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フランス海軍と戦った二隻の潜水艦「プロヴァーナ」と「フィエラモスカ」 ―オラン沖の海戦とトゥーロン港攻撃作戦!―

前回の更新では、フランス重巡艦隊と単艦で戦って無事撃退に成功した水雷艇「カラタフィーミ」の話をした。今回は、同じく「イタリア海軍vsフランス海軍」シリーズということで、第二次世界大戦序盤にフランス海軍と戦った二隻のイタリア海軍の潜水艦のエピソードを紹介しよう。

潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」

不屈の精神でフランス通報艦2隻との激闘を繰り広げた

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潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」

最初は潜水艦「アンドレア・プロヴァーナ」についてのエピソードだ。

「プロヴァーナ」はマルチェッロ級潜水艦の一隻で、1938年6月25日就役。艦名の由来になったアンドレア・プロヴァーナはレパントの海戦サヴォイア公国艦隊を率いて、常勝であったオスマン帝国艦隊を破った人物だ。海軍力の高くないサヴォイアにとっては数少ない優秀な海軍提督である(この頃の優秀な海軍提督はヴェネツィア共和国もしくはジェノヴァ共和国の出身が多かった)。トリノの王宮にはエウジェニオ・ディ・サヴォイア(オイゲン公)と共に彼の像が作られているので、是非見に行ってみて欲しい。

また、先代「プロヴァーナ」は1918年9月10日に就任したバルバリーゴ級潜水艦で、これは退役した後記念艦となり、現在艦橋部分がトリノのヴァレンティーノ公園に展示されている。

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「プロヴァーナ」艦長を務めたウーゴ・ボッティ海軍少佐

「プロヴァーナ」は開戦時、ナポリを母港として活動していた。艦長はウーゴ・ボッティ(Ugo Botti)少佐で、元々は潜水艦「ヴェットール・ピサーニ」の艦長を務めていた。開戦後に「プロヴァーナ」艦長に任命されたボッティ少佐は、潜水艦「ロレンツォ・マルチェッロ」「エンリコ・ダンドロ」「ジャコモ・ナーニ」と共に第21潜水艦隊を形成し、ナポリを母港に活動することになった。

1940年6月13日(開戦から3日後)には同艦隊に所属する潜水艦「ダンドロ」が軽巡洋艦「ラ・ガニソニエール」を中心とするフランス艦隊(軽巡「ラ・ガニソニエール」「ジャン・ド・ヴィエンヌ」「マルセイエーズ」及び駆逐艦「ブーロネー」「ブレストーズ」で構成)に遭遇、これに雷撃したが回避され攻撃は失敗した。

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エラン級通報艦「コマンダン・ボリ」

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エラン級通報艦「ラ・キュリーズ」

6月17日、「プロヴァーナ」は北アフリカ沿岸の哨戒任務に従事していた。その際、アルジェリア・オラン港沖にて、フランス船団に遭遇した。この船団はマルセイユに向かう船団で、エラン級通報艦(アヴィゾ)「コマンダン・ボリ」及び「ラ・キュリーズ」に護衛されており、5つの輸送船で構成された。

ボッティ少佐はこの船団への攻撃を決定した。「プロヴァーナ」は魚雷を発射したが、これを「コマンダン・ボリ」及び「ラ・キュリーズ」は回避した。そして、フランス艦隊は魚雷からの気泡によって「プロヴァーナ」の位置を特定し、爆雷を投下して反撃した。爆雷攻撃によって「プロヴァーナ」の魚雷発射管が損傷したため、ボッティ少佐は浮上して砲撃戦で応戦することに決めた。しかし、「ラ・キュリーズ」の攻撃によって「プロヴァーナ」は撃沈され、ボッティ少佐を含む乗組員は戦死した。こうして、フランス艦2隻と勇敢に戦った潜水艦は短い戦歴に幕を閉じたのであった。ボッティ少佐はその不屈の精神によって、戦死後に金勲章を受勲され、ラ・スペツィアの兵舎や通り、造船所には彼の名前が付けられた。

 

潜水艦「エットレ・フィエラモスカ」

目指せ!トゥーロン港攻撃作戦!

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潜水艦「エットレ・フィエラモスカ」

潜水艦「エットレ・フィエラモスカ」は、同型艦が無い大型潜水艦で、1931年12月15日就役。元々はフランス海軍の潜水艦「スルクフ」のような、艦載機を搭載した大型巡航潜水艦として設計されたが、その後の設計変更によって艦載機は搭載されなかった。就役時はイタリア最大の潜水艦であり、第二次世界大戦開戦時でも特に大きなイタリア潜水艦であった。一種の実験的な潜水艦と言えるだろう。
名前のモデルとなったエットレ・フィエラモスカは、南イタリア・カプーア出身のイタリア戦争時の軍人。リソルジメント期及びファシスト政権期では「国民的英雄」とされ、ファシスト政権期にはアレッサンドロ・ブラセッティ監督によって映画『エットレ・フィエラモスカ』が作られている。

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スペインの軽巡洋艦「メンデス・ヌニェス」

潜水艦「フィエラモスカ」はスペイン内戦に叛乱軍側で参加した。艦長はマリオ・バルタレージ少佐だった。1936年12月27日には、スペイン共和国海軍の軽巡洋艦「メンデス・ヌニェス」を旗艦とする船団を発見、魚雷を発射したが攻撃に失敗した。その後、1937年2月8日深夜~9日早朝に掛けて共和国軍が支配下に置くバルチェロナを夜間に砲撃し、停泊するタンカーを大破させることに成功した。

スペイン内戦が終結すると、「フィエラモスカ」はラ・スペツィアに帰還した。1939年、「タッツォーリ」「カルヴィ」「フィンツィ」と共に第12潜水艦隊の一員となり、ラ・スペツィアを母港とした。しかし、この時点で「フィエラモスカ」は旧式潜水艦であり、更に機関の不調も多かった。開戦後、「フィエラモスカ」はフランス沿岸部で行動を開始した。艦長はジュゼッペ・メッリーナ少佐だった。一度目の哨戒では敵艦は見つからず、6月14日にラ・スペツィアに戻った。

6月19日、「フィエラモスカ」はフランス地中海艦隊の母港であるトゥーロン軍港の攻撃作戦に向かった。トゥーロン軍港はイタリア軍の主要攻略目標でもあり、6月12日~13日に掛けて、イタリア空軍はトゥーロンに爆撃を実行していた。

メッリーナ少佐はトゥーロン港近くのイエール諸島沖に潜み、フランス艦隊への待ち伏せ攻撃を実行しようとした。しかし、数日後に「フィエラモスカ」の機関が爆発事故を起こし、負傷者も出してしまった。この事故は深刻な被害で、もはや「フィエラモスカ」は戦闘継続が困難となり、ラ・スペツィア軍港に帰還した。これにより、「フィエラモスカ」によるトゥーロン港攻撃作戦は「幻」に終わった。

帰還後、「フィエラモスカ」の機関は修復されたが、もはやこの旧式潜水艦は信頼性を失っていた。そのため、その後は「フィエラモスカ」が戦闘任務に回されることはなく、ポーラの潜水艦学校の訓練艦として従事した。1941年4月10日、事実上「フィエラモスカ」は退役することとなり、その後は放置された。戦後の1946年10月18日、「フィエラモスカ」は遂に解体されたのであった。

 

とまぁこんな感じである。イタリア海軍とフランス海軍の戦闘エピソードは期間が短いために目立ったものはあまりなく、このようなエピソードになってしまう(最も派手?なエピソードは先日紹介した「カラタフィーミ」のエピソード)。私の調べ不足なのかもしれないが、他にこの手のエピソードがあったら是非教えて頂きたい。