アルバニアファシスト党と「大アルバニア主義」 ―イタリア支配期のアルバニアの政治と軍備—
皆さんBuongiorno. お久しぶりです。最近ブログ更新できていなくてすみません...今回は久々に投稿しようと思います。今回は、イタリア支配期のアルバニアについて書いてみようと思います。
◆アルバニア制圧まで
1939年4月、アルバニア王国はイタリア軍の侵攻を受け、国王ゾグ1世(Zog I)は亡命し、アルバニア王国はイタリアの同君連合下に置かれた。名目上は同君連合であったが、事実上の保護領化であった。バルカンを自らの勢力圏と認識しているムッソリーニにとって、アルバニアの確保は重要なものであった。
そのため、イタリアは共和政時代のアルバニアと1926年と27年の二度に渡るティラナ協定を締結、これによってアルバニアを経済的な属国とする事に成功した。アルバニアは戦略的な重要拠点である上に、産油国でもあったため、石油資源に乏しいイタリアにとってアルバニアの獲得は重要なモノであった。1935年にはAGIPの子会社AIPAを設立し、アルバニア油田の利権を完全に獲得している。
しかし、1928年にアフメト・ゾグ大統領は憲法を改正し、自らアルバニア国王として戴冠、ゾグ1世と名乗った。王政移行後のアルバニアは徐々にイタリアからの自立を目指すようになっていったのである。ゾグ王はアルバニアの内政改革によって、南北の文化統一やナショナリズムの形成、ゾグ式敬礼による権威主義体制の強化を行い、国力の強化を図った。軍事に関しても、ゾグ王自身が人脈を駆使して集めた外国人顧問と共に軍の近代化に務めていた。
だが、このような状態をムッソリーニが無視するはずもなかった。ムッソリーニはドイツによるバルカンでの勢力拡大を受け、駐アルバニア公使ヤコモーニ(Francesco Jacomoni di San Savino)や駐在武官パリアーニ将軍(Alberto Pariani)の進言もあり、既に経済的に属国化されているアルバニアの完全制圧を決定した。こうして、1939年4月、イタリア軍がアルバニアに侵攻し、ジェマル・アラニタシ(Xhemal Aranitasi)将軍率いるアルバニア軍を粉砕、アルバニアはイタリアの支配下に置かれるようになったのである。
イタリア軍による王都ティラナ制圧によって、王国宰相のコスタック・コタ(Kostaq Kota)は失脚し、後任の首相には大物政治家のシェフケト・ヴェルラツィ(Shefqet Vërlaci)が就任した。ヴェルラツィは富農出身のアルバニア政界でも特に大物の政治家で、共和政時代はゾグ大統領はヴェルラツィの娘と婚約をして同盟を組んでいたが、王政移行後にゾグ王はその婚約を破棄し、ヴェルラツィはゾグ王の政敵となってしまった。その結果、ヴェルラツィは進駐してきたイタリア軍と、アルバニアがイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)の同君連合となることを支持した。イタリア当局は、公国時代のアルバニアで首相経験もあり、政界に大きな影響力を持っていたヴェルラツィを新体制の首相に任命したのである。
アルバニア新体制では単一政党として、「アルバニアファシスト党(Partia Fashiste e Shqipërisë)」が設立された。この書記長にはテフィク・ムボーリャ(Tefik Mborja)という人物が就任した。ムボーリャはアルバニア公国期のファン・ノリ(Fan Noli)政権期にソヴィエト連邦との交流で活躍した外交官で、ノリ派であったためにゾグとは対立関係にあった人物である。ノリ政権期は駐イタリア公使として派遣され、ノリ政権崩壊後はそのままイタリアに滞在した。
ローマで法学を学んだムボーリャは、ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)外相と親しい友人になったこともあり、次第にファシズムに傾倒していった。そして、イタリア軍がアルバニアを制圧し、対立関係にあったゾグ王が排斥されるとティラナに帰還、イタリア・ファシズムの継承者としてアルバニアファシスト党を設立したのであった。
しかし、アルバニアファシスト党は結局のところ、事実上はイタリアの国家ファシスト党の衛星政党に過ぎなかった。つまりは、書記長のムボーリャ自身もあくまで「アルバニアの党連邦書記」のような存在であった。もっと言ってしまえば、アルバニアファシスト党はアルバニア新体制唯一の合法政党であったが、政府首班はムボーリャではなくヴェルラツィであり、ムボーリャはあくまでアルバニア新体制政府の大臣の一人に過ぎなかったのである。
また、アルバニアファシスト党自体も単一政党であったにもかかわらず、大規模な運動にはなりえなかった。そもそも、アルバニアには他の欧州諸国のようなファシズム運動の素地が殆ど存在していなかったのだ(戦間期、ヨーロッパではファシズムが一種のトレンドとなっており、政権を獲得した国は少なかったにしろ、各国でファシズム政党はそれなりの規模を持っていた。これに関して、ムッソリーニも「20世紀はファシズムの世紀である」と述べている)。1940年に党員の最大規模を記録したものの、約13,500人だけに留まったのである。
アルバニアファシスト党が掲げた政策として代表的なものが、「大アルバニア主義」である。これはすなわち、アルバニア民族の住む領域をアルバニア国家に統合しようとする主義であるが、アルバニアファシスト党、そしてイタリアはこれを利用した。
つまり、大アルバニア主義をエサにアルバニア人の支持を得て、イタリアの軍事行動にアルバニア人を協力させようと目論んだ。しかし、結果から言ってしまえばこれは失敗に終わった。大アルバニア主義は多くのアルバニア人にとっては魅力的に映らず、イタリア軍に一員として戦ったアルバニア人兵士の士気は非常に低く、脱走者が相次ぐ有様であった。更に、脱走どころか反伊パルチザン化することもあり、イタリア軍によって武装解除されることも多々あったのである。
イタリア軍によるアルバニア侵攻後、ゾグ王政期の王立アルバニア軍は解体されたが、その後のアルバニア新体制時に3つのアルバニア人部隊が編制された。一つは王立イタリア陸軍(Regio Esercito)第9軍の一部として編成された「アルバニア猟兵旅団(Cacciatori d'Albania)」で、4個連隊で構成された。二つ目は第21師団「サルデーニャ擲弾兵」の第一連隊に所属した「アルバニア近衛兵大隊(Battaglione "Guardia reale albanese")」で、こちらは「近衛兵」の名の通り、帝都ローマのクイリナーレ宮とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の警備を担当した。つまりは、カラビニエリの役割を担った。三つ目は、アルバニアファシスト党の民兵組織「MFA(Milizia fascista albanese, アルバニアファシスト民兵)」であった。アルバニア新体制下のアルバニア人部隊では、MFAが一番大規模であった。このMFAは戦闘部隊だけでなく、森林警備隊、交通警察、沿岸警備隊、港湾警察も存在していた。
第二次世界大戦時のギリシャ侵攻時、一つ目の「アルバニア猟兵旅団」と三つ目の「MFA」がイタリア軍部隊の一員として出征に参加することとなったが、先述した通りその結果は散々なものとなった。旧王立アルバニア軍の重鎮であるプレンク・ペルヴィジ(Prenk Pervizi)将軍はアルバニア人部隊を率いたが、ソッドゥ将軍(Ubaldo Soddu)を始めとするイタリア軍将兵らにアルバニア人部隊の低質さを指摘されてしまった。ペルヴィジ将軍はこれに抗議したものの、実際戦場でアルバニア人部隊は役に立つどころか逆にお荷物になっている状態であったため、説得力はなかった。
そういった結果もあり、イタリア軍のギリシャ侵攻時にアルバニア人部隊は逆にデメリットとなる始末であった。そのためか、アルバニアファシスト党は「大アルバニア主義」として、ギリシャのエピロス山脈一帯の併合を望んだものの、ギリシャ制圧後、ギリシャ領はイタリア軍の軍政下に置かれたためその願いは果たされなかったのである。一応、アルバニア人が多く住むチャメリア地方の高等弁務官には外相経験のあるアルバニア人外交官ジェミル・ディーノ(Xhemil Dino)が任命されたものの、アルバニア領には統合されず、イタリア軍政下のままであった。
ただし、その後イタリア軍がユーゴスラヴィアを制圧したことで、アルバニアはコソヴォ、西部マケドニア、モンテネグロの国境地帯を併合し、こちらの方面での「大アルバニア主義」は達成されたのであった。これらのアルバニアに統合された地域では、所謂「アルバニア化」が行われた。つまりは、現在にまで続くセルビアのコソヴォ問題に深く関係していると言える。
◆参考文献・論文
・Silvia Trani著, L'Unione fra l'Albania e l'Italia, 2007(http://www.archivi.beniculturali.it/dga/uploads/documents/Strumenti/Strumenti_CLXXIII.pdf)
・石田憲著『地中海新ローマ帝国への道―ファシスト・イタリアの対外政策1935-39―』東京大学出版会・1994
・吉川和篤/山野治夫著『イタリア軍入門 1939~1945 ―第二次大戦を駆け抜けたローマ帝国の末裔たち―』イカロス出版・2006