍の軽巡洋艦カリプソ」を発見した。「バニョリーニ」の雷撃により、「カリプソ」は撃沈され、これはイタリア潜水艦による、最初の戦果となった。もっと言えば、イタリア海軍艦艇による最初に戦果と言えるかもしれない。

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バニョリーニ艦長を務めたフランコ・トゾーニ・ピットーニ少佐

フランス休戦後、ベータソム基地が建設されると、「バニョリーニ」もベータソム基地の所属となり、大西洋での通商破壊任務に従事する事になった。ピットーニ少佐の元、再び戦果を挙げ、計3隻の撃沈数(総トン数は11142トン)の戦果を手に入れた。1941年になるとピットーニ少佐は艦を離れ、潜水艦「ミケーレ・ビアンキ」の艦長となった。夏には潜水艦「ビアンキ」は英駆逐艦に撃沈され、ピットーニ少佐は戦死してしまう。新たな「バニョリーニ」艦長はマリオ・テイ中尉だった。その後も大西洋での通商破壊に従事し、それは1943年まで続いた。1943年になると、日本への輸送任務を担う事になる。しかし、改装中にイタリア王国が休戦すると、ベータソム基地の司令官であるエンツォ・グロッシ大佐はRSIへの合流を宣言したため、「バニョリーニ」はドイツ・イタリアの混合の人員によって運営される事になった。この人員によって計画通り日本への輸送任務に就くことになったが、対潜能力を向上させた連合軍機によって捕捉され、1944年3月に撃沈された。

 

アドゥア級潜水艦

アクスム」「アラダム」「アシアンギ」

英海軍艦艇を撃沈した武勲艦たち

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アドゥア級潜水艦。上から「アクスム」「アラダム」「アシアンギ」

アドゥア級潜水艦は優れた性能を持っていたため、先述した「シィレー」を始め活躍した艦は多かった。その中でも特に特筆すべき活躍をした三つの艦を紹介する。

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アクスム」が撃沈した軽巡洋艦「カイロ」

アクスム」の就役は1936年12月2日。

アクスム」はスペイン内戦にも参加した。大戦勃発後、艦長はエミーリオ・ガリアッツォ少佐で、サルデーニャ島カリャリを基地として地中海西部での船団攻撃に従事した。1942年からは艦長がエミーリオ・フェッリーニ中尉となる。1942年8月12日、「アクスム」は英国船団の攻撃の為に哨戒任務をしていた。その目標はペデスタル船団のマルタへの到達阻止であった。「アクスム」はビゼルタ沖にて船団を発見し、攻撃を行った。これにより、英国海軍の軽巡洋艦「カイロ」が撃沈され、軽巡洋艦「ナイジェリア」も中破した。休戦後は共同交戦海軍に合流し、新たな艦長となったジョヴァンニ・ソッレンティーノ中尉の元で、ドイツ占領下のギリシャにスパイや工作員を秘密裏に上陸させる任務に従事した。

続いて、「アラダム」は1937年1月13日就役。

カリャリ基地を拠点に地中海西部で活動した。艦長はジュゼッペ・ビアンキーニ大尉。開戦後、リオン湾にてフランス船団の攻撃を実行するが失敗。フランス休戦後は休戦まで英船団攻撃に従事。11月には英国の航空機輸送作戦「ホワイト」に対し、主力艦隊と共に妨害を行い、この作戦を失敗させることに成功した。1942年4月6日、ケリビア東方沖にて英駆逐艦「ハヴォック」を発見し、撃沈することに成功。ハープーン船団攻撃以降はカルロ・フォルニ中尉に艦長が変更された。その後も船団攻撃に従事。休戦後は自沈され、ドイツ軍によって浮揚・修復されるが、1944年9月に連合軍の爆撃で撃沈。

最後の「アシアンギ」は1938年3月25日就役。

就任後、エーゲ海諸島のレーロ基地に配備。艦長はウーゴ・ジェッリ中尉。開戦後、カリャリ基地を拠点に地中海西部での船団襲撃任務で活躍した。1941年3月以降、艦長はオリント・ディ・セリオ中尉に変更され、1942年6月中旬には中部地中海にて英船団「ハープーン」の妨害に従事した。この後、艦長はロドルフォ・ボンヴィグ大尉に変更、彼の元で8月中旬に英船団「ペデスタル」妨害に従事。この作戦の後、再び艦長が変更され、リノ・エルレール中尉が艦長となった。彼の元で船団妨害や輸送任務に従事、1942年11月11日にはアルジェリア沖にて英掃海艇「アルジェライン」を撃沈に成功している。1943年春頃、修復のために母港に帰還した「アシアンギ」だったが、再び艦長が変更され、マリオ・フィオリーニ中尉が艦長となった。彼はシチリアに上陸する連合軍艦隊への対抗のため、それを攻撃する大胆な作戦を行った。その後、「アシアンギ」はシチリア沖に移動し、シチリア防衛戦時の1943年7月23日、アウグスタ沖にて英軽巡ニューファンドランド」を雷撃で大破させることに成功した。しかし、反撃に速やかに行動した英海軍の駆逐艦隊によって爆雷で撃沈されてしまった。

 

ラティーノ級潜水艦

「プラティーノ」「アッチアイーオ」

「アヴォリオ」

戦時中に就役した新型潜水艦の戦果

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ラティーノ級潜水艦。上から「プラティーノ」、「アッチアイーオ」、「アヴォリオ」。

ラティーノ級はアドゥア級やペルラ級と共に「クラッセ600」シリーズの潜水艦で、開戦後に竣工・就役した潜水艦だ。そのため、様々な改良点が加えられている。プラティーノ級潜水艦は就役時期から、戦争後半から活躍した。

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「プラティーノ」に撃沈された英コルベット「サンファイア」

「プラティーノ」は1941年10月2日就役。

就役後、いくつかの攻撃任務に参加した後、1943年からヴィットーリオ・パトレッリ・カンパニャーノ中尉が艦長となった。カンパニャーノ艦長の元で、「プラティーノ」は英船団攻撃に従事、1943年1月29日深夜、アルジェリア沖にて「プラティーノ」は英国海軍のコルベット「サンファイア」を旗艦とする船団を発見する。「プラティーノ」はこれを攻撃し、「サンファイア」の撃沈に成功した。更には1943年2月7日、再びアルジェリア沖にて、英国海軍の駆潜艇3隻に遭遇した際、これを全て撃沈する事に成功したのである。その後、対潜哨戒機の反撃を受けたが、無事撤退する事に成功した。続いて2月18日に英船団を攻撃した後、9月7日にはイタリア本土防衛のため、連合軍への待ち伏せ作戦「ゼータ」に参加する事になった。しかし、休戦の発表によりそれが実行される事は無く、「プラティーノ」は海軍司令部の指示に従って連合軍に降伏した。

「アッチアイーオ」は1941年10月30日就役。

艦長はオットリーノ・ベルトラーミ中尉。1942年3月23日に初攻撃任務に従事した後、6月中旬には英国のマルタ輸送作戦「ハープーン」を妨害するために船団攻撃を実行。11月初めにはアルジェ沖にて「リアンダー」級軽巡を発見し、これを雷撃したが撃沈には成功しなかった。1943年2月7日には、アルジェリア沖にて英国船団を発見。これを攻撃し、英国海軍の駆潜艇「テルヴァーニ」及び「アーノルド・ベネット」、更に一隻のタンカーの撃沈に成功したのである。その後、艦長はヴィットーリオ・ペスカトーレ中尉に変わった。7月10日、シチリア防衛戦において連合国軍に対する哨戒任務に参加したが、7月13日、英潜水艦「アンルーリー」によって撃沈された。

「アヴォリオ」は1942年3月25日就役。

艦長はマリオ・プリジョーネ中尉。1942年8月11日が初任務であった。8月中旬、英国の「ペデスタル」船団のマルタ到達を阻止するため、船団攻撃に参加。1943年2月5日はアルジェリア沖にて英国海軍の駆潜艇「ストロンゼー」撃沈に成功している。しかし、2月9日にはカナダのコルベット「レジャイナ」の攻撃によって撃沈された。

 

CB級ポケット潜水艦

黒海で活躍した敵泊地攻撃用の小型潜水艦

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CB級ポケット潜水艦の一隻、ポケット潜水艦「CB-4」。

CB級ポケット潜水艦は敵泊地攻撃の為に開発された小型潜水艦で、1938年に開発されたCA級の発展型として1941年に開発されたものだ。航続距離も伸びて中距離攻撃作戦への投入も可能となった。
対ソ戦が開始すると、伊海軍派遣部隊の一員として5隻のCB級ポケット潜水艦が陸路で黒海に派遣された。黒海では本来の用途である敵泊地攻撃を行わず、通常の潜水艦と同様に哨戒任務や待ち伏せ攻撃に従事し、CB級はそれなりの戦果を挙げた。

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撃沈されたソ連潜水艦「S32」

1942年6月15日、「CB-2」がソ連海軍の潜水艦「S32」を雷撃で撃沈した。6月18日深夜には「CB-3」が同じくソ連の潜水艦「SHCH206 "ネルマ"」を撃沈している。更に8月には同じく「CB-3」がソ潜水艦「SHCH208」を撃沈、8月26日には「CB-4」がソ潜水艦「SHCH203」を撃沈する事に成功した。また、CB級は形状不明の潜水艦1隻も撃沈しており、実に休戦までに5隻のソ連潜水艦を撃沈したのである。潜水艦が潜水艦を撃沈した例は、イタリア海軍では先述した「エンリコ・トーティ」の例を除き、これのみであった。

CB級はその後も生産が続けられ、休戦後もRSI政権のもとで生産が続けられた。RSI海軍の数少ない艦艇として、引き続き黒海アドリア海で活動したのであった。ちなみに、先述したボルゲーゼ中佐が計画したニューヨーク攻撃作戦は、潜水艦「レオナルド」にCB級が搭載され、ニューヨーク攻撃を実行する計画であった。

 

いかがだったであろうか?潜水艦大国イタリアは、第二次世界大戦中に様々な活躍をしたのである。当然、ここで紹介したのはあくまで一部に過ぎず、私が独断と偏見でチョイスした潜水艦たちである。他にも魅力的な戦果を持つイタリアの潜水艦は沢山あるので、気になったら調べてみて欲しい。