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「世界初の高速道路を生んだ男」ピエロ・プリチェッリ ―ファシスト政権とイタリアの自動車史―

「世界初の高速道路」は実はイタリアだった―そんな話を聞いて、多くの人は驚くだろう。おそらくはドイツやアメリカが世界初と思っていた方が多いのではないだろうか。「世界初の高速道路」は1924年に開通したミラノ―ガッララーテ間の高速道路(アウトストラーダ)である。断じてアウトバーンではない!ドイツのアウトバーンが開通するのは1930年代である。何故か知らないが、これは日本語版Wikipediaには載っていない。毎度のことだが、日本語ウィキはイタリアに怨みでもあるのか?

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「世界初の高速道路」を生んだ男、ピエロ・プリチェッリ

世界初の高速道路はピエロ・プリチェッリ(Piero Puricelli)というミラノ出身の技師によって設計された。彼の元で1922年に高速道路建設が計画され、2年の歳月を経て完成した。FIAT社の公式サイトでは「ピエロ・ピュリチェッリ」として紹介されていたが、表記的に正しい発音はピエロ・プリチェッリなので、そちらに修正した。

よく、「世界初の高速道路」は1911年にアメリカで開通したロングアイランド・モーターパークウェイが挙げられるが、こちらはあくまで娯楽用の自動車専用道路であった。一般向けの都市間高速輸送のために設計された、という現在における高速道路の概念からすると、イタリアのミラノ―ガッララーテ間の高速道路が初となる。それ以前のものは、全てが娯楽用やリクリエーション用、レース用であった。

アウトバーンを「世界初の高速道路」と紹介している例もあるが、そちらは完全なる事実の誤認である。都市間移動のためにせよ、娯楽用にせよ、アウトバーンは全くもって「世界初」ですらない。そもそも、アウトバーンが作られたのは1930年代だ。勘違いも甚だしい。

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当時のイタリアの高速道路の例

ムッソリーニは国内インフラを整えるためにも、この高速道路に注目した。その後、ムッソリーニ率いるファシスト政権のもとで「太陽道路」と呼ばれる高速道路(アウトストラーダ)建設が行われるようになり、現在のイタリア全土を網羅するアウトストラーダの原型となったのである。ちなみに、設計者のプリチェッリ氏は有名なモンツァ・サーキット(イタリア語ではアウトドーロモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァ)も設計している。

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ムッソリーニ統帥は車好きで知られた。左から二番目はかのエンツォ・フェラーリである。

そもそも、ファシスト政権下のイタリアでは車が重視された。当時のイタリアでは、「海を見た事があるイタリア人より、自動車に乗った事のあるイタリア人の方が多い」と言われるほどである。これはムッソリーニが車好きであったことも由来するだろう。ムッソリーニ統帥は無類の車好きで、モータースポーツも愛した。彼の愛車はアルファロメオであった。ファシスト政権期のアルファロメオ社には後にフェラーリ社を創業するエンツォ・フェラーリが務めていたことでも知られている。

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石油企業AGIPの広告

ファシスト政権下で自動車が普及した理由は、レンタカーだった。レンタカーの普及により、自家用車が高くて手が出せない市民でも車に親しむことが出来た。これによって、金持ちだけが独占していた交通手段を、考えられないくらい多くのイタリア人たちが少なくとも一度は利用することが出来たのである。

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初の「大衆車」FIAT 508

同時に、高級車しか存在しなかったイタリア自動車産業に、新たに「大衆車」という概念が生まれた。これを作ったのはFIAT社で、1932年にFIATバリッラ508がミラノの自動車サロンに出展され、「最初の大衆車」として歓迎された。しかし、高級車メーカーであるランチャ社はFIAT社の方針をヨシとせず、「自動車はブルジョワのための贅沢品であるから、壮麗かつ煌びやかな外観を持つべき」と批判している。

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FIAT 500 "トポリーノ"

更に、1936年には「新しいイタリアの小型車」として、初代FIAT 500(チンクエチェント)、すなわち「トポリーノ(子ネズミ)」が登場した。この新型大衆車にはドゥーチェ自身が乗り、「昨日と経済性を兼ね備えた小型車の理想を完璧に再現した車」とまで評価した。価格は他の車よりかなり安く、8千リレほどであったが、自家用車の普及には繋がらず、主流はレンタカーのままであった。なお、ランチャ社はこの「トポリーノ」を「おもちゃのようだ」と批判し、空気力学を生かしたデザインの新型車「アプリリア」を発売している。FIAT社のチンクエチェントは時と共に形を変え(現在は三代目)、現在でもイタリアだけでなく、世界各地で大衆車として愛されている。なお、かのルパン三世の愛車は二代目チンクエチェントである。イタリアだとよく見かけるので、旅先で見かけたら「おぉぉおぉ!!ルパン!!!」ってなること間違いなし(当社比)。ちなみに、イタリア本国においてもルパン三世は大人気作品である。

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ミッレ・ミリア

イタリアの自動車の普及は、モータースポーツ人気も引き起こした。これはイタリアが現在に至るまでモータースポーツ大国になった素地と言えるだろう。自動車レースは人々を熱狂させ、特に農村の住民には人気だった。公道を使う白熱したレースが行われ、人々はこれを楽しんだ。ミッレ・ミリアなど、現在まで続く数多くのレースが初開催されたのもこの時期であり、イタリア本土だけでなく、アフリカの植民地でもレースが行われており、その関係でサーキットも多く造られた。

 

こういった感じだ。イタリアが自動車大国となった背景にはファシスト政権が大きく関わっていたというのは確かだろう。こういった話が、イタリアの再評価に繋がれば幸いである。そう!世界初の高速道路はイタリアなのである!この事実を忘れないで欲しい。