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カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の戦歴 ―古代ローマの栄光を再びこの手に!イタリア海軍最後の軽巡洋艦の活躍―

イタリア海軍が第二次世界大戦中に竣工出来た艦艇は工業生産力の低さ故にそこまで多いとは言えなかった。しかし、大戦中に竣工した艦艇には優れた性能を持ったものが多かった。その一つとして、カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦(Gli incrociatori leggeri Classe Capitani Romani)がある。カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦は、1942年~1943年に掛けて就役した、イタリア海軍最後の軽巡洋艦だ。艦名は古代ローマの将軍や皇帝の名前を使っており、ファシスト・イタリアによる「地中海新ローマ帝国」の願いが込められていると言えるだろう。

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦は非常に小型の軽巡洋艦で、コンパクトなつくりをしている。主砲はカイオ・ドゥイリオ級戦艦の副砲にも使われたOTO社製の135mm砲で、ウーゴ・ティベリオ博士によって開発されたイタリア製の新型レーダー「グーフォ」も搭載していた(このレーダーが搭載されていたのは「シピオーネ・アフリカーノ」のみという説もある)。更に、コンパクトな設計と軽度な防御にすることで、高速航行能力を手に入れ、試験航行で41ノットの速力を誇った。比較として、フランス海軍のル・ファンタスク級駆逐艦「ル・テリブル」は45ノット、日本海軍の駆逐艦島風」は40ノットである。とても速い。だが、逆に装甲は薄かった。

ただ、カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦は登場時期故に、その行動期間も非常に短かった。そんな愛すべき高速軽巡洋艦の戦歴を見てみよう。

「地中海を再び我らの海に!」

 

1番艦:「アッティーリオ・レゴロ」

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駆逐艦と共に航行する「アッティーリオ・レゴロ」

「アッティーリオ・レゴロ」は、カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の1番艦。
就役は1942年5月14日。艦名は共和政ローマ時代の将軍マルクス・アティリウス・レグルスで、そのイタリア語読み(マルコ・アッティーリオ・レゴロ)。第一次ポエニ戦争の指揮官として知られる。

就役時期的にはイタリア海軍と英海軍がマルタを巡って熾烈に争っていた頃で、「アッティーリオ・レゴロ」の就役から1カ月後には、英海軍の「ハープーン」船団及び「ヴィガラス」船団阻止のために、イタリア海軍は主力艦隊を派遣し、イアキーノ提督とダ・ザーラ提督の活躍で勝利を手にすることが出来た。就役後、「アッティーリオ・レゴロ」は機雷敷設の任務に従事することとなり、水雷艇数隻と共に11月7日にシチリア南部の海域に機雷の敷設に向かった。この頃、イタリア海軍の燃料は既に枯渇状態に近く、主力艦隊の運用はほぼ不可能であった。更に、今まで善戦していた北アフリカ戦線の状況も逆転しており、戦況は悪い方向に向かっていた。イタリア艦隊の出動は資源の少なさ故に困難、しかし戦況は悪化している、となるとシチリア防衛のためにも機雷原の敷設が急務となったのである。

「アッティーリオ・レゴロ」は機雷の敷設に成功し、母港に帰還する最中だった。そこで悪夢は起こった。シチリア島西部沖にて、英国海軍のU級潜水艦「アンラッフルド」の襲撃を受けたのである。「アンラッフルド」の魚雷攻撃によって、「アッティーリオ・レゴロ」の艦首は吹き飛ばされたが、不幸中の幸いにも撃沈には至らなかった。「アッティーリオ・レゴロ」は同行していた艦に曳航され、何とかメッシーナ港に辿り着いた。その後、修復のためにラ・スペツィア軍港に移動されたが、艦種の修復には建造中の同型艦「カイオ・マリオ」の艦首が使われたのであった。1943年5月に「アッティーリオ・レゴロ」は修復から回復したが、特に作戦に投入されることはなく、休戦まで目立った行動はしなかった。

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スペイン当局によって拿捕された「アッティーリオ・レゴロ」

1943年9月8日、イタリア王国政府は突如休戦を宣言した。しかし、海軍参謀長ラッファエーレ・ド・クールタン提督や、艦隊司令官カルロ・ベルガミーニ提督といった海軍首脳部はこれを当日まで知らされておらず、海軍内部は非常に混乱した。海軍首脳部でさえ情報を把握していなかった以上、当然現場の軍人たちは全くの無知であった。休戦当時、「アッティーリオ・レゴロ」はラ・スペツィア軍港にいた。「アッティーリオ・レゴロ」は戦艦「ローマ」を旗艦とするベルガミーニ提督の艦隊と共に連合軍への登降命令を守るために出発した。ドイツ空軍の襲撃を受けた「アッティーリオ・レゴロ」はバレアレス諸島のマオン湾に到着した。「アッティーリオ・レゴロ」は拿捕されることとなったが、北イタリアにイタリア社会共和国(RSI政権)が成立すると、「アッティーリオ・レゴロ」の船員の中でも南部の王国政府を支持する一派と、北部の社会共和国を支持する一派に分裂することになり、両陣営は対立した。バレアレス諸島を支配するスペインは中立国であったため、「アッティーリオ・レゴロ」の船員たちはそれぞれ自らが支持する陣営の方に合流することとなった。その後も「アッティーリオ・レゴロ」はスペイン当局によって拿捕されていたが、1945年に入ると王国政府の外交交渉の末に、ようやく「アッティーリオ・レゴロ」は解放され、ターラント軍港に帰還した。

こうして戦後まで生き残った「アッティーリオ・レゴロ」であったが、1948年のパリ講和条約によって「アッティーリオ・レゴロ」は同型艦「シピオーネ・アフリカーノ」と共にフランス海軍に賠償艦として引き渡された。その後、「シャトールノー」と改称され、1969年までフランス海軍に所属した後、解体された。

 

2番艦:「シピオーネ・アフリカーノ」

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軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」

「シピオーネ・アフリカーノ」はカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の2番艦。

就役は1943年4月23日。艦名は言わずと知れたローマの軍人スキピオ・アフリカヌスで、それのイタリア語読み。スキピオポエニ戦争カルタゴハンニバルと戦い、打ち破った人物として広く知られている。

「シピオーネ・アフリカーノ」が就役した頃、既に北アフリカ戦線は最終局面を迎えていた。もはやチュニジアで奮戦する枢軸軍に希望は無い状態であった。5月13日に北アフリカ全軍の司令官であったジョヴァンニ・メッセ将軍が降伏すると、北アフリカは完全に失墜した。北アフリカが連合国の手に落ちた以上、最早イタリア本土戦は秒読みとなっていた。連合国軍の猛攻によって、パンテッレリーア島やランペドゥーザ島といった地中海の島々が制圧され、遂に7月になるとシチリアにまで連合軍は上陸した。

この状態でも主力艦隊が石油の枯渇で出動出来ないイタリア海軍は、連合軍に制海権を奪われており、完全に手詰まりとなっていた。その状況で、封鎖されたメッシーナ海峡を突破する作戦がイタリア海軍で立案され、それを実行する艦として、軽巡洋艦「シピオーネ・アフリカーノ」が選ばれたのである。7月15日に「シピオーネ・アフリカーノ」はラ・スペツィア軍港を出発、メッシーナ海峡に向かった。7月17日の早朝に海峡の突破作戦「シッラ」が発動され、「シピオーネ・アフリカーノ」は早朝2時に英海軍が封鎖するメッシーナ海峡に侵入した。イタリア海軍は元々レーダー技術の不足から、夜間戦闘が大の苦手であった。そのため、マタパン岬の海戦では惨敗を喫し、巡洋艦3隻を一度に失う損害を被ったのである。それ以降、イタリア艦隊は夜戦を避けていたのであるが、新鋭のレーダー「グーフォ」を備えた「シピオーネ・アフリカーノ」にはその必要は無かった。「シピオーネ・アフリカーノ」はメッシーナ海峡突破時、海峡を哨戒する4隻の英国海軍の魚雷艇に発見され、攻撃を受けたが、「シピオーネ・アフリカーノ」はその高速能力を生かして、レーダーの力で夜戦の主導権を握った。こうして「シピオーネ・アフリカーノ」は海峡の突破に成功し、ターラント軍港に到着したのであった。「シピオーネ・アフリカーノ」を襲撃した英海軍の魚雷艇4隻は、イタリア海軍は3隻を撃沈と主張したが、実際は1隻を撃沈、2隻は大破であった。その後、「シピオーネ・アフリカーノ」は、軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」と共に8月4日から17日までの間にターラント湾からスクイッラーチェ湾にかけてのイオニア海沿岸に4箇所の機雷原を敷設し、連合軍の侵攻の妨害に貢献したのであった。

休戦後は南部の王国政府に合流し、共同交戦海軍の一員として主に輸送任務に従事した。戦後、1948年のパリ講和条約でフランス海軍の賠償艦として引き渡されることが決定となり、その後フランス海軍で「ギシャン」として就任、1976年まで使われた。

 

3番艦:「ポンペオ・マーニョ」

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軽巡洋艦「ポンペオ・マーニョ」

「ポンペオ・マーニョ」はカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の3番艦。
就役は1943年6月24日。艦名は共和政ローマ時代の将軍、ポンペイウス・マグヌスのイタリア語読みに由来。マーニョ(マグヌス)は「偉大な」とか「大いなる」とかそういう意味で、例えば、カルロマーニョ(シャルルマーニュ)やマーニャ・グレーチャ(マグナ・グラエキア)といった感じで使われる。

「ポンペオ・マーニョ」は6月4日の竣工後、間もなく就役となった。ターラント軍港での配備となり、他の同型艦と同様に機雷敷設任務に従事。就任時期故に、同艦が任務に従事したのは休戦までの僅か3カ月となったが、ターラントを母港として10回の機雷敷設任務に従事した。7月12日深夜から13日早朝に掛けて、「ポンペオ・マーニョ」はメッシーナ海峡にて5隻の英国海軍の魚雷艇と遭遇したが、その性能を生かして、2隻を撃沈、1隻を大破させる活躍を見せた。

9月8日の休戦時、「ポンペオ・マーニョ」はターラント軍港にいた。当時のターラント軍港には戦艦「カイオ・ドゥイリオ」及び「アンドレア・ドーリア」、そして「ポンペオ・マーニョ」と同型艦の「シピオーネ・アフリカーノ」、更に軽巡洋艦ルイージ・カドルナ」が停泊していた。その他、駆逐艦水雷艇、潜水艦、コルベットが16隻ほどあったが、多くは任務中で連合軍への引き渡しを遂行できる準備は出来ていなかった。連合軍への引き渡し後、「ポンペオ・マーニョ」は共同交戦海軍に所属し、「シピオーネ・アフリカーノ」と共に主に輸送任務に従事した。

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駆逐艦「サン・ジョルジョ」として再就役した旧「ポンペオ・マーニョ」

戦後、「ポンペオ・マーニョ」はイタリア海軍で引き続き就役する事が許可された数少ない艦艇の一つであった。改修後、駆逐艦「サン・ジョルジョ」として1955年に再就役することとなり、1987年に解体された。

 

4番艦:「ジュリオ・ジェルマニコ」

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軽巡洋艦「ジュリオ・ジェルマニコ」

軽巡洋艦「ジュリオ・ジェルマニコ」はカピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦の4番艦。

艦名はローマ帝国時代の軍人ゲルマニクスユリウス・カエサルのイタリア語読み(ジェルマニコ・ジュリオ・チェーザレ)。
休戦時(1943年9月8日)にはまだ未完成の状態であったが、94%完成しており、既に艦長ドメニコ・バッフィーゴ少佐ら乗組員は乗艦していた。休戦時、「ジュリオ・ジェルマニコ」はナポリ近郊のカステッランマーレ・ディ・スタービアにいた。そろそろ艦の完成間近という段階で、イタリアの休戦が突如発表されたのであった。

イタリア休戦後、ドイツ軍はイタリア艦隊の拿捕のためにカステッランマーレ・ディ・スタービア港への攻撃を開始した。3日間の激しい戦闘の末、バッフィーゴ艦長らは降伏交渉の場に招かれた。しかし、ドイツ軍はバッフィーゴ艦長ら「ジュリオ・ジェルマニコ」の船員らを虐殺し、「ジュリオ・ジェルマニコ」を拿捕したのであった。しかし、「ジュリオ・ジェルマニコ」がドイツ海軍の旗の下で使われる事は無かった。連合軍がイタリア本土に進撃を始めると、ドイツ軍はカステッランマーレ・ディ・スタービアから撤退を開始し、「ジュリオ・ジェルマニコ」はドイツ人の手によって自沈されることとなったからである。殺害されたバッフィーゴ艦長らは戦後、金勲章を受勲された。

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駆逐艦「サン・マルコ」として改修された旧「ジュリオ・ジェルマニコ」

戦後、イタリア海軍によって浮揚・修復された「ジュリオ・ジェルマニコ」は、共和国海軍の一員として就任する事が講和条約によって許可されることとなり、駆逐艦「サン・マルコ」として1956年に再就役した。1971年に解体。

 

5番艦~12番艦までの同型艦はいずれも未完成で終わり、戦後就役することも無かった。以下に簡略化して紹介する。

5番艦:「ウルピオ・トライアーノ」

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パレルモ港にて撃沈された「ウルピオ・トライアーノ」

艦名はトラヤヌス帝のイタリア語読みから。
進水は1942年11月30日。1943年1月3日、パレルモ港にて英海軍の人間魚雷「チャリオット」の攻撃によって撃沈された。戦後に浮揚、解体。

6番艦:「オッタヴィアーノ・アウグスト」

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アンコーナ港で撃沈された「オッタヴィアーノ・アウグスト」

艦名はアウグストゥス帝(オクタヴィアヌス)のイタリア語読みから。
進水は1942年5月31日。休戦時はアンコーナ港にいたが、連合軍に引き渡すには準備が出来ておらず、侵攻してきたドイツ軍によって拿捕された。1943年11月1日に連合軍のアンコーナ爆撃によって撃沈され、戦後に浮揚・解体された。

7番艦:「カイオ・マリオ」

艦名は共和政ローマ時代の軍人ガイウス・マリウスのイタリア語読み。

進水は1941年8月17日。潜水艦の雷撃で艦首を失った同型艦「アッティーリオ・レゴロ」の修復に、「カイオ・マリオ」の艦首が使われた。休戦後、ドイツ軍によってラ・スペツィア軍港で拿捕され、燃料貯蔵庫として使われた。1944年に連合軍の爆撃によって撃沈され、戦後に浮揚・解体。

8番艦:「コルネリオ・シッラ」

艦名は共和政ローマ時代の軍人コルネリウス・スッラのイタリア語読み。

進水は1941年6月28日。休戦時はジェノヴァで建造中で、ドイツ軍によって拿捕。1944年7月の連合軍による空襲でほぼ破壊された。戦後、解体。

9番艦:「クラウディオ・ドルソ」

艦名は大ドルススのイタリア語読み。進水前に1942年2月10日に解体。

10番艦:「クラウディオ・ティベリオ」

艦名はティベリウス帝のイタリア語読み。進水前に1942年2月18日に解体。

11番艦:「パオロ・エミーリオ」

艦名は共和政ローマ時代の軍人ルキウス・アエミリウス・パウッルスのイタリア語読み。進水前に1942年2月10日に解体。

12番艦:「ヴェプサニオ・アグリッパ」

艦名はアグリッパのイタリア語読み。進水前に1942年8月20日解体。

 

カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦は優れた性能を持っていたが、如何せん就役した時期が遅かったため、活躍の場が少なかった。しかし、「シピオーネ・アフリカーノ」や「ポンペオ・マーニョ」のように、レーダーと高速性能を生かして活躍した例もあり、それがこの艦の性能を物語っていると言えるだろう。イタリアの工業生産力が仮にもう少し高ければ(それによって完成を早く出来ていれば)、建造が中止となった艦も含め、もっと活躍の場があったであろう。なんとも惜しい。