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戦艦「ローマ」爆沈の悲劇から75年

本日は2018年9月9日。戦艦「ローマ」の撃沈(1943年9月9日)から75年経ちました。
こちらは、イタリア海軍が公開した新しい「ローマ」の写真四枚です。

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下記のURLからは撃沈された「ローマ」の船体の映像が確認できます。
http://www.marina.difesa.it/conosciamoci/press-room/comunicati/Pagine/20180909_CS141_NUOVA_ESPLORAZIONE_RELITTO_ROMA.aspx


1943年9月9日、イタリア王国の休戦後、連合軍の引き渡しの為にマルタ島に向かっていた艦隊に対して、独空軍が爆撃し、戦艦「ローマ」、駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」、駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」が失われました。

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隊司令官であり、海軍総司令官のカルロ・ベルガミーニ海軍大将

元々、ベルガミーニ大将率いる戦艦「ローマ」を旗艦とする艦隊は、連合軍のサレルノ上陸艦隊への攻撃のために準備を進めていました。

しかし、秘密裏に行われた和平交渉によって急遽休戦が発表されたため、海軍参謀長のデ・コールテン提督は連合国への艦隊の引き渡しを決定しました。

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海軍参謀長・海軍大臣のラファエレ・デ・コールテン(ド・クールタン)提督

海軍参謀長であり、海軍大臣でもあったデ・コールテン提督も休戦協定の署名を初めて知ったのは当日であり、バドリオらから何の相談も受けていなかったのです。海軍総司令官のベルガミーニ大将に伝えられたのは更に後でした。そんな混乱の中、イタリア艦隊は連合国への引渡しのためにマルタへの出発を決定しました。

デ・コールテン提督は出発前にベルガミーニ提督に「アンブロージオ統合参謀総長が連合軍に対してマッダレーナ港への寄港を要請した」と伝えていたため、艦隊はマルタの前にマッダレーナへの寄港を決定しました。

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戦艦「ヴィットーリオ・ヴェーネト」

そして、戦艦「ローマ」「ヴィットーリオ・ヴェーネト」「イタリア(旧リットーリオ)」を含むイタリア艦隊は、ラ・スペツィア軍港を出発しました。この出発を知ったドイツ空軍のゲーリング元帥はすぐさま艦隊の追撃を命令、「フリッツX」を搭載した攻撃機15機がフランスの基地を飛び立ちました。

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「フリッツX」

最初に「フリッツX」の攻撃を受けたのは戦艦「イタリア」でしたが、致命的な打撃は免れました。しかし、アシナーラ島沖で今度は戦艦「ローマ」が「フリッツX」によって撃沈され、艦隊司令官であるベルガミーニ提督も戦死。それに加え、駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」と駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」も撃沈されています。

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駆逐艦「ウゴリーノ・ヴィヴァルディ」

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駆逐艦「アントニオ・ダ・ノーリ」

苦難の末に何とかイタリア艦隊はマッダレーナに到着しましたが、アンブロージオ参謀総長の要請を連合軍が拒否したため、連合軍はイタリア艦隊のマッダレーナ寄港を拒否、直ちにマルタへと向かうよう命じました。その後、オリーヴァ提督の命令を受けて、全艦隊がマルタへ航行、翌日朝に艦隊はマルタに到着しました。今度はドイツ軍の追撃が無かったのが不幸中の幸いでした。

 

「ローマ」爆沈の悲劇により、全乗組員1946人のうち、将官2人(ベルガミーニ提督とカラチョッティ参謀長)、士官86人、その他乗組員1264人が犠牲になりました。残る596人はイタリア艦隊の巡洋艦水雷艇によって救助されました。