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「アンバ・アラジの英雄」アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)アメデーオ・ディ・サヴォイア —大空を舞った「鋼鉄侯」の軌跡—

戦間期には優秀な飛行家として知られ、また第二次世界大戦時には東アフリカ戦線の総指揮を執ったことで知られるアオスタ侯アメデーオ・ディ・サヴォイア(Amedeo di Savoia-Aosta, Duca d'Aosta)。東アフリカ戦線の敗北によって、捕虜となった彼はケニアの捕虜収容所の中で悲劇の病死を遂げた。今回は「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」と呼ばれ、王族とは思えない自由奔放な性格で知られた彼の軌跡を辿ってみよう。

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アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo di Savoia-Aosta)

アメデーオは1898年10月21日にトリノにて、第二代アオスタ侯(Duca d'Aosta)のエマヌエーレ・フィリベルト(Emanuele Filiberto)の長男として生まれた。正式名はアメデーオ・ウンベルト・ロレンツォ・マルコ・パウロ・イサベッラ・ルイージ・フィリッポ・マリーア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・ディ・サヴォイア=アオスタ(Amedeo Umberto Lorenzo Marco Paolo Isabella Luigi Filippo Maria Giuseppe Giovanni di Savoia-Aosta)。王族らしく非常に長い名前である。彼は出生と同時にサヴォイア=アオスタ家の次期当主となった。サヴォイア=アオスタ家はイタリア王家であるサヴォイア家の分家に当たる血筋で、イタリア王族に含まれた。「プッリャ侯」の称号を得たアメデーオは僅か9歳で、英国・ロンドンにあるセント・アンドルーズに留学することとなり、その結果英語を完全に習得した。彼は英国でキツネ狩りやポロを楽しんだという。また、彼は初期段階の飛行機が町の上空を飛ぶのを見て、幼い頃から空に憧れを持っていた。様々な物語を通してアフリカへの冒険にも憧れていた。

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父である第二代アオスタ侯エマヌエーレ・フィリベルト。第一次世界大戦の英雄であると同時に、ムッソリーニの政権樹立の後押しをした人物として知られる。トリノのカステッロ広場には巨大な像があり、現在も残っている。

イタリアに戻ったアメデーオは15歳でナポリの王立士官学校に入学し、軍のキャリアを開始した。本当は海軍士官学校に入りたかったが、家族の反対で陸軍士官学校に入った。彼は友人に自分を「君(tu)」と呼ばせることを勧め、形式だった関係を崩して柔軟な関係を築いている。その親しみやすい間柄によって多くの人間関係を築いた。しかし、その翌年には第一次世界大戦が勃発する。アメデーオは僅か16歳で騎兵連隊「ヴォロイレ」の一員として戦うことになったアメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルト(第三軍司令官)は指揮官であるカルロ・ペティッティ・ディ・ロレート将軍に対し、アメデーオを「特別扱いせず、他の人間と同じように」扱うことを求めた第一次世界大戦を切り抜けたアメデーオは、武勲を挙げて最終的に中尉にまで昇進した。

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トリノ・マダーマ宮前にあるエマヌエーレ・フィリベルト侯の像。周囲には彼の部下の兵士たちを模した像が配置されている。

第一次世界大戦が終わった後、アメデーオは叔父であるアブルッツィ侯ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタのアフリカ行きに付き従った。アブルッツィ侯はソマリアでの農業開発に尽力し、アメデーオもそれを手伝った。河川調査、綿花やサトウキビ栽培、食用油の精製などが行われ、後にヴィッラブルッツィ(現ジョーハル)と呼ばれる都市の建設にかかわった。更にはヴィッラブルッツィとモガディシオを繋ぐための鉄道の敷設の準備を進めた(本格的な建設開始は1924年)。冒険心に溢れた彼は帰国の際もわざわざ喜望峰を通って遠回りのルートで帰国しようとしたが、道中でマラリアに罹ったため、ザンジバルの病院で入院することとなる。

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アメデーオの叔父にあたるアブルッツィ侯ルイージ・アメデオ・ディ・サヴォイア=アオスタ。第一次世界大戦時のイタリア艦隊司令官であるが、それよりもアフリカへの探検とソマリアでの開発で知られている。

アフリカで経験を積んだアメデーオは高校を卒業した。1921年には軍を去り、ベルギー領コンゴに「家出」をした。本当かどうか定かではないが、これは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が低身長であることを言ったため、国王の怒りを買ったことによる「追放」だったともされる。その結果、ベルギー領コンゴのスタンリーヴィル(現在のキサンガニ)に僅かな資金のみで行き、石鹸工場の労働者として働いた。環境は当然劣悪で、工場の労働者は海外からの出稼ぎ労働者や現地のコンゴ人たちであったが、彼らは見るからに育ちがよく、外国語を不自由なく話す長身の男が何故こんな場所に来たのか不思議に思ったという。

アメデーオがイタリアを離れている間、イタリアは激動の時代だった。ムッソリーニ率いるファシスト党が勢力を拡大し、遂に政権を樹立したからだ。アメデーオの父エマヌエーレ・フィリベルトはファシストの重要な支援者となり、ムッソリーニの政権樹立の後押しをした人物として知られている。第三軍を指揮した「第一次世界大戦の英雄」がムッソリーニの後押しをしたことは、彼の影響力の拡大に十分に役になった。興味深いことに、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ムッソリーニを不支持だった場合、ムッソリーニはエマヌエーレ・フィリベルトに王位を継承させることを提案したという。なお、この結果、ファシスト政権成立後の1926年にはエマヌエーレ・フィリベルトはエンリコ・カヴィーリャ(第八軍司令官)、ピエトロ・バドリオ(陸軍参謀長)、ガエターノ・ジャルディーノ(第四軍司令官)、グリエルモ・ペコリ・ジラルディ(第一軍司令官)といった他の第一次世界大戦の指揮官たちと共にイタリア軍最高位である元帥の地位を与えられている。

 

◆飛行士としての「鋼鉄侯」のキャリア

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アメデーオとアンナ(アンヌ・ドルレアン)の結婚式の写真。

コンゴの石鹸工場の副所長にまで昇進した彼だったが、ファシスト政権が成立した後の1923年、アメデーオはイタリアに帰国して再び軍のキャリア(少佐)を再開した。父と同様にファシスト政権への支持を表明した。また、パレルモ大学で植民地問題で学士を所得して卒業している。同年、イタリア空軍が陸軍航空隊及び海軍航空隊を統合して誕生したが、1926年7月にアメデーオは飛行士免許を取ったものの、この段階ではまだ陸軍の所属であった。なお、彼の飛行士訓練を指導したのは、ローマ-東京飛行で知られるかのアルトゥーロ・フェッラーリンだったという。フェッラーリンはアメデーオの友人だった。翌年、オルレアン公ジャンの三女であるアンヌ(イタリア語ではアンナ)と結婚している

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バドリオ元帥(左)とグラツィアーニ将軍(右)。二人は仲が悪かったが、植民地戦争においては「名コンビ」とも言える関係だった。それはリビア人やエチオピア人にとってはまさしく「悪夢」そのものであり、二人による容赦ない攻撃によって数えきれない犠牲者を出した。

飛行士としてのキャリアを開始したアメデーオは1929年に再びアフリカに戻った。今度は東アフリカや中部アフリカではなく、北アフリカリビアに向かった。階級は大佐にまで昇進していた。アフリカに魅了された彼は再びアフリカの地に戻ったことに歓喜したという。当時、リビアではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団による大規模反乱が発生しており、ロドルフォ・グラツィアーニ将軍とピエトロ・バドリオ元帥が率いるイタリア軍はこれの徹底的な鎮圧を実行していた(リビア再征服)。リビアに渡ったアメデーオはグラツィアーニ将軍の指揮下に置かれ、キレナイカ戦線における航空偵察、そしてサヌーシー教団の軍勢への大胆な空爆を行って戦局に大きな影響を与えている。この輝かしい働きによって、アメデーオは銀勲章を叙勲された。

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ゴリツィア飛行場のアメデーオ侯。

1931年に父エマヌエーレ・フィリベルトが死去すると、アオスタ侯の地位を受け継いで第三代アオスタ侯(ドゥーカ・ダオスタ)となった。その後、トリエステに駐屯する第23砲兵連隊の指揮をしたが、翌年1932年には遂に空軍に移籍した。今まで陸軍を離れられなかったのは、父エマヌエーレ・フィリベルトや王族の抵抗(王族は伝統的な陸軍に所属する事が好ましいと考えられたため)があったからだった。しかし、父の死を機にアメデーオは国王に空軍への移籍許可を迫り、国王はしぶしぶこれを了承したのであった。

イタロ・バルボ空軍元帥率いるイタリア空軍は、リビアで武勲を挙げた「空の貴公子」を歓迎した。アメデーオは堅苦しい陸軍の雰囲気から解放され、若く穏やかな空軍の環境に大変喜んだという。空軍に移籍した彼は空軍大佐の階級を得て、ゴリツィア基地の第21偵察航空団の司令官に任命された。1933年5月から翌年3月までは第四戦闘航空団の司令官を務め、空軍准将に昇進。

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トリエステミラマーレ城。元々ハプスブルク家のマクシミリアンによって作られた城であった。

1930年から1937年までの間、アメデーオは家族と共にトリエステミラマーレ城で暮らしていた。余談だがこの頃アメデーオはトリエステのサッカーチーム「トリエスティーナ」の名誉会長に就任している。更にはトリエステとゴリツィアの名誉市民の称号も得た。王族とは思わせない雰囲気で人望もあった彼はトリエステ市民からも親しみを持たれていたのであろう。また、彼は個人的なアクロバット飛行を好み、よくやっていたが、彼は高身長であったため機体の座席は特別仕様だった。

1935年にムッソリーニエチオピア帝国との戦争を宣言し、エチオピア侵攻を開始した(エチオピア戦争)。これに対してアメデーオは空軍パイロットとして前線で戦うことを申し出たが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はこの申し出を断った。空軍将官であり、王家の一員だったアメデーオが危険な前線で戦うことは国王は許さなかったのである(エチオピア側が強力な対空砲を持っていたことも理由の一つだろう)。失念した彼を国王は少将に昇進させ、前線パイロットではなく第一航空師団「アクィラ」司令官に任命することで妥協させた。エチオピア戦争の終結後、1937年11月にアメデーオは空軍中将に昇進している。

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アメデーオとFIAT CR.30。彼は身長が非常に高く、198cmもあったそうだ。

エチオピア戦争に続いてスペインにて内戦が勃発した。これに対してムッソリーニ統帥はイタリア軍を派遣し、介入することを決定した。そこで、アメデーオが新たなスペイン国王になる案が浮上した。これは初代アオスタ侯アメデーオ(つまり第三代アオスタ侯アメデーオの祖父に当たる人物)が一時的に「アマデオ1世」としてスペイン王となったことに由来するが、これはフランコ将軍によって拒否されたため立ち消えとなった。

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エチオピアの村を訪れたアメデーオ侯。

1937年12月末には、グラツィアーニの後任として、東アフリカ帝国副王に任命された。当時、東アフリカでは前任のグラツィアーニによる恐怖政治と武力による徹底的な弾圧が行われていたため、アメデーオはエチオピア統治に苦労することとなるエチオピア人の抵抗に悩まされることとなるが、アメデーオは現地の大規模な開発を実行する。しかし、短い統治期間故に完了したものは少なかった。彼は第二次世界大戦時の東アフリカ戦線の崩壊まで東アフリカ帝国副王を務めた。

 

第二次世界大戦と「アンバ・アラジの英雄」

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笑顔の「鋼鉄侯(Duca di Ferro)」アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ。

1940年にアメデーオは空軍大将に昇進する。これは事実上の空軍最高位であった(空軍元帥はイタロ・バルボ空軍大臣の名誉称号的なものだったため)。その後、同年6月にはイタリアが英国及びフランスに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。この結果、アメデーオは東アフリカ戦線の総指揮を執ることとなる。東アフリカ戦線の詳細は別項目に詳述しているためここでは省略するが、東アフリカ戦線のイタリア空軍は旧式機こそ多いものの、ヴィシンティーニ大尉を始めとするスペイン内戦を経験したヴェテランパイロットも多く、英空軍相手に善戦した。ヴィシンティーニは大戦初期のイタリア空軍トップエースであり、更には大戦を通じて複葉戦闘機の世界トップエースだった

第二次世界大戦時の東アフリカ戦線では、アメデーオ侯率いるイタリア軍は英領ソマリランドを完全制圧し、スーダン及びケニア国境地帯を制圧するなど緒戦は善戦するが、次第に物資の欠乏に悩まされ(東アフリカ戦線は本国から遠く支援物資の補給が来なかった)、年明けの1941年から英軍の反抗作戦によってイタリア軍は崩壊していった。帝都アディスアベバの東方アワシュ渓谷地帯で防戦していた師団も力尽き、英軍によってアディスアベバへの道のりが開かれたのである。

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エチオピア北部、ティグレ地方のアンバ・アラジ山岳地帯。近代に入って、歴史上三度戦闘が発生した。一度目はアビシニア戦争時のイタリア軍エチオピア軍の戦い、二度目は第二次世界大戦時のイタリア軍と英軍の戦い、三度目は第二次世界大戦時のエチオピア軍とウォヤネ反乱軍の戦いだった。

1941年4月3日、英軍に追い詰められたアディスアベバでは、アメデーオ侯と幕僚であるクラウディオ・トレッツァーニ将軍らが作戦会議を開いていた。そこではアディスアベバを放棄して、アンバ・アラジの山岳地帯のトセッリ要塞での籠城戦をすることを決定し、同日の午後にはアメデーオ侯らイタリア軍主力はアディスアベバを出発し、アンバ・アラジに向かった。

アメデーオ侯がアンバ・アラジ山を選択したのは、ここが険しい山岳地帯であり防衛に適した場所であることによるものだった。また、同地のトセッリ要塞はアビシニア戦争中の1895年12月7日にイタリア守備隊のピエトロ・トセッリ少佐が壮絶な戦死を遂げた場所でもあった。アメデーオ侯らは最後まで徹底抗戦をすることを誓ったが、同地を包囲された場合、険しい山岳地帯故に外から支援物資を届ける事は不可能だった。しかし、そもそも現状として支援物資が本国から届く見込みはほぼ無かったために、この問題点は無視された。

一方、アワシュ渓谷でのイタリア軍守備隊を破った英軍はアディスアベバに入場し、その後エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは帝都に帰還を果たした。トセッリ要塞に辿り着いたアメデーオ侯らは防衛陣地の構築を始めるが、その間も英軍は猛攻を続け、4月17日にはアディスアベバ北東のデシエが陥落している。英軍は次第にアンバ・アラジに迫りつつあった。アンバ・アラジの戦いは同日4月17日に始まった。英軍はアンバ・アラジを包囲し、アメデーオに無条件降伏を迫ったがアメデーオはこれを拒否し、徹底抗戦を決定した。戦闘は約1カ月間続き、イタリア軍は勇敢に英軍の猛攻に抗い続けたが、遂に水や弾薬も枯渇し、更に山岳の寒さが将兵を襲った

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英軍に降伏するアメデーオ侯(左から二番目)。

5月15日、遂にムッソリーニから降伏を許可する電報が届いたため、16日にアメデーオは英軍の勧告に応えて交渉を開始した。しかし、派遣されたボルピーニ将軍らイタリア軍代表は道中でエチオピアパルチザンに襲撃され、全員が殺害されるという思わぬ悲劇が発生した。このため、逆に英軍代表がアンバ・アラジに出向き、交渉を開始することとなった。その後、アメデーオ侯らAOIイタリア軍主力部隊は降伏した

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ヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館にあるアメデーオ侯の像。空軍の歴史上でも特に重要な人物の一人とされており、現在でも高く評価されている。

英軍の捕虜となったアメデーオはケニアに移送されたが、その地で熱病、チフスマラリアなどに侵され、闘病の末に1942年3月3日にナイロビの病院で結核のため死亡、同地の軍人墓地に葬られたのであった。こうして、「アンバ・アラジの英雄」と称された「鋼鉄侯」アメデーオはこの世を去ったのであった。

死後、イタリアの新聞は以下のように述べている。

「東アフリカ・イタリア軍総司令官アオスタ侯アメデーオ・ディ・サヴォイア空軍大将は、11カ月の激戦を通じ、圧倒的勢力の敵軍に包囲され、祖国からも孤立状態にあったが、賢明かつ勇壮な指揮官として、経験豊富な能力を十分発揮した。また勇敢な飛行士として活躍したほか、陸海空のいかなる戦闘においても、軍隊をたゆみなく指揮、激励し、数々の勝利をもたらした。アンバ・アラジの陣地では敵軍の包囲攻撃の中で陣頭に立って抗戦し、その人力を超越した奮戦ぶりは敵軍さえ称賛したのであった。アオスタ侯はサヴォイア王家の伝統たる武勇の継承者であり、植民地帝国を支配するファシスト・イタリアのローマ精神とその栄光を飾ったのである。」