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ドゥーチェは石油王の夢を見るか? ―ファシスト政権期のイタリアとリビア植民地の油田—

皆様、お久しぶりです。3月初めにちょいと四度目の南部イタリア遠征に行って参りました。やはり南イタリアは良いですね!天気が良くて、食事も美味しく、物価も安く...観光客にとっては本当に天国です。さて、今回は別に旅行の話をするわけではありません。それもそうで、今回の旅行は母を南イタリアに案内するのが目的だったので、軍事博物館とかは全く行っていないので(例外的にアマルフィのアルセナーレ博物館や、シラクーザの潜水艦「ブロンツォ」の慰霊碑とかがありますが)。

 

ファシスト政権期のイタリアと石油

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ファシスト政権期のAGIPの広告

今回はファシスト政権期のイタリアとリビアの油田について、ちょっと調べてみる事にします。ファシスト政権期のイタリアにとって、石油の不足問題は慢性的なテーマの一つでした。イタリアは国内消費する石油の殆どを従来から輸入に頼っており、そのためエチオピア戦争によって国際的に孤立していくにつれ、慢性的な石油不足に悩まされることとなりました

当時の国家の中でも早くから自動車の普及が進んでいたイタリアにとって、石油の不足というのは何も軍事的な問題だけではなく、国民生活にも影響をもたらしました。当時のレンタカー料金にはガソリン代も含まれていたために、エチオピア戦争の経済制裁によって燃料の輸入が制限されてしまうと、国内の燃料価格は高騰し、国民は苦しむことになります。

ファシスト政権期のイタリアは「イタリア石油公団」、すなわち「AGIP」を1926年に設立していました。これは国営の石油会社で、現在のEniに繋がる会社です(吸収合併された今でも、イタリア各地にはAGIPのロゴが残っています)。当時のAGIPは国内含め世界各地で探鉱活動を行っていましたが、正直な話芳しい成果を上げたとは言えない状況でした。その中で最も大きな成果を上げたのがアルバニアの油田で、アルバニア油田で産出された石油は当時のイタリアの石油消費の実に約3割を補っていたのです。「当時の」イタリア国内では石油を殆ど産出出来ていなかったため、イタリアにとってアルバニア油田は重要な存在でした。

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テンパロッサ油田。石油利権は海外企業に握られているため、イタリアにとっても、バジリカータにとっても、実はあまり美味しくない。その開発には日本企業も関わっている。

「当時の」というのは、現在のイタリアではヨーロッパ最大級の油田が発見されているからです。これは南部イタリア・バジリカータ州の州都ポテンツァ近郊に存在するテンパロッサ油田の恩恵によるもの。2018年現在のイタリアの石油産出量は伝統的な産油国ルーマニアよりも10万トンも多く、年間約400万トンです。この数値は、ノルウェー、英国、デンマーク北海油田諸国に次ぐ欧州第四位の数値。というか、北海油田を除けば欧州一位です。しかし、ファシスト政権期は発見されておらず、そもそも「景観を壊す」ということ反発が多く、そのことから開発が進んだのもかなり後のことでした。

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AIPAが建設した、石油運搬のための鉄道橋。

ファシスト政権期に重要な存在だったアルバニア油田。アルバニア油田を管理していたのは、AGIPの子会社であるAIPA(アルバニア・イタリア石油会社)。1935年に設立されたAIPAは、油田から港湾都市へのパイプラインを建設し、またアルバニアでの探鉱活動を実行しました。このAIPAはイタリア王国の休戦でアルバニアがドイツ軍の管理下に置かれるまで活動しています。最大の油田はフィエル州に位置するパトス市のパトス・マリンツァ油田でした。このパトス市は現在でも油田の恩恵で繁栄している都市で、この油田は1928年に発見され、ヨーロッパ最大級の油田としても知られていましたが、現在の生産量はそこまで多くないようです。AIPAはこの油田からヴロラ港までのパイプラインを建設し、その石油はイタリアに輸出されました。

 

ファシスト政権期によるリビア油田開発

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AGIPの石油精製施設(バーリ)

では、植民地での石油開発はどうだったのでしょうか。これが今回の主題です。私の元シェアメイトのイタリア人も「ムッソリーニリビアの油田を発見できさえすればな」とジョークで言っていましたが、ここからもわかる通り、ファシスト政権期のイタリアによる植民地における石油開発は進んでいませんでした。ですが、現在のリビアは世界有数の産油国として知られています。

とはいえ、ムッソリーニも国内の油田開発で手をこまねいていたわけではありません。私自身、「ファシスト政権期のイタリアはリビア油田を発見すらしていなかった」と思っていましたが、この認識はTwitterのフォロワーさんに指摘されて間違いだとわかりました。実は、ファシスト政権期のイタリアはリビアでの石油抽出には成功しているのです。それでは、何故ファシスト政権は油田開発が出来なかったのでしょうか。

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バドリオとグラツィアーニ

まず、リビアにおける石油の発見は、時を遡ること第一次世界大戦が勃発した1914年にまで至ります。この時、イタリアはオスマン帝国から奪い取ったリビアキレナイカとシルテ(現スルト)にて、現地に駐屯していたイタリア軍部隊が井戸水を掘っていたところ、少量の石油が発見されました。しかし、この直後に第一次世界大戦が発生し、イタリアも1915年に参戦したためそれどころではなく、第一次世界大戦終戦後もリビア植民地ではオマル・ムフタール率いるサヌーシー教団との大規模戦争による混乱により、次第に忘れ去られていきました。

しかし、1926年にAGIPが設立されると、リビアにおける石油開発は再加熱することとなります。同時に、リビアではバドリオ将軍とグラツィアーニ将軍による「リビア再征服」が行われたこともあり、徐々にイタリアによる植民地化が進んでいきました。そんな中、1929年にはトリポリ在住のイタリア人が石油調査企業を設立し、リビアでの探鉱活動を再開しました。

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探検家としても知られた、地質学者アルディート・デシオ。

そこで活躍したのが、探検家としても知られる地質学者のアルディート・デシオ氏でした。彼はムッソリーニからリビアにおける探鉱活動の許可を得て、AGIPの協力の元1936年からリビアにおける探鉱活動を開始しました。その結果、シルテ近郊で探鉱活動が進められ、1938年までに18の井戸が掘られています。そうして、約1リットルの石油抽出に成功しました。しかし、彼が発見した油田は地下2000m以下にあり、当時のイタリアの技術では採掘することが不可能であることが判明してしまいました。

デシオ氏は進んでいたアメリカの石油掘削技術を導入し、これらの油田から石油を抽出することを、新たにリビア総督に就任したイタロ・バルボ空軍元帥に要請。シカゴへの長距離飛行の経験もあり、アメリカ人から人気が高かった彼はデシオの提案に協力的で、更にAGIPによる合成燃料の精製も試され、1939年から本格的にイタリアの石油開発計画が始まろうとしていました第二次世界大戦の勃発によってこれは頓挫することになります。大きな協力者だったバルボも戦死をしてしまいました。

結局は、イタリアはリビアで油田を発見していたにもかかわらず、大規模な掘削には成功しませんでした。その結果、第二次世界大戦時のイタリアは石油不足に悩まされて軍事行動が大きく制限されることとなり、更にドイツによる燃料供給の約束も全く果たされることはなく、イタリアは敗北しました。逆に敵国であった英国は潤沢な油田を持っていたため、イタリア空軍は中東の油田地帯の爆撃を実行するなどしています。

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当時のカルボーニ

なお、ファシスト政権期のイタリアは油田開発には失敗しましたが、炭田開発には成功しましたサルデーニャとヴァッレ・ダオスタではムッソリーニアウタルキー政策によって炭田開発(特に有名なのはカルボーニア)が進められ、この時開発された炭田は戦後のECSC結成時も重要な役割を果たすこととなりました。

 

もし仮にリビア油田の開発に成功していたら、ファシスト・イタリアはどのような道を歩んでいたのでしょうか?それは永遠の謎です。