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三人の艦隊司令官の戦歴から辿るイタリア海軍史 ―主力艦隊から見た第二次世界大戦のイタリア海軍―

最近はイタリア海軍の艦艇の活躍について紹介してきたので、今回は艦隊司令官について紹介してみることとする。イタリア海軍の主力艦隊を率いた三人の艦隊司令官、イニーゴ・カンピオーニ提督、アンジェロ・イアキーノ提督、カルロ・ベルガミーニ提督の三人の戦歴を見る事で、主力艦隊の行動から第二次世界大戦時のイタリア海軍史を辿ってみよう。

 

イニーゴ・カンピオーニ

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イニーゴ・カンピオーニ提督

第二次世界大戦まで

イニーゴ・カンピオーニ提督は1878年11月14日にトスカーナ地方のヴィアレッジョで生まれた。リヴォルノの海軍士官学校を卒業して少尉として任官したカンピオーニは、1911年にオスマン帝国との伊土戦争が勃発すると、大尉として装甲巡洋艦アマルフィ」に乗艦した。第一次世界大戦勃発後、1916年に少佐に昇進したカンピオーニは、駆逐艦「アルディート」の指揮を任されることとなった。彼はアドリア海での船団護衛に従事し、銅勲章を受勲する活躍を見せた。

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主砲を発射する戦艦「ジュリオ・チェーザレ

戦間期を通じて昇進していったカンピオーニ提督は、1939年にカヴール級戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とする第一艦隊司令官に任命された。第二次世界大戦開戦時もこの職であり、大戦序盤のイタリア主力艦隊の指揮を執った。イタリア海軍の燃料備蓄は開戦時の時点で僅かで、積極的な行動を制限されていた。そのため、カンピオーニ提督の戦術も慎重的であった。

プンタ・スティーロ沖海戦

1940年7月9日、プンタ・スティーロ沖で「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とするカンピオーニ艦隊は、アンドリュー・カニンガム提督率いる英国主力艦隊(旗艦:戦艦「ウォースパイト」)と船団護衛中に遭遇、交戦した。カンピオーニ艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」「コンテ・ディ・カヴール」の他、重巡6隻(「ポーラ」「ザラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トレント」)、軽巡8隻(「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「アルベリコ・ダ・バルビアーノ」「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」「エマヌエーレ・フィリベルト・ドゥーカ・ダオスタ」「ムツィオ・アッテンドーロ」「ライモンド・モンテクッコリ」「ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ」「ジュゼッペ・ガリバルディ」)及び若干の水雷艇・潜水艦で構成されていた。

カンピオーニ艦隊はナポリからベンガジへの輸送船を護衛し、その後ターラント軍港への帰路の途中に同じく船団護衛のためにアレクサンドリア港から出港した英艦隊に遭遇した。英艦隊は戦艦「ウォースパイト」を含む戦艦3隻、空母1隻、駆逐艦16隻で構成されていた。海戦は伊巡洋艦艦隊が空母「イーグル」から放たれた雷撃機を迎撃して始まった。相互の艦隊同士の砲撃戦が行われたが、英艦隊は戦艦1隻が打撃を被った事で、イタリア艦隊の追撃を放棄してアレクサンドリア港に帰還する事を決めた。イタリア空軍はこれの追撃を行ったが、出動が遅く成果は上げられなかった(海軍と空軍の連携不足の結果とも言える)。このプンタ・スティーロ沖の海戦は地中海での初めての大規模海戦であったが、両軍は双方に大した打撃を与える事が出来ず、事実上引き分けで戦闘が終了した。しかし、イタリア艦隊は英艦隊の撃退に成功したことから、ムッソリーニは一大勝利としてこれを讃えている。

また、この海戦とほぼ同時期に、バレアレス諸島沖にてイタリア空軍爆撃機部隊と海軍潜水艦隊が英艦隊を攻撃し、駆逐艦1隻を撃沈、戦艦及び空母をそれぞれ1隻中破させる戦果を挙げた。

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戦艦「コンテ・ディ・カヴール」

ターラント空襲

その後、11月11日深夜から翌日早朝に掛けて、英空母「イラストリアス」から発艦した艦載機によってターラント軍港が爆撃を受け、戦艦「コンテ・ディ・カヴール」、戦艦「カイオ・ドゥイリオ」、戦艦「リットーリオ」が損傷し、航行不能となった。この大損害を受け、イタリア海軍は更に消極的にならざるを得なくなった。「カイオ・ドゥイリオ」と「リットーリオ」は後に修復を完了して復帰したが、「コンテ・ディ・カヴール」の被害は甚大で、結局休戦までに修復が終わる事はなかった。この大敗北の結果、責任を取らされて海軍参謀長ドメニコ・カヴァニャーリ提督が解任されることとなった。後任にはアルトゥーロ・リッカルディ提督が就任した。

ホワイト作戦阻止

英軍はマルタ防衛のために、同島の航空機増強を計画した。1940年11月17日、英海軍のジェームズ・サマヴィル提督はマルタ島への航空機輸送作戦「ホワイト」を発動、空母「アーク・ロイヤル」及び空母「アーガス」から艦載機がマルタに向けて発艦した。これを巡洋戦艦レナウン」及び軽巡2隻・駆逐艦7隻が護衛した。しかし、カンピオーニ提督率いるイタリア主力艦隊(旗艦:戦艦「ジュリオ・チェーザレ」)が出発したことによって、英海軍は艦載機の発艦時刻を早めることとなった。ターラント空襲の後であったが、イタリア艦隊は迅速に対応した。カンピオーニ提督率いる艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」、2隻の重巡及び数隻の駆逐艦で構成されていた。このイタリア艦隊の登場は、英海軍の作戦妨害に効果的であった。発艦時間を早めた結果、様々な要因によって英海軍の作戦は失敗することとなったのである。発艦した14機の内9機が失われ、僅か5機しかマルタ島に到着できなかった。特に、経験豊富な戦闘機パイロットを失ったのは英国にとって打撃が大きく、サマヴィル提督は「凄まじい失敗である」と述べた。カンピオーニ艦隊は英海軍の作戦阻止に成功したのであった。

スパルティヴェント岬沖海戦

英艦隊はターラント空襲でイタリア海軍が麻痺している間に、大輸送船団の地中海横断計画を立てた。これは11月24日から開始され、まず輸送船団がジブラルタル海峡を越えて地中海に入り、同じくジブラルタル出港の巡洋戦艦レナウン」及び空母「アーク・ロイヤル」を始めとする艦隊(巡洋戦艦1、空母1、巡洋艦2、駆逐艦9、コルベット4)がこれを護衛した。同時にアレクサンドリア港から「ラミリーズ」など戦艦5隻、空母2隻及び巡洋艦3隻が出港した。この計画はアレクサンドリア港を出た艦隊のうち、空母1隻と戦艦2隻はシチリア海峡を通過したところでアレクサンドリア港に引き返し、他の空母1隻と戦艦2隻は輸送船の護衛、残りの戦艦1隻と巡洋艦3隻は航行を続けてジブラルタルに入港することとなった。

11月26日、カンピオーニ提督はこの英艦隊への攻撃を決定し、艦隊を出発させた。カンピオーニ提督率いる第一艦隊は戦艦「ジュリオ・チェーザレ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」と7隻の駆逐艦で構成された。第二艦隊は指揮を執るリッカルド・パラディーニ提督が心臓疾患で倒れたため、後任司令官となったアンジェロ・イアキーノ提督のもとで、重巡洋艦「ポーラ」を旗艦とし、重巡6隻、駆逐艦7隻で構成されていた。

11月27日には、サルデーニャ島南のスパルティヴェント岬(テウラダ岬)沖にて、イタリア艦隊はジェームズ・サマヴィル提督率いる英国艦隊と遭遇した。英国艦隊はサマヴィル提督率いるB部隊とランスロットホランド提督率いるF部隊で構成された。B部隊は戦艦「ラミリーズ」を旗艦とし、巡洋戦艦レナウン」、空母「アーク・ロイヤル」、駆逐艦9隻で構成された。F部隊は重巡1隻、軽巡4隻で構成されていた。イアキーノ提督率いる巡洋艦隊は戦闘を有利に進めていったが、戦闘中止命令を受けて撤退した。イタリア艦隊はホランド艦隊の重巡洋艦「ベリック」及び軽巡マンチェスター」に対して損害を与えた。他方、イタリア艦隊は重巡洋艦トリエステ」と駆逐艦「ランチエーレ」が被害を受けた。特に「ランチエーレ」の被害は大きく、基地に曳航された。海戦は戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」は主砲斉射によって英艦隊を後退させたことで終結した。結局勝敗は付かずに両軍は撤退し、両艦隊は双方に被害を出した。

隊司令官解任とその後

大戦初期のイタリア主力艦隊の指揮を執ったカンピオーニ提督であったが、その慎重な戦略を批判されることとなり、1940年12月に艦隊司令官を解任された。アンジェロ・イアキーノ提督が後任の艦隊司令官を務める事となった。その後は人事異動によって海軍参謀次長に就任したが、1941年7月にイタリア領エーゲ海諸島の総督に任命された。これは事実上の左遷であったと言えるだろう。既にギリシャ戦線も終結しており、カンピオーニ提督はエーゲ海の島々の防衛を指揮した。

1943年9月、イタリア王国の休戦が発表されると、ドイツ軍はイタリア軍武装解除を求めてエーゲ海諸島にも侵攻を開始した。これに対して、カンピオーニ提督は抵抗したが、ドイツ軍に逮捕された。その後、カンピオーニ提督はRSI政権への協力を拒み、その後、「パルマ裁判」の結果、ルイージ・マスケルパ提督と共に銃殺刑となった。戦後、マスケルパ提督と共に金勲章を受勲している。

 

アンジェロ・イアキーノ

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アンジェロ・イアキーノ提督

第二次世界大戦まで
アンジェロ・イアキーノ提督は、1889年4月24日にリグーリア地方のサンレモで生まれた。父ジュゼッペは中学校の教師だった。1904年には僅か15歳でリヴォルノの海軍士官学校に入学し、その3年後に卒業。伊土戦争に参加し、中尉に昇進。第一次世界大戦では魚雷艇の艇長としてアドリア海で活躍し、ポーラ軍港攻撃にも関わった。その戦功により、銀勲章を受勲した。戦間期は海外勤務が多く、極東での勤務や海外巡航に参加した。スペイン内戦やアルバニア戦争にも従事している。

第二次世界大戦開戦時はリヴォルノ海軍士官学校の監督官だった。1940年7月、第二艦隊を指揮していたリッカルド・パラディーニ提督が心臓疾患で倒れると、その後任としてイアキーノ提督が第二艦隊を指揮する事となった。

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重巡洋艦「ポーラ」

スパルティヴェント岬沖海戦

第二次世界大戦での彼の初陣は、1940年11月27日に発生したスパルティヴェント岬沖海戦(テウラダ岬沖海戦)となった。彼はザラ級重巡艦隊「ポーラ」を旗艦とする第二艦隊を指揮した。重巡艦隊(重巡「ポーラ」「フィウーメ」「ゴリツィア」「ボルツァーノ」「トレント」「トリエステ」及び駆逐艦7隻で構成)を率いてイアキーノ提督は海戦を有利に展開したが、戦闘中止命令を受けて撤退した。イアキーノ艦隊は英艦隊の重巡洋艦「ベリック」と軽巡マンチェスター」に対して損害を与えることに成功したが、他方重巡洋艦トリエステ」と駆逐艦「ランチエーレ」も損害を受けた。

隊司令官に就任

慎重な指揮を重ねたことによってカンピオーニ提督が艦隊司令官から解任されると、その後任としてイアキーノ提督が艦隊の指揮を執ることになった。

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戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」

マタパン岬沖海戦

ドイツ側は英海軍のギリシャへの航行に打撃を加えるため、イタリア主力艦隊に対してエーゲ海への艦隊の出動を要請した。3月25日、イタリア海軍司令部はドイツの要請を受け入れることとなり、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」を旗艦とする艦隊がナポリから出発し、カルロ・カッターネオ提督率いる第一巡洋艦隊(旗艦:重巡「ザラ」)はターラントから、ルイージ・サンソネッティ提督率いる第三巡洋艦隊(旗艦:重巡トリエステ」)はメッシーナからそれぞれ出発した。

イタリア海軍はその間、エーゲ海での海戦において度々輝かしい勝利を手に入れていた。1941年1月31日にエーゲ海・カソス海峡で発生した海戦では、伊水雷艇「ルーポ」及び「リブラ」は、英海軍の軽巡洋艦カルカッタ」を始めとする軽巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、コルベット2隻に護衛されたギリシャ輸送船団を攻撃。伊艦隊側は数的にも圧倒的に不利な状況ながら無傷で勝利している。1941年2月25日にはエーゲ海諸島のカステルロッソ島に英軍が上陸作戦を仕掛けたが、伊空軍の迅速な対応とその後の守備隊と艦隊による反撃が行われ、英軍の上陸作戦を失敗に追い込んでいた。更には、1941年3月25日深夜から26日早朝にかけて、伊海軍の「デチマ・マス」によってクレタ島・スダ湾への攻撃作戦が実行され、駆逐艦「クリスピ」及び「セッラ」から発信した「M.T.M.艇」6隻の攻撃によって、湾内に停泊していた英重巡「ヨーク」及びタンカー「ペリクレス」が撃沈、伊海軍は圧倒的勝利を手に入れていた。この連勝故か、イアキーノ提督もマタパン岬の海戦は「海軍史上に輝かしい1ページを飾るもの」として期待していたのであった。しかし、それは悪い意味で裏切られることとなった。

イアキーノ提督は1941年3月28日未明、英艦隊と遭遇した。英艦隊はアンドリュー・カニンガム提督率いる艦隊で、旗艦は戦艦「ウォースパイト」であった。レーダー開発が遅れていたイタリア海軍は夜間の戦闘において、完全に敗北する結果となった。この戦闘の結果、「ザラ」「フィウーメ」「ポーラ」の三隻の重巡洋艦と、二隻の駆逐艦を一度に失った。乗組員4000人のうち3000人が戦死するという悲惨極まる結果となり、イタリア海軍史に汚名として残された。この海戦の結果、イタリア海軍はレーダーと空母の必要性に気付き、大急ぎで開発を行ったが、時すでに遅し、レーダーは開発に成功したが量産が少数で終わり、空母「アクィラ」及び「スパルヴィエロ」も未完成に終わったのであった。旗艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」も海戦でのダメージで修復することとなり、旗艦を「リットーリオ」に変更した。

第一次シルテ湾海戦

マタパン岬の大敗は伊海軍に大打撃を与える事となったが、イアキーノ提督は艦隊指揮を続けた。しかし、マタパン岬での大敗以降、イアキーノ提督は夜間戦闘を避けるようになり、艦隊の行動は慎重になっていた。イアキーノ提督は戦艦「リットーリオ」を旗艦とし、地中海での英船団妨害に従事していた。1941年12月17日、船団護衛中だった伊英両艦隊はリビア・シルテ(スルト)湾にて遭遇した。イアキーノ提督率いるイタリア艦隊は、戦艦「リットーリオ」を旗艦とし、戦艦「カイオ・ドゥイリオ」「アンドレア・ドーリア」「ジュリオ・チェーザレ」の戦艦四隻を含む大艦隊であった。

それに対して、フィリップ・ヴィアン提督率いる英国/オーストラリア/オランダ連合艦隊は、軽巡洋艦「ナイアド」を旗艦とする軽巡洋艦駆逐艦を中心とする艦隊であった。このため、イタリア艦隊は有利な状況にあった。しかし、船団護衛が目的であったイアキーノ提督は英艦隊への執拗な追撃は避け、イタリア艦隊は離脱した。英艦隊はその後、触雷によって軽巡ネプチューン」及び駆逐艦「カンダハー」が撃沈、また軽巡二隻が大破する深刻な被害を負った。イタリア艦隊は無傷で船団護衛を成功させた。

この海戦から数日後、「デチマ・マス」がアレクサンドリア港攻撃作戦で英海軍の戦艦「クイーン・エリザベス」及び「ヴァリアント」を大破着底させることに成功した。これは英首相チャーチルも後に回顧録で「我が地中海艦隊は存在しないも同然」と述べる程に深刻なダメージを英海軍に与えたのであった。

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戦艦「リットーリオ」

第二次シルテ湾海戦

1942年に入ると、地中海でのイタリア海軍と英海軍の戦いは更に加速していった。英海軍は度重なる大型艦の喪失によってダメージを負っていたが、地中海の要衝であるマルタを陥落させないためにも、物資の輸送を強化した。イアキーノ提督はその英船団の妨害を目的として行動していた。1942年3月22日、戦艦「リットーリオ」を旗艦とするイアキーノ艦隊と、フィリップ・ヴィアン提督率いる英艦隊(旗艦:軽巡クレオパトラ」)は再びリビアのシルテ湾にて遭遇した。英船団はアレクサンドリア港からマルタに向かう船団だった。イタリア艦隊は再び有利な状況であり、また空軍も参加していた。イタリア艦隊の攻撃によって、軽巡クレオパトラ」「ユーライアラス」及び7隻の駆逐艦が中破したが、撃沈艦は出なかった。イタリア艦隊は無傷であったが、イアキーノ提督は夜間戦闘を避けるため戦闘を停止し、撤退。海戦自体は伊艦隊が戦術的に勝利したが、英艦隊は多くの被害を受けながらも、船団の防衛には成功したため、船団到達の阻止の目的は果たせなかった。しかし、英艦隊は夜の内にマルタに到達する事は出来ず、その後英船団は空軍の空襲を受けた。その結果、80%以上の積み荷が失われ、護衛していた駆逐艦「リージョン」及び「サウスウォールド」も撃沈された。

6月中旬の海戦

夜間戦闘を避けようとするあまり、イアキーノ提督は敵艦隊への徹底的な攻撃を行わなかったため、二度のシルテ湾海戦は有利な状況にあったにもかかわらず、イタリア海軍は効果的な戦果を挙げる事に失敗していた(海戦自体は戦術的に勝利したと言えなくはないが)。そんな中、1942年6月初め頃、英国はマルタ島救援のために二つの輸送船団を派遣した。一つはジブラルタルから出発した「ハープーン」船団で、もう一方はアレクサンドリア港から出発した「ヴィガラス」船団であった。「ハープーン」船団迎撃は軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」を旗艦とするアルベルト・ダ・ザーラ提督の艦隊によって行われた(パンテッレリーア海戦)。

一方、「ヴィガラス」船団迎撃はイアキーノ提督率いる艦隊が従事した。イアキーノ艦隊は戦艦「リットーリオ」を旗艦とし、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻で構成された。英船団「ヴィガラス」の護衛艦には主力艦はなかったが、旧式戦艦センチュリオン」を、キング・ジョージV世級戦艦「アンソン」に偽装しており参加させていた。しかし、この欺瞞作戦はイタリア海軍側にはすぐに嘘だと判明した。ただし、ドイツ潜水艦部隊には「アンソン」だと誤認させることに成功していた。この海戦で海軍と空軍は連携して船団妨害に従事し、イタリア海軍側は重巡洋艦トレント」を撃沈されたが、英海軍側の船団のマルタ到達を失敗させることに成功したのであった。英海軍は軽巡ハーマイオニー」や3隻の駆逐艦、多くの輸送船を失い、損傷した艦を多数出して敗北した。イアキーノ提督にとっては、重要な大勝利であった。しかし、旗艦「リットーリオ」が雷撃によって艦首が損傷したため、8月末まで修復した。

隊司令官の辞任

1943年に入ると、イタリア海軍は燃料不足が深刻となり、大型艦の運用が困難となった。ドイツはイタリアに燃料の供給を約束していたが、それは反故とされていたのである。更に戦況もどんどん悪化していき、エル・アラメインの敗北以降、北アフリカ戦線も敗北の一途を辿っていた。その結果、イアキーノ提督は艦隊司令官を辞任し、後任の艦隊司令官にはカルロ・ベルガミーニ提督が就任した。その後、イアキーノ提督は大将に昇進し、海軍司令部から去った。戦後には海軍に関する軍事史書籍を出した。

 

カルロ・ベルガミーニ

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カルロ・ベルガミーニ提督

第二次世界大戦まで

カルロ・ベルガミーニ提督は、1888年10月24日にエミリアロマーニャ地方のサン・フェリーチェ・スル・パーナロ(モデナ周辺の町)で生まれた。リヴォルノ海軍士官学校を卒業後、少尉で戦艦「レジーナ・エレナ」に乗艦した。伊土戦争が始まると、中尉として装甲巡洋艦「ヴェットール・ピサーニ」に乗艦し、その後は装甲巡洋艦「ピサ」に乗艦、大尉に昇進した。第一次世界大戦では装甲巡洋艦「ピサ」の砲術長であった。1916年のヴロラ港防衛と、1918年10月2日のドゥラス攻撃で戦功を挙げ、この戦功によって銀勲章を受勲した。戦後、少佐に昇進し、戦艦「アンドレア・ドーリア」の砲術長となった。第二次世界大戦序盤、戦艦「リットーリオ」を旗艦とする第9戦艦艦隊の指揮を任せられていた。

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戦艦「アンドレア・ドーリア

スパルティヴェント岬沖海戦

ベルガミーニ提督はその後、カンピオーニ提督率いる第一艦隊の参謀長を務める事となった。1940年11月27日に発生したスパルティヴェント岬(テウラダ岬)沖海戦に参加し、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」で指揮を執った。彼はこの時の戦功によってサヴォイア軍事勲章を受勲した。その後再び第9戦艦戦隊の司令官となり、戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」を旗艦とした。

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戦艦「カイオ・ドゥイリオ」

地中海での船団護衛

1941年7月、ベルガミーニ提督は第五艦隊の指揮を執る事になった。第五艦隊の旗艦はターラント空襲後の修復から戻ってきた戦艦「カイオ・ドゥイリオ」だった。彼は「カイオ・ドゥイリオ」を旗艦として、姉妹艦「アンドレア・ドーリア」と共にリビアに輸送船団を送り届けるために、中央地中海での船団護衛に従事した。1941年12月17日には、第一次シルテ湾海戦に参加している。その後も、中央地中海において船団護衛や英船団妨害に従事した。しかし、燃料の枯渇と共に出撃は小規模になっていった。

隊司令官の就任

戦局が悪化する中、1943年4月にアンジェロ・イアキーノ提督の後任として艦隊司令官に任命された。ベルガミーニ新艦隊司令官率いるイタリア主力艦隊の旗艦は1942年6月に就役したばかりの新造戦艦「ローマ」であったが、燃料が既に底をついていたイタリア海軍にとって主力艦隊を運営する事はもはや不可能であった。しかし、この間も小型艦が地中海でしばしば戦果を挙げていた(大型艦が活動出来ないからであるが)。

彼が就任した後、6月にはラ・スペツィア軍港に連合軍が爆撃を実行し、旗艦「ローマ」も被害を受けた。その結果8月まで修復することになったが、その間にムッソリーニが失脚し、新たにバドリオ政権が誕生していた。しかし、当時のバドリオ政権は未だ戦闘継続を表明していたため、状況は特に変わらなかった。

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主砲を発射する戦艦「ローマ」

連合軍との艦隊決戦に備えて

ベルガミーニ提督はイタリア半島に迫りくる連合軍を食い止めるべく、「ローマ」を旗艦とする主力艦隊(戦艦「ローマ」「ヴィットーリオ・ヴェーネト」「イタリア(旧リットーリオ)」を含む)を用いて連合軍との艦隊決戦に備えていた。しかし、秘密裏に行われた和平交渉によって急遽休戦が発表されたため、海軍参謀長のラッファエーレ・ド・クールタン提督(アルトゥーロ・リッカルディ提督の後任)は連合国への艦隊の引き渡しを決定した。しかし、海軍参謀長であり、海軍大臣でもあったド・クールタン提督も休戦協定の署名を初めて知ったのは当日であり、バドリオらから何の相談も受けていなかった。海軍参謀次長サンソネッティ提督を通じて艦隊司令官のベルガミーニ提督に伝えられたのは更に後であった。混乱の中、イタリア艦隊は連合国への引渡しのためにマルタへ向かったのであった。

「ローマ」爆沈の悲劇

1943年9月9日、戦艦「ローマ」を旗艦とするベルガミーニ提督率いるイタリア主力艦隊はラ・スペツィアを出港した。この主力艦隊は戦艦「ローマ」「ヴィットーリオ・ヴェーネト」「イタリア」及び巡洋艦3隻、駆逐艦8隻で構成され、コルシカに向けて航行中にジェノヴァを出港した巡洋艦3隻が合流した。これに対し、ドイツ空軍のゲーリング元帥はフランス駐屯の第三空軍基地に出動を命令し、新型爆弾「フリッツX」を搭載した攻撃機15機が基地を飛び立った。最初に「フリッツX」の攻撃を受けたのは戦艦「イタリア」だったが、致命的な打撃は免れた。しかし、アシナーラ島沖で今度は戦艦「ローマ」が「フリッツX」二発着弾し、撃沈した。これにより、ベルガミーニ提督も戦死した。「ローマ」の乗組員は将官2名、士官86名、その他乗組員1264人の戦死者を出し、生存者は全乗組員1948人のうち、わずか596人であった。

ベルガミーニ提督は死後、金勲章を受勲した。また、現在イタリア海軍で就役しているフリゲートの艦名にも採用されている。

 

こんな感じである。第二次世界大戦時のイタリア海軍主力艦隊は、燃料不足や、マタパン岬での経験による夜戦への恐怖、更には装備の遅れによって、思うように戦果を挙げる事が出来なかった。今回は第二次世界大戦時のイタリア海軍を代表する三人の提督の戦歴を紹介したが、今度は他の海軍提督たちの戦歴についても調べていきたい。