Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!-

同人サークル"Associazione Italiana del Duce"の公式ブログです。

イタリアにおける急降下爆撃機開発史と、伊空軍"ピッキアテッロ(変人)"部隊の戦果 ―開発の失敗と部隊の成功―

イタリアの急降下爆撃機開発、それは結果として失敗に終わったと言って良いだろう。戦時中においては序盤を除き、大戦中盤までイタリア空軍の急降下爆撃部隊はドイツのユンカース社製の急降下爆撃機、Ju-87"シュトゥーカ"(イタリアでは"ピッキアテッロ(変人)"という愛称が付けられていた)を一貫して配備していた。しかし、イタリアでは戦前から急降下爆撃機が開発されていたのは事実である。そこで、イタリアにおける急降下爆撃機開発がどのように失敗に向かっていったのか、そして逆に多くの戦果を挙げたイタリア空軍のJu-87"ピッキアテッロ"部隊の戦歴を辿ってみる事としよう。

 

初の国産急降下爆撃機サヴォイアマルケッティSM.85

f:id:italianoluciano212:20181223232905j:plain

サヴォイアマルケッティSM.85

戦間期、航空理論家であるアメデーオ・メコッツィ大佐らの意見によって、他国の空軍同様にイタリア空軍でも急降下爆撃の有効性が認められるようになり、急降下爆撃機開発が開始された。設計はアレッサンドロ・マルケッティ技師が行うこととなり、サヴォイアマルケッティ社が開発した。その結果開発された、イタリア初の急降下爆撃機サヴォイアマルケッティSM.85は1936年にアドリアーノ・バクラによってテスト飛行され、初飛行を成功させたのであった。

f:id:italianoluciano212:20181223234422j:plain

実戦部隊に配備されたサヴォイアマルケッティSM.85とSM.86

しかし、そのテスト結果は芳しくなく、機能的にとても優れた機体とは言えなかった。ピアッジオ社製のエンジンも力不足であった。とはいえ、急降下爆撃機が必要であったイタリア空軍はこの機体の量産を決定し、数十機が生産されてパンテッレリーア島(連合軍によって「ムッソリーニマルタ島」とも呼ばれた地中海の島で、政治犯流刑地であると同時に堅牢な要塞島であった)の実戦部隊に配備されたのである。

 

SM.85の改良型、サヴォイアマルケッティSM.86

f:id:italianoluciano212:20181223234402j:plain

サヴォイアマルケッティSM.86

サヴォイアマルケッティ社はSM.85の改良型として、SM.86を開発した。これはSM.85と同様にアレッサンドロ・マルケッティ技師が設計した機体で、1940年に初飛行した。しかし、これはSM.85よりかは性能は全体的に上昇したが、劣悪な性能であることには変わりはなかった。機能テストのためにSM.85と同じマルタ爆撃のパンテッレリーア島駐屯の実戦部隊に配備されたが、ドイツのユンカース社製の急降下爆撃機、Ju-87"シュトゥーカ"を輸入することとなったため、試作機段階で終了し、開発は中止されたため、試作機2機のみの生産で終わった。その内1機をエリオ・スカルピーニ(Elio Scarpini)というパイロットが乗り、マルタ爆撃、そしてギリシャ戦線での爆撃任務にも参加したとされているが、試作機しかないために大した戦果は挙げていない。

 

カプロニ社の急降下爆撃機、カプロニCa.355"トゥッフォ"

f:id:italianoluciano212:20181223234901j:plain

カプロニCa.355"トゥッフォ"

話は戦前に戻るが、急降下爆撃機を欲したイタリア空軍に対して、サヴォイアマルケッティ社以外もアプローチをしていた。その例としてカプロニ社とブレダ社がある。まずはカプロニ社の方を紹介しよう。

ドイツの急降下爆撃機Ju-87と同じような機体を求めたイタリア空軍に対して、カプロニ社はカプロニCa.335"マエストラーレ"戦闘爆撃機から発展したカプロニCa.355"トゥッフォ"を開発した。その前身となったカプロニCa.335"マエストラーレ"戦闘爆撃機は、ベルギーのSABCA社でライセンス生産された優れた機体(ドイツ軍のベルギー侵攻によって生産は中止となったが)である。

設計者であるチェーザレ・パッラヴィチーノ技師はCa.335"マエストラーレ"の設計で得たノウハウを生かして、低コストで大量生産に向いた急降下爆撃機の開発を目指した。こうして開発されたCa.355"トゥッフォ"は1941年に初飛行し、テスト飛行で良好な結果を残した。しかし、空軍指導部はこれに満足せず同盟国ドイツ製のJu-87配備を決定したため、カプロニCa.355は試作機段階で終了となった。

 

レダ社の急降下爆撃機、ブレダBa.201

f:id:italianoluciano212:20181224000532j:plain

レダBa.201

一方、ブレダ社もカプロニ社同様に急降下爆撃機開発を行った。ヴィットーリオ・カルデリーニ技師とマリオ・ピットーニ技師によって設計された。こうして開発されたブレダBa.201は1941年に初飛行を果たした。逆ガル翼が特徴的なこの急降下爆撃機は全金属製で、試験飛行でも良い結果を残していた。しかし、空軍指導部は防御力不足の問題などからBa.201を採用する事はなく、これもCa.355同様に試作機段階で終了となったのであった。

 

うつ伏せで操縦! サヴォイアマルケッティSM.93

f:id:italianoluciano212:20181224001902j:plain

サヴォイアマルケッティSM.93

結果としてイタリアの航空機各社による急降下爆撃機開発は失敗に終わり、イタリア空軍参謀長のフランチェスコ・プリコロ将軍はドイツのユンカース社製Ju-87の配備を決定した。しかし、その後もイタリア企業による急降下爆撃機開発が停止したわけではなかった。その後、開発された急降下爆撃機で最も特殊なものはサヴォイアマルケッティ社のSM.93急降下爆撃機であろう。

この急降下爆撃機の面白い点は急降下爆撃時のGを耐えるために、うつ伏せになって操縦するというところである。実に奇妙である。当然、うつ伏せで操縦するとなると、会敵とは言えないし、視界不良、特に後方の視界が悪かった。とはいえ、空気力学を生かしたデザインは試験飛行で今までのサヴォイアマルケッティ社の急降下爆撃機とは異なり、優秀な結果を残した。

この機体は1942年に開発が開始され、SM.85やSM.86と同様にアレッサンドロ・マルケッティ技師によって設計された。しかし、試作機の完成は休戦後の1944年1月となり、同月初飛行となった。前述した通り、SM.93は試験飛行で優秀な結果を残したが、うつ伏せで操縦するという姿勢は、非常に困難で、パイロットの訓練にも他の急降下爆撃と違って多くの時間を有することとなるため、当機を接収したドイツ空軍当局(RSI空軍ではない)は開発を中止させることとなった。こうして、SM.93は優れた性能であったにもかかわらず、配備はされなかったのである。

 

急降下爆撃機に改造された重戦闘機、IMAM Ro.57 bis

f:id:italianoluciano212:20181225010614j:plain

IMAM Ro.57 bis

イタリアの急降下爆撃機の中には、重戦闘機から転用したものもあった。ナポリのIMAM社は双発長距離戦闘機の開発を1930年代から開始し、それによって完成したIMAM Ro.57は1939年に初飛行した。ただ、試験飛行の結果は振るわず、その後急降下爆撃機への転用改造が模索されたが、イタリア空軍は採用しなかった。長らく試作機段階であったが、1942年終盤になると航空機不足に悩むイタリア空軍によって、急降下爆撃機IMAM Ro.57 bisとして採用されることとなり、量産が決定した。

しかし、量産決定の時期が遅かったために、休戦までにIMAM社は50機程しか完成しなかった。1943年には実戦部隊に配備されたが、元々性能的に劣っていた機体は特に活躍もしなかった。その内1機は軽巡サウサンプトン」を撃沈したジャンピエロ・クレスピ中尉によって使われている。戦後、残った機体がどうなったかは不明だが、おそらくは解体されたか、訓練用に使われたかどちらかであろう。

 

Ju-87"ピッキアテッロ(変人)"の伊空軍での配備とその活躍

f:id:italianoluciano212:20181224003116j:plain

イタリア空軍仕様のJu-87"ピッキアテッロ"

結局、イタリアは第一次世界大戦(もっと言えば伊土戦争)からの航空機先進国であったにもかかわらず、急降下爆撃機開発に関して完全に出遅れた形となった。これによって、空軍参謀長フランチェスコ・プリコロ将軍は同盟国であるドイツのユンカース社からJu-87"シュトゥーカ"を輸入し、これをイタリア空軍の急降下爆撃機部隊に配備することとなったのである。イタリア空軍で使われたJu-87は"ピッキアテッロ(変人)"という愛称が付けられ、多くの作戦に用いられた。

イタリア空軍の急降下爆撃部隊は、ドイツ空軍の急降下爆撃部隊には及ばないものの、数々の作戦で多くの戦果を挙げ、ジュゼッペ・チェンニやフェルナンド・マルヴェッツィといった偉大なパイロットを生み出した。ここでは、イタリア空軍の"ピッキアテッロ"急降下爆撃部隊の戦果について軽く見てみよう。

f:id:italianoluciano212:20181224003835j:plain

マルヴェッツィ大尉率いる急降下爆撃部隊に撃破された、英海軍の軽巡洋艦サウサンプトン

後にRSI空軍において第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」の司令官を務めるフェルナンド・マルヴェッツィ空軍大尉は、戦闘機パイロットとしてエースになったが、1941年の夏以前は急降下爆撃機パイロットであった。

マルヴェッツィ大尉はマルタ島攻撃で初の実戦を経験し、その後はギリシャ戦線、北アフリカ戦線、そして地中海での敵艦攻撃任務に従事した。1941年1月10日には、部下のマッツェイ曹長、ジャンピエロ・クレスピ軍曹と共に英海軍のタウン級軽巡洋艦サウサンプトン」に急降下爆撃を実行し、これを大破させることに成功した。その後、航行不能となった「サウサンプトン」は味方艦によって雷撃処分されている。

f:id:italianoluciano212:20181224005359j:plain

「ワルツを踊る小人」ジュゼッペ・チェンニ

ギリシャ戦線における急降下爆撃機部隊による活躍はドイツ空軍によるものが有名だが、その戦果の中にはイタリア空軍の急降下爆撃部隊の戦果も交じっており、一説によればイタリア空軍の急降下爆撃によって、ギリシャ海軍の駆逐艦「プサラ」が撃沈されたとされる。イタリア空軍の急降下爆撃部隊は、ドイツ空軍の急降下爆撃部隊同様にギリシャ海軍には恐怖の対象であった。

そのギリシャ戦線での急降下爆撃部隊で特に活躍を見せたのが、イタリア空軍の急降下爆撃パイロットでは最も有名な人物と言える、ジュゼッペ・チェンニ空軍大尉であった。彼は反跳爆撃を実用化した人物としても知られ、これは実に高度なテクニックが必要であったが、成功すれば敵艦攻撃には有力な攻撃方法であった。なお、チェンニ大尉が所属した第97急降下爆撃航空群を指揮したアントニオ・モスカテッリ空軍中佐は、1942年にローマ-東京間の超長距離飛行を成し遂げたサヴォイアマルケッティSM.75RT機の機長を務めた人物である。なお、この戦時中のローマ-東京飛行は、ドイツ空軍も成し遂げられなかった、欧州-極東間の航空機による輸送任務であった。

チェンニ大尉は戦闘機パイロットとしてスペイン内戦で多くの戦果を挙げたヴェテランパイロットであったが、第二次世界大戦では急降下爆撃パイロットに転向した。そして、チェンニ大尉は1941年4月4日、コルフ島沖にてギリシャ海軍の輸送船団に対して反跳爆撃を敢行し、輸送艦「スザンナ」を撃沈し、更に同日別の攻撃で駆逐艦「ポッサ」を撃沈させることに成功したのである。ギリシャ海軍はこの攻撃に驚き、雷撃を受けたと勘違いしたほどであった。その後、ユーゴスラヴィア侵攻において、4月13日、チェンニ大尉の部隊はユーゴスラヴィア海軍の水上機母艦「ズマイ」を大破させ、チェンニ大尉自身もコルフ島沖にてギリシャ商船「イオアンナ」を撃沈している。Ju-87と反跳爆撃の組み合わせは非常に良く、イタリア空軍の急降下爆撃部隊は艦隊攻撃において多くの戦果を挙げていったのである。

f:id:italianoluciano212:20181224012122j:plain

チェンニ大尉の部隊に撃沈されたオーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」

チェンニ大尉はバルカン方面での戦いが終結すると、北アフリカでの作戦行動に移り、地中海での船団攻撃を実行した。5月25日、チェンニ大尉の部隊はトブルク包囲戦で英船団を迎撃し、コルベットグリムスバイ」と大型タンカー「ヘルカ」を撃沈した。更に6月29日にオーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」を撃沈し、その翌日には英コルベットクリケット」を大破・航行不能にさせるが、部下であるエンニオ・タラントラが海上で撃墜された。タラントラは救命イカダで18時間も漂流した後にカントZ.501哨戒機によって救助されたが、この経験により急降下爆撃機から戦闘機部隊に復帰している(その後エースとして戦果を挙げた)。

これらの活躍の後、第102急降下爆撃航空群の司令官に任命されたチェンニ大尉は、引き続き船団攻撃に従事する一方、夜間はマルタ島への爆撃を敢行した。チェンニ大尉含む急降下爆撃部隊は、6月中旬の海戦において海軍と協力して多くの戦果を挙げ、連合軍船団は多数の艦船を撃沈されてマルタ補給作戦は失敗となった。これはダ・ザーラ提督とイアキーノ提督に指揮された艦隊による戦果も大きかったが、同時に空軍による支援も大きな役割を担っていたのである。しかし、消耗も大きかった。

f:id:italianoluciano212:20181224013942j:plain

新たに配備されたレッジアーネRe.2002戦闘爆撃機

レッジアーネRe.2002"アリエテ"戦闘爆撃機に装備を更新したチェンニ大尉の部隊はシチリア防衛戦においても戦果を挙げ、輸送船「タランバ」を撃沈し、モニター艦「エリバス」に直撃弾を与える戦果を残している。その後、ムッソリーニ統帥は王党派クーデターで失脚したが、バドリオ元帥による政権樹立後もまだ連合軍との戦いは続いていた。少佐に昇進したチェンニ率いる部隊は、連合軍の上陸艦隊が迫るレッジョ・カラーブリア上空で戦い、揚陸艦4隻を撃沈、更に敵上陸部隊を機銃掃射でなぎ倒したが、チェンニ少佐は英空軍のスピットファイアに追撃され、戦死を遂げたのであった。

 

これらの結果から、イタリアは急降下爆撃機開発に失敗したのに対して、急降下爆撃機パイロットに関しては十分大きな戦果を挙げたと言っていいだろう。

 

余談であるが、イタリア空軍の急降下爆撃パイロットは何人かが『ストライクウィッチーズ』のロマーニャ公国のウィッチのモデルとなっている。劇場版にも登場する第504統合戦闘航空団「アルダーウィッチーズ」に所属する「フェル隊長」ことフェルナンディア・マルヴェッツィはマルヴェッツィ大尉がモデルで、その部下のルチアナ・マッツェイはマッツェイ曹長、マルチナ・クレスピはジャンピエロ・クレスピ中尉がモデルとなっている。

「いらん子中隊」に登場するジュゼッピーナ・チュインニは、チェンニ大尉がモデル。更に赤ズボン隊(パンタローニ・ロッシ)に所属するエンリーカ・タラントラはタラントラ軍曹がモデルとなっている。