『ストライクウィッチーズ』に登場するロマーニャウィッチのモデルとなったエースたちの戦歴をまとめてみた!
アニメや漫画、小説などで展開される『ストライクウィッチーズ』のキャラクター(ウィッチ)達は、実在した第二次世界大戦時のエース・パイロットたちをモデルとしている。その中には王立イタリア空軍(Regia Aeronautica)をモデルとした「ロマーニャ空軍」のキャラクターたちも多数登場するのだ。
というわけで、今回はこのロマーニャ空軍に所属する「ウィッチ」の中で、ヴィジュアルが判明しているキャラクターのみに絞って元ネタとなったパイロットを軽く紹介してみようと思う。紹介するのは以下の9名。また、その他でモデルになったイタリア人もおまけで最後に大まかに紹介しておく。
◆ロマーニャ公国空軍
フランチェスカ・ルッキーニ
→フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)
フェルナンディア・マルヴェッツィ
→フェルナンド・マルヴェッツィ(Fernando Malvezzi)
マルチナ・クレスピ
→ジャンピエロ・クレスピ(Giampiero Crespi)
ルチアナ・マッツェイ
→ピエトロ・マッツェイ(Pietro Mazzei)
アドリアーナ・ヴィスコンティ
→アドリアーノ・ヴィスコンティ(Adriano Visconti)
ジュゼッピーナ・チュインニ
→ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)
フェデリカ・N・ドッリオ
→フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)
カルラ・ルースポリ
→カルロ・ルースポリ(Carlo Ruspoli)
エンリーカ・タラントラ
→エンニオ・タラントラ(Ennio Tarantola)
では、見てみよう。
◆フランチェスカ・ルッキーニ
ロマーニャ公国の首都、ローマ出身のウィッチ。アニメ『ストライクウィッチーズ』の主役である第501統合戦闘航空団の一員で、ロマーニャウィッチの中では最も知名度があるキャラクターと言えるだろう。
モデル:フランコ・ルッキーニ(Franco Lucchini)
機体:FIAT CR.20戦闘機(1936~1937)→FIAT CR.32戦闘機(1937~1939)→FIAT CR.42"ファルコ"戦闘機(1940~1941)→マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~1943)
モデルとなったフランコ・ルッキーニ氏は、同じくローマ出身。1914年12月24日、鉄道員の息子としてイタリアの首都ローマに生まれた。子どもの頃から空に憧れ、16歳でグライダー免許を所得し、1935年に飛行学校に入学、翌年に無事卒業し、その後イタリア空軍の第4航空団第10航空群第91飛行隊に少尉として任官した。
第二次世界大戦時のイタリア空軍のエース・パイロットの中でも特に知名度が高い人物である。故郷ローマでは当時のメディアにもその戦果が紹介され、「イケメンエース」であったことから一種の「アイドル」として人気だった。個人撃墜スコアは22機(26機とも)で、共同撃墜スコアは52機。これは、第二次世界大戦時のイタリア空軍ではマルティノーリに次ぐ第二位であった。彼の戦友曰く、普段は臆病で生真面目だが、飛行時は闘争心を露わにし、性格が普段と飛行時で全く違ったようだ。
彼の撃墜王としての活躍は1937年に義勇兵として参加したスペイン内戦から始まる。CR.32戦闘機で1機(5機とも)のスペイン共和国機を個人撃墜、2機を共同撃墜してエースとしての道を歩み始めた。だが、自身も撃墜されてスペイン共和国側の捕虜収容所に6カ月間過ごす経験をしている。
内戦終結後に間もなく第二次世界大戦時が開戦。1940年6月10日にイタリアが参戦すると、「世界最強・最後の複葉戦闘機」として知られるCR.42"ファルコ"を駆り、14日には英軍機を共同撃墜し、更に21日には英四発飛行艇を撃墜して第二次世界大戦における初戦果を挙げる。その後も北アフリカで共同撃墜を重ねた後、1941年初頭に新型機MC.200"サエッタ"に転換。転換後、6月から9月までの3カ月間の間に英軍のハリケーン戦闘機を5機個人撃墜し、共同撃墜戦果も挙げていった。しかし、9月27日には不時着時に大怪我を負ったことで治療のため2カ月戦場を離れることとなった。
怪我を治療した後、1941年12月にはイタリアを代表する傑作機と名高いMC.202"フォルゴレ"に転換。ルッキーニの本領が発揮されたのはここからだった。彼の個人撃墜スコア22機の戦果のうち12機は後半戦(1942年5月~1942年10月)までに挙げた戦果だったのだである。これは、優秀な英軍機相手に劣勢に置かれていたイタリア戦闘機部隊が、互角(あるいはそれ以上に)戦えるようになった時期でもあった。数において圧倒的に劣勢であったが、ルッキーニはこの新型機を駆り、スピットファイアやP-40といった米英機を多数撃墜していったのである。
しかし、10月24日には戦闘時に腕と足を撃たれ、何とか基地には帰還したものの機体は大破していた上に、彼自身も重症であったため本国に帰還となってしまった。傷が癒えた後の1943年6月、連合軍が迫るシチリア戦での最後の戦闘に従事する。7月5日の戦闘において、シチリア上空にて米軍のB-17爆撃機の迎撃に出発。B-17爆撃機3機を共同で撃墜し、護衛の英空軍スピットファイア戦闘機を1機撃墜したが、敵機に撃墜されて戦死を遂げたのであった。戦後にはイタリア軍最高位の金勲章を叙勲されている。
◆フェルナンディア・マルヴェッツィ
赤ズボン隊(パンタローニ・ロッシ)の一員。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。部下の二人(ルチアナ・マッツェイとマルチナ・クレスピ)からは「フェル隊長」と呼ばれているウィッチ。元ネタ要素が結構含まれていて、急降下爆撃ウィッチ出身(モデルは急降下爆撃機パイロットから戦闘機パイロットに転身)、軽度の治癒魔法が使える(モデルが医学部中退)、部下の二人もモデルとなった人物の部下をモデルとしている(後に紹介)。
モデル:フェルナンド・マルヴェッツィ
(Fernando Malvezzi)
機体:IMAM Ro.1偵察機(1935~1936)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~43)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943)
モデルとなったフェルナンド・マルヴェッツィ氏は1912年10月22日、エミリア・ロマーニャのノチェートに生まれた。青年期は勉学よりスポーツを好み、パルマ大医学部に進学したのもの、大学を中退して空軍のパイロットとして志願している。初めての実践はエチオピア戦争で、IMAM Ro.1偵察機のパイロットとして経験を積んだ。
第二次世界大戦開戦後は急降下爆撃機パイロットとなり、友邦ドイツから購入したユンカース Ju-87"シュトゥーカ"急降下爆撃機に転換。シュトゥーカはイタリアでは「ピッキアテッロ(「変人、風変わりな人」の意味)」と呼ばれ、これは「赤ズボン隊」の三人の通称「三変人」の元ネタとなっている。急降下爆撃機として最も有名な戦果は、部下であるクレスピとマッツェイと共に、英軽巡「サウサンプトン」を撃沈した戦果だろう。
1941年春に負傷して帰国した後、戦闘機パイロットに転身。その後、新型機MC.202"フォルゴレ"に乗り換え、戦闘機パイロットのエースとしての道を歩んだ。1941年11月22日にマルタ上空で2機のハリケーン戦闘機を撃墜したが、これが戦闘機パイロットとしての初の戦果となった。1942年10月までに個人撃墜スコアは10機まで達したが、撃墜されて治療のため一時的に帰国。その後再び北アフリカに戻り、原隊に復帰した。2度も撃墜されながら、2度とも軽傷で済んだというのは幸運の飛行士と言わざるを得ないだろう。
戦局が悪化してシチリアに移動した後は、「イタリア最高の戦闘機」として知られるMC.205V"ヴェルトロ"に転換したが、間もなくマルヴェッツィはマラリアに発症し、故郷ノチェートに近い温泉街サルソマッジョーレ・テルメの病院での療養生活を余儀なくされてしまった。その後、イタリア休戦の知らせを病院のラジオで聞いた後、ボット大佐の誘いでイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流。第三戦闘航空群「フランチェスコ・バラッカ」の司令官に任命されるが、再訓練中に欧州戦線は終戦を迎えた。
戦後は故郷ノチェートで自動車運送会社を起業しているが、空への情熱は失っておらず、趣味として休みの日にはパルマの航空クラブに所属してSIAI-マルケッティ SF.260軽飛行機に乗って楽しんだ。2003年4月21日に亡くなった。
彼について詳しい戦歴は以前のブログの記事にまとめたので、以下のリンクを参照してほしい。
◆マルチナ・クレスピ
赤ズボン隊の一員で、ルチアナ・マッツェイと共にフェルナンディア・マルヴェッツィ中尉の部下。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。元ネタとなったジャンピエロ・クレスピ氏とは誕生日(マルチナの誕生日は9月2日)や出身地などが大きく異なっていたり、戦闘ウィッチに転身していたり(クレスピ氏は急降下爆撃機パイロットから転身していない)するなど、異なる点が多い。
これはおそらく、元ネタのクレスピ氏の情報が少なかったことが由来するだろう(私自身ごく最近に元ネタとなった人物の存在を確認した)。マルチナはロマーニャ南部の名家出身という設定だが、これは苗字の名前が似ているイタリア首相フランチェスコ・クリスピの出身がシチリアのアグリジェント近郊だったことが関係ありそうだ。スポーツを好むという点は、フェル隊長の元ネタであるマルヴェッツィ氏に似ている。
元ネタ:ジャンピエロ・クレスピ(Giampiero Crespi)
機体:カプロニ Ca.100"カプロンチーノ"(1937)→IMAM Ro.41戦闘機(1938)→ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機(1938~1940)→ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機(1939~1940)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1942)→IMAM Ro.57bis急降下爆撃機(1942~1943)
モデルとなったジャンピエロ・クレスピ氏は1918年6月25日、北イタリアのカルナーゴという町に生まれた。1937年にシチリアにある飛行学校に入学し、カプロニ Ca.100"カプロンチーノ"軽飛行機を操り免許をすぐに習得、1938年にイタリア空軍に入隊する。第五航空団第19航空群第101飛行隊に配属となり、IMAM Ro.41戦闘機、続けてブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機に転換。1939年には新型機のブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機に転換するが、この機体は「第二次世界大戦時の航空機の中でも特に失敗作」とまで言われるほどの駄作機であり、実際劣悪な性能のせいで大戦が開始しても戦果を挙げられていない。とはいえ、1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参加すると、クレスピはBa.88を駆ってフランス領コルシカ島の爆撃任務に従事している。
新しく導入されるJu-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機部隊のパイロットに選ばれたクレスピは、7月にはオーストリアのグラーツで飛行訓練を受けた後、第96急降下爆撃航空群第236飛行隊に転属した。この飛行隊はフェル隊長のモデルとなったマルヴェッツィが隊長を務め、マッツェイも所属していた。こうしてクレスピは本格的に急降下爆撃機乗りとしての任務を開始し、地中海沿岸における敵艦船攻撃に従事した。この戦果で最も知られているのが、マルヴェッツィの項で紹介した「英軽巡サウサンプトンの撃沈」である。1941年1月10日、マルヴェッツィ隊長と共に、クレスピとマッツェイが続けて「サウサンプトン」に爆弾を直撃させたのであった。
4月になると、隊長であるマルヴェッツィがトブルク攻撃時に英軍側に撃墜され、不時着。幸い軽症で済んだが、数日後の攻撃作戦を最後に治療のため帰国し、急降下爆撃機部隊から離れて戦闘機パイロットに転身した。一方、部下であるクレスピはその後も急降下爆撃機乗りを続けたが、6月には彼も本国にて飛行教官を務めるために帰国することとなった。1942年1月には第209飛行隊に転属となり、5月から戦闘作戦を再開した。その後も飛行教官やテストパイロットを務めつつも、急降下爆撃機乗りとしての任務を続けた。1942年末には新型機のIMAM Ro.57bis急降下爆撃機に転換。この機体は重戦闘機として開発されたが、性能不足のため急降下爆撃機として利用された。クレスピはこの機体でムッソリーニ統帥失脚間近の1943年7月1日まで敵拠点への急降下爆撃任務を続け、その後は空軍を退役してヴェルチェッリの小規模航空機メーカーであるAVIA社でテストパイロットになった。休戦後はRSI空軍や共同交戦空軍には合流せず、終戦を迎え、戦後の1946年6月10日にテストパイロットを辞め、航空産業から去った。
その後は「ファッションの都」ミラノ近郊のレニャーノにて、服飾繊維企業"フォデラーメ・ジャンピエロ・クレスピ(Foderame Giampiero Crespi)"を起業し、地元の名士となった。偶然かもしれないが、ルチアナ・マッツェイのファッション好きという設定はもしかしたらこれに由来するのかもしれない。1977年には連続強盗犯レナート・ヴァッランツェスカらによる誘拐も経験しており(身代金の支払いによって無事解放された)、中々の波乱の人生であった。2013年11月11日に95歳で亡くなったが、地元レニャーノではその死は新聞でも伝えられているほどである。そう考えると、レニャーノではそれなりの有名人であったのかもしれない。
以下はその時のネットニュース記事である。
CORDOGLIO PER L’EROE DI GUERRA GIAMPIERO CRESPI
(戦争のヒーロー、ジャンピエロ・クレスピ氏のための追悼)
◆ルチアナ・マッツェイ
赤ズボン隊の一員で、マルチナ・クレスピと共にフェルナンディア・マルヴェッツィ中尉の部下。劇場版や漫画「紅の魔女たち」などに登場。第504統合戦闘航空団の一員。クレスピ氏のところで説明したが、服飾デザインが趣味。これはクレスピ氏の要素が入っている可能性がある。
元ネタ:ピエトロ・マッツェイ(Pietro Mazzei)
機体:サヴォイア・マルケッティ SM.85急降下爆撃機(1940)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1941)
以前はルチアナの元ネタとなったマッツェイ曹長の情報は断片的にしかわからず、マルヴェッツィ大尉の部下である急降下爆撃機パイロットであることしか判明しなかったが、更に資料を読み進めて行ったら詳細な経歴がわかった。そのため、更新する。
モデルとなったピエトロ・マッツェイ氏は1916年10月31日、トスカーナのアリアーナ出身。年齢はクレスピ氏より年上で、マルヴェッツィ氏よりかは年下。空にあこがれを持ったマッツェイ少年は1935年に空軍に入隊。当初は戦闘機乗りだった。
第二次世界大戦直前、彼はイタリア空軍で急降下爆撃機部隊が創設されるにあたり、初期メンバーとしてこれに転属。こうして、第96急降下爆撃航空群に所属となったマッツェイであったが、当時イタリアには急降下爆撃機がサヴォイア・マルケッティ SM.85しか存在せず、これを受領することになった。しかしこの機体、急降下爆撃機の不在に焦ったイタリア空軍が慌てて導入した機体のため、テスト飛行でも十分な結果を得られていなかった。そんな機体は新型と言えども、パイロットらからも評判が悪く、その不格好な見た目は「空飛ぶバナナ」とすら言われた。また、そんな変な機体に乗っていたせいか、急降下爆撃機部隊は「ピッキアテッロ(風変わりな人)」という通称すら付けられてしまうのであった。
「ムッソリーニのマルタ島」と呼ばれたパンテッレリーア島に配備された第96急降下爆撃航空群は第二次世界大戦へのイタリアの参戦と共に英軍支配下のマルタ島への急降下爆撃を敢行したほか、北アフリカや地中海への偵察飛行にも従事している。マッツェイもマルタ島への急降下爆撃及び仏領チュニジアへの偵察飛行に参加したが、SM.85は全木製の機体であったため、夏季の地中海気候に耐えられず、結局貴重なイタリア急降下爆撃機部隊は「機材の不調」という理由により一時的に作戦行動を停止せざるを得なくなってしまった。こうして急降下爆撃機が不在になったことにより、イタリア空軍は序盤においてマルタ島に有効なダメージを与えられなかった。高高度による水平爆撃では成果が薄かったのである。余談だが、マッツェイは急降下爆撃機パイロットとしては最初期メンバーであるため、マルヴェッツィやクレスピよりも「先輩」だった。
当然、イタリア空軍も手をこまねいていたわけではなく、プリーコロ参謀長はSM.85に代わる新たな急降下爆撃機の導入を急いだ。国産の機材をテストしたが、空軍は結局それに満足せず、同盟国ドイツからシュトゥーカを購入することにした。それにより、マッツェイは他の急降下爆撃機パイロットと同様に、7月にはオーストリアのグラーツでシュトゥーカの飛行訓練を受けている。訓練を終えた後、マッツェイはクレスピと共にマルヴェッツィ率いる第96急降下爆撃航空群第236飛行隊所属となっている。
その後は彼らと共に地中海に置ける敵艦船攻撃や地上拠点爆撃で戦果を挙げ、マッツェイはシュトゥーカでの初戦果を1940年9月2日、マルタ島近海において僚機と3隻の英軍艦艇に損害を与えることで挙げている。続いて9月5日にはシュトゥーカでの初のマルタ島への急降下爆撃を実行し、英空軍基地に甚大な被害を与えることに成功した。ギリシャ侵攻と共に戦場を移動すると、11月2日にはコルフ島守備隊、11月4日にはイオアニナの敵砲兵部隊、11月11日にはプレスパ湖の橋を破壊して敵軍の補給を断つなど、連続して戦果を挙げていった。その後はほぼ毎日ギリシャ戦線における爆撃任務に従事して、陸軍の戦線崩壊を防ぎ、敵軍の激しい対空砲火や敵機の追撃をものともせず任務を遂行した戦果を評価され、銀勲章を叙勲されている。
年が明けると、マッツェイはマルヴェッツィ、クレスピらと共にギリシャ戦線を離れ、シチリアのコーミゾ基地に移動。英海軍のマルタ船団迎撃に出撃することになる。この時の船団迎撃で、1941年1月10日にマルヴェッツィ、クレスピと共に英軽巡「サウサンプトン」を撃沈する大戦果を挙げており、これが3人の戦果として有名になった。この戦果を受け、マッツェイは3度目の銀勲章を叙勲している。
1941年2月、マッツェイは北アフリカ戦線に移動。エジプト方面への爆撃任務に従事することになった。しかし、これは彼の最期の戦いとなった。1941年4月9日、任務中に英空軍ハリケーン戦闘機5機の追撃を受け、重傷を負う。なんとかデルナ基地に不時着出来たため、マッツェイは直ちにベンガジの野戦病院に運ばれた。しかし、マッツェイの怪我は深刻で、3日後の1941年4月12日、負傷が理由で死亡したのであった。
◆アドリアーナ・ヴィスコンティ
ミラノのヴィスコンティ家出身のウィッチ。小説「ノーブルウィッチーズ」に登場。スト魔女世界でもヴィスコンティ家はかつてミラノの支配者だったという設定のようだ。ただ、スト魔女世界のミラノはロマーニャ公国領ではなく、ギリギリでヴェネツィア公国領のようだが、彼女はロマーニャ空軍所属である(そもそも、ヴェネツィア空軍所属のウィッチは、現時点で元ウィッチのアンナ・フェラーラしか出てきていない)。第506統合戦闘航空団の一員。
(Adriano Visconti)
機体:ブレダ Ba.25(1936~1939)→ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機(1939~1940)→カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機(1940~1941)→マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1941)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1941~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943~1945)→メッサーシュミット Bf109戦闘機(1945)
元ネタであるアドリアーノ・ヴィスコンティ氏も、かつてはミラノ公国の支配者であった名家ヴィスコンティ家の出身であるが、父であるガレアッツォ・ヴィスコンティ伯が当時イタリアの植民地であったリビアに開拓団の一員として入植していたため、生まれはリビアの首都であるトリポリだった。1915年11月11日生誕。
ヴィスコンティはルッキーニと並び、第二次世界大戦時のイタリア空軍エースでは特に有名なパイロットであり、一説では伊空軍最高位エースとも言われる。『紅の豚』にも彼がモデルになった人物が登場した。優秀なパイロットでありながら、カリスマ的な指揮官でもあり、部下から広く慕われる人物であったという。
高校を卒業後、1936年10月に空軍士官学校に入学し、ブレダ Ba.25で訓練を積んで明渠を獲得した。1939年に卒業した後、少尉に任官。地上攻撃を担当する第50襲撃航空団第12航空群第159飛行隊に着任し、間もなく第二次世界大戦にイタリアが参戦したため、生まれ故郷であるリビアに移動、トブルク基地に配属となった。ブレダ Ba.65"ニッビオ"地上攻撃機による任務に従事したが、軍規違反で問題を起こしたために植民地防衛第2航空群第23飛行隊に飛ばされ、カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機による偵察任務に就くこととなった。しかし、偵察中に3機の英戦闘機に襲撃されたが全て回避して帰還するなど、1940年6月から12月にかけての数々の戦功をあげ、銀勲章を2回、銅勲章を1回叙勲される活躍を見せている。優れた操縦技術を見せたヴィスコンティだったが、一方で彼が乗っていた機体自体はとても優れた機体とは言えなかった。そのため、部隊の消耗率も激しく、1941年1月には第50襲撃航空団は解体されることとなる。
その後、中尉となったヴィスコンティは第54戦闘航空団第7航空群第76飛行隊に配備となり、ここでマッキMC.200"サエッタ"戦闘機への機種転換訓練を受け、マルタ島への爆撃機護衛や強行偵察などに従事した。同年末には新型機MC.202"フォルゴレ"に転換し、さっそく12月には英ハリケーン戦闘機1機を撃墜しているが不確実戦果とされて認定されていない。正式な記録と認定されたのは、翌年6月にパンテッレリーア上空にて英ブレニム爆撃機を撃墜した戦果である。8月のマルタ島偵察時にはスピットファイア戦闘機4機と交戦、2機を撃墜、残り2機を損傷させて撃退し、この活躍から3度目の銀勲章を叙勲された。1943年3月に第76飛行隊の隊長に任命されたヴィスコンティは、チュニジアに派遣されて劣勢の中、強大な連合軍相手に果敢に出撃を繰り返した。3機を撃墜した後、チュニジア陥落直前にシチリアに脱出した。
チュニジアでの戦いを終えたヴィスコンティは、大尉に昇進して第310飛行隊の指揮官となっていた。新型機のマッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機に転換し、数々の強行偵察任務に従事している。休戦時はサルデーニャに駐屯していたが、本国に帰還してイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流することとなる。新設された第1戦闘航空群「アッソ・ディ・バストーニ」の第一戦闘飛行隊長に任命され、再びMC.205Vを駆り、連合軍のイタリア本土爆撃を迎撃するために出撃した。RSI空軍パイロットとしての初戦果は1944年1月、クーネオ上空におけるアメリカ陸軍航空隊のP-38戦闘機1機の撃墜である。
4月には少佐に昇進し、第1戦闘航空群の司令官に任命された。こうして終戦までにP-38を2機、P-47を2機、計4機を撃墜した。大戦末期の1945年にはドイツ製のメッサーシュミットBf109戦闘機を受領している。大戦末期1945年3月15日のガルダ湖上空戦ではP-47戦闘機と正面攻撃で刺し違え、負傷しながらもパラシュート脱出して一命を取り留めた。ヴィスコンティはこれを受けて「統帥賞(Premio del Duce)」として賞金を受け取っている。しかし、4月29日にパルチザンとの降伏交渉中に背後から撃たれ、副官であるヴァレリオ・ステファニーニ中尉と共に殺害されるという悲惨な最期を遂げたのであった。非公式戦果を含めると26機の個人撃墜(この数値はWW2イタリア最高位のマルティノーリよりも上で、非公式戦果を含めればルッキーニと同数)を達成したイタリア屈指のエースは、こうして壮絶なその人生の幕を閉じたのであった。
◆ジュゼッピーナ・チュインニ
スオムス義勇独立飛行中隊、そしてその後の第507統合戦闘航空団の一員。小説「スオムスいらん子中隊」シリーズに登場。ヒスパニア戦役で既にエースとして経験を積んでおり、急降下爆撃部隊を率いて活躍した。スキップ爆撃を実用化した人物という点も、元ネタと同じである。戦闘中に墜落して奇跡的に生還するも記憶喪失となり、スオムス義勇独立飛行中隊(いらん子中隊)に配属となった。なお、元ネタであるチェンニはフィンランド方面では戦っていない。また、何故か名前がチェンニではなく、「チュインニ」であるが表記はチェンニと同じ"Cenni"なので、単純に表記ミスから繋がったのだろうと思う。
元ネタ:ジュゼッペ・チェンニ(Giuseppe Cenni)
機体:FIAT AS.1(1935)→FIAT CR.20(1936)→FIAT CR.32戦闘機(1936~1938)→カプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機(1938~1939)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1939~1940)→ユンカース Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1942)→レッジアーネ Re.2002"アリエテ"戦闘爆撃機(1942~1943)
モデルとなったジュゼッペ・チェンニ氏は、イタリア空軍最高の急降下爆撃機エースとして知られる名パイロット。スペイン内戦では戦闘機パイロットとして8機の個人撃墜スコアを達成し、更に第二次世界大戦では急降下爆撃機パイロットに転身して艦船攻撃を実行、多くの敵艦を撃沈するなど、イタリア空軍のパイロットの中でも特に「天才」と言える人物である。また、彼は空軍理論家でもあり、所謂「スキップ爆撃」の実用化に成功した人物でもあった。ジュゼッペ・チェンニは1915年2月27日にラヴェンナ近郊のカーゾラ・ヴァルセーニオに生まれた。パルマの芸術学校に通ったが、その際に後に戦友となるアドリアーノ・モンテッリと出会っている。幼い頃から空への憧れを持っていたチェンニは19歳でグライダー免許を所得し、20歳で空軍に入隊した。彼の天才的な能力はこの時点から発揮された。1935年7月30日にシエナにてFIAT AS.1を初操作で飛行したが、飛行教官も無しに乗りこなしてしまったのである。
こうして訓練をこなしていったチェンニは、1936年2月に第一航空団第三戦闘航空群第153飛行隊配属となった。フージェ将軍が設立したカンポフォルミドの曲芸飛行隊(後の「フレッチェ・トリコローリ」の前進)にも参加し、CR.20で過酷な曲芸飛行訓練を行っている。上官であるコッラード・リッチ中尉の指導もあり、チェンニは着実にその腕を挙げていった。この時、チェンニはCR.20のみならず、カプロニ Ca.100、FIAT CR.30、そしてFIAT CR.32と、様々な航空機を使って訓練をする事が出来た。
6月に少尉となったチェンニは、7月に勃発したスペイン内戦に義勇兵の最初の部隊の一員として派遣された。チェンニのCR.32戦闘機はさっそく9月26日にスペイン共和国空軍のブレゲー19戦闘機を個人撃墜し、ポテ540爆撃機を共同撃墜して空中での最初の戦果を挙げた。それ以前の15日には2機の敵機を地上撃破している。チェンニは翌年1月までに個人撃墜スコアは8機、共同撃墜は13機を数えて名実ともにエースとなった。しかし、1937年1月29日に霧で編隊機同士で衝突事故を起こし、墜落。その結果一命を取り留めたものの、スペイン共和国軍側の捕虜となってしまった。スペイン側の捕虜への取り扱いや尋問は苛酷であったため、肉体的に大きく疲弊したが、赤十字の介入で行われた捕虜交換によって何とかイタリアに帰国する事が出来た。
イタリアに英雄として帰国したチェンニは非常に弱っていたため、安静にすることを宣言されたが、彼はそれに従わずまた飛ぼうとした。このため、彼のような優秀なパイロットを失うことを恐れた空軍は1937年12月には彼を大尉に昇進させ、本国での飛行教官の職を用意したのであった。彼はこの際にカプロニ Ca.310"リベッチオ"偵察爆撃機などの機体を操縦した。1939年7月には幼馴染のティナ・ザロッティと結婚している。
1939年10月、FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機配備の第51航空団第354飛行隊に配備され、ローマ防空の任務に就いた。1940年始めには長女ステファニアが誕生している。同年4月にはルーマニアに派遣され、飛行教官としてルーマニア空軍の戦闘機パイロットたちを育てている。しかし、6月にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、チェンニは速やかに帰国、新規編制された急降下爆撃機部隊に配属されたのであった。こうして急降下爆撃機乗りとなったチェンニは、数々の敵艦船を撃沈・損傷させ、イタリア軍最高の急降下爆撃機乗りとして名を挙げることとなった。
それ以降の彼の戦歴は過去のブログ記事に書いたのでこちらを参照。
◆フェデリカ・N・ドッリオ
赤ズボン隊の一員で、フェル隊長らの先輩に当たるウィッチ。漫画「紅の魔女たち」や小説「アフリカの魔女 ケイズ・リポート」などに登場。第504統合戦闘航空団の隊長。航空技師志望でテストパイロット出身、そしてマルタ島で撃墜されているなど、元ネタ要素も多い。モデルとなったドッリオ隊長はマルタ戦での撃墜で戦死したが、彼女は重傷こそ負ったものの生存しており、その後は療養に専念しながらも第504統合戦闘航空団の司令として復帰した。ちなみに私が一番好きなウィッチ。
元ネタ:フリオ・ニクロ・ドッリオ(Furio Niclot Doglio)
機体:FIAT AS.1(1931~1933)→CNA Eta(1933~1936)→ブレダ Ba.88"リンチェ"戦闘爆撃機(1936~1937)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1940~1942)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1942)
モデルとなったフリオ・ニクロ・ドッリオ(発音的にはドーリョが正しい)氏は、1908年4月24日にサヴォイア家のおひざ元として発展したイタリア王国最初の首都、ピエモンテ州のトリノで生まれた。母のアマリアはピエモンテ出身だったが、父シルヴィオはサルデーニャ島のカリャリ出身だった。そのため、学生時代はカリャリで過ごしている。航空技師を目指して技術学校を卒業した後、民間パイロットの資格を得てテストパイロットとなる。その後はCNA社とブレダ社でテストパイロットを務め、通算9個の世界記録(CNA社3個、ブレダ社6個)を達成し、一躍時の人となった。海外の航空技術者からも注目され、国際航空連盟からはルイ・ブレリオ・メダルを贈られている。
1937年を機に一時航空業界から離れるが、第二次世界大戦勃発に伴い現役復帰を志願。FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機を駆り、第51航空団第21航空群第355飛行隊の隊長としてローマ防空任務に就いた後、9月14日には「イタリア航空軍団(CAI, Corpo Aereo Italiano)」の一部となる第56戦闘航空団第20航空群第353飛行隊に配属され、英国本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に参加した。
英国での戦闘を終えた後、北アフリカ戦線に移動したドッリオは1941年6月30日に、護衛中に英空軍のハリケーン戦闘機1機を撃墜、2機を撃退し、初の個人撃墜戦果を挙げている。これがエースとしての始まりだった。翌年になると第151飛行隊の隊長を任せられ、機材も新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に転換。他のエース同様に、MC.202に転換後に一気にスコアを伸ばすこととなる。その結果、7月の僅か10日ほどの間で一気にマルタ上空で6機の個人撃墜を達成し、個人撃墜スコアは通算7機に達した。特にMC.202で初戦火を挙げた7月2日は、僚機のタラントラ軍曹らと共に計8機のスピットファイア戦闘機を撃墜している。しかし、7月27日にはカナダ人エースのジョージ・F・バーリングのスピットファイアに撃墜され、エースとして早すぎる死を迎えた。なお、バーリングはウィッチ、エリザベス・F・ビューリングのモデルとなった人物でもある。
ドッリオについて詳しい戦歴は以前のブログの記事にまとめたので、以下のリンクを参照してほしい。
◆カルラ・ルースポリ
漫画「紅の魔女たち」に登場。ロマーニャ空軍航空映画部部長で、アニメ本編の画像は彼女の撮影によるものという設定らしい。
元ネタ:カルロ・ルースポリ(Carlo Ruspoli)
機体:マッキ MC.200"サエッタ"戦闘機(1940~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943~1945)
元ネタであるカルロ・ルースポリ氏も、イタリア空軍の航空映画部の部長だった人物。古代から続くとされる名家ルースポリ家の出身で、スイスのオーバーホーフェンにて1906年8月25日に生まれた。本名はカルロ・マウリツィオ・ルースポリ・ディ・ポッジョ・スアーザ(Carlo Maurizio Ruspoli di Poggio Suasa)と貴族らしく長い。彼が航空映画部部長になった理由は、自分用の記録のために機体のMC.200"サエッタ"に映画用の撮影機材を取り付けて撮影したところ、空軍から公式に撮影を許可され、イタリア空軍で航空映画部が設立されるとその部長に抜擢されたためであった。なお、彼の兄であるコスタンティーノとエマヌエーレもカプロニ Ca.313偵察爆撃機のパイロットとしてこの航空映画部に参加している。
彼は元々貴族らしく、モデナにある王立陸軍士官学校に入学させられてエリート士官のコースを歩んでいたが、それを嫌った彼は1936年にパイロット免許を所得し、自由な雰囲気の空軍に入隊した。空軍パイロットとなったルースポリは、第6航空団第81戦闘航空群に配属となり、第二次世界大戦開戦後はマッキ MC.200"サエッタ"を駆り出撃した。この際に撮影機材を取り付けて飛行し、記録を収集する事が趣味となった。1940年10月27日、地中海上空にて初戦果を挙げている。
1941年8月、ギリシャ戦線を終えたルースポリは第22戦闘航空群の一員として、東部戦線に派遣された。ルースポリは派遣された数日後にソ連のI-16戦闘機を2機撃墜したが、その後機材の故障によって不時着している。1942年6月には第4航空団第10戦闘航空群第91飛行隊「フランチェスコ・バラッカ」の隊長に任命され、北アフリカ戦線に移動。そこで7月17日に英ハリケーン戦闘機を1機、10月20日には3機の米カーチスP-40戦闘機を連続で撃墜した。最終的に彼の個人撃墜スコアは10機に達している。
少佐に昇進したルースポリは帰国し、ローマの空軍省勤務となった。彼は1943年9月8日のイタリア王国休戦後、空軍崩壊を防ぐために尽力している。休戦後は南部ブリンディジに遷都した王国政府の元で再形成された「共同交戦空軍」の一員となる。9月29日には、語学に堪能であった事から、戦艦「ネルソン」甲板にて行われたバドリオ元帥とアイゼンハワー将軍の会談の際には通訳として務めた。「共同交戦空軍」の一員としては、ルースポリはMC.205V"ヴェルトロ"戦闘機を駆り、RSI政権の名目的な首都で、ドイツの占領下にあったローマへのビラ撒きを敢行している。戦後、ブエノスアイレスにて1947年6月11日に死亡。41歳の若さであった。
◆エンリーカ・タラントラ
赤ズボン隊の一員。小説「アフリカの魔女 ケイズ・リポート」などに登場。実家が八百屋で、通称「バナーナ」。一時期ドッリオ少佐の僚機を務めていた。
元ネタ:エンニオ・タラントラ(Ennio Tarantola)
機体:FIAT CR.32戦闘機(1935~1940)→Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機(1940~1941)→FIAT G.50"フレッチャ"戦闘機(1941~1942)→マッキ MC.202"フォルゴレ"戦闘機(1942~1943)→マッキ MC.205V"ヴェルトロ"戦闘機(1943)→FIAT G.55"チェンタウロ"戦闘機(1944)
モデルとなったエンニオ・タラントラ氏も、通称「バナーナ」でこれは元々故郷で果物売りとして働いていたため。1915年1月19日に、スイスに近い湖畔の療養地コモで生まれた。17歳でグライダー免許を所得し、空軍パイロットになるために飛行学校に入学。免許を所得後、1935年に空軍に入隊、第6航空団第20航空群第151飛行隊に配属。スペイン内戦では義勇パイロットの一員として参加。彼はまだ110時間の飛行経験しかなかったが、彼はCR.32戦闘機でスペイン共和国空軍のI-15戦闘機を1機撃墜し、エースとしての道を歩み始める事となる。スペイン滞在中に計400時間以上の飛行経験を得た。帰国後、第6航空団第3航空群第155飛行隊に配属となっている。
第二次世界大戦開戦後、タラントラは急降下爆撃機パイロットに転身し、ジュゼッペ・チェンニ率いる第97急降下爆撃航空群第239飛行隊の所属となる。Ju-87"ピッキアテッロ"急降下爆撃機を操り、地中海における艦船攻撃で戦果を挙げていく。1941年6月29日には、オーストラリア海軍の駆逐艦「ウォーターヘン」に直撃弾を喰らわせ、その撃沈に貢献するが、その翌日に自身も撃墜されてしまった。しかし、何とか一命を取り留め、救命艇で海上を18時間漂った後、哨戒中のCANT Z.501"ガッビアーノ"水上機によって発見されて救助された。その結果、この経験から急降下爆撃機部隊から戦闘機部隊に戻ることを申請した。
こうして戦闘機パイロットに戻ったタラントラは、1941年11月4日にドッリオ隊長率いる第20航空群第151飛行隊に転属。この部隊はFIAT G.50"フレッチャ"戦闘機を装備していた。12月5日には米カーチスP-40戦闘機を1機撃墜し、戦闘機パイロットに復帰後初の撃墜戦果を挙げる。翌年、同飛行隊の装備は新型機のマッキ MC.202"フォルゴレ"に転換となる。この時、彼が自分の機体に"Dài, Banana!(行け、バナナ!)"と書いたのが、以後彼のトレードマークとなった。こうして、ドッリオ隊長と共に僚機として地中海で多くの戦果を挙げていった。2人のコンビネーションは「カップル(Coppia)」と称されるほどであったという。しかし、戦果を挙げる一方で、1942年7月27日には英空軍のエースであるバーリングによってドッリオ隊長が撃墜され、自身も敵機の攻撃で足に重傷を負って戦線を離れざるを得なくなった。
同年12月には新型機のマッキ MC.205V"ヴェルトロ"への転換のためにローマに行く。1943年5月にはサルデーニャのカリャリ近郊にあるカポテッラ基地での配属となったが、カリャリは偶然か戦死したドッリオ隊長の育った町だった。新型機への転換後も愛機のMC.202でP-40とP-38の2機を撃墜し、更に8月にはMC.205Vに乗り換え、休戦までの短い間に2機のP-38を撃墜した。彼は通算11機の個人撃墜スコアだった。
休戦後はイタリア社会共和国(RSI)空軍に合流し、FIAT G.55"チェンタウロ"装備の「モンテフスコ」補助飛行隊の所属となる。しかし、1944年4月25日、トリノのFIAT工場爆撃を目標としたアメリカ陸軍航空隊のB-24爆撃機の迎撃に向かったが、護衛機のP-47の攻撃で撃墜されてしまった。重傷を負ったが一命は取り留め、戦後は再びイタリア空軍に加わっている。戦後空軍では飛行教官を務め、また曲芸飛行隊「フレッチェ・トリコローリ」にも所属した。2001年7月30日、86歳で亡くなった。
ざっとこんな感じである。
その他、イタリア空軍のパイロットをモデルとした人物では、ロマーニャ空軍ではなく元ヴェネツィア空軍所属という設定だが、アンナ・フェラーラというキャラクターはおそらくアルトゥーロ・フェッラーリン(Arturo Ferrarin)をモデルにしていると思われる。ローマ・東京飛行を達成した人物で、日本とも関係が深い人物だ。
空軍以外では、ロマーニャ公国のマリア・ピア・ディ・ロマーニャ第一公女はイタリアのウンベルト王太子妃(後にイタリア王国最後の王妃となる)マリア・ジュゼッピーナ・ディ・サヴォイア(Maria Giuseppina di Savoia)がモデル。戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」艦長を務めるヴェネツィア海軍のレオナルド・ロレダン大佐と同名のヴェネツィアのドージェ、レオナルド・ロレダン(Leonardo Loredan)が存在する。また、ロマーニャ海軍「デチマ・マス」のデ・ラ・ペンネ中尉は、アレクサンドリア港攻撃の立役者であるイタリア海軍「デチマ・マス」のルイージ・ドゥランド・デ・ラ・ペンネ(Luigi Durand de la Penne)大尉がモデルである。
その他、名前のみ登場するロマーニャウィッチが何人かいるが、いずれもモデルが存在する。ロマーニャ最高のウィッチであるテレーザ・マルティノーリはイタリア空軍最高位エースのテレシオ・ヴィットーリオ・マルティノーリ(Teresio Vittorio Martinoli)氏、ロマーニャでは珍しいナイトウィッチであるルイーサ・トルキオは夜間戦闘での戦果が知られるルイージ・トルキオ(Luigi Torghio)氏、ユーナ・ドラーゴはRSI最高位エースのウーゴ・ドラーゴ(Ugo Drago)氏、ジョヴァンナ・ボネはジョヴァンニ・ボネ(Giovanni Bonet)氏、アウローラ・サンソンはアッティーリオ・サンソン(Attilio Sanson)氏がモデルとなっている。いずれも名だたるエースパイロットだ。
アニメ2期や劇場版の舞台となったイタリアではローマやヴェネツィアなど、作中に登場した「聖地」がいくつもあるので、ファンは非常に楽しめるだろう。勿論、ファンでなくとも、イタリアは魅力たっぷりなので誰でも絶対に楽しめる。また、空軍ファンなら、ウィッチのモデルとなったエースが乗っていたイタリア機を見るのも良いだろう。ローマ近郊のヴィーニャ・ディ・ヴァッレ空軍歴史博物館はアクセスも良く、数多くのイタリア機が展示されているので非常に楽しめるのでオススメである。
願わくば他にもロマーニャウィッチが出てきてほしいものだ。というかアルダーウィッチーズアニメ化してください。マジでお願いします。